記録と随想26――中野氏の応答(617日)への応答(その4(75)

 

[承前: 5. を受けて6.]

. ここで、『宗教社会学論集』が、なぜ、歴史社会学論集』と総称されなかったのか、という関連問題を採り上げ、一考しましょう。

『論集』の主要部をなす「世界宗教の経済倫理」では、ヴェーバー自身が「序文」に明記しているとおり、「関心の焦点focus of interest」は宗教経済との「因果関係」に据えられています。しかし、それ以外に、政治-支配体制法制も、「副テーマ」ともいえるほどに重視され、「観察と考察の範囲scope of observation and consideration」には取り入れられ、多くの紙幅を割いて論じられています。

では、それは、なぜでしょうか。どういう科学方法論上の根拠から、そうなるのでしょうか。

なんども繰り返しますが、「分析的経験科学における因果帰属の論理」によれば、厳密な因果帰属X-Yの因果関係の確定)には、他の諸要因はことごとく一定に制御したうえで、「問題の条件Xないと、結果Yは生成しない」という実験観察を試みなければなりません。ところが、歴史的な研究対象については、(条件X以外は一定に制御した「対照群」を設定し、「実験群」にだけXを投与して経過を観察し、双方の結果を比較する、たとえば、薬効検定における「二重目隠し対照試験controlled study under double blindness」のような)、文字どおりの「比較-対照試験」は、もとより実施できません。

ところが、それではもう「御手上げ」なのかというと、そうではありません。次善の策として、できるだけ多くの対照群」につき、X以外の諸要因を採り上げて観察し、それぞれがの生起に「有利」だったか否かを、「一般経験則(社会学的な法則的知識)」に照らして判定し、「それらはいずれも有利であったけれども、唯一、Xが欠けていたため、生起しなかった(あるいは、生起の客観的可能性・シャンス・確率が格段に落ちた)」と推認できれば、そのかぎりで、「の生起にはが必要であった」と判定され、相応に妥当な結論が引き出されましょう。しかし、そのためには、「対照群」として、できるだけ多くの「文化圏」を射程に入れ、文化諸領域中、宗教以外の他の諸要因をも、できるかぎり網羅的に観察の範囲には取り入れ、結果の生起に「有利か」否か、やはり「一般経験則」に準拠して検証しなければなりません。ヴェーバーは、「比較宗教社会学試論」という副題のついた「世界宗教の経済倫理」シリーズでも、「因果帰属の論理のそうした要請に則り、中国、インド、古代パレスチナ他の諸「文化圏」について、最大限に網羅的なそういう検証をじっさいにおこなっています。『論集』「序文」冒頭に書き出されている、文化諸領域別に見た、各「文化圏」の特徴的所産一覧も、そういう網羅的な検証の成果にほかなりません。

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しかしここでは、「因果帰属の論理の、そういう具体的適用例のひとつを、こんどは「儒教と道教」から取り出してみましょう。

18世紀以降の「中国文化圏」では、宗教領域以外の諸条件-諸要因について見ると、「西洋文化圏」と比較しても、たとえば、➀ 清朝三賢帝のもとに「平和化Befriedung(「天下泰平」) が達成され、➁「三角貿易」によって大量の銀塊が流入し、「バンコ本位」貨幣として流通し、私人の手中に集積され、➂ 金銭欲は旺盛で「反貨殖主義」の桎梏はなく、➃ 交易を妨げる荘園制的・封建制的障壁もなく、➄ 交易路や内陸河川などのインフラは中央政府によって整備される……など、「市場に準拠する資本主義」の発展にはいたって有利でした。他方、当時未曾有に増加した人口についても、➄ 移住・転職・生産方法などにかんする (インドの「カースト制」やロシアの「ミール制」には見られた) もろもろの制約-桎梏は皆無で、「プロレタリア(賃労働者)化」も容易に起きえようという情勢でした。ところが、(古くからそれ自体としては発展を遂げていた) 都市の手工業は、単独の小親方経営のほか、(中央販売所をそなえ、中継仕事場には熟練工を配して、末端の家内副業労働を一定程度は組織化する)「小資本主義的-仲間団体的営利ゲマインシャフトkleinkapitalistische genossenschaftliche Erwerbsgemeinschaft」にまでは発展を遂げましたが、その域を越え、「問屋制」支配から「マニュファクチャー」をへて「工場経営」にいたる(西欧型産業資本主義の)発展は生じず、零細親方経営の夥しい増加に帰着するばかりだったというのです。経済上は、多額の出資をし、販路にも通じた、中央販売所の商人が、伝統的な利得」と同業者との伝統的・牧歌的和合」に甘んじていないで、注文を待つ受け身の対顧客関係を改め、末端の家内工業への統制も強化 (所定の納期・品質などの強制によって労働規律を植え付け)、「企業経営者」にのし上がり、やがては、家内労働者、中継仕事場の熟練工も中央販売所付設の工場に収容して一括支配し、他方、同業者にたいしても、市場競争を通して「淘汰」されたくなければ、同種の刷新を余儀なくさせるか、あるいは、賃労働者に追い落として雇用するかして、「問屋制からマニュファクチャーをへて工場制大経営へ」の発展が容易に達成されるはずでした。ところが、そういう「刷新」に着手し、「伝統」の側から反撃を受けても、そのつど克服して、着実に「合理的経営」を担い、発展させていける、そういう「生き方」に徹する「人間主体」が、育ってはこなかったというのです。

