記録と随想45「ヴェーバーとマルクス」論の一視角――「カテゴリー論文」で提起される四基礎範疇の意義(丸山尚士氏宛、第二信 続篇、28日)

 

先便では、「カテゴリー論文」(の第二部)で定立されるのは、「いくつかのeinige」抽象的基礎範疇で、後続予定の『経済と社会』「旧稿」本文でとり上げられる「普遍的な種類の『ゲマインシャフト』(社会諸形象)にかんする基礎概念」ではないこと、具体的には、① たとえば、突然の驟雨に通行人の群が一斉に雨傘を広げる、相互間に「意味関係」はないけれども、同一の刺激にたいする「大勢の斉一反応」、② 相互間になんらかの「意味関係」は発生するものの、なお「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト) 行為」という基礎範疇で、ヴェーバーは、そのようにして、社会的諸関係-社会諸形象一般にかかわる 「合理化」の尺度(識別標識)を「類的理念型}として設え、「旧稿本論における具体的適用-展開にそなえていること、までをお伝えしました。

それでは、そういう基礎範疇が、社会的諸関係-諸形象に、どのように適用され、どういう意義を帯びるのか、が今日の問題です。ただし、その点については、じつは拙著187頁注6の「階級Klasse」関連の論述でもとりあげ、要点は尽くしたつもりでいました。

そこでは、「階級」が、財貨の所有と営利への利害関心にかかわる類型的境遇(「階級状況―階級的地位Klassenlage」)を共有する「人間Gruppe統計的集団)定義され、そういう「階級状況」を基盤として、どういう「階級行為Klassenhandeln」が発生し、展開されるのか、と問われます。そして、① たとえば、「支配階級」のなにか不当な仕打ちに、不特定多数の諸個人が自然発生的に抗議の声をあげる「大衆的斉一反応」、② そういう仲間の存在を感知して意気は揚がるとしても、相互間の「意味」関係はなお「無定型に止まる、ゲマインシャフト行為」、③ そこから、「暗黙の合意によるサボタージュ」のような「諒解行為」の発生、さらに、④ 互いに「協定」を結んで「ストライキ」を打つ、「臨機的なゲゼルシャフト行為」への移行、さらに、⑤「労働組合」や「階級政党」といった「多年性で持続的なゲゼルシャフト」の結成、というような、現実には「流動的・漸移的かつ可逆的・双方向的変動傾向」が、見通され、把握され、分析され、位置づけられます。

ところが、その種の「階級形成」は従来、「即自的階級Klasse an sichから対自的階級Klasse fuer sichへ」(マルクス)、あるいは「自然発生性から目的意識性へ」(レーニン)というふうに、なにか「必然的に決定されている」か、あるいは(キリスト教的終末論の残滓に引きずられて)「救済論的に予定されている」 かのように、イデオロギー的-先験的に決めつけられてきました。それにたいして、ヴェーバーは、「階級」という問題提起自体は、「身分Stand」とともに、「社会的分化・社会形成」の一要因として重要(「知るに値する」)と認め、さればこそ、その概念にまつわる「呪力の剥奪」・「脱イデオロギ-化」を企て、分析的経験科学の準拠枠のなかに移し入れ、①~⑤ のような基礎諸範疇を定立-適用して、変動傾向そのものを分析するとともに、その規定要因としては、ⓐ 階級対立とその帰結が、どの程度(客観的に)可視的で鮮明か、また、ⓑ 当事者が、そうした対立と帰結を、まさに「問われ、解決されるべき問題」として捉え返す資質と力量を、どの程度(主体的に)そなえているか、その「主知主義的また文化的条件」は如何、というふうに考えていって、「階級」現象の経験科学的観察-解明」と「因果帰属」に道を開いたのです。この一例からも、ヴェーバーの「理解社会学」が、先行の諸イデオロギ-から活ける要素」を引き出して経験科学に鋳直す」、格好の概念装置-体となりうる、という関係が、窺えましょう。

他方、そうなるのには、先行のイデオロギ-のほうも、それなりに「活ける要素」を含んでいなければなりますまい。その点、マルクスの場合はどうか、と問い返しますと、小生は、つぎのように考え、この点についてもじつは、拙著につぎのとおりに集約していました。すなわち、「マルクスは、『経哲草稿』以降、『聖なる』宗教領域から、[半ば聖域化される] 学問領域は飛ばして、『聖ならざる』政治や経済領域の人間疎外(あるいは物象化)へと、関心を転じきってしまい、各領域間の相互制約関係分析的-経験科学的に解き明かしていく課題 [とりわけ『決疑論』を構成する課題] には、正面からは向き直らなかった」(183-84頁)と。そして、いまここで一言付け加えてよければ、「この國のマルクス学者は、特殊マルクスのそういう特殊な思考展開を、『思想の普遍的進歩』と決めてかかって、その追跡以外にはほとんど関心を寄せなかった」と。

ところが、マルクス本人には、「聖なる宗教領域の人間疎外」にたいする関心も、じつはそれなりに活き活きと保持されており、『資本論』とその準備的労作(たとえば『経済学批判要綱“Grundrisse”』には、ヴェーバーも「倫理論文」の執筆にあたって参照したと思われる、鋭い洞察が、断片的にせよ、散見されます。いまちょっと、出所は思い出せないのですが、小生もかつて、そういう諸箇所を取り出して、列挙、解説したことがあります。この側面に思いをいたさない「マルクス批判」は、なんといっても一面的で、「イデオロギ-上の図式的やりとり」にすぎず、それでは「経験科学への鋳直し」も望み薄というほかはありますまい。今日はここまでとします。

202328日 折原 浩