記録と随想25――中野氏の応答(617日)への応答(その3(73)

 

承前[応答 (その2)5. の途中より]

マックス・ヴェーバーが、1920年、「倫理論文」を『宗教社会学論集』第一巻に収録するにあたり、一方ではかれ自身の思想変化、他方では読者の状況変化を考慮に入れて、「倫理論文」側と 『論集』側とに、どういう補正を加え、どういう「意味」を籠めて「倫理論文」を第一論文として配置し、併せて全篇を『宗教社会学論集』と総称したのか、が問題でした。

そこでまず、倫理論文の補訂を採り上げますと、ヴェーバーは、その第二章第二節「禁欲と資本主義精神」で、「転職是か非か」の問題につき、ルター派 () と禁欲的プロテスタンティズム () との差異を論じたコンテクストに、つぎの注を付しています。わかり易いように、多少解説 [    ] を加えて訳出しますと、

インドの救済論が、[転職を禁ずる]職業上の伝統主義を、[各個人の霊魂の輪廻転生における] 再生のシャンス [の改善という心理的プレミアム] に結びつけることによって、[当の伝統主義が] どれほど激しいパトスをもって全生活営為を支配するにいたったか、については、[すでに『アルヒーフ』に発表した]『世界宗教の経済倫理』にかんする論文で詳細に論じた。その事例に即して見ると、たんなる倫理の教説Lehrbegriffeと、宗教によって創出される特定の心理的起動力Antriebeとの違いを [まざまざと具象的に] 知ることができる。敬虔なヒンドゥー教徒は、もっぱら、自分が生まれついたカーストの伝統的儀礼義務(ダールマ)を遵守すること [個々人の生涯における遵守の「善業」と違反の「悪業」との「差し引き残高」で、前者が上回ること] によってのみ、再生のシャンスを有利にする [「善業」に相応する上層カーストに生まれつく] ことができた。これは、伝統主義を宗教的に基礎づける、およそ考えられる、もっとも強固な繋留点Verankerung である。じっさい、インドの倫理は、この[個々人を捕らえて「伝統主義」に緊縛する]点にかけて、[やはり個々人を捉えても、「現世改造」に向けて動機づける]ピューリタニズムの倫理にたいするもっとも徹底した反定立をなしている。とはいえ、他方別の観点 (つまり、身分的伝統主義) から見れば、ユダヤ教の [ユダヤ教徒が、「パーリア民」身分に結集して律法を遵守すれば、神ヤハウェが主導する「革命」によって、個々人がではなく、自分たち「パーリア民」身分全体 (あるいは「残りの者」全員) まとまって、「世界の支配民族」の地位に復帰上昇できるという、別種別類型ながら、やはり強烈な心理的プレミアムはそなえたユダヤ教の、そうした] 身分倫理にたいしても、やはり徹底した反定立をなすものである」(/18: 428 Anm. 310、梶山訳、安藤編、第2: 311-12)

  この一節は、短い補注とはいえ、「倫理論文」を繙いてその内容に惹き込まれるほどの(ヴェーバーが念頭においていたのは、主として)欧米人読者には、「ヒンドゥー教と仏教」や「古代ユダヤ教」など、「世界宗教の経済倫理」シリーズの繙読に向けての、内容上このうえない導入部をなしているといえましょう。「倫理論文」を読み、自分たちが欧米近代人として馴染んでいた、たとえば「禁欲的プロテスタンティズム」を、欧米・キリスト教文化圏の枠内で、カトリックやルター派やアングリカンなどとの比較をとおして、そのかぎりでは相対化し、その特性(「禁欲的合理主義」)を捉え返すことができた読者も、ここで人類の文化史総体のなかでまったく異なる方向に発展した文化圏(インドと古代パレスチナ)の、まったく異なる「救済論」に出会い、それだけ、「キリスト教文化圏」の(「即自的」には)「自己中心自文化中心に傾くパースペクティヴ」から解き放たれ、そういう閉塞状況からは脱却する方向に一歩を踏み出すと同時に、人類の文化発展総体を見渡そうとする方向にも(いざな)われるでしょう。そうするなかで、各「文化圏」の救済論」の特性比較類型論的に捉えて、「禁欲的プロテスタンティズム」は「現世内禁欲」、インドの「救済論」は「遁世的瞑想」というふうに位置づけ、それぞれが「なぜ、かくなって、他とはならなかったのか」「西欧ではなぜ、かくなったのかと問い返して、それぞれの特性把握因果帰属への関心を触発されもするでしょう。要するに、他の文化圏の佇まいと文化-社会構造に、自覚的-学問的(いうなれば「比較歴史社会学」的に対処していく可能性に目を開かれ、そういういわば「普遍史的教養人」に脱皮して、即自的な「自己中心-自文化中心性」は克服できようか、と予感し、少なくとも、後続の「世界宗教の経済倫理――比較宗教社会学試論」シリーズには、そういう問題関心をもって、興味津々、取り組もうと動機づけられるでしょう。

