記録と随想15: 日本マックス・ヴェーバー研究のバトン・リレー29日)

 

[この正月、敬愛する先輩の徳永恂氏から、年賀状をいただき、「マックス・ヴェーバー『学問論集』の初版本を送ろうと思うがどうか」とのお問い合わせを受けた。氏は、蔵書をおおかた、長年勤務された大阪大学のW・シュヴェントカー氏に寄贈されたが、この一冊には特別の愛着があり、手許に止めておかれた由。ところが、米寿を前に、「別に形見分けというわけでもない」が、「日本のウェーバー研究におけるバトンともできれば」と考え、リレーを託したい、とのお申し出であった。

顧みると、徳永氏は、敗戦直後の経済的窮乏と思想的昏迷のさなか、「マルクス主義か実存主義か」という思想問題に直面し、態度決定を迫られ、その余韻を抱えながら、哲学ないし社会学に志したという点で、(数年遅れの筆者にとっても) 同世代者であり、社会学にかけては特別の先輩であった。「特別の」という意味は、こうである。

「戦後社会学」は、すでに1950年代から、一方に「マルクス主義社会学」は抱えながらも、他方の「実存主義」にはほとんど無縁のまま、戦勝国の「20世紀科学」・「アメリカ社会学」に滔々と転身する趨勢にあった。それにたいして、筆者は、「実存主義」に共鳴しながらも、むしろさればこそ、「戦後社会学」の「変わり身の速さ」には追随できず、「マルクス主義と実存主義」の架橋を求めて、マックス・ヴェーバーを初めとする「ドイツ社会学」「ドイツ思想」に関心を寄せた。そうして、(パーソンズが序文を寄せた) エフレム・フィショフの(ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)「宗教社会学」章の)英訳には、夥しい誤訳・不適訳があると気がつき、さらに、当のパーソンズ自身による「倫理論文」英訳の (たとえば「殻Gehäuse」を「檻cage」と訳出する) 皮相性にも直面して[1]、ヴェーバー著作を精確に読解するには、(「あたりまえ」のことではあるが)ヴェーバー自身のドイツ語原典に当たるほかはない、と確信し、論文にはつねに (「衒学癖」「些事拘泥」「ヴェーバー学学」といった悪評にもかかわらず) 原語併記を心がけ (その後氾濫するカタカナ表記は避け)、英語以外の「未修外国語」や古典語の習得も勧奨してきた。そういうわけで、専攻領域ばかりではなく、「時流に抗う」基本的な志向性にかけても、徳永先輩の学風を引き継いでいる、と称して差し支えない、と思う。

  そこでこのたび、そういう思いを籠めて、「バトン・リレー」の提案を喜んでお引き受けした。そのうえで、そうした趣旨の徳永先輩宛て私信を、わずかに改訂し、注を付け、許諾をえて、このHPに掲載する。広くヴェーバー研究、「比較歴史社会学」研究に関心を寄せられる各位のご参考に供し、日本社会科学の発展を祈念する次第である。201729日記]

 

 

徳永恂 先生

 

拝復

 

近年とみに筆圧が衰え、漢字の綴りも即座には思い浮かばなくなってきましたので、このパソコン印字文書で、失礼いたします。

 

このたびは、お便りとともに、貴重なご蔵書、ヴェーバー『学問論集』の初版本をご恵送たまわり、まことにありがとうございました。

黒地に金文字を配したこの初版本には、かつて1954年に駒場に入学し、旧制一高から引き継がれた図書館で、稀覯本として収納されているのに出会いました。重厚な装丁に「原書」の風格を感得しながら、「理解社会学のいくつかのカテゴリー」と「『価値自由』の意味」を、全文、ノートに筆写したものでした。

今回お送りいただいた本を開いてみまして、「シュタムラー批判」の「補遺Nachtrag」が、「批判」本文の後ではなく、全巻の末尾に収録されているのに気がつきました。この「補遺」は、ヴェーバーが、シュタムラーの (「法による外面的規制」を「社会の普遍的形式」とみなす)「社会」概念を批判し、「規範学」から「経験科学」としての「理解社会学」に転じ、「規範」を「行為格率」「秩序」として捉え返すとともに、「社会関係」一般を、①「(互いに「意味関係」にはない)集群」-②「無定型のゲマインシャフト(意味関係態)」-③「非制定秩序に準拠する諒解ゲマインシャフト」-④「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト)」の流動的相互移行関係として捉えていく契機・旋回点、をなしており、非常に重要な断片と考えられます。

