記録と随想10: いま、なぜ、マックス・ヴェーバーの労作を改めて掘り起こす必要があるのか――「『パーリア民』概念と『ユダヤ人』観」の問題提起を機縁に(「比較歴史社会学研究会」第二回 余録)(1014)

 

はじめに

去る918日、大阪は梅田のゲートタワービル8階、神戸大学インテリジェントラボで、「比較歴史社会学研究会」第二回が開かれ、関西と関東から約20名の参加があり、下記の二報告をめぐり、活発な議論が交わされた。

 

佐藤成基 (法政大学)「国民国家と外国人の権利――戦後ドイツの外国人政策から」

佐野誠 (奈良教育大学)「ヴェーバーの『パーリア』概念と人権――ユダヤ人における国家と無国家の間――

 

このうち、第一報告をめぐっては、懇親会で佐藤成基氏と交わした会話に触発され、199394年のドイツで体験した一連の事例を思い出し、本欄「記録と随想9」に、「市民生活における『人権Menschenrecht』と『共市民性Mitbürgertum――ハイデルベルク市 市街電車内の一経験から」と題して、即興の感想を綴った。加えて、本稿「記録と随想10」は、佐野誠氏の第二報告にかかわる筆者の討論発言について、帰宅後に要旨をまとめ、「ヴェーバーの『パーリア民』概念と『ユダヤ人』観」という問題提起を契機に、いま改めて、ヴェーバーの労作を掘り起こし、「知の交流点」として活かそうとする企画(「比較歴史社会学研究会」)の意義について、再考を凝らしたものである。

なお、筆者は常日頃、一老輩として研究会に出席するさいには、後輩 (「先になるべき後なる者」) の議論や新展開を妨げないように、ただ、必要とあれば、ヴェーバーの所論にかかわる論点の補充 (いうなれば「球拾い」) は試み、これに徹しようと心がけてきたつもりではある。ところが、この佐野報告をめぐっては、つい、畳みかけるように発言し、長広舌にもおよんで、多分にご迷惑をかけた。その反省も籠め、ここに要旨をまとめ、多少は敷衍して、お詫びに代えたい。

なお、「比較歴史社会学研究会」の設立経緯と趣意については、第一回(2015919日)の開催にあたって、事務局が起草し、弘布した文章を、許諾をえ、本HPにも、前稿「記録と随想9」の付録として、掲載している。102日記]

 

§1 佐野報告の趣旨 (要約)

佐野報告は、氏の著書・論文について、つねに確認されるとおり、テーマにかかわる克明な文献実証を踏まえた、周到堅実な専門的論考であった。その趣旨は、(聴講者のひとりとして受け止めえたかぎりで) つぎのようにも要約されよう。

すなわち、ヴェーバーも考えていたとおり、(「パーリア民」を含む) いかなる社会科学概念も、その創始者ないし提唱者は「価値自由」[1] に設定していたとしても、ひとたび広く(他の社会科学者、論客、さらにはなんらかの「政治勢力」によっても)利用されるようになると、創始者自身の「意図」と「概念内包」からは離れて「一人歩き」を始め、後代の「歴史的-社会的諸関係」とくに「政治-社会状況」のなかで「意義変化Bedeutungswandel(ヴェーバー)を被り、「機能変換Funktionswechsel(カール・マンハイム)を遂げる。人間の創り出した所産(この場合は「思考-観念形象Gedankengebilde」)が、当の人間からは疎隔されて、逆に人間を支配する、一種の「疎外」現象ともいえよう。その結果、場合によっては、思考-観念形象が、創始者当人は「思ってもみなかった」あるいは「その意図とは正反対の」機能ないし「逆機能」を果たすことにもなる。とすれば、佐野報告は、こうした観点から、「パーリア民」概念とその歴史的変遷に照射を当て、当の概念が、ヴェーバー没後のドイツにおいて、(かつてヴェーバー自身はことあるごとに反対していた)「反ユダヤ主義」のコンテクストに編入され、ナチスの「ホロコースト」に極まる「ユダヤ人」差別をむしろ「助勢」した経緯――この (20世紀最大ともいえる) 問題にかかわる「パーリア民」概念の「意義変化」「機能変換」――を、(「知識社会学」的というよりもむしろ)「概念史」的-「思想史」的に追跡した専門的労作である、と。