 しかも、この補注でもすでに、問題の焦点が、教理(ロゴス)ではなくエートス(別言すれば、「救済」という心理的プレミアムの「実践的起動力」)にあり、それが、条件(諸要因の「布置連関」)次第ではなんと「伝統主義最強の繋留点ともなりうると知って、「文化の相対性」感覚を触発され、研ぎ澄まされると同時に、「比較歴史社会学」的な探究の焦点は、宗教教理学ではなく、エートス学にあり、と察知するにちがいありません。ただし、ヴェーバーは、「西欧文化圏では、神秘主義者のマイスター・エックハルトでさえ、イエスの言にすら反して、神秘的なマリアよりも行動的なマルタに優位を認めた」という具体例を挙げ(MWGA,/19: 109, 大塚・生松訳『宗教社会学論選』: 68-69)、いったん確立した神観と教理の作用も、エートスの制約条件として看過してはならない、と注意を促し、単眼への硬直化は厳に戒めていました。

  ちなみに、初版「倫理論文」の補訂部分(全体)には、上記のとおり「ヒンドゥー教と仏教」と「古代ユダヤ教」への参照指示はありますが、「儒教と道教」への論及は見当たりません。ただ、それは、「中国文化圏」にはそういう比較-対照項が欠落しているから、というのではなく、1915年に『アルヒーフ』に発表した初版「儒教」を、1920年には全面的に改訂し、「儒教と道教」と改題して(つまり、「正統と異端」の対抗的相補関係という観点も補充して)、『論集』第一巻に収録し、読者に提供しようとしているのですから、殊更「倫理論文」に補注を加えて双方を架橋する必要がなかっただけでしょう。

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  さらに、同じく倫理論文側からの、いっそう重要な結節環として、ヴェーバーは本文の巻末に、その後の研究計画を明記しました。すなわち、「倫理論文」では、①「禁欲的合理主義」の意義を「経済倫理」に限定して探究したけれども、つぎには「社会政策の倫理」として、秘密結社から国家にいたる社会的ゲマインシャフトの組織と機能のあり方に与えた影響-意義に即して、他方では ②(西欧近世の)人文主義的合理主義」との関係と意義の度合いについて、それぞれ究明したうえ、③「最終的には、中世における現世内禁欲の萌芽から発した禁欲的合理主義の歴史的生成sein geschichtliches Werden [!] と、それが純粋な功利主義に解体する跡を、歴史的に(・・・・)historisch [!] [強調-原文]、しかも禁欲的宗教性の個々の伝播地域に即して、究明しなければならない」(MWGA,/18: 488-89, 梶山訳・安藤編: 359、大塚訳: 368) と述べています。ですから、ヴェーバーは当初、「倫理論文」を、キリスト教文化圏の内部にかぎって、「理解歴史学」的研究として継続し、拡充していく計画でいたのでしょう。

ところが、かれはその後、その研究計画を変更しました。その消息は、巻末の注に、つぎのとおりやはり明記されています。すなわち、「当初、わたしは、上記の計画の順序で、研究をつづけるつもりだったが、ひとつには偶然の事情…… []……、ふたつには、この論文を孤立させておかず、文化発展総体のなかに引き入れ[て、位置づけ]るため、研究計画を変更、さしあたりzunächst [!]宗教と社会の普遍史的(・・・・) [強調-原文] 関連にかんする比較研究vergleichende Studien über die universalgeschichtlichen Zusammenhänge von Religion und Gesellschaftの成果を、書き下ろそうと思い立ったそれが、以下 [「世界宗教の経済倫理」シリーズ] の諸論文である(MWGA,/18: 491 Anm. 394, 梶山訳、安藤編、第二刷: 361)

