記録と随想36 丸山尚士氏による「マックス・ヴェーバー、オープン翻訳」ポータルの開設に賛同し、協賛客員訳者として、『経済と社会』「旧稿」中の「宗教社会学」章の拙訳を掲載していただくお願いとその趣旨説明 (7月7) 

 

丸山尚士様、

 

前略

 ヴェーバー「宗教社会学」章(『経済と社会』「旧稿」中)の解説注付き全訳を、添付してお送りします。

この邦訳稿は、小生がかなり以前、自分の研究用に訳出し、手許に置いて、随時参照してきた私家版です。これを、貴兄の「オープン翻訳」に、その趣旨に協賛する一客員訳者の寄稿として、『中世合名・合資会社史』などに並べ、それらに準ずる形で、掲載していただけないか、というお願いです。

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趣旨は、以下のとおりです。

このたび『マックス・ヴェーバー研究総括』をようやく脱稿し、姉妹篇『東大闘争総括』ともども、双方にまたがる基調と問題提起群について、いわば「総括の総括」を試みました。そうしますと、そこからは、つぎの限界がはっきり見えてきたのです。

小生は、『総括』二著で、➀「ごく当たり前のこと」が、大学現場や学界で、なおざりにされている実態を、事実と理非曲直に即して具体的に指摘し、論証ししてきました。その側面につきましては、最近刊行された季刊『未来』夏期号に、「『ごく当たり前のこと』が、……」と題する小文を寄稿しています。

ところが、『総括』二著では、そういう否定的な実態を衝く「否定的批判」が、ほとんどすべてを占め、➁ それらの「核心」にある「肯定的心意(ゲジンヌンク)」を前景に取り出し、その実現-展開に向けて、新しい企画制度改革積極的に取り組む、という方向には、(「公開自主講座『人間社会論』」の実施を除いては) ほとんど踏み出せませんでした。したがいまして、➂ その側面における賛同者ないし批判的継承者は、(弁護士となって「情報公開法」「公文書管理法」の制定に寄与し、「知る権利」の法制的保障、したがって「論証民主主義」の番人として活躍している) 三宅弘氏ほか、ごくわずかを数えるにすぎません。

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ところで、今回の『マックス・ヴェーバー研究総括』では、同じく「ごく当たり前のこと」がなおざりにされる事態として、➃ ヴェーバーの (「倫理論文」や「客観性論文」のような) 有名な短篇は、別人による第二次訳、第三次訳、……が、「屋上屋を架す」かのように、先訳の誤訳や不適訳にかんする議論は抜きに、いわば「自己目的」として、つぎつぎに刊行され、初訳の労苦が闇に葬られる、という奇怪な慣行を、問題類型のひとつとして挙示しました。

ところが、貴兄は、今回、そういう否定的批判の核心に潜む肯定的心意を汲み取り、貴兄のホーム・ページに、「マックス・ヴェーバー、オープン翻訳のポータルを開設し、手始めに、かれの最初の著で、学位請求論文『中世合名・合資会社史』の本邦初訳という難題に取り組まれました。そのようにして、「オープンな議論による訳文の漸進的改善、したがって学問の原則に適う進歩」への軌道を敷き、その種の議論を基軸とする「開かれた研究者コミュニティ」の実現-展開に向けて、IT技術も十全に活かそうとする、第一歩を踏み出されたわけです。

小生もかつて、「客観性論文」の邦訳を手がけたさい、戦前の訳『社会科学方法論』の実績と栄誉を保存すべく、「訳者」に止まるとともに、訳文については、増刷のつど、巻末に「第 n 刷へのあとがき」欄を設けて、訳文内容にかんするその間の疑問と批判に、漸次、内容的に応答してきました。ところが、版元・岩波書店の文庫編集者は、第七冊目で「音を上げ」、「あと一回かぎりで終わりにしてほしい」と申し入れてきたのです。学術出版に携わりながら、「学問、学術論文、したがってその翻訳に、およそ『完結』がありうるか」という原理・原則上の問題には「思いがおよばない」風情でした。そこで小生、「これでは議論しても始まらない」と観念して、つい放り出してしまったのです。この問題について、詳しくは『マックス・ヴェーバー研究総括』の当該節 (§. 29) をご参照ください。

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ところで、「旧稿」の「宗教社会学」章には、ご承知のとおり、武藤一雄・薗田宗人・薗田坦の三氏による先訳初訳 (1976年、創文社刊) があります。

創文社は、良心的な出版社で、『経済と社会』の全訳刊行を企画し、着々と実行に移していました。ところが、(その良心性が、あるいは負担過重の一因ともなったのでしょうか)、思いがけず、2016年に、事業の終結を余儀なくされたようです。そのさい、創文社に寄せた、その社風と良心的労苦への謝辞を、「創文社刊・ヴェーバー『経済と社会』邦訳をめぐる半世紀――創文社の事業終結に思う」と題して、HP 201682日付け「記録と随想4」に収録しました。

