記録と随想26――中野氏の応答(617日)への応答(その4(711)

 

[承前: 5. を受けて6.]

. ここで、『宗教社会学論集』が、なぜ、歴史社会学論集』と総称されなかったのか、という関連問題を採り上げ、一考しましょう。

『論集』の主要部をなす「世界宗教の経済倫理」では、ヴェーバー自身が「序文」に明記しているとおり、「関心の焦点focus of interest」は宗教経済との「因果関係」に据えられています。しかし、それ以外に、政治-支配体制法制も、「副テーマ」ともいえるほどに重視され、「観察と考察の範囲scope of observation and of considerationには取り入れられ、多くの紙幅を割いて論じられています。

では、それは、なぜでしょうか。どういう科学方法論上の根拠から、そうなるのでしょうか。

なんども繰り返しますが、「分析的経験科学における因果帰属の論理」によれば、厳密な因果帰属X-Yの因果関係の確定)には、他の諸要因はことごとく一定に制御したうえで、「問題の条件Xないと、結果Yは生成しない」という実験観察を試みなければなりません。ところが、歴史的な研究対象については、(条件X以外は一定に制御した「対照群」を人為的に設定し、「実験群」にだけXを投与して経過を観察し、双方の結果を比較する、たとえば、薬効-ワクチン効能の検証における「二重目隠し対照試験controlled study under double blindness」のような)、文字どおりの「比較-対照試験」は、もとより実施できません。

ところが、それではもう「御手上げ」なのかというと、そうではないのです。次善の策として、できるだけ多くの対照群」につき、X以外の諸要因を採り上げて観察し、それぞれがの生起に「有利」であったか否かを、「一般経験則(社会学的な法則的知識)」に照らして判定し、「それらはいずれも有利であったけれども、唯一、Xが欠けていたため、生起しなかった(あるいは、生起の客観的可能性・シャンス・確率が格段に落ちた)」と推認できれば、そのかぎりで、「の生起にはが必要であった」と判定され、相応に妥当なgeltend結論が引き出されましょう。しかし、そのためには、「対照群」として、できるかぎり多くの「文化圏」を射程に入れ、文化諸領域中、宗教以外の他の諸要因、できるかぎり網羅的に観察の範囲には取り入れ、結果の生起に「有利か」否か、やはり「一般経験則」、「社会学的な法則的知識」に準拠して検証しなければなりません。

ヴェーバーは、「比較宗教社会学試論」という副題のついた「世界宗教の経済倫理」シリーズでも、「因果帰属の論理のそういう要請に則り、中国、インド、古代パレスチナ他の文化圏」について、最大限に網羅的な検証をじっさいにおこなっています。『論集』「序文」冒頭に書き出されている、文化諸領域別に見た、各「文化圏」の特徴的所産の一覧も、そういう網羅的な検証の成果にほかなりません。

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しかしここでは、「因果帰属の論理の、そういう具体的適用例のひとつを、こんどは「儒教と道教」から取り出してみましょう。

18世紀以降の「中国文化圏」では、宗教領域以外の諸条件-諸要因について見ると、「西洋文化圏」と比較しても、たとえば、➀ 清朝三賢帝のもとに「平和化Befriedung(「天下泰平」) が達成され、➁「三角貿易」によって大量の銀塊が流入し、「バンコ本位」貨幣として流通し、私人の手中に集積され、➂ 金銭欲は旺盛で「反貨殖主義」の桎梏はなく、➃ 交易を妨げる荘園制的・封建制的障壁もなく、➄ 交易路や内陸河川などのインフラは中央政府によって開鑿され、整備される……など、「市場に準拠する資本主義」の発展にはいたって有利でした。他方、当時未曾有に増加した人口についても、➅ 移住・転職・生産方法などにかんする (インドの「カースト制」やロシアの「ミール制」には見られるような) もろもろの制約-桎梏は皆無で、「プロレタリア(賃労働者)化」も容易に起きえようという「客観的」情勢でした。ところが、➆ (古くからそれ自体としては発展を遂げていた) 都市の手工業は、単独の小親方経営のほか、(中央販売所をそなえ、中継仕事場には熟練工を配して、末端の家内副業労働を一定程度は組織化する)「小資本主義的-仲間団体的営利ゲマインシャフトkleinkapitalistische genossenschaftliche Erwerbsgemeinschaft」にまでは発展を遂げましたが、その域を越え、「問屋制」支配から「マニュファクチャー」をへて「工場経営」にいたる(西欧型産業資本主義の)発展は生じず、零細親方経営の夥しい増加に帰着するばかりだったようです。