筆者は、ヴェーバーの観点と方法を引き継ぐ、佐野氏のこの研究企図に賛同する。また、その結論の大筋に異を唱える者ではない。かりに異を唱えるとしても、いま、その実証的検証に乗り出す用意はない。ただ、筆者は、今回の佐野報告 (および、ここにいたる佐野氏の研究業績) の多大な意義を認め、高く評価したうえでなおかつ、つぎのような問いを発することができ、しかもいま、そうすることが必要と考えるのである。

 

§2  概念 (思想)継承一般の問題

それというのも、こうした研究領域一般にはしばしば、つぎのような傾向が窺える。すなわち、まず、 (あえて極言すれば) 概念創始後の「意義変化」にかんする研究成果から逆算して、変化した客観的意義が、創始者自身の主観的「意図」でもあった、と速断する傾向、つぎに、 (さほど粗野ではなくとも) 創始者自身の「意図」ないし「概念内包」は、ことごとく後世に継承され、変化した意義の(たとえば)段階」をなし、創始者自身の意義付与も当の「前段階」に尽きている、と見て、そうした段階的「位置づけ」をもって「能事終われり」とする傾向 (「単線的-段階的進歩」史観) である。

いずれにせよ、そうした前提のうえに立つと、創始者自身の概念内包には、後世の「意義変化」ないし「継承」関係を究明した後にもなお改めて「掘り起こし」「評価」できるような内容(「残滓」なり「萌芽」なり)が潜在しているはずはない(顕示的にではなくとも)断定され、その結果せいぜい、当該概念の「単線的-段階的進歩」を追跡し、その確認ないし再構成をもって、研究を打ち切ることにもなろう[2]。そして、筆者の偏見でなければ、そのように「先を急ぐ」あまり、なにか「大切なもの」が「置き去り」にされ、「闇に埋もれて」いることが、しばしばあるように思われる。

とはいえ、こうした「思い入れ」にたいしては、昨今ではただちに、つぎのような反論が提起されよう。すなわち、「いちいちそんな『掘り起こし』や『再評価』にかかずらわっていたのでは、無際限の『足踏み』を強いられ、当の概念を (一面的にせよ、そのつど) 継承-活用して達成されるべき『研究の進歩』を妨げる」という趣旨の反論である。「そんなことでは、『オードブルを食っただけで、能事終われり』とするにひとしい」と非難されもしよう。その趣旨は、筆者にも分からぬではない。筆者とて、「どんな概念も、ことごとく始原に遡り、『生まれつつある状態でstatu nascendi』捉え返したうえでなければ、一歩も先に進んではならない」などと、無茶なことを主張するつもりはない。

ところが、これまた筆者の偏見でなければ、ことマックス・ヴェーバーの労作にかんするかぎり、ヴェーバー自身による意味付与とその意義が、十分には汲み出されないまま「闇に埋もれて」いることが多いように思われる。なるほど、かれが創始した厖大な思想-概念体系について、個々の概念内包を改めて掘り起こし、それぞれの意義を突き止め、それらの「固有価値」や「固有の意義」に即して、かれの労作の「包括的全体」に迫ろうとすると(「ヴェーバーへの研究」)、それだけで「大仕事」となり、独自の応用的展開 (「ヴェーバーからの研究」)にはなかなか乗り出せない、ということにもなろう。

ただし、ここからも、「ヴェーバーへの研究」と「ヴェーバーからの研究」との連携による、当の隘路の打開が、模索されてもよいのではないか[3]

 

§3  専門閉塞の現状と打開の方途――「比較歴史社会学」の意義

さて、ヴェーバーの時代 (18641920) 以降、学問の「専門化」は、故あって急速に進み、他方、コミュニケーション手段の未曾有の発展によって、研究素材は豊富に出揃い、「専門」分科間の交流」にも、格段と便利な手段が、提供されてはいる。ところが、それにもかかわらず――あるいはむしろ、まさにそれゆえに――、そうした有利な条件を活かして、同時代の「包括的全体」に迫り、さらには「人類の普遍史Universalgeschichte der Menschheit 総体」も俯瞰-展望しようとする企図-視座-構想は、かえって萎縮し、衰微してきているように見える。個々の研究者には、「部分知」「専門知」の「殻Gehäuse」に閉じ籠もって「リスク」を避けようとする安全志向が、抗いがたく浸透し、「自明のこと」として罷り通っている。それにともない、「部分知」「専門知」の連携相互媒介総合は、研究者自身によってではなく、むしろ外部から行政機関やジャーナリズムの主導のもとに企てられ、専門的研究成果は「つまみ食い」され、誰も全体にたいしては責任を執ろうとしない」無責任(責任転嫁の相乗作用)が、いっそうつのってきているようにも見受けられる。