初版編纂者のマリアンネ・ヴェーバーも、おそらくはマックス・ヴェーバー死後に発見したこの遺稿を、やはり重要と見て、とりあえず巻末に収録しておいたものと考えられます。ところが、第二版以降、ヨハンネス・ヴィンケルマンが、この断片を「シュタムラー批判」本文に後置したのは、形式上は妥当でしたが、それがなぜ、「シュタムラー批判」1907と「理解社会学のカテゴリー」1913との間に入るのか、ヴェーバー科学方法論の旋回に立ち入って解説する風はなく、かれらしく (理由を挙示しない改竄を含む) 常識的処置に止まっていました。『全集版』は、ヨハンネス・ヴァイスが編纂に当たるものと思われますが、かれの取り扱いが注目されます。

いずれにしましても、わたくしといたしましては、今後、『学問論集』からの引用のつど、この初版本と比較・照合して、活用させていただく所存です。そうしながら、徳永先生からのこの貴重なバトンを引き継ぐべき「第三走者」をどうするか、思案してまいります。

ほんとうにありがとうございました。

 


 

さて、徳永先生には、近く米寿を迎えられ、なお、二冊の著書をご計画との由、お元気でなによりと存じます。近年における先生の筆力の漲りから推して、見事に実現なさるにちがいないと確信し、期待しております。ご兄弟そろって、学問的精神史をまとめられ、上梓されるとは、素晴らしいことです[2]

ご計画の実現を、心よりお祈り申し上げます。

 

わたくしも、今年9月には82歳になりますが、2019年の「東大安田講堂50年」と2020年の「ヴェーバー没後100年」までに、二冊の自己総括文書をまとめ、「時代に抗い」「批判的少数者として」生きた地下水脈の所在を確認して、後続世代の批判と乗り越えに、検討素材だけでも提供しておきたい、と念願しております。

徳永先生から数年後、1935年に生まれた世代の一員として、敗戦直後には、わたくしもやはり、当時の思想状況で、「マルクス主義か実存主義か」の問題に直面いたしました。わたくしも、どちらかといえば後者に共鳴しながら、両者を架橋する手掛かりを求めて、マックス・ヴェーバーに向かい、本腰を入れて取り組みました。そのため、ひとつの「制度化された個別専門科学」としての「社会学」を、「いきなり」あるいは「なんとなく」選んで、安全な「殻」として立て籠もることはできず、ヴェーバーの (圧倒的に未読解の) 労作を、「いろいろある先行理論のひとつ」に見立て、さっさと切り上げて「卒業」し、「独創的」な「応用的実証研究」に移る (当時、こうした風潮が支配的になりつつあったとはいえ、「無思想」な「時流迎合」というほかはない)「専門学知主義」に「のめり込む」わけにはいきませんでした。「学問は何のために」という問いを抱いて、(ヴェーバーはヴェーバーでも)『学問論集』を真っ先に取り上げ、かれの「社会学」を、さしあたりは「状況において社会学すること」「状況への社会学的アンガージュマン」として捉えました。そういうスタンスでしたので、「社会学」の先輩のなかでは、「こうした問題を理解し、助言していただけるのは、まず徳永さんだけ」と思いなしておりました。ですから、対林道義論争のさい、徳永さんが、わたくしの「目的合理性」理解は「思い入れが過ぎる」と窘められながら、同時に「その『思い入れ』のほうに共鳴する」と評してくださったのは、たんへんうれしく、なによりもの激励でした。

 

さて、わたくしはそのうち、ヴェーバーの学問論は、「比較歴史-社会学」構想として総括できるのではないか、と考えるにいたりました。つまり、ヴェーバーは、「特殊化的・個性記述的文化科学」と「一般化的・法則定立的自然科学」という「ドイツ西南学派」の区別を、ひとまずは受け入れ、双方を方法論上は峻別しながらも、科学的「因果帰属」と「責任倫理」的実践に、そのつど総合して活かそうとしたのだ、と思われます。

前者につきましては、直面する問題状況の特性を、「それ自体としては普遍的な諸要因の個性的布置連関Konstellation」として捉え、その「因果帰属」に、双方の知見を、「史実的知識」(歴史学)と「法則的知識」(社会学)として、そのつど関連づけ、双方を共に担っていこうとしました。「理解科学」の「現実科学」的分肢としての「歴史学」と、「法則科学」的分肢としての「社会学」とを、そのつど「歴史-社会学」として素早く的確に総合しようとし、そのためにこそ、「社会学」を「法則的知識の決疑論体系」として、『経済と社会』という「道具箱」に整序しておこうとしたのだと思います。双方が、この実存的緊張から離れ、気楽な日常的・自己目的的「専門経営」に引き渡されますと、一方は「素朴実証主義」ないし「素材探し」に、他方は「モデル構成の自己目的化」ないし「意味探し」に傾きます。

