記録と随想6: 台風10号の迷走に思う (つづき) ――自然科学と社会科学、あるいは、社会科学の自然科学的契機96日)

 

[この8月下旬、台風10号が、なぜか11号と9号に遅れてやってきて、思いがけないコースをたどり、とくに東北と北海道に大雨を降らせ、未曾有の洪水と土砂災害をもたらした。4月には、熊本地震が突発し、余震の範囲も拡大して、あわや川内原発を直撃するか、と危ぶまれた。本欄「記録と随想5」では、こうした不可測の自然災害と連鎖反応に、原則上どう対処すべきか、と問い、「科学の権能と科学者の責任」について、所見を述べた。

本稿では、この問題状況にたいする直接のアプローチからは少し離れるが、「台風のコース」という具体例を手掛かりに、「自然科学と社会科学の異同と関係」という問題に改めて注意を向け、マックス・ヴェーバーの科学論を再考して、「比較歴史社会学」という「総合」構想の意義と創成経緯を、多少掘り起こしてみたい。そのあと、別稿で、歴史学と社会学とが近年交流を重ねてきた、その成果のいくつかについて、若干の感想を述べ、参考に供する予定である。本稿はその序にあたる。96日記]

 

今夏の気象異常につけても思い出すのは、いまから半世紀ほど前、大塚久雄先生が、(啓蒙的な著書・講演・研究会のいずれであったか、定かではないが)「台風のコース」を実例に挙げて、「自然科学と社会科学の異同」につき、「大塚流」に、噛んで含めるように分かりやすく、解説してくださったことである。その趣旨は、「『自然現象』には『動機』がないから、『自然科学』は、『外から』『観察』を重ねて、反復する現象の『一般法則』を確定することはできても、『個性的な経過は予測できない。それに比べて、『人間』の『行為』ないし『(複数の人間諸行為からなる)社会形象』の『動き』には、『動機』があるから、『社会科学』は、『外から』の『観察』に加えて、『内から』の『(動機)理解』企て、(「かくかくの経過をたどったのはなぜかといえば、しかじかの『動機』にしたがったからだ」というふうに)『説明』できる。『社会科学』には、そういう原理上の「利点」あり、『個性的』な経過も、ある程度、ある確度で、予測できる」というものであったと記憶している。

さて、この話、「台風のコース」という具体例が決め手となって、鈍根の筆者にもよく理解できた。それに、筆者はもともと、実験好きの理科少年として育ち、「言葉の綾」や「曖昧模糊とした気分や抽象観念」は苦手で、「なにごとも、具体的事実によって検証しなければ、俄かには信じられない」という気質というか傾きをそなえていた。そのため、大塚説話は、納得がいくと同時に、「自然科学」のセンスとスタンスを「社会科学」にも持ち込んで活かせるのではないか、という見通しも与えてくれた。これがひとつの契機となり、大塚解説の背後にはマックス・ヴェーバーの科学論があると見て、これに本腰を入れて取り組むようにもなったのである。

ところが、ヴェーバーの『科学論集』は、なんとも難解で、当初には手に負えなかった。ただ、要所にはやはり、目の醒めるような具体例が出てきて、これに助けられては、少しずつ読み進めることができた。そのうえ、ヴェーバーには、他の方法論者(ヴィンデルバントやリッカートのような哲学者・論理学者)とは違い、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」他の「経験的モノグラフ」もあって、『科学論集』では抽象的に論じられ、定式化されている方法が、特定の対象に具体的に適用され、展開されてもいる。そこで筆者は、この関係に着目し、「経験的モノグラフと方法論との統合的解釈」という方針[1]を立て、双方を互いに関連づけて読解し、方法そのものの修得につとめた。

その後、この方針で会得したヴェーバー「社会科学」の方法[2]を、筆者自身の大学現場の問題に適用し、現場の状況内実践に具体的に活かす[3]と同時に、その方法論的反省と捉え返しも、怠らなかったつもりである。そうするなかで、まだ学界の「共通了解」になってはいないが、筆者にはきわめて大切と思えることが、いくつか出てきた。そのひとつ[4]が、社会科学自然科学的契機である。

 

