記録と随想17: 癌医療にかかわって―― 一患者の困惑と選択 (38)

 

拝啓 

梅が咲き揃い、鶯もほぼ例年どおりに啼き始めました。

年度末でお忙しいことと思いますが、お元気でしょうか。

さて、今日は、そういう時期に、芳しくもないことを、お伝えしなければなりません。じつは小生、旧臘より、種々の検査を受けた結果、身体のある部位に癌が見つかり、去る216日、全摘出手術を受けました。今後、術後のケアを受けながら、ひとつ別の部位に見つかった影とも、付き合っていくことになります。

 

昨今「癌は二人に一人」とまでいわれますが、個人の私的な案件にはちがいなく、家族以外には秘しておくのが、なお世間常識でしょう。それにもかかわらず、こうした一文を草してホーム・ページに発表するのは、いかがなものか、たいへん迷いました。しかし、ひとつには、今後も同じ事情と不確定要因を抱えて、各方面にいろいろご迷惑をおかけしかねないこと、また、いまひとつには、この疾病が、それ自体としては個人かぎりの問題でありながら、医療にどうかかわるか、となると、「 (病院・製薬会社) (厚労省) (大学) 複合体制(複合態)」と、癌医療をめぐる昨今の論争状況にも、いやおうなく巻き込まれ、思案にくれ、態度を決めていかなければなりません。そうしますと、一患者としての困惑と選択も、「高齢社会の一問題」で、なにほどかは社会的な意味も帯びます。そこでこのさい、近況報告を兼ね、この間の経緯を記し、随時所感も述べよう、と思い立ちました。

とりわけ、「1968-69年東大闘争」で、「学問とは何か」「学問・科学を、生活実践にどう活かすか」と問われて以来、「科学者が卑近な職業現場の問題には口を閉ざす『灯台下暗し』」を批判してきた小生としましては、「もっと卑近な身体の問題に直面するや、思考を停止し、専門医や医療ジャーナリズムに任せきり」というのでは、首尾一貫せず、情けない、とも思います。そういうわけで、「常識外れ」は承知のうえで、この間の経緯と念慮を、できるかぎり率直に綴ってみます。ただ、ここまでお読みいただいて、「およその事情は分かった」とご放念くださっても、もちろん結構です。

 


 

§1. 罹患の発覚と困惑

小生、旧臘には体調もよく、「来年は、年来の仕事 (マックス・ヴェーバー『宗教社会学』の全訳・解説) に専念したい、ついてはその前に、懸念材料は片づけておこう」くらいの気持ちで、ひとつには歯医者を、いまひとつには、左乳頭にできていた「しこり」を診てもらおうと、近辺のホーム・ドクターを訪ねました。そして、後者については、紹介状を書いてもらい、虎ノ門病院の乳腺外科に出向いたところ、マンモグラフィー、超音波、生体組織検査の結果、思いもかけず、「浸潤性乳管癌」と診断されました。その後、入院と予後の通院の便を考え、近辺の千葉県柏市にある国立がん研究センター東病院に移り、原発病巣からの転移にかんするCT検査と (いっそう精密な、右腋下も含む) 超音波検査を受けたところ、病名・類型・進行度 (ステージ) とも、所見が一致しました。

「男性にも、ごく稀には(当該患者約150人に一人の割合で)乳癌が発症する」とは、ホーム・ドクターから聞いて知ってはいましたが、女性的な優しさや柔軟な現実感覚に欠ける「頭でっかち」の小生が、「よりによって、まさか乳癌なんて」という「油断」があり、早期発見・早期対応の原則に反して、小さな「しこり」に気がついてからも約二年間、放置してきてしまった次第です。しかも、乳癌の治療には、乳腺外科だけでなく、腫瘍内科や放射線科など、いくつかの部局があり、まずは総合的な所見を求めたうえで、摘出手術・放射線・抗癌剤といった「標準治療」のうち、どれを選ぶか、あるいは放置するか、徐々に絞っていくべきところを、無造作に外科と決め、初めから手術への路線に乗って、選択肢を狭めてしまった、といえないこともありません。

