記録と随想3: 1960年代における滝沢克己「原点」論登場の背景と意義 (413)

 

はじめに

本欄「記録と随想1.」では、「『職業としての学問』末尾の『デーモン』とは何か――マックス・ヴェーバーの人生と闘いを支えた究極の立脚点は何処にあったか」という問題設定のもとに、1968年全国学園闘争の渦中における滝沢克己の普遍神学の登場に触れ、これと筆者との (その後における) 一種両義的関係に言及した。滝沢は、当時、学生・院生の発した「『人間として』とはどういうことか」、「『人間の原点』はどこにあるか」との問いに、「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」「インマヌエルの原事実」「ただの人」論をもって正面から答えた。 

  筆者は、滝沢の登場を、(1960年安保」「196263年大管法」の二闘争を引き継ぐ) 196869年学園闘争のただなかで、学生・院生が発した問いに唯一人正面から答える「根のある思想家」の出現、というふうに受け止めた。当時、全国の社会科学者は、学生・院生からの問いに答えないばかりか、まともに受け止めようともせず、機動隊導入による政治的決着に走っていた。しかも、そういう己の姿を「知的誠実性」をもって直視しようとせず、責任をもっぱら相手方に転化し、自己弁解に耽る、いわば総崩れの観を呈していたのである。

  そうした滝沢「原点」論の登場と、その背景ならびに意義について、ここでは、筆者自身の経験に遡って捉え返し、多少敷衍してみたい。

 

1. 筆者が、滝沢を「根のある思想家」というふうに直感したにつけては、教養課程の学生のころ (195456)、ベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(1932年執筆、1936年刊) を読み[1]、冒頭でつぎの一節に出会っていたことと、関係があるように思われる。

「水面にまで浮かび上がっている水草は、たえず流れのまにまに漂っている。その葉は、水面上で絡み合い、その交錯によって、上方で水草の安定を保っている。しかし、その根les racinesは、さらに安定しており、水草を底から支えている大地la terreに、深く、しっかりと根づいている。しかし、ここではまだ、そうした自我の根底 le fond de soimême にまで穿ち入る努力については語るまい。そうした努力が可能だとしても、それは、例外的なものである。ふつうわれわれの自我が縋り付く支えは、その表層部に、外面化された他の諸人格が織りなしている緊密な網の目に自我が挿入されているその接合点にある。自我の堅固さは、この連帯に依存している。」(Les deux sources de la morale et de la religion, 1932, 76. éd, 1955, Paris, pp. 7-8)

当時、筆者は、学究志望の一社会学徒として、エミール・デュルケームやマックス・ヴェーバーといった古典に親しんでいたが、その関連で、ベルクソンのこの比喩の意味はよく分かるように思えた。哲学的命題を立てるにあたって関連のある諸科学をよく研究したというベルクソンは、デュルケームやレヴィ・ブリュールの社会学説にも通じていたにちがいなく、その世界を総体として「根のない水草」の「連帯」に譬え、「静的道徳-宗教」に律せられる「閉じた社会」として限定的に捉え、「底土に穿ち入る例外者」=「神秘家」の「動的宗教-道徳」による「開かれた社会」の方向に展望を開いている、というふうに読めたのである。

 

2. さらに遡ると、そうした解釈の背景には、1935年生まれ世代の戦争-戦後体験があったように思う。この世代には、戦地や空襲で、家族・隣人・級友 (「特別の具体的他者particular others) を失う者も多かった。筆者のように、そうした痛切な体験は免れた者も、無傷ではありえず、内外の夥しい戦争犠牲者 (「一般化された他者generalized others) から、「生き残りの責任」を問われているように感じながら育った。そうした感性には、(戦前の民権論者や社会主義者も含め)戦中に「軍国主義」「翼賛体制」の旗手として国民を啓蒙したオピニオン・リーダーズが、敗戦と同時に、主張内容と思想を180度転換し、論壇に返り咲く姿が、許し難いものと映った。「戦中、決死の抵抗とまではいかなくとも、少なくとも沈黙することはできたのではないか」という疑惑と不信が残り、翻って、思想の首尾一貫性にそれだけ拘ることにもなった。

 

3. いずれにせよ、「かれらはなぜ、『転向』できたのか」という問いが、その後も念頭から離れず、その答えは、「かれらの『生き方Lebensführung』に、流れに抗する』がなかったから」という方向に求められた。当初は「無名の人」として「飾り気なく堅実に」生きていたのに、「世間」の注目を浴び、マス・コミからは「旗手」「有名人」「名士」あるいは「偶像」として持ち上げられ、遇されるようになると、その種の「地位」を維持すること自体が、いつしか自己目的に転化してしまう。そのうえで、時代風潮に変化が起こると、「地位」の喪失に内面的に耐えられず、誘惑に屈して、「時流に阿ねり」「権力に諂い」もする。とすると、そういう現象は、なるほど「戦前-戦中-敗戦直後」といった「激動期」には、それだけ鋭角的に顕われるとしても、じつはそのかぎりではなく、その後の「相対的安定期」における夥しい「戦後転向」 (たとえば清水幾太郎のそれも、「196869年東大紛争」における「名士」教員たちの「総崩れ」) も、本質的には同根-等価ではないか、と思われた。

 

4. ベルクソンの比喩に戻ると、それは一見、「水面を漂って、どんな方向にでも流される根のない水草」と、「底土にしっかり根を下ろして動じない水草」とを、なにかカテゴリカルに二分しているようにも解せる。そこからは、後者は「例外的な『英雄』ないし『達人』」、前者は「群れをなし、互いに絡み合うことで安定を保っているが、原理・原則をもたない浮動的『大衆』」というふうに、人間を二群に分け、互いに実体化して、価値の差等を設ける見地にも通じよう。そうすると、双方の関係 (「大衆」にたいする「英雄」ないし「達人」のかかわり方) についても、「『達人』は『大衆』を、『所詮は縁なき衆生』として『切り捨て』『突き放し』『好きなようにさせる』(放任) か、あるいは、全体としてあまりひどいことにはならないように『権力によって繋ぎ止め、抑えておく』(支配) か、どちらかしかない」という捉え方も出てこよう。別言すれば、「全人類の『みな』が対等の人間仲間Mitmenschen」という前提のうえで、「全人類の『みな』を『達人』の水準に『引き上げ』よう (あるいは、それは無理としても、できるかぎりそれに「近づけ」よう) という発想は、生まれようがない。

 

5. この問題はじつは、ヴェーバー宗教社会学の視点とも、密接に関連していた[2]。「呪術」に発する「宗教」が、「救済宗教性 Erlösungsreligiosität」の方向に発展し、「救済技法Heilsmethodik」が開発され、洗練され、高度化されてくると、そうした技法をみずから体得して「聖化Heiligung」ないし「再生Wiedergeburt」に到達できる (カリスマ的) 資質の持ち主 (「英雄 Helden」ないし「達人Virtuosen) と、そうでない個人 (「大衆Masse) との違いが経験的に歴然と現れる。そうなると、①「ゲマインデ」(この場合は「教団」。一定の制定秩序に媒介された宗教ゲマインシャフト) の内部で、「達人」と「大衆」との関係をどう調整するか、「達人」が「大衆」の日常生活にどう関与していくか、が問題とならざるをえない。そして、②この問題の解決は、宗教ごとに類型 (理念型) 的に異なり、それに応じて、その後のゲマインデ運営と信徒の「生き方」、これに媒介される社会・文化発展一般にも、相応の差異が生まれよう。他方、③当の問題の解決は、これはこれで、それぞれの宗教において追求される「救済財 Heilsgüter(「富」「長寿」「権勢」「威信」「メシアの国」からはじまって「神性との合一」「救いの確かさcertitudo salutis」など)の性質いかんに応じて、類型的に異なってくるにちがいない。

 

6. ヴェーバーは、こうした視点から「世界諸宗教」(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教、仏教、儒教) それぞれの類型的特性にかんする決疑論を展開した。ただ、ここでは、そうした展開を追う必要はあるまい。むしろ、この視点からベルクソンの比喩に逆照射を当てると、ベルクソンは、「根のある水草」(達人) と「根なし草」(大衆) とを、なにか初めから、あるいは原理的に、分けているのではない。かれはむしろ、人間はみな「水草」にすぎないけれども、ただ例外的に、「底土」を覚知し、その厳存を説き、その「促し」や「諫止」に忠実に生きようとする例外的個人もいる、というふうに捉えている。「水面にまで浮かび上がっている水草」も、「その根」(複数) と明記されているとおり、「根無し草」ではなく、やはりちゃんと「根」をもち、 「大地にしっかり根をおろしている」というのである。

ちなみに、ヴェーバーも、この視点から見ると、ベルクソンの側にいたことは、「ゲオルゲ・クライス」の「カリスマ崇拝には反対し、「万人が『自己の審判者Richter』になることこそ、究極の理想」と力説したエピソードからも、窺われよう。

この差異は、一見、些細なことのようでもあるが、じつはきわめて重要と思われる。これを見落とすと、一方に「達人主義」(「エリート主義」) 、他方に「大衆主義」の「過熱」が生じ、双方が「同位対立」の関係に陥り、「傲慢」と「卑屈」とが互いに補強し合う悪循環も、生じかねまい。

 

7. ところで、この区別に照らしてみると、敗戦後日本の思想状況では、圧倒的に「大衆主義」が優勢だった。マルクス主義者を筆頭に、民主主義者も近代主義者も、「大衆主義」に傾き、「大衆は『神』」とはいわないまでも、「大衆こそ『歴史の主人公』である」と唱え、「達人主義」を公然とは語れない雰囲気があった。「達人主義」はむしろ、敗戦後、「実存主義」の解説者に変身して論壇に復帰した旧「京都学派」によって主張され、この関係が、戦後民主主義者の反感を触発し、「大衆主義」への傾斜を助長・補強していた、ともいえよう。社会科学者一般には、ニーチェは嫌われていた。

 

8. さて、筆者自身は、教養課程の学生の頃、同世代者にほぼ共通の思想体験として、「マルクス主義か実存主義か」という問題に直面した。そして、社会学・社会科学志望者としてはどちらかといえば例外的に、 実存主義のほうに共鳴していた。

なぜか、といえば、ひとつには、1935年生まれの「都会育ち」に特有の「戦中体験」として、大都市から地方都市ないし農村に (「集団疎開」ではなく)「縁故疎開」し、疎開先の学校環境に十全には適応できず、どこか「余所者」として遇されたこと、そのうえで戦後、1951年に高校に入学して東京に戻ると、これまた (田舎帰りの)「余所者・外部生」として扱われる羽目になり、そうした (あまりありがたくない)「例外者」的「立ち位置」に置かれて、個人・単独者として生きていくほかはない、と感得したこと、などが思い当たる。そこから、「内部-外部」双方への「過同調」を繰り返しながらも、結局は、所属集団にたいする「周辺」ないし「外縁」の「立ち位置」に居直り、この「窮境」を「逆手に取って」、集団の「内部」過程を「外部」の視点からも観察し、相対化・対象化して捉え返していく「孤立的少数者」(後に「マージナル・マン」) の思考活動に、活路を見出していくことになった。

なお、こうした「故郷喪失」体験そのものは、「関東軍」に見捨てられて荒野を彷徨した「旧満州」(中国東北部) からの引揚げ者や、国内では「転勤族」の子弟にも、前者には顕著に、後者にもなにほどか、通底していたかもしれない。

いまひとつ、教養課程で結成した同人誌『運河』の仲間に、これまた偶然にも、「実存主義」の強烈なアジテーター(現「音の絵文庫」主宰の奈良正博)がいて、大いに煽られた、という体験がある。

 

9. ところで、日本の敗戦後「実存主義」には、「現実存在」が「本質」に先行するという形式的規定から、なにもかも(たとえば「京都学派」の「戦死の『哲学』的意味づけによる戦争協力」や、敗戦直後の「我利我利亡者」の「闇商売」も)「実存的決断」として「正当化」しかねない問題傾向が、顕著に認められた。そこで筆者は、一方では「実存主義」に学んで、集団の圧力に抗する「単独者・個人の決断」を、(みんながそうしているから」といって「正当化」はできない) 各個人の責任課題として、重視するとともに、他方では、決断の内容と、これを規制する規範的要素ならびに当事者としての意味づけも、同等に重視していきたい、と願った。そして、この点からも、「利害関心Interesse」とともに「理念Idee」の意義を強調するマックス・ヴェーバーに注目したわけである。

そのうえで、「マルクス主義か実存主義か」の二者択一も、ヴェーバーによってなんとか架橋・媒介できないものか、と考えた (この問題は、本HP 2014年欄の拙稿「戦後精神史の一水脈 (改訂稿)――北川隆吉先生追悼」で、採り上げ、詳しく論じている)。とはいえ、筆者は、当時支配的だった「マルクスヴェーバー論」(マルクスを主軸に据えたうえで、ヴェーバー著作を「石切り場」「草刈り場」として利用し、その視点や論点を任意に取り出してきては、折衷-補完しようとする見地) には荷担できず、ヴェーバーの厖大な (筆者には未読解としか思えない) 著作に沈潜すると同時に、マルクス以後の思想家・ヴェーバーによるマルクス止揚の側面探り出して、前景に取り出そうとつとめた。そういう論点のひとつに、他とならんで、「カリスマ (的達人) 大衆」(「創造的」対「代表的」リーダーシップ)の問題があったのである。

 

10. また、当時流行した「大衆社会論」も、この問題に関連のある議論だった。そこでは、オルテガ・イ・ガセの『大衆の蜂起 (ないし叛逆)(1930) も、採り上げられ、論評された。しかし、圧倒的に優勢な「大衆主義」から、「オルテガは『大衆蔑視』の『エリート主義』に陥っている」という否定的評価がくだされていた。

ところが、筆者は、それ以前から、『運河』の仲間と、オルテガの『(独訳) 著作集』(全四巻) を読み、ヤスパースやハイデガーのような体系的哲学者とは一味違う面白味を感じていた。後にドイツ史家となる『運河』同人の坂井榮八郎は、『著作集』第四巻に収録された「体系としての歴史」を邦訳して、『運河』に掲載している (この「体系としての歴史」という構想を、坂井は「歴史」に、筆者は「体系」に力点をおいて引き継いだともいえる)

そういうわけで、筆者は、社会学者や政治学者を初めとする社会科学者一般の「大衆主義」的なオルテガ貶価には、とうてい馴染めず、与せなかった。なるほどオルテガは、「エリート (知識人) と「大衆人」とを峻別し、後者にたいする前者独自の意義を強調して止まない。ところが、この二分法は、いわば「人間学的」カテゴリーで、「大衆社会論者」の「社会学的」カテゴリーとは、微妙に、というか大いに、食い違っていた。たとえば「専門科学者」は、オルテガによれば「大衆人」の最たるもので、「専門科学という轆轤につながれた駄馬」とまで決めつけられる。なにかひとつの専門領域で、ひとかどの業績は達成したとしても、そのかぎりで「権威者」として遇されると、唯々としてその気になり、人間としての謙虚さを失って「学者的傲慢akademische Arroganz」に囚われ、(自分では皆目見当もつかない) 他領域の事柄についても「権威者」然と振る舞い、「愚にもつかぬ臆断・憶説」をもっともらしく吐露、披瀝して止まない、というのである。

そういうわけで、専門科学としての社会学や政治学に閉じ籠もった論者が、オルテガに感情的に反撥して、罵倒を返したくなる心意は、分からぬでもなかった。しかし、この「専門人=大衆人」論は、その内容にかけて、じつはその後の「196869年学園紛争」における「専門バカ」論の先駆だった。かりに「大衆社会論」者が、オルテガの「知識人 大衆人」論から「人間学的カテゴリー」としての意義を汲み取って、わが身を顧みていたとすれば、学園紛争にたいする対応も、なにほどか異なっていたにちがいない。

 

11. さて、1960年代の日本は、「戦後精神」がある頂点に登り詰める「疾風怒濤」期だった、ともいえよう。

筆者は、「60年安保」「6263年大管法」「64年ヴェーバー生誕百年記念シンポ」「65年、教養課程における社会学(講義と演習)の開講」とつづく模索を経て(この連鎖とその精神史的意味については、HPの上掲「戦後精神史の一水脈」および2015年欄「1960年代精神史とプロフェッショナリズム」で、追想している)、上記のような思想的背景のもとで、「196869年学園紛争」に遭遇した。

そこでは、教員にたいして、なにか「難しいこと」が問われたのではない。教員が常日頃、各々の専門領域における個別研究をとおして、会得し、習熟しているにちがいない「科学者としてごくあたりまえのこと」、たとえば、甲乙二説の対立に直面したとき、双方を公正に比較対照し、どちらに理があるか、根拠を挙げて判別し、各人の意見を持ち寄って互いに議論し合う、というようなスタンスが、どのくらい「エートス」として身につき、学生処分というような卑近な学内問題にも、適用して活かすことができるか、が問われたにすぎない。とくに社会科学者の場合には、「教員である」という「立ち位置Standort」による「存在被拘束性Seinsgebundenheit(カール・マンハイム) と、そこに派生する「縁故関係Konnexionen」および「利害関心」の制約を、みずから制御して、むしろ一個の科学者として「事実と理」に就き、互いに議論を交わすことができるかどうか、がきびしく問われた。たとえば、敗戦直後には「永久革命としての民主主義」を語ったとしても、その後、自分の「現場の民主化」に取り組み、その実践に社会科学を活かすことができなければ、やはり「灯台下暗し」「安全地帯に身を置く気楽な他者批判の事後評論」の域を出ないとして批判されても致し方ない、というわけである。

ところで、圧倒的多数の東大教員は、そういう「現場問題への『ザッハリヒな』取り組み」ができず、「存在被拘束性」ゆえの「縁故者(責任)意識」と「利害関心」に縛られて、結局、機動隊の導入による政治決着に雪崩込んだ。

 

12. まさにそのとき、そのように総崩れの近代主義者・社会科学者とは鮮やかな対照をなして、滝沢克己が、(九大構内へのファントム・ジェット機の墜落を契機とする) 九大闘争の現場から、「人間の原点とは何か」との問いに正面から答える普遍神学――「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」論、「インマヌエルの原事実」論、「ただの人」論――を携えて、颯爽と登場した。滝沢は、「『神』は万人の足下にきている、それなのに、なぜか人間は『大地』の『根基radix』から遊離し、われひとり立とう延びようという恣の『思い』に囚われ、どこかに『偶像』を立て、縋りつこうとする」、それにたいして、「そういう『思い』を捨て、『大地』に降り立ち、『根基』から『神』を受け入れ、『ただの人』として生きよ」、「それはあくまで万人に可能である」と説いた。そこでは、「達人主義」と「大衆主義」との「同位対立」も、見事に「止揚」されていた。

筆者は、思いがけないところから「根のある思想家」が出現した、と瞠目した。ただ、経験科学的・社会学的思考に馴染んできたひとりとして、「神-人の不可分・不可同・不可逆の原関係」という議論は、いかんせん抽象的で、「これこそが貴君の却下にもきている具体的な原事実そのもの」と力説されても、どこか「腑に落ちず」、むしろ、状況における滝沢師自身の一貫した実践の姿勢と、弓道の奥義にかんして、オイゲン・ヘリゲルを引用する、明快な例解から、その真実性を確信したのである[3]

しかし、滝沢は、マックス・ヴェーバーも、「客体的主体性」論ではない「主体的主体性」論者、あるいは「主観的な『思い』に力点を置きすぎる『観念論』者」と見て、抽象的に斥けていた。筆者は、滝沢から「どうしてそんなに、ヴェーバーに拘るのか」という問いを、いつも投げかけられているように感じて、秘かに困惑した。この点にかんするかぎりは、むしろ「滝沢先生には、経験科学的な状況論がない」という不服と緊張が残った。これについては、後刻,機会があれば詳述したい。

 

13. 滝沢普遍神学が登場する舞台と背景は、もう少し立ち入ってみると、こうも捉え返されようか。

 敗戦後日本の学生運動は、日本共産党その他、政治党派の指導のもとに、「政治の季節」と「学問の季節」との「単純な循環」を繰り返していた。ときとして激しい「街頭行動」や「(反基地) 現地闘争」によって、世人の耳目を聳動し、マス・コミの注目を浴びる「政治の季節」と、「授業料値上げ反対」から「トイレット・ペーパーをそなえよ」にいたる日常的改良要求を「勝ち取って」、党員や下部組織員を増やし、勢力を拡張-温存して、つぎの「街頭行動」にそなえる「学問の季節」との (「螺旋型の弁証法的発展」ではない)「単純な循環」の反復であった。

ところが、1960年代とくに後半に入ると、ベトナム戦争の激化にともない、自民党政権や財界による戦争荷担の構造が、見紛う余地なく可視化されてきた。それにつれて、学生・院生・若手教員の一部には、「何もしないで自分の『研究』や『勉強』に明け暮れていていいのか」、「『拱手傍観している自分』は、『第三者』に止まらず、『無関心』ないし『黙認』によって『戦争荷担構造』を支えている『加害者』ではないのか」という疑念が目覚めてきた。そして、こうした感性的素地のうえに、医療制度の改変 (「インターン制」から「登録医制」への再編成) や、(そうした問題を採り上げて制度改悪に反対する学生・研修生の運動にたいする) 「処分」といった、大学現場小状況の問題も、大状況の「戦争加担構造」とけっして無縁ではなく、当の構造総体の一分肢、その「合理化」「再編」の一環として、互いに関連づけて捉え返されるようになった。「医療(医学部、病院)の『帝国主義』的再編」や「教育 (大学とくに理工系) の『帝国主義』的再編」が問題とされ、「196263年大管法」以降、そうした再編目標を達成するため、大学への権力統制を強化し、大学内にも触手を延ばそうとする「国大協・自主規制路線」が、発進-整備されて、学生処分や機動隊導入という形で発現してきている、という認識も生まれた。

 

14. それ以前の学生運動では、大学問題にかかわるとしても、政治の視点が優先され、「外部 (政府・文部省) の介入から、(内部に『ある』と想定される)『学問の自由』『大学の自治』を『守れ』」というスローガンが「自明のこと」として強調されていた。この図式のもとで、「では、大学現場に、はたして『守る』べき『自由』と『自治』があるのか、あるとすれば、どんな形で、どの程度 ?」といった反問は、(運動の「団結」に「水をさす」かのように感得されて) 公然とは掲げられなかった。そのように、現場の実態を切開せず、いきなり「自由」と「自治」の名分から出発して、既成態を「なんとしても守れ」という発想では、「対外排斥と対内緊密の同時性」(G・ジンメル)法則がはたらいて、大学内部の問題が、とかく隠蔽されがちであった。

実態はといえば、たとえば大学を構成する基礎単位としての「講座制」が問題であった。そこには、一方では、講座主任が「家父長」のように支配権を揮う伝統的権威主義が、暗黙の裡にも根強く残存し、「物言えば唇寒し」の雰囲気が澱んでいた。他方、「教授-助教授-講師-助手大学院生-学部学生」といったピラミッド状の「官僚制」組織(指揮命令系統・昇進昇給順位・ときとして「抑圧移譲」の位階関係)が、いち早く編成-強化され、個々人を「組織維持の自己目的」と「組織内昇進の利害」に拘束していた。そのように、「近代」の「伝統志向性」(デイヴィッド・リースマン)と「近代」の「他者志向性」(同)とが、いわば癒着して、「流れに抗して」も生きられる、精神的に自律した個人の熟成を、二重に妨げていた。学生・院生が、そうした現場の諸問題を、内部から切開し、自由闊達に議論して、そのなかから「自発的結社」を形成していくことは、日常的に難しかったし、「大管法」闘争の渦中でも、「このさいは、そうした『内部矛盾』には目をつぶり、『一丸となって』外敵の攻撃にそなえよう」という「スローガン」や「大義名分」のもとに、かえっていっそう難しくもなったのである。

「ものの考え方」としても、一方に「政府・文部省」、他方に「大学」という「社会制度」ないし「社会形象Sozialgebilde[社会構成態]」を措定し、前者を「加害者」(的主導因)、後者を「被害者」(的受動因) に見立て、両者の「対抗-力関係」を問うという論法が、罷り通っていた。別言すれば、「国家」「大学」などの「社会形象」を、そのように「集合的主体kollektive Subjekte」として「実体化」するのではなく、いったんは、それら「社会形象」を構成している「個々人の『意味をそなえたsinnhaft』行為」にまで分析・還元し、そのうえで「多種多様に秩序づけられた協働行為連関」として動態的に捉え返していくという発想が、なかなか生まれず、生まれても育たず、「流出論Emanationslogik」的思考の制約から脱することが、なお困難であった。

 

15. また、学生運動の担い手が、まさに学生「である」という制約、すなわち、各人の人生行路の一時期だけ一過的に運動にかかわり、学部卒業・就職後には、異なる組織の現場に移り、学生時代のことは忘れる、という前提条件と、これにともなう制約が、大きくはたらいていた。たとえば、学生時代にはアジテーションに巧みで華々しく活躍した「活動家」が、卒業後の現場では、そうもしていられなくなり、場合によっては (持ち前の「権勢欲」をみたすために)「既存の権力」にすり寄り、「権力主義者」に転身して生き延びる、という現象も目立っていた。

ところが、「196869年学園闘争」では、大学院生や助手が、初めて、それまでにない規模で、運動に加わり、自由闊達に発言し、議論し始めた。かれらは、学部卒業後、長期の見通しのもとに、「学問研究」を自分の「使命 (ないし職業) Beruf」と感得していたし、学問的思考の訓練も、それだけ長く積んでいた。その一部は、そうした「使命」をどう捉え、どう担っていくか、現場の経験も踏まえ、自分の「生き方」にも絡めて、捉え返していこうとするスタンスを、それだけ日常的にそなえていた。こうした院生や助手の大量参加は、敗戦後の社会運動史、とくに大学運動史上、画期的なことであったろう。

 

16. そうした与件変更から、「196869年学園闘争」では、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という図式が、大衆的に疑われ、崩れ始めた。学生-院生側(全共闘系)は、①「6263年大管法」反対運動のさい、東大構内の銀杏並木で集会を開いたことにたいする学生処分、②「1967年『登録医制』(『インターン制』再編)」問題にかかわる (第一次、第二次) ストライキにたいする学生処分、③これに反対する「第一次時計台占拠」にたいする第一次機動隊導入、とつづいた事実経過から、1968の夏には、「大学」をもはや「単一の社会形象」とは見ず、「当局・教授会」対「学生総体」、後者をさらに「秩序派学生」対「闘う学生」の対抗関係というふうに捉え返していた。「当局・教授会」は、「国大協・自主規制路線」の大学内「橋頭堡」にすぎず、(196263年大管法」の諸案に謳われ、その後、現実に貫徹されてきたとおり、学生処分と機動隊導入とを梃子に、学生運動の弾圧と封じ込めを目指す) 体制の一環に編入されてしまっている、また、教員はといえば、個人として良心的に振る舞おうとしても、教授会メンバーとしては「国大協・自主規制路線」を末端で担う「権力の手先」として機能するほかはなく、そういう教員が呼びかける「話し合い」や「コミュニケーション」は、「大管法」諸案が明示ないし示唆していたとおり、学生一般を「秩序派」に「からめ捕り」「繋ぎ止め」ようとする「策動」以外のなにものでもないから、「断固排斥する」か、あるいは「さほど敵対しないまでも、幻想を抱いてはならない」というわけである。

この主張はなるほど、1960年代に現実に起きた(学生処分や機動隊導入といった)諸事件を、従来の「『学問の自由』『大学の自治』を守れ」図式よりも鋭く捉え、「すっきりと」説明していた。学生大衆に、少なくとも当初は急速に受け入れられたのも、教員が「いままでの学生運動にはない、ある種の新鮮さ」を感じたのも、まさにそのためだったろう。しかし、思考法としては、①相変わらず「社会形象」を「実体化」する捉え方のまま、「対立」の軸を学内にずらしたにすぎず、②「社会形象」を「諸個人の有意味行為」にまでいったん還元し、それぞれの「動機」を問うたうえで、「多種多様に秩序づけられた協働行為連関」として捉え返し、③(体制「矛盾」が発現してくるという)「流出」論を、これまた「実体化」せずに、いったんは仮説とみなし、学内外における「諸個人の行為連関」の次元で、できるかぎり具体的に検証し、説得的に論証し、他方、④逆に、諸個人の行為から出発し、どう「自発的結社」を創って、どのように社会を変革していくのか、その構想と戦略を練り、当面の闘争(とくに「大学闘争」というひとつの部分闘争)を、そうした展望のもとに相対化して位置づける、といった諸点にかけては、やはり手薄で、「若者特有の抽象的で生硬な議論」の域を出なかった嫌いがある。

しかし、教員、とくに社会科学のプロフェッショナルとしては、若者がいつになく真摯に、立ち向かってきているのであるから、「その問やよし!!」と正面から受けて立ち、もとより問題点も指摘し、そのようにして斬り結ぶなかで、端緒を見つけ、対抗的に相互補完関係・連帯関係を創り出していくべきではなかったか。そこを、「権力の手先」と決めつけられ、建物や研究室を封鎖され、「平和な城内を荒らされた」といって憤激するばかりで、問いかけの内容には(その時点でも事後にも)まともに応答しないまま、相手の欠点や(後に派生した)逸脱行動ばかりを論って「自己正当化」に憂き身をやつすようでは、プロフェッショナルとくに教師として「大人気なく」「なさけない」というほかはない。

 

17. ところで、東大紛争のじっさいの経過においては、医学部講師(つまり、社会科学の専門家ではなく、とりわけ不利益処分の手続きにかんするプロフェッショナルではない) 高橋晄正・原田憲一が、ひとりの被処分学生の「アリバイ」を現地調査によって周到・綿密に証明し、期せずして上記16-②と③)の欠落を補う形になった。

これにたいして、処分当事者の医学部長豊川行平は、1968524日の記者会見で、「『疑わしきは罰せず』とは英国法の常識で、わが東大医学部は、そんな法理には支配されん」(趣旨) と豪語した。これに驚いた新聞研究所助教授荒瀬豊が、『東大新聞』に投稿して問題提起し、「法学部の専門家」の所見表明も求めたが、法学部の教員は (学部の理念ないし本来の設置目的からすれば、処分という不利益処遇の法的妥当性と被処分者の人権保障にかかわることが明白な、この問題に、真っ先に学問上の関心を寄せてしかるべき専門部局の構成員であったにもかかわらず)、誰一人、高橋・原田報告書の追検証にも、荒瀬発言への応答にも、乗り出そうとはしなかった。

こうした実態が、つぎつぎに明るみに出てきて、学生たちの疑問は、ついに従来の一線を越え、「東大は、処分というような例外的非日常的事件にかぎらず、日常的な研究と教育の経営と質においても、問題ではないのか、東大教員の学問は、何のためにあるのか、社会科学のプロフェッショナルは、何のために研究しているのか」と問い糾すにいたった。「東大解体」論-「大学解体」論の先駆となる「こんな東大なら、つぶれたほうがいい」という発言が、19689月の(教員と学生との)青空集会で、かの不在・冤罪処分を受けた一学生・当事者の口をついて出たことは、まことに象徴的であったといえよう。

 

18.東大医学部全学闘は、196834月の「卒業式」「入学式」(制度上の非日常的な儀式) に介入し、この機会を公開討論に切り換えようとした。しかし、これには成功せず、その後、615日、東大本部のある時計台日常的経営の中枢部)を実力で占拠し、封鎖した。ただし、事務室の扉に封印して、内部破壊にはおよばなかった。

ところが、東大総長・国立大学協会会長の大河内一男は、617日、間髪入れずに機動隊を導入して、占拠学生を排除した。「196263年大管法」諸案に見え隠れしていた (学生処分と機動隊導入という) 権力側学生運動対策の二本柱が出揃った。後に明らかにされたところでは、戦後第一代総長の南原繁が、大河内宅に電話を入れ、機動隊導入を使嗾したという。

さて、この第一次機動隊導入をめぐって、当初には、「時計台占拠が機動隊導入を招いた」と称して医学部全学闘側を非難し、「大学の自治を守ろう」という (日本共産党・民青系の) 発想も、なお有力であった。教養学部の一般学生も、当初は、「時計台占拠こそ、機動隊導入を招いた暴挙で、『大学自治』の敵」と受け止めていた。

ところが、その後、別の考え方が芽生えて、全学の世論も、急速にそちらに傾いた。すなわち、「医学部学生の闘いを『対岸の火災』として傍観してきた自分たちの日常こそ、かれらを (かれらにとっては起死回生の) 時計台占拠にまで追い詰めた元凶ではなかったか」「なるほど、建物占拠それ自体は、(前後のコンテクストから切り離して見れば)『暴挙』と難じられようが、では他にどういう選択肢が現実にありえたのか、かれらに『泣き寝入りしろ』とでもいうのか、それよりもなによりも、この自分はどうすればよかったのか、いまどうすべきか」というふうに、当事者の立場に身を置いて、問題を「わがこと」として捉え始めたのである。

かれらがそのように考え、振る舞った背景には、「ベトナム戦争におけるアメリカ軍の暴虐を報道では知りながら、手を拱いて『勉強』に明け暮れている自分たちの『日常』とは何か」という問いかけと懐疑があった[4]。そこに、(ごく身近な学内でも、権力が不当・不法に行使され、不在者・冤罪処分がくだされているという) 高橋・原田報告書の問題提起が、投げかけられ、「これは、放ってはおけない」という気分が、全学に広まっていた。これを素地に、「一般学生」の間にも、急速に広まった考え方は、つぎのとおりと思われる。

「『大学自治』の名分には囚われず、実態を見つめよう。同時に、自分はこの間、何をしていたか、どうすればよかったのか、考えよう。19681月の『春見事件』発生から、事情聴取も経ずに、数週で決められ、20日後には発令された、不在者を含む (高橋・原田報告書によって、少なくともその疑いが濃厚となった) 17名の大量処分 (退学・停学・譴責) を、『何もしないでいた自分』は、事実上追認して支えていたことになりはしないか。自分を含む、こうした無関心と黙認が、時計台占拠と機動隊導入を『まさに招いた』のではなかったか。そうした既成事実に責任をとろうとせず、いままた、傍観者になりすまし、被処分者に『泣き寝入り』を迫っていいのだろうか。

翻って、こうした学内問題は、大状況における『米軍によるベトナム人民虐殺』と『なにもしないでいる自分』との『共扼-共犯』関係と、はたして無縁であろうか。『機動隊導入』の現実は、学内の (『国大協・自主規制路線』の発動かどうかはともかく、『学部自治』という『特別権力関係』における『人権侵害』の疑いが濃厚な) 拙速で粗雑な大量学生処分につづく、不当な権力行使のまさに第二弾ではないのか。自分は、こうした目の前の現実を、いままた拱手傍観して、追認していいのか。むしろいまこそ、そうした『傍観者性』、『(間接的)加害者性』をみずから拒否し、『自己否定』して、医学部全学闘と連帯し、『不当処分白紙撤回』に向けて、共に闘うべきではないか、少なくとも当面、そこから出発して、ベトナム反戦運動にもかかわっていくべきではないのか」と。

このように、ベトナム戦争の激化と反戦運動の昂揚を背景に、大状況と小状況とを切り離さず、しかも自分の「生き方」を後者に関連づけて真摯に問う若者の (「実存主義社会派」的ともいうべき) 思考が、急速に盛り上がり、全学に浸透し、「全学無期限ストライキ」と「封鎖(日常空間の解放)」体制にいたったと考えられるのである。

それでは、そのようにして孕まれた「自己否定」の思想契機が、その後どのように展開を遂げ、滝沢「原点」論とどのように、どこまで結びついたのか。

[2016413日記]

 

[執筆続行の予定でいたが、今回はひとまず、この問題提起で締めくくる。今後、「自己否定」論の当事者による総括が出揃うのを待って、機会があれば、続篇の執筆も考えたい。201727日記]

 



[1] 筆者は、高校時代に、第二外国語として、フランス語の初級文法は学んでいたが、デュルケームやベルクソンの著作は、辞書と首っ引きながら、すぐにも読めた。というよりも、おそれをなしていた原書とは、なんと明快で分かりやすいものか、と自信がついた。それに比べて、マックス・ヴェーバーの原文は、なんとも難解で、教養課程で始めた第二外国語のドイツ語では歯が立たなかった。

ちなみに、筆者がベルクソンの著作を繙いたのは、① 青山秀夫氏が、ヴェーバーとベルクソンとの内面的類似を示唆しておられたこと、② 東大教養学部で、教授会でも本質的な発言を辞さない平井啓之氏が、つねづね社会科学志望の学生に、ベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』を読むよう推奨しておられたこと、とによる。

[2] 当時、英訳E・フィショフ訳)の夥しい誤訳に気がつき、ようやく独文原典の読解を進めていた。

[3] ただ、当時、そのヘリゲルがナチズムに荷担したという事実については、まったく知らなかった。のちに三島憲一から、その件を問題として提起されていたが、つい最近、魚住孝至から、詳しい資料の送付を受け、正面から再考しなければと思った。

[4] 現在の若者にも、「福島、福井などには原発を、沖縄には米軍基地を押しつけ、そういう差別と抑圧のうえに『繁栄』を追い求めてきた『高度経済成長』とは、いったい何だったのか、その後、当然の『バブル』とその崩壊後の低迷を経ても、なお旧来の『豊かさ』に戻ろうとし、原発事故の原因も突き止めず、廃棄物処理の見通しもないまま、原発再稼働に踏み切るとは、いったい何ごとか」との懐疑と捉え返しが、始まっているであろう。