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では、それは、なぜだったのでしょうか。ひとつには政治-支配体制(の領域)、いまひとつには、法制(の領域)における諸条件が、相互補完的に連動-協働して、阻止作用を果たしていたように見受けられます。

中国の政治-支配体制は、「秦漢帝国」以降、「家産官僚制」として確立し、それ以前の「春秋戦国期」には諸侯国間を自由に遍歴できた」知識層も、帝国の統一的位階秩序に編入され、官位を争う「官紳(マンダリン)」に転化していきました。「官吏」の補充は、(晋以後)「科挙」制に「合理化」されます。

「家産官僚制」的中央政府の頂点には、「(雨乞いのような)呪術カリスマ」に淵源する「教権」と、「英雄-軍事カリスマ」に由来する「俗権」とを、一手に掌握する「祭司長 (最高祭司)「皇帝教皇」の 天子 が立ち、「真正な即人-個人カリスマ」の担い手として、「失政の責任」を問われて「失脚」するリスクは抱えながらも、「官紳」の補佐のもとに、(異民族出身の征服者も)「天」を祀る儀礼を遵守し、「倫理上厳正な徳治」を怠らないかぎり、「正当な」天子として受け入れられ、長年、精神的な一元支配を継続できました。

一方、社会の底辺に根を張り、「家産官僚制」の中央政府と貢租をめぐっては対峙しつつも、対抗的相補関係-互酬循環構造を形成して隠然たる勢力をなした社会団体が、家父長制的「氏族Sippe」でした。その「自給自足」体制によって「商品市場」の成立が阻まれ、その「血讐-救難-連帯義務」に支えられた「プロレタリア化」への抵抗によって、労働市場の成立とそれを介しての労働規律の強制が妨げられたのは確かでしょう。しかし「氏族」は、それ以外にも、さまざまな社会的機能を果たしていました。父母にたいする「孝悌」を社会の元徳として培い、長老・長上・上官などへの「恭順Pietät」に拡張する一般徳育機能と、私塾を開設し、一族中から有能な子弟を選抜し、(科挙に合格しても仕官できない)「読書人」を教師に雇って、古典を学習させ、科挙受験にそなえ、合格すれば支度金 (や「買官費用」) を工面して仕官させ、官職位階上の「出世」に一族の栄誉を賭ける特別英才教育機能などです。とりわけ、後者は、他の「文化圏」と同等の素質と能力はそなえた若者(「エリート候補生」)の関心と野望を、初めから「官紳としての立身出世とそれにともなう役得」の軌道に乗せて押さえ込み、(伝統的な均衡と和合を破砕して、「霊魂の平安」をかき乱し、「君子不器(人間性の全面発達)」を危うくしかねない)「経営刷新」などには見向きもしない人生へと導いたにちがいありません。

