『学問の未来』『ヴェーバー学の未来』刊行後四か月の状況報告

 拙著『学問の未来』『ヴェーバー学の未来』刊行後、約四カ月が経過しました。反響は、いまのところ、橋本努氏が『週間東洋経済』に寄稿してくださった繙書呼びかけひとつです。拙著、とくに『学問の未来』では、羽入辰郎氏に「博士 (文学)」の学位を認定した東京大学大学院人文科学研究科 (現人文社会系研究科) とくに倫理学専攻にたいして、(羽入氏の学位請求論文を改訂した) 羽入書が学位に値しない旨を論証し、学位認定の学問的根拠と責任を問いました。しかし、応答はありません。「羽入書は、学位請求論文そのものではなく、認定後羽入氏が改訂した著書で、もっぱら羽入氏個人が責任を負うべきものであるから、羽入書をデータとして学位認定の責任を問われても答えられない」という形式的な筋論が根拠と思われます。

 そこで、昨年12月に、東大文学部/院人文社会系に出向き、図書室で羽入氏の学位請求論文そのものを閲覧し、公開文書「審査報告書」も「東京大学学位論文データベース」に当たって確認しました。そして、それらをデータに、論稿「大衆化大学院における研究指導と学位認定――羽入事例から東大院人文社会系への問題展開」を執筆し、年を越して数日前に脱稿しました。今日、そのコピーを人文社会系研究科長と、羽入論文の審査委員会主査 (当時) に送り、公開討論を呼びかけました。論稿は、大衆化された大学院で増えていると予想される研究指導の困難と学位請求論文の「不出来」という類型的状況に、どう類型的に対応するか、というふうに問題を一般化して仮説を立て、その仮説を羽入事例に適用して検証する、という構成になっています。文書資料をデータとして、妥当な事実認識と明証的な推論/推認の限界を越えないように、また一方的な糾弾にはならないように慎重を期しましたので、400字詰め原稿用紙に換算して約150枚のやや長い論文となりました。下記に、導入部と目次をご紹介します。

 小括としては、東大院人文社会系のインターネット・ホームページに、この問題をめぐる公開討論コーナーの開設を要請しました。首尾よくコーナーが開設されましたら、論稿を全文、問題提起者の趣旨説明として掲載し、審査当事者の所見も発表してもらって、討論を進めていきたいと思います。論稿全文に付論を添え、小冊子として公刊することも考えています。とりあえず、拙著刊行後四か月の状況からのご報告まで。(2006130日記)

 

大衆化大学院における研究指導と学位認定――羽入事例から東大院人文社会系への問題展開

          折原 浩

はじめに――問題の提起

. 羽入辰郎の応答回避 

 昨(2005)年825日に拙著『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』が、同じく915日には『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』が、未来社から刊行され、今日(2006117日)で約四か月になる。書評「四疑似問題でひとり相撲」(『季刊経済学論集』、第59巻第1号、20034)、前著『ヴェーバー学のすすめ』(20031125日、未來社刊) の公刊から数えると、三年弱の歳月が経過している。

 これらの拙著/拙評で、筆者は、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002930日、ミネルヴァ書房刊、以下羽入書)の「ヴェーバー批判」に、正面から反批判を加えた。羽入による反論/反証が可能な具体的論拠をととのえ、筆者のヴェーバー理解を具体的に対置し、応答を求め、論争を開始しようとした。ところが、羽入はこの間、拙著/拙評の反批判にまったく応答しない。

 また、去る20041月には、北海道大学経済学部の橋本努が、ホームぺージに「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争コーナー」を開設し、羽入を含むヴェーバー研究者/関係者に、広く論争参加を呼びかけた。筆者はこの呼びかけに答え、 (後に改訂のうえ『学問の未来』『ヴェーバー学の未来』に収録する) 一連の論考を寄稿したが、羽入は、このコーナーにも応答を寄せていない。

 知的誠実性を規準にヴェーバーを「批判」し、「詐欺師」「犯罪者」とまで決めつけた当人が、筆者の反批判には、知的誠実性をもって答えない。研究者として論争を受けて立ち、理非曲直を明らかにしようとしない。