とすると、こうした事態を直視し、「時流に抗ってunzeitgemäß gegen den Strom」も、「同時代の包括的全体」に迫り、そこから「人類の普遍史総体」に向けて視界を開くような企てが、いま、いっそう必要とされているのではあるまいか。なるほど、「専門化」「細分化」が著しく進んだ昨今、「誰か一人が、ヴェーバーのように……」というのは、ますます困難になってきている。しかし、「時代の包括的全体」から「人類の普遍史総体」に向けて、視界を開き、視座を構築する、という(ヴェーバーが遺した最大の)課題[4]を、複数の研究者が、互いに補い合って到達すべき目標に据え、手近な問題を焦点とする議論から始めて、一歩一歩交流を進め、深め、目標達成の方途を模索していくことは、あくまで可能かつ必要と思われるのである。

たとえば、今回問題とされた「パーリア民」概念にせよ、「ユダヤ人」観にせよ、ドイツ思想史、その他の専門的パースペクティヴ (「遠近法的視座」) から採り上げられ、その枠内で論じられているかぎり、「ユダヤ人」問題と現実には密接な関連にあるパレスチナ問題」が、ともすれば視野から逸せられがちとなろう。その点、もしかりに、ヴェーバーの労作が、(もとより、1920年に急逝したかれが、直接「パレスチナ問題」を採り上げられるわけはなかったにせよ)双方に跨がるパースペクティヴを開いている、あるいは潜勢として孕んでいる、とすれば、われわれはいまいちど、ヴェーバーの労作、とくに「パーリア民」概念と「ユダヤ人」観に立ち帰って、その意義を改めて掘り起こし、再考-再検討し、少なくともその内容を「知の交流点」に据えて議論を交わすことができるのではないか。

そしてもし、そうした議論内容が、翻ってドイツ思想史・ユダヤ教史・ないしは西アジア (中東) 史その他の研究に、なにほどか活かされるとすれば、ヴェーバーを「知の交流点」とする「比較歴史社会学」的研究が、それだけ「放射状に裾野を広げ」、「同時代の包括的全体」「人類の普遍史総体」に向けて展望を開くことにも、連なっていくのではないか。

それでは、ヴェーバーの「パーリア民」概念および「ユダヤ人」観に秘められていた意義ないしその萌芽とは、具体的には、どのようなものだったろうか。[109日記、つづく]

 

§ 4  20世紀の「ユダヤ人」論――JP・サルトルとH・アレント

しかし、そうした探究に着手する前に、20世紀に「ユダヤ人」問題と取り組んだ思想家を二人採り上げ、かれらを越えてまでウェーバーに遡及する必要と意義を、なにほどか予示しておくとしよう。

JP・サルトルの『ユダヤ人問題にかんする省察Réflexion sur la question juive(1947年発表。安堂信也訳『ユダヤ人』1956、岩波新書) といえば、「『ユダヤ人』の状況をつくり出しているのは、われわれである」という当事者性の自覚にもとづき、「ユダヤ人」の「正統」また「非正統」の対応を、鋭利に「実存分析」し、「階級分裂-抑圧移譲構造」の変革による「解放」を唱えた労作で、第二次世界大戦直後に発表された「ユダヤ人」論の白眉であった、ともいえよう。

ところが、サルトルの論考は他面、「実存主義」の長所と裏腹の「思い詰め・『狭さ』・一面性」[5]を免れず、古代ユダヤ教に遡る「パーリア民」の歴史的形成と儀礼的儀礼主義的固定化」にかかわる「比較歴史社会学」的考察を欠き、歴史における「解放と抑圧の弁証法」「革命と反革命の悪循環」への洞察もなく、「イスラエル国家」によるパレスチナ原住者からの土地収奪その他、新たな抑圧の発生を予想していなかった。

 

さすがにH・アレントは、ナチスの迫害によるドイツ系「ユダヤ人」の亡命を助けながら、みずからパリをへてアメリカに逃げ延びた直接当事者として、「パーリア民」概念をマックス・ヴェーバーから引き継ぎ (寺島俊穂・藤原隆裕宣訳『パーリアとしてのユダヤ人』1989、未來社: 34)、ベルナール・ラザールにも倣い、「意識的パーリア」と自己規定する。そして、一方では、ラザールに加えて、H・ハイネ、C・チャップリン、F・カフカの作品から、「パーリア民」としてのユダヤ人の「隠れた伝統」を掘り起こし、他方では同時に、「列強が凌ぎを削る勢力圏のなかにユダヤ人国家を樹立することは、長期的には [このうえなく] 危険で冒険的な方策」、「遠く離れた帝国主義国の保護を当てにして、隣人たちの善意をないがしろにするような政策は愚か」[6]と断じ、いち早く「シオニスト」に警鐘を鳴らし、再考を促していた。