ヴェーバーは、(ヴィンデルバントやリッカートら)論理学者による、「個性記述」的・「特殊化」的「文化科学」と「法則定立」的・「一般化」的「自然科学」という方法論上の区別をひとまずは受け入れる。しかし、それではかれが、そのうちの「文化科学」に自己限定し、もっぱらその先行規定にしたがって、かれ自身の科学を基礎づけ、樹立しようとしたのか、というと、けっしてそうではない。かれは、「学知の分類規定」に甘んじてはいない。むしろ、前者は「現実科学」(後に「歴史科学」)、後者は「法則科学」と、理由あって呼び換え定式化しながら、かれ自身は、現役の一科学者として、ふたつの方法を双方とも引き受け、かれ自身の研究と実践に活かし、そのつど総合して駆使しようとした。

たとえば「歴史学」が、対象の「個性的」特質の「記述」に止まるのでなく、その特質が「なぜ、かくなって、他とはならなかったのか」と問うて、「因果帰属」に乗り出すとすれば、「自然科学」における「因果帰属」の論理、すなわち「実験」ないし「比較対照試験」の思考方法を、(もとより「実験」はできない)「歴史」にも、(「思考実験」として)適用するほかはない。「自然科学」が「歴史学」(ないし「歴史的社会科学」)持ち越すものは、じつは「観察」のみではなく、「因果帰属」の論理と方法である。すなわち、ある歴史的状況を構成するある対象の特質を、その規定要因と目され、その「因果的意義」を問われるべき特定の先行与件に「因果帰属」するには、この与件は「なかったものと考えfortdenken」、つまり (じっさいの歴史を「実験群」に見立て、他の諸与件は等しいが、当の与件は欠く)「対照群」を仮構して、そこでは経過がどうなったか、と問う。そして、歴史的状況にかかわる「史実的知識」に「法則的知識」(人間は通例、所定の類型的状況に、どんな類型的「動機」をもって、どう反応するか、にかかわる「一般経験則」) を関連づけて、「客観的に可能な」経過を構成してみる。その結果、「実験群」としてのじっさいの「歴史」では生じている経過と帰結が、その「対照群」では生じない「公算が高い」と判定されるならば、(他の諸条件は等しく「制御」されているわけだから) 当の特質は、「実験群」にのみ特有の与件の作用に帰するほかはない、ということになる[5]

こうした「思考実験」は、ある特定の状況における二個人間の「行為連関」といった、ミクロな対象[6]にも、あるいは、ある「文化圏」全体の、一方では(経済その他、「行為」の諸領域における「持続的目的追求」としての)「経営Betrieb」の特性と、他方では人々の「生き方Lebensführung」と「宗教性Religiosität」に認められる一定の典型的特質との「因果連関」といった、マクロな対象の研究[7]にも、等しく適用されよう。ちなみに、このマクロな「思考実験」においては、問題の特質がない (か、別の方向に発展した) 他の「文化圏」を、「対照群」に見立て、さまざまな行為「範疇」に属する与件群を系統的に比較し、「制御」して、そこでは「他の諸与件は、当該特性の生成にいっそう有利か同等の性質をそなえていたけれども、当該与件の欠落のため、当該特質の生成にはいたらなかった」という経緯を「客観的に可能」「公算大」として論証できるならば、その「思考実験」は (厳密な「比較対照試験」ではないとしても) 他文化圏からの「史実的知識」という「間接証拠」「状況証拠」によって、ある程度裏付けられることになろう[8]

そのように、「自然科学」的な「思考実験」は、方法としては「社会科学」的学知の諸領域に跨がり、対象としては、ときに視野を広げ、諸「文化圏」を射程に収めて、試みられ、展開され、錬磨されるが、他方では翻って同時代の状況にたいする実践的投企の責任倫理を支える契機となる。それというのも、実践的投企が、目論まれた「目的」達成の他に、「随伴結果」としてどんな「犠牲」を生じうるか、「客観的に可能な」帰趨-帰結を最大限予想予測し、その帰結にも「責任を執ろう」とすれば、「個性的布置連関」として当の「状況」を構成する「普遍的要因」群の「史実的知識」に、やはり「法則的知識」を素早く導入し、手際よく関連づけて、その後の経過を予想予測する「思考実験」を欠かせないからである。