そういうわけで、ヴェーバーは、「中国文化圏」について、「儒教と道教」第一~四章「社会学的基礎」で、宗教倫理以外の諸要因につき、(やや無系統的ながら)都市、諸侯、神観、国家、行政、農業制度、自治、法制、資本主義という順序で、網羅的な検索を重ね、政治支配体制という要因を探り出し、浮き彫りにして、その意義を突き止めました。それと同時に、第五章以下で、(その政治-支配体制とは互酬循環関係に入り、「現世志向」ながら「現世への調和的-審美的適応」を称揚する「正統儒教」と、(「天」の「無償の恩恵」という前提は儒教と共有しながらも、「無為」という極論を引き出して、官吏の「作為」「善政」を嘲笑う)「異端道教」との対抗的相補関係のもとでは――、つまり、「現世志向」ながら、「現世を拒否」し、その改造成果に、個々人の「救済 (確信)」という心理的プレミアムを懸ける「禁欲的プロテスタンティズム」のような「現世内禁欲」がなかったところでは――、(宗教倫理以外の諸領域では、上述のように、いたって「有利な諸条件が出揃ったにもかかわらず) 産業資本主義的経営が自生的には発展しなかった、という「因果帰属」に到達します。

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ところで、「家産官僚制」という政治-支配体制は、他方、「即人的家父長的温情支配」という本質的属性をそなえ、「官吏の法律家的訓練」と「法律家による法の形式的合理化」は嫌って避け、その結果、たとえば固定設備に投下された経営財産を支配者の恣意的「追い立て」から保護するというような強制保障の機能は発揮できません。この点にかけても、「家産官僚制」による政治-支配体制の壟断は、産業資本主義経営の発展に有利な条件とはならず、(ここでは詳述しませんが)そうなるには、「実質的合理化」に傾く支配者に「形式合理化」をいやおうなく受け入れさせる独特の勢力配置-諸要因の個性的布置連関が必要とされました。

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さて、「儒教と道教」では、ヴェーバーが、ただ漫然と「理解社会学」を適用したのではなく、「非実験的研究領域としての歴史に、分析的経験科学としての『因果帰属の論理を適用して、どうすればよいか、どこまでいけるのか」という科学論方法論上の自覚を踏まえて、思考実験を厳格に実施した結果、以上のように、法制を含めた政治-支配体制という領域の意義に直面したといえましょう。とすれば、ヴェーバーのような人柄の人は、その研究成果を、その後の「文化圏」比較による因果帰属に、どう採り入れて活かしていけばよいか、と翻って方法論上・科学論上の反省と思考も凝らし、研究の態勢をととのえにかかったにちがいありません。

その現われのひとつとして、「世界宗教の経済倫理」シリーズの本論に読者を導き入れる直前、(「旧稿」で展開した宗教社会学上の視点と類-類型概念を、ほぼ網羅的に、極限的に圧縮して読者に伝えようとした)「序論Einleitungのおしまいのところに、「(その後に配置される) 本文に頻繁に出てくる術語について、定義の繰り返しを避けるために」と称して、「カリスマ的」「伝統的」「合法的」という「正当的」支配の三類型や、「政治ゲマインシャフト」の「下位単位(サブ・ユニット)」をなす「身分」と「階級」といった「基礎中の基礎概念」に、簡潔ながら明快な定義をくだして、読者の読解の便をはかっている事実が注目されましょう。

そういうわけで、『宗教社会学論集』本文の実質的内容は、「関心の焦点」たる「宗教社会学」の枠からは、上述のとおり故あって、「観察と考察の範囲」内には溢れ出ており、ヴェーバーもその事実は、「序論」への「政治支配社会学定義集」の追加によって、そのかぎり対外的にも認めていたといえましょう。しかし、かれ自身は自分の仕事にたいする並外れて謙虚なスタンスから、自著の表題にかんするかぎり、「羊頭狗肉」をおそれ、厳格に「関心の焦点に限定した、『宗教社会学論集』という、ごく控え目な表題を選んだにちがいありません。

