随想8: マックス・ヴェーバーにおける生の危機と学問の再建(914日)

 

[前稿「記録と随想7: 因果帰属と市民生活」では、「因果帰属」の論理と手順を解説した。そのさい、マックス・ヴェーバーが、「文化科学の論理学の領域における批判的研究」1906、「マイヤー論文」と略記)で、「学知」と「市民生活」の双方から具体例を引き、分かりやすく解説している事実を挙げ、これをかれのスタンスの表明と解した。学問を、市民常識や市民運動から切り離して、疎隔-屹立させるのではなく、むしろ、市民の常識と思考法を拡大-深化させ、自覚的に駆使できるように、その媒体・一助として役立て、活かそうとするスタンスである。かれが「マイヤー論文」以降、「因果帰属」に必要な「法則的知識」を「社会学」に体系化していくのも、じつはそうしたスタンスの結実・具体化であり、これが急逝時1920の「比較歴史社会学」構想にも「潜勢」として漲っている、と見られる。この点について、かれの科学論の展開、とりわけ「社会学」の創成、その基本性格、および実践的意義に立ち入り、いま少し詳しく論じてみたい。914日]

 

マックス・ヴェーバーの「マイヤー論文」は、19世紀末、ドイツの学問(「人文・社会科学」一般)に訪れた思想上の「危機」に対処して、これを打開しようとした試みのひとつと解することができる。当時、職業上の専門的日常実践一般にたいする懐疑が目覚め、マイヤーのような歴史学の大家・大御所も、歴史研究の踏みならされた道を安んじて歩きつづけ、つぎつぎに実績を挙げて発表していくことができず、しばし立ち止まって、自分が携わっている研究の前提・本質・方法・意義について反省し、論理学に越境することも、余儀なくされていた。ヴェーバーは、そうした苦境に立つ「専門家」の代表例としてマイヤーを選び、その省察の論理学的誤謬は暴くとしても(否定的批判)、その核心に潜む妥当な所見は救い出し、本人に代わって論理学的に正しく定式化し、具体的に解説する(肯定的批判・批判の根拠の積極的展開)。まさにそういう「両義性」をそなえた、優れて「批判的な」論考を、当の思想状況に投じたのである。

 その直前、ヴェーバーは、『社会科学・社会政策論叢』(以下『論叢』と略記) に「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の『精神』」1904-05、以下「倫理論文」と略記)を発表していた。この論文は、かれの「代表作」として有名であり、それだけに、その研究「動機」とその後の展開 (とくにかれ自身によるその批判的克服) のコンテクストからは切り離され、「孤立」させられて、論評され、毀誉褒貶にさらされることも多い。かれがこの自作を、けっして「社会学」とは呼ばず、末尾で一瞬、「未来予知」と「価値判断」に踏み込み、これを思い止まる文脈で「この純然たる歴史的素描diese rein historische Darstellung [絵画にたとえれば、細密画ではなく、むしろ点描画][1]と称した事実の意味も、顧みられていない。

 

ヴェーバーは、1898年頃、突如、神経疾患に襲われ、30歳そこそこで「員内正教授」に登り詰めるほど「順風満帆」だった)「学者の経歴academic career (立身出世コース)」からは外れ、再起不能に近い状態に陥り、奇しくも「難船者」となり、各地を転々として療養につとめながら、「来し方」を振り返り、「行く末」に希望をつないで、再起を期した。ということはつまり、19世紀末ドイツの思想状況を、たんに「専門」的「学問」の「危機」としてのみでなく、「危機として深部でいっそ包括的に体験し、そのただなかから「難船をいわば逆手にとって、「危機からの脱出を試みた、ということであろう。こうした経緯から、「学問」の「危機」も、包括的な「生」の「危機」の一様相として、相対化・対象化して捉え返され、「学問」そのものにも、「危機」を深部で包括的に認識し、「難船」状態からの脱出の方位方途を探る羅針盤」という意味が付与され、かつそれが経験科学的に具体化されていく。みずからの「生」の「危機」を克服しようとする「難船者」の模索の一環として、経験科学的研究と方法論との両面で学問の再建を企てるほかはなく、ここからして「比較歴史社会学」に向かって進むことになったと思われる。

 

