記録と随想43――ヴェーバー研究と隣接・精神医学(「専門への閉じ籠もり」を斥けると同時に、安易な「越境」は戒める。2023年1月25日記)
この度、丸山尚士氏より、「『社会学史』のある概説書に、ヴェーバーの精神神経疾患は『鬱病であった』と速断する記事が出ている」という報知を受けて、考え込んでしまいました。
これは単に、当の精神神経疾患の病名を正しく(「整合合理的」に)言い当てればよい、という問題ではありますまい。むしろ、社会学者とくにヴェーバー研究者が、同じ人間科学ながら隣接領域の精神病理学ないし精神医学に、どういうスタンスでかかわり、何を学べるか、原理・原則に遡って考えるべき問題ではないか、と思います。これまた、小生がかつて、この問題をめぐって、たとえば山之内靖氏(かれも、ヴェーバーの精神神経疾患を「神経症」ときめてかかりました)に向けた批判の趣旨が、受け止められず、理解されず、したがって継承もされず、氏と同様の気楽で安易なスタンスが、幅をきかせてしまっている現状の証左、と解するほかはありません。そこで、以下の一文を草し、丸山氏宛てに返信し、同時に本HPにも、いわば「『マックス・ヴェーバー研究総括』の一補遺」として発表します。
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小生は、本HPの「『総括』からの展開1(2019・01・31)」でも触れましたとおり、院生期に、島崎敏樹―日高六郎、両先生の紹介で、社会精神医学を志す、東京医科歯科大学の院生・榎本稔氏と親密な交流
(議論仲間) 関係に入りました。こちらからは精神医学に関心を寄せ、関連の文献、とくにルードヴィヒ・ビンスヴァンガー、メダルト・ボスの「現存在分析」、ヴィクトール・E・フランクルの「実存分析」など、「人間学」的な関心が横溢し、内容豊かな作品に読みふけりました。
そこから学んだことは、多々あるのですが、研究者のスタンスとヴェーバー研究とにかぎって申しますと、
1.精神医学者は、病者個々人に、臨床医として関心を集中―持続し、治療に責任をもちます。たとえばビンスヴァンガーは、エレン・ヴェストという一個人に、臨床医として長年、応対しつづけ、その一事例だけで、浩瀚な主著をまとめ、公刊しました。
2.そういう精神医学の研究成果をとりまとめた論文や著書についても、臨床経験は持たない門外漢が、「人間学」的な関心にかまけて、なにか一般的に論じたり、不用意に判定をくだしたりするのは、はっきりいって、安易なディレッタンティズムというほかはありません。
3.しかし、それでは、門外漢が、その点はよく心得て、あくまでも臨床経験は持たない「門外漢」と自覚し、自己限定したうえで、なおかつ精神医学的研究からなにごとかを学ぶことはできないか、と問い返しますと、答えはけっして否定的とばかりはいえますまい。たとえばマックス・ヴェーバーという一個人に関心を集中-持続し、精神医学の観点を、仮説的に適用-展開してみるとどうでしょうか?
4.当時の精神医学では、精神-神経疾患一般について、①外因性、②内因性、③心因性、の三種が区別されていました。そして、ヴェーバーの場合は、おそらくは ②、そのうちでも「精神分裂病」(統合失調症)ではなく、気分の起伏が激しい「躁鬱病」(双極症)系の疾患であろうと推認はされました。
5.しかし、重要なのは、②内因性疾患の場合、その素因Anlageは(少なくとも完全には)除去できないにしても、そのうえに付け加わる症状ないし病像形成は、ある程度抑制して緩解には導ける、と考えられていたことです。精神科医・精神医学者は、まさにそういう緩解の状態をめざして、責任ある臨床の治療実践を重ねていたのでしょう。
6.ところが、フランクルなどは、病者本人が、「されどtrotzdem……」と、みずから「精神の反抗力Antagonismus des Geistes」を発揮し、自分の症状ないし病像と対峙し、それを乗り越え、実存的に価値実現をはかれるように、「苦難の意味」にかんする「ロゴテラピー」を企てていました。他方、ビンスヴァンガーなどは、そういう「相手の中に跳び込む」ような「尽力的顧慮einspringende Fürsorge」は、「積極的すぎて相手をかえって萎縮させてしまう」と批判し、むしろ「相手の前で跳んで見せ」て、実存可能な地平を開こうとする「垂範的顧慮herausspringende Fürsorge」を対置しました(「顧慮」のこの二類型は、双方とも、ハイデガーが『存在と時間』で提起した「理念型」的対概念です)。いずれにせよ、病因(素因)にたいする当事者の対応(とくに「意味付与」)を重視し、直接あるいは間接に、誘い出そうとするわけです。
7.では、この視点を、一個人ヴェーバーに適用するとどうでしょうか?
