記録と随想31――重田さんの投稿 (816) に答えて (その1) ――中野著評関連論考: 通算9―― (94)

 

重田さん、現倫研フォーラムへの率直なご発言、拝見しました。

第二点から始め、そのあと (続篇:「その2) で、第一点、第三点に戻って、応答していきたいと思います。

 

) 「特殊な世界」「長い歴史の必然と偶然」「下手に口を出させない雰囲気」「目的がわからない内輪揉め」「次世代の方々を遠ざける」「(中野著を)再認識」「多くを学んできた (のに)」等々、いろいろな表記で、この国における「ヴェーバー学」ひいては「学問」の未来について、ご心配くださっているご様子、ありがとうございます。

 ただ、小生は、「後輩 (先になるべき、後なる者)、とくに若い世代」が、今後、学問研究、とくに「ヴェーバー研究」にどう取り組むか、という (市野川氏も含め、広く共有されている) 懸案につき、「別人がどう見るか」ではなく、小生自身の戦後生活史にもとづく個人の意見思想として、別様の見通しを持ち、今回の論争も含めて、別の課題設定をしている、とお答えするほかはありません。さしあたり「多様な諸見解」のひとつとして、しばらくお付き合いくだされば、幸いです。

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小生は、 第二次世界大戦中の日本「軍国主義」と敗戦後の「戦後民主主義」、第二次大戦後の世界思潮における「マルクス主義」と「実存主義」、 (小状況ではありますが)1968-69年東大闘争」における「教授会」と「全共闘」といった、異質な社会集団ないし異質な文化が互いに鋭く対立する状況で、当初 (➀から➁の途中まで) は受動的に、双方の「狭間」に追い込まれ、「境界人(マージナル・パースン)」の「窮境」に立たされました。ところが、そのなかで踠きながら、思いがけず「シカゴ学派」(RE・パークとEV・ストーンクィストら) の「境界人理論」とジンメル『社会学』中の「異邦人」論に出会い、目の覚める思いでした。すなわち、やや抽象的で一般的な集約にはなりますが、鋭く対立する二文化の「狭間」では、双方からの「十字砲火」(交差する「集団同調圧力」) に曝されて、双方あるいは一方への「同調」に陥りやすいのですが、そういう圧力に個人として抗って、自律的に対処すればむしろ、そこに収斂してくる対立を逆手に取り」、双方を「互いに相殺し」、「ともども相対化して」、「いっそう包括的な普遍的連関のなかに位置づけ返し」、できれば「総合する」、固有の思想形成の可能性も潜んでいる、と気づかされたのです。そしてそれ以後、相対立する集団-文化の「狭間」という「立ち位置」を、「窮境」として避けるよりもむしろこちらから選び取り、そのつど、相対化と総合への可能性を積極的に活かそうとつとめました。

  やがて、 (195465) の思想模索のさなか、(20世紀前半の世界思潮を二大分していた)「マルクス主義」と「実存主義」との対立に、「思想」の次元で決着をつけるのは難しく、むしろ双方とも、(戦後責任」にもとづく「戦後復興」という) 実践的課題の「土俵(アリーナ)」に移し入れて、ともに活かすことはできないか、そういう「対抗的相互補完性」をそなえた思想要因(エレメンツ)として捉え返せるのではないか、と考え始めました。それと同時に、双方の架橋媒体ともいうべき位置に、「境界人としてのマックス・ヴェーバー」が立ち現れたのです。

ヴェーバーは、前掲「中野敏男著『ヴェーバー入門――理解社会学の射程』評(再論)(613日)」[記録と随想22でも触れましたとおり、おそらくは 当時の精神病理学・精神医学にいう (「外因性」「心因性」ではなく)因性」の精神神経疾患に罹って、「学校秀才」として「順風満帆」の「学界出世academic careerism」には「挫折」し、(当初にはもとより「これは困った」「思わしくない」と感得されたにちがいない) その運命とも和解し、「悪あがき」は止め、むしろその可能性を活かす「難船者」として、出発しました。そして、その後、「マルクス主義実存主義」「ドイツ歴史学派オーストリア限界効用学派」「普遍化的法則定立学個性化的歴史記述学」といった、同時代の思想の諸対立に、それぞれの「狭間」に立つ「境界人としての定位 (位置取り)と論争をもってかかわり、諸思想の相対化と相互補完的止揚」にもとづく「総合」を、つぎつぎに達成していったのです。まさに「『境界人』として同時代の論争を生き、21世紀の論争も先取りしていた」と申せましょう。