経済上は、多額の出資をし、販路にも通じた、中央販売所の商人が、伝統的な利得」水準と同業者間の伝統的・牧歌的和合」に甘んじていないで、注文を待つ受け身の対顧客関係を改め、末端の家内工業への統制も強化 (所定の納期・品質などの強制によって労働規律を植え付け)、「企業経営者」にのし上がり、やがては、家内労働者と中継仕事場の熟練工も中央販売所付設の工場に収容して一括支配し、他方、同業者にたいしても、市場競争を通して「淘汰」されたくなければ、同種の「刷新innovation」を余儀なくさせるか、あるいは、賃労働者に追い落として雇用するかして、「問屋制からマニュファクチャーをへて工場制大経営へ」という発展も容易に達成される情勢でした。ところが、そういう「刷新」に着手し、「伝統」の側から反撃を受けても、そのつど克服して、着実に「経営を合理化」していける、そういう「生き方」に徹する「人間主体」が、育ってはこなかったようなのです。

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では、それは、なぜだったのでしょうか。

ひとつには政治-支配体制(の領域)、いまひとつには、法制(の領域)における諸条件が、相互補完的に連動-協働して、阻止作用を果たしていた、と考えられます。

中国の政治-支配体制は、「秦漢帝国」以降、「家産官僚制」として確立し、それ以前の「春秋戦国期」には諸侯国間を自由に遍歴できた」知識層も、帝国の統一的位階秩序に編入され、官位を争い合う「官紳(マンダリン)」に転化してしまいました。「官吏」の補充は、(晋以後)「科挙」制に「合理化」されます。

「家産官僚制」中央政府の頂点には「(雨乞いのような)呪術カリスマ」に淵源する「教権」と、「英雄-軍事カリスマ」に由来する「俗権」とを一手に掌握する「祭司長 (最高祭司)「皇帝教皇」の 天子 が鎮座しました。「天子」は、「真正な即人個人カリスマ」の担い手として、「失政の責任」を問われて「失脚」するリスクは抱えながらも、「官紳」の補佐のもとに、(異民族出身の征服者でも)「天」を祀る儀礼を遵守し、「倫理上厳正な徳治」を怠らないかぎり、「正当legitimな」天子として受け入れられ、長年、精神的な一元支配を継続してきました。

一方、社会の底辺には、家父長制的「氏族Sippe」が根を張り、「家産官僚制」中央政府と貢租をめぐっては対峙しつつも、対抗的相互補完関係-互酬循環構造をなして、隠然たる勢力を保持していました。そういう氏族の「自給自足」体制によって「商品市場」の成立が阻まれ、その「血讐-救難-連帯義務」に支えられた「プロレタリア化」への抵抗によって、労働市場の成立とそれを介しての労働規律の強制が妨げられたことは、否み難いでしょう。

しかし「氏族」は、それ以外にも、さまざまな社会的機能を果たしていました。父母にたいする「孝悌」を社会の元徳として培い、長老・長上・上官などへの「恭順Pietät」に拡張する一般徳育機能と、私塾を開設し、一族中から有能な子弟を選抜し、(科挙に合格しても仕官できない)「読書人」を教師に雇って、古典を学習させ、科挙受験にそなえ、合格すれば支度金や「買官費用」を工面して仕官させ、官職位階上の「出世」に一族の栄誉を賭ける特別英才教育機能などです。とりわけ、後者は、他の「文化圏」とおそらくは同等の素質と能力をそなえた若者(「エリート候補生」)の関心と野望を、初めから「官紳としての立身出世とそれにともなう役得」という軌道に乗せて、そこに押さえ込み、(伝統的な均衡と和合を破砕して、「霊魂の平安」を乱し、「君子不器(人間性の優美な全面発達)」を危うくしかねない)「経営刷新」などには見向きもしない人生へと導いたにちがいありません。