そのように、「歴史科学」的な――「素朴実証主義」の「記述」に止まらない――「因果帰属」と、「責任倫理」的な実践には欠かせない「結果予測」とに、肝要な「法則的知識」を提供する「法則科学」、いうなれば「社会科学」(ないし「文化科学」)自然科学」が、ヴェーバー「社会学」にほかならない。98日記、本欄「記録と随想7」につづく]

 



[1] これについては、拙著『ヴェーバーとともに40年――社会科学の古典を学ぶ』1996、弘文堂)、とくに第一章「社会科学の古典から、なにを、いかに学ぶか――経験的モノグラフと方法論との統合的読解」pp. 40-74を参照されたい。

[2] それが、当初には「理解社会学」であった。やがて、その「理解社会学」が、「理解科学」の「法則科学」的分肢として、同じく「理解科学」の「現実科学 (歴史科学)」的分肢としての「歴史学」と「相互に媒介される」という関係を突き止め、(1920年の急逝時には) 双方の独自の「総合」として「比較 歴史-社会学」が構想されていた、と知る。

[3] この点については、上掲書の第二章「相互理解不能状況を超えて」(pp. 75-109) の他、本ホーム・ページに収載の諸論考、とくに「1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014118日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」収載) に寄せて」 (201411月~20152 執筆) を参照されたい。

[4] 残る「いくつか」については、順次、この「記録と随想」欄に採り上げて論ずる。

[5]「因果帰属」の論理と方法を図解し、ヴェーバー自身の研究内容と関連づけた具体的解説として、富永祐治・立野保男訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』(1998、岩波文庫) 、とくに「解説」中の「補説――ヴェーバーにおける因果帰属の論理とその例解」pp. 236-58を参照されたい。

[6] その一例として、1967104日、東大文学部会議室 (東京都文京区本郷所在) の扉付近で生じた、一教員Tと一学生Nとの「摩擦」すなわち「行為連関」を挙げることができる。教授会側が発表した文書によると、Nが無期停学処分に付された理由は、「文学部協議会」の「閉会」直後、Nが「Tの退席を阻止し」ようとして「非礼な行為」(後に「暴力行為」に変更) におよんだ「事実」にある。ただそのとき、「文協」委員長の教授Taは、まだ会議室の扉内に残っていたが、四委員中、ただひとり助教授の委員Tは、先頭に立って「扉外に出た」という。ところで、学生は当時、ある事情から「文協」閉鎖への危機感をつのらせていたが、そういう状況で、学生は通例、委員長に詰め寄って、「文協」の存続と次回の日取りにかんする確約を取り付けようとする (状況への類型的反応にかんする「法則的知識」)。とすれば、この場合、N なぜ、まだ扉内にいる委員長Taを差し置いて、扉外に出てしまった一平委員 Tの「退席を阻止」しなければならなかったか、その動機が分からない。他方、Tには「同僚の誼」という恒常的動機があり、扉内にとり残されている同僚委員の退出空間を開けようと、扉付近にいる学生の背後から、「制止」を「目的」として先に手を掛ける」公算は十分にあろう。かりにそうしたとすれば、背後から逆方向に抑えられてそれだけ激しい手応えを感じたNが、振り向きざまそれだけ激しく抗議したとしても、不思議はない。ただ、その場合、Nの行為は、Tの「先手」にたいする「後手」抗議であって、「退席阻止」ではない。ちなみに、この(「明証性」と「経験的妥当性」を兼ねそなえた)仮説は、「1969118-19日の機動隊導入」の後、同年9月に、院生主催の「国文学科集会」で、TNとの同席のもとに、検証され、立証された。

[7]なぜ、西洋文化圏で、『合理的』経営が発生-普及したのか」という「因果帰属」を求める「文化圏」に跨がる「思考実験」が、ヴェーバーの普遍史的「比較歴史社会学」である。

[8] 1920年の急逝時に、ヴェーバーのマクロな「比較歴史社会学」的「思考実験」が、どこまで到達し、どういう「潜勢」を秘めていたのか、を突き止める試みとしては、拙著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』2010、平凡社)を参照されたい。