記録と随想16: マックス・ヴェーバーにおける「近隣ゲマインシャフト」「ゲマインデ」他の社会学的概念構成――故山崎仁朗氏との質疑応答より(211日)

 

[去る201718日早朝、山崎仁朗氏が逝去された。

氏は1996筆者が名古屋大学文学部に赴任したときの助手で、研究室運営と院生-学生への親身な指導とを、一手に引き受け、同僚・後輩から信頼され、慕われる山男であった。当時から「地域コミュニティー論」を専攻し、日独比較の理論的枠組みも準備していたが、同時に「ドイツ語学習会」を開いて後輩にも参加を呼びかける「先に立って共に学ぶ兄貴」でもあった。

 その後、東海地方を主たるフィールドとして、「地域自治」にかんする調査研究を重ね、その成果は、山崎仁朗編著『日本コミュニティ政策の検証――自治体内分権と地域自治に向けて』20141月、東信堂、410 ps.に集大成されている。しかもその間、(筆者が199394年のドイツ訪問前に、ドイツ語会話の特訓を受けた)カローラ・マグヌス・ビックマンさんを頼って、なんどかドイツも訪ね、実態調査をおこない、報告論文も発表していた。そのかたわら、戦前・戦中の日本農村-都市社会学の泰斗・鈴木榮太郎先生の「自然村」概念について、先生の遺した厖大な研究ノートを解読しながら、(鈴木先生自身も開始していた)批判的検討を、さらに徹底させ、その線上で、ヴェーバーによる「近隣ゲマインシャフト」「ゲマインデ」他の社会学的概念構成との収束関係を問うに至った。『社会学評論』第63巻第3号(201212月刊)に「鈴木榮太郎における『自然』と『行政』――『地方自治の社会学』のための予備考察」を発表して、筆者にも抜き刷りを送ってくれた。

筆者は、この論文を感銘深く読んだ。そして、畏友・細谷昂氏が、長年の農村調査研究を集大成した大著『家と村の社会学』2012、お茶の水書房)も、「支配者側の『行政的区切り』すなわち『制定秩序』の『授与』が、農民側の『協定』と呼応し、そうした二重の『ゲゼルシャフト結成に媒介された近隣-地域ゲマインシャフト』として『村』を捉えることができる」という結論に至っている、と読めた。そこで、細谷氏とヴェーバー、双方の収斂の確認を添えて、さらなる研究成果を期待する旨、山崎氏宛てに書き送ったのである。

 

ところで、筆者は学生時代、新潟県木崎村の農村調査に参加して、村落の重立ちと対話しながら理論構成も進めていく福武直先生の (学内講義の聴講からは思いもよらない) 技量に、度肝を抜かれた。帰路の車中、一団から離れて別席で物思いに耽っていた筆者に(よほど「悄気ていた」のか)、福武先生は、席を立って尋ねてきてくださり、「人には『向き不向き』があるから、君は無理に調査をやらんでもよい。むしろ、戦後社会学はいま、『理論』――研究の前提となる『価値理念』にかかわる思想的反省も含めた『理論』――を、社会学外に仰がなければならない実情にあるから、君はむしろ徹底して『理論』を研究するがよい。ただし、すぐ隣には、地道な調査研究に携わっている同僚がいることも、忘れないように」と(「引導を渡された」のか、「激励された」のか、定かでない)助言をたまわった。

福武先生のこの言葉は、当時の助手・北川隆吉先生の言葉とも重ね合わされて、筆者の脳裏に刻み込まれた。北川先生は、「君がマックス・ヴェーバーを研究したいのなら、それはそれでよい。しかし、よくあるように、マルクスやマルクス主義への一種の『アレルギー』から、ヴェーバーなり『アメリカ社会学』なりに『逃げる』のではなく、むしろヴェーバーに正面から取り組んだうえ、『かれの論点をマルクスのタームに置き換えて』、そのつど研究仲間に問題提起し、議論を喚起してほしい」と言われたのである。

その後、筆者は、お二人の助言を片時も忘れなかった。「高度経済成長」の「泡」のように簇生した「社会学理論家」はほとんど、一種の「新しがり屋」か、あるいは「『自己目的』的にモデルを愛好する『学知主義者』」か、どちらかで、ほとんど学ぶところはないと思ったが、調査研究者や歴史家には、逆に「素朴実証主義」の弊は認めながらも、「学ぶところあり」と感得して、議論を怠らずにきたつもりである。

 

さて、山崎氏の問題提起は、ヴェーバーの社会学理論に向けられた、調査研究の最前線からの至当な疑問に思え、筆者はもとより、正面から受け止め、「今度いつか、ゆっくり話し合いたい」と伝えた。これに答えて、山崎氏は、2014315日、実家のある千葉県柏市から、拙宅の対岸にある「布施弁天」までバスで、大利根橋は徒歩で渡って、訪ねてきてくれた。当日は、談論風発に終わったが、それから、以下、三稿にしたためるようなやりとりがつづいたのである。

ただ、筆者は、この質疑応答を、拙著『日独ヴェーバー論争』刊行後の(たんなる「業績稼ぎ」でしかないこともしばしばある著書刊行自体よりも、本来はるかに重要な)議論の一環として、筆者のホーム・ページに公開して、議論の幅も多少は拡げたいと願った。ところが、この提案には、山崎氏は「論点をもっとよく整理したうえで(自著に止揚して)発表したい」というのか、あるいは一老人の「気魄に押された」のか、あまり乗り気ではない様子が窺えた。そこで、「では、貴著の刊行を待って」と、HPへの発表はとりあえず留保したのであった。

 

ところが、この間、山崎氏は病に冒され、なんども仕事を再開して職場復帰しようと苦闘し、じっさいに職場復帰も果たしたが、年が明けて数日もへずに、急逝された。

文化財の総量が、一個人一生の摂取限界を越える「近-現代」に生を享けた者は、なんぴとも「生涯の事業」の「完成」を見届けることはできず、「途上の挫折」を甘受せざるをえない、という運命を、ヴェーバーとともに認め、受け入れるとしても、山崎氏のように、着実に歩んできた目標の達成寸前、不条理にも春秋に富む前途を閉ざされた苦衷は、いかばかりか、察するに余りある。

このうえはただ、後続世代のなかから、氏の目標と仕事を引き継ぎ、氏の生涯と業績を活かしていく若者が現われることを祈念し、その一助にもなろうかと、生前の氏と交わした質疑応答を、ここに公表しようと思う。

山崎君、残された者たちの歩みを、どうか心安らかに、見守っていてください。

2017211日記。]

 


 

Ⅰ.山崎仁朗氏への質疑応答 提案2014318日)

 

山崎仁朗様

 

拝復

先日は、年度末でご多忙のところを、遠路はるばるお訪ねくださり、まことにありがとうございました。………

 

「コミュニティの制度化」や「ゲマインデ形成の宗教的与件」をめぐって、談論風発、楽しいひとときをすごすことができました。

ただ、話に打ち興じて、『経済と社会』 (旧稿) の「近隣」節にかんする貴兄のご質問にお答えする時間を逸し、たいへん失礼しました。

 

つねづね、著書出版は自己目的ではなく、事後、このような質問が出て、立ち入った議論が交わせるところに、意義がある、と考えております。

つきましては、ご質問に逐一お答えしようと思いますので、「読解メモ」の項目に番号をつけて、メールに添付して送っていただけませんか。遅からず、応答がまとまり次第、こちらから返メールを差し上げます。

 

また、拙著の内容や『経済と社会』の読み方については、読者に、貴兄と同じような疑問があろうか、とも予想されますので、貴兄のご了承をえて、「問答集」の形で、小生のホーム・ページに掲載させていただこうかとも考えています。

 

多少暖かくなってきましたが、どうかご大切に。

慶子からもよろしくと申し出ております。

そのうち、飛騨には行けるかな、と楽しみにしています。

 

2014318

折原

 


 

. 山崎メモ18項目への応答2014428日)

 

山崎仁朗様

過日は、年度末でご多忙のところを、遠路はるばるお訪ねくださり、まことに有り難うございました。「コミュニティの制度化」や「ゲマインデ形成の諸条件」をめぐって談論風発、楽しいひとときを過ごすことができました。ただ、話にうち興じて、『経済と社会』(旧稿)の「近隣ゲマインシャフト」節にかんする貴兄のご質問にお答えする時間を逸し、たいへん失礼しました。その後、所用が立てこんだため、遅れてしまいましたが、以下、貴兄の用意されたレジュメに沿って、できるかぎりお答えしようと思います。よろしくご判読のうえ、ご参考になさってください。2014428日、折原浩

 

 

Weber『経済と社会』「近隣ゲマインシャフト,経済ゲマインシャフト,ゲマインデ」読解メモ

 

①「『近隣』という言葉で意味されるものは,単にその『本源的』形態,つまり農村聚落の近隣性とそれによって生み出された利害状況の慢性的あるいは一過的な共通性のみではない.それと同時に,空間的近接性,つまり継続的あるいは暫時的な居住ないし滞在によって作り上げられたあらゆる近隣性とそれによって生み出された利害状況の慢性的あるいは一過的なあらゆる共通性を,全く一般的に意味したいと思う」(厚東 1975: 561 = Weber 1972: 215