ここでは、ヴェーバー本人が、もう解説の必要もないほど明快に、「倫理論文」以降、研究計画を変更し、「倫理論文」を「孤立させてはおかずに」(ということは、とりもなおさず、「それまでは孤立させていた」、つまり「独話論」的テーマ設定による「任意の」個別研究に止まっていた、という意味でしょう)、「文化発展総体のなかに移し入れて位置づける」ために、「宗教と社会の普遍史的(・・・・)関連にかんする比較研究」(「普遍化的法則科学」としての「比較宗教社会学」的研究) を必要としさればこそ、当の研究に着手し、さしあたりはその成果を書き下ろしておこうと、「世界宗教の経済倫理」シリーズを執筆し、『アルヒーフ』誌に発表した、というのです。ヴェーバー自身が、この事情を、誤解の余地なく、みずから語り出しているのです。

しかも、それだけではありません。この一節の「上っ面を掠める」のではなく、かれの科学方法論と関連づけて「行間も読み」ますと、ヴェーバーがなにか、当初の歴史的研究計画を金輪際放棄して、「比較宗教社会学」に完全移行しようと決意し、それをここで最終的に宣言している、とは解せません。むしろ、「倫理論文」を「孤立から救い出し」、「人類の文化発展総体における普遍史的関連のなかに位置づけ」たうえはふたたび歴史学的研究」に立ち帰り、「西洋の宗教的経済倫理にのみ固有」 [「宗教社会学」的比較研究によって] 証明された諸要素について、「多少とも一義的な因果帰属(・・)にも着手できよう」から、「そうするつもりだ」という見通しと決意を語り出しているのです。

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この解釈が、小生の独断ではなく、ヴェーバー自身の意図であったことは、倫理論文」の配置にかんする こんどは論集側からの論及位置づけによって、証明されます。というのは、こうです。

『宗教社会学論集』は、いきなり「倫理論文」から始まるのではなく巻頭には「序言Vorbemerkung」が置かれています。そこでは、文字どおり「人類の文化発展総体」展望され、中国・インド・西洋など、各「文化圏」の (人類の文化史上) 主要な所産が、「学問」の諸分野から始めて、「芸術」の諸ジャンル (たとえば音楽における「記譜法」、建築における「ゴシック様式」)、「コミュニケーション手段」(印刷術そのものよりもむしろその利用方法)、「専門教育経営」、「身分制等族国家」、「法学の専門的訓練を受けた官僚によるアンシュタルト国家経営」、「議会」、「デマゴーグ」「政党」などをへて(「近代西洋において欧米人の生活を支配し、そこから世界各地にもおよんでいる、もっとも運命的な力」という)資本主義」にいたるまで生活諸領域ごとに、網羅的ともいえるほど広汎にわたって比較-対照され、それぞれの特性が抽出されていきます。そのような経験科学的観察によって初めて、問題の焦点「西洋にのみ固有の諸要素」に絞られ、問題設定の核心が、それら固有の諸形象を生み出し、支えてきた「人間の生き方」、合理的な生き方」、「独特の合理主義」に求められます。そうして初めて、当の「合理主義」の特性を把握し、それがなぜ西洋にのみ発生したのかを説明する、という課題が設定されるのです。

さてそこで、ヴェーバーは、「そういう説明の試みはすべて、経済 (という一生活領域) の基本的な意義に照らして、とりわけ経済的諸条件を考慮しなければならない」とひとまずは認めます。ところが、すぐさま「どんでん返し」を企て、「逆の因果連関もまた顧みられないままであってはならない」と述べて、その理由を、まずは抽象的-一般的に、つぎのように開陳します。すなわち、「経済上の合理主義が生成するには、合理的な技術や合理的な法ばかりでなく、特定の実践的-合理的な生き方Lebensführungを採ってそれに徹する人間たちの能力や素質にも、依存するところが大きかったそういう能力や素質の発達が、なにか心霊上の障碍によって阻まれたところでは、経済上合理的な生き方の発展も、重大な内面的抵抗に遭遇 [して、停滞ないし萎縮] するほかはなかった。ところで、人間の生き方を形成する、そういう[正負の]要因として、往時、もっとも重要だったのは、通例呪術的また宗教的な諸勢力とそれらへの信仰に根ざす倫理的義務の観念であった」(MWGA,/18: 116-17, 大塚・生松訳: 239) と。