そういうわけで、ヴェーバーは、「中国文化圏」について、「儒教と道教」第一~四章「社会学的基礎」で、宗教倫理以外の諸要因につき、(やや無系統ながら)都市、諸侯、神観、国家、行政、農制、自治、法制、資本主義という順序で、網羅的な検索を重ね、政治支配体制という要因を探り出し、その意義を突き止めました。それと同時に、第五章以下で、(その政治-支配体制とは互酬循環関係に入り、「現世志向」ながら「現世への調和的-審美的適応」を称揚する)「正統orthodox儒教」と、(「天」の「無償の恩恵」という前提は儒教と共有しながらも、「無為」という極論を引き出して、官吏の「作為」「善政」を嘲笑う)「異端heterodox道教」との対抗的相補関係のもとでは――つまり、「現世志向」ながら、「現世を拒否」し、その改造成果に、個々人の「救済 (確信)」という心理的プレミアムを懸ける「禁欲的プロテスタンティズム」のような「現世内禁欲」がなかったところでは――、宗教倫理以外の諸領域では、上述のようにいたって有利な諸条件が出揃ったにもかかわらず、産業資本主義的経営が自生的には発展しなかった、という(「分析的経験科学における因果帰属の論理に則った)「因果帰属」に到達したのです。

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ところで、「家産官僚制」という政治-支配体制は、他方、「即人的家父長的温情支配」という本質的属性をそなえ、「官吏の法律家訓練」と「法律家による法の形式的合理化」は嫌悪して斥け、その結果、(たとえば固定設備に投下された経営財産を支配者の恣意的「追い立て」に抗して保護する、というような)財貨の強制保障の機能は発揮できません。この点にかけても、「家産官僚制」による政治-支配体制の壟断は、産業資本主義経営の発展に有利な条件とはならず、(ここでは詳述しませんが)そうなるには、「実質合理化」に傾く支配者に「形式合理化」をいやおうなく受け入れさせる、独特の勢力配置-諸要因の個性的布置連関が必要とされました。

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さて、「儒教と道教」では、ヴェーバーが、ただ漫然と「理解社会学」を適用したのではなく、「非実験的研究領域としての歴史に、分析的経験科学としての『因果帰属の論理を適用するには、じっさいにはどうすればよいのか、どこまでいけるのか」という科学論方法論上の自覚を踏まえ、思考実験を厳格に実施して初めて、以上のように、法制を含めた政治-支配体制という領域の意義に直面したといえましょう。とすれば、ヴェーバーという人は、そういう研究成果を、その後の「文化圏比較による因果帰属に、どう採り入れて活かしていけばよいかと、翻って方法論上・科学論上の反省と思考を凝らし、研究と教育の態勢をととのえにかかったにちがいありません。

その現われのひとつとして、「世界宗教の経済倫理」シリーズの本論に読者を導き入れる直前、(「旧稿」で展開した宗教社会学上の視点と類-類型概念を、ほぼ網羅的に、ただ極限的に圧縮して読者に伝えようとした)「序論Einleitungのおしまいのところに、「(その後に配置される) 本文に頻繁に出てくる術語について、定義の繰り返しを避けるため」と称して、「カリスマ的」「伝統的」「合法的」という「正的」支配の三類型や、「政治ゲマインシャフト」の「下位単位(サブ・ユニット)」をなす「身分」と「階級」といった「基礎中の基礎」諸概念に、簡潔ながら明快な定義をくだして、読解の便をはかり、各文化圏のとりわけ政治支配体制の意義に、読者の注意を促している事実が注目されましょう。そういうわけで、『宗教社会学論集』本文の実質的内容は、「関心の焦点」たる「宗教社会学」の枠からは、上述のとおり故あってはみ出し、「観察と考察の範囲」内に溢れ出ており、ヴェーバーもその事実は、「序論」への「政治支配社会学定義集の追加によって、対外的-具体的にも認めていたといえましょう。

しかし、かれ自身は自分の仕事にたいする並外れて謙虚なスタンスから、自著の表題にかんするかぎり、「羊頭狗肉」をおそれ、「関心の焦点に絞り、限定して、『宗教社会学論集』という控え目な表題を選定したにちがいありません。

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ですから、この問題にかんするかぎり、小生は、『宗教社会学論集』という表題の信憑性に異議を唱えるのではありません。そうではなくて、「儒教と道教」には「中国の宗教The Religion of China」、「ヒンドゥー教と仏教」には「インドの宗教The Religion of India」というような、教理学とエートス学の区別も、「正当と異端」の区別も、「関心の焦点」と「観察と考察の範囲」との区別もなく、そもそも「宗教社会学」にさえ関心のない、ただ「異文化圏の宗教にかんする書」くらいの意味しかない呼称が、正式の英訳名として大手を振って罷り通る、なんとも「科学論的・方法論的」というほかはない学問思想状況で、それにもかかわらず、(科学論的反省を経験科学的研究に十全に活かそうと構想し苦闘した)ヴェーバーの遺稿『宗教社会学論集』を、もとよりその著者としてではなく、後続世代に属し、変化した思想状況に生きる別人の一研究者の見地から、そういう学問-思想状況であればこそ、最大限に活かそうと思案を重ね、いっそ(かれ自身も「政治-支配体制」には特別の注意を払っていた)「観察と考察の範囲」のほうも考慮に入れていっそう重視し、「比較宗教史-政治史-法制史社会学」、「比較(連字符)文化史-社会学」、さらには全範囲に拡大しても呼称としてはむしろ簡潔に「比較歴史社会学」と呼ぶほうが適切ではないか、と考えるにいたりました。小生として、熟慮の末、そう「責任倫理」的に決断したのです。