*近隣の「原初的urwüchsig」形態は「農村居住地ländliche Siedlung」だが,ここでは,「空間的な近接性……と,それによって生み出された利害状況の慢性的あるいは一過的なあらゆる共通性」という「きわめて一般的」な意味で近隣が理解されている点に注意.つまり,ここでは,都市の「近隣」も想定されている.

 cf. 「都市の沿道あるいはアパート」(同)

 

折原注:「近隣Nachbarschaft」の概念は、おっしゃるとおり、「原初的」「自然発生的urwüchsig」な「農村定住地」のみでなく、現代都市の「街路沿い住宅群」「アパート」「カプセル・ホテル」のみでさえなく、将来発生しうる大震災のさいに近接して地表上ないし地下 (地下鉄駅ないし車内) 居合わせる「集群Gruppe(相互に有意味な「ゲマインシャフト関係」にはない人々) までも包含できるように、意図して「きわめて一般的な経験則allgemeine Erfahrungsregel」に定式化されています。

ヴェーバーはじつは、そのようにして、一般市民が無意識裡にも蓄えている「経験知」ないし「通俗心理学的知識」を (排除したり、遠ざけたり、「科学的知識」をもって置き換えたりするのではなく、むしろそれを)「歴史的パースペクティヴ[遠近法]」のなかに導き入れ、「歴史的知識」を媒介として「相対化」し、「類型化」し、「決疑論Kasuistik」に整序しようとします。そのようにして、一般市民自身が、「一般経験則」に彫琢された歴史的経験知を媒介として、特定された現在の諸条件から、未来の出来事の「客観的可能性」を予測できるようにしよう、というわけです。ヴェーバーは、専門的「社会学」の研究と教育(歴史的経験知の社会学的定式化とその叙述)の意味は、そこにこそある、と考えていました。「社会学」が制度化された後のように、「社会学者である」という「存在被拘束的」視座限定を、自明の与件として、素朴に出発していたのではありません。

 

②「このような事情がなぜ,まさに現代の生活諸条件のもとで,『品位感情』の・現代生活によってもたらされた特殊な方向性の帰結として,とくに著しく出現したかについて,ここで考察することはできない」(厚東 1975: 561-2 = Weber 1972: 216

*通常は「できうるかぎり距離」をとり,「共通の危機Gefahr危難]がふりかかったときにのみある程度の共同行為が,かなりの蓋然性をもってあてにしうる」という「事情」は,「現代の生活諸条件によってつくりだされる,品位感情の特殊な方向性spezifische Richtungの帰結Folgeとして,そうした諸条件のもとでとくに顕著に現われる」?

 →本節末尾の「特殊な帰結を伴ったmit ihren spezifischen Folgen」とはこのことを指すのか? しかし,その内容がイマイチ不明.

*「ここで考察することはできない」→では,どこで考察?

 

折原注: なるほど、ヴェーバーの「ここで考察することはできないist hier nicht zu erörtern」という慣用句は、いわば「黙示的他出指示」で、別の箇所に、被指示叙述が見つかる場合もあります。しかし、この場合は、それと分かる該当箇所が見当たりません。あるとすれば「都市の類型学」中で、そこで主として採り上げられる古代-中世都市の諸類型と対比し、近-現代都市居住者の「品位感情」に論及している箇所と推測されますが、「都市の類型学」を再読してみても、見当たりませんでした。「品位感情」を採り上げている「旧稿」と「新稿」の「身分」節についても同様でした。

したがって、これはあくまで推測ですが、ヴェーバーはむしろ、ジンメルの大都市論を念頭において語っているのではないか、と思われます。事柄としては、定型的な大都市居住者は、物理的には近接居住していても、平時には互いに没交渉で、互いに干渉されずに生きたい、という個人主義的品位感情を抱いており、近隣居住者の好意的接近も、「(わたしがあなたにするように)あなたも同じようにしてくれ」との要求、あるいはそうした要求の前段と解し、そうなるのは「煩わしい」と感じ、常日頃「できるかぎり距離をとろうとする」ということでしょう。

 末尾の「特殊な諸帰結」とは、これとは別で、むしろ、所有の分化が生じたのちのちまでも、一方では(「篤志労働Bittarbeit」に対応する)「賦役」、他方では(「篤志貸与Bittleihe」に対応する)「焚き出し」「救難援助」「代表」「防衛」といった義務が、「仲間関係」の延長線上で(全面的な強権的押しつけと隷属としてではなく)発生し、発展を遂げる、という事態を指している、と思われます。 

 

③「『村落』つまり密集して定住している家共同体の集団が,典型的な近隣団体である」(同: 562 = ibid.: 216

*村落は,「農村居住地」一般ではなく,「密接に集住するdicht zusammengesiedelt」家ゲマインシャフトの「集団Gruppe」であり,典型的な「近隣団体Nachbarschafts- verband」である.

 

折原注: ヴェーバーの場合、Gruppeとは、「集群」ないし「統計的集団」にすぎず、その構成員が互いに「意味のある関係」を取り結んではじめて「ゲマインシャフト」になります。たとえば「階級Klasse」とは、「階級状況Klassenlage」を共有する「人間群Menschengruppe」で、「階級行為」つまり「階級的ゲマンシャフト行為」の基礎とはなりますが、それ自体がすでに「階級ゲマインシャフト」をなしている、というわけではありません。また、そこから必ず「階級行為」が生成するのでもありません。拙著 pp. 33-34、参照。

引用の箇所も、正確には、「農村的な自給経済 [→都市経済→国民経済] の内部では、密接に集住したゲマインシャフトすなわち『村落Dorf』が、近隣団体Nachbarschaftsverband [すなわち、近隣縁にもとづく団体形成] の典型である」と訳すべきでしょう。ですから、「近隣ゲマインシャフト」「近隣団体」はなさない、「集群」としての「村落」もありうる (少なくとも理論的に想定可能) というわけです。

ちなみに、「団体」とは「権力保有者がいて、『諒解』にもとづいて所属の決まる構成員の行為にたいして、『諒解』によって効力を帯びる統制をおよぼし、そういう『(非制定) 秩序』を維持しているようなゲマインシャフト」、そのかぎりで「支配」(命令-服従)関係に再編成された「諒解ゲマインシャフト」の謂いです。秩序が「制定」(協定ないし授与) され、そのかぎりで「ゲゼルシャフト関係」に再編され、しかも構成員の所属が、当人の意思表示と申請なしに客観的標識 [たとえば、両親の国籍ないし教会所属] によって決まるゲマインシャフト [たとえば『国家』『教会』] が、「アンシュタルトAnstalt」です。同じく、所属が、加入申請者自身の意思表示によって (多くの場合、審査をへて) 決められ、その秩序が、原則としては「授与」ではなく構成員の「協定」によって決められるゲマインシャフト [ゲゼルシャフト結成の合理的理念型] が、「目的結社Zweckverein」ないし「結社」です。

 

④「近隣性とは,……窮境において頼りになる存在を実際的には意味する.近隣者とは典型的な窮境援助者 [Nothelfer救難援助者] である.それ故,『近隣性』は,たしかに全く冷静で非情動的で・主に経済倫理的な意味における『友愛(兄弟)性』の担い手である」(同)

*本節の末尾に,ほぼ同じフレーズが出てくる点に注意.

*ただし,「経済倫理的な意味」以外の「友愛性」もあるのでは?→cf. 日本の葬式組

 

折原注: 「葬式組」をどう捉えるかにもよりますが、定型としては、無制約の情動・パトスはともなわない、非日常的ながら「慣習律的」な相互的救難援助、と見れば、「経済倫理的な意味」の「友愛性」の範囲内にありましょう。ちなみに、「同胞盟約Verbrüderung」によって、人為的擬制的に「同胞関係」が結成される場合もあります。

 

「『汝が我になすごとく,我も汝にする』という全世界にみられる全く非感傷的な民俗倫理の本源的原則にしたがって,援助給付が,……近隣性のまっただなかに生みおとされる」(同)

友愛倫理という「全世界にみられる」「原初的urwüchsig」な基本原則から,「近隣性のまっただなかに」援助給付が生まれるという事情もまた,近隣ゲマインシャフトが「『ゲマインデ』の原初的な基盤」(後述)たる理由のひとつを構成するのではないか(→だからこそ,この節の末尾でふたたび「友愛性」が指摘されるのではないか).