そう述べたうえで、ヴェーバーはまず、「以下に補正のうえ収録する諸論文 [したがって、「倫理論文」「ゼクテ論文」のみでなく、「世界宗教の経済倫理」シリーズ] は、そういう事柄を取り扱う」(MWGA,/18: 117, 大塚・生松訳: 23) 宣言し、全篇のテーマを予告します。それにつづけて、初めて、「 (そのあと) 冒頭に置かれるのは、比較的古い二論文[「倫理論文」と「ゼクテ論文」]である」と述べ、その配置理由を、つぎのとおり整然と開陳します。すなわち、「これらの論文は、問題のもっとも捉え難い、それゆえ、看過されがちな側面にひとつの重要な個別の問題点にかぎって接近しようと試みてnäherzukommen versuchenいる。つまり、ある経済形態の「経済的心意Wirtschaftsgesinnungすなわち「エートスEthosの発生も、特定の宗教的信仰内容に制約されつつおこなわれたという、そういう[歴史的被制約関係に、それも、[西洋] 近代の経済エートスと禁欲的プロテスタンティズムの合理的倫理との諸連関という事例に即して、そのかぎりでアプローチしようと試みている」(MWGA,/18: 117, 大塚・生松訳: 23-24) と。

  したがって (ヴェーバー自身が敷衍していうには)、「これらの論文では、因果関係のひとつの側面しか、追究nachgehenされていない」。しかし、「その後につづく『世界宗教の経済倫理』にかんする諸論文では、もっとも重要な文化諸宗教とその環境をなす経済および社会層分化との諸関係を一望Überblickし、つぎに分析されるべき西洋的発展die weiterhin zu analysierende okzidentale Entwicklung [!]との比較の観点を見出すのに必要なかぎりで、因果関係の両面追究しようと試みている。それというのも、そのようにして初めて、他の経済倫理とは異なる西洋の宗教的経済倫理にのみ固有の諸要素について、多少とも一義的な因果帰属(・・) die einigermaßen eindeutige kausale Zurechnung に、およそ着手するüberhaupt in Angriff nehmenこともできようからである」(Ibid.)

  この一節には、(ヴェーバーの含蓄の多いドイツ語文を慎重に読解するならば)、かれが、「倫理論文」と「世界宗教の経済倫理」シリーズとの科学論・方法論上の関係どう捉え、後者以降の研究どういう基本方針のもとに進めていこうとしていたのか、を突き止める、重要な鍵が潜んでいる、といえましょう。

まず、「つぎに分析されるべき西洋的発展」という表記は、かれが、「世界宗教の経済倫理」シリーズとその続篇 (「初期キリスト教」、「イスラム教」、そのうえおそらくは、西の「ローマ教会」と東の「正教会」とくに「ロシア正教会」) を書き下ろして発表した暁には、それで「能事終われり」とするのではなく、そこから西洋的発展の分析に復帰し、当初の計画どおりの歴史学的研究、すなわち、西洋的文化発展における「禁欲的プロテスタンティズム」の歴史的生成 (それが「固有法則性」を取得して西洋文化の他の諸側面におよぼした) 歴史的影響 (「因果的意義」) について、こんどは (あるいはこんどこそ)他の諸文化圏を対照群とする広汎な思考実験にもとづいて科学論上厳密な意味における因果帰属」を達成する、否、それにいよいよ着手する、予定でいたことを、簡明に伝えているといえましょう。「因果関係の追究」とは区別して、「因果帰属(・・)」に力点が置かれている表記の意味を、汲み取らなければなりません。

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ところが、この所見にたいしては、いうなれば「科学論音痴」群から、「『倫理論文』でも、すでに『因果関係』が究明されているではないか、それをヴェーバー自身が、『序文』の上記一節でも、追認しているではないか」という「反論」が提起されるにちがいありません。