 

さて、そのアレントが、カフカの『城』の主人公 (測量技師K) に探りあてる「抱負」は、唯一、「家をかまえ、職をもち、れっきとした仕事」をして結婚し、「村の一員になる」こと、つまり「善良な人間」として、(「城」の「官僚制」には服さないが) ごく普通に慎ましく生きること、にあった[7]

この人間理念は、じつは、ヴェーバーが預言者エレミヤに探りあてた未来希求と一脈通じている。すなわち、エレミヤは、「敵への復讐」や「『民』に予定された『支配民族』にのし上がる『革命』」といった(預言者群像にもしばしば顕著に認められる)応報願望Vergeltungsbedürfnis」はもとより、「地上の精神的支配民族として、その教師、指導者になる」・「異教徒の『光』になる」・「全人類の『救い』の『仲保者』になる」といった「気負い」からも、解放され、自由になって、イスラエルの民が「将来、敬虔な牧羊者や農民として、ふたたび土地に種を播いて収穫するだろう」と語るのみであった[8]

ところが、ヴェーバーは、エレミヤのこの醇化され尽くした言表に、(預言者による未来希求の一帰結として)一瞬目を止めはしたが、「一種の『片隅の幸福Glück im Winkel』」[9]思想と見て、政治的にはそれだけ「無力」と評価し、「頑強なmassiv[10]「応報願望」に応える (「バビロン捕囚民」を指導した「預言者にして祭司」の) エゼキエルに視線を転じてしまった[11]

ところで、アレントは、学位論文の指導を受けたK・ヤスパースをとおして、ヴェーバーの比較宗教社会学を知り、「応報願望」「復讐欲」(その心理的「抑圧」・内攻・屈折による)「ルサンチマン」が、社会的「パーリア状況」から直接生ずる必然的帰結ではなく特定の理念(「世界像」) に媒介された――したがって、インド文化圏における「パーリア・カースト」の形成とは対照的に異なる――歴史の所産である、という関係を、察知したにちがいない。そうであればこそ、この洞察を前提に、「『人間の理念』による『転轍』が可能である」という確信を固め、「ユダヤ人」の「隠れた伝統」を掘り起こし、上記のとおり積極的に立論することができたのであろう。

ただし、アレントは、当の伝統を、西洋近代の啓蒙期以降に限定して捉え、「古代ユダヤ教」に遡る「発生状態から他文化圏との比較も交えて、「普遍史」的・「比較歴史社会学」的に捉え返すには至らなかった。

とすれば、いったんヴェーバーに遡って、そこからアレント所見の「両義的」批判を試み、その積極的意義は認めつつ、いっそう包括的なパースペクティヴのなかに「止揚」すると、どうか。

そうした試みは、「ユダヤ人」ではなく、アレントとは異なる歴史的局面(すなわち、「同化」した「非正統」ユダヤ系「マージナル・マン」の独創性[12]は、そのかぎりで活かすこともできた「欧米近代」が、総体として問題性を露呈した後の「普遍史」的局面・位相)にある、わたしたち自身に、いかなる意義を開示するであろうか。

 

§ 5「世界宗教の経済倫理」「序論」における「パーリア民」概念の登場

さて、ヴェーバーが、かれ独自の術語「パーリア民Pariavolk」を初めて公表するのは、(筆者が確認したかぎり、いまから100年とちょっと前、第一次世界大戦勃発直後の) 1915年、『社会科学・社会政策論叢[アルヒーフ]』誌に掲載し始めた「世界宗教の経済倫理」の「序論Einleitung[13] においてであった。

その冒頭、かれは「世界宗教Weltreligion」を「現在までにとくに多数の信徒を集めることのできた、宗教的ないし宗教に制約された生活規制の体系」というふうに定義する。そして、この定義に該当する儒教、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教、イスラム教の五大宗教に加えて、第六番目に (「大宗教」という規定がそのまま当てはまるわけではないが) とくにユダヤ教を採り上げるという。それというのも、ユダヤ教には、キリスト教とイスラム教の理解に欠かせない歴史的前提が含まれ、他方、西洋近代の『経済倫理』が、ユダヤ教の特性によって制約されている」という (当時、W・ゾムバルトによって提起されていた) 問題を採り上げて (ヴェーバーはじつは、ゾムバルト説を) 論駁するためにも、当の特性とその歴史的由来を知っておく必要があるからである。