. 羽入への研究指導と学位認定を問う

 そこで、筆者は、羽入辰郎に学位を認定した東京大学大学院人文科学(現人文社会系)研究科、とくに羽入への研究指導と学位請求論文の審査に当たった倫理学専攻に、改めて(『学問の未来』につづいて)この件にかんする所見の表明を求め、羽入にたいする研究指導と学位認定の責任を問いたい。というのも、拙著で論証した羽入書の欠陥と羽入の応答回避から考えると、東京大学大学院人文社会系研究科とくに倫理学専攻は、羽入にたいする研究指導を怠り、知的誠実性をそなえた研究者に育成する責任/社会的責任を果たさないまま、学位に値しない論文に学位を認定して世に送り出した、と推認せざるをえないからである。大学院・研究教育機関としての厳正な論文審査という条件のもとで初めて、そのようにして認定された学位に社会の信頼をえている当該責任部局が、おそらくは問題のある審査で、欠陥論文に学位を認定し、学位認定権という職権を濫用し、研究教育機関としての存立条件をみたしていない実態が、明るみに出てきたのである。

 この事態は、分野は異なるにせよ、専門職におけるモラル/モラールの低下と、虚偽/虚説捏造といった背信行為が、広く世間一般に有形無形の被害をもたらし、早急に対策を講じなければならない今日の社会状況と、けっして無関係ではあるまい。こうなった以上は、羽入書の欠陥を論証して、そこに結果として露呈された大学院教育の不備を指摘し、警鐘を鳴らした筆者が、その延長線上で、羽入の学位請求論文審査報告書も検討し、研究指導と学位認定の問題点を明らかにすべきであろう。そうすることをとおして、現下の大学院・研究教育機関の実態――とくに「大衆化とその随伴結果――に広く関心を喚起し、不備/欠陥の是正と責任性の回復/向上に向けて、ひとつの捨石を置くことが必要と思われる。いや、そうした社会状況を特段に考慮するまでもなく、大学院・研究教育機関のあり方をたえず点検して、現場に不備/欠陥があれば、そのつど隠蔽せず、公開の討論に委ねて是正していくことが、本来、学問とその未来に責任/社会的責任を負う学問研究者にとって、避けて通れない課題であり、社会にたいする責務でもあろう。

第一章 原論文提出から学位認定まで

 第一節 表題他の変更

 第二節 学位認定までの研究指導――対極二仮説の提示

 第三節 注目を引く一事実――謝辞群中に主査/専攻主任の名がない

 第四節 主査/専攻主任の「胸中」

 第五節 論文「不出来」の類型的状況にたいする類型的対応

 第六節 大学院大衆化とその随伴結果――「対等な議論仲間関係」の解体

 第七節 第一類型の対応:学問上の規範に照らして「客観的に整合合理的」

   な「積極的正面対決」

 第八節 第二類型の対応:なお「客観的に整合合理的」な「消極的正面対決」

 第九節 第三類型の対応:「客観的に整合非合理的」な「対決回避」――「権

   威主義」の二面性

 第一○節「権威/温情」的対応の系譜とその文化的背景

 第一一節「前近代」と「超近代」との癒着

第二章 審査報告書「[論文] 内容要旨」の検討

 そこで、以上(第一章)の三理念型構成を柱とする一般的仮説的な考察を踏まえ、一特殊事例として羽入論文の審査報告書を検討し、仮説の検証に移りたい。

 審査報告書は、万人の縦覧に供された公開文書である。読者には、「東京大学学位論文データベース」http://gakui.dl.itc.u-tokyo.ac.jpを開き、所定欄に該当事項(著者名に「羽入,辰郎」、学位授与年月日右欄に「1995. 03. 06」、種別に「課程博士」)を入力して、羽入論文にかんする正式の審査報告(書誌、内容要旨、審査要旨の三項目からなる)A4判二ぺージ分を一覧されるようにお勧めする。「書誌」項目中には、「論文審査委員」五名の氏名が明記されている。「審査要旨」の内容は、追って明らかにされるとおり、驚くべきものである。ここでは、「情報公開法を使って秘匿情報を引き出す」必要はなく、「すでに公開されている情報を活かす」ことだけが問題である。           