 

折原注: 「家ゲマインシャフト」による日常慣例的給付の範囲を越える、普請、農繁期の植付けと収穫、水利規制、埋葬など、互いに協働し「助け合う」ことが不可欠な「非日常時」の「篤志労働」「篤志貸付け」――非感傷的でザッハリヒな「助け合い」――を念頭において考えましょう。「友愛」「兄弟愛」「同胞愛」という言葉からは、キリスト教の「隣人愛」のような「宗教的醇化形態」(派生・拡張形態) が連想されやすく、そうなるとバイアスが生じます [ヴェーバーははるかに「唯物論」的です]。「まっただなかにin ihrer Mitte生みおとされる」というのも、「そのなかに発生する」くらいのところで、それほど劇的に強調されているわけではありますまい。ちなみに、「近隣ゲマインシャフト」の内部で、所有の分化が生じ、大土地所有者が「名望家」となると、「篤志労働」の「植付け支援」「収穫援助」、さらには「農作業」一般が、「賦役」に編成され、村落の「仲間関係Genossenschaft」が「支配関係Herrschaft」に推転を遂げます。

 

⑥というのは,「あらゆる人は,他人に窮境援助を求める羽目に陥る可能性をもっている」からである.(同)

cf.「支配のアプリオリ性」=「人は人に依存する存在である」(小路田 2009: 242

↓ただし……

折原注: とするのは、やや性急で、「本質主義」的固定化に陥りかねません。

むしろ、上記のとおり、「友愛」関係は、同等者間に限定されず、自然発生的に不平等関係・「支配関係」に移行しても、なお維持されて、「服従」の基礎となり、「支配」の「正当性」を下支えします。

 

⑦「近隣共同体が『友愛性』の典型的場であるという事実は,近隣者どうしでは『友愛的』関係が支配するのが通例であるということをいささかも意味しない」(厚東 1975: 563 = Weber 1972: 217

 

折原注: いったん敵対が生ずると、かえって尖鋭化し、頑強に持続するということですね。

 

⑧「近隣共同体は,無定型で・関与者の範囲が流動的で・したがって『開放的』で間歇的な共同行為を提示するだろう [?……ゲマインシャフト行為をなす、そういう場合もある].近隣共同体は,『閉鎖的な』ゲゼルシャフト結合が存在する場合にのみ,その範囲に関してはっきりとした限界をもつのが普通である.このようなことが通常おこるのは,近隣性が『経済共同体』かあるいは関与者の経済を統制する共同体へとゲゼルシャフト結合化された時である」(同: 563-4 = ibid.: 217

*一般に,近隣は,家ゲマインシャフトに比して「無定型」「流動的」「開放的」「間歇的」であるという趣旨のことは,すでに本節の冒頭で指摘されている.

*そして,「閉鎖をおこなうgeschlossene」ゲゼルシャフト結合が生じる場合にのみ,「はっきりとした境界feste Grenze」をもつという点がきわめて重要.この場合,ゲゼルシャフト結合は「協定」と「授与」の2つのケースがありうる(後述).そして,「はっきりとした境界をもつ」ことで,そこに政治的ゲマインシャフトの萌芽が生じるのではないか.→cf. 村落は政治的ゲマインシャフトである(後述)

 

折原注: このあたり、[山崎解釈は]やや「勇み足」[の感あり]。概念的区別をはっきりさせてから、関連を問う必要があります。土地、牧草地、森林、水などが無尽蔵の場合には、近隣縁による「家ゲマインシャフト」や「近隣ゲマインシャフト」も「開放的」でありえます。ところが、人口増、被征服、移動その他の条件次第で、土地などの資源が「稀少性Knappheit」を帯びてくると、それを経済「材Güter」として「専有appropriieren」し、その用益を「仲間」内で配分し固定化しようとする「経済的」利害関心が発生し、あるいはそれが強まり、これにもとづいて「ゲゼルシャフト」が結成され (制定秩序が設定され)、「ゲマインシャフト」が対外的また対内的に「閉鎖schließen」されます。この基礎的一般経験則については、拙著『論争』pp. 86 , 271、参照。「近隣ゲマインシャフト」も、この一般経験則に服して、対外的に閉鎖され、そのときにはじめて「確定的な境界」をもつようになります。対内的「閉鎖」とは、ゲマインシャフトによって独占された用益が、各構成員に配分され、専有されていく過程で、「輪番」から「返還条件つき」「終身かぎり」「一定条件つき」をへて、「自由な専有」(「私的所有」) にいたる階梯が、類的理念型として設定されます。

「ゲゼルシャフト」の秩序制定が「協定」によるか「授与」によるか、あるいは、(「授与」された秩序が構成員の間で、改めて「協定」される、というふうに) 両方が同時ないし継起的に進行するかは、そのあとの問題です。

 

⑨「しかし,近隣共同体は,必然的に経済共同体ないし経済統制共同体であるわけではない」(同: 564 = ibid.: 217

*つまり,「経済ゲマインシャフト」ではなく「政治ゲマインシャフト」となることもある(後述)

 

折原注: と論ずるまえに、それぞれの概念規定を明確にしておく必要がありましょう。「経済ゲマインシャフト」とは「もっぱら経済的成果 (必要充足もしくは営利) をめざすゲゼルシャフト行為によって基礎づけられたゲマインシャフト」、「経済を統制するゲマインシャフト」とは「(漁業組合や入会権仲間のように) 関与者の経済行為の統制 [だけ] を目的とするゲゼルシャフト結成によって媒介されたゲマインシャフト」です。

他方、「政治ゲマインシャフト」とは、「政治的ゲマインシャフト行為によって創成されるゲマインシャフト」で、「政治的ゲマインシャフト行為」とは、「ある『領域Gebiet (陸-海域) とその在住者を、物理的強制力の用意・威嚇・ないし発動によって、秩序ある支配のもとに置こうとするゲマインシャフト行為」(拙著pp. 70, 85-86, 275参照)です。したがって、「経済ゲマインシャフト」となるか、「政治ゲマインシャフト」となるかは、相互背反的ではありません。「近隣ゲマインシャフト」が、「経済ゲマインシャフト」ないし「経済統制ゲマインシャフト」となるとき、経済的成果の追求、ないし経済行為の統制のため、なんらかの秩序を制定し、当の秩序を「物理的強制力をもって保障」しようとするかぎり、同時に「政治ゲマインシャフト」ともなるわけです。

そこから、つぎに、当の秩序 (たとえば「経済ゲマインシャフト」としての「耕作強制」秩序) を、「近隣ゲマインシャフト」が、みずからの「ゲゼルシャフト結成行為」によって (自律的に) 設定するか、あるいは、経済的ないし政治的なゲゼルシャフト関係 (制定秩序準拠関係) にある外部者 (支配的首長個人ないし共同組織) から「授与」されたものとして (他律的に) 取得するか、あるいは、外部の政治権力から「授与」される「秩序」を採択し、同時に自分たちの間でもそれへの準拠を「協定」するか、などの事情は、時と場合に応じてさまざまでしょう。そこで、ふたつの (自律的-他律的) 場合を、対極概念 (「類的理念型」) として設定しておけば、そのときどきに問題となる事例を、両者の混合態として、両極間のどこかに位置づけることができましょう。

 

⑩「近隣的共同行為は,関与者の行為を規制するその秩序を,ゲゼルシャフト結合を通して自ら制定するか……あるいは,外部の者によって強定されるかその場合,外部の者とは,近隣者自身がその者によって,経済的あるいは政治的にゲゼルシャフト結合化されるような,個人ないし共同組織のことである……そのいずれかでありうる」(同)

*『理解社会学のカテゴリー』では,「制定秩序の圧倒的多数は,起源の点からいえば協定されるのではなくて授与されたものである」Weber 1973: 469と述べているのに,ここでは「協定Vereinbarung」と「授与Oktroyierung」が同列に論じられているのはなぜか.それは,近隣ゲマインシャフトにかんしていえば,それが「『友愛性』の典型的場である」がゆえに,「協定」による「ゲゼルシャフト結合」がかなりの頻度でみられるからではないか.

折原注、それはそうかもしれません

*「外部の者」によって,「近隣者自身が……,経済的あるいは政治的にゲゼルシャフト結合化される」とは,「支配者が押しつける目的への志向性が生まれる」(折原 2001: 267ことで,「近隣者」が行為を規制する主体となりはじめることを意味しないか.

cf. 支配は「『ゲマインシャフト秩序の合理化』の梃子(折原 2007: 54である.

 

折原注: そういう場合もありえましょう。しかし、著者の力点はむしろ、「授与」と「協定」との同時進行にあるのではないでしょうか。外部からの授与が、同時に主体形成の契機となる、という説には賛成ですが、著者ヴェーバーの叙述とは区別して、山崎説として提示なさってはいかがでしょう。

 

⑪「しかし,このようなことすべて,近隣共同体の本質に必然的に属していることとはいえない」(同)

*「本質Wesen」は「友愛性Brüderlichkeit」である(本節の末尾).

*そして,このことをあえて確認しておくことの意義!