しかし、「倫理論文」の「因果関係追究は、じつは 宗教倫理以外の諸要因にかんする (他文化圏との比較による) 制御がなされていない点と、❷「因果連関」としての「適合性」「妥当性」を判定する「社会学的・法則的知識」が、それとして定式化され、自覚的に適用されてはいない点で、まだ厳密な意味における「因果帰属」の体をなしてはいません(「因果帰属」の論理については、「他では普通におこなわれている、分析的経験科学一般の比較-対照試験の考え方」として、「客観性論文」の「補訳」: 236-58で、とくにpp. 236-38では図解入りで、分かりやすく解説していますから、ぜひご参照ください)

この点、ヴェーバーは、「倫理論文」初版の発表後(1910年)F・ラハファールから批判を受け、その趣旨は(ヴェーバー死後)R・アロンらによっても踏襲されました。小生も、30年以上前に発表した『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(1988、未來社) の第三章を、「ウェーバー巨視的比較宗教社会学の成立史全体像構築に寄せて」と題し、「〈プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神〉から『宗教社会学』草稿をへて〈世界宗教の経済倫理〉にいたる思想展開の解釈と、宗教社会学諸著作・各篇の仮説的位置づけ」という副題も付し、関連文献の精読にもとづいて、詳細に論じました。それから30年以上が経過しているのですが、その仮説が追検証されないばかりか、かくも見事に無視され、忘却されているとは、思ってもみませんでした。

それはともかく、ヴェーバー自身は、ラハファールの批判を抽象的方法論のかぎりでは正面から受け止めたのです。じつは、『倫理論文』では、「近代的企業の経営者・上級熟練労働者などの職種には、なぜかカトリックよりもプロテスタントのほうが多い」という「欧米人読者とは共有して論述の起点に据えられる常識(トポス)」を、ペティ、バックル、キーツ、モンテスキュー、および (「ドイツ歴史学派」出自の同僚) ゴータインらの先行研究を引用し、(「禁欲精進に明け暮れる『古典的資本家』から『近代化された資本家』への転態」という) マルクス『資本論』の叙述も当然考慮に入れて (この関連については、拙著『ヴェーバー学のすすめ』、2003、未來社: 141-46、参照)、そうした先行所見を同時代の宗派別職業統計によって追検証したうえ、細密な宗派別も考慮に入れて、初期条件に遡る「意味上の選択的親和関係」を、(こちらは確かに前人未踏の)解明的理解の方法を適用して、歴史的に究明した(にすぎない)、と認めていたのです (拙著『ヴェーバー学の未来――「倫理論文」の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』、2005、未來社、第一章「『プロテスタンティズムと資本主義の精神』論文の全内容(骨子)」: 18-40、および第二章「『倫理論文』第一章第一節『宗派と社会層』を読む――近代市民層帰属の宗派別差異から、経済と宗教との『親和関係』にいたる(読者との対話による)論旨の展開、ならびに歴史・社会科学の方法開示」: 41-80、参照)

ヴェーバーの偉いところは、「理のある批判」は正面で受け止め、正面から対応するばかりか、批判の趣旨ないし含意を、批判者本人以上に汲み取り、引き出して、余人にはなし難い形で、活かし、実を結ばせるところにありました。かれは、ラハファールの抽象的な方法論上の批判を、確かに受け止め、さればこそ、「旧稿」、「世界宗教の経済倫理」、および (その後に予定された)「西洋的発展にかんする分析」、すなわち具体的な経験科学的研究として活かそうとしました道半ばにして倒れたため「活かしきった」とはいえないまでも、道半ばまでは達成-実現していたのです。

ヴェーバーは他方、批判者としても、たとえば法哲学者のL・シュタムラーを、規範科学と経験科学(ロゴス学とエートス学)との混同にかけては厳しく批判しました。しかし、「シュタムラーが本来いうべきであった」趣旨ないし含意は引き出す、いわば「産婆役」の役割も果たそうとし、みずからそうしています。「理解社会学のカテゴリー」第二部で、➀「意味関係のない大量 (大衆) 行為」-➁「無定型のamorphゲマインシャフト行為」-➂「(非制定秩序に準拠する)諒解行為」-➃「(制定秩序に準拠する)ゲゼルシャフト行為」という「社会的秩序形成の四基礎カテゴリーを構成し、そうすることで「法人格」概念による「社会の実体化は破砕しながらも、個々人を外的-内的に「拘束」する「社会的なもの」の流動的-漸移的相互移行関係、あるいはまさにそれをこそ、「理解社会学」の射程に取り込んで、経験科学的に分析していったのです。ただ、その関連が、この国の学者によっては、十分に継承されていないばかりか、気付かれてもいないらしいだけです。