ですから、この問題にかんしては、小生は、『宗教社会学論集』という表題の信憑性に異議を唱えているのではありません。そうではなくて、「儒教と道教」には「中国の宗教The Religion of China」、「ヒンドゥー教と仏教」には「インドの宗教The Religion of India」というような、教理学とエートス学との区別もなく、「関心の焦点」と「観察と考察の範囲」との区別もなく、そもそも「宗教社会学」にさえ関心のない、ただ「異文化圏の宗教にかんする書籍」くらいの意味しかない呼称が、正式の英訳名として大手を振って罷り通っている、なんとも「科学論・方法論」的な学問思想状況で、それにもかかわらず、(科学論的反省を経験科学的研究に十全に活かそうと構想し苦闘した)ヴェーバーの遺稿『宗教社会学論集』を、もとより著者としてではなく後続世代の別人研究者の見地から、そういう学問-思想状況で最大限活かそうと思案するとき、いっそ(かれ自身も「政治-支配体制」には特別の注意を払っていた)「観察と考察の範囲」のほうを規準として採用して、「比較宗教史-政治史-法制史社会学」、「比較(連字符)文化史-社会学」、さらに全範囲に拡大しても呼称としてはむしろ簡潔に、「比較歴史社会学」と呼ぶのが至当ではないか、と考えるにいたりました。小生としてそう、「責任倫理」的に決断したつもりです。

また、今世紀初頭の、この国の思想状況一般には、「ヴェーバーの科学論は『理解社会学』に収斂する」、あるいは、「かれの経験科学は『歴史研究から社会学へと段階的に移行』し、歴史学は無用になり、社会学の素材集めに格下げされた」という趣旨の誤った一面的解釈が出回り、その風潮が、いっとき優勢にもなっていました。小生は、それは、ヴェーバーにおける「現実科学」的ないし「歴史科学」的契機を貶価し、翻っては歴史学者と社会学者との相互疎隔を招きかねない、負の状況要因と感得し、『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』(2007、勁草書房) を上梓し、「社会学は歴史科学研究の基礎的予備学Vorarbeit」と位置づけて、一面的解釈の是正につとめました。

現役の歴史学者で、社会科学基礎論ないし社会学にも関心を寄せている水林彪氏や小路田泰直氏と研究会を開くなど、相互交流の機会をつくり、その拡大につとめました。そうするなかで、当初には「比較法制法思想 (社会学) 研究会」と名乗っていた、開放的な集いが、自然の経過のなかで、いつのまにか、なんの抵抗もなく「比較歴史社会学研究会」と改称され、参加者も着増し、現在にいたっていることは、周知のとおりでしょう。「関心の焦点」を規準として、狭く「比較宗教社会学研究会」と名乗っていたのでは、おそらくそうはなり難かったのではないでしょうか。

いずれにせよ、この問題は、ヴェーバー自身が、「世界宗教の経済倫理」シリーズを、「関心の焦点」を規準として「比較宗教社会学試論」と呼んだ、謙虚な事実の「意味」は重々認めながら、それとは区別して、かれのそういう労作をわたしたち自身が今後どう継受し、活かしていくか、というわたしたち自身の学問実践の「責任倫理」にかかわるコンテクストで、捉えたいところです。そうすれば、分析的経験科学における因果帰属の論理を、実験はできない歴史研究に最大限適用し、活用しようとするさい、「関心の焦点」以外の諸要因も網羅的に採り上げて思考実験を試みなければならない、という論理必然性から、ヴェーバー自身も「観察と考察の範囲」を、少なくとも「政治-支配体制」と「法制」には拡大していた事実に注目して、そういう科学論上の意義から目を離さないかぎり、「比較-(連字符) 文化 () 社会学」、簡略に「比較歴史社会学」と呼び換えることも、許され、奨励されましょう。

 

 

7. さて、ここで、「倫理論文」を「理解社会学」と決めてかかる中野氏の主張の「拠り所」のうち、「倫理論文」が『宗教社会学論集』の第一論文に配置された外形事実にしがみつく第一点への反論は終えて、第二点、すなわち、1913年「カテゴリー論文」の表題 (に付された) の問題に移りましょう。

  問題の表題注は、『ロゴス』誌に掲載された論文では、「ジンメルの (……) 叙述と私が以前 (シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』第二版に) 発表した論文の他、リッケルトの(『限界』第二版における)覚書とK・ヤスパースのさまざまな著作 (とくに現時点では、精神病理学総論) を参照されたい」 (/12: 389、海老原・中野訳: 6) と書き出されていたようです。ところが、その原論文が、『科学論集』の初版 (1922年、モール社刊: 403-450) に収録されたときには、(シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』第二版に) と記された箇所が、(それらはこの巻に収録されている) と改められました。海老原・中野訳は、この改訂をフェアに注記しています (巻末最終ページ事項注: 1(2) )