後者につきましては、「責任倫理」的実存として生きようとするかぎり、そのつど直面している問題状況への実存的投企の目的が、どの程度達成されるか (されないか)、目的達成のかたわら、どんな「随伴結果」が生じうるか、「客観的可能性」において予測し、「結果にたいして責任を執ら」なければなりません。ところが、そうした「未来予測」には、「因果帰属」の論理を「未来予測」に転用し、現在の「個性的布置連関」について、やはりその「普遍的諸要因」に、該当する「法則的諸知識」をリンクし、目的の達成(-不達成)と随伴諸結果とを新たに含む、どんな個性的布置連関」が生成してくるのか、できるかぎり予知-予測することが必要とされます。

 

さて、わたくしは、そういう「社会学すること」「社会学的アンガージュマン」ないし「歴史-社会学」のスタンスを、みずから会得すると同時に、大学教養課程における教育実践の要、「現場からの根底的民主化」をめざす新しい教養 (自己形成) の核心として、学生間にも育成し、普及させようとつとめました。

そうするなかで、思いがけず「東大紛争」に直面し、学生たちから「学問することの意味」を問われました。そこで、一研究者・一社会学徒としては、学内における (一教官と一学生との「摩擦」=「行為連関」にかかわる) 処分問題をめぐり、大学側の甲説と学生側の乙説との是非を、「価値自由」に (つまり、「自分は教官であるから」という「存在被拘束性」にも、「恩師-弟子」間の「コネクション=諒解ゲマインシャフト」から生ずる「観念的利害関心」にも、囚われずに) 追究しようとつとめました。一教員としては、学生側の多少は粗暴な教官追及にたいしても、「その問やよし」と受けて立ち、正面から応答-勝負し、フェアな議論に持ち込もうとつとめました。

そういう状況で、ヴェーバーに固有の方法が、(上記のとおり、「文化科学」を「現実科学」、「自然科学」を「法則科学」と「呼び換え」、双方を方法論的には峻別しつつも、問題ごとに相互媒介させて、科学的「因果帰属」と「責任倫理」的実践に活かそうとする) 独自の総合として捉え返されました。そうした方法を、ひとつの歴史的事件(「東大紛争」)の発端となった「学生処分問題」における二個人間の行為連関」という微視的対象には、適用して活かすことができたように思います。そしてその後は、状況の諸問題に「実存的」・「責任倫理的」に対応しようとつとめながら、ヴェーバー的方法を応用するいまひとつの対極=巨視的対象に、「『基軸時代』(ヤスパース)における諸文化圏の構造的分岐とその (現代にいたる) 諸帰結」(たとえば「ユダヤ人」問題と「パレスチナ問題」) といった「普遍史」的問題を据え、これにヴェーバーがどこまで迫っていたのか、急逝時の「潜勢」も含め、「比較歴史-社会学」構想として蘇生させ、復元する、という課題と取り組んで、今日に至りました。この点につきましても、お伝えしたいことが多々あるのですが、あまりにも長くなりますので、今日のところは、この辺までで止めさせていただきます。

ただ、ご承知のとおり、昨年秋、『経済と社会』全巻邦訳計画でヴェーバー研究にも大きく貢献してくれた創文社が、新刊停止・業務終結に追い込まれました。これは、この国の「大学-学界-出版ジャーナリズム複合体制」の窮境を端的に露呈した事件だったと思います。そこで、1960年代からの『経済と社会』全巻邦訳計画と各篇の刊行をめぐる私見をしたため、同社に送りました。この一文には、1960年代以降の、『経済と社会』編纂問題をめぐるわたくしの研究の趣旨と、昨今の研究課題とを、比較的簡潔にまとめておりますので、近況報告を兼ねて、ここに同封させていただきました。我田引水でたいへん恐縮ですが、お暇の砌、ご笑覧賜れれば幸甚と存じます。

 

それでは、例年になく厳しい寒気がつづきます今日この頃、どうかくれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

 

敬具

 

2017127

折原



[1] とはいえ、英訳がひとしなみに低水準と決めつけるわけではない。たとえば、(ダルムシュタット市出身の) ギュンター・ロートによる『経済と社会』の英訳は、フィショフの誤訳を訂正したうえ、「第一部」(改訂稿) と「第二部」(旧稿) との基礎カテゴリーの違い、にも論及し、「カテゴリー論文」から後者を訳出して紹介するなど、『全集』版よりはるかに高水準にある。

[2] 去る20161120日、徳永恂先生の兄上・徳永徹氏著『曲がりくねった一本道――戦後70年を生きて』が、作品社から刊行され、筆者にも恵送されてきた。