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他方、今世紀初頭の、この国の思想状況一般には、「ヴェーバーの科学論は『理解社会学』に収斂する」、あるいは、「かれの経験科学は『歴史研究から社会学へと段階的に移行』し、歴史学は無用になり、社会学の素材集めに格下げされた」という趣旨の、誤った一面的解釈が出回り、その風潮が、いっとき優勢にもなっていました。小生は、そういう風潮を、ヴェーバーにおける「現実科学」的ないし「歴史科学」的契機を貶価し、翻っては歴史学者と社会学者との相互疎隔を招く、負の状況要因と感得し、『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』(2007、勁草書房) を上梓し、「社会学は歴史科学研究の基礎的予備学Vorarbeit」と位置づけて、一面的解釈の是正につとめました。

そうしながら、現役の歴史学者で、社会科学基礎論ないし社会学にも関心を寄せていた、水林彪氏や小路田泰直氏と研究会を開くなど、相互交流の機会を創り、その拡大にもつとめました。そうするなかで、当初には「比較法制法思想社会学研究会」、略して「比較社会学研究会」と名乗っていた、分野の研究者からなる、ある開放的な集いが、自然の経過のなかで、いつのまにか、なんの抵抗もなく「比較歴史社会学研究会」と改称し、参加者も著増し、現在にいたっていることは、周知のとおりです。狭く「関心の焦点」に限定して「比較宗教社会学研究会」と名乗っていたとしたら、おそらくそうはならなかったでしょう。

いずれにせよ、この問題は、ヴェーバー自身が、「世界宗教の経済倫理」シリーズを、「関心の焦点」に限定して「比較宗教社会学試論」と呼んだ、謙虚な事実の「意味」は重々認めながら、それとは区別して、かれのそういう労作をわたしたち自身が今後どう継受し、活かしていくか、というわたしたち自身の学問実践の「責任倫理」にかかわるコンテクストに移し入れて、熟考されるべきことです。そうすれば、分析的経験科学における因果帰属の論理を、文字どおりの実験は不可能な歴史研究に、最大限適用し、活用しようとするさい、「関心の焦点」以外の諸要因も網羅的に採り上げて思考実験を試みなければならない、という論理必然性から、ヴェーバー自身も「観察と考察の範囲」を、少なくとも「政治-支配体制」と「法制」には拡大していた事実に注目して、そういう科学論上の意義と限定から目を離さないかぎり、「比較-(連字符) 文化 () 社会学」、簡略に「比較歴史社会学」と呼び換えることも、許され、むしろ奨励されましょう。

 

7. さて、ここで、「倫理論文」を「理解社会学」と決めてかかる中野氏の主張の「拠り所」のうち、「倫理論文」が『宗教社会学論集』の第一論文に配置された外形事実を短絡的に解した第一点への反論は終えて、じつは同様の第二点、すなわち、1913年「カテゴリー論文」の表題 (に付された) の問題に移りましょう。

 問題の表題注は、『ロゴス』誌に掲載された論文では、「ジンメルの (……) 叙述と私が以前 (シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』第二版に) 発表した論文の他、リッケルトの(『限界』第二版における)覚書とK・ヤスパースのさまざまな著作 (とくに現時点では、精神病理学総論) を参照されたい」 (/12: 389、海老原・中野訳: 6) と書き出されていたようです。ところが、その原論文が、マックス・ヴェーバーの死後、『科学論集』の初版 (1922年、モール社刊: 403-50) に収録されたときに、(シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』第二版に) と記された箇所が、(それらはこの巻に収録されている) と書き改められました。海老原・中野訳は、この改訂をフェアに注記しています (巻末最終ページ事項注: 1(2) )