 

折原注: 「近隣ゲマインシャフト、政治ゲマインシャフト (とくに村落) の森林用益秩序、経済的領域団体 (たとえば「マルク[入会地]」を協働で用益する団体)、また政治団体は、重なり合うのではなく互いに多様な関係に置かれる。経済的領域団体は、それが統括する対象 (物件・物的資源) ごとに、規模を異にする。耕地、牧草地、森林、狩猟地などは、しばしば、それぞれ異なるゲマインシャフトの処分力に委ねられ、こうしたゲマインシャフトは、相互に、また政治団体と、多様に交錯する。また、土地所有の諸範疇は、異なった発展段階で「稀少」となり、その用益を秩序づけるゲゼルシャフト結成の対象となる (森林はまだ無尽蔵の「自由材」だが、牧草地と耕地はすでに「経済材」で、用益を規制され、専有されている) など」。したがって、別種の諸ゲマインシャフトとの、そういう多様な関係を、(こうした概念構成を起点として歴史的に研究していくとしても)、あらかじめ「近隣ゲマインシャフト」に固有の本質」と決めてしまうわけにはいきません。

 

⑫「政治共同体とくに村落」(同)

*なぜ,村落は政治的ゲマインシャフトなのか.「『閉鎖的な』ゲゼルシャフト結合」により「はっきりとした境界」をもつことで「持続的ゲゼルシャフト結合態」(折原 1997: 64になるからではないか

 

折原注: 「村落Dorf」は「政治ゲマインシャフト」とはかぎりません。上記のとおり、複数の「ゲマインシャフト」が集住して「近隣縁」関係には入っても、互いに「意味」関係をなさなければ「集群」に止まるわけで、そういう場合が、少なくとも理論的には想定されます。そこを起点に、土地などが「稀少」になると、その独占への経済的利害関心から、「近隣居住」を「識別標識Unterscheidungsmerkmal」として「ゲゼルシャフト結成」がなされ、これによって近隣居住者の「集群」「ゲマインシャフト」が「閉鎖」され、対外的に境界が確定され、内部的には、土地の用益・用益権がゲマインシャフト構成員間に配分・専有・固定化される (対内的閉鎖) というのです。

 

⑬「近隣共同体は,『ゲマインデ』の本源的な基盤である」(厚東 1975: 565 = Weber 1972: 217

*この「ゲマインデ」の登場の仕方はやや唐突だが,「非常に異なった領域団体Gebietsverbändeが,……専有主体となる」という直前の一文(とそこにいたる論理展開)から判断すれば,(「『友愛性』の典型的場」としての)近隣ゲマインシャフトが,しばしば「領域」(=「はっきりとした境界」)をもつことで「持続的ゲゼルシャフト結合態」になるということか.

 

折原注: 本源的起点は、複数の「家ゲマインシャフト」の「集群Gruppe」が、非常時に間歇的に「互恵 (友愛) 関係」を自然発生させ、したがって「近隣ゲマインシャフトとはなりながらも、常時には「できるだけ距離をとって」「集群」に後退している状態です。そこから、当初には無尽蔵で占取-専有の必要がなかった土地、水その他の「自然財」が「稀少」になると、専有-独占への経済的利害関心から、「近隣Nachbarschaft」を識別標識として「ゲゼルシャフト結成」がなされ、そのときにはじめて「領域」の境界が確定され(対外的閉鎖)、同時に、そのようにして独占された「財」の用益・用益権を構成員間に配分し、専有する[させる]秩序も制定されます(内部的閉鎖)。そして、この秩序を貫徹するために、「仲間関係」としての「近隣ゲマインシャフト」は、同時に、「物理的強制力の用意・威嚇・発動によって、当の領域とその在住者を、秩序ある支配のもとにおく」「政治ゲマインシャフト」「近隣団体」にも再編成されましょう。著者による基礎範疇用語の精細な使い分けを判別し、事柄の順序と必然性をはっきり定式化しておくことが必要です。

 

⑭「『ゲマインデ』とは,……近隣者の大多数を包括するような政治的共同行為と関係づけられることによって,はじめて,その十全な意味において作り上げられるような形象である.」(同)

*「政治的ゲマインシャフト行為によって関係づけられる」ということは,そこに「支配」が働いているということ.

cf. 支配は「『ゲマインシャフト秩序の合理化』の梃子」である(折原 2007: 53

*ただし,この場合,この「行為」は「授与」だけでなく「協定」でもありうるはず.つまり,「協定」によるゲマインデの形成も排除していない

cf. あえて「いずれかでありうる」(厚東 1975: 564 = Weber 1972: 217と述べたことの意味.

 

折原注: ゲマインシャフト構成員諸個人が、秩序を外部から「授与」されるのでなく――あるいはそれだけではなく――、内部から自発的に「協定」して、主体的に「ゲマインデ」を形成していく、という契機を強調したい、というお気持と意図は、一連のメモからよく分かります。しかし、同時に、ヴェーバーの概念構成を、その方向に強引に引き寄せて、一面化・非歴史化してしまう危惧も感じます。ヴェーバーの「ゲマインデ」概念が未完成で、「旧稿」のいろいろな箇所に跨がって、断片的に記述されていることは、拙著の第13章、pp. 221 ff.で、論じているとおりです。たとえば「宗教」章には、「宗教的な意味におけるゲマインデは、経済的理由や、財政的ないしその他の政治的理由で、ゲゼルシャフト関係に編成された近隣団体vergesellschafteter Nachbarschaftsverbandと並ぶ、ゲマインデの第二範疇である」(S. 275) とあります。それでは、「第一範疇」とは何か、という問いが立てられますが、関連叙述を網羅的に調べていきますと、「家産制的首長 (支配者) が、『ライトゥルギー』的必要充足のため、(家産制的『直轄地』の『家産制的従属民以外の)政治的臣民』に、上から制定秩序を授与して、賦役や貢納への連帯責任を負わせた『近隣団体』」という規定がえられます。

  この第一範疇をおさえたうえで、それが、①イギリスでは、政治的首長 (家産制君主) にたいする独立性をそなえた「名望家行政」に発展し、「地方自治」の源泉ともなったのに、②オリエントでは、むしろ逆に、「ライトゥルギー」が全社会的に拡張され、すべての諸個人を土地・職業・ツンフトなどの強制団体に世襲的に緊縛する「臣民の総体的・即人的・家産制的従属」に帰着したのは、なぜか、が問われます。その条件としては、「政治的臣民」を敵にまわしても威力を発揮できる家産制的軍事力の技術的発展、臣民の自律を促すような「宗教ゲマインデ」の「下からの」展開と重合 (ゲマインデとしての都市=第三範疇) が、考えられ、それらの諸条件によって、当の分岐が、どの程度説明できるか、が問われます。「家産制」や「ライトゥルギー」の概念については、それぞれ別の箇所で、厳密に規定されています。なにもかも「近隣ゲマインシャフト」節だけから読み取ろうとするのは無理です。

 

⑮「さらに,近隣共同体は『村落』のように『領域』支配を行なうものである限り,政治的共同行為の基盤さえも提供し得る」(厚東 1975: 565 = Weber 1972: 217

*(支配一般ではなくとくに)「『領域』を支配するbeherrschen」場合には,近隣ゲマインシャフトが,(村落ゲマインデの)成員の政治的ゲマインシャフト行為を促す(この意味で「基盤Basis」となる)ということか.

cf. 村落は政治的ゲマインシャフトである(上述)

 

折原注:「近隣ゲマインシャフトは、『村落Dorf』のように、ある『領域Gebiet』を支配するばあいには、そのかぎりで、それみずからもauch selbst、政治的ゲマインシャフト行為の基盤となりうる [つまり、外部からの政治ゲマインシャフト行為に服するばかりではない]

 

⑯「そして,普通,ゲゼルシャフト結合化が進行するにつれ [つぎつぎに制定秩序を設定して],あらゆる種類の活動 〔学校教育や宗教的任務の引受けから,必要な手工業者の体系的な定住化まで〕 を己れの共同行為にとりこむか,あるいは,[外部からの] 政治共同体によって義務として強定 [授与] されたものとして,含みこんでいるものである [取得し、確保する](厚東 1975: 565 = Weber 1972: 217

überhauptの含意は「[それ自体が政治的ゲマインシャフト行為の基盤となる場合には] 一般に」あるいは「概して」の意味か.

*「ゲゼルシャフト結合化が進行」=制定秩序Satzungの確立=「コミュニティの制度化」

*「あらゆる種類の活動」を「共同行為にとりこむ」とは,政治的ゲマインシャフトである村落ゲマインデ(の成員)の自治 [やや勇み足?] のことであり,その自治の対象が「学校教育や宗教的任務の引受けから,必要な手工業者の体系的な定住化まで」ではないか.