さて、武藤一雄氏他の先訳を総合的に評価しますと、一方では、宗教上の個別の諸事象について、おびただしい訳注を施し、読者の理解を助ける、良心的な力作でしたその面にかぎっては、いまなお読むに値しますその本文や訳注に「たんに手を加えるだけ」の第二次訳は「屋上屋を架する」だけでしょう

ところが、その意味では優れた力作も、「ヴェーバー宗教社会学」の翻訳としては「体を成さない」とうほかはありません。訳者の三氏には、「ヴェーバー社会学とはであるか」「宗教史学他の連字符文化諸史学、どういう方法論的・論理的関係にあるのか」が、分かっていません。

三氏の邦訳の底本は、ヨハンネス・ヴィンケルマン編の第四版 (1956年刊) で、これは、マリアンネ・ヴェーバー編初版 (1922) の「意図せざる誤導」を、そのまま踏襲していました。かの女は、著者マックス・ヴェーバーの注記を読み落として、「旧稿」と「改訂稿」とを逆転配置し、「改訂の基礎範疇と基礎諸概念」で「改訂の歴史的・具象的叙述」を読む「逆立ち」を読者に強いたのです。武藤他訳は、そういう二代の誤編纂を疑問とせず、そのまま引き継いで忠実に訳そうとしたのですから、どれほどドイツ語に堪能で、宗教史上の個別諸事象には通じていても、ヴェーバーの「宗教社会学」章を、ヴェーバー本来の基礎範疇と基礎諸概念に即して「整合合理的に」読解し、邦訳するのは、いかんせん不可能で、望むべくもなかったのです。じっさい、三氏の邦訳文は、基礎概念を表示する術語も、普通名詞と同じように取り扱って、熟考を凝らしてはいますが、原著者マックス・ヴェーバーの著述に特有の精妙な論理展開に到達してはいません。むしろ、そのときどきのコンテクストに引きずられて、たとえばVergesellschaftungに「利益社会化 (ときには共同体化)」、Stadtgemeindeに「都市教団」という訳語を当てる、といった具合で、読者を、同じ乱脈に引き込み、論旨の精確な読解は妨げるばかりです。

そういう経緯から、この正否・二義的な読解状況に直面した後進-後輩には、そういう先訳に、原則としてどう対応すべきか、という、翻訳の「哲学」ないし「責任倫理」の問題が、提起されざるをえません。そして、この問題提起にたいしては、一方では、武藤氏他訳の、宗教史上の諸事象にかんする豊富な訳注は尊重し、保存しつつも、他方では、全篇にわたる術語の誤訳-不適訳は逐一摘出し、是正して、ヴェーバー「宗教社会学」とは何であるか、そのつど具体的に解説し、読者の理解に資する、という方針が、定立されてしかるべきでしょう。

としますと、ここに添付した小生の訳稿は、この方針を文字どおり「宗教社会学」章の全篇に適用して、当該章の的確な読解を促すと同時に、それを最適例として、「旧稿」全篇体系的構成を見通す一助たらんとするものです。その意味で、(いまでも古書として入手可能な)先訳-初訳と、(これからは誰もが、「オーブン翻訳」上で参照できる)この客員訳稿とを、読者が「相互補完的」「相互媒介的」に読解して、この「宗教社会学」章、ひいては「旧稿」全篇の的確な読解と体系的構成に到達する捷径ともなりえましょう。さらに、『宗教社会学論集』に収録されている「世界宗教の経済倫理」三部作の「歴史社会学的」総合、ならびにその限界点にも到達して、そこから独自の展開に移るよすがともなり、そのかぎりで、初訳の労苦も実るでしょう。

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ちなみに、「旧稿」中の『支配の社会学』『都市の類型学』『法社会学』、また「改訂稿」中の『支配の諸類型』など、達意の邦訳を手がけられ、『経済と社会』の繙読にかけて最大の寄与をなし遂げられたのは、なんといっても世良晃志郎氏でした。しかし、流石の氏も、この基礎範疇-基礎諸概念における齟齬という問題にかけては、ドイツにおける『全集版』にいたるまでの編纂に、やはり欺かれて、氏らしい明晰には到達されませんでした。亡くなる直前に、初めて「知的誠実」をもって、「旧稿」全篇の改訳と体系的再構成を要望されたのでした。この事情は、拙著『日独ヴェーバー論争――『経済と社会』「旧稿」全篇の読解による比較歴史社会学の再構成に向けて』(1913年、未來社刊) の「あとがき」(pp. 305-06) で、取り上げたとおりです。

