記録と随想24――中野氏の応答 (617) への応答 (その2)  (6月23)

 

中野氏の問題設定 :「『プロ倫』は理解社会学ではないのか?

折原の解答:「はい、理解社会学ではありません。」

 

1. ある著作、たとえば「倫理論文」が「理解社会学」であるか否かは、一方では、その内容(とくにテーマの選定と論証の仕方)、他方では、「社会学」とはどういう学問か、にかんする概念に照らして、検証され、確定されなければなりません。その著作が「有名」であるとか、どの時期にどういう文献で何回言及されているとか、およそそうした外面的事情(それだけで)は、間々重要な参考資料とはなっても、畢竟、学問上の決め手とはなりえません。

  小生は、611日付けの拙稿に、このふたつの要件を充たす解答を明記しました。ところが、中野氏は、それらの解答内容には言及せず、もとより応答もせず、もっぱら、あるいは主として、氏一流の、コンピュータ検索による文献学的「検証」にずれ込んでしまっています。その「検証」がはたして、拙論の解答を覆すに足るかどうかについては、後段5.で採り上げて応答しましょう。

小生が前稿に明記した解答の要点は、「倫理論文」では、 もっぱら研究者マックス・ヴェーバー個人の「価値関係」に準拠して、まだ独話論的任意に研究テーマが設定され、② 歴史を貫いて存立してきた「人類の協働生活」総体にかんする普遍的な把握――「経済」、「宗教」など、生活諸領域の類型的分化と、それぞれにおける相当程度の普遍性をそなえた類型的発展の諸相にかんする類-類型概念の設定――が欠落していること、この二点でした。

ちなみに、この は、「まだ」という表記に引きずられて、「まだ『社会学』的な問題設定にいたってはいないからそれだけ『価値低い』」というふうに速断されてはなりません。この問題については、後段4. で敷衍し、「倫理論文」の固有価値を特定しましょう。

さて、「倫理論文」は、そういう「任意のテーマ選定による個別研究」に止まっていて、そこには、この のような把握と設定は欠落しています。ところが、これこそ、「一般化的法則科学」としての「ヴェーバー社会学」の関心事・到達目標にほかなりません。そこに、(当時の「社会科学方法論争」におけるメンガーの画期的な「ドイツ歴史学派」批判など批判的に継承しつつ編み出された)「解明的理解」の方法が適用されて、「ヴェーバー理解・社会学」が成立します(拙稿「マックス・ヴェーバーにおける社会学の生成――190307年期の学問構想と方法」、神戸大学社会学研究会編『社会学雑誌』、第20号、2003: 3-41、参照)。

しかし、学問に完成はありませんから、そういう類-類型概念群を最大限に包括的な「決疑論」体系に整序しておいて、常時、迅速で的確な「理解歴史学」的適用-応用による「因果帰属」と「実践的予測」にそなえるほかはないのです。

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さて、ヴェーバーが、そういう「決疑論」体系の構成に着手したのは、「旧稿」(「1910-14年草稿」)においてでした。たとえば、その「宗教ゲマインシャフト」章、§1で、「宗教とは何か」につき、宗教的「行為者」の「主観的に抱かれた意味」に準拠して、「経験科学的・理解社会学的」な概念規定がなされ、そこから始めて、「宗教性」を構成する一般的普遍的諸要素にかんして、つぎつぎに、やがては「救済目標」や「救済道」といった類-類型概念が、設定されていきます。そして、それらを踏まえた最終節§12文化諸宗教 (歴史的世界諸宗教) と現世」で初めて、「倫理論文」で主題とされた「禁欲的プロテスタンティズム」こんどは「宗教性」にかんする類-類型概念のそういう理論的枠組みのなかで、同じく「現世志向的weltgewendetではある「儒教」や、対極的に「遁世的瞑想weltflüchtige Kontemplation」に向かった「初期仏教」など比較類型論的に対比され、「現世内禁欲innerweltliche Askese」として性格づけられ、位置づけられます。そのうえで (まだ、因果帰属にはいたらないまでも)(近代) 資本主義」との意味上の「適合性」が問われます。まさにそこまでは、「理解社会学」的考察が凝らされたのです。

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とはいえ、「因果帰属」には、いたっていません。それというのも、「因果帰属」には、「かりに、他の諸要因は一定に制御されたとして、当の『現世内禁欲』類型の宗教要因なかったとしたら、そうした条件下で、『近代資本主義』は発展しえたろうか」と問う、他の文化圏 (「実験群experimental group」にたいする)「対照群controlled groups」として射程に取り込む思考実験」(による「客観的可能性判断」)が、必要とされます。ところが、それが、「旧稿」ではまだ、実施されてはいないのです。

