記録と随想9: 市民生活における「人権Menschenrecht」と「共市民性Mitbürgertum」――ハイデルベルク市 市街電車内の一経験から (「比較歴史社会学研究会」第二回 余録)  (928)

 

[去る918 ()、大阪は梅田のゲートタワービル8 神戸大学インテリジェントラボで、「比較歴史社会学研究会」第二回が開かれ、関西と関東から約20名が参加し、下記の二報告をめぐり、活発な議論が交わされた。

 

佐藤成基 (法政大学)「国民国家と外国人の権利――戦後ドイツの外国人政策から」

佐野誠 (奈良女子大学)「ヴェーバーの『パーリア』概念と人権――ユダヤ人における国家と無国家の間――」

 

本稿「記録と随想9」は、この二報告をめぐる筆者の感想と補遺のうち、第一報告にかかわる。この件は、研究会当日、会場の議論には持ち出さず、懇親会の席上、報告者佐藤成基氏と交わした会話から、その内容の一部を、備忘録風に摘記した。

なお、第二報告にかかわる発言要旨と補遺は、「ヴェーバーの『パーリア』概念および『ユダヤ人』観の含意」と題して、次稿「記録と随想10」に収載を予定している。こちらは、会場で、第二報告のあと、筆者から発言を求め、再発言も数回におよんだ主張の内容を、帰宅後に再考し、要旨をまとめたものである。 佐野報告については、氏の前著『ヴェーバーとリベラリズム』(2007、勁草書房)、とくに関連稿の第六章「ヴェーバーのユダヤ人観と人権感覚: シュミットのユダヤ人観との比較において」も事前に繙読し、当日の報告の趣旨も、筆者なりによく理解し、納得したうえで、ヴェーバーの「パーリア」概念および「ユダヤ人」観の含意につき、理由あって補足したつもりではあった。しかし、顧みると、老人の短慮で、話題をさらい、まとまらないままに長広舌におよんでしまった、という反省しきりである。せめて、発言の要旨を次稿にまとめ、お詫びに代えたい。

なお、「比較歴史社会学研究会」の設立経緯と趣意については、第一回(2015919日)の開催にあたって、事務局で作成され、弘布された文章を、許諾をえて、本稿に付録する。]

 


 

市民生活における「人権Menschenrecht」と「共市民性Mitbürgertum」――ハイデルベルク市 市街電車内の一経験から

 

佐藤成基報告「国民国家と外国人の権利――戦後ドイツの外国人政策から」は、第二次世界大戦後のドイツにおける外国人政策の変遷と問題点につき、戦後の経済復興のために「求められて」入国した労働者から、「呼び寄せられた」家族をへて、最近の「求められない」難民にいたる「外国人」の実態 (質的ならびに量的な) 変化と重ね合わせ、法制ならびに判例にかぎって、外国人にも「人」として普遍的な「権利」を保障すべしとする要請と、「主権国家」ドイツの「国民」・「共市民」としての「権利」(「滞在」「移動」「職業選択」の「自由」など) は制限されて当然とする (「包摂」ないし「排除」) 要求との「二元性・パラドクス・ディレンマ・葛藤」を浮き彫りにする、綿密かつ周到な報告であった。

筆者はとりわけ、外国人移住者の「権利」にかかわる案件をめぐって、ドイツでは、外国人に不利な下級審 (州裁判所) 判決が、上級審 (憲法裁判所) で、「基本法」の普遍的要請にいっそう厳格にしたがって覆される、という (日本とは逆 !? ) 傾向に、興味をそそられた。そして、1993春~94年冬の一年間、ハイデルベルク市で暮らし、市街電車の車内が、いわば「空席先占権」にかかわる議論の場になる、市民生活の実態に触れた経験を、思い出した。

そのとき筆者は、車内の一コンパートメントの隅に「空席」ができたと思って、その席に座った。ところが、そのコンパートメントには、「呼び寄せられた」とおぼしき一家族が座を占めていて、そのうちの一人 (おそらく「呼び寄せ」主) が、切符を買いに、発券機か(ワンマンカーの)運転手席に向かったところだったのである。かれが帰ってきて「立て」という仕種だったので、筆者は即座に席を譲った。ところが、近くにいた四十歳がらみのドイツ人女性が、別に「咎め立てる」風ではなく、むしろ「共市民Mitbürger」家族に「市民生活のルール」を「説明」し始めたのである。筆者は、別に「面倒は避ける」という思いもなく、即座に席を譲ってしまっていた。それもどうやら「よくない」らしい。

別件では、近くに老人が立っているのに、若者たちが座ってお喋りをしていると、別の老人ないし年輩者が車内で演説」を始め、若者が「照れくさそうに」席を譲る、というような情景にも、ときどき出会った。

なるほど、「東」では雰囲気が違っていた。ポツダム市の市街電車に乗り、「西」とは異なる発券機の取り扱いに戸惑っていると、大人たちは「人前で目立つことは避けよう」という風情で、途中から乗ってきた中学生が「ごく自然に」快く教えてくれた。

