記録と随想11: 故塩川喜信さんを偲ぶ会(20161029日)「第二部」スピーチ

 

塩川さんは生涯、政治・社会運動と学問研究との両面にわたって、じつに幅広く活動されました。この点は、この会が、十指に余る団体[1]の共催で開かれ、各団体を代表する方々の「第一部」のスピーチからも明らかで、圧倒される思いです。

ただ一点、わたくしとも共通なのは、1935年生まれの同い年で、1954年に東大教養学部に入り、停年退職まで42年間、同じ大学に居たことです。学生当時から、塩川さんは、全学連の活動家として有名でしたが、わたくしがお見受けしたところでは、むしろ山岳部のおおらかなスポーツマンという感じでした[2]

 

1968年、東大闘争が起きました。

塩川さんは、助手共闘の主力メンバーとして活躍されましたが、わたくしはあいにく、教授会メンバーとなってしまっていて、窮屈な対応を迫られました。

対応の原則は、学生側と教授会側の主張が対立していても、科学者ならば、双方の所見を甲説と乙説に見立て、比較−照合して、どちらに理があるか、事柄に即して考え、少なくとも議論はできよう、とのごく単純な「あたりまえのこと」でした。

そこで、学内の争点――医学部と文学部の処分――について、処分理由とされた学生当事者の行為を、それだけ切り離して評価するのではなく、教官当事者との「行為関連」のなかに戻して、捉え返しました。すると、医学部だけではなく、文学部の処分も、教授会側の事実誤認による冤罪と分かりました。

 

わたくしは、この誤りを論証し、パンフレットにしたためて、丸山眞男さん他の教官に送り、議論を呼びかけました。ところが、東大教官は、事柄の理非曲直よりも、「自分は教授会メンバーである」「教官である」「国家公務員である」という「存在の拘束」に縛られ、思考を停止していました。東大の社会科学者は「総崩れ」でした。社会科学を、専門の学知としてはよく勉強して論文は書いても、「灯台下暗し」で、自分の現場には適用せず、問題の解決に活かそうとはしないのです。

それに、教師としては、学生たちがいつになく真摯に問いかけてきているのですから、多少は粗暴でも、「その問いやよし」と受け止め、批判も返し、議論に持ち込むことはできるはずです。それなのに、科学者として「あたりまえのこと」もせず、発言を回避し、相手の欠点をあげつらうとは、アンフェアで大人気ない、と思わざるをえませんでした。

ちなみに、現場の議論と合意形成を抜きにしては、社会の民主化も、革命も、達成されますまい。フランス革命がナポレオンT世を、ロシア革命がスターリンを呼び出したように、旧秩序の倒壊にともなう混乱を収拾できず、「官僚独裁」に道を開き、「抑圧と叛乱の悪循環」を招きかねません。そういう「負の随伴結果」を制御すべき主体を欠くことになりましょう。

 

さて、東大当局は、大学として致命的な事実誤認を温存したまま、196911819日、安田講堂に機動隊を再導入して、全共闘系学生・院生を排除し、授業再開に雪崩込みました。塩川さんもわたくしも、そういう強権的政治決着は認められないとして、授業再開を拒否しました。これは形式上「業務命令違反」とも認定されかねませんから、当然、処分も覚悟し、「首を斬りに来たら、逆手にとって、公開論争に持ち込もう」と決意していました。

 

その直後、1969530日、塩川さんら助手共闘の主催で、「全国造反教官報告集会」が、文京公会堂で開かれました。その席上、故高橋和己[3]さんが、「教授会で恩師と対立するのは『生爪を剥がされるように』辛い。とはいえ、原則に反するわけにはいかないから、『生涯を阿修羅として』生きるほかはない」と語られました。当時には、この表現はちょっと文学的すぎて、集会の雰囲気にそぐわない、とも感じられたのですが、それだけによく覚えています。

 

その後、塩川さんもわたくしも、揺れ戻しと反動の勝る大学[4]で、「阿修羅」とはいわないまでも、「息は抜けず」、「潔さの美学」[5]とも闘わざるをえませんでした。そういうなかでも、塩川さんは、今日「第一部」でお話のあったような、多方面の市民運動にも、リーダーとして、まとめ役として、精力的にかかわってこられたのですから、脱帽するほかはありません。

 

伝え聞くところ、最近、農学部の学生・院生が、東日本大震災で放射能禍を受けた福島県の現地に、よく出掛けてくるそうです。そういうところにも、塩川さんのご苦労の一端が、実を結んでいるように思います。

 

1960年代は、戦後のなかでも、動きの激しい、それだけラディカルに、ものごとを問い詰め、考えられる時期でした。

それ以来、わたくしたちは、何を実現できたか、できなかったか、何を「負の随伴結果」として残したか、――当事者として、できるかぎり総括し、後の世代に伝えていかなければならない、と思います。この趣旨には、塩川さんも賛成してくださるでしょう。

 

ご静聴ありがとうございました。

 



[1] 東大全共闘・助手共闘、旧フォーラム90s、トロツキー研究所、社会理論研究会、PP研、伊達判決を生かす会、9条改憲阻止の会、経産省前テントひろば、ちきゅう座、現代史研究会。

[2]「偲ぶ会」当日の資料に、「戦争と激動の20世紀を生きて」と題するインタヴュの記録があります。これは、時代の課題に真摯に取り組んで生きた一当事者の回想録として、みずみずしい語りと問題提起に溢れています。わたくしは、帰路の電車のなかで開くや、引き込まれて、一気に読み通しました。全篇について、いつか詳細にコメントしたいと思います。

ここではただ一点、「折原は大学に入る前から名前は知っていた……。夏季講習に参加すると、模擬テストがあって、彼は常にトップかベストスリー」(p. 24) とあるのは、なにかの間違いです。折原は当時、甲子園を目指す「夏の大会」の東京都(当時は東西に分かれず)予選を、準々決勝戦までたたかい、神宮球場にいました。野球少年の戦後体験から、「塩川氏も根はスポーツマン」と直感できたのだと思います。

[3] 当時、京大文学部助教授の造反教官。

[4] 教養学部では、「教条主義が逆の教条主義にひっくり返るケース」(上記「戦争と激動の20世紀を生きて」、pp. 92-93) が目立っていました。

[5]「『あんなこと』をしておきながら、なぜ『潔く』辞めないのか」という「真綿で首を絞める雰囲気支配」、塩川さんのいう「一種の柔構造の支配」(「戦争と激動の20世紀を生きて」、p. 68) の一環。