この国の学者たちはおおかた、一生に一度も論争せず、居心地のよい「殻Gehäuse」のなかで「戦々恐々と」「首をすくめて」生きています。論争がなければ、議論における「フェア・プレー」も、(どんな相手にぶつかっても、「力およばずに倒れることは辞さないが、力を尽くさずに挫けることは拒否する」という)フェアな挑戦の精神も、育ちようがありません。その間に、先人の仕事は忘れられ、連続的な発展-深化の軌道は敷かれず、学問は衰退の一途を辿っていくのでしょう。

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さて、「倫理論文」の方法論上の限界に目を止めたうえで、『論集』「序文」の一節に戻りますと、その含意がよく読み取れます。すなわち、「倫理論文」では、「資本主義の精神」と「禁欲的プロテスタンティズム」との「意味上の選択的親和関係」という「捉え難い側面」に、確かに「解明 (的理解)」の方法は適用して光を当て、「追究(アプローチ)は試み」、「明証性Evidenz」のある「理解」には到達したけれども、それを仮説として、その「経験的妥当empirischc Geltung」を他の分析的経験科学では普通におこなわれている)「因果帰属」の論理に即して検証するにはいたらなかった。そこで、この『宗教社会学論集』ではまず、「倫理論文」と「ゼクテ論文」の後に、「比較宗教社会学試論」という副題のついた「世界宗教の経済倫理」シリーズを配置し、(「倫理論文」では「歴史科学的」ではなく、「歴史的」に捉えられたにすぎない)「禁欲的プロテスタンティズム」と「近代資本主義の精神」との「因果関係」を、そのように西洋文化圏内に「孤立」させては置かず、こんどは中国・インド・古代パレスチナなど、他の諸「文化圏」との比較のパースペクティヴのなかに移し入れて、ひとまず「前者がないところでは後者も発生しなかった」と確認したうえ、前者のいかなる特性が、どのように後者の発展を規定したのか、を究明して、「西洋的発展の分析」に資する、(そのようにして、社会学に媒介されはする)勝義の「歴史科学」に戻ろうと意図していたのでしょう。

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ここでひとつ、具体例を挙げますと、「ヒンドゥー教と仏教」では、インドと西洋というふたつの文化圏における宗教発展が広く見渡され、宗教性の「普遍的諸要因比較対照されます。その結果、第三章(終章)「アジアのゼクテ救い主宗教」では、インドでも、 12世紀にはラーマーヌジャ、14世紀にはラーマーナンダによって「宗教改革」がおこなわれ、➁「小市民層」を社会的基盤として「カースト秩序」は否定し、➂「現世超越的人格神」(たとえば太陽神ヴィシュヌ)を崇拝し、➃「自発的結社」として「信徒団(ゼクテ)」を結成し、➄ その長 (導師(グル)) を「救い主」として敬う――そのかぎりでは、西洋近世の「禁欲的プロテスタンティズムのゼクテ」にも比肩されうる――「教団」が簇生している事実(たとえば、織布工間に普及した「カビール・パンティ」)が注目されます。ところが、それだけの諸条件は出揃ったにもかかわらず、インドにおける発展は、「禁欲的宗教性」には帰着せず、むしろ個々の「信徒団」で「生ける救い主」に跪拝する「現人神崇拝Anthropolatrie(という一種の「偶像崇拝」) に陥っていったというのです。