Übernahme religiöser Aufgabenは「[外部で発展し、整えられた] 宗教儀式を執り行う[内部に引き受け、引き継ぐ]ことsystematische Ansiedlung notwendiger Handwerkerは「村落での生活に不可欠な手工業者を計画的に定住させること」か.cf. 「教育・祭祀・手工業集落の設営」(折原 1997: 82

 

折原注: この問題については、『資本論』中の有名な叙述が思い起こされます。「[インドにおける] もっとも簡単な形態の共同体は、土地を共同で耕作し、その生産物を成員間に分配するのであって、各家族は、絲を紡いだり、機を織ることなどを家内副業として営んでいる。同様な仕事をしているこれらの大衆の他に見いだされるのは、ひとりで裁判官と警察官と徴税官とを兼ねる『首長』、農耕にかんする計算をしてその関係のいっさいの事柄を記帳し登録する簿記係、犯罪者を訴追したり異郷の旅行者を保護して一村落から他村落に案内したりする第三の役人、共同体の境界を近隣の諸共同体にたいして警備する境界守り、共同貯水池から水を農耕目的のために分配する水番、宗教的礼拝の職分を行う婆羅門、共同体の児童に砂で読み書きを教える教師、占星者として播種作業の時期やすべての特殊的農耕労働のための日時の善悪を指示する暦術婆羅門、すべての農具を作ったり修繕したりする鍛冶屋と大工、村落のためのすべての容器をつくる陶工、理髪師、衣類を清潔に保つための洗濯師、銀細工師、であって、ところによっては、詩人が、ある共同体では銀細工師の代わりにおり、他の共同体では教師の代わりにいる。この一ダースばかりの [固定的分業関係にある] 人々は、全共同体の費用で扶養される。……これらの自足的共同体は、たえず同じ形態で再生産され、偶然にも崩壊することがあれば、同じ場所に同じ名称で再生産される。この……簡単な生産有機体は、アジア国家のたえざる瓦解と再建およびたえまない王朝交替と著しい対照をなすアジア的諸社会の不変性の秘密を解く鍵を提供する。社会の経済的基本要素の構造が、政治的雲海の嵐によっては影響されずにいるのである」(MEW 23: 378-79、長谷部訳、青木文庫版③: 593-94)

  しかし、この「一ダース」もの、異種で特殊な技能者や手工業者が、無数の「村落共同体」それぞれにまったく同一の組み合わせで出揃い、しかも、それぞれの内部で後継者を自前で養成し、「無連絡の小生産有機体」として存立を保つ、というようなことが、はたして可能でしょうか。そうした「固定的分業」はむしろ、「村落共同体」構成員自身の自然発生的な「自己組織化」(「自治」) の結果であるよりもむしろ、外部の政治権力と教権制的権力が、当初にはなんらかの「計画および設計図」にもとづく「制定秩序」を、「近隣集群」や「近隣ゲマインシャフト」に上から押しつけ、「支配」を梃子に「合理化」を企てた (「協定」ではなく「授与」の) 所産で、それがやがて「慣習律」や「習俗」となり、あたかも自然現象のように再生産されるようになった、と考えたほうが自然ではないでしょうか。この問題については、小路田泰直編『比較歴史社会学へのいざない』(2009、勁草書房刊) pp. 58ff. をご参照ください。

 

⑰「しかし,近隣共同体の一般的本質にしたがえば,その独自で特別な共同行為とは,特殊な帰結を伴った,困窮時におけるあの冷静な経済的『友愛性』にほかならない」(厚東 1975: 565 = Weber 1972: 217

Aberではじまるこの一文の意味:ゲマインデは,ゲゼルシャフト結合化が進行するにつれて自治団体化(=アンシュタルト化)するけれども,その「基盤Grundlage」には「友愛性」があることを確認しておきたいということか.

cf. KönigWeber理解の一面性König 1958: 39

*ただし「特殊な帰結を伴ったmit ihren spezifischen Folgen」とは? →cf. 上述

*「友愛性Brüderlichkeit」は,「宗教ゲマインデ」や「都市ゲマインデ」にもみられる.このことの意味とは?

 

折原注: まさに「ゲマインデ」の一般概念と類型概念 (第一~第三範疇) が、東西文明の分岐を説明する戦略的概念として設定されています。「同胞関係Brüderlichkeit」が、原生的基盤としての「近隣ゲマインシャフト」から、第一範疇としての「村落 (ライトゥルギー) ゲマインデ」、第二範疇としての「宗教ゲマインデ」、第三範疇としての「都市ゲマインデ」へと、しばしば「同胞盟約締結Verbrüderung」をともないながら「圏外移行-温存-再編成」され、それが持ち込まれた「ゲマインシャフトの重層構造」(松井克浩) をもたらします。

 

小括: 全体として、「近隣ゲマインシャフト」の動態と「自治」形成を、同節の叙述だけから読み取ろうとして、無理が生じている、という印象を受けます。たとえば、「近隣縁」によるゲマインシャフト「集群」から、「近隣ゲマインシャフト」の成立、その「閉鎖」、「ゲマインデ」の形成・再編成といった動態を捉えるのには、上注でも例示したとおり、少なくとも「稀少性を帯びた資源の独占と専有化を目的とする『ゲゼルシャフト結成』と『ゲマインシャフト』の対内的・対外的『閉鎖』」という一般的視点を参照しなければなりません。ちなみに、この視点は、この「近隣ゲマインシャフト」にかぎらず、「旧稿」中で広範囲に適用され、展開されています。たとえば20世紀まで生き延びていた、アメリカ合衆国の「黒人差別」が、黒人奴隷を雇って日常的に接しているプランテーションの企業主よりもむしろ、「貧しい白人やくざpoor white trash」に顕著で、KKK団のような「ゲゼルシャフト結成」も、そうした社会層を基盤としている、という現象が、雇用機会・地位・名誉感 (といった広義の「財」所有) を脅かされる当該社会層の物質的観念的利害関心から説明されます [⇨雇用を脅かされた現代版「貧しい白人やくざ」の「トランプ支持」現象]

  また、「ゲマインシャフト行為」を「共同行為」、Vergesellschaftungを「ゲゼルシャフト化」(この訳語は、「集合態」「集合的主体」を「実体化」しているという印象を免れません) というふうに、厚東訳を踏襲しておられますが、それではどうしても、訳者の概念的不明晰を引き継ぐことになってしまいましょう。厚東訳は、同君の若い頃の訳として「まあまあ」ですが、「ヴェーバー自身、Gemeinschaftという言葉のもつ多義性を巧みに利用している [ほんとうか? どういう「多義性」をどう利用しているのか ?]……。個々の文脈に即して、読者自らこの概念の内包を規定していただきたい」(p. 489) というのは、著者の精細な用語法を網羅的に調べ上げてみない怠慢を言い繕い、読者に「勝手に読め」というにひとしく、研究者・訳者としてはなはだ無責任というほかはありません。

  基礎範疇の術語を、どうしても邦語に訳出したいというのであれば、「旧稿」の「ゲマインシャフト行為」は「有意味関係行為 (一般)」、「ゲゼルシャフト行為Gesellschaftshandeln, vergesellschaftetes Handeln」は「制定秩序準拠行為」(とくにVergesellschaftungshandelnは「制定秩序制定行為」) と訳して、ルビを振るほかはないでしょう。Gemeinschaftは「有意味関係態」とでも訳しましょうか。

  ヴェーバーが、世界史における「近隣ゲマインシャフト」 (形象) の動態を正確に捉えていくため、精緻に構成しておいてくれた社会学概念を、貴兄が、その全広袤において、実証的コミュニティ研究に活かしていかれるように、と祈念いたします。[20140430]

 


 

Ⅲ.「近隣ゲマインシャフト」その他の概念構成をめぐって――山崎仁朗氏の再質問に答えて2014530日)

 

折原浩 先生

はなはだ不躾ではございますが,お言葉に甘えて,ご質問させていただきます.

「地域自治の日独比較」をテーマに研究している関係で,ヴェーバーの『経済と社会』のうち,とりわけ「旧稿」の「近隣ゲマインシャフト,経済ゲマインシャフト,ゲマインデ」節に関心があります.先生のご著書をたよりに何度も読み返しているのですが,そのなかで出てきた疑問点について,あるいは,わたしなりの解釈の適否について,ご教示いただければ幸甚に存じます.

なお,以下では「厚東訳」から引用しますが(原文については「第5版」を参照しています),自分の文章のなかでは,適宜,訳をかえています.

先生にお尋ねしたいのは,大きくは以下の5点ですが,当然ながらこれらは相互に関連し合っているため,うまく整理して質問できないかもしれません.お許しください.

 

1 「閉鎖をおこなう」ことと政治ゲマインシャフトの生成との関係について

 

「近隣共同体は,無定型で・関与者の範囲が流動的で・したがって『開放的』で間歇的な共同行為を提示するだろう.近隣共同体は,『閉鎖的な』ゲゼルシャフト結合が存在する場合にのみ,その範囲に関してはっきりとした限界をもつのが普通である.このようなことが通常おこるのは,近隣性が『経済共同体』かあるいは関与者の経済を統制する共同体へとゲゼルシャフト結合化された時である」(厚東訳: 563-4 = Weber: 217

 

あえてここで(「開放的offen」との対比で)引用符つきで「閉鎖をおこなうgeschlossen」と言っていること,そして,それによって「はっきりした境界feste Grenzeをもつ」と言及されていることの含意をどう理解すればいいでしょうか.

このあとには,「近隣ゲマインシャフトは,必然的に経済共同体ないし経済を統制するゲマインシャフトであるわけではない」とも述べられていて,さまざまな「経済にかんする領域団体ökonomischer Gebietsverband」と並んで,「政治ゲマインシャフトとくに村落politische Gemeinschaften, aber namentlich: Dorf」も挙げられています.さらにあとでは,つぎのような記述も出てきます.

 

「さらに,近隣共同体は『村落』のように『領域』支配を行なうものである限り,政治的共同行為の基盤さえも提供し得る」565 = 217

 

ここでは,「ゲゼルシャフト結成」一般あるいは「支配」一般ではなく,とくに「『村落』のように『領域Gebiet』を支配するbeherrschen」場合には,それ自体が「政治的ゲマインシャフト行為の基礎Basis」となることもあり得ると述べられています.