同じ「西」の都市でも、人口14万そこそこ、気候は温暖、Natoの本部も観光名所も町外れや一地区にかぎられ、比較的落ち着いた大学町ハイデルの市民は、他とは多少違っていたかもしれない。ただ、どこでも、土曜日の午後は店を閉める、クリスマス・イヴには市街電車も夕刻で終わり、街は静まりかえる、……など、市場原理を跳ね返す「市民エートス」は健在だった。どの都市でも 市庁舎やシナゴーグ (ユダヤ教会堂) の跡地に、「かつて『ユダヤ系共市民jüdische Mitbürger』に加えた暴虐を忘れまい」という碑文が、目に留まった。

 

そういうわけで、筆者は、外国人に不利という下級審・地方審判決の背後にある(にちがいない)市民生活とその変容の実態に、まさに「法-社会学」的な問題として、関心を惹かれる。しかし、この問題は、学問上厳密には、大規模な社会学的比較調査を実施しなければ解けないであろう。

その点は重々承知のうえで、佐藤成基氏が答えてくれたところでは、「市街電車の車内で議論を始めるようなドイツ市民は、いまでは『反イスラム』になっているでしょう。対面的な会話や議論は、『ブルカ』を取って初めて可能になるのですから……」というものであった。

筆者は、ちょっと哀しくなると同時に、わたしたち日本人には途方もなく困難と思える問題が、突き付けられている、と感じた。かつて、ベトナムを訪ねたとき、案内の女性から「日本人は、逃げないねぇ」と意表を衝かれたこと、万一、朝鮮半島や中国大陸から、難民が大挙して押し寄せてきたら、どうするか、など、いろいろ考えさせられた [2016926日記]

 


 

■「比較歴史社会学研究会」設立の経緯

 1.本研究会は、マックス・ヴェーバーの比較歴史社会学を「知の交流点」として、法学、宗教学、経済学、社会学などの社会諸科学全般にわたって、研究活動を行うことを目的とする。「知の交流点」という表現の含意の一つは、次の点に存する。すなわち、本研究会の関心事項は、ヴェーバー比較歴史社会学を中心(交流点)としつつも、必ずしもこれに限られるものではなく、そこから様々の方面に放射状に広がっていく、ということである。

 2.以上のようなコンセプトの本研究会の起源は、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」にある。この研究会は、一橋大学法学研究科が、中国人民大学および韓国釜山大学校と共同で、2007年から2011年までの5年間に展開した、アジア研究教育拠点事業「東アジアにおける法の継受と創造-東アジア共通法の基盤形成に向けて-」(日本側責任者は、当時、一橋大学法学研究科教授であった水林彪)の1部門として組織されたものであった(本研究会の責任者も水林彪であった)。この研究会は、「東アジア共通法の基盤形成」という政策形成志向の強い事業の研究課題を、問題の根本に立ち返って、社会科学的に考察することを課題とした。

 3.「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」に参集したメンバーの熱意により、この研究会だけは、上記事業終了後も、メンバーの報告が一巡するまで、事実上、存続することとなった。最後の研究会は、事業終了から1年半後の2013727日のことであった。

 4.最後の研究会の席上において、幾人ものメンバーから、何らかの形で研究活動を存続することが提案され、水林を中心に、後継研究会を組織することとなった。ただし、その頃から、2014年の年末に「マックス・ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム」を開催する動きが生じ、それに向けての準備研究会が幾度か開催されることが明瞭となってきたことを勘案し、後継研究会に参加することを希望するメンバーは、シンポジウム開催まではその準備会に参加する形で研究活動を進めることとし、後継研究会は、シンポジウム終了後に立ち上げることとなった。

 5.「マックス・ヴェーバー生誕150周年記念シンポジウム」は、2014127日に、大盛会のうちに終了し、いよいよ、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の後継研究会を立ち上げる段となった。当初、後継研究会の名称は、仮に「比較法史・比較宗教史研究会」とされていたが、この名称では、社会科学全般を俯瞰しようとする研究会のコンセプトには必ずしも相応しくないとの声が聞かれるようになり、関係者の合意のもとに、後継研究会の名称は「比較歴史社会学研究会」とすることとした。

 6.以上の経緯から、本研究会の責任者は、当面、水林彪(早稲田大学/比較法社会史)が務めることとする。そして、水林の依頼により、関東地区の事務局には、荒川敏彦(千葉商科大学/宗教社会学)、藤野奈津子(千葉商科大学/ローマ法)、関西地区の事務局には、小野博司(神戸大学/日本法制史)、高橋裕(神戸大学/法社会学)、橋本直人(神戸大学/社会学)、の各氏にお願いすることとなった。関東と関西とに事務局を設けた趣旨の一つは、研究会開催地を東京に集中しないようにすることである。研究会の企画は事務局全体の仕事とするが、研究会開催の実務は、関東事務局と関西事務局とが毎年交代で果たすこととしたい。

 7.本研究会は、原則として、年に1度、9月に開催する。このような方針を定立した主たる理由は、類似のコンセプトを有する「ヴェーバー研究会21」が、前々から、原則として、毎年1度、3月に、研究会を開催してきたことである。「ヴェーバー研究会21」との連携を意識し、「比較歴史社会学研究会」の持ち方を以上のようにすることとした。