ところで、そうなりますと、問題は、ヴェーバーがそのように注記して読者に参照を求めている論文とは、何と何を指すか、ということになりましょう。シャモラー『年報』に発表された論文が「ロッシャーとクニース」を指すことは、まず間違いありますまい。問題は『アルヒーフ』に発表された論文ですが、こちらも「客観性論文」、「文化科学の論理学の領域における批判的研究 (マイヤー論文) および「シュタムラー批判」の三篇を指すであろうことは、『科学論集』初版と『全集』版の編纂者とともに、異論なく認めていいでしょう。

ところが、そこに、『アルヒーフ』に以前に発表している他の方法論論文、すなわち「限界効用理論と『精神物理学的基本法則』」(1908)、「『エネルギー論』的文化理論」(1909) といった (あまり「有名」ではないものの、読みようによっては面白くて重要な) 二論文はさしおいて、経験的モノグラフの「倫理論文」を割り込ませ、他方では、『アルヒーフに掲載された「倫理論文」以外の経験的モノグラフ、たとえば「プロイセンにおける世襲財産問題の農業統計学的および社会政策学的考察」(1904)、「ロシアにおけるブルジョワ民主主義の現状に寄せて」(1906)、「疑似立憲制へのロシアの移行」(1906) はまったく無視してかかるとなると、疑問なしとしません。そういう首尾一貫性を欠く気ままな、自説引用は、厳格で謙虚なマックス・ヴェーバー本人はすこぶる嫌ったことで、かれの与り知らぬところではないでしょうか。「カテゴリー論文」表題注の後続部分でも、テンニース、フィーアカント、ゴットル、ラートブルッフ、フッサール、ラスク、シュタムラー、らの名が挙げられ、それぞれの概念構成や方法の特性 (ヴェーバーにとっての問題性) と、自説とを区別する「方法論専門家向けの簡潔な言及はありますが、「倫理論文」を思い起こす、とくにそれを思い起こさせようとする「お門違い」の語句は、皆無です。

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傍証をひとつ挙げますと、晩年の「社会学の基礎概念」(1920) は、「カテゴリー論文」の改訂版で、表題注にあたる「緒言Vorbemerkungが付されています(/23: 147-48、阿閉吉男・内藤莞爾訳、1987、恒星社厚生閣: 5-69)。ところが、この並行例でも、冒頭に、「カテゴリー論文」からの基礎範疇の変更にかんする(それ自体としては) 重要な指摘が付加されていますが、それだけで、それ以外は、「カテゴリー論文」とほぼ同様、ヤスパース、リッカート、ジンメル、ゴットル、テンニエス、シュタムラーに言及する簡単な方法論上の注解ないし参照指示の範囲を越えてはいません。

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さて、ヴェーバーの文献引用法、とくに自説引用の控え目な厳格さに通じている読者(残念ながら、研究者でもおそらくはごく少数)であれば、当のヴェーバーが「私が以前 (シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』に) 発表した論文」と書いただけで、「あ、『倫理論文』のことをいっているな !」と早合点したり、忖度したりすることは、まずありえますまい。ところが、歯に衣を着せずにいってよければ、圧倒的多数の読者、それも『入門』を繙く初心者は、「この著者は、『入門』を世に問うからには『門前の小僧』ではなく、『奥の院の高僧』にちがいない」と考え、「さすれば、『自説に好都合』というので、方法論論文からは四篇、経験的モノグラフからは『倫理論文』一篇を、他に該当論文があるのに、いっさい無視して恣意的に抜き取り、自説の証拠に仕立てようというような、『牽強付会』にもひとしい操作を、よもや弄するはずがない」と思い込むでしょう。さらに困ったことには、自分も学生、院生、ないし学者となって「同じ流儀に倣おう」としかねません。「大衆人」とは、遺憾ながら「安きに就く」ものです。そういう「大衆人」状況を見据えて、そこに『入門』を企投しようとする著者には、そういう「陥穽に落ちないよう」、「流れに抗して生きよう」とする厳しい「責任倫理」が要請されるのではないでしょうか。

 

[2021711日記、つづく。折原浩]