以上を総合すると,こういうことでしょうか.近隣ゲマインシャフトは本質的に「開放的」だけれども,「閉鎖をおこなう」ゲゼルシャフト結成によって「はっきりした境界」をもつようになる場合,つまり,近隣ゲマインシャフトが「領域」性をもつ場合には,「村落」のような社会形象Sozialgebildeとなることで多年生的なperennierend性格が生じて,その領域内でさまざまな政治的ゲマインシャフト行為が持続的,継続的に生じるための「基礎」が近隣ゲマインシャフトのなかででき,結果として「政治ゲマインシャフト」の萌芽がそこに生まれるということでしょうか.

 

折原注: 「近隣ゲマインシャフト」節の叙述全体の流れをつかむことと、「経済ゲマインシャフト」「政治ゲマインシャフト」との関連については、「近隣ゲマインシャフト」論から演繹するのではなく、それぞれにかんする節の叙述を参照することが、必要と思われます。

「近隣ゲマインシャフト」節では、まず、「農業による自給経済の諸事情のもとでは」という限定を付けてではありますが、「日常的で定例のregulär財や労働の必要は、家団体によって充足されるが、特別の機会、すなわち急性の窮迫や脅威から生ずる異例のaußerordentlich必要の重要部分は、個々の家ゲマインシャフトを越え出るゲマインシャフト行為すなわち『近隣』の援助によって充足される」という対比が出てきます。つまり、異例の窮迫や脅威に対処する必要から、ゲマインシャフトの集群が、互いに「援助」し合う(主観的に意味のある行為を取り結び、交わし合う)「近隣ゲマインシャフト」に発展を遂げるというわけです。ですから、そういう場合にかぎっては一般に発生する(互いに距離をとろうとする日常とは対照的な)「『駆け引き』抜き」の「篤志貸付け」「篤志労働」(「『兄弟』関係Brüderlichkeit」「仲間関係Genossenschaft) が、「近隣ゲマインシャフト」一般の本質」をなすのでしょう。ただし、そのかぎりでは、近隣ゲマインシャフト行為は、異例の場合のみという「臨機性」「間歇性」を帯びましょうし、その範囲が限定され、「境界が確定され」「閉鎖」される必然性もありません。「開放」的で「ありうる」、「そういう場合もある」わけです。

 

ところが、「(土地、牧草地、森林、入会地などの) 生活資源の稀少性」という契機が加わりますと、「開放的」なままでは闖入者・加入者が増えてきて「共倒れ」になりかねませんから、たとえば近隣縁を「識別標識Unterscheidungsmerkmal」に見立て、当の資源を「独占」「専有」し、「仲間」内に「配分」して、生存を確保しなければならなくなります。そのさいには、「近隣縁」をどの範囲とするか、どういうふうに非該当者を排除して「独占」を貫徹するか、「独占」された資源の用益権をどう「配分」するか、などについて、「格率Maxime」を決め、一定の「秩序Ordnung」を設定することになりましょう。「近隣縁」にある「集群」ないし「ゲマインシャフト」が、そのかぎりで「ゲゼルシャフト結成」を遂げ、これによって「近隣ゲマインシャフト」が、一定の「確定的な境界」内に「閉鎖」されることにもなりましょう。

ただし、この「ゲゼルシャフト結成」は、「経済にも携わるゲマインシャフトwirtschaftende Gemeinschaft」を創出するにはちがいありませんが、必ずしも、「もっぱら経済的成果を追求する……経済ゲマインシャフト」あるいは「経済行為の統制だけを目的とする (概念上、それ自体としては、経済行為そのものには携わらない) 経済統制ゲマインシャフト」とはかぎりません。

 

さて、そうした「閉鎖」のさい、排除される非該当者は、排除に抵抗し、敵対して、場合によっては攻めてくるにちがいありません。そうした抵抗を押し退けて「独占」「専有」を貫徹するには、また他方では、対内的にも、「配分」に不服を申し立てて抵抗する分子に、制定秩序を受け入れさせ、服させるためには、少なくとも「臨機的」に、「物理的強制力」の行使が必要とされましょう。しかし、そのために、特別の「強制装置」が組織化され、常時発動にそなえる、という「政治的ゲゼルシャフト結成」とその「多年生化」にまでいきつくかどうかは、必ずしも確定されません。対外的・対内的に、敵対・不服分子を制圧して、「近隣ゲマインシャフト」を「秩序ある支配」のもとにおく「政治的ゲマインシャフト行為」は、必ずなされましょうが、これは、一朝有事のさい全員が結集する「臨機的ゲマインシャフト行為」でも足り、恒常的な「首長」や「機関」を分出させる、「多年生「政治的ゲゼルシャフト結成」ないし「政治団体形成」という形態をとらなくても済むはずです。

 

「政治的ゲゼルシャフト結成」の諸階梯は、未完成ながら「政治ゲマインシャフト」節のほうで定式化されています。その第一階梯は、「救難援助」を必要とする「窮境」とも、「経済にも携わるゲマインシャフト」への「閉鎖」を招く自然資源の「稀少化」とも、類型を異にします。それは、外敵の襲撃、あるいは野獣群の襲来を受けて、「防衛戦争」を闘う、あるいは逆に、そうした好機が到来して「略奪行」「狩猟行」「戦闘行」に「打って出る」という契機です。そうした状況では、みずから名乗り出て「われにつづけ」と先頭に立つ「カリスマ的戦闘首領」のもとに、(経済上)「近隣ゲマインシャフト」を構成している壮丁たちが、「民兵」として自発的に馳せ参じ、「臨機的ゲゼルシャフト結成」がなされましょう。しかし、戦闘が終了し、(戦勝の場合には)戦利品が分配されると、ただちに「ゲゼルシャフト関係」は解消されて、「多年生」の「形象Gebilde (構成)」は残りません。そのさい、戦闘参加を渋った者は、「臆病者」として「非難」され、場合によっては「石打ち」「村八分」などの刑を受けますが、いずれも「慣習律」止まりで、「法制化」はされません。

その後、「カリスマ的戦闘首領」が、平和化した「近隣ゲマインシャフト」で「名望家」的な「村落長Dorfhäuptling」となり、声望を保ち、紛争のさいには「調停者」としての役割を演ずることもあります。そうした「近隣ゲマインシャフト」の状況については、「政治ゲマインシャフト」節最後の第6段に、簡単なスケッチがありますので、下記に引用します。

 

「政治」章 第6 (WuG. 5. Aufl., 519, 25-1 v.u.; 3. Aufl., 618, 26-1 v.u.; Eng. Tr., 909-10; 浜島訳: 187-88)

  原初的な政治団体のさまざまな発展階梯にかんする民族誌的研究は、まだ不完全なので、その決疑論をここで確定済みのこととして提示するわけにはいかない。しかし、財の所有関係がかなり発展した事情のもとでも [したがって、「多年生経済にも携わるゲマインシャフトをなしてはいても]、なお、特別の政治団体や、その機関さえ、まったく欠けている場合もある。ヴェルハウゼンの述べるところでは、たとえば異教徒時代のアラビア人がそうである。ここには、長老 [シェイク] を戴く氏族を除くと、家以外には、秩序づけられた持続的権力は存立していない。というのも、そのつど集住し放浪し放牧する群れ [「集群」ないし「無定型のゲマインシャフト」] は、安全保障への要求に発して、諒解ゲマインシャフトEinverständnisgemeinschaft をなしはするが、この諒解ゲマインシャフトは、特別の機関をもたず、原理的に不安定で、外敵に遭遇したばあいに発生する支配権Autorität[権威]も、すべて臨機的にとどまるからである。

  この状態は、あらゆる種類の経済秩序のもとで [「近隣ゲマインシャフト」が「経済にも携わるゲマインシャフト」となった後々まで]、きわめて長期にわたって存続する。常態的・持続的に存立するのは、家長と氏族長老、これらと並んでは、呪術師と神託授与者の権威である。氏族間になんらかの紛争が生ずると、呪術師の補佐のもとに、氏族長老の間で、調停がなされる。この状態は、ベドゥインの経済的生活形態に照応している。それは、ベドゥインの生活形態と同様、けっして、特別に原生的というわけではない。

  定住にともない、氏族や家の範囲を越えて、持続的な対処を要する特別の経済的課題が生ずると、村落長Dorfhäuptlingが出現する。村落長になるのは、しばしば呪術師、とくに雨乞師か [「平和な呪術カリスマ」から「祭司侯」へ]、あるいは、特別の戦果を収めた掠奪行の指揮者 [「戦闘における英雄カリスマ」から「武侯・戦争侯」へ] である [「軍事貴族 対祭司」の類型的対立は、この原初的「カリスマ」の二元性からの派生現象]

 財産の専有がさらに進展する場合 [つまり、「近隣ゲマインシャフト」の「仲間関係」のなかに、所有の分化が生じてくる場合にも]、財産所有とそれに相応する生活様式において傑出した者は、誰でも容易に、村落長の地位を占めることができる。しかし、その支配権は、非常時にかぎられ、しかもそのさい、かれが現実に支配権を行使できるのは、もっぱら呪術的ないしはこれに類する即人的資質によって、である。非常時以外、とくに慢性的に平和がつづく時期には、かれは通例、衆望を担う仲裁裁判官の地位を占めるにすぎず、かれの指示は、(命令としてではなく、たんなる) 勧告として傾聴されるだけである。

