記録と随想32――重田さんの投稿(816日)に答えて (その2)――中野著評関連論考: 通算11―― (930)

 

[: この間、「重田さんの投稿(816)に答えて (その1)――中野著評関連: 通算9(94日付け「記録と随想31) の続篇として,「同 (その2)――中野著評関連: 通算10」を、「記録と随想32」として執筆中でしたが、98日に、中野敏男氏と重田さんから「応答を打ち切る」旨の一方的通告を受けました。そこで、即刻、「中野敏男氏と重田さんの一方的通告にたいする応答 (中野著評関連: 通算10)」を執筆し、先に、「記録と随想33」として発表しました。その後、執筆中の続篇の草稿を仕上げ、ここに、予定どおり「記録と随想32」として、発表いたします。そういう経緯のため、発表の日時は、前後します。]

 

1) ここで、「重田さんの投稿(816日)に答えて (その1)(94) の内容を踏まえ、重田さんが提起された第一と第三の論点を採り上げましょう。

「思想、表現の自由」とそれにもとづく「学問の自由」は、日本国憲法にも採り入れられ、近代法によっては普遍的に保障されている基本的な人間権です。それを、「高齢者である」という属性規準を持ち込んで制限しかねない発想は、とても容認できません。

マックス・ヴェーバーも、学問に「年齢」を持ち込むことを嫌悪しました。若い学者が、高齢者の所説に反対であれば、「学問の自由」に依拠して、果敢に立ち向かい、論証内容によって打ち負かせばよいのです。高齢者がなにか「権威者」然と妨げるのなら、話は別です。小生は、「境界人」の立場決定 (前述) と「論争文化」創出への要請から、若い学者の挑戦と「乗り越え」を期待し、歓迎しこそすれ、妨げたことはありません。

「老人どうしの泥仕合」などと「年齢」を持ち出す論法にも、そういう「前近代的属性主義」に連なる退嬰的姿勢が窺えます。中野-折原論争の、これまでの内容に、たとえば第 世代の若者が、「人間関係優先主義」を脱し、距離をとって批判的にアプローチし、理非曲直を厳格に検証するとすれば、どういう判定がくだされるでしょうか。内容上の実質的・学問的評価は、実年齢とは関係がないでしょう。

 

2) そのうえ、そういう (近代人権思想以前に逆行する) 退嬰的発想を、特定の語彙使用に「ハラスメント」(「セク・ハラ」「アカ・ハラ」「パワ・ハラ」等々) の嫌疑を被せて糾弾し、事実と理を無視しても押し通そうとする風潮が、昨今顕著に見られ、これも小生には「ありふれた危険」のように思えます。

一例を挙げますと、全共闘運動の後退局面で、新左翼のあるセクトが、三里塚闘争の現場で「輪姦」事件を起こし、京大闘争のバリケード内でも「性アノミー」が横行していた事実が、後に、当事者のひとりによって暴露されました。ちなみに、1969年当時には、全国各地の大学で、それぞれの「全共闘」が「日大-東大闘争の地平を越えて」という抽象的スローガンを掲げて競り合いましたが、(たとえば、日大における不正経理問題や、東大における医学部と文学部の学生処分問題というような)各大学に固有の争点をめぐって、それぞれの政治-社会的背景も含め、内容上の掘り下げと熟考を凝らし、議論を深める方向で、確かに「日大-東大の地平を越えて」進むのではなく、むしろ、「大学本部の封鎖」といった戦術面で (内容抜きに) 外形上の華々しさと耳目聳動を競う方向に流され、「占拠空間を造り出しはしたものの、中で何を議論すればよいのか、わからない」という実態もあったようです。それでは、遅かれ早かれ、「性アノミー」が発生し、当然の批判を招いて、「闘争」が腐朽するのも、不可避だったでしょう。

その後の一時期、「セク・ハラ告発運動」が、批判を受けての「トラウマ」による「過同調」の気味を帯びて、旧新左翼-全共闘の残党間に、各地で頻発しました。その核心には「性-ジェンダー差別の克服」という正当な要求があったにはちがいありませんが、他面、「自分たちの闘争がすべて」という驕りに囚われ、安直な「差別語彙糾弾」に走り、他の運動も顧みて連携しようとはせず、むしろ「自分たちの『闘争勝利』のためには、なんでも許され、なんでも利用できる」という「無律法主義」に陥って、運動の内面的衰退を招いたことは、否めないでしょう。

