記録と随想46:誤訳が踏襲される非学問的精神-文化風土に、どう抗していくべきか(『マックス・ヴェーバー研究総括』の補遺⒈)(214日)

 

内田芳明訳『古代ユダヤ教』全篇の末尾から二番目のパラグラフは、つぎのように訳出されていて、注目を引きます。「改宗者伝道をめぐるユダヤ教とキリスト教の競争は、……多くの改宗者がユダヤ人にたいして裏切りをしてしまった以上は、終結した。それいらい、ユダヤ諸教団の内部では、改宗者を作ることに対する疑念は、完全に沈黙することは決してなかった。いまやキリスト教ますます優位を占めた(岩波文庫版、下、1003-04頁、太字は引用者)

そのうえで訳者は、この「キリスト教」の箇所に、訳注を付し、全篇末尾1004頁で「原文の主語(複数)sie は、『ユダヤ諸教団』を指すが、これでは文脈がおかしいので、訳文のごとくに訂正した」(太字、赤字は引用者)と断っています。では、どう「文脈がおかしい」のか、説明はされていません。

原文は „Die Konkurrenz des Judentums und Christentums um die Proselytenmission erhielt ihren Abschluß seit……zarlreiche Proselyten an den Juden Verrat geübt hatten. Niemals waren innerhalb der jüdischen Gemeinden Bedenken gegen das Proselytenmachen ganz verstummt. Jetzt gewannen sie zunehmend die OberhandMWGA, , 21/2: 844、赤字は引用者)です。

この、どこが、「おかしい」のでしょうか。

むしろ、この sie [三人称複数] が、初級文法通り、Bedenken gegen das Proselytenmachenを受け、(「ユダヤ諸教団」でも「キリスト教」でもなく「改宗者をつくることにたいする [もろもろの] 疑念」(複数)ととれば、「その疑念がますます優位を占めた」と訳して、そのまま意味が通り、前後の文脈にもすっきり収まるのではありますまいか。

それというのも、この文脈で問われているのは、上記原文の冒頭からも明らかな通り、「ユダヤ教とキリスト教との、どちらが優位を占めるか」というような「競争一般」ではなく、「改宗者伝道」という特定の問題をめぐる、ある歴史的時期のある特定の競争事情です。原著者ヴェーバーは、「改宗者』が、ある事情で『ユダヤ教団』を『裏切った』ため、『ユダヤ教団』側では『改宗者伝道』そのものにたいする疑念が芽生え、その疑念がますます優位を占めた」と、初級文法通り、平明に述べているまでです。そこを、訳者がsie を、まずは「ユダヤ諸教団」、つぎには(初級文法も無視して)「キリスト教 das Christentum」ととり違え、「キリスト教はますます優位を占めた(内田訳、1001頁)(なにか「護教論」風に)訳出し、文脈をかえって「おかしく」しているのではありますまいか。

この訳文が、そのような攪乱であるとしますと、結論部だけに重大で、看過できません。

原著者ヴェーバー自身は、『古代ユダヤ教』本文全篇のつぎの最終パラグラフを、こう結んでいます。「ユダヤ人を改宗させるという目標については、キリスト教が、じつにしばしば公告したが、通常はたんなる口先だけにとどまった。いずれにせよ、伝道のいろいろな企ては、強制的改宗と同じく、いつも、また、いずこにおいても、なんの成果も生まないままに終わった」(MWGA,, 21/2: 846、内田訳、1002-03頁)。それというのも、ユダヤ教には、「『改宗者伝道』にたいする疑念」ばかりではなく、「予言者たちの諸々の約束があり、キリスト教的多神教にたいする嫌悪と軽蔑があり、またなかんずく、まったく堅固に秩序づけられた、ひとつの儀礼的生活指導による、比類なく密度の高い青年教育によって創り出された、まことに強固な伝統があり、強固に組織された社会的ゲマインシャフトの家族および教団――背教者はこれを失ったが、そうかといって、必ずしもこれと同等に価値のある、そして確実な、キリスト者の教会仲間になることは、期待できなかった――の勢力があって、これらのすべては、ユダヤ教の律法の精神が、つまりパリサイびとと古代末期のラビたちの精神が、破られることなく存続した間、またそのかぎりで、ユダヤ人のゲマインシャフトを、かれらが自発的に選んだパーリア民状況まらせたし、いまもって留まらせている」MWGA,, 21/2: 846、内田訳、1003頁、参照、太字による強調は引用者)からである。

さて、拙著『ヴェーバー研究総括』のⅧ章「古代ユダヤ教」では、冒頭の(当初にはやや戸惑いも禁じえなかった)問題設定からこの最終節にいたる叙述の全論理展開を、つとめて忠実に追跡しました。そうしますと、この結びは、原著者ヴェーバーが、冒頭で明快に設定し、全叙述の基礎に据え、一貫して究明してきた応答脈絡を、主要な諸論点を取り出して的確に集約した、同じく明快な「終結節にして次作への結節環」と、読むことができましょう。

そのようにして、まずは古代ユダヤ教に固有の歴史的特性――すなわち、インド文化圏とは異なり、周囲に「カースト秩序」のない環境世界における「自発的な『パーリア民』形成」――が、(「価値判断からは自由」に)明証的に解明-理解」され、「凱切に因果帰属」されて初めて(『古代ユダヤ教』の冒頭でも触れられ、示唆されてはいる通り)後発の初期キリスト教とイスラム教が、当の古代ユダヤ教から、それぞれ何を摂って何を斥けたのか、と問われ、あくまでもつぎの研究課題として、それぞれの歴史的展開の特性と帰結が、同じく比較歴史社会学的に究明され、因果帰属されるはずだったのでしょう。

ところが、ちょうどそこのところで、訳者が、原著者の簡明な論旨を捉え損ね、むしろかき乱して、読者を「意図せずにも誤導」するか、「不得要領のまま取り残す」ことになってしまっています。これは、(誤りに気が付いたら、ひとつひとつ是正して、進歩を遂げるべき)学問、とくに比較歴史社会学の継承にとって、看過できない、由々しい問題というほかはありますまい。

その種の問題を摘出し、原文と照合して具体的に改訂案を提出し、議論のうえ、ひとつひとつ是正していくことは、学問としてごく真っ当な正道で、訳者の功労を補完しこそすれ、貶めるものではないはずです。

ところが、この日本の近代の「伝統志向」が、近代の「内部志向」の熟成を待たずに、近代の「他者志向」と癒着して、「新たな伝統」とも化してしまった)情緒的で無限定な人間関係』優先主義」ともいうべき精神-文化風土のもとでは、誤訳の明示的な指摘が、まずは訳者本人から「疎まれ」「恨まれ」、周囲からは「顰蹙を買う」、「タブー」にも類することと感得され、回避されがちです。そのため、学問上の難点が踏襲されてしまい、いつまでたっても克服されません。

とりわけ「学界権威者」の内容上重大な誤訳が、場合によっては100年近くの長きにわたって踏襲され、読者を誤らせてきましたし、いまもって誤らせているにちがいありません。

たとえば、…………[216日記。「記録と随想47」につづく]