  平和時には、この種の村落長さえいないことも、けっして稀ではない。このばあいには、隣人間の諒解行為が、仕来たりHerkommen の尊重と、(氏族の特性をなす)「血の復讐」や呪術的諸力 (の逆鱗に触れること) への恐れによって、規制されている。いずれにせよ、平和時の村落長の機能は、内容上ほとんどすべて、経済的なもの [耕作規制など] にかぎられ、場合によっては呪術師・治療師の、また仲裁裁判官の、役割が加わる程度である。個々のばあい、それぞれの機能に、固定した類型が対応するわけではない。村落長側からの実力行使が正当と見なされるのは、つねに、それが仕来たりに適い、村落仲間の自発的協働をまって行使される場合のみである。村落長が呪術的カリスマをそなえ、経済的に卓越した地位にあればあるほど、かれは、それだけ容易に、この協働を確保することができる。

 

というわけで「氏族」および「宗教ゲマインシャフト」との関連も問われましょう。しかし、これらについては、それぞれの節で、それぞれの原生的事情に論及している箇所を、ご参照ください。

 

さて、「政治的ゲゼルシャフト結成」の第二階梯は、戦争状態が「慢性化」して、「臨機的」ゲゼルシャフト結成では対処しきれない、という条件のもとで、屈強な壮丁を特別の「メンナー・ハウス」に収容・起居させ、常時職業として戦闘訓練を施す、「多年生」「ゲゼルシャフト結成」の階梯です。

  第三階梯は、そうした特別戦闘団体の暴走によって被害を受ける他地域のゲマインシャフトから、「報復」や「復仇」を受けざるをえなくなる、当の (「メンナー・ブント」が属している ) 地域ゲマインシャフトが、「域内公安令」の「授与(指令)」その他によって「平和化」を進め、当の「メンナー・ブント」をゲマインシャフトの「強制装置」として編編成し、「秩序ある支配」のもとにおき、「正当性」も取得して、「国家」に移行する過程です。

そうした外部の「政治ゲマインシャフト行為」が、どこに発して、どのように「国家」への「ゲゼルシャフト結成」を進めるのか、が「旧稿」ではまだ詳述されていませんが、「旧稿」の主要課題だったとはいえましょう。そうした政治権力は当然、「メンナー・ブント」以外の、分散的な「近隣ゲマインシャフト」群をも統合して、それぞれに制定秩序を授与」し、「ライトゥルギー (貢納供出義務)」と「連帯責任」を課し、「近隣ゲマインシャフト側からの呼応」「協定」も編編成して、まさに「ゲマインデ結成を進めていくことになりましょう。「近隣ゲマインシャフト」側も、「メンナー・ブント」の暴走による「報復」や「復仇」という「とばっちり」を受けつづけるよりは、そうしたほうがベターと感得したにちがいありません。「近隣ゲマインシャフト」が、「ゲマインデ」形成の基礎となるさい、「授与」と「協定」とのどちらが優勢かを、こうした条件ぬきに、抽象的に規定することはできないのではないでしょうか。

 

 

2 「協定」と「授与」とが同程度に扱われている理由について

 

「近隣的共同行為は,関与者の行為を規制するその秩序を,ゲゼルシャフト結合を通して自ら制定するか……あるいは,外部の者によって強定されるかその場合,外部の者とは,近隣者自身がその者によって,経済的あるいは政治的にゲゼルシャフト結合化されるような,個人ないし共同組織のことである……そのいずれかでありうる」564 = 217

 

『理解社会学のカテゴリー』では,「制定秩序の圧倒的多数は,起源の点からいえば協定されるのではなくて授与されたものである」(海老原・中野訳: 116と述べられているのに,ここでは「いずれかでありうる」と同程度に扱われているのはなぜでしょうか.

「ゲゼルシャフト結成によってみずから制定する」例として,ここでは「耕作強制Flurzwang」が挙げられています.これは,直前に指摘されている,「牧草や森林が稀少となったから,それの利用が『成員の協同によってgenossenschaftlich』,すなわち,もっぱら一元的にmonopolistisch統制される」564 = 217場合だと思いますが,さらにそれ以前には,つぎのような記述があります.

 

「近隣性とは,……窮境において頼りになる存在を実際的には意味する.近隣者とは典型的な窮境援助者である.それ故,『近隣性』は,たしかに全く冷静で非情動的で・主に経済倫理的な意味における『友愛(兄弟)性』の担い手であるといえる.『汝が我になすごとく,我も汝にする』という全世界にみられる全く非感傷的な民俗倫理の本源的原則にしたがって,援助給付が,相互扶助という形をとって,近隣性のまっただなかに生みおとされる」562 = 216

 

つまり,「牧草や森林が稀少となる」といったある種の「窮境」に陥ると,「近隣性」が「一般的本質」565 = 217としてもつ「友愛性Brüderlichkeit」が発揮されて,「協同」的な対応が生じるということだと思いますが,この「友愛性」は,「全世界にみられる非感傷的な民衆倫理という原初的な根本原則urwüchsiges Grundprinzip」から生まれたものであるとも指摘されています.

そして,ほぼ同じ内容が,本節の末尾でふたたび繰り返されます.

 

「しかし,近隣共同体の一般的本質にしたがえば,その独自で特別な共同行為とは,特殊な帰結を伴った,困窮時におけるあの冷静な経済的『友愛性』にほかならない」565 = 217

 

以上を総合すると,こういうことでしょうか.たとえ「近隣者どうしでは『友愛的』関係が支配するのが通例であるということをいささかも意味しない」としても,「近隣ゲマインシャフトは『友愛性』の典型的な場である」563 = 217からこそ,ある種の危機が生じた場合には,「成員の行為を規制する秩序をゲゼルシャフト結成によってみずから制定する」ことを,「かなりの蓋然性をもってあてにしうる」561 = 216ということでしょうか.さらに言えば,近隣ゲマインシャフトが「『ゲマインデ』の原初的な基盤である」565 = 217理由のひとつもまた,(政治ゲマインシャフトの萌芽がそこに生れることとともに)「原初的な根本原則」たる「『友愛性』の典型的な場である」ことに求められるのでしょうか.もっと言えば,「友愛性」が「原初的な根本原則」であることは,「あらゆる人は,他人に窮境援助を求めるはめに陥る可能性をもっている」561 = 216ことに根拠をもつようにも思えます.このことと,小路田泰直さんが言う「支配のアプリオリ性」,つまり,「人は人に依存する存在である」(小路田 2009: 242がゆえに「支配」は根源的であるという主張とは対応するように思うのですが,この対応関係は,「協定」と「授与」が同程度に扱われていることと関連があるような気もします.考え過ぎでしょうか.

さらにつけくわえれば,上記の引用にある「特殊な帰結をともなったmit ihren spezifischen Folgen」ということの意味が,いまひとつよくわかりません.「このような事情がなぜ,現代の生活諸条件によってつくりだされる,品位感情の特殊な方向性spezifische Richtungの帰結Folgeとして,そうした諸条件のもとでとくに顕著に現われるのかについて,ここで考察することはできない」561-2 = 216という一文が対応しているようにも思うのですが,そうだとしても,意味が不明です.「ここで考察することはできない」とある以上,どこか別の箇所で説明されているのでしょうか.ご教示いただければ幸いです.

 

折原注: このご質問には、前段1 への応答で、半ばはお応えしているように思えます。小路田さんは確かに、鋭く「本質」を見抜く人ですが、それだけに、ある関係を「本質主義」的に固定化する弊にも陥りかねません。ヴェーバー的思惟の「本質」はむしろ、ある人が「本質」と思い込んで「実体化」している所見を、普遍史的パースペクティヴのなかに導き入れ、多様な諸形態と突き合わせ、相対化・類型化して送り返し、当人もそのようにして捉え返すように、促すところに求められましょう。そうしますと、まず、「人間がさまざまに頼り合うこと (仲間関係)」と「支配-服従の関係に入ること」とが区別され、後者のばあい、「支配する」ことよりも「支配される」ことのほうを「好む」かどうか、それゆえに(あるいは、さもなければ)いかなる条件のもとで、「支配関係」が安定して、「多年生」となるのか、等々を問う必要がありましょう。日常的には「互いに距離をとって、干渉を避けたがる」のが「人間関係一般の本質」なのに、非常時には「仕方なく」相互依存関係に入り、やがて生ずる「支配-被支配関係」では、さほどドラスティックでないかぎり、「支配する」よりも、気楽に「支配される」ことのほうを好む、とも、考えられましょう。

「カテゴリー論文」では、圧倒的に多数の場合は「授与」といっておきながら、「近隣ゲマインシャフト」節では、「授与」と「協定」とが対等に扱われているからといって、「協定」の優位ないし同等性を、「近隣ゲマインシャフト」の「本質」としての「友愛」から導き出そうとするのは、やや「抽象的」で「勇み足」ではありますまいか。

 

 

3 「外部の者」による「ゲゼルシャフト結成」の含意について

「外部の者とは,近隣者自身がその者によって,経済的あるいは政治的にゲゼルシャフト結成されるような,個人ないし共同組織のことである」(564 = 217という,すでに引用した文のなかの挿入文の含意について,ご質問します.