ところが、癌医療をめぐる昨今の論争では、「早期発見・早期治療の原則こそ『誤り』で、『知らぬが仏』が幸い。もし、定期検診による早期発見のため、早期治療を受けていたら、『医因性』の病状昂進で『生活の質』は低下し、『手遅れ』よりも早く『死に至って』いたかもしれない」といった評価もあり、これには心底びっくりしました。

そんなこんなで、戸惑っていると、(医療にかけて一家言のある)長男が、最近の文献類を、段ボール箱ふたつ分、ドーンと送ってきました。そこで初めて、癌医療をめぐる1990年代から昨今までの論争を知り、(日本乳癌学会の公式のガイドラインも含め)多種多様な文献を読み漁って、どう対処したものか、思案にくれました。詳細については、いずれ総括することとし、ここではとりあえず、つぎのことだけお伝えしたいと思います。

 

§2. 薬効と治癒の科学――故高橋晄正氏の問題提起と功績

この論争の前史にまで遡りますと、日本でおそらく初めて「医療の科学性」を問い、その観点から「産・官・学 複合態」の (権威主義と利益優先ゆえに、非科学性を温存している) 問題点を批判し、告発したのは、敬愛する先輩で盟友の故高橋晄正さんだったでしょう。その問題状況に、こんどは小生が、約半世紀遅れて、一患者・一当事者として投げ込まれたことになります。

ご記憶の方もおられると思いますが、高橋さんは、「(ある薬ないし治療法を) 使っ (実施し)、治っ、効い」という「三『た』論法」を、非科学的臆断として斥けました。その論法では、「治った」という「効果」が、個別事例のかぎりで経験的・直感的に確認されても、他の諸要因は制御されておらず、何がほんとうに作用したのか、分からないからです。

しかし高橋さんは、「三『た』論法」に代えて、「二重目隠し(比較)対照試験 controlled test under double blindness」を提唱しました。これは、被験者を、同質の「実験群」と「対照群」とに二分し、前者にのみ、問題の薬を投与するか、問題の治療法を施し、一定期間、経過を観察して、薬効ないし治癒の度合いに、どれほど有意な差が現れるか、検出しようとする方法です。そのさい、「最近開発された最先端の薬を呑んだ」あるいは「最新の治療を受けている」という心理的期待作用も制御して揃えるため、「対照群」にも「プラシーボ(偽薬)」を呑ませ、誰が「実験群」に属しているのか、実験者にも被験者にも分からないように「二重に目隠し」をする、という厳格さでした。

高橋さんは、この方法を、1950年代にいち早く提唱し、当時出回っていた「グロンサン・ヴァーモント」や「アリナミン」といった「大衆保健薬」を、検証の篩にかけました。そして、60年代には、この試験に耐えられない薬を、つぎつぎに告発し、「産 (製薬資本)・官 (厚生省)・学 (大学・大学病院) 複合態」における (経済的また政治的な利害との癒着による) 非科学的慣行を、つぶさに指弾したのでした。

 

§3.個と類の矛盾

そのさい、高橋さんは、一方では、当時の思想状況における「近代合理主義批判」と、(これと連動し、共振しがちな)「漢方」の流行にも、また、他方では、「二重目隠し対照試験」に持ち込んで効果を立証しようとはしない「丸山ワクチン」(の運動)にも、いっさい妥協を拒み、「近代医学の科学性」に徹しようとしました。

ただ、「丸山ワクチン」運動の側は、個別の事例を積み上げて対抗し、「二重目隠し対照試験」には乗り出さない理由として、「癌の症状に苦しんでいる目前の患者個々人を、二群に分け、『対照群』にはワクチン投与を控えて『みすみす治療は放棄する』ような、患者をなにか『モルモットのように実験材料として扱う』『怜悧な』スタンスには、与せない」、「かりにそうした『実験』の成果が、次世代以降、圧倒的多数者の類例の治療には役立つとしても、そのために、いま、目前で苦しんでいる患者個人を『犠牲』にするわけにはいかない」(趣旨)と主張していました。

