記録と随想14:「城砦王制」の理論構成と諸問題――マックス・ヴェーバーにおける「古代国家の発展図式」(『古代農業事情』)が「社会学的決疑論体系」(『経済と社会』旧稿) に再編成される経緯と意義 (その2(425日)

 

[承前[1]

§ 3「城砦王制」の理論構成と諸問題

『古代農業事情』中の 「城砦王制Burgenkönigtum」にかんする叙述から、その構成要素を、洩れなく取り出し、(後の『経済と社会』(旧稿) における概念規定、改訂ならびに体系構成との比較にそなえて) ヴェーバー独自の用語法とりわけ原語表記に注意しながら、箇条書きし、その項目ごとに疑問点・問題点を後置していくと、つぎのとおりである。

 

1.「都市Stadt」に「いっそう近い先行階梯nähere Vorstufe」として「防壁」に代わって「城砦Burg」が現われる。

1’.「防壁」と「城砦」とは、どう違うか ?。現実には漸移関係にあるとしても、概念上、どこで区切るか ?

 

2.「城砦」の所有主として「王König」が現われる。「王」は、土地・奴隷・家畜・貴金属 (財宝) の所有において、他に抜きん出ている。

2’. ここでいきなり「王」が登場するが、この「王」は、前段階の「農民共同組織」に登場する「政治的な長Häuptling」と、どういう関係にあるのか ?。「長」から「王」への連続的発展が考えられるとすれば、「長」が、どんな経緯を経て、どういう要件をみたした場合に、「王」に転化するのか ?。  

 

3.「王」は、(王個人の) 意のままになる従者たちpersönliche Gefolgschaft [即人的従者団] をしたがえ、先頭に立って「戦争行Kriegszüge」と「略奪行Beutezüge」を「企てるunternehmen」。

3’.「政治的な長」は、「農民共同組織」が「外敵に遭遇」して「戦争の脅威」にさらされたとき、自発的に立ち上がり、(「直属の従者団」でなく) 同じく自発的に決起して「長」にしたがう「民兵団」を率い、「脅威」のつづくかぎりで (臨機的・一過的、少なくとも間歇的・非継続的に)「戦う」と考えられていた。それにたいして、「王」は、「直属の従者団」をそなえ、これを率いて「戦争」「略奪(複数) を「企てる」という。とすると、「農民共同組織」で、「戦争の慢性化」が生ずると、これになにほどか「能動的」かつ「計画的」に対応する過程で、「長」が「王」に推転を遂げる、と解してよいか ?

ところで、そうした発展系列として、前節「農民共同組織」の叙述では、ある「長」の「際立った戦功」ないし (平和に移行した時期には)「名裁定」の記憶が、「長」の [カリスマ的] 地位とその「氏族」の [血統カリスマ的] 地位を高め、これに「神々の恩寵」[という宗教的観念] による「正当化」も加わり、当の「氏族」が [血統カリスマ的]「門閥Geschlecht」にのし上がる、と考えられていた。そうなって初めて、当の「門閥」が、①自発的な贈物、 優先的な戦利品分配、 特別の「持分地」の割り当て、を受けることになり、つまり経済的にも優遇され、これが翻って、当の門閥の政治的・社会的地位を補強する、という関係が明記されていた。

ところが、本節「城砦王制」では、この(「政治的な長」から「長の氏族の血統カリスマ的正当化」による「門閥」形成という)発展系列の叙述は、背景に退いている。むしろ、そうした発展に代えて、[おそらくは、そのような前歴を経て経済的優位を獲得したにちがいない]「門閥」の「長」が、既得の経済力を活かして「城砦」を構え、直属の[個人的に意のままになる]「従者団」を常設し、これを任意に率いて [つまり、「伝統」・「長老」・「民仲間」による原生的掣肘から脱して]「戦争」「略奪」を「企て」、強大な地歩を築く、という。発展のこうした画期が、「王」の出現として総括されている、と見てよいか ?。とすると、前節における「門閥」への発展は、本節よりもむしろ次節「貴族制ポリス」の叙述に引き継がれ、そこで、「貴族的門閥」の「城砦王」からの独立、軍事的「都市ゲマインデ」の自治形成が、主題的に論じられる、と見られよう。

 

4.「王」と「従者団との関係は、① 当初には前者が、自分の食卓で後者を扶養しているが、やがて、土地・奴隷・家畜・財宝を、②贈与物として、あるいは③レーエンとして、付与するようになる。

4’. ここには、「王」という「首長Herr[他から「支配-命令権」を授与されるのではなく、みずから主張し、独立に行使する支配者] が、どのようにして (首長の意のままに動く)「補佐幹部Verwaltungsstab」を扶養していくのか、(扶養の仕方いかんによっては、「補佐幹部」側が、当初には「首長」から授与ないし貸与された「支配権」を「簒奪」「専有」し、場合によっては互いに結束して「首長」に対抗する) という「支配の社会学」の主導的観点が、提出されている。また、② 贈与物として、あるいは レーエンとして、「従臣」に授与ないし貸与される「土地・奴隷・家畜・財宝」を、「王」自身が、どこからどのようにして、手に入れるのかが、ただちに問われよう。5. 以下の諸項目は、この論点に関連する決疑論の萌芽をなしている、と見てよいか ?