 拙著『学問の未来』における羽入批判にたいしては、「学位認定後に改訂のうえ刊行された羽入は、もっぱら羽入本人が責任を負うべきものであるから、羽入書をデータに、改訂前の羽入論文を審査した委員たちの責任を問うのは失当である」との反論が、形式的な筋論としては予想される。筆者が拙著を公刊して審査委員の所見表明を再三求めても、応答がないのは、そうした反論に依拠してのことかもしれない。そこで、ここ(第二章)では、当の認定時論文そのものを、本人が論文に添付し、審査委員も承認して審査報告書に収録した「内容要旨」に沿って、直接検討していきたい。そのうえ、本稿第三章で、当の内容を、審査委員がどう捉え、どのように学位に値すると評価したのか、――こんどは審査委員自身による審査要旨欄の記載内容をデータとして、明らかにしていこう。

 第一節「内容要旨」の構成

 第二節 前置きに顕れた「二重焦点」とその意味

 第三節「ピューリタン的calling概念の起源」の二義――「語源」と「宗教的

 /救済論的起源」

 第四節「虎の子」可愛さのあまり――パースペクティーフの転倒とその動因

 第五節「パリサイ的原典主義」の自縄自縛――「OEDの誤り」捏造

 第六節『ベン・シラの知恵』発「言霊伝播」説――被呪縛者はだれか

 第七節 実存的な歴史・社会科学をスコラ的な「言葉遣い研究」と取り違える

 第八節 当然のことを「アポリア」と錯視、「疑似問題」と徒労にのめり込む

 第九節『アメリカにうんざりした男』からの孫引きとその意味

 第一○節「フランクリンの神」が「予定説の神」とは誤訳の受け売りと誇張

 第一一節「フランクリン研究」と「『資本主義の精神』を例示するフランクリ

     ン論及」との混同――ヴェーバー歴史・社会科学方法論への無理解

 第一二節「直接的」という限定句の見落とし――文献学の基本訓練も欠落

 第一三節 ふたたび「フランクリン研究」と「『資本主義の精神』を例示する

     フランクリン論及」との混同

 第一四節「啓示」をめぐる迷走

 第一五節 フランクリンにおける倫理思想形成の三段階を看過

 第一六節 恰好の標語も引用しないと「不作為の作為」「故意の詐術」

 第一七節「結び」で特筆の (ⅳ) 項が失当では、「ましてや他項においてをや」

第三章 審査報告書「審査要旨」の検討

 第一節 誤字・脱字・悪文――「投げやりな」審査要旨

 第二節 杜撰な審査報告書で「文学博士」量産か

 第三節 審査委員の「倫理」論文理解は「トポス」論議水準

 第四節 「無難な逃げ」の抽象的要約

 第五節 羽入論文――研究指導欠落の対象化形態

 第六節 無内容のまま「結論」に短絡――責任ある評価主体の不在

 第七節 「集団的意思決定にともなう制約」問題

 第八節 第一対応から第三対応への越境

 第九節 第三対応への越境を規定した(一般的、個別的)諸要因

小括

一、研究科のホームページに公開討論コーナーの開設を要請

 筆者としては、「大衆化大学院における研究指導と学位認定」の問題を、以上の一特例分析を添え、当該倫理学専攻を初めとする東京大学大学院人文社会系研究科に向けて、提起したい。羽入論文への学位認定というこの問題事例を、「大衆化大学院における研究指導と学位認定」という困難な課題にふりかかった「現場のクリティカルな問題」のひとつとして、当事者/関係者とともに検討し、事実関係を確定し、そのうえで改善策の構想を練りたい。そのために、研究科のインターネット・ホームぺージに、公開討論のコーナーを開設していただきたい。そこに、当事者の所見表明から始めて、逐次、関係者の意見が掲載され、討論が進められることが望ましい。

 本稿も、そうしたコーナーの開設を想定のうえ、問題提起者の趣旨説明として起稿したが、「妥当」な事実認定と「明証的」な推論/推認に慎重を期するあまり、長大な文書となってしまった。一書として公刊し、問題そのものに広く一般の関心を喚起したい、とも考えている。幸いコーナーが開設されたら、本稿の続篇は、そちらと筆者のホームページ(http://www.geocities.jp/hirorihara)に同時に掲載していく予定である。

二、審査委員とくに主査の所見表明を要請

 ここで念のため、五名の審査委員とくに「主査」に、自発的所見表明を重ねて要請する。「一事不再理」というような法律論を楯に、学問上の内容的応答を回避することなく、研究者/教員として率直に見解を表明し、当事者として事実経過を明らかにしてほしい。