その最たる具体例として、(1968-69年学園闘争によって事実誤認とその隠蔽がつとに明らかにされていた大学機関(総長-評議会、教授会、「キャンパス・コート」「広報委員会」など)の「特別権力関係に乗り(公の近代的裁判に比して、被疑者の人権保障において劣り、非公開の「密室審問による裁定」で、素人の大学教員が「(取り調べの) 警察官」「検察官」「裁判官」を兼ね(つまり、権限分割による相互掣肘機能がはたらかず)、被疑者は裁定に不服でも再審を請求できない、そういう意味で「すこぶる近代的」な)キャンパス・コートに頼って、自分たちの主張を遮二無二押し通し、「闘争勝利」を勝ち取った人々とその支援者たちとが挙げられましょう。そのため、反原発運動の論客で専門領域における学問上の業績も抜群だった科学史家の故佐々木力氏が、(「1968-69東大闘争」によって「特別権力関係の実態と弊害が具に明らかにされながら、機動隊導入-再導入による強権的闘争圧殺によって生き延びた他ならぬ東大のキャンパス・コート訴えられ、その「密室裁定」により、五カ月の停職処分に陥れられ、反原発運動の後継者養成も阻害されました。これなども、1968-69年全国学園闘争-全共闘運動の批判的総括がなされないまま、「独善の二番煎じ」が演じられ、佐々木氏の人権が侵害され、反原発運動も後退を強いられた証左というほかはありますまい。

 

3) この問題を多少一般化して展開しますと、西欧近代の帝国主義的侵略によって植民地として支配されるか、あるいは少なくとも、その脅威に曝されて、いち早く「敵の武器を学んで対抗」せざるをえず、そのかぎり「敵に似せて己を造る」ほかはなかった「境界(マージナル・)地域(エリアズ)」の後進資本主義国(インド、ロシア、中国、日本など)では、一方ではなるほど、それぞれの内部で、侵入してくる異文化と接触して「驚き」、伝統文化との「狭間」に陥って「世界の意味を問い返す境界人(マージナル・パースン)の思索が、触発されはしたにちがいありません。ところが、他方、➁ 大衆的な規模では、支配体制における近代の「家父長制」ないし「家産制」母斑は留めたまま、自由競争段階が切り詰められ、近代の官僚制機構群が、上からいち早く創り出されて、諸個人をいやおうなく「機構の歯車(伝動装置)」に編入し、「自分のやることなすことの『意味』は問わない」「没意味化」状態に陥れもしたでしょう。そういう「近代と近代との構造的癒着」から、 (起点に据えられるべき) 近代的個我形成が、いわば「双方からの挟み打ち」に遭い、「二重の障礙」によって阻まれ、それだけ伸びなやみ、難航する、という事態が、(各々の伝統文化の質と強度に規定されながらも)類型的現象として発生し、文化の基調をなしたはずです。そういう条件のもとでは、近代的個我が揺るぎなく形成され、確立される以前に、いち早く欧米の最新流行を取り入れて「近代の超克」「近代」を唱えて論壇は賑わす「イデオローグ」や「コンメンテーター」が、類型として多発し、華々しく活躍するとしても、不思議ではありますまい。ところが、「そういう『付け焼き刃』では、『岩盤』は微動だにせず」、「一皮剥けば鍍金が剥げ」て、容易に「近代」の地肌が現われるでしょう。

 

4) ところで、この国の敗戦直後から1960年代までは、「戦後近代主義社会学」が、社会的現実を実証的に研究する科学として、脚光を浴びました。そこでは、家族・親族 (氏族)、近隣・村落・地域 (農村と都市) から、会社・工場・労使関係・労働組合・商店・病院・学校・その他の事業所 (職場) をへて、伝統的な芸能団体や社会病理集団 (「やくざ」、「暴力団」) にいたるまで、日本社会のほぼ全域にわたり、勢力的に調査研究が実施され、いたるところに「封建遺制」や「前近代性」が探知され、実践的に克服されるべき問題点が、克明に抉り出されました。小生もある時期、「戦後近代主義社会学」による研究の蓄積と伝統を踏まえ、「逸脱行動論」という一部門で、その後継者になろうと志したこともあります。

