記録と随想30――市野川容孝氏の(728日付け)投稿に応えて (中野敏男著『ヴェーバー入門』書評関連: 応答 通算8) (813)

 

去る721日付け、記録と随想29「現倫研会員への問い」に、市野川容孝氏が早速、応答を寄せられ (728)、議論のあり方への疑問を提起してくださって、ありがとうございます。それにたいする小生の直截な応答は、730日付けで返信したとおりです(本稿「記録と随想30」では、巻末に付録)。

しかし、市野川氏の疑問は、突き詰めると、「小生がなぜ、マックス・ヴェーバーに拘るのか」という一点に集約されるように思います。そこでむしろ、この問いを正面から受け止め、小生自身の生活史から、内容上は戦後精神史、-思想史の一齣ともなりうるように、率直かつ詳細に、お答えしたほうがよい、と考え直し、以下の一文を草しました。

ただ、小生の側からは、市野川氏に、このフォーラムの組織者ではなく参加者のお一人として、「議論のあり方」という形式面に論点をずらすのではなく、ともかくもテーマとされたヴェーバーの学問、または、そのテーマをめぐる中野-折原論争のこれまでの進捗状況について、市野川氏としての内容上の所見をご披露くださり、論争そのものを先に進めていただきたかった、とは思います。ただし小生、この論争を、この国には欠けている「論争文化」を、今後の試行錯誤をとおしてこれから創り出していく途上の一過程というふうに位置づけています。したがいまして、今回、市野川氏の投稿を契機に内容よりも形式に逸脱した議論が、論争の一方の当事者から、組織者にも論争相手にも断りなく、いきなり持ち出されて、野放図な混同に陥りかけた経緯には、正直のところ、戸惑いを禁じえませんが、「論争のフェア・プレーに慣れていない未熟さゆえの、やむをえない逸脱」と大目に見て、やり過ごすことにしましょう。ただし、小生は、本筋を踏み外さず、市野川氏の問題提起を正面から受け止め、内容的に応答していきます。その内容は、やや多岐にもおよびますが、いずれも、「小生がなぜ、ヴェーバーに拘るのか」という問いへの解答に、収斂していくはずです。

 

1) 小生、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(2019、未來社)にも書き記しましたとおり、1969年から1972年秋までは「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」、1977年から1993年春までは「公開自主講座『人間-社会論』」に(主宰者のひとりとして)参加し、それらを機縁に、多くの学生-院生諸君と親交を結びました。中野氏が後者に協力して運営を支えてくれたこと、また、かれが学生運動に挫折して再起を志していると打ち明けてきて、その面でも信頼関係を結んだことは、かれも書いているとおりです(かれが先に書いたのを受けて、小生も論及します)。

さて、1960-70年代には、全共闘運動にたいする大学当局の機動隊導入-再導入-弾圧強行のため、心身に傷を負い、そのうえ、闘争が(弾圧という外在的要因によってのみでなく)むしろ内部崩壊を遂げて、去就に迷っていた学生-院生が、「悩める若者」の一類型をなしていました。かれらが、(そういう大学当局を公然と批判し、他方、全共闘運動そのものにも一定の距離をとっている「批判的少数派」の教員たちが主宰する)「連続シンポ」「公開自主講座」「(授業再開後の)ゼミ」などに出てきて、各企画の運営を手伝いながら、議論を交え、場合によっては、自分の去就についても個別に相談を持ちかけてくるのは、ごく自然の成り行きだったでしょう。

 

2) 小生のほうも、当初から、若者の信頼に応えようとつとめ、その原則は定めていました。ひとつには、「本人にとって『トラウマ』ともなっている体験そのものについては、こちらから『根掘り葉掘り問い質す』ようなことはけっしてしない、ただ、好意をもって見守りながら、本人自身が、自分の挫折体験を見据え思想に形象化し、(『二番煎じ』を防ぐ手だてを後続世代に伝達するなど)それぞれ任意に活かし、『災いを転じて福となす』のを待つ、そのさい、とくに学究志望の諸君の場合には、学問一般のスタンスの形成と、関連のある専門学科の選定などに、なにほどか役立つように、あくまでも間接的な助言は惜しまない」という原則でした。

じつは、そういう原則の形成に指針を与えてくれたのが、(小生も1950年代、教養課程の学生のころに読んで感銘を受けた)オルテガ・イ・ガセの「難船者の思想でした。「悩める若者」に、それとなく「難船者」の思想を紹介し、各人の苦境が、まさにそれゆえ、独自の可能性を秘めていることに、みずから気がついて、自己対象化と思想的形象化に活かしていってほしい、と祈念したわけです。その点にかけては、「相手のなかに飛び込む『尽力的顧慮einspringende Fürsorge』」と「相手の前で跳んで見せ、実存可能の地平を開く『垂範的顧慮vor- und herausspringende Fürsorge』」というハイデガーの対概念も、参考になりました。

そして、時と所こそ異なれ、「難船者」に固有の可能性を、文字どおり自分の思想形成に最大限に活かした大先達が、マックス・ヴェーバーその人でした。かれと親交のあったヤスパースは、ヴェーバーを「挫折の意義のもっとも豊かな体現者」(趣旨) と評していました。

 

3) ところで、そういう小生の助言が、1960-70年代の「悩める若者」の再起に、どれほど役立ったか、については、もとより過大評価はできませんし、甘い評価はしておりません。ただ、小生のほうから、かれらがその後どう生き、どういう仕事をしているか、そのなかで、若き日の苦難の思想的形象化を達成して、自分の仕事にどう活かしているのか、については、つねに関心を寄せ、見守ってはきました。

そうしますと、そういう思想的形象化を見事に達成していると思える人々が、少なからずいました。それはなにも、学者となって業績を挙げ、あるいは、社会的に有意義な活動に携わって貢献し、若き日の挫折と苦難が実を結んでいる、と確認できるような、表立った人々ばかりではありません。たとえば、学生時代から吃音に悩んで、数十年にわたる試行錯誤の末、本人自身としてはようやく克服し、その経験を一般的な治療法に活かそうと努力している人もいます。

ところが、そういう一方の極から、流動的な漸移関係をたどっていきますと、その対極にあたる類型にも、思いあたります。自分の挫折について、自分のほうから好んで語り出しはするのですが、いつも同じように抽象的で、その切開と思想的形象化には、いつになっても乗り出そうとはせず、かえって「若いころは俺も……」と、なにか「名誉の勲章」をぶらさげている風情さえ窺える人たちです。戦後、ずっと以前から、「学生運動崩れ」に類型的だった現象の、時期遅れの体現者とも見られましょう。

 

4) さて、話がちょっと変わりますが、1960-70年代は、それまでは「正当」と見なされて疑われなかった「学生と教員の伝統的 (師弟) 関係」が、故あって崩壊し、それに取って代わる新たな規範や準則は、にわかには確立されようもなく、各人の要求と模索に委ねられて、ある意味で「何でもでき」、「とんでもないことも起きる」「倫理の空白期」でした。現実が、デュルケームのいう「無規範anomie」「無規制dérèglement」に近づいたのです。

たとえば、ある大学で処分された、ある「造反教官」が、身分保全を求めて裁判所に提訴し、公判が開かれていたときのこと、傍聴席に詰めかけていた支援学生の一団が、「訴訟指揮が気に入らない」というので、裁判長めがけて生卵を投げつける事件が起きました。支援のつもりで傍聴にきていた、隣県の他大学の一教員が、それにはさすがに衝撃を受けて、帰宅直後に心臓発作を起こして亡くなりました。その少し前、当の「造反教官」が身分保全を求めて人事院に公開口頭審理を請求し、小生も支援を求められ、請求者側代理人のひとりとして出席し、処分者 (大学当局) 側と論戦したことがあります。ところが、そのときにも、若者たちは、小生の論証的スタンスが気に入らないらしく、傍聴席から野次をとばし、審理会場内の請求者本人に牛乳とパンを投げ入れ、ともども飲み食いを始めて、公開口頭審理そのものが中止を余儀なくされました。

そういう「奇矯さの誇示」に直面して、小生、「これはいけない。こういう驕りと甘えは、すぐに(たしな)めないと、とめどない頽廃に陥って、闘いを掘り崩す」と予感し、直ちに批判論考をしたため、ある支援団体の機関誌(独語-独文学教員中心の『五月三日の会通信』)に投稿しました。そこでは、そういう「奇矯さの誇示」が「アノミー現象の類型的表現」にすぎないことを、デュルケームからの引用により、また、「若者に迎合する『大人』たちが、若者をスポイルして破滅させる」という戒めを、ドストイェフスキーの警句を引いて、問題として提起しました。ところが、その一文が、(その場には居合わせなかった) 別人の「支援者」(他大学教員)から、酷評され、猛反撃を受けたのです。たとえば、ある「造反教官」は、「学者ですな」と前置きし、「そんなふうに『闘争を妨害する』くらいなら、家で赤ん坊の襁褓でも替えていたほうがよい」と、敵意と憎悪を剥き出しにしてきました。

 

5) さて、そういう「無規範」「無規制」状態では、「自分たちは『崇高な』理念のもとに闘っている」と思い込み、「相手は『不当』で『矮小』にすぎるから、そういう相手になら、あるいは自分たちのように『崇高 (つまりは激烈) には闘えない』『気の弱いシンパ』にたいしてなら、何をやっても許される」という一種の「無律法主義Anomismus」が蔓延り、おいそれとは止められない奔流をなしてしまいます。そうなると、秘かに「これは困ったな」と感ずる良識の人も、「集団同調性」の徒からの「集中的非難」と「袋叩き」を恐れて「口出し」せず、むしろ「ひとり、またひとり、……」と闘争から去っていきます。そのようにして「闘争」は「先細り」します。ところが、「無律法主義」の徒は、そうなるとますます独善の度を強め、「耳目聳動を自己目的とする行動」に出ます。そういう輩を運動の内部で制御することは不可能に近く、運動は自己崩壊を遂げます。そういう人々は、後々にも、自分が陥穽に落ちて、運動を内部から破滅させた、と直視し、思想的に形象化して、「二番煎じ」をくい止めようとは、まずしません。なんでも「言いっぱなし」「やりっぱなし」です。

 

6) さて、社会的闘争の衰退消滅局面とは、どこでも同じようなもので、気の滅入る話が多いのは事実です。しかし、そうばかりとはかぎりません。当初には、自分たちの運動の大義を信じ、献身的に運動を担おうとする善意の若者も大勢いました。ただ、かれらの「善意」は、ともすれば「心情本位」で、ちょっとした「拒絶」や「抵抗」に出会うと、急転直下、全面的な反感と非難に転ずる「脆弱さ」を抱えていました。各人が個人として自律し、それぞれの『責任倫理』に則って、ケース・バイ・ケースに、フェアに論争もすれば信頼関係も結び、つねに双方を両立させようとする「成熟した良識」の持ち主は、ごく稀でした。むしろ、「自分たちの『献身』への『見返り』に、自分たちの『気安い仲間』になれ」と暗に要求し、応じかねると反発して「教官の殻を脱していない」、「専門の業績を優先させている」などと、反感を露わにします。小生が終日、いくつかの報告会・講演会を掛け持ちし、疲れ果てて帰宅し、就眠していても、窓の下まで追ってきて呼び出そうとする人もいました。

当時、小生は、自分の属する大学の全共闘ばかりでなく、全国各地の全共闘系学生や、新左翼系諸党派の「活動家」から、「過剰な期待」を寄せられ、正直のところ、このままでは「身体が持たない」と感知しました。とりわけ、拙宅に謄写ファックスと高速輪転機をそなえて「ガリ版文化」からの脱却 (「合理化」) をはかったことが知れ渡り、「東京伝習館救援会」が機関紙『蝕』の編集-製本-発行所を拙宅に持ち込んで常駐したり、三里塚空港へのジェット燃料輸送のパイプライン埋設に反対する近辺の住民運動の活動家や千葉大生が、ビラ印刷のため、昼夜を問わずやってきて利用したり、他方では、(Booksの会」の手帳に、住所と電話番号入りの「執筆者名簿」が載っていたため) 見ず知らずの人々からひっきりなしに電話がかかってきたり……、家族生活の平常のリズムを維持することが難しくなりました。ことごとに善意をもって快く対応しようとする連れ合いにも、「書斎の静謐」を好む小生にも、無理がつのりました。

 

7) そこで小生、「戦線を縮小」し、若者と付き合う方針を再編成しました。「『何もかも』はできない。やはり一学究として、『学問』の研究と教育に専念したい、ただし、その『学問』は、学園闘争以前に戻るものであってはならない」と、原則は明快に決めました。

「学園闘争以前の学問」とは、まず、➀ 自分が「あるテーマを、なんのために選んで研究しているのか」と問われた場合、応答できずに怒り出す、(1968-69年当時、学生-院生-助手から「バカ専門」と呼ばれた)「没意味ニヒリズム経営」ともいうべきものです。また、➁ 自分の職業現場で「紛争」が発生したとき、自分の専門的「研究」には常日頃用いている、(たとえば、一方の情報を過信せず、他方の情報と突き合わせて真相を探る、といった) 広義の科学の方法を、当の「紛争」の解決に適用して活かそうとはしない、(やはり1968-69年当時、学生-院生-助手から「専門バカ」と呼ばれた)「状況音痴の学知主義経営」です。

小生は、それら ➀と➁ 加え(闘争の「後退局面」で「大人の造反教官たち」の集団同調性に直面し、異議を申し立てた者として) ➂「いざ」というときには「流れに抗して立ち、集団同調性の連鎖を断ち、自分の学問の (主観的) 意味と (客観的) 意義とを、批判的な論証に凝縮させて状況に企投できる、いうなればそういう「貴族的義務(ノブレス・オブリージュ)」も担いきれる、「精神的な強さ」を育成していかなければならない、と考えました。そしてそのために、論争を厭わずフェアな論証に徹する厳しさを、常日頃学問をとおして若者に修得してもらおうとつとめました。尊敬する世良晃志郎氏が、「学問から厳しさが失せたらお終い」と語っておられたのを、思い出します。

 

8) としますと、マックス・ヴェーバーの作品は、そういう の基本方針のもとに、フェアな論争のスタンスを育成する格好の教材でした。かれは、科学論・方法論を、けっして「自己目的」ないし「自足完結的な研究領域」とはせず、そのようなものとして「一人歩き」はさせません。方法論的反省に沈潜はしても、そこで考え抜かれた結論を、かならず具体的な経験科学的研究に還流させて活かしきろうとします。そうできるか否かによってのみ、方法論的反省も評価し、なによりもあやふやな半哲学的・抽象的思弁を嫌いました。小生は、ヴェーバーのそういうスタンスを、重視し、強調し、具体例を示して、若者にも修得してもらおうとつとめました。

ヴェーバーは、「マイヤー論文」(1906) の冒頭で、「解剖学の原理を突き止め、それによって自分の歩行を制御しようとする人は、『ぎこちなく』なって、かえって躓く」(趣旨)と警告し、方法論的反省の副次的・従属的意義と、堅実な経験科学的研究実践の優位、したがって検証可能な具体的知識の意義を強調しました。ですから、かれの方法論上の命題は、かならず、歴史上ないし日常生活上の具体例を添えて経験的に分かりやすく解説されています。

そもそも『宗教社会学論集』に収録された「世界宗教の経済倫理」シリーズが、「分析的経験科学における比較-対照試験論理を、実験的歴史的研究対象に適用する因果帰属とはどういうことか、どんな具体的手続きを踏めばよいのか」の実践例として、構想され、展開されています。ですから、小生がたとえばこの論争(応答: 通算その4)で試みたとおり、かれの「儒教と道教」の全篇を、方法論的反省のそういう具体的結実として、(「客観的に整合合理的」という意味で)明証的に理解」し、再構成し、例証として分かりやすく解説することができます。 そういう研鑚と教育経験を積んで初めて、因果帰属の方法具体的に会得し、「自家薬籠中のものとして」、自分自身の現場の問題的確に応用できるようにもなりましょう。

ヴェーバーの三主著『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』は、そういう相互補完的な関係にあります。ですから、そのようなものとして統合的に解釈し、教材としても交互に参照し、具体的に活用することができます。小生は、三主著の相互補完的・統合的解釈を標語に掲げて、➀ ヴェーバーの歴史-社会学方法論も、「倫理論文」や「旧稿」や「世界宗教の経済倫理」シリーズの具体的内容を、そのつど引用して、具体的に例解してきました。そうしたうえで、➁ 小生自身が、自分の現場の問題に、ヴェーバーの「理解社会学」のみではなく、(東大の医学部や文学部の教授会という特定の「社会的機関」が、ある歴史的時点で発表した個性的文書の記述内容を解明し明証的に理解する)「理解歴史学をもどのように適用-応用できたか自分の現場実践から具体例を引いて具体的に解説しています。拙著『東大闘争総括』は、1968-69年「東大闘争」という歴史的事件で特定の争点とされた『医学部処分』と『文学部処分』との比較歴史社会学的研究記録でもあります。当の学生処分の理由とされた「教官と学生との、ある特定の歴史的状況における『摩擦』『揉めごと』」を、当事者教官と当該学生との、特定の「動機」をそなえた特定の行為の相互連関」として「理解歴史社会学」的に再構成し、両教授会の事実誤認とその踏襲と隠蔽を、方法自覚的に実証しています。

そればかりでなく、小生がそこに適用し、応用したヴェーバーの方法についても注記と解説を加え、当の応用が (「客観的整合合理性」の規準から見て)剴切gültig」なうえ、「経験科学的にも妥当geltendかいなかを具体的に検証する資料も添えてあります。ですからぜひ、そういう方法論上の注記-覚書も拾い出し、ヴェーバー「理解歴史社会学」の方法手順の、手近な応用例として、存分に批判的にご検証ください。

 

9) ところが、世の中には、「ヴェーバー研究者」を自認してはいても、ヴェーバーに倣って、科学論的・方法論的反省から経験科学的研究にいち早く転進し、(自分が生きている周囲の現実の、歴史的に生成してきた) 特定の歴史的対象について特性把握と因果帰属を企て、両者にもとづく予測と、これを織り込む「責任倫理的実践に踏み出そうとはせず、いつまでたっても哲学的-抽象的思弁に耽って、いわば「自分の臍をまさぐりつづけている」「ヴェーバー読みのヴェーバー知らず」もいます。しかも、放っておきますと、そういう退嬰的「種族」の周囲には、生来そういう資質と習癖をそなえ、抽象的思弁に傾いてそれに埋没しやすい、「同種」の若者たちが蝟集し、場合によっては「学派」を形成し、居心地のよい「(ゲホイゼ)」に閉じ籠もり、「シャンシャン大会」の度数は稼いでお互いの「抽象的博識を褒めそやし」はしても、本質を衝く相互批判と論争は用心深く避け合い、よってもって「一生に一度も論争しない『学者』の群」が拡大再生産されていくでしょう。

  ところで、中野敏男氏には、ごく初期から、そういう問題傾向が看取されてはいました。たとえば、「カテゴリー論文」邦訳の比較的よく書かれた解説でも、ヴェーバー理解社会学の意義を、「(社会秩序形成の) 普遍的な文化意義」というような哲学的・抽象的標語に集約して、じつは「お茶を濁して」いました。今回の『入門』とその後の議論では、その問題傾向が、さらにつのっています。大胆にも「倫理論文」を「理解社会学」と決めてかかったのですが、その論拠を「倫理論文」の経験科学的内容を引用して挙示-立証することなく、いわんや、「倫理論文」から「旧稿」を経て「世界宗教の経済倫理」シリーズにいたるヴェーバーの方法自覚的な思想-理論展開を各篇の経験科学的内容に即して検証することもなく、(中野氏に代わって、まさにそうしている)一連の拙稿にも、具体的な反論と反証は示せず、「理解社会学の仕組み」とか「理解社会学の射程」とか、抽象的な標語を翳して「お茶を濁す」ばかりです。「H書」との批判的対決を避けた「付け」として、(じつはそこでやりとりされた)「倫理論文」の内容構成にかんする文献実証的研究成果さえ、フォローしてはいないらしく、おそらくは対ラハファール論争も知らず、そういう不勉強のまま、自分の「思い込み」に、読者、しかも初心者を、誘い込んでしまいます。こうなると、学問上、「『ヴェーバー入門の著者と読者に贈るヴェーバー再々入門」が、必要とされましょう。

現倫研フォーラムに連載された拙稿を通覧された読者には、小生の一連の寄稿の内容が、中野氏の水準に合わせた「泥仕合」に堕してはおらず、中野氏が学問的には応答できない小生の批判に、小生自身が先に答えて、「倫理論文」から「旧稿」を経て「世界宗教の経済倫理」シリーズにいたる方法思想の展開を具体的に跡づけ、『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』三主著の相互補完的・統合的解釈の骨子を提示していること、その意味で、いうなれば格調の高い「ヴェーバー再々入門」の体をなしていること、そのなかには、たとえばインドの「宗教改革」や中国の「小資本主義経営」にかんする「ヒンドゥー教と仏教」や「儒教と道教」の(初心の読者にはおそらくは意外な具体的内容の方法論的意義にかんする (独創的研究論文の初出とも認められうる) 論考が含まれている事実に、気がついていただけたのではないでしょうか。

 

10) ところで、今回、学問上の問題とはいえ、この対中野論争に踏み切るにあたっては、小生にも、生身の人間として「即人的(ペルゼーンリヒ)」には、それなりに苦渋をともなう決断が必要でした。

小生の連れ合いは、この論争に反対しています。「中野氏は、ちょくちょく我が家を訪ねてこられたばかりか、停年退職時の『折原浩の仕事を中間総括する会』(1996323日)も、一昨年の『東大闘争総括』書評討論集会(713日)も、中心となって企画してくださり、長年、信頼関係で結ばれてきた間柄で、こんどは新著の刊行を祝福して当然なのに、なぜ、そんなに批判するのですか。『ヴェーバー研究』がそんなに大事ですか」というのです。

それに小生はこう答えます。「そういう気持ちは、もとより小生にもある。けれども、それにもかかわらず、否むしろ、まさにそうであればこそここでどうしても言わなければならないことがある。それは、(わたしたち自身が「何のために」戦後を生きてきたのか、という問いに答える) 戦後責任の根幹に触れ、この国の学者や思想家が『事実と(ことわり)を規準とする議論論争を放棄して戦争を()められなかった、優柔不断な集団同調性』の克服をめざし、その(よすが)のひとつとして、学問における論争を重視し、みずから実践し、『論争文化』ともいうべきものを育成し、普及させていくこと――この一点にかかわっている。小生が『ただヴェーバーを研究している』のではないこと、それだけではすまされないこと、戦争犠牲者の『あなたがたは、生き延びて、何をしているのか』との問いに、生涯をかけて答えていかなければならないことは、よく心得てくれていよう」と。

 

11) さて、中野氏は、市野川氏への (731日付け) 応答で、論争当事者の一方というご自分の「立ち位置」には無頓着に、フォーラムの開設者・組織者・運営者の川本隆史氏や大川正彦氏を差し置き、論争相手の小生にも断りなく、いきなり ➀「議論のルール」ないし「マナー」を問題とし始め (じつは後述のとおり、事実を曲げて蒸し返し)、➁「『事実』と『論理』は尊重されるのか」などと、またもや例の超抽象的標語を翳して、内容上は決着のついている具体的論点 (「普遍化的法則科学としての社会学」) をこれまた蒸し返し、挙げ句の果て、突如、「健康」と「年齢」の問題を持ち出し、「周囲の皆さまからすれば」などと、「皆さま」に責任を転化しながら、「年寄りの場違いな泥仕合」とか、「高齢ドライバー二人の公道上の自動車レース」とか、品位に欠ける譬えを繰り出し、「皆さま」にも小生にも押し被せてきました。

いったい何が「マナー違反」でしょう。中野氏自身が「健康」上ないし「年齢」上の理由で「もはや学問論争には耐えられない」というのであれば、その旨、組織者の川本、大川、両氏に申し出て、判断を仰げばよい。参加者のひとり市野川容孝氏に訴えようとするのは、筋違いです。川本、大川両氏が判断をくだし、両氏から小生にご提案があれば、小生は受けて立ち、しかるべく応答します。

 

12) とくに上記 点は、黙過できません。

中野氏は、去65日のオンライン合評会で「折原氏によるあまりにも明白なルール違反 (マナー違反) があった」とし、「一つの合評会 (研究会) で、限られた討論時間の中で行われている討論において、参加者に公平に与えられているはずの議論の時間を独占 [!?] し、自説をとうとうとしゃべりつづけた折原氏の態度は、到底容認しがたいルール違反」と断定しています。

そこでまず、大川氏に計時記録をご確認願いたいのですが、小生が「議論の時間を独占」したでしょうか。小生は、評者三人のご発言が済み、その他何人かの方々のご発言もあって、討論に当てられた時間が半ばは経過したと察せられる頃、「中野著には根本的欠陥があるのに、それを衝く問題提起がなされず、この分では、残りの討論時間内にも望み薄で、おそらくは『シャンシャン大会』に終わり、書評会の体をなさない」と予測し、躊躇を振り払って、確かに長広舌を揮いました。ただし、長広舌自体にかぎっては、小生、はっきり自分の非と認め、何回かお詫びしています。そのうえで、その非礼を償う意味でも、(長広舌を要するほかはなかった) 本質的と思う問題点を、こんどは時間に縛られず丁寧に敷衍し、詳細な論考にしたためて、この現倫研フォーラム宛てに、お届けしてきたつもりです。

小生がそれ以前、「ヴェーバー研究会21」や「比較歴史社会学研究会」など、中野氏も含む研究会で、参加者の報告と発言の権利を踏みにじるようなことがあったでしょうか。小生自身としてはむしろ、たまたま報告予定者のご都合がつかなくなって困ったときなど、「穴埋め」に「ピンチヒッター」を買って出たり、討論中に「概念や事項にかんする疑問点」が出てきたときに、(「起承転結」をつけてご説明しようとするため、確かに長くはなりがちでしたが) 解説を引き受けたりし、そのさい、なるべく簡潔に切り上げて、議論の円滑な進行を妨げないように、(とくに歳をとってからは意識して気を遣い) 努力してきたつもりです。

そのことは、中野氏も含む研究会の以前からの知友には認めていただけていると思っていました。ところが、それが思い違いだったとすれば、たいへん残念です。長年の知友には、今回の中野氏発言を、どうお受け止めになったでしょうか。

2021813日記、中野敏男著『ヴェーバー入門』書評関連: 応答 通算9 につづく

 

「記録と随想30」への付録 ――市野川容孝氏の投稿 (728日付け) を受けて、直ちに (730日付けで) 現倫研フォーラムに宛てた「直截な応答」を、以下に付録します。

 

市野川容孝様、皆さま、

メール、ありがとうございます。

ただし、ご趣旨には賛成いたしかねます。

 

小生、この国の学者は、なぜかくも論争を厭うのか、フェアに論争して学問上の真理に到達する自信がないのか、そのため、論争を政治上の争いにすり替え、しばらく日和を見て、どちらが勝つか、様子を見よう、そのうえで、勝ったほうに就こうと、いわば本能政治的に態度を決め、「温厚、人格円満」を装うのでしょう。

ですから、いつまでたっても、論争を通じての学問と論証、したがって論証民主主義の進展はなく、「紛争」はいつも、もっぱら政治的に、暴力的ないし利益-感情誘導によって決着をつけられるほかはないのでしょう。

 

そういう精神風土への反省と抵抗の決意が、小生の戦後人生の出発点でしたし、残り少ない時間ですが、なんといわれようとも貫徹しようとしている価値理念です。

殴りあうのでも、罵り合うのでもありません。あたりまえのことを、多少は辛辣でも、右顧左眄せず、論証していい抜くだけです。

そういう価値理念とスタンスの「意味」については、マックス・ヴェーバーにおける同種の問題にからめて、別稿を期しましょう[本稿]。かれは、若いころですが、「[聞く人の耳に痛い]嫌がられることをいうのが、われわれの学問の使命である」といってのけました。父子の温情や「無差別愛」を、無媒介に、学問的論証や政治に持ち込んではなりますまい。

 

とりあえず、貴兄の迅速な応答に感謝して。

2021730  折原浩