この釈明は、「近代科学」の見地からは、「丸山ワクチンの効果」を予め前提として確信してしまっている「情緒的・感傷的・非科学的」主張として、一蹴されましょう。しかし、その趣旨と動機には、そう決めつけて済ますわけにはいかない、ある問題提起が含まれていたように思われます。つまり、当の運動が、患者個々人の苦境に、格別親身に寄り添おうとする性格をそなえていただけに、「医学・医療における『 (実存) (科学) 矛盾』」を、それだけ鋭く、鮮明に感得していた、とも評価されましょう。

もとより高橋さんは、「『類』のために『個』を犠牲にしてもかまわない」などと主張したわけではありません。しかし、「近代科学」の(それ自体としては「類」の)見地に徹しようとすれば、そのかぎり、「個と類の矛盾」を前景に取り出すことは、それだけ難しくなりましょう。昨今の論争でも、この問題が、深刻に問われるべきでありながら、明確に再設定して問われてはいないように見受けられます。

 

§4. 高橋さんの首尾一貫性と市民的実践

ちなみに、小生は、1973年の春、高橋さんや宇井純氏らとともに、中国を旅しました。

そのさい、高橋さんは、「近代科学(分析的経験科学)の方法によって効果を判定されていない」という趣旨の「漢方」批判を、「漢方」の本場でも、怖めず臆せず繰り広げ、その一方、各地の「革命委員会」で、若い活動家たちに、「二重目隠し対照試験」の論理と方法手順を、具体例も交えて丁寧に説いていました。その姿が、中国大陸における大気汚染の深刻化を、客観的可能性として指摘し、未然に防ごうと助言していた宇井氏の姿とともに、いまも彷彿とします。

そのように、科学性にたいする高橋さんの確固たる信念と首尾一貫性は、それだけでも「以て範とすべきもの」でした。ところが、高橋さんは、医学・医療という自分の専門領域で会得された、科学のスタンスと方法を、専門外の市民生活にも適用して活かそうとしました。たとえば、「1968-69年東大紛争」のさい、発端となった医学部の学生処分問題につき、冤罪で処分された一学生の「アリバイ」を、学会の帰途、久留米に立ち寄って克明に立証し、医学部教授会の誤りを、内部から問い質しました。この案件そのものは、処分という不利益処遇とその「規範的・法的妥当性」の問題で、制度上は、医師・医学部ではなく、法学部という専門部局の所轄事項です。ところが、法学部の「専門家」が「口を噤む」なかで、高橋さんは「素人」ながら、目の前で起きた事件に「目をつぶる」ことなく、事実を掘り起こし、理にかなう所見を発表して、誤認処分を決定した医学部教授会、総長・学部長会議・評議会、誤決定を追認した他学部教授会といった権威に、ひるむことなく論戦を挑み、誤りを正そうと、口火を切ったのです。

そのうえ、高橋さんは、そういう科学運動や市民運動にともなう「啓蒙」活動に、既成のマス・メディアを限定的には利用-活用しましたが、そのペースに巻き込まれて「走狗」となることは峻拒し、『薬のひろば』というミニ・コミ誌を創刊して、主筆をつとめました。高橋さんの生涯は、科学と科学的市民運動の模範とも見られ、癌医療をめぐる昨今の論争を評価するにあたっても、規範的準拠標の意義を帯びています。ここで追想に耽ったのも、そのためにほかなりません。

 