そのうえでヴェーバーは、「経済倫理Wirtschaftsethik」を、「宗教の心理的また動因事実的pragmatisch諸連関のうちに根底をもつ、行為への実践的起動力」と定義する。そして、当の「経済倫理」自体の 複雑な組成、「固有法則性Eigengesetzlichkeit」ならびに 「経済の組織形態 [システム]」による被制約関係、に注意を促しながら[「固有法則性」を取得した]「宗教」が [翻って] 人々の「生き方Lebensführung[したがって「経済倫理」] に、どういう作用をおよぼすか [という反面] にも注目したいという。ところで、ある「文化圏」[たとえば「古代ユダヤ教」が生まれ、展開される舞台となった「古代パレスチナ文化圏」] で、ある「宗教」が、その「自然地理」的・経済的・政治的その他の諸条件に制約されながら、生成-発展し、「固有法則性」を取得し、翻って人々の「生き方」を制約する、という場合、そういう双方向の関係を、いきなり「細大洩らさず調べ上げよう」とすれば、[海図も羅針盤もなしに]「果て知らぬ大海へと漕ぎ出す」羽目に陥るほかはなかろう。そこで、ヴェーバーは、五つの「世界宗教」とユダヤ教について、とりあえず、それぞれの「主要な担い手」=「規準を与えている社会層ausschlaggebende Sozialschicht [「生き方」の規準を打ち出しているような社会層][14]を探り出し、それらに焦点を絞り、各々の存立条件と「生き方」との関係を検出していこうとする。そして、当の社会層として、儒教については「『皇帝教皇主義』[15]的な『家産官僚制』帝国の禄を食む文人(読書人)官吏」、古代ヒンドゥー教については「従軍呪術師から出自した祭司門閥-世襲カーストのバラモン」、仏教については「戦士貴族-王侯の出身ではあるが、遁世して瞑想をこととする托鉢 [乞食] 僧」、イスラム教については「現世を征服する信仰戦士」、原始キリスト教については「遍歴する平職人」を挙示し、このコンテクストで、バビロン捕囚後のユダヤ教の「主たる担い手」を、「市民的な『パーリア民』」に求める。そのうえで、「世界宗教の経済倫理」シリーズの「儒教」「ヒンドゥー教と仏教」につづく第三作「古代ユダヤ教」の本文で、「ユダヤ教」「パーリア民」の発生と展開の経緯を、捕囚前に遡って比較歴史社会学的に究明しようというのである。

さて、「序論」ではこのあと、それぞれの「社会層」によって担われる「宗教Religiosität」の特性と、当の社会層が置かれた「社会的状況soziale Lage」との関連につき、予め先行説を採り上げて、「批判」を企てている。ところが、その先行説とは、予期とは異なり、K・マルクス / F・エンゲルスの「イデオロギー」論ではなく、F・ニーチェの「ルサンチマン」論である。しかも、ヴェーバーの「批判」は、この場合も、対象の単純な否定ではなく、その核心にある「真理性」「有効性」を取り出して評価し、(まさにそうであればこそ、継承者がしばしば陥る)「単純すぎる適用」「過当な一般化」「絶対化」「『全体知』的固定化」といった (要するに「俗流化」による) 誤用や偏倚は戒め、その妥当範囲を限定し、その範囲内ではかえって有効に活かそうとする、という稀有な性格を帯びている。ヴェーバーの「批判」はつねに、この意味の「産婆術」でもある。本稿では、「パーリア民」概念と密接な関係にあるこの「ルサンチマン」論の問題点を、後段のしかるべき箇所で(続篇の別稿で)、採り上げて詳論するとしよう。

 

§ 6 「序論」邦訳の「啓蒙主義」的配慮とその功罪

以上のコンテクストにおける「パーリア民」の初出箇所を、邦訳からそのまま引用すると、つぎのとおりである。

「バビロン捕囚後のユダヤ教は、市民的『賤民民族』[ein bürgerliches »Pariavolk«]――この表現の精確な [prägnant] 意味はあとで述べることにしよう*――の宗教であった。中世には、ユダヤ教独自の書籍的・儀礼的な教育を受けた知識人層の指導するところとなったが、この社会層はますます無産者化する [proletaroid] 合理主義的知識人層を代表するものとなっていった。」(大塚・生松訳: 37)