そういう「因果帰属」には、他の諸文化圏Kulturkreise」の他の諸要因も射程に入れる――ですから、「宗教史」のみでなく、諸文化史」も包摂する(!! ――、あたうかぎり広範囲の「比較文化的研究」が必要とされます。ヴェーバーは、この必要に応えるべく、科学論、社会学、歴史学 (諸文化史学) の三者を、(後二者は、方法論上は峻別しつつも)内容上は相互補完的に統合総合していく学問構想を立て、これを実施に移します。その構想が、『宗教社会学論集』、勝義にはその「世界宗教の経済倫理」シリーズで、「比較歴史社会学」として最大限 (かれの不慮の死によって途絶えるまで) 実を結んでいるのです。

そういうわけで、「倫理論文」がいかに「有名」で、「内容充実」しているとしても、そこで一気に、なにもかも出揃い、「理解社会学」が成立し、それに媒介された「因果帰属」まで達成されている、とはいえません。そんなことが、一挙に起きるはずもありません。そういう荒唐無稽な臆断が、無反省にどれほど広まっていようとも、そんなものは、ヴェーバーにおける学問の(上記の)動態発展を見落とした短絡的速断としかいいようがなく、対象認識として失当であるばかりか、判定規準としても「社会学とは何か」の反省を欠く「無概念的学問観・社会学観」の吐露というほかはありますまい。あの、歴史的センスに富み、概念的思考にかけても緻密なマックス・ヴェーバーが、そういう粗野な臆見に囚われ、自作の学問的性格も見誤ったなどと、どうして考えられましょうか。

 

2. さて、これまでの「中野-折原論争」からは、中野氏こそ「ヴェーバー理解社会学」の精通者にして擁護者、折原はその無理解な貶価者-否定者、という印象が生じているかもしれません。しかし小生、じつは「真逆」だと思っています。歯に衣を着せずにいってよければ、中野氏流の「思い入れ」(端的にいえば「臆見」「先入観」)によって、ヴェーバーの思想運動の動態(小生にとっては、「難船者」の「思想」模索として追跡され、浮き彫りにされる、上記のような「正-反-合」の学問発展) を見失い、「すでに『プロ倫』で『理解社会学』が出来上がっていた」などと見誤るならば、かえって双方を「固定化」「矮小化」し、本人には気付かれない「随伴結果」として「贔屓の引き倒し」を招く虞れなしとしません。はっきり言って、そういう「単眼性・硬直性の臆見」から、かつては柔軟で「複眼的」だった中野氏を「なんとか救い出そう」として、そのために、ヴェーバー自身における「個性化的歴史諸科学」との緊張関係(その、謙虚にして分かりやすい範例が、ヴェーバー自身による歴史家フォン・ベロー宛て1914621日付け書簡です)を回復-復権させ、歴史学者との実りある交流にも道を開こうとしているのです。

 

3. ところで、「倫理論文」を「理解社会学ではない」と断ずることは、なにも「倫理論文」そのものを貶め、「理解社会学」的著作以下に「格下げ」することではありません。小生は、そういう「眼性価値硬直(「価値自由」) に陥ってはいません。「倫理論文」には、「理解社会学ではないにもかかわらず」、否むしろ「理解社会学ではないからこそ」、かえってそれだけ大きな固有価値 (当初、著者自身により、まさに独話論的な「価値関係」に依拠して) 賦与され、(今日でも) 宿りつづけている、と小生は確信しています。というのは、下記のとおりです。

マックス・ヴェーバーは、(「人生行路」の三階梯論から見ますと) 第二階梯の「難船者」の生に移行し、当初の「悪あがき」を止め、自分の運命と和解したときに初めて、「職業人しか完全な人間とは見ない」(まさに「禁欲的プロテスタンティズム」に連なる) 周囲の人間観に「驚き」、違和感を抱き、それから解き放たれて、むしろ問題として捉え直し、見据えることができるようになりました。同時に、そういう人間観に無反省に馴染み、「学問的業績」達成に明け暮れていた自分自身をも顧み、人生の多様性や深みに目を開かれながら、「もうあんなふうにはならない」と言明して、第一階梯の(「学校秀才」の延長線上にあった)自分とは訣別します。そこまでは、中野氏も、50年前の折原による「意義発見」として評価してくれています (中野書、p. 81)