§5.科学と「科学迷信」 

さて、ここから、昨今の論争に立ち入りますが、その前にちょっと「我田引水」を許していただければ、「二重目隠し対照試験」の論理は、じつは(小生が専門的に研究している)マックス・ヴェーバーの「因果帰属」の論理そのものでした。双方とも、現実には「混み」になって作用している――-したがって、そのまま同定して秤量することはできない――諸因子を、「実験室状況」(ないし「思考実験室状況」) で、それぞれ「孤立」させて取り出し、その作用を純粋に観察し、検証しようとする「分析的経験科学」で、そのかぎり一致するのが当然です。

ただ、ヴェーバーと、(ヴェーバーを「みずから哲学することPhilosophierenの当時唯一の化身」と見た、精神科医師で、後に心理学をへて哲学に転じた) カール・ヤスパースは、科学の方法を適用してえられる、そのときどきの科学的知見の限界と、したがって「その先にあるものへの無知の知」を、堅持していました。科学知の限界は、「旅人にたいする地平線」のように、どこまでいっても、そのつど後退し、科学はけっして「完成」には至りません。ところが、生身の科学者は、しばしばそれとは知らずにその限界を踏み越え、「過当な一般化」や「自己絶対化」に傾きます。ヤスパースは、この陥穽を、端的に「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」と呼び、たえず警告を発していました。

たとえば、「二重目隠し対照試験」の意義を、どんなに強調しても――たとえば、いまかりに、その厳格な適用によって、ある薬ないし治療法の「効果」が「証明」されたとしても――、それはひっきょう、「実験群」のほうが、「対照群」と比較して、どれだけ治癒が高いか、という確率蓋然性・「客観的可能性(における相対的優位)の問題にすぎず、そこからいきなり「効く、効かない」「有効、無効」といった「二者択一」論議に移行することはできません。ここで短絡して越境を犯せば、途端に「科学迷信」の陥穽に墜ちます。ヴェーバー流にいえば、「概念の『理念型 (理想型)的性格を見失って現実と混同する」通弊に捉えられます。

ましてや、たまたま知ったか、無手勝流に蒐集したか、いずれにせよ自分に都合のよい個別事例を、「三『た』論法」でいくら集積し、列挙してみても、あるいはいくら彩りを添えて美化しても、科学的論証にならないことは、いうまでもありません。

 

§6. ジャーナリズムの陥穽

ところが、そういう論法や筆法は、それだけ「歯切れがよく」「鮮やかで」「分かりやすく」もあり、相応に「大衆受け」し、本にすれば、よく売れるでしょう。出版社は、本が売れなければ「経営」として成り立ちません。そこで、編集者たちも、「出版社従業員」としての利害関心に駆られ、科学と「科学迷信」とを区別する暇もなく、双方を隔てる垣根を取り払っていきます。「もっともらしい」あるいは「どぎつい」キャッチ・フレーズで「帯び封」を飾り、新聞には大広告を載せ、「販売後、たちまち増刷」「いまやミリオン・セラー」といった「決まり文句」を乱発し、「賞 (ショー)」も演出して、出版部数を誇示し、「大衆」の「集団同調性」に訴えます。癌医療をめぐる論争にかかわっているのは大方、その種の「経営」には定評のある出版社でしょう。

したがって、医療にかかわる議論が、そうしたジャーナリズム上の「競技 (アゴーン)」に推転を遂げ、医師や科学者が、その利害や雰囲気に巻き込まれると、いつしか「科学迷信」に迷い込み、その蔓延に肩入れするほかはありません。「癌医療をめぐる産・官・学 複合体制」は、いまや「産・官・学・ジャーナリズム 複合態」として問われなければなりません。

高橋晄正さんは、広告主の製薬会社を慮って批判記事の掲載を渋る、某月刊総合誌の弱腰と闘いました。ところが、昨今の医療ジャーナリズムは、現象形態こそ異なれ、強気ながら弊害は勝るとも劣らない「科学迷信」をまき散らしています。いまや、ジャーナリズムにたいするこの批判視点を、癌医療論争をとりあげるさいの規範的準拠枠として堅持していかなくてはなりません。