かれは、精神-神経疾患の苦境に陥って初めて、①「なにか護符にしがみつくかのように『学問研究』に没頭し、仕事の重圧に打ちひしがれたような気持ちでいないとやりきれない」という欲求への囚われからは解放され、むしろ、②
かれをそこまで追い込んでいた、「『職業人』しか完全な人間とは見ない」周囲の人々の人間観-世界観に、問題を看取し、つまりは「倫理論文」ほかの主題を、実存の深部から定立し、③「自分はもうあんなふうにはならない」と否定-訣別しました。そこからはむしろ、人生の感性的な享受価値や「その悦びを幸福な気持ちで見詰める」という美的観想価値にも目を開かれ、人生と人生観をそれだけ豊かにし、考察の範囲も拡張しようとしたのです。しかし、④「だからといって、『精神の苦しい作業』が、もうできなくなる、というわけではないと思う」と付言することも忘れませんでした。この言表は、そういう境地から「難船者」として学問的思索に踏み出し、そのスタンスを堅持し、豊かになった人生観と拡大された考察範囲のただなかに立ち出で、それだけ包括的に、学問的思索を展開していこうと決意した宣言とも解されましょう。さすがにヤスパースは、そういうヴェーバーを、「挫折の意味のもっとも豊かな体現者」と総括しています。
8.ところが、「人間学」的隣接領域の精神医学に、文献を通してさえ、真摯に対決したとは思われない、気楽な『ヴェーバー入門』作家群は、病因論に短絡はしても、肝要なこの契機
④ は見落とし、ヴェーバー中-後期における「難船者としての学問的思索の展開とその動因」を追跡しません。それに代えては、自分の恣意的判断を押し込むか、ヴェーバーの「決疑論」のごく一部を抜き出しては、不当に拡大し、「実体化」する「『全体知』的固定化」に陥り、その弱みを、「ニーチエとヴェーバー」「ルーマンとヴェーバー」というような、抽象度の高い、「華々しい」議論でカヴァーし、初心の読者を「煙に巻き」ます。論争を提起しますと、「子供部屋の児戯」に類する主張か、「俗耳に入りやすい」比喩を持ち出しては、逃げを打ちます。
9.ところが、そういう人士は、なにも「ヴェーバー研究」の領域にかぎられず、じつは「五万といます」。むしろ、「学者」の圧倒的多数は、率直にいって、そういう
“academic careerists” というほかはありますまい。
10.ですから、そういう連中の俗論に、真正直に逐一、原則的に付き合っていきますと、時間を奪われるばかりで、こちらの身がもちません。
11.そこで、貴兄にあえて助言させていただきますと、「古代ロ―マ土地制度史」の訳業に早く立ち帰って、完結させてくださいませんか。ヴェーバーのデビユー作が、二巻とも邦訳で出揃いますと、初期の中世論と古代論から、中-後期の「比較歴史社会学」的展開にいたる経過を跡付け、潜勢も救い出す、次なる課題への展望も開けましょう。ぜひ、その方向に、一直線に進んでいただきたいのです。
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また、これは別件ですが、「カテゴリー論文」で規定されるのは、まさにいくつかのeinige、もっとも一般的な基礎範疇(「シュタムラーが本来――規範学と経験科学とを混同せずに――言うべきであったこと」)にほかなりません。「家」、「近隣」、「氏族」その他、「普遍的な種類のゲマインシャフト」にかんする基礎概念ではありません。①
たとえば、突然の驟雨に、大勢の通行人が一斉に雨傘を広げるといった、自然現象への、相互間に「意味関係」はない、「大衆的斉一反応」、②「無定形のゲマインシャフト行為」、③「慣習律に準拠する諒解(ゲマインシャフト)行為」、④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト) 行為」という四基礎範疇を定立し、社会関係一般の 「合理化」の尺度を「類的理念型」(「識別標識」)として設え、「旧稿」本論における具体的適用にそなえているわけです。
今日はここまでとし、あとはなるべく早く、第三信に繋げます。
2023年1月21日
折原浩