支配は「『ゲマインシャフト秩序の合理化』の梃子(折原 2007: 54であると先生は喝破されています.その理由のひとつを,先生は,別の論文で,「支配者が押しつける目的への志向性が生まれる」(折原 2001: 267ことに求めておられるように思います.そうだとすれば,「外部の者」によって,「近隣者自身が……,経済的あるいは政治的にゲゼルシャフト結成される」ということも,同じように理解していいでしょうか.つまり,近隣ゲマインシャフトの成員が,友愛倫理にもとづいてそれまで即自的におこなっていた相互扶助(ある種のゲマインシャフト行為)が,「外部の者」による制定秩序Satzungの授与Oktroyierungをきっかけにして,その秩序に準拠するかたちで,(「外部の者」だけでなく「自身」もまた)目的志向的におこなうようになる(いわば,重層化されたゲマインシャフト行為となる)と理解していいでしょうか.

 

折原注: 一般的・抽象的にはそのとおりで、見事な定式化と思いますが、どのような条件のもとで、どのような (授与と協定との) 割合で、いかなる重層関係が形成されるのか、が問題です。上記のとおり、「経済的ゲゼルシャフト結成」は、どちらかといえば、「財の稀少化」という内在的契機にもとづく、早期には相対的に微弱な「ゲゼルシャフト結成」ですが、「政治的ゲゼルシャフト結成」のほうは、慢性的な戦争状態による窮境を逃れるために、圧倒的に強力な「外部」勢力(が存立した場合、そこ)から課せられる、貢納の連帯責任をもともなう秩序を受け入れ、「仲間」内でも「協定」によって呼応する、というのが、定型といえましょう。 

 

 

4 「近隣の大多数を包括するような政治的なゲマインシャフト行為」の解釈について

 

「『ゲマインデ』とは,……近隣者の大多数を包括するような政治的共同行為と関係づけられることによって,はじめて,その十全な意味において作り上げられるような形象である」565 = 217

 

これは,質問というよりは確認です.ここで言われている「近隣の大多数を包括するような政治的なゲマインシャフト行為」は,いままでの文脈から判断すれば,「外部の者」による「授与」だけでなく,近隣ゲマインシャフトの成員による「協定」も含むはずです.しかし,まさにこの箇所を引用しているDie Gemeindeの著者である)R. ケーニヒ1958は,この後者を見落としているように思います(ご参考までに,Die Gemeindeの目次と当該個所を添付ファイルでお送りします).ヴェーバーにおいては,ゲマインデの「アンシュタルト的性格」,言い換えれば「地域科学的(≒行政的)なゲマインデ概念」が強調され,他方,「社会学的なゲマインデ概念」が抜け落ちることで,「空間的な近接ないし近隣という現象が,まったく抜け落ちてしまう」とケーニヒは批判していますが,この批判がまったく的外れであることは明らかです.「近隣という現象が,まったく抜け落ち」るどころか,近隣ゲマインシャフトこそがゲマインデの「原初的な基盤」であるとヴェーバーは明言しています.ヴェーバーは,「四階梯図式」にもとづいて,社会形象としてのゲマインデを生成という観点から説明し,概念化しているのだから,(ケーニヒの言う)「社会学的」なゲマインデ概念と「地域科学的≒行政学的」なゲマインデ概念を切り離し,後者だけを強調するなどということはありえない.むしろ,「社会学的」なものも「地域科学的≒行政学的」なものも含めて包括的にゲマインデを概念化している点こそが枢要かと思います.これにたいして,ケーニヒのように,「社会学的なゲマインデ概念」を「近隣」だけに限定し,「社会学的なゲマインデ概念」を矮小化してしまうこと(その背景には,アメリカ社会学,とくにシカゴ学派の影響があるように思います)のほうがむしろ問題ではないでしょうか.

 

折原注: おっしゃるとおりと思います。「アメリカ社会学」ばかりでなく、ほかならぬドイツの学界 (小生が文献実証的に指摘したのは、歴史学者のニッパーダイのみですが) でも、意外に、ヴェーバーは読まれ、理解されていないのではないでしょうか。一時期、敗戦後のドイツ社会学界を代表していたかに見えるケーニヒさえ、デュルケームとアメリカ社会学には傾倒しながらも、ヴェーバーを的確に読んではいなかったというのも、けっして驚くべきことではないでしょう。貴兄が、貴兄ご自身の実証研究と、ヴェーバー読解の成果とを総合されて、ケーニヒらにたいする批判の論陣を張られるように、と期待いたします。そうでもしなければ、日本の「大学-学界-出版ジャーナリズム複合態」は、長年の欧米依存、つぎつぎに「新しいもの」を漁る通弊から、なかなか脱却できないでしょう。

ヴェーバー読解の問題としては、「社会形象」を「実体化」せず、いったんは「個人の行為」に分解しながらも、そのうえで「社会形象」を「秩序づけられた協働行為連関」として再構成し、動態的に捉え返す、ヴェーバーの複眼的視座が、誤編纂とそれにともなう読解不全のため、長らく見失われていた、ところに求められる、といえましょうか。

 

 

5 「ゲゼルシャフト結成の進行」の解釈について

 

「そして,普通,ゲゼルシャフト結合化が進行するにつれ,あらゆる種類の活動〔学校教育や宗教的任務の引受けから,必要な手工業者の体系的な定住化まで〕を己れの共同行為にとりこむか,あるいは,政治共同体によって義務として強定されたものとして,含みこんでいるものである」565 = 217

 

これも,質問というよりは確認です.ここで言われている内容は,「ゲゼルシャフト結成が進行」してゲマインデがGebietskörperschaftになる,つまり,自治体になることを指していると思います.「あらゆる種類の活動を……ゲマインシャフト行為のなかに取り込む」とは,近隣ゲマインシャフトの成員が地域社会のなかで暮らしていくために不可欠な活動を,ゲマインデがみずからの業務に位置づけるということであり,あるいは,「政治ゲマインシャフトによって義務として授与される」とは,(もっとも高次の政治ゲマインシャフトである)国家が,(日本のかつての機関委任事務のように)国政事務を自治体に義務的に担わせることであると読めるからです.ちなみに,Übernahme religiöser Aufgabenは「宗教儀式を執り行うこと」,systematische Ansiedlung notwendiger Handwerkerは「村落での生活に不可欠な手工業者を計画的に定住させること」という訳になるかと思いますが,いかがでしょうか.

 

折原注: 前便で『資本論』の一節を引きながら、解説したとおりです。特定の専門的技能者も含めて「計画的に定住させること」を、「計画倒れ」にならず、年々実現して、ゲマインデが「多年生」の「ゲマインシャフト」として存続するには、どうしても、内部の秩序維持に不可欠な (それ自体として高度に発達した) 宗教の (教理と) 儀礼を「外部から」「授与」されて採り入れ、各種の手工業者も、内部では途絶えかねないところを、外部の「氏族手工業」「部族手工業」のプールから、あるいは「遍歴手工業」から、そのつど後継者として補充して住み着かせていく必要があり、そういう補充も含めて、ゲマインデの(かなり多様で複雑な)「固定的分業」を維持し、他方では「貢納」源として利用し搾取していく(ヴェーバーのタームでは、「ライトゥルギー」として「デミウルギー」関係を維持していく)には、やはり「外部」の政治権力による「計画」と「秩序ある支配」が必要とされたにちがいありますまい。「太古のアジア的共同体でさえ、それぞれを孤立化させて抽象的に「実体視」するのでなく、全社会的な政治・支配体制に組み込まれ、再編成された構成分肢として、「固定化」される根拠と機制に即して、捉え返されなければなりません。詳しくは、「ヒンドゥー教と仏教」第一部をご参照ください。

  ちなみに、「ゲゼルシャフト化が進行」という訳文は、なにか「社会形象」自体が「ゲゼルシャフト化」するかのように、やはり「社会形象」を「実体化」した不適切な表記と読めるのですが、いかがでしょうか。

 

おおよそ以上です.ご教示いただければ幸甚に存じます.よろしくお願いいたします.

 

2014320(木)

 

山崎 仁朗

 

文献(『経済と社会』は除く)

海老原明夫・中野敏男訳,1990,『理解社会学のカテゴリー』未來社.

König, René, 1958, Grundformen der Gesellschaft: Die Gemeinde, Hamburg: Rowohlt Taschenbuch Verlag.

小路田泰直ほか,2009,『比較歴史社会学へのいざない』勁草書房.

折原浩,2001,「ヴェーバー「支配の社会学」(『経済と社会』「旧稿」)の構成と方法特性」『人間科学研究』記念号,267-82

    2007,『マックス・ヴェーバーにとって社会学とは何か』勁草書房

 

 

 

[「記録と随想16:マックス・ヴェーバーにおける『近隣ゲマインシャフト』『ゲマインデ』他の社会学的概念構成――故山崎仁朗氏との質疑応答より」完。2017211日記]