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また、こういう事態に直面して「事柄がなにも日本だけの問題ではない」と分かってきますと、「およそ『西欧の近代』とは何だったのか、『禁欲的合理主義』というその『禁欲』は、によって、どう支えられていたのか、現状はどうか」という問い返しにも連なっていくでしょう。そして、あるアーティストが、教会の天井の奥、はるか会衆の目には止まらない片隅にも、「それでも、神は見ておられる」という確信のもとに、精根こめて絵画を描ききったというエピソードを思い起こすにちがいありません。それと同時に、そういう信仰-心意ゆえに、当初には確かに、目に見える成果が(「救済の認識根拠」として)生まれたとしても、まさにそれゆえ、そういう成果への執着=現実根拠への転移」もつのり、これが「仇となって」、当初の心意にはむしろ「墓穴が掘られ」、「枝葉が繁って根が枯れる」という「逆説」的事態の進展が、思い起こされ、透視されましょう。そしてさらに、そういう逆説的衰退の「仇花」が満面開花し、全面展開されようとしている、世界史のまさにその局面で、日本が「欧米近代の脅威」に曝され、「敵に似せて己を造る」ほかはなく、「追い付き、追い越せ」の路線をひた走って今日にいたっている、という批判的想念にも、誘われるにちがいありません。

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さて、このように考え、語ってきますと、貴兄には、「そんなことなら、小生が貴兄の先例に倣い、小生自身のHP に『オープン翻訳』の欄を増設し、タイ・アップして、ことを進めればよいではないか、それで済む話ではないか」と訝られるかもしれません。それはそのとおりなのですが、じつはそうはいかない事情もあって、貴兄の「軒を借りよう」ということになったのです。

というのは、こうです。今回の第二総括書の脱稿が遅延を余儀なくされた最大の原因は、じつはパソコン入力体制の攪乱と途絶にありました。昨2021年の夏頃から、「デル」のファックスがひっきりなしに入り、「マイクロソフト社がやがてウィンドウズ11にヴァージョン・アップして、10の保守サーヴィスを停止するから、『大切なデータを危険に曝さないように』、パソコンを買い換えてはどうか」と執拗に勧めてきました。11月になると、小生宅の二台のパソコンが、符牒を合わせたかのように、「ガーガー、ジャージャー」と騒音を発し、画面も乱れて、不具合をきたしました。すぐにシャットダウンしたり、再起動をかけたりしますと、不思議なことに復旧するのですが、「これではもう長くはなかろう、『マックス・ヴェーバー研究総括』の脱稿以前に、万一入力不能になったら困る」と観念して、デルから一台、(それでは以前の『オフィス』がインストールできないと分かって、仕方なく、もう一台) 富士通のFMVを、買い求めたのです。

もっとよく調べてからにすればよかったのですが、ウィンドウズ11では、初期設定など、すっかり様変わりしてしまっていました。これまでは、富士通の「親指シフト・キーボード」に慣れ、指に入力方式を覚えさせ、効率も使い勝手もよく、快適に執筆を進めてきたのですが、今回はウィンドウズ11が「親指シフト・キーボード」に対応しないばかりか、版元の富士通ソフトも「Japanist 2013」の販売を終了し、撤退してしまっていました。その他、プリンターにしても、以前にはUSBプラグをジャックに差し込めば、ドライパーは自動的に起動したのですが、今回は初期設定が必要というので、「トリセツ」を読んでも、カタカナまじりの変な日本語で、要領をえません。「すったもんだ」の末、ユーザーの事情を顧慮しない、こういう「文化」に付き合っていくのは消耗するばかり、と覚悟を決め、「ウィンドウズ10のままで、使い切れるところまでは行こう」と旧体制に復帰しました。すると、不思議にも、なんとなく復旧して、いまのところ、支障をきたしてはいません。しかし、いつまた、一方的な通告によって理不尽な混乱に陥れられないともかぎらず、ここはひとつ、今回も、貴兄の技術力に頼ろう、と思いなした次第です。

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さて、「宗教社会学」章邦訳への内容上の疑問、批判には、小生があとしばらくは、対応できそうです。そのあとは、貴兄に引き継いでいただき、やがては貴兄にも、後継者の選定に、意を用いていただくことになりましょう。

以上です。長くなりましたが、趣旨をご検討くださり、「宗教社会学」章、客員寄稿の掲載方、よろしくお願いいたします。

貴兄の邦訳第二作、これまた大著、マックス・ヴェーバーの教授資格請求論文『ローマ農業史 (土地制度史)』、初訳の順調な進捗をお祈りいたします。

敬具

 

202277

折原