ところが、重要なのはむしろ、(中野氏が引用を止めた) その後の「精神の苦しい作業」でしょう。「難船者」ヴェーバーは、「難船状態」からの「脱出」という「生の救済」を賭けて、時代の思潮 (人間観、世界観) と対決し、新たな学問構想も含む「新生」の岸辺を求めて、一歩一歩、抜き差しならない試行錯誤を重ねていきます。その経緯を、(「難船者」としての「共感を籠めて」とは要求しないまでも) 学問としてしかるべく丹念につぶさに追跡して、(「年譜にまとめる」のではなくとも) 主立った節目には必ず目を止め、前後の比較-対照によってその間の変化 (思想の進展深化) を探り出し、創成新生の要素を浮き彫りにし、逐一確認していく課題は、人間の「生き方Lebensführung」に焦点を合わせる勝義の倫理学ではなく、たんなる「思想史」研究にすぎないとしても、「解明的理解」の方法を適用する「理解科学-理解歴史学」 的研究であるかぎり、避けては通れないはずです。

ともあれ、そういう研究の蓄積が、中野氏にはかつてあったし、いまもあると信じたいのです。ところが、今回の著書(とその後の議論)では、それがどうも影をひそめ、ア・プリオリな断定と、コンピュータ検索による語彙の出現回数の挙示といった(機械的にして思想的な)「検証」とに、とって代わられているように見受けられます。そういう学問上は明らかな退行と欠落が、(中野氏にも、評者にも) 問題とされない、見紛うかたなき惨状が、小生には悲しく、看過できず、65日には思わず長広舌を揮うにいたりました。

1920年、なんと56歳で、あれだけの『比較歴史社会学』的労作をものしたヴェーバーの不慮の死後、なんと100年にもなるのに、あなたがたはいったい何をしてきたのか、と問われたら、いったい何と答えるのでしょうか。ヴェーバーが草葉の影から身を起こして、この光景を目の当たりにしたら、いったい何というでしょうか。

 

4. それでは、「倫理論文」の固有価値とは、でしょうか。

それは、著者マックス・ヴェーバーが、思いがけず「難船者」となり、周囲の人々の「職業人しか完全な人間とは見ない」人間観と(その背景をなすと思しき、おそらくは相応の広がりをもつ、包括的な)世界観に、周囲の社会-文化環境の問題と見て衝突-対峙するばかりでなく、そのかぎりではなく、かれ自身の生活史が抱えこんでいた実存の問題として、その深みに降り立って、その限界点から捉え返し、対象化していったこと、しかもそこから、その広がりと歴史的始原をも究明すべく、それに相応しい方法を模索し、編み出しながら、内容上も、一連の研究テーマとして設定し、振れることなく歩んだ、実存的思索者としての一貫性と、それによって初めて生み出された思想形象の独特の深さ、に求められましょう。そういう「局面」に踏み出した最初の作品が、経験的モノグラフとしては「倫理論文」だったのです。

「倫理論文」における問題設定の固有性と射程については、拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未来社) の第一章「基本構想――ヴェーバーにおける実存的問題と歴史・社会科学」に、1. 職業観問題――神経疾患による挫折と再帰の狭間で、2. 実存的原問題と「倫理 (論文)」のテーマ、3. 自己洞察からヨーロッパ近代の自己認識へ――「倫理」以降の展開、と題する三節を設けて、詳細に論じていますので、よろしかったらご参照ください。

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ところで、そういう真正の実存的思索者は、「単独者」としての自己自身に拘り、自分の「生き方」を「本来的実存」という方向で掘り下げ、問題設定の根底に据えて離さない、という「長所」をそなえています。ところが、通例、まさにそれゆえ、そうした「長所」とは表裏の関係にある、相応の「狭さ」「即人的-個人的心意Gesinnungへの固執、さらには閉塞」という「弱点」を抱え込む傾向を、ともすれば免れられません。それは、当時の時代思潮を一方で代表していた「実存主義-実存哲学」の始祖、Sキルケゴールに、明白に認められるところです。この点については、拙著『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』上 (1981、三一書房、補説Ⅰ「倫理」におけるウェーバーの方法: 98-99; 31-33: 117-20) および『東大闘争総括』(2019、未來社:  48-50) で、やや詳細に論じていますので、よろしかったらご参照ください。