ところが、そうなりますと、ヴェーバーがそのように注記して読者に参照を求めていた論文とは、何と何を指すのか、が問題とされましょう。シュモラー『年報』に発表された論文が「ロッシャーとクニース」を指すことは、まず間違いありません。問題は『アルヒーフ』に発表された論文ですが、こちらも「客観性論文」、「文化科学の論理学の領域における批判的研究 (マイヤー論文) および「シュタムラー批判」の三篇を指すであろうことは、『科学論集』初版と『全集』版の編纂者とともに、異論なく認めていいでしょう。

ところが、そこに、ヴェーバー自身が『アルヒーフに発表している他の方法論論文、すなわち「限界効用理論と『精神物理学的基本法則』」(1908)、「『エネルギー論』的文化理論」(1909) といった (あまり「有名」ではないものの、「解明的理解」とは異なる諸方法を採り上げて、それらとの区別を論じた、その意味でじつは重要な) 方法論論文二篇はさしおいて、別系統の経験的モノグラフ「倫理論文」を割り込ませ、他方では、『アルヒーフに掲載された「倫理論文」以外の経験的モノグラフ、たとえば「プロイセンにおける世襲財産問題の農業統計学的および社会政策学的考察」(1904)、「ロシアにおけるブルジョワ民主主義の現状に寄せて」(1906)、「疑似立憲制へのロシアの移行」(1906) は、頭から無視してかかるとなると、疑問なしとしません。よもや中野氏は、自分の主張に好都合な文献を挙示したい一心で、この不都合な二系列の事実を意図して隠蔽したのではないでしょうが、結果としてそうなっていることは否めません。いずれにせよ、そういう気ままな首尾一貫性を欠く自作引用は、厳格で謙虚なマックス・ヴェーバー本人はすこぶる嫌ったことで、かれがそんなことをするとは、まず考えられません。「カテゴリー論文」表題注の後続部分でも、テンニース、フィーアカント、ゴットル、ラートブルッフ、フッサール、ラスク、シュタムラー、らの名が挙げられ、それぞれの概念構成や方法-方法論の特性 (ヴェーバーにとっては問題性) 自説とを区別する「方法論専門家向けの簡潔な言及はありますが、「倫理論文」を思い起こさせる「お門違い」の「お披露目」が立ち上る気配などまったく感得されません。まっとうなヴェーバー研究者で、この表題注には「倫理論文」が覗いて見える、などと聞かされたら、さぞやびっくりするでしょう。ヴェーバー自身が、そんなふうに気を弛めるとは、およそ考えられないからです。

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傍証を挙げますと、晩年の「社会学の基礎概念」(1920) は、「カテゴリー論文」の改訂版で、そこにも、表題注に相当する「緒言Vorbemerkungが付されています (/23: 147-48、阿閉吉男・内藤莞爾訳、1987、恒星社厚生閣: 5-69)。ところが、そこでは、冒頭に、「カテゴリー論文」からの基礎範疇の変更にかんする、それ自体として欠かすことのできない注意が、必要上明記して追加されてはいますが、重要な改訂はそれだけです。それ以外は、「カテゴリー論文」とほぼ同様、ヤスパース、リッカート、ジンメル、ゴットル、テンニエス、シュタムラーに言及する簡単な方法論上の注解ないし参照指示が記されているだけです。ここにも「倫理論文」が「お披露目に」顔を覗かせたりはしてはいませんし、そんなことが起きるはずもありません。

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さて、ヴェーバーの文献引用法、とくに自説引用の控え目な厳格さに通じている読者であれば、当のヴェーバーが「私が以前 (シュモラーの『年報』とヤッフェの『アルヒーフ』に) 発表した論文」と書いただけで、「あ、『倫理論文』のことだな!」と早合点したり、そう忖度したりすることは、まずありえますまい。ところが、歯に衣を着せずにいってよければ、圧倒的多数の読者、それも『入門』を繙く初心者は、「この著者は、『入門』を世に問うからには『門前の小僧』ではなく、『奥の院の高僧』にちがいない」と見紛い、「さすれば、方法論論文の表題注に、お門違いの『倫理論文』をねじ込んで、自説の証拠に仕立てる、『牽強付会』にもひとしい操作など、弄するはずがない」と思い込むでしょう。さらに困ったことには、自分も学生、院生、ないし学者となって「同じ流儀に倣おう」としかねません。「大衆人」とは、遺憾ながら「安きに就く」ものです。そういう「大衆人」状況を見据えて、そこに『入門』を企投しようとする著者には、そういう「陥穽に落ちないよう」、「流れに抗して生きる」、厳しい「責任倫理」が要請されるのではありますまいか。

 

[2021711日記、折原浩。つづく]