 

§7.「反定立」と「再定立(反復態)」との「同位対立」

さて、小生は、「医療の科学性」をめぐる、高橋さん以降の議論の展開を、これまではやはり「他人ごと」と感得して、迂闊にも看過してきました。ところが今回、その状況に当事者として投げ込まれ、いやおうなく問題として思いめぐらすほかはなくなりました。論争の経緯と現状は、おおよそつぎのようにも要約されましょう。

いまかりに、「医療をめぐる産・官・学 複合体制」(における既成の諸関係・諸慣行) を「テーゼThese [既定立]」としますと、1990年代から、慶応病院の放射線科医師・近藤誠さんが、癌医療を焦点に、患者自身への癌告知と、不要・過剰・有害な治療法の告発とを要諦とする「アンチ・テーゼAnti-These [反定立]」を提起し、少なくとも当初には「分析的経験科学」の方法論に則って、妥当な議論を果敢に展開しました。

ところがその後、この「アンチ・テーゼ」にたいする「テーゼ」側からの「反論」が簇生し、ジャーナリズム上で熾烈に争われるようになります。そうすると、上記ジャーナリズムの問題傾向と弊害も、それだけ顕著に現われました。反論群には、かりに近藤さんが身をもって「アンチ・テーゼ」を提起することがなかったとしたらみずから「アンチ・テーゼ」を提出していたろうか、という内省がほとんどありません。他方、近藤さんのほうも、そうした「テーゼ」反復者群の「定立 (反復態)」に、ともすると「同一平面」で反応し、「同位対立」に陥ってしまったようです。その結果、議論の内容は、ジャーナリスティックにエスカレートして、互いに相容れない「極論」の様相を呈してきました。片や、「『真正な癌』であれば、再発するか、つぎつぎに転移するか、どちらかで、治療は『無意味』、他方『癌もどき』であれば、治療は『不要』」と主張して「放置」に誘い、片や、「患者よ、『医療否定』の『近藤教』に騙されるな、『がんもどき』は『おでん』のなかにしかない」などと声を荒らげ、都合のよい個別事例をクローズ・アップしては、自説の擁護に躍起です。近藤さんの問題提起を正面から受け止めて「ジュンテーゼSynthese [総合]」を模索しようとする気配も思慮も、ほとんど見受けられません。

そのように、双方が過熱気味の「同位対立」に陥り、それだけ「科学迷信」に推転を遂げて、「ジュンテーゼ」は熟さない、熟しようがない、というのが現状のようです。双方とも、「有効か無効か」の判別規準はひっきょう (たとえば「五年生存率」といった)  確率・蓋然性・客観的可能性の問題で、それで「有効-無効」を云々し始めれば、いつしか科学の限界をこえて「科学迷信」に迷い込む、という陥穽に無自覚です。ましてや、「医療における個と類の矛盾」を、癌医療の実態に即して、問題として再設定し、解決の方途と規準を具体的に模索しようとするスタンスは、窺えません。

ところが、まさにそうした現状では、患者のひとりひとりが、いまや、両極の狭間に立ち、自分に固有の「ジュンテーゼ」を、自分の実存に即して模索するほかはありません。当事者個々人が、そういう境位に追い込まれてきています。これはなるほど、「安心してつかまれる柱がない」「芳しからぬ苦境」にはちがいありません。しかし、まさにそうであればこそ、いまやひとりひとりが、当事者として自己選択-自己治療の出発点に立たざるをえません。思いがけず、生死を賭けた「主体形成のチャンスが訪れた、といえないこともありません。近藤さんが、ジャーナリズムにおける啓蒙活動に乗り出した初心の狙いは、まさにここにあった、とも思われます。

 

§8.「ジュンテーゼ」への体制内萌芽

それでは、制度上は、既存の「産・官・学 複合体制」に所属している医師たちや看護師たちは、どうでしょうか。そちら側に、「アンチ・テーゼ」を受け止め、医療の現場に即して「ジュンテーゼ」を模索する動きないし契機が、芽生えてはこないでしょうか。くるとすれば、どこに ?