ところが、マックス・ヴェーバーは、まさにそういう「狭さ」の境地から出発して、その「長所」はあくまで活かしながら、表裏の弱点は克服すべく、ある意味で正反対の方向にも、逞しく歩み出しました。すなわち、人類の歴史を貫いて存続してきた「協働生活」総体視野を広げ普遍的な生活諸領域への普遍的な分化と、各領域における類型的な固有法則的発展、それにともなう領域間「緊張関係」の発生ならびにその「決着-解決」を俯瞰しつつ、類-類型概念を構成し、それらを「決疑論」に整備-体系化しておき、そのなかでそのなかでこそ、自分ないし自分たちの実存的諸問題をも捉え返そうとしたのです。まさにそのためにこそ、「普遍化的法則科学」としての社会学を必要とし、その諸概念を構成し、迅速かつ適正な適用にそなえて、「決疑論」に編成したのです。

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ヴェーバーの思索は、この面にかぎっていえば、当時の時代思潮のなかでは、ヘーゲルにも比肩されましょう。ヴェーバーは、「キリスト教的終末論の残滓と汎論理主義からは解放されて、歴史哲学を経験科学(比較歴史社会学)として構想したヘーゲル」ともいえますまいか。ヴェーバーが「世界宗教の経済倫理」「序論Einleitung」の注で、シリーズの配列が、「東から西へ」となっているのは「偶然」で、ほんとうは「そういう外面的な、地域による配置ではなく、論述の目的に沿った内面的な理由による」(/19: 119, Anm.3, 大塚・生松訳『宗教社会学論選』1972、みすず書房: 83) とわざわざ断っているのも、ヘーゲルの歴史哲学を念頭に置いて、「亜流と見られたくない」という「拘り」があったからではないでしょうか。

それはともかく、ヴェーバーは、以上のとおり、「狭さ(深さ)」と「広さ(浅さ)」との対立を止揚する方向に、自覚的に歩み出しました。その点にかけて、また、そういう至難の課題を負い、『宗教社会学論集』全三巻という思想形象を創出し、具体的に軌道を敷いた点で、20世紀初頭のヨーロッパ思想史における「ヘーゲル(マルクス)後の実存思想家the post-Hegelian, -Marxian, existential thinker」(拙著『東大闘争総括』: 79、参照)として位置づけられましょう。

 

5. さて、以上の「総論」を踏まえたうえで、中野氏流の文献的「検証」にもお付き合いし、(コンピュータ検索が不得手な小生としては) あまり気乗りはしない議論にも、立ち入ることにしましょう。

  中野氏は、「倫理論文」とほぼ同時期の、初期の」ヴェーバー作品群にあたって、「社会学者」ないし「社会学」の用例を網羅的にコンピュータ検索し、ヴェーバーが自分の論考を「社会学とは呼んでいない」事実、中野氏流にいえば「『社会学』という学問に対する初期ヴェーバーのごく慎重な学問態度」を検出します。それはそれで結構、というよりも小生には当然のことで、「うまく言い換えたな」と感心はしても、別に異論はありません。

ところが、中野氏は、そこから一挙に、『宗教社会学論集』(ヴェーバー死後1920年以降に公刊) 飛躍し、ヴェーバーが「倫理論文」をその第一論文として配置-編入した外形事実を挙示し、(なにか「鬼の首でも取った」かのように)「これでも折原は、ヴェーバーの主著として大切な『宗教社会学論集 第一巻の第一論文は『社会学ではない』と主張する気か」と斬り付けてきます。「お見事」「一本とられた」といいたいところですが、残念ながら、そうはいきません。

 それというのも、ヴェーバーが「倫理論文」初版を『アルヒーフ』への寄稿として発表した時点 (1904-05) と、『宗教社会学論集』の編集にあたって、一方では「倫理論文」そのものに改訂と補足説明を加え、他方では『論集側の序文Vorbemerkung」「序論Einleitung」「中間考察Zwischenbetrachtungなどにも、頻繁に「倫理論文」への(顕示的、黙示的)参照指示を付し、そのうえで確かに第一論文として配置した時点 (1919-20) との間には、約15年の歳月が経過しています。その間、一方では、ヴェーバーの側に思想発展があり、他方では、かれの労作を書籍として繙読し、解釈する読者の側にも、相応の状況変化が生じているはずです。としますと、1920年時点にかけての条件変化、したがって変化した状況における「倫理論文」配置意義」むしろ「意義変化Bedeutungswandelを無視して「『倫理論文』が『宗教社会学』だからだ」などという性急な同一視――じつは、以下に論証するとおりの無概念的短絡――に陥ってはなりますまい。