そこから、「では、インドでは、『禁欲的宗教性』の発展という観点から見て、何が欠けていたのか」と問われましょう。この問いへの答えとして、ひとつには、「業と輪廻転生の教理を前提としていったん確立した『遁世的瞑想』の救済目標-救済のうえでは、(宗教的感性と意欲に恵まれた)『宗教的達人層Virtuosen』が、自分個人の救済追求には専念するとしても、『信徒大衆』の『救済』に関心を寄せて能動的に働きかけることは(「業教理」の「救済個人主義」を前提とするかぎり「無意味」と感得して)実施しなかった」という事実がクローズ・アップされます。その結果、平信徒大衆はむしろ、「達人」の「並外れた功業によって達成された恩恵」の「おこぼれ」に与り、そういう「剰余恩寵」を「手っとり早く買い取ろう」とし、「呪術」的ないし「聖礼典」的な手段に頼って、自分自身の「生き方」の「禁欲的自己制御」には到達しなかったというのです。そこからは、「達人と平信徒大衆との関係如何」という「比較の観点」が取り出され、これが社会学的「決疑論体系」に編入され、いつでも「西洋的発展の分析」等々の歴史科学的研究に反転-適用され、活かされていくでしょう。

ところが、いまひとつ、西洋でも古代末期には、「自由な遍歴修行者たち」が、ヨーロッパ各地の辺境で、当初には「秘術師Mystagoge」として周囲に「顧客」を集め、そこからやがて「教団Gemeinde」を結成し、インドと同様、「生ける救い主」として崇拝される傾向が生じていたようです。ところが、西洋では、「ローマ教会」が、ローマ法を継受していちはやく聖職者を「官僚制」的に組織化し、中央集権的な統制力を強化して、一方では「インド型の現人神崇拝」傾向を萌芽のうちに摘み取り、他方では (「即人・個人カリスマ」を優先させて、教会の「官職カリスマ」を貶価しがちな)「遍歴修行者」層を、「修道院」の「共産主義」的集住施設に収容して、「教会救済財庫剰余恩寵を蓄える労働者として活用し、この面でも「教権制的hierokratisch」な中央集権を拡大-強化して、俗権に対抗したという (やはりインドには欠けていた) 事情が、注目されましょう

そこから、ヴェーバーは、そういう新たな比較の観点を獲得して、「倫理論文段階のローマ・カトリック評価は改め、「比較宗教社会学試論」の執筆と発表を終えた暁には、翻って、ローマ教会による局地的現人神崇拝の簇生阻止を、「個々の布教地域に即して」、こんどは歴史学的に究明していくつもりでいたと思われます。そういう歴史学的研究にいたって初めて、「倫理論文」に発した後期ヴェーバーの学問・経験科学は、そのように「理解社会学」に媒介されはする「正-反-合」の思考運動を、ひとまずは完遂することになったでしょう。

それに比して、「理解歴史学」との緊張を欠き、「理解社会学」を実体化している単眼硬直性の短見的専断は、「倫理論文」を「理解社会学」と決めてかかって、その固有価値を貶めるばかりか、『論集』への配置換え意義にも、『論集』後の研究構想にも、思いがおよばず、ヴェーバーの学問をいくえにも切り縮めて矮小化し、それだけ「贔屓の引き倒し」に陥っている、というほかはありません。

*

さて、ヴェーバーが、『宗教社会学論集』の編集にあたり、一方では「倫理論文」側に補注を施し、他方では『論集』側の冒頭に「序文」を冠して、双方からの位置づけを怠らなかった事実とその「意味」については、以上の論証により、十分納得された、と解して、先に進んでもよろしいでしょうか。

それでも、なぜ「倫理論文」が第一論文として実質的諸章の冒頭に置かれるのか、という疑問が、なお残されているかもしれません。しかしそれは、「倫理論文」のテーマと内容が、まずもって欧米近代人の読者に差し向けられた、学問的ながら「実存的な問いかけ」であって、「欧米近代のEnklave (自国内の飛び地)」で「囲繞地」市民との緊張関係に生きる一学究・マックス・ヴェーバーが、市民読者と共通のトポス」から出発して、即自的な「自己中心-自文化中心性」からの脱却を促そうとした「責任倫理的配慮と実践の一環として、十分に説明されましょう。かりに、『論集』が、「序文」のあと、いきなり「儒教と道教」から始まって、「東から西に進む」ように配置-編集されていたとしたら、いったいどういうことになったでしょうか。

ここではむしろ、ヴェーバーが『宗教社会学論集』という表題を掲げ、『歴史社会学論集』ないし『文化社会学論集』とは題さなかったのはなぜかが、問うに値する関連問題として浮上してきましょう。

[ここで、テーマが少々変わりますから、また一休みします。

202173日記、つづく。折原浩]