その頃には、マックス・ヴェーバーも、もっぱら近代主義の旗手」として称揚され、その厖大な著作群からは、「欧米近代の光と影」のうち、もっぱらの面が取り出され、強調されました。小生も、当初、「倫理論文」を主たる典拠として、「(カルヴィニズムの『隠れた神(デウス・アプスコンディートス)』のような) 現世を超越する権威の意義に目を開かれて、思いをいたし、同時に、そういう厳しい超越的権威を欠く文化のもとでは、現世の諸権威を批判的に相対化して対抗する確かな拠り所 (「碇泊点Verankerung) がないため、現世内の諸権威にたいする批判と抵抗の気風が育たず、その結果、現世内の諸権威から自律した諸個人が互いに忌憚なく議論し、合意を形成し、相互に協定し、秩序も制定して、社会を形成改変していく、そういう「根底からの近代化・民主化」の達成は至難、と考えざるをえませんでした。しかし、そのうえで、そういう「根底からの近代化・民主化」に、一個人としての責任において取り組もうと決意したのです。一般にも、ヴェーバー作品は、欧米近代における個我解放の諸条件に光を当てる理論ないし規範として称揚され、この国の社会的現実に対置され、もっぱらその「前近代性」という否定面を照射する光源として取り扱われていました。

 

5) ところが、小生はやがて、「戦後近代主義」の社会学、およびそのヴェーバー解釈に、(後から距離をとってアプローチした戦後世代の一員として) 主につぎの二点で、疑問を抱くようになりました。ひとつには、➀ 大学について、上記のとおり網羅的に研究された社会諸領域のひとつとして、同様にその「近代性」を問い、批判的かつ実証的に剔抉してしかるべきなのに、当事者の社会学者は、自分たちの足場・職業現場としての大学については、なぜかそうしようとはせず、現場は問い残す「灯台下暗し」に無自覚にも陥っていました。いまひとつ、➁ 欧米近代の「」、しかも、(「光」からの第二次的「派生態」「頽落態」といったものではなく) カルヴィニズムの「隠れた神信仰そのものに由来する、その意味で初発から孕まれていた正真正銘の「」、すなわち、たとえば「二重予定説の矛盾から発生する「独善」のような、最奥の問題には、やはり目を背けて、けっして問おうとはしないスタンスが看取されました。戦中、この国の都市という都市を、(爆弾や焼夷弾を雨霰と降らせる)「絨毯爆撃」によって焼き尽くそうとし、広島と長崎に二発、原爆を投下して、明らかに戦闘員の殲滅を企てたピューリタン国家の所業は、それはそれとして、戦後世代の記憶に焼きついて離れず、問い返しを迫っていたのです。

そういうわけで、小生は、「戦後近代主義」のパースペクティヴを無疑問的には受け入れず、上記 の問題を直視し、喫緊に問われるべき問題として提起しました。ヴェーバーも、「近代主義の旗手」としてのみではなく、同時に、「欧米近代の影」にたいする内奥からの批判者-問題提起者として、捉え返しました。

 

6) いま、なぜそうできたのか、と問い返しますと、「戦後近代主義」の視座に浸って馴染み、無疑問視する以前に、つぎのような諸条件に恵まれて、先に批判的なスタンス」を身につけ、「自分の作風(エートス)」も確立していたため、と答えられそうです。

ひとつには、❶ 専門学部に進学して「社会学科」に所属し、「社会学」を専門科目として勉強し始める以前に、1954年に入学した教養学部で、じつに自由な二年間をすごしました。とりわけ、同人雑誌 (『運河』) クラス雑誌 (29-L-3B [現文科 -ドイツ語未修B3]) 習作を発表し(関心も進学志望先も多様な「文学青年」「哲学青年」仲間による) 合評会で、その内容に忌憚のない批判を受け、議論を重ねました。そういう表現のサイクルないしスパイラルを、学生生活の中心に据え、「自分と自分の状況を見つめながら、ものを考え、文章に紡ぎ出し、批評を受けてはまた考える」という作風をおのずと身につけることができたのでしょう。