この点、小生には正直、よくは分かりません。大規模な「医療社会学」的実態調査が必要とされるところです。しかし、そういう契機を探る方向については、「1968-69年東大闘争」以降、また「2011年原発事故」以後、大状況の推移に関心を寄せ、主だった動きは見守ってきたひとりとして、小生なりの持論はあり、これを、この問題にかんする仮説として提起する用意はあります。

すなわち、この問題についても、近藤氏の問題提起に同調して「体制に」跳び出し、「アンチ・テーゼ」を声高に復唱する、いわば「体制外論客」ともいうべき浮遊層は、信頼するに足りません。かれらは、専門的技量を持たず、徐々に現場感覚を失って「先細り」するばかりでしょう。それに比して、「体制」にあって「標準療法」の専門的技量は持ち合わせ、黙ってはいても、近藤氏の問題提起とその意義は認め、現場からの漸進的改革の機会を窺いながら、日々診療に携わっている専門医師や専門看護師たち、とくに(現場の問題にたいする鋭敏な感性をそなえた)「批判的少数者」の側には、「ジュンテーゼ」への萌芽が兆し、契機が出揃うことも、ありえなくはない、と期待されます。

それに比して、近藤氏自身は、先駆的問題提起者としての役割を終え、もっぱら「啓蒙家」として、むしろ「悲劇的運命」をたどることになりましょう。つまり、他ならぬ氏自身の告発と批判の趣旨は受け止めた現場の医師や看護師による漸進的改革改善に、(「セカンド・オピニオン専業」では、いかんせん) 専門的技量としても現場感覚としても、追いついていけず、「浦島太郎」になり、「闘いの成果がみずからの墓穴を掘る」悲劇に陥るでしょう。同じく「医療の科学性」から出発した高橋晄正さんと近藤氏との分岐点は、(科学論の深浅、精粗はともかく)ジャーナリズムに翻弄されず、潔癖に科学に止まるスタンスを、堅持できるかどうかにかかっていた、ともいえましょう。

もっとも、近藤氏にしてみれば、「改善」はさほど進まず、楽観はできないから、現状ではあえて「悲劇的運命」も引き受け、みずからの「使命」をまっとうするのみ、ということかもしれません。なるほど、旧体制の問題はなお多発し、(「悪徳」ないし「権威主義」の弊害は論外としても)、たとえば、「術後療法」(あるいは「単独療法」) として新開発の抗癌剤を投与しても、しばらくすると「耐性」が生じ、薬種を代えても、また同じことが繰り返され、副作用ばかりが昂進し、そういう「医因性」の「悪循環」ないし「負の螺旋」が「生活の質」を著減させ、寿命を縮める、という問題が、未だに残され、そのかぎりでは、旧パターンの告発と啓蒙をつづけなければならない、といえましょう。

しかし、類例ないし並行現象を採り上げれば、1960年代から70年代にかけては、「公害」と口にするだけでも「一部過激派」と指弾される現実が圧倒的に優勢でした。ところがそのうち、徐々に(見方によっては急速に)「反公害」が常識(少なくとも建前)とはなりました。それと同じように、この間、癌告知と「インフォームド・コンセント」が、常識(少なくとも建前)とはなって、医師や看護師も、患者の疑問にむしろ先手を打って積極的に答え、患者の選択には応じようとするスタンスが、徐々に(あるいは急速に)普及してきたのではないでしょうか。この局面では、問題解決の重点はむしろ、素人の患者自身が、(専門家の積極性に「はぐらかされる」ことなく)、どの程度、当事者として、同じく積極的に対応し、考えられる選択肢の利害得失(「メリットとデメリット」)みずから秤量し、専門家の技術的協力を取り付けていけるか、という「主体形成如何にかかってきた、といえますまいか。 