 

5. 「王」と「従者団以外の「民Volk」との関係は、 「臨機的・時宜的gelegentlich」に「贈物Geschenke」を「たんに請求blößer Anspruch」するだけ、という [緩やかな] 一極から、恣意的に「賦役Robot」・「貢納Tribut」を課したり、「(輜重兵Troßないし歩兵Fußtruppeとして、戦争に) 強制徴用Zwangsaufgebot」したりする [苛烈な] 他の一極にいたる、漸移関係 [流動的移行関係] にある。

 「王」と「民」とのじっさいの関係が、この尺度上のどこに位置を占めるかは、「王」が平和裡に生きるか、それとも、「征服Eroberung」をおこなって「臣民たちUntertanen」の「帝国Reich」を創り出すか、によってきまる。

5’.「農民共同組織」の「政治的な長」が、「戦争」にたいして「消極的」・「非計画的」で、どちらかといえば「平和裡に生きて」いたのにたいして、「王」は「戦争」に「能動的」・「計画的」に取り組み、他の「農民共同組織」も「征服」し、その「自由農民」も「臣民」に編入して「帝国」を形成する。そうなると「王」は、「帝国」の対内的関係において、ⓐ から へと苛斂誅求を強めることができるし、じっさいにもそうなる、と解してよいか ?

 

6. この段階における「平場農村plattes Land」の状況 (「民」がどのように生活しているか) は、ほとんどまったく分からない。

6’. しかし、「王」の「帝国」では、「王」に当初から従属して、その「征服行」に徴用された「畿内の民」に加え、征服された () (ないし元「城砦主」) の「民」をも、いまや「畿外の被支配民」として含むことになろう。後者にのみ「臣民」という呼称を当てるか、あるいは「臣民」一般を「畿内民」と「畿外民」とに二分し、双方間の処遇の差異または「二重構造」を問うことになるか ?

 

7.王」が、「従者団」を、「不労所得生活者Rentner」の「戦士」または「兵卒」として、扶養していくには、必須の条件として、王が「地代Grundrente」として収取する余剰生産物を十分に生み出すような「肥沃・豊饒fruchtbarな土地」か、それとも、王が「土地・奴隷・家畜・財宝など」を蓄える元手として「商業利潤Handelsgewinn」を手に入れる機会か、あるいは、両方が、なければならない。

 

8. ところで、王」の「従者団」は通例、「なにか見馴れないneu、疎遠fremdな存在」として、「農民ゲマインシャフトbäuerliche Volksgemeinschaft」のなかに入り込んでくる。従者たちが、「じっさいには民仲間Volksgenossenであっても、そうとはみなされない場合も、しばしばある」。多くの「自然民族」の場合と同じく、たとえば、ダビデの従者団 (「クレティ」と「プレティ」[2]) や、伝説上のローマ建設者の従者団については、「バンディッティ(盗賊)」からなっていた、という伝説がある。また、メソポタミアで王からレーエンを受けた者の地位については、じっさいに「バンディッティ」の痕跡が維持されている、とも考えられる。

 

9. いずれにせよ、「王」の「即人的戦争仲間persönliche Kriegsgenossen」については、その「国民性Nationalität」に、関心が寄せられない。ところが、「王」がやがて「征服者」として立ち現れると、その [身辺を警護する]「親衛隊Leibgarde」は、[「身寄り」がないため、王個人への依存度-忠誠度がそれだけ高い] 外国人 [非国民] から徴募され、「傭兵隊Soldtruppe」に編成される。すると、王の従者団にたいする、その「国民性」に無関心な、当初からのスタンスと処遇は、翻って、こうした現実の反映という意義を帯びる。

 

10. この局面では、「城砦主たちBurgherrenの間に、「富の分化Differenzierung des Reichtums」が [先行] 拡大している。最大の「財宝 Hort」を蓄えた「城砦主」は、[財宝の一部を「賞与」ないし「給料」として分与することによって] 兵卒を雇い入れ、他に勝って強大な「傭兵軍Soldtruppe」を編成し、組織することができる。そのうえで、この傭兵軍を用いて、他の城砦主たち征服し、自分の「家臣Vasallen」団に編入してしまう。

このようにして、「いっそう規模の大きい支配[体制größere Herrschaft[「王 (首長)-家臣団 (補佐幹部)-臣民 (被支配民) 大衆」の三層構造] が成立する。これが、ほとんどすべての古代「国家Staaten端緒Anfang」である。

10’. この「端緒」からの発展として、征服主の「王」が、征服されて「家臣団」に編入された「旧城砦王」たちを、どのように組織し、服属を確保していくか、が問われることになろう。

 

[ 2017425日記。このあと、記録と随想18:記録と随想14: 『城砦王制』の理論構成と諸問題――マックス・ヴェーバーにおける『古代国家の発展図式』(『古代農業事情』)が『社会学的決疑論体系』(『経済と社会』旧稿)に再編成される経緯と意義(その2)」への補遺 (55 日)および、

記録と随想19:「貴族政ポリス」の理論構成と諸問題――マックス・ヴェーバーにおける「古代国家の発展図式」(『古代農業事情』)が「社会学的決疑論体系」(『経済と社会』旧稿) に再編成される経緯と意義 (その3につづく。]



[1] 前節「§2『原生的状態』(『農民共同組織』) の理論構成と諸問題」(「記録と随想13」所収) につづく。

[2] この「クレティ」と「プレティ」は、旧約聖書のサムエル記下 (8:18; 20:7; 20:23; 23:20: 23:22) に、「ヨヤダの子ベナヤ」に率いられた、ダビデ王の護衛兵・傭兵として登場する。また、列王記上 (1:38: 1:44; 2:25; 2:29; 2:34; 4:49) では、ソロモン王の護衛兵・傭兵として、同じく「ヨヤダの子ベナヤ」に率いられ、軍司令官ヨアブの掃討にもあたっている。ちなみに、この「クレティ」と「プレティ」は、「カリスマ的君主Fürst(戦争武侯)」の首領と解せるサウルの麾下には、現われていない。