なるほど、小生、大学受験前に、志望をひとまずは「社会学」それも「マックス・ヴェーバー研究」に定め、入学後にも、未修外国語としてのドイツ語の学習は、きちんと予習-復習し、「ここでマスターしておこう」と心がけ、社会学ないしマックス・ヴェーバー関連の文献類も、手当たり次第に読み漁ってはいました。しかし、そうしてえた知識を、その水準で手際よくまとめて同人誌やクラス雑誌に持ち込もうものなら、たちまち「スコラ (余暇学問) 」、「あなた自身はどう考えるのか」と、手厳しい批判を浴びせられました。そのため、本からの知識も、たんにその平面で抽象的に要約し論評してはすませられず、自分たちが直面している具体的状況の分析と、当の状況に自分たちとしてどう対決して生きるかという具体的指針の提起とに、結びつけ、大胆に応用展開し、私見-試論として発表し、批判に曝す、という方向に、歩み出ざるをえなかったのです。

 

7) ところで、小生が教養学部に入学した1954年は、たとえば「60年安保闘争」や「68年学園闘争」の年度とは異なり、キャンパス内が比較的静穏でした。受験勉強から解放されたばかりで、何も知らない新入生が、手ぐすね引いて待っていた先輩の学生運動活動家の勧誘に乗って、いきなり国会デモに出掛けたり、突如、大学管理棟のバリケード封鎖に加わったり、短絡的に (「自分としてなぜそうするのか」と思案をめぐらす暇もなく) 街頭闘争や直接行動に打って出て「後戻りがきかなくなる」といったことはなく、新入生同士が、(「今後の勉強」とはいわないまでも)「今後の自己形成」を中心に据えて、忌憚なく語り合い、そのさい各人の自己決定を互いに尊重し合おうとする気風が、確かに見受けられました。

なるほど、高校生時代から経験を積んできた「学生運動『専業』活動家」も大勢いて、すぐそれと分かりましたが、新入生を「オルグ」して街頭行動に駆り出そうとする性急さは、さほど顕著ではありませんでした。むしろ、当時、「反戦学生同盟(AG)」から「社会主義学生同盟 (Bund)」のリーダーとして活躍した中村光男氏が、活動歴のため、少人数の「ドイツ語既習クラスA」に滞留していて、同人誌『運河』にも加わったのですが、かれは、当時の学生運動、とりわけその「マルクス主義」理解にはすこぶる批判的で、「スコラ化」は排しながらも、アジテーター風情は微塵もなく、理路整然と議論し、緻密な論考も発表して、同人仲間になりきっていました。他方、『運河』には、高校時代にドイツ語をマスターして「実存主義」文献に通じ、『運河』創刊の原動力ともなって「創刊の辞(マニフェスト)」をものした奈良正博氏もいました。そこにはこうあります。

「ぼくらは何よりも創るものでありたい。創るものだけが明日を語ることができるからだ。そしてぼくらは、ぼくらがまたそのような力であることを確信する。

ぼくらは過去の桎梏・非人間的な一切のものを拒否する。ぼくらはまさに歴史的である。ぼくらは変革と闘争の過程そのものであろうとする。

ぼくらはどこまでも現代の生命である。ぼくらの逞しい前進、そこに新しい時代精神の息吹がある。

だから

ぼくらは怠惰に通じる楽しさを拒否する。

ぼくらは客観的真理によりかかることなく自己の主体的責任を追求する。

ぼくらは生きることを選ぶ、生きるとは可能性を信じることである。」(『運河』創刊号、19564月)

 

小生も、「社会学」をいちおう「アイデンティティ」の拠り所とはしましたが、むしろ奈良、中村両氏からの交差圧力をもろに受けて、「実存主義か、マルクス主義か」という戦後思潮の包括的な双極対立の狭間に、いったんは溺れ込みました。そこで「難船者」として踠きながら、やがて自分なりに視座を定め、むしろそのなかに「社会学」も一「思想要因(エレメント)」として採り入れ (たとえば「境界人」理論を、状況分析の要具-状況内企投の指針として活用し)、マックス・ヴェーバーも、当の双極対立を「対抗的相互補完関係」として「止揚」し「総合」する「架橋媒体」と位置づけ、そこに焦点を据えて読解を重ねる方向に歩み出ました。

三年次 (1956) には、専門課程に進学して、ひととおり社会学関係の講義は聴き、ゼミや調査実習にも参加し、基礎的な知識と研究技法は修得しましたが、なお、同人誌『運河』への論考執筆のほうを優先させていました。ゼミの報告に指名されたとき、「同人誌の原稿締め切りと重なるので……」と断って、担当教官から「もう腰を据えて専門の勉強に打ち込む時期にきているのに」と怪訝そうに見据えられたのを覚えています。

 

8) その優先順位は、大学院に入ってからも、変わりませんでした。むしろ、❷ 当時の大学院 (社会科学専門課程・社会学専攻) は、修士課程と博士課程の在籍者を併せても10人前後の (小生から見て) 適正な規模で、院生同士正式の(フォーマル)「学科目制」(旧「講座制」) という「ゲゼルシャフト関係」を機縁として派生した、無定型即人的諒解ゲマインシャフト」にはちがいないのですが、あるいはむしろ、まさにそれゆえに、かえって互いに対等で活発な議論仲間関係Debattengenossenschaft」をなし、「専門」の枠を越え、「全人格的」ともいえるほど多面的に切磋琢磨することができました。ある院生の海の家や小生宅に泊まり掛けで合宿し、専門的テーマ設定 (限定) は抜きに、各人の関心事を中心に忌憚なく議論を交わしたり、連れ立って仙台に出掛け、東北大学の社会学の院生と交流したりもしました。

しかし、それ以上に大きな意味をもったのは、そういう「諒解ゲマインシャフト」「議論仲間関係」は堅持したまま、「大学管理法」問題という大状況の政治課題にも取り組んだことでした。「1960年安保」で岸内閣が退陣した後に登場した池田勇人首相が、「60年安保騒動では、大学が、学生デモ隊の出撃基地とされ、現に革命戦士の養成所に利用されている。大学の管理をなんとかせねばならん」 (趣旨) と正直にぶち上げ、問題を突き出してきたのです。わたしたち社会学の院生(とくに博士課程の元島邦夫、見田宗介、石川晃弘の三君と小生)は、「すわ、くるものがきたな」と受け止め、この機会を「たまたま身にふりかかった火の粉を払いのけるだけの政治的防禦」には止めず、「大状況の政治課題に、院生としてどう対処し、どうかかわっていけばよいか」を討論の主題に据え、むしろ大学のあり方をこちらから根本的に問い返し、できれば自分たち独自の大学論-学問論も模索-構築する、絶好の機会として、逆手に取ろうよ」と申し合わせました。その延長線上で、政治課題との取り組みも、(anti-X型」で「Xに似せて己を造る」ことに終わりがちな、従来の) 政治運動の限界内には止まらず、自分たち自身と現場への問いを潜らせて、新たな質の運動を創始し、広めていこうと気張ったわけです。

もとより、まずは社会学の院生」として、(当時、文部省その他、各種の団体がアドバルーンとして打ち上げていた)大学管理にかかわる諸案-諸構想を、網羅的に収集し、比較-分析して、その具体的な狙いを捉えようとつとめました。それは、➀ (文相の大学人事にかんする)拒否権の実質化、➁(評議会のような)合議機関の、学長の諮問機関への再編成、③ 学部教授会の構成員を正教授に限定して、若い助教授や講師を意思決定課程から排除する措置、④ 学生の (学外も含む)「秩序違反」にたいする処分の厳正な実施、➄ 警察力導入にたいする忌避感(アレルギー)の払拭、といった、(要約すれば) 学内管理体制の中央集権化と、国家権力機構の末端への編入によって、とりわけ学生運動を「処分」と起動隊導入とを二本柱として押さえ込もうと目論む構想と見受けられました。となると、それにたいするわたしたち自身の闘いも、ただたんにそういう構想の法制化を阻止するだけではなく、その意図を暴露して挫くのみでもなく、むしろ、(期せずして体制権力と反体制運動、双方「最前線の境界域」となった) 大学現場で、体制側の構想に抗してそれを斥けるばかりではなく、自分たち自身の大学理念を模索し、実現していく、個々人の主体形成の契機として活かし、その意味で「対抗改革の実をそなえた、現場からの反大管法闘争」を展開していこうと決め、各地-各所の集会や研究会にも、討論資料を携えて参加しました。

他方では、そういう状況への外延的拡張とともに起点の現場における内面的深化こそ、いっそう重要と心得て、院生室の一角にライブラリーを設け、マルクス主義や左翼の定番文献ばかりでなく、ドイツ観念論からアルフレート&マックス・ヴェーバーを経てヤスバース、はては高坂正顕にいたる大学論と学問論、オルテガ・イ・ガセの「大衆人対知識人」論、カール・マンハイムの「イデオロギー論」(マルクス主義の「個別主義的(パティキュラリスティック)」なイデオロギー暴露を、陣営にも向け換えて「普遍主義的(ユニヴァーサリスティック)」に反省編成する「知識社会学)RE・パークらの「境界人」論やジンメルの「異邦人」論など、関連のありそうな文献を幅広く集めて、読み合い、議論しました。そのうち、たとえばオルテガは、1930年に発表していた主著『大衆の叛逆』で、専門科学者を(「社会学的類型」としてよりもむしろ「人間学的類型」として)「知識人」ではなく、「大衆人」の最たる者と断じ、「専門科学という轆轤に繋がれた駄馬」とまで罵倒していました。この見方は、「1968-69年東大闘争」には公然と登場する「専門バカ論」「バカ専門論」の「先駆け」でした。ただし、小生は、(闘争場裡で「簡便な合い言葉」として「一人歩き」しがちな)そういう「決まり文句」「罵倒語彙」の利用は避け、ややインパクトには欠けるものの、オルテガの真意は汲み、ヴェーバーの「官僚制機構による諸個人の『歯車(伝動装置)化』」という問題設定とも結びつけ、「没意味専門経営」という呼称を考案して、充当しました。

 

9) そういうわけで、「自己と状況について、ものを考え、自分の文章に紡ぎ出し、批評を受けては、考えを重ねていく」という教養課程で身につけた作風(エートス)は、専門課程と大学院に進学しても、変わりなく持ちこたえられました。むしろ、専門的諸知識の選択的追加的編入と、大状況の政治課題への視野拡大によって、それだけ厚みを増した、ともいえましょう。[つづく]

 

[: 小生、このあと、当の作風が、「1962-63年大管法闘争」、「1968-69年全国学園闘争・全共闘運動」、(東大当局の機動隊再導入による「強権的闘争圧殺」後の)1969-73年解放連続シンポジウム『闘争と学問』」、東京地裁における「1969-73年東大裁判闘争」、「1972年授業再開-教授会復帰後の、学内現場における取り組み」(とくに「1977-1993年公開自主講座『人間社会論』」) などを経るなかで、どういう障礙に出会い、幾度かの挫折を経ながら、どう修復-維持され、今日にいたっているか、その観点から見て、この「中野-折原論争」はどう位置づけられるのか、について具体的に総括したい、と考えていました。

ところが、昨929日、当フォーラムを運営してくださっている大川正彦氏より、「現倫研のひとつのテーマにかんするこの『やりとり』は、論点も出尽くしたようなので、この9月いっぱいで終えたい」という趣旨のご提案がありました。小生も、中野敏男氏の著書にたいする批判とその結論は、去る98日付けの「応答 (中野著評関連: 通算10)」までで、また、市野川、重田両氏の投稿にかんする応答も、本稿をもって、内容上、いちおう完結し、責任は果たせた、と思いますので、このさい、大川氏のご意向にしたがおうと思います。

  なお、大川氏は、「これまでのやりとりを、確実に保存し、一般読者のアクセスにも供する」(趣旨) と申し出てくださっています。

小生もこれまで、お許しをえて、同文をホーム・ページ「記録と随想」欄に発表してきましたが、こちらの一般読者からも、「論争相手の主張も知りたい」という要望が出てきています。今後、この論争を一里塚として、この国に「論争文化」を発展させ、根付かせていくためにも、ぜひ、双方の主張内容を保存し、一般読者のアクセスにも供して、比較-対照が可能なようにしていただきたい、と念願いたします。

本年の六月このかた、この機会を与えてくださった川本隆史氏と大川正彦氏に、厚く感謝し、御礼申し上げます。

ただ、あと一回だけ、小生の上記「作風(エートス)」と、この連続寄稿との関連について、要約的に記す機会を与えていただき、それをもって謝意にも代えたいと存じます。よろしくお願いいたします。2021930日、折原浩]