記録と随想27――中野氏の応答(618日)への応答(その5(716)

 

去る711日付けの「応答 (その4)」で、「倫理論文」を「理解社会学」作品と決めてかかる中野氏の主張は、すべて根拠を奪われて破滅したといえましょう。当の主張そのものが、ヴェーバーにおける思想発展の追跡は怠り、いきなり『宗教社会学論集』(1920) に飛んで、「倫理論文」が第一作に配置されているのは「理解社会学だから」と速断するや、こんどは突如、「理解社会学のカテゴリー」(1913) の表題注に舞い戻って、「その方法論文献引用中には (経験的モノグラフの)『倫理論文』も含まれる」と強弁するなど、無系統に取り出した外形事実を、意味解明は怠ったまま、「思い込みの結論」に短絡させる、およそ学問的論証とはいえない代物でした。

そういう議論に、相手と同じ平面で付き合ったのでは、いたって不毛です。そこで、小生は、学問的論証の水準は堅持し、中野氏が挙示した外形事実を、議論の与件としてひとまずは受け取っても、中野氏のように「思い込みの結論」に短絡させるのではなく、当時のヴェーバー本人側の思想-学問変化と、それを受け止める読者側の状況変化とのなかに戻して、考察を凝らしました。そのようにして、「倫理論文」の配置も、「カテゴリー論文」表題注の文献引用も、ヴェーバーがそれぞれに籠めた意味を、関連文献の引証にもとづく解明によって、正確に理解し、かれの科学論-方法論の展開に即して捉え返そうとつとめました。

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「倫理論文」(初版、1904-05) は、「禁欲的プロテスタンティズム」と「資本主義の精神」との「因果関係追究」の域を出ず、『因果帰属』の体をなしてはいません。ヴェーバーは、「倫理論文」発表後F・ラハファールから(ヴェーバー死後にはR・アロンからもその趣旨の方法論的抽象的批判を受けました。ところが、ヴェーバーは、ラハファールの批判を、かれらしく正面から受けて立ち、「分析的経験科学の因果帰属の論理」に適う方法の模索と、その方法の (経験科学としての) 具体的適用と実現に向けて、系統的に努力を重ね、批判者当人以上に活かそうと苦闘したのです。まさにそれゆえ人類の協働生活総体普遍的把握をめざす「一般化的法則科学」として、(当時のドイツの大学では、まだ正式の講座として認められ、制度化されてはいなかった)「社会学」に着目し、みずからその担い手となって再編成につとめ、「カテゴリー論文」(1913) 第一部で「方法論的定礎」、第二部で「基礎カテゴリーの定立」を達成しました。「もともとそなえていた」ものを「お披露目した」などという呑気な話ではありません。

「旧稿」(1910-14) では、当のカテゴリーを具体的に展開し、宗教を含む生活領域の類型的分化発展を展望し、類-類型概念群を「決疑論」に編成して、因果帰属に必要な「文化圏比較にそなえました。そうするなかで、「禁欲的プロテスタンティズム」も、「倫理論文」におけるように、一研究者ヴェーバー個人の「価値関係」にのみ依拠して、独話論的に「知るに値する」研究対象として抽出され、「孤立」したままに止め置かれるのではなく、「宗教と社会の普遍史的関連」のなかに移し入れられ、そこで「現世内禁欲」と類型的に規定され、それのない――というよりも、宗教倫理が、「現世適応」や「遁世的瞑想」といった、「現世内禁欲」とは異なる方向に発展を遂げた) 他の――諸「文化圏」と、(他の諸要因は「一定」ないし「有利」に制御して)比較-対照され、そうして初めて、因果帰属への準備がととのえられたのです。そういう「文化圏比較を、中国、インド、古代パレスチナについては実施しながら、急逝のため、完遂されなかった労作が、「世界宗教の経済倫理」シリーズにほかなりません。

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しかも、ヴェーバーは、そのようにして他「文化圏」との「比較の観点」をつとめて網羅的に取り出し、それぞれの因果的意義を推認したうえで、もういちど、あるいは、いよいよ準備周到怠りなく、「西洋的発展の分析」という歴史研究に立ち帰って、「因果帰属をまっとうしようとしていました。「世界宗教」を生んだ複数の「文化圏」を射程に入れて伸びきった兵站線を、元に戻し、ホーム・グラウンドで、緻密な最終作戦を敢行しようとしていた、ともいえましょう。

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中野氏は、「倫理論文」から「旧稿」をへて「世界宗教の経済倫理」シリーズとその後にいたる、ヴェーバーの方法思想と研究構想の変遷、ならびにその具体化を、対ラファハール論争その他の触発契機も含めて、歴史的に追跡したのでしょうか。そういう変遷の機軸をなす「分析的経験科学における因果帰属の論理」とは何であるかを、的確に把握していたでしょうか。小生の批評にたいするこれまでの応答からは、双方を欠いているとしか、見られません。とすれば、歴史学の観点からも、他ならぬ「理解社会学」の観点からも、ヴェーバーの学問を論ずる資格はない、と断ずるほかはありますまい。中野氏が早く、学問の基本に戻って立ち直るようにと、切に祈念します。

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さて、小生は、「倫理論文」から「旧稿」をへて「世界宗教の経済倫理」シリーズ (その後の研究構想) にいたる、ウェーバーの方法思想の発展、ならびに学問構想とその実現の経緯を、以上のとおりに要約して提示しました。

ところが、長年の経験から、ヴェーバーの科学論・方法論については、「分析的経験科学の比較-対照試験の論理を、非実験的歴史的対象に具体的に適用する『思考実験』」というふうに、抽象的・一般的に規定して示しただけでは、およそ理解されないか、「うろ覚え」の域に止まり、的確に捉えて応用に踏み出すことは至難、と熟知していました。そこで、老婆心ながら、たとえば「ヒンドゥー教と仏教」や「儒教と道教」を、それぞれの内容構成と論理展開に即して、「因果帰属の論理」の具体的適用例として解説し、分かりやすく示そうとつとめたつもりです。

ところが、中野氏の「応答」は、コンピュータ検索によって抜き出したいくつかの語、「語」の詮索も抜きに、自説に好都合に結論づける、およそ学問とは似ても似つかぬ代物でした。そこで、小生としては、この不毛な応酬を、「.『プロ倫』は理解社会学ではないのか ?」という (おそらくは自信たっぷりに、真っ先に発せられた) 批判的問いかけに、以上のとおり応答しきったところで、もはや益なしと切り上げてもいいのですが、かれはなお、「コンピュータ語彙検索即決術」の水準で、「もっともらしい抽象論」は繰り広げ、小生への「論難」をつづけています。そのひとつとして、「倫理論文」は、ありもしない「理解社会学」に引き伸ばし、「世界宗教の経済倫理」以後の「西洋的発展の分析」計画は切り詰めて、文字どおり「理解社会学」という「プロクルーステースの床」を設えている御本尊が、どういうわけか、小生を、「理解諸科学」という「プロクルーステースの床」を設えた、といって非難しています。「人間誰しも、他人のことは分かっても、自分のことは分からないものだから、『他山の石』とせよ」ともいわれますが、あまりにもひどい場合には、相手の水準で対応して撃退し、「己を知らしめる」ことも、学問論争として回避されてはなりますまい。

そういうわけで、以下、簡潔に問題点と応答を列記していきます。

 

[2021716日記、つづく。折原浩]