邦訳者は、この * 印の箇所に、つぎのような訳注を施している。「さしあたってはMax Weber, Wirtschaftsgeschichte, 1923, SS. 305-307. 黒正巌・青山秀夫訳『一般社会経済史要論』岩波書店、下巻、243-245頁を参照。[訳注](大塚・生松訳: 38. アンダーラインは引用者。原文はいまではMWG/6: 386-88で読める)

ところで、原著者ヴェーバーは、(たんに「賤民」という意味であれば、Pöbelを当てることもできたであろう) この箇所に、あえて外来語Paria[16]を当て、「この表現の簡潔ながら含蓄に富む意義die prägnante Bedeutung des Ausdruckesは、しかるべきときにseinerzeit学び知ることになろうkennen lernen werden」と書き記していた (改訳とイタリックによる強調は筆者)。ところが、邦訳の訳者注で参照を指示される『一般社会経済史要論』とは、ヴェーバーが191920年の冬学期、ミュンヘン大学で、学生たちの懇請を受けて実施した講義の、別人 (聴講者) による筆記ノートから、ヴェーバー没後にS・ヘルマンとM・パリュイが編纂した二次作品で、「序論」執筆当時のヴェーバー自身の念頭にはなかったものである。したがって「序論」の表記「しかるべきときにseinerzeit」とは、厳密には、「この世界宗教の経済倫理シリーズの論述が進み、準備が整い次第、そのコンテクストで」という意味に解されなければならない。

もとより邦訳者も、そうした事情は重々承知のうえで、一種の「啓蒙主義」的な善意と配慮から、「さしあたっては」と断り、ヴェーバー自身が「パーリア民」概念を手短に要約している手頃な文献として、邦訳も入手しやすい『一般社会経済史要論』の関連叙述を紹介したのであろう。ところが、もし読者が、「世界宗教の経済倫理」シリーズ自体の「儒教」(1920年の改訂版は「儒教と道教」)、「ヒンドゥー教と仏教」および「古代ユダヤ教」(その第二章が「ユダヤ教パーリア民の成立die Entstehung des jüdischen Pariavolkes」と題される) それぞれの本文を読み、そのコンテクストのなかで「パーリア民」概念に至りつく(ヴェーバー自身が予想し、期待もしていたであろう思考の段取りを踏んで到達する)のではなく(横合いから)指示された講義録の関連箇所を読んだだけで、ことを済ませまる、となるとどうか。その場合には、なんといっても学生向けの『経済史要論』の講義に、集約され、そのコンテクストでは一面的に強調されるほかはなかった対比――「パーリア資本主義」対「近代資本主義」、「ユダヤ教」対「キリスト教(とくにピューリタニズム)」という図式的対比――が、ひときわ印象鮮やかに、初心者の記憶に刻み込まれ、そのまま「一人歩き」するおそれなしとしない。かりにそうなれば、「パーリア人性」「パーリア宗教性」の自発的形成と歴史的運命にかんする、まさにヴェーバーの論述に固有の「両義的含蓄はそれだけ蔭に隠れ、後景に退くほかはなかろう[17]

他方、ヴェーバーは、第一次世界大戦の勃発、つまり「序論」発表の直前まで、鋭意、『経済と社会』(「旧稿」191014)、とくにその「宗教社会学」章を執筆していた。この草稿は、ヴェーバー自身が「序論」冒頭の注[18]に明記しているとおり、「世界宗教の経済倫理」と「相互補完関係」にあり、そこでは、当の「序論」に集約される題材群が、「パーリア性」「パーリア宗教性」「ルサンチマン問題」も含め、いっそう詳細に論じられている。したがって、本来は、『経済と社会』(旧稿) も、併せ参照し、「世界宗教の経済倫理」シリーズと関連づけて、統合的に読解することが、望ましい。

それでは、『経済と社会』(旧稿)とくにその「宗教社会学」章も参照し、「世界宗教の経済倫理」三部作に展開される「普遍史的パースペクティヴのなかで、「パーリア民」問題を捉え返していくと、どうか。どんな視界が開けてくるのか。[1014日、つづく]

 

小括

ところが、ここにきて、昨今の日本の社会科学とりわけ「比較歴史社会学」をめぐる研究状況を顧みると、『経済と社会』(旧稿) から、さらに「古代農業事情」(1909GAzSuWG: 1-288, MWG/6: 320-747, 渡辺金一・弓削達訳『古代社会経済史』1961、東洋経済新報社) に――ときとしては「古ゲルマンの社会組織の性格をめぐる論争」(1905GAzSuWG: 508-56, MWG/6: 240-299, 世良晃志郎訳、1969、創文社) にまで――遡る必要が痛感される。[2016128]