 

§9.「ジュンテーゼ」への他の諸萌芽

そうした患者自身の選択との関連で、「ロカボ」とか「ケトジェニック」というような糖質制限の「食事療法」で、癌細胞をいわば「じわじわ兵糧攻め」にしようという発想の実践例が、癌医療の周辺ないし隣接領域から出されているようです。これらは、そう極端に走らなければ、さほどの副作用はなさそうで、個々の患者がすぐにでも採用でき、急速に普及してきたようですし、今後も普及していくにちがいありません。ただ、それらが、手術・放射線・(「標的薬」「免疫制御解除剤」なども含む) 抗癌剤による「標準治療」に、どの程度とって代わり、「ジュンテーゼ」になり切れるかどうか、となると、未決定かつ疑問といわざるをえません。それぞれの首唱者も、いまのところ「支持療法」と称し、「標準治療」の補完療法として位置づけているようです。

他方、「癌細胞はやっつけても、正常細胞は温存する」選択作用のある抗癌剤や、近赤外線や特異な放射線の標的照射法など、最先端の研究が進んで、やがては敗戦直後の結核と同じく、ストレプトマイシンに照応する特効薬や、相応の治療法が開発され、「癌も過去の病気になる」という楽観論も登場し、マスコミでは勢いを増しています。なるほどそうなるにこしたことはなく、そういう先駆的研究を見守っていくことは大切ですが、それとの「スピート競争」に期待をかけるには「まだ早い」というのが実感です。

 

小括

おおよそ以上のような現状分析と状況判断により、小生個人としては、自分の癌の部位・類型・ステージを勘案し、一方では「放置した場合の、浸潤の進行・症状の昂進・『生活の質』の著減ないし漸減」、他方では「手術そのものと再発や転移のリスク」というふたつの客観的可能性の間で、しばし戸惑いながら熟考し、医師にも、丁重かつ率直に質問し、議論を交わしました。たとえば、「事前に病巣を縮めて『縮小手術』に持ち込む『ホルモン剤療法』を、いわば『前倒し』にして、『糖質制限食』と併用し、手術を避けることはできないか」と、手術専門の外科医にあえて問い、議論のさなか、「マスコミに毒されているの『ではない』だろうが、もっと精確な知識にもとづいて、判断しなければいけない」と諭される、といった具合でした。国立とはいえ、癌治療の臨床に特化し、徹している癌研究センター東病院は、おそらく大学病院などに比べ、「インフォームド・コンセント」に対応する姿勢と制度面の保障が、それだけ進んでいる、という印象でした。一時は、「手術は見送り、データを保存してもらって、定期的に検査を受け、病変が現われたら、再診予約をとる」という線で、「外科-手術路線」とも距離をとろうとしましたが、その後、この部位類型ステージにかぎっては、やはり手術による「緩解」できれば「根治」の可能性に賭けよう、と思いなおしました。患者と医師との信頼関係のなかで個別に交わされた議論の細部を、一方的に公表するのは、信義に反するので、このへんで止めますが、医師には、「放蕩息子の帰還」を受け入れる度量と、「癌が、さほど進行しないうちに見つかったのは幸運で、老齢とはいえ、根治へのこのチャンスを逃すのは得策でない」という判断と確信がある、と感得されました。

その結果、去る214 日に入院、16日に左乳頭全摘出手術を受けました。

22日に無事退院。いまのところ、元通りに元気を回復し、一番気懸かりだった左手の麻痺もなく、このとおりパソコンに入力しています。

 

ただ、転移の有無にかんする、途上のCT検査では、「肺に、乳癌の転移ではなさそうな影がある」と診断されました。「乳癌の転移でなさそう」というのは、「左乳頭に近い左腋下リンパ節には転移がなく、したがってリンパ液に乗った全身への転移には至っていない」という説明で、「腋下リンパ節郭清」は避け、「センチネル・リンパ節」という最寄り部位の組織・生体検査で、代替できました。