 審査委員とくに「主査」が、複雑で厄介な状況に置かれ、苦渋の選択を迫られたであろうこと、同じ窮境に追い込まれたら、だれしも第三類型の妥協に傾きかねないことは、上述したとおりである。この羽入事例は、偶然の変則的逸脱形態ではない。大学院の「大衆化」と研究指導上/学位認定上の困難という類型的問題が、いちはやく鮮明な形態をとって顕れた象徴的個別事例である。そしてわれわれは、この問題を、現在から未来にかけて、なんとしても解決していかなければならない。とすれば、この個別事例は、われわれの対応いかんによっては、未来に向けて問題の解決案改善策を構想していくさいにその事実確定から貴重な指針や教訓を引き出せる起点とも礎石ともなりえよう。

 筆者が、この事例に本腰を入れて取り組んだのも、なにか羽入個人ないし審査委員個人への反感に駆られたからではけっしてなく、この個別事例に、大衆化大学院の困難を象徴する類型的文化意義」を認めたからである。そうであれば、その題材とされたヴェーバーの「人と学問」に多少とも通じた専門家のひとりとして、その意義をこそ解明し、問題の解決に活かす責任を負わなければならないと思い立ったのである。そこから筆者は、可能なかぎり当事者の立場に身を置き、ここまでは羽入書/羽入論文/審査報告書をデータに、「妥当」な事実認定と「明証的」な推論/推認を試みてきた。しかし、当事者がもろに受けた苦渋は共有していないために、なにか無理な推論が紛れ込んでいるかもしれない。多々あろうそうした問題点については、今後、当事者との討論/論争のなかで受け止め、筆者に非があれば自己批判し、積極的に応答していきたい。当事者もどうか、「過去の一瑣末事にたいするあらずもがなの横槍を排除する」といったスタンスはとらず、当事者としての事実経過確定に知的誠実性を発揮しかえって知的誠実性の堅持ないし復権を証しし未来の問題解決へ向けて積極的に第一段の礎石を据えるという位置づけと決意で、筆者との討論/公開論争に入っていただきたい。筆者としては、事実確定にもとづく問題解決案/改善策の構想という方向に、もっと積極的/建設的に議論を進めていきたいのであるが、他方、事実確定に不可欠な当事者の所見表明を置き去りにし、当事者の主体性を無視する拙速は、やはり避けたい。

 1960年代以降、自然科学畑では、公害/医療過誤/交通事故などを契機に、それらの諸問題にかかわる専門家の応答責任が問われるようになった。製造業において、製品の品質管理に不備があり、欠陥商品を販売すれば、企業イメージが損なわれ、売れ行き不振に陥って倒産に追い込まれるまえに、管理責任者と経営陣が、責任を問われ、責任をとる。行政官も、政治家でさえも、職権濫用が明るみに出れば、責任を問われずには済まない。大学とくに人文社会系の教員だけが、「職権濫用によって欠陥博士を世に送った」との疑いが濃厚になり、論証されても、責任を問われず、かえって同僚にかばわれ、「黙っていれば、なんとかなる」でよいのか。そういう精神風土そのものが、職権濫用の文化的背景として、いままさに問われているのではないか。

むすび――広範な討論への呼びかけ

一、倫理学者は「母屋の火事」にどう対応するか

 筆者は、当事者以外にも、倫理学専攻者/ヴェーバー研究者/人文社会系の他分野の研究者など、広く研究者/院生/学生/読者に、この問題への関心を喚起し、公開論争に注目/参入されるように、呼びかけたい。

 これまでにもなんどか述べてきたとおり、筆者は、羽入書そのものの中身よりも、これほど中身のない書物が、厳密な文献読解と意味/思想解釈の訓練にかけては定評のあった倫理学専攻から、正規の研究指導と学位認定をへて「言論の公共空間」に登場してきた事実に驚き、この問題に取り組むにいたった。そこからおのずと膨らんできた疑問は、当の倫理学専攻で、いかなる研究指導がなされていたのか、とくに学位認定に当たっていかなる論文審査がなされたのか、との一点に集約されるほかはなかった。