しかし、そうした遡行と、そこから反転して『経済と社会』(旧稿) と「世界宗教の経済倫理」への思想展開を追跡する課題は、「ヴェーバーの『パーリア民』概念と『ユダヤ人』観」という当面の特別主題にたいしては、その背景と一般的前提を問う「補説Exkurs」に当たるとはいえ、それ自体として広汎かつ詳細におよび、勢い浩瀚ともなって、平衡を失するおそれなしとしない。そこでいっそ、ここで稿を改め、「マックス・ヴェーバーにおける『古代農業事情』から『経済と社会』(旧稿)への思想展開――『古代国家の発展図式』が(「普遍史」を射程に収めた)『社会学的決疑論体系』に編成される経緯と意義」と題して、立ち入って論ずることにしたい。そのうえで、「ヴェーバーの『パーリア民』概念と『ユダヤ人』観 再考」の続篇に、立ち帰るとしよう。

 

マックス・ヴェーバーの「比較歴史社会学」は、「ドイツ西南学派」のいう「特殊化的・個性記述的文化科学(ヴェーバーは「現実科学」ないし「歴史科学」と呼び替える)」と「一般化的・法則定立的自然科学(ヴェーバーは「法則科学」と呼び替える)」とを、方法論上は峻別したうえで、かれとしては個々の問題ごとに関連づけ総合して、「因果帰属」ならびに「『目的』の達成(-不達成)と『随伴結果』との『客観的可能性』にかんする予測」に活かし、「理性的実存」として「責任倫理」的実践の契機に編入しようとする企てであった[19]

ところで、かれ固有のこの方法は、一方では「特定の歴史的状況における二個人間の行為連関」[20]のような微視的対象に、他方では、「人類史総体」ないし「人類史の『基軸時代Achsenzeit (ヤスパース) における構造的分岐とその持続的諸帰結」といった巨視的対象に、ともに応用が可能である。そして、そのうちの前者、つまり微視的応用については、筆者にも、当の方法を筆者自身の現場の問題(「196869年東大紛争」の争点「文学部処分問題」の発端となった「1967104日事件」における一教員と一学生との「摩擦」)に適用した事例があり、その方法手順も、「社会学すること」「社会学的アンガージュマン」の一環として、噛み砕いて解説した[21]。いま、筆者に残された課題は、後者、すなわち(極限的に)巨視的な対象へのヴェーバー自身の応用例について、その方法手順を具体的に解説し、かれの「比較歴史社会学」の方法を十分に会得したうえでの乗り越えにそなえること、にある。

とすれば、本HPに連載する予定の「記録と随想12」以下、「マックス・ヴェーバーにおける『古代国家の発展図式』(『古代農業事情』)が『社会学的決疑論体系』(『経済と社会』旧稿)編成される経緯と意義」シリーズは、そうした具体的解説の一根幹部分をなすこととなろう。

[完。2017115日脱稿、25日改訂]



[1]「価値自由Wertfreiheit」とは、「テーマ設定の『価値関係Wertbeziehung』によって選択され、当然その制約を受けはするが、それ自体として『価値判断Werturteil』をなすのではなく、歴史的-社会的諸関係の『客観的』究明をめざし、そのかぎりで『経験的妥当性empirische Gültigkeit』を問われる特性」という意味である。

[2] この種の位置づけは、解釈者が、創始者自身よりもなにか「進歩」の「高み」に立つかのように感得されるので、その種の人には愛好されよう。

[3] 拙著『ヴェーバー学のすすめ』2003、未来社): 41-47では、「への研究」が「からの研究」から乖離して「一人歩き」するさいの陥穽を、この角度から採り上げて論じた。

[4] この点については、後段の「小括」参照。

[5]「実存主義」の長所と裏腹のこの短所一般につき、筆者はかつて、拙著『デュルケームとヴェーバー』上、1981、三一書房、pp. 11720で、直接にはキルケゴールを対象として、批判を試みたことがある。

[6] 同上: 184-85.

[7] 同上: 65-75.

[8] GAzRS: 344, MWG/21-2: 684, 内田芳明訳『古代ユダヤ教』岩波文庫、下: 787.

[9] GAzRS: 344, MWG/ 21-2: 684,内田訳: 787.