しかし今後、原発病巣の再発も、潜在していた他部位の発症も、「客観的可能性」としては否定しきれず、考えておかなければなりません。手術の予後を見定めながら、今後の対応を模索していこうと思います。なるほど、この歳になりますと、どこに癌が巣くっていても不思議はないかもしれませんが、「だから治療も対処方針の選択も無意味」「どうせ死ぬなら癌がいい」ということにはなりません。ただ、今後、この肺のほうが「難事」かな、という予感はあります。

 

そういうわけで、旧臘までは思ってもみなかったことですが、小生も、連れ合いの慶子も、敗戦後の激動の一時期を、齢81歳まで、よく元気で生きてこられた、というのが、正直な実感で、そう悄気ても、悲観してもおりません。ですから、どうかご心配はくださいませんように。

今後の見通しとして医師にも伝えたのですが、「学者のはしくれとして、あと三年 (2019年の『東大安田講堂50年』と2020年の『マックス・ヴェーバー没後百年』まで) は生きて、(もとよりなにごとにも『完成』はないにせよ、せめて) 限られた一時期の限られた生活史と仕事に (後続世代の批判と乗り越えへの素材として)『まとめ』はつけておきたい」と念願しています。

ただ、この疾病で、不確定要因を抱え、さまざまな社会的要請には、今後、これまでと同等の僅少さと遅滞をもってしても、対応しきれなくなろう、と危惧します。とくに (年平均約50点はあった) 恵贈著作への返礼とコメントは、滞ること必定と思います。ご無礼の節は、どうか事情ご賢察のうえ、ご海容ください。

 

今日までに、温かいお励ましのお便りやメールをいただいた方々に、心より感謝いたします。

少しずつ、温暖な気候が安定して、「花の便り」も聞こえてくるでしょう。

ご自愛、ご健勝のほど、お祈り申し上げます。

敬具

201738

折原

 

 

 

追伸

 

その後の経過をご報告します。

さる315日に、乳腺外科の術後診察と、呼吸器外科のPET-CT検査を受けました。

 

乳癌のほうは、手術による創傷は治癒して、経過は良好ですが、再発と転移の防止のため、術後標準療法として、ホルモン剤(タモキシフェン錠)の服用を勧められました。

そこで、翌16日から服用を始めたのですが、やはり多少、副作用があるようで、気分が優れません。

しかし、長年の習練のお蔭か、机に向かうと、不調も忘れてしまうくらいですから、どうかご心配なく。

ただ、216日の手術で身体にストレスがかかった後遺症か、ホルモン剤の副作用か、よくは分かりませんが、どうも疲れやすくなっていて、外出が思うにまかせません。

しかし、毎日、リハビリ・ラジオ体操・軽い散歩は欠かさず、徐々に体調を回復していきたいと念願しています。

 

肺癌の疑いのある影のほうは、今回のPET-CT画像と一月のCT画像とを重ねたところ、「癌とは断定できないが、さりとて癌でないともいいきれない」という診断でした。

つぎのステップは、「開胸肺生検」といって、切開して組織を取り出し、そのまま30分待って、検査結果が陽性と出たら、そのまま切除手術に移行する、という処置です。

ところが、これでは、場合によっては手術となり、そうすると、一シーズンに二手術で、老体にはいかにもストレスがかかり過ぎます。そこで、「少し経過を見て、秋にまた予約を入れ、CT検査を受けたい」と頼みますと、すぐその場で、 9月の予約をとってくれました。

 

そんなことで、九月までは猶予期間ができました。

体力の衰えは、いかんともなしがたいのですが、それでもまあ、なんとか元気に暮らし、気分のよい時間をみはからって、多少は執筆も進めていますので、どうかご心配なく。

 

花冷えの候、どうかご自愛、ご健勝のほど、お祈り申し上げます。

 

早々

 

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折原