 なるほど、耳目聳動を狙う虚仮威しの作品に、一方ではいい加減な学者/評論家/編集者/読者が飛びついて、無責任に絶賛し、賞を授け、歓呼賛同し、……、他方では、ある種の半学者・半評論家/「ヴェーバー読みのヴェーバー知らず」が「首をすくめて嵐が過ぎるのを待つ」という、この間われわれの眼前に繰り広げられた光景は、現代大衆/大衆人社会の軽佻浮薄な風潮が「学界/ジャーナリズム複合体制」にも浸潤している常態の象徴として、腹立たしくはあるが、驚くにはあたらない。ところが、この情景を織りなす無責任群像のうち、作品を評価する力量に乏しい編集者や評論家も、かりに羽入が定評ある研究室で研究指導を受け、厳正な学位認定をへているという事実――厳密にいえば「そうにちがいない」との信頼――がなかったとしたら、それでも出版に踏み切ったり、賞授与を決めたりはしなかったろう。かれらも、東大院人文社会系倫理学専攻による学位認定を、秘かに拠り所としてはいたにちがいないのである。

 とすれば、かりに当の論文審査が、「いい加減か、さもなければ節穴か」(『学問の未来』、141ぺージ)という「山本七平賞」選考委員(加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、養老孟司、山折哲雄ら)と同等の水準/同じ流儀に堕していたとすれば、ことはそれだけ重大である。現代大衆/大衆人社会における学問的評価規準の「下降平準化」に歯止めをかけ、その波浪に抗して全社会的な学問水準と専門職のモラル/モラールの維持/向上に責任/社会的責任を負う「最重要と目され信頼されていた拠点のひとつ」が、つとに崩壊、あるいは空洞化していた実態の露顕と見なされざるをえないからである。それどころか、当の「拠点」が、羽入と羽入書の虚像が雪だるま式に膨れ上がる起点を据え、付和雷同の相乗効果を誘発発進させ、「自分の虚像を追いかけて生きる不幸」を生み出していたことになろう。現代大衆/大衆人社会における学問エートスの減衰、専門職における倫理水準の低下を、ほかならぬ倫理学の「最重要と目され信頼されていた拠点のひとつ」が、集約的/象徴的に体現していたことになろう。

 そういうわけで、羽入論文審査の直接当事者ばかりでなく、倫理学専攻の出身者/関係者も、この問題をいうなれば「母屋の火事」と受け止め、公開文書の審査報告を閲覧のうえ、各々の所見を自発的に(総論は総論として、各論も) 発表し、公開論争に参入してほしい。学問とその未来に責任/社会的責任を負う当事者として、ここまであらわとなってきた深刻な事態を、知的誠実性をもって直視し、いっそ事実経過を徹底的に究明して、ともに原点から「出なおし」、「立てなおし」をはかろうではないか。

二、ヴェーバーに準拠するヴェーバー学が不評の学問/文化風土を問う

 また (last, but not least)、ヴェーバー研究者/院生/学生/読者、とりわけ同じ大学院研究科に所属するヴェーバー研究関係者も、この事態を歴史・社会科学総体の「危機」と受け止めてほしい。そのうえで、建てなおしと堅実な発展に向け、各々の責任/社会的責任を銘記し、たとえば羽入書と拙著との狭間に身を置き、レフェリー的な立場からでも自由に発言してほしい。

 筆者は、長年マックス・ヴェーバーの「人と学問」に親しんできたひとりとして、この間、「かりにヴェーバー自身が現代日本のこの状況に生きていて、羽入書のような攻撃を受けたとしたら、どう振る舞うか」と考えないわけにはいかなかった。というよりも、筆者自身、「かれならこうする」と思うところにしたがって、考え、発言し、「禍を転じて福となそう」としてきた。

 ところが、そのようにほかならぬヴェーバーに準拠して羽入書を「逆手にとった」筆者の発言と行動、そのなかから紡ぎ出された拙著三部作は、(本稿に見られるとおり、現状分析にまでヴェーバーの「理解科学」的歴史・社会科学の「理念型」的方法を適用/活用してはいるのだが)おおかたのヴェーバー研究者には、歓迎されず、批評に値しないと受け取られたようである。『学問の未来』の公刊後、橋本努による繙書呼びかけ以外には、主だったヴェーバー研究者からの反響はない。とすると、筆者のