記録と随想29

現倫研会員への問い――中野敏男著『ヴェーバー入門』評をめぐって (折原の応答: 通算その7)  (7月23)

 

 現倫研メンバーの各位には、小生が、現倫研の正式のメンバーでもないのに、中野著にかぎって、なぜ、六篇もの寄稿を連ね、「異様な」関心を示すのか、不審にお思いの方もおられることでしょう。そこで今回は、その点にかぎって、小生からご説明し、併せてこちらからもお尋ねしたいと思います。

ご年輩の方はご記憶かと思いますが、前世紀末から今世紀の初頭にかけて、この国の論壇に「H書事件」が登場しました。東京大学大学院人文-社会系研究科倫理学専攻と同大学文学部倫理学科、はたまた日本倫理学会をも巻き込む一大スキャンダルでした。

H氏は、「旧約外典『ベン・シラの知恵』の二語εργονπονοςを、ルターが事の弾みで beruffと訳し、もっぱらそこから、世俗的職業と聖なる召命との二義を併せ持つBeruf相当語彙が、ヨーロッパ系の『言語ゲマインシャフト』に、それぞれの『ベン・シラの知恵』を経由し、そこを起点として一律に普及したにちがいない」という突飛な妄念 (「唯ベン・シラ回路説」「言霊伝播説」)に凝り固まり、「ヴェーバーは『第一次資料』に当たらず」、「『コリントⅠ』721κλησιςを持ち出して誤魔化した」などと決めつけ、「世界初の大発見」と自画自賛し、なんと『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』と銘打って、論壇に放ったのでした(2002、ミネルヴァ書房刊)。

ところが、この国の「学界-ジャーナリズム複合態」は、H氏の思い込みの激しさと語気の荒さに動転して、度肝を抜かれたのでしょうか。絶賛するか、沈黙するか、どちらかで、いずれにせよ「同位対立」の対決回避に陥ってしまいました。わけても、日本倫理学会が、泡沫コメンテーター群に唱和し、なんと学会賞「和辻哲郎賞」をH氏に授与したのには、驚きました。日本倫理学会は、つい20年前、そのように「H書スキャンダル」に荷担し、その後、うやむやのまま、知らん顔を通し、いずれにせよ責任をとってはいないのです。

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さて、小生、H書の論壇登場後、しばらくは中堅、若手の反応を期待し、見守っていました。ところが、当時文学部倫理学科の助手か院生だった中野敏男氏を含め、ほとんどの俊秀が沈黙を決め込み、あるいは、山之内靖氏のように「自分には、もっと大切な仕事があるから」と、発言責任の回避を正当化する人々も輩出しました。この期におよんで、小生、「これは放ってはおけない、放っておけばいつか『二番煎じ』が起きる、喉元が熱いうちに『警告』を発し、『歯止め』をかけなければならない」と考え、一篇の学術雑誌書評、四点の一般書を世に問いました。一ヴェーバー研究者として、状況への発言責任を果たし、併せて、「倫理論文」の論証構造と、その後の「宗教社会学」への発展の理由と経緯について、分かりやすく解説し、「倫理論文」再入門書として上梓した次第です。よってもって「災いを転じて福となそう」と試みたわけです。

争点は、今回とまったく同様、「倫理論文」をどう読むかの問題だったのですが、いまではそれがすっかり忘れられているようですから、触りの箇所を、下記に引用します。

「先にも触れたとおり、実存的危機からの原問題設定にもとづき、『倫理』本論(・・) (第二章) で対象とされるのは、カルヴィニズムをもっとも首尾一貫した代表例とする『禁欲的プロテスタンティズム』である。しかもそのさい、『関心の

焦点focus of interest』は、当該宗派に属する平信徒大衆(・・・・・)の『慣習倫理的な生き方(・・・・・・・・・)』が、いかなる宗教上の制約によって、ヨーロッパ近代の一特徴をなす『合理的な禁欲』へと形成されたのか――、そのさいじっさいにはたらいたと思われる (教理上の与件から実践的帰結にいたる)『主観的な (担い手個々人の頭ないし胸のなかにある) 意味(・・)連関』を『明証的に (ありありと手にとるように [具象的に] ) 『解明』『理解』すること、に置かれている [ここに下記の注20]。ヴェーバー自身の言葉を引けば、『宗教的信仰(・・)および宗教生活の実践(・・・・・)から生み出されて、個々人の生き方(・・・)に方向を示し、個々人をその方向から逸れないようにつなぎ止めている心理的起動力psychologische Antriebe』を取り出すことが肝要とされる。抽象理論的に要約すれば、教理でなくて信仰と生活実践、理念ではなく経験的現実 (の観念的利害関心)、規範ではなく実態 (格率(マクシーメ)) 、ロゴスではなくてエートス、が問題なのである (『ヴェーバー学のすすめ』、2003、未来社: 30)

20:後にラハファールとの論争 (1910) をへて明らかにされることであるが、『倫理』ではまだ、『因果(・・)連関』の『妥当な(・・・)』『説明(・・)』は、(少なくとも方法自覚的には) 達成されていない。これに向けて、『明証性(・・・) ()そなえた因果仮説(・・)が、(意味(・・)連関』の明証性にかんする『解明・理解された』証拠を添えて) 提出されているだけ(・・)である。意味連関と因果連関、解明 (理解) と説明、明証性と妥当性、といった対句対概念に注意されたい。こういう事情があるから、方法論上も『倫理』を孤立させずに、後の展開のなかで捉え返す必要があるわけである ([マックス・ヴェーバー基礎研究] 序説』、pp. 213-14, 220-21, 262-68、参照)(『ヴェーバー学のすすめ』: 124、太字の強調は今回の追加)

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さて、第四作 『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』(2006、未来社刊)では、H氏を育成した大学院人文-社会系研究科倫理学専攻の研究指導と学位認定に「問題あり」と見定め、一般に公開されている「審査報告書」を素材とし、その内容に即して、具体的に問題を提起しました。もとより、一方的な主張には止めず、責任部局の大学院人文社会系研究科の科長と、倫理学専攻主任の浜井修氏に、研究科の公式ホーム・ページに、この問題にかんするコーナーを特設して、相共に問題の究明と解決に向けて議論しようではないか、と呼びかけました。ところが、研究科長からは黙殺され、浜井氏からは「責任はすべて自分にある、しかしいっさい釈明はしない」という回答が寄せられただけでした。そういう経緯はありましたが、問題そのものは「うやむや」のまま、いつしか忘れ去られたのです。

危惧したとおり、その「付け」が、今回「二番煎じ」として回ってきたようです。今回もまた、このまま「うやむや」にしておきますと、また忘れられたころ、「三番煎じ」が後輩の世代を襲いかねない、と危惧いたしますが、いかがでしょうか。

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もとより、H氏と中野氏とでは、ヴェーバーにたいして、一方はネガティヴ、他方はポジティヴと、一見、正反対のようにも見えます。表現様式も、一方は粗暴、他方は「『博(薄)識くらべと褒めそやし文化』に洗練された慇懃」とでもいいましょうか、たいへん異なってはいます。しかし、思い込みの激しさと、その思い込みがおよばない問題を頑なに拒み思考は怠って機械的に斥け、議論に応じないスタンスは、「瓜二つ」というほかはありません。「H書事件」への荷担の総括を怠った東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻と東京大学文学部倫理学科が、責任回避の延長線上で、無自覚のまま、そういう「学風」を、いまもって育成しつづけている、ということはないでしょうか。

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しかも、「ネガティヴなのは困るが、ポジティヴならいいではないか」というわけにはいきません。『入門』に馴染んだ初心者から、追従者が現われ、拡大再生産されかねません。たとえば、「コンピュータ語彙即決術」が「入門」者に模倣されて普及しますと、それだけ柔軟な概念的-論理的思考力は減衰し、この国の学問水準が下降して、「三番煎じ」に翻弄されるおそれなしとしません。むしろポジティヴィズムであればこそ、本人にとっても読者にとっても、それだけ厄介で有害というべきではないでしょうか。この国の学問水準に責任を負っておられる現倫研会員、とくにヴェーバー研究者に、上記の事情をご勘案のうえ、ご発言いただきたいのですが、いかがでしょうか。

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ご参考までに申しますと、前回の「H書事件」のさいには、北海道大学経済学部の橋本努氏が、所属大学のホーム・ページに、「H-折原論争コーナー」を開設し、厳正に中立を守ってH氏にも、多くのヴェーバー研究者、さらには研究者一般にも、寄稿を呼びかけました。H氏は応答しませんでしたが、多くの研究者が思い思いに寄稿し、内容ある議論を繰り広げました。それは、けっして「折原応援団」のようなものではない、と評され、(H氏が唯一採り上げた)「倫理論文」を中心とはしても、そこからの方法論的-内容的展開を含むヴェーバー作品の諸相に、多面的に光が当てられました。

後に、13人の執筆者による論集が、橋本努・矢野善郎編『日本 マックス・ウェーバー論争――「プロ倫」読解の現在』(2008、ナカニシヤ出版)として、刊行されています。小生も、「H-折原論争コーナー」に連載される諸氏の論考には、そのつど目を通し、随時、批評を寄せました。しかし、分量が突出したため、別途刊行とせざるをえなかった次第です。

しかし、今回は、川本隆史氏の先見の明によって、いち早くこのフォーラムが開設され、メイリング・リストもそなわり、中野氏と折原は論争の口火は切って、すでに形はととのえられています。あと、現倫研会員の皆さまから投稿が寄せられさえすれば、「中野-折原論争コーナー」が動き出したも同然で、この国に欠けている「論争文化の形成と活性化、それをとおしての学問水準の向上に、寄与すること必定と確信いたします。

どうか、よろしくご一考ください。

(2021723日記、折原浩)