  ヴェーバーは、その中間期にあたる1914年には、先ほど本稿1.で要約しておいたとおり、「旧稿」をいったんは仕上げ、その「宗教ゲマインシャフト」章の最終節で初めて、「禁欲的プロテスタンティズム」を、儒教、仏教、カトリックなどと比較類型論的に対比し、「現世内禁欲」として性格づけ、位置づけ、そのうえで (まだ、因果帰属にはいたらないとしても)(近代) 資本主義」との意味上の適合性」は問う、まさにそこまでは「理解社会学」的考察を凝らしていました。その後、かれは、その「旧稿」に改訂を施したうえ、『経済と社会的秩序ならびに勢力』と題して、やはり公刊する予定でいたのです。ですから、それと『宗教社会学論集』との二大主著が共に公刊された暁には、読者は両著を手にとって読み比べ、相互補完的にも解釈できるようになっているはずです。とすれば、著者マックス・ヴェーバーは、当然、そういう出版読解状況を予想し、期待して、他ならぬ『宗教社会学論集』を編集し、その一環として「倫理論文」を第一論文として配置したにちがいありません。かれは、じっさい (本稿中、この5.項の後段で、具体的な引用も交えて論証するとおり)、一方では 「倫理論文」そのもの改訂補訂を加え、他方では 『論集』 (とくにその「序文」「序論」および「中間考察」といった「理論的」、じつは後述のとおり「社会学的な挿入篇) にも、「倫理論文」への (顕示的また黙示的) 参照指示解説語句をふんだんに挿入して、双方から、まさに「倫理論文」を第一論文として配置し、全篇を『宗教社会学』と総称する「意味」を解き明かし、読者に伝えようとしていました。

ですから、ヴェーバーがそういう編集作業時に加えた双方の改訂を、まずは内容上よく調べて、そこからかれが、各時点の歴史的状況に企投した個性的「意味」(とくに「倫理論文」配置の「意味」) を「明証的に解き明か」して、『論集』全篇の読解に資することが、真っ先に、『論集』そのものにかんする「理解科学」的・「理解歴史学」的研究課題として設定され、具体的な論証が実施されなければなりません。状況の変化とそれへの「意味」的対応はいっさい無視して、「『倫理論文』が『理解社会学』の変わらざる代表作ないし範例だから、『論集』の第一論文として真っ先に押し立てた」などと解するのは、なんともお粗末な非歴史的抽象的臆断というほかはなく、それをヴェーバー本人に押し被せるのでは、「贔屓の引き倒し」に陥ること必定でしょう。

この国の『学界-出版ジャーナリズム複合態』には、長らく、その種の俗説が支配的でした。ところが、「ヴェーバー没後百年」を期して、その類がまたもや初心者を捕らえ、大手を振って罷り通るとなると、学問的価値には無頓着な『学界-出版ジャーナリズム複合態』は、それだけ勢いをえて、いよいよ「集団同調性」を触発-補強し、「ヴェーバー研究」、ひいては学問研究一般の質的水準を引き下げていくのではないか、と危惧せざるをえません。

マックス・ヴェーバーという著者は、読者の置かれている状況とそこに企投される自分の著書ないし論考が、どう受け止められるか、前もって慎重に考慮し、つまり出版企画にも責任倫理的に対処し、最善を尽くそうとする意図とスタンスを持ち合わせていました。ところが、1920年、思いがけず、おそらくはスペイン風邪に罹患し、肺炎を併発して、56歳で急逝し、その意図を、自分では活かせなくなってしまったのです。とすれば、当時の状況証拠から、その意図を汲み出し、「解明的に理解」し、できるかぎり復元して、(「倫理論文」配置の「意味」「意義」も含めて) 遺された作品群の解釈に、慎重かつ柔軟に活かさなければなりますまい。よってもって、なるべく早く、かれの到達限界具体的に突き止め、わたしたち自身の展開にそなえること――これこそ、後世の研究者の課題ではないでしょうか。小生は現在、その課題を『マックス・ヴェーバー研究総括』として追求中です。

 

(残念ですが、ここで一休みします。続篇の内容は、頭のなかではまとまっていますが、上記5. にかんする具体的引用と論証も含め、書き下ろすのには、若干時間を要します。なるべく早く、5. 節の途中から再開します。)

20216 23日記、つづく)

 

[625日午前、趣旨は変えず、推敲して文面は少々改訂]