そうした「新局面」が、経験科学的研究としては「倫理論文」(1904-05)、方法論では「ロッシャーとクニース」(1903-06) によって、切り開かれる。

「倫理論文」はなるほど、「『近代』的企業の『経営』と『(技術上特別の専門的訓練を受けた)熟練労働』が著しく『プロテスタント』的色彩を帯びている」という(「経済」と「宗教」の二領域に跨がる)「選択的親和関係」の指摘に始まり、前項を「資本主義の精神」[2]と呼び、「『職業義務観』にもとづく『合理的禁欲』」として特徴づけ、その「与件」のひとつを、ここでは任意に「宗教」の領域に限定し、「禁欲的プロテスタンティズム」に「因果帰属」[3]しようとした「純然たる歴史的素描」である。したがって、著者ヴェーバーの関心の焦点は、「『職業義務観』にもとづく『合理的禁欲』」という「生き方Lebensführung」の特性とその由来にある。そして、当の特性の担い手は、「倫理論文」で直接勝義の対象とされている企業経営者・(経理担当を含む広義の) 技術者・熟練技工 (労働者) ばかりでなく、「職業」として「専門的」部署の仕事に精励刻苦する行政官吏・将校・(ごく僅かには) 政治家のみでもなく、「専門的」研究労働と付帯業務に日常フル・タイム専念している学者・研究者、じつは誰よりも「昨日までの自分自身」であろう。難船者ヴェーバーは、昨日まで舟が安全に停泊していた港と、軋みながらもなんとか航行してきたルートを振り返って、難船の原因を探り、その状態を脱して、ふたたび安全な岸辺にたどり着けるかどうか、さしあたり手近なところから問うていこうとしている。

 

「倫理論文」の問題設定とその想源が、ヴェーバー自身の生活史、とくに難船状態にあったことは、病気療養中のかれが、おそらくは一瞬、症状が緩解し、不可解な運命と和解して、「悪あがき」を止め、一条の光がさしてきたとき、ふと周囲に語り、みずから書き留めた記録から、明らかである。

[916日記、つづく]

[追記。しかし、本稿はここで、いったん打ち切ることにしたい。

なお、この論点「病気療養中の一体験とその意義については、拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未來社)、第一章「基本構想――ヴェーバーにおける実存的問題と歴史・社会科学」、第一節「職業観問題――神経疾患による挫折と再起の狭間で」、第二節「実存的原問題とか『倫理』のテーマ」、第三節「自己洞察からヨーロッパ近代の自己認識へ――『倫理』以降の展開」、

また、「倫理」論文から「比較歴史社会学」創成への経緯については、同『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』(2005、未來社)、同『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か――歴史研究への基礎的予備学』(2007、勁草書房)、第二章「マックス・ヴェーバー社会学の創成と本源的意味――歴史科学研究への基礎的予備学」、同『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』(2010、平凡社)、などに、

関連叙述はあるので、参照していただければ幸いである。201727日記]



[1] GAzRS, 4. Aufl.: 189; MWG/18: 488; 梶山力訳・安藤英治編: 359.

[2]「資本主義の『精神』」とは、「資本主義」(ヴェーバーの定義では、「元金」を回収したうえに「利得」を手に入れようとして「資本計算」をおこなう、したがって「貨幣」があるところならどこにでもありうる「経済活動」) 一般の「精神」ではなく、「近代資本主義」に特有の「精神」ないし「エートス」である。この趣旨では、まさに「近代資本主義」を「資本主義」一般から区別する識別徴表 (のひとつ) として、「近代の精神」と命名したほうが適切だったろう。ちなみに「エートスEthos」とは、「規範Normとしての倫理Ethik」とは異なって、いわば当事者たる「人間」に溶け込み、血となり肉ともなって「行為」を駆動する「生き方Lebensführungの倫理的原則」あるいは「倫理的色彩を帯びた生活原則」ともいうべきものである。

[3] 正確には、後に (1910)F・ラハファールの批判にたいする「反批判」「反批判結語」で釈明しているとおり、当の因果連関の存立そのものは、ある程度既知の前提として受け入れ、そのうえで、それが「いかなる連関として、なぜ成り立つのか」を、当事者の内面的「動機に立ち入りその解明」・「理解も交えて説明」しようとする試論であった、というべきであろう。そのかぎり、「理解科学」的探究ではあったとしても、そこからなにか「一般法則」(あるいは「類型的規則」) を定立しようとする「法則科学」したがって「社会学」ではなかった。別言すれば、なぜ「資本主義の精神」つまり「『職業』理念にもとづく『合理的禁欲』」を、「知るに値する研究テーマとして選定し、しかもその「因果帰属」を、「宗教」領域しかも「近世」に限定するのか、その根拠は、もっぱら研究者ヴェーバー自身の「価値理念」との意味連関 (「価値関係」) にもとづいて、任意に独話論的に決定され、「人間のやることなすこと総体のなかに、「対話論的に開かれて」、位置づけられてはいなかった。