[10] 内田訳では、このmassivが、「堅固充実した」(同上 : 686)、「内容にこくのある」(772)、「内容のぎっしりつまった」(785)、「内容の充実した」(789)、「内容充実した」(818) と、もっぱら肯定的なニュアンスを籠めて、訳出されている。

[11] ヴェーバーは、エジプト党に拉致され、石打ちにして殺されたエレミヤの運命に、震撼されていた。ところが、その関連叙述GAzRS: 344, MWG/ 21-2: 685を、邦訳者内田は、「[エレミヤが弟子バルクにのこした] 非常な動揺と深い諦めのうかがわれる……遺言das erschütternde, tiefresignierte Testament」(同上 : 788) というふうに、エレミヤの側に「非常な動揺」があったかのように解している。しかし筆者は、ヴェーバーがエレミヤの運命にerschütternされていると理解し、そのときヴェーバーの胸中に去来している主観的「意味」と客観的「意義」を探り出したい。

[12] 一方では、スピノーザ、マルクス、デュルケーム、ベルクソン、ジンメル、マンハイム、トロツキー、「フランクフルト学派」その他の、傑出した社会哲学者・社会科学者、他方では、アインシュタイン、オッペンハイマーら「原爆の父」ともなった自然科学者が、いずれも「同化」した「非正統の」ユダヤ系「マージナル・マン」であった、という事実が、双方とも注目され、評価を改められなければなるまい。

[13] Archiv, Bd. 41: 4-30; GAzRS: 237-75; MWG/19: 83-127; 大塚久雄・生松敬三訳『宗教社会学論選』1972、みすず書房): 33-96.

[14] 当の宗教の実践倫理にもっとも強く規定的な影響を与え、それに諸特徴――その宗教倫理を他の宗教倫理から区別し、また同時にその経済倫理自体にとって重要な意義をもつ諸特徴――を刻印した社会層。

[15] ただし、中国の「皇帝教皇主義Zäsaro-papismus」は、俗権と教権とが分立せず、一首長の手中に掌握される体制とはいえ、当の首長権力が、戦士英雄の軍事的カリスマではなく、呪術師・雨乞師の平和的カリスマから発展してきた点にかぎっては、「祭司長・最高祭司Pontifex」による「神政政治体制Theokratie」と見ることもできよう。

[16] この語は、18世紀初頭以来、タミル語paraiyar(ヒンドゥー教寺院の「太鼓叩き」=ドラヴィダ系「不可触賤民」カースト)からインド英語parriar, pariah を経てヨーロッパに普及したという (cf. Duden 7, Das Herkunftswörterbuch: 491)

[17] ここにじつは、「日本の『学界・ジャーナリズム複合体制』に顕著な『啓蒙主義』の功罪」という問題が顕われているが、いまここでは立ち入らない。

[18] Archiv, Bd. 41: 1; GAzRS: 237; MWG/19: 83-84; 大塚・生松訳: 211-12.

[19] この点に立ち入った論考としては、本HP 2015年欄「後期ヴェーバーにおける科学論の展開と比較歴史社会学の創成――尾中文哉論文への応答(1229日)」、参照。ヴェーバー研究関連の公刊書としては、中野敏男他編『マックス・ヴェーバー研究の現在 (生誕150周年記念論集)(2016、創文社) に寄稿した「歴史社会学と責任倫理――生誕100年記念シンポジウムの一総括」(同論集: 285-314) 、第1節「歴史学と社会学との相互媒介――ヴェーバー科学方法論の要諦」、第2節「シュタムラー批判――方法論から理解社会学への転回」、第3節「『行為』への還元と『社会形象』の再構成――原子論と全体論との総合」、および第5節「歴史社会学と責任倫理――ヴェーバーにおける学知の実践的意義」、第6節「自由な文化発展の条件――大戦時の状況発言における社会学的契機」」に、要約している。

[20] たとえば、1967104日の昼下がり、東大構内文学部会議室の扉外で起きた、教官Tと学生Nとの「摩擦」。

[21] この事例には、『東京大学――近代知性の病像』1973、三一書房)以来、いろいろな機会に繰り返し論及した。筆者としてもっとも整っていると思える叙述は、本HP2015年欄に収録した拙稿「1960年代精神史とプロフェッショナリズム――岡崎幸治「東大不正疑惑 『患者第一』の精神今こそ」(2014118日付け『朝日新聞』朝刊「私の視点」収載) に寄せて」中にある。ヴェーバー研究関連の公刊書としては、中野敏男他編『上掲書』「上掲論文」の第13節「『東大紛争』における現場の争点と歴史社会学」に要約されている。