 

2) それでは、「難船者」と「境界人」とは、どう違うのでしょうか。

この問いには、さまざまな応答が可能でしょうが、小生は、「他者に『難船者になれ』とは勧められないとしても、諸思想の対立を避けるのではなく、むしろそれらの『狭間』に身を置き、『境界人』として、諸思想の相対化と総合を達成していく生き方は、(なるほど、『そうせよ』と直接には勧められないにせよ)その条件を創り出すことによって、間接的に促すことはできる」と考え、そういう実践上の (「難船者」との) 差異を重視して、対応しました。小生が、そういう間接的勧誘の媒体教材ともなれば、という願いを籠めて、最初に発表した学問上の著作は、「境界人」と関連のある諸理論を網羅的に蒐集し、理論的に集約して、その積極的可能性を引き出したうえ、他ならぬマックス・ヴェーバーを当の「境界人」として捉える『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とヴェーバー像の変貌』(1969、未来社) でした。また、教育実践としても、後輩 (「先になるべき後なる者」) の学問上の関心事について、「指導的先達」ともいうべき「長老」「先輩」の間に、なにか「同質の統一見解」が形成されて、後輩がそれに「安住」できるような事態は望ましくなく、むしろつねに論争を提起して、対立と差異を創り出し、後輩が、多極の「狭間」で「境界人」となり(「他人の所見-諸説を受け入れるのではなく、自分の意見-思想をみずから模索-形成していかなければならない」と察知して)自律的個人」として生きる、そういう条件は整えようとつとめました。主なものとしては、対林道義論争、対山之内靖論争、今回の対中野敏男論争、「対外試合」としては、対FH・テンブルック論争、対W・モムゼン論争、対W・シュルフター論争など、いずれも小生の側から、故あって仕掛けた論争ですが、それには、上記の目的が、動機としてはたらいていました。今回の対中野論争も、小生にはけっして、「目的のない」「内輪揉め」ではありません。

こうした (いまでは「奇矯」とも受け止められかねない) 態度決定について、もう少し広い視野から意味づけしますと、この国には戦前から「論争文化」ともいうべきものが欠落し、「学者」「知識人」が議論を避けて、戦争を阻止できなかったばかりか、敗戦後にも「戦を戦と言いくるめて」一斉に 鞍替え転向 する、「優柔不断」な特性が目立っていました。小生は、この実情に「後から距離をとって批判的に接近」できる戦後-後続世代の一員として、自己批判的反省も籠め、そうなる精神的根因としての「集団同調性を克服して、「論争文化を創り出そう志し、むしろ目的に据え、小生の「戦後責任の一契機として、一貫して追求してきたつもりです。

以上、「なんと窮屈な」とお感じになるかもしれませんが、「戦後っ子」が「何を考えて生きてきたか」の一類型として、しばらく関心を向けてくだされば幸いです。

 

3) そういうわけで、小生には、「将来のヴェーバー研究者」も、「指導的先達」間の「対内倫理」的な「和合」「馴れ合い」「同質化」からは、(「門戸は閉ざさない」としても)生まれようがなく、かりに生まれたとしても、(「難船者」から「境界人」として生きた) ヴェーバーの思想形成と遍歴には、中野氏と同様、考えがおよばず、当然、追跡はできず、「解明的に理解」しようもない、と考えるほかはありません。

では、そういう萌芽はどこにあるでしょうか。

そう問い返しますと、小生は、(1968-69第一次全国学園闘争を機動隊導入-再導入によって強権的に圧殺して復活を遂げた)「旧秩序」の「受験体制」に、すんなり適応して「進学エスカレーター」に乗ってきた「学校秀才」「学界立身出世者academic careerists」ではなく、どこかで当の「旧秩序」「旧体制」と衝突し、(「境界人」ではなくとも)「周辺人die Peripheren」とはなり、そういう「衝突-挫折」体験を、「境界人」として生きる「即人的(ペルゼーンリヒ)」-生活史的契機として捉え返した、「少数派」にはちがいない若者たちのなかから、と期待を繋いでいます。

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4) ところで、マックス・ヴェーバーは、「学問とは、(弟アルフレート・ヴェーバーのいう)文明過程Zivilisationsprozeß』に属し、連続的かつ単線的な進歩Fortschritt』が成り立つ文化領域」として捉えていました。つまり、(「完成への、乗り越え難い達成Erfüllung」も可能な、「文化運動Kulturbewegung」としての芸術とは異なり)、先行説が端的に「誤謬」として斥けられ、「正しい」新説で置き換えられ、乗り越えられていく、そういう意味の「連続的かつ単線的進歩」が成り立つ文化領域であるというのです。ご承知のとおり、晩年の講演『職業としての学問』では、この見方を前提として、「学者たるもの、自分の仕事が、十年、二十年、五十年もすれば『乗り越えられる』と覚悟し、むしろそうなることを『目的』として引き受け(原理上けっして『完成』にはいたらない) 学問に、仕事として専念しなければならない」と説いていました。

しかしそれは、はたして無条件に成り立つテーゼだったのでしょうか。

こういう「学問論」の視座から捉え直しますと、今回の中野著の意義は、じつはこのテーゼに反する事実を、劇的に状況に突き出し、当のテーゼが成り立つ前提条件を問わざるをえない状況を招致して、図らずも、当の問いに「整合的richtig(後述) に答えようとする論争を惹起した、逆説的功績にある、と申せましょう。というのは、こうです。

 

5) 小生は、33年前に刊行した拙著『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(1988、未来社) で、ヴェーバーにおける (「倫理論文」から「旧稿」を経て「世界宗教の経済倫理」シリーズにいたる) 方法論-方法思想の発展を追跡しました。「倫理論文」(1904-05) は、まだ「理解社会学」ではなく歴史叙述ないし歴史論文であり、それがやがて、(1913年の「カテゴリー論文」で初めて方法論的に定礎され、1910-14年の「旧稿」で「決疑論体系」に編成され、1914621日付け歴史家フォン・ベロー宛ての書簡にいう)わたしの解する社会学die Soziologie, wie ich sie verstehe」に媒介されて、「世界宗教の経済倫理」シリーズ (「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」) の広大な諸「文化圏比較」に拡張-展開-深化され、そこで初めて「因果帰属」が方法的に着手される、という発展の大筋を、三主著『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』の核心を相互補完的に読解-総合して、論証し果せたつもりです。そのときには中野氏も、ある読書紙に書評を寄せてくれましたが、それは反論ではありませんでした。

ところが、今回、かれの新著 (しかも「入門」書) を繙き、びっくりして、わが目を疑いました。「倫理論文」がすでに「理解社会学」であると誤認し、ヴェーバー自身の約15年間にわたる、論争また論争による方法の発展は、いっさい無視し捨象し去る、驚くべき謬論が、先行説への批判的論及はおろか、それ自体としての論証による裏付けもなく、いきなり「天下り」に主張され、つまり「旧正論が新謬論によって置き換え」られて、「アルフレート&マックス・ヴェーバー・テーゼ」が真っ向から覆えされているではありませんか。この摩訶不思議な現象は、いったい何を意味し、どう説明されるのでしょうか。

おそらくは、こうです。

「アルフレート&マックス・ヴェーバー・テーゼ」は、じつは、学術書ないし学術専門紙誌に発表されるどんな新説も、発表直後に、各学者が (自分にとって不都合な事実も直視する)「知的廉直 (誠実) intellektuelle Rechtschaffenheitをもって、「剴切gültig学習し、「剴切に論争し、「剴切に」検証して、大筋はけっして忘れない、そういう「知的廉直 (誠実)の不文律を厳守し合っているために、謬論後々まで生き延びたり、新正論の発表後に突発的に蒸し返されたりする余地がない、そういう「論争文化」の十全な定着と機能を前提条件として、成り立っていたのではないでしょうか。そして、マックス・ヴェーバー自身が、まさに「知的廉直の士」で、「論争また論争に生きていた」がゆえにかえって当の前提を「自明」と誤認して疑わなかったのではないでしょうか。このさいは、その後に格段と顕著になった「専門閉塞の度合い」とか、「年々発表される業績総数の多寡」とか、他の諸条件は度外視します。

ところが、その点、「一生に一度も論争しない学者」が、圧倒的多数を占め、「居心地のよい(ゲホイゼ)(蛸壺)に閉じ籠もり」、当の実情を、「内輪」(つまり「対内倫理」の義理人情が優先する「定常」状態)として維持し、論争は「対外倫理」の入による例外的「攪乱」「内輪揉め」としか感得せず、それゆえに忌避し、嫌悪する、この国 (の人文「科学」界一般、また、多くの社会科学界) 精神風土のもとでは、事情が異なってくるのも、不思議ではありますまい。

 

6) さて、いま、中野-折原論争の構図を、(「アルフレート&マックス・ヴェーバー・テーゼ」を上記のとおり批判的に再構成して導入したうえ) 学問という一文化領域における発展の様式ないし機序の問題として捉え直し、「年齢」問題としてではなく、「世代間関係の問題として、簡略に素描してみますと、どうでしょうか。➊「(八十路も半ばを過ぎた) 後期高齢世代」の折原が、➋「働き盛り中老世代」の中野氏に、上記の思想-信条から、意を決して論争を仕掛け、中野氏新著の核心部にある根本的誤謬を、逐一具体的論拠を添えて剴切に摘出し、中野氏の「応答」にも、そのつど「剴切に応答し、反論を重ねている、その学問論争の渦中で、➌ 重田さんや市野川氏ら、「働き盛りの中堅世代」が、(双方との「対内倫理」的-「即人的」人間関係をどこか留めたままでおられるためか)「困った内輪揉め」「遺憾な争い」と、もっぱら否定的に感得なさり、「憂慮」は表明されても、学問論争としての客観的争点にかかわる内容上の論及は控えて、「口を噤んで」おられる、表面上平穏な状態に、可能性としては 「さらに若い後輩の世代」が、まだ名乗り出てはいないとしても、第 世代とは異なり、「人間関係」の制約からは自由に、❶~➌ の所論のいずれにも批判的に距離をとってアプローチできる有利さを活かし、先行各説の正邪を公正-厳格に検証-判定して「単線的進歩」を達成する、あるいはそれとも、(「全体」を普遍的に「代表」すると自認して「全体を争い合って」いる先行の諸説を、じつは「被制約的で部分的」にすぎない特殊な諸所見として「相対化」し、「いっそう包括的で普遍的な体系化中心」から、当の体系の諸要素として「止揚」「総合」していく)「弁証法的進歩」(カール・マンハイム) を企てる、いずれにせよ、後続世代として「批判的に距離をとって臨める」有利さを活かして、この論争にも参入し、先行諸説の内容に内在して批判を徹底させ、やがて学問的に乗り越えていってくれのではないか、と予想され、期待されます。この構図では、❷ 世代が、 の「挟み打ち」に遭うことも、ありえないことではありません。

そして小生は、そういう第 世代に期待し、かれらによって「乗り越えられること」を、ヴェーバーがいうとおり「目的として引き受け」、さらに「乗り越えられ易い」ように、「ここまでは到達したから、あとはよろしく頼む」と書き遺す内容の『マックス・ヴェーバー研究総括』を執筆しています。

それにひきかえ、第 世代の「働き盛り中堅世代」が、所与の人間関係の「対内倫理心情的制約を乗り越え難いのか、それだけ、(学問の「単線的進歩」ないし「弁証法的進歩」を前向きに担おうとし、その基本的要件として)論争文化を創り出していこうとする気概には乏しく、小生の論争提起をもっぱら「人間関係の攪乱破壊要因」と捉えて、憂慮を表明され、「自分はヴェーバー研究者でなくてよかった」と慨嘆なさるようでは、(こちらからもあえて率直にいわせていただければ)「学問論上は本末転倒で、まことに残念」というほかはありません。

 

7) ここで、この論争も一契機・一過程として、今後創り出されるべき「論争文化」の規範的要件ないし準則を、問題として立て、暫定的にせよその設定を試みると、どうでしょうか。そこで、問題が、前稿「中野著評関連論考: 通算その6(720) の最終節に、「カテゴリー論文」から引用しておいた五箇所とも関連してきますので、とくに「整合合理性」論にかかわる ⑶~⑸ をご参照になりながら、その趣旨を展開する続篇として、下記をご検討、ご判読くだされば幸いです。

ヴェーバーは、「解明的理解」を、なにか手当たり次第に、「無手勝流」で進めようとしたのではなく、「便宜上(プラグマーティッシュ)」、もっとも「解明し易い」――「『明証的』に理解できる」――「合理的なもの」から出発し、他方では「合理的なもの」も、「合理的なもの」からの「偏倚」ないし「疎隔」の形態として、いわば「残余範疇」に見立て、「芋づる式に」探り出していこうとしました。

ところが、その「合理的なもの」には、行為者の「主観的目的合理性 Zweckrationalität」と、行為者にも観察者にも「尤もrichtig」ないし「剴切gültig」と認められる「客観的整合合理性Richtigkeitsrationalität」という二範疇があって、話が少しややこしくなります。

そこで、ここでも分かりやすいように、ごく卑近な具体例を挙げるとしますと、学問研究したがって学問論争には、その基本的要件 (「学者の徳目」) として、「知的廉直 (誠実、率直)」が、要請されます。「自分にとって不都合な事実を直視せよ。『然り』『然り』、『否』『否』といえ。それ以外はすべて『虚偽』より出ずるなり」という潔癖の要請です。

ところで、中野氏は、コンピュータ検索により、「倫理論文」と同時期のヴェーバー著作群に「社会学」という表記が皆無という事実に直面して、どう対応し、といったでしょうか。「倫理論文」末尾の「この純然たる歴史叙述diese rein historische Darstellung」というヴェーバー自身の紛れもない表記とは対照的に、「社会学」とは一言もいわない、中野氏には不都合な事実を、ヴェーバーが当時「社会学」の埒外に身を置いて「社会学」を営んではいなかった証左、と率直に認めるのではなく、「社会学にたいする初期ヴェーバーのごく慎重な態度」と「巧みに(目的合理的に)言い換え」ました。そのうえ、それに符牒を合わせ、「当の慎重さを、後に『カテゴリー論文』で解除してお披露目におよんだ』という珍説を主張し、当該論文の表題に付された (当然、方法論論文に限定されている) 文献注でも、経験的モノグラフの『倫理論文』の参照が指示されている」と、こんどは「無理にこじつけて」います。こういう論法は、不都合な事実を直視せず、読者にも直視させまいと、「鷺を烏と言いくるめる(かつて、この国の戦争責任者が「戦を戦と言いくるめた」のと等価の) 廉直・誠実な仕儀ではありますまいか。

ヴェーバーの両「合理性」概念を当てますと、「倫理論文=理解社会学」という登場させた説を、なんとしても維持しようとする「観念的-物質的利害関心」(著者としての「面子」その他)から、主観的には目的合理的」ながら、客観的には (「知的廉直」の準則-徳目に悖って)整合合理的類型」からは逸脱する――とはいえ、「整合類型」からの「偏倚」形態として「理解はできる」――「非合理」的言表に走った、あるいは少なくとも「走りかけて止まれずにいる」と申せましょう。

 

8) ちなみに、この論点を、こんどは(ヴェーバーが、社会学と歴史ないし歴史叙述とを対比的に併記し、双方の異同に論及している)「カテゴリー論文」中の例の五箇所 (前掲「記録と随想28: 中野著評関連論考、通算その6」の最終節に引用)、とくに「整合合理性」概念にかかわる ⑶~⑸ と関連づけて、多少敷衍してみますと、どうでしょうか。

この世には、じつに多種多様な「個性ある」人々が生きています。そして、ある人の「個性に着目し、(欠落事例との比較により) その人の「特性」として捉え返し、際立つように記述し、それが「なぜかくなって、他とはならなかったのか」と問うて、分岐の理由を「かくかくしかじかで」と、「(それ自体としては普遍的な諸要因の) 個性的な布置連関」に遡って「説明」するのが、歴史学の課題です。それに反して、すべての成人に普遍的に認められ、反復して現われる「合理的なもの」の規則性 (法則性) に着目して、(「目的合理性」と「整合合理性」というような) 一般概念と、そのもとに類型諸概念を構成し、「決疑論」に編成しておき、歴史学的な「個性化的」適用による「特性把握」と「因果帰属」にそなえるのが、「普遍化的法則科学としての社会学」の課題にほかなりません。

ところで、中野氏は、「普遍化的法則科学としての社会学」という語彙に、異様に抽象的に拘り、「ヴェーバー自身の用語か、それとも、折原の造語か、いずれにせよ概念を明確に規定せよ。さもなければ『論争』は成り立たない」と固執して止みません。ちなみに、ヴェーバーは、リッカートの術語「自然科学と文化科学」を採用すると、「自然科学としての社会学」といういかにも無理で、誤解を招きやすい表記となるので、そういう「故あって」ヴィンデルバントの用語法に倣ったものと思われます。

ところが、「普遍化的法則科学としての社会学」とは、そんな語彙詮索ないし語義史に耽るまでもなく、いたって初歩的な概念ではないでしょうか。学生時代、たとえば第三年次の学部ゼミか調査実習で、この国のどこにでもある「農村」に反復的に現われている「共同体規制」(法則) という一般概念と、「西南型(農村)と東北型」というような類型概念を、なにほどか勉強し、(そのうえで、望むらくはたとえば「小作争議」が起きた特定の村落を、研究対象として選定し、そういう「争議村」と「争議村」とを歴史的に分けた、諸要因の個性的布置連関を探究する、というような歴史社会学的研究ないし実習にも携わり)そういう具体的題材に即して、「社会学とは何か」「どういう思考方法を採って研究を進めるのか」と多少とも考えた標準的学生には、こと改めて論ずるまでもなく、「普遍化的法則科学としての社会学」といえば、学生時代を思い出して「あ、そうか」と直ちに分かるはずのことです。むしろ、中野氏の執拗で奇矯な抽象的拘りは、(理工系の学生で、学生運動に没頭していたという経歴から) 三年次生クラスの初歩的な基礎経験と学習を欠いた「半分かり」のまま、『入門』を書くにいたった、思いがけない盲点の証左ではありますまいか。

 

9) ところで、客観的「整合性」の規準には、重田さんが重視なさる「丁寧」や「親切」といった標識を立てることもできます。しかし、それらは所詮、「ないよりもあったほうがよい」という相対的-副次的な準則で、「知的廉直 (誠実)」という根本要件にとって代わることはできず、この要件が充たされたうえでの、追加的要請に止まりましょう。

それでは、「知的廉直」という基本的要件を充たせず、(あれやこれやの第二義的諸論点ではなく) 核心部分に誤謬を抱え込んだまま、著書を公刊してしまった著者は、その事態に、どう対処すれば、客観的に整合合理的」に振る舞えるのでしょうか。

この問題は、創出されるべき論争文化の構成要件として、きわめて重要です。しかし、「客観的整合合理性」の問題として原理的に捉えれば、答えは簡明で、自説に不都合な誤謬の事実を直視し、率直に認め、読者に謝罪して、(「入門書」であれば)自著を絶版とするほかはありますまい。これが、「整合類型Richtigkeitstypus」です。

なるほど、現実には「整合類型」は、そうすんなりとは実現しないでしょう。とはいえ、「整合類型」を確定してそこから目を離さないことは、どこでどういう「観念的-物質的利害関心」から、どういう非合理な」逸脱や偏倚が生じてしまっているか、を「明証的に理解-確認」し、予測し、頑強に生き残りがちな謬説の直接-間接の影響 (後者としてたとえば「鷺を烏といいくるめる論法」) に欺かれないためには、ぜひとも必要で、論争文化の根幹をなす準則といえましょう。

他方、もしその著者が、「知的廉直」を回復して、(手続き問題にすり替えたり、内容上、のらりくらりと抽象的弁明を重ねて論争の争点から逃げたりするのではなく)断乎として「整合類型」の行為を実行しえたとすれば、主観的には「目的合理的」な難事に打ち勝つ、画期的な「突破」として、この国の論争文化史に永く栄誉を留めることができましょう。

 

以上で、重田さんご発言の第二点への応答を終え、第一点と第三点に戻り、私見ですが、つとめて「丁寧に」お伝えしたいと思います。

 

折原浩 (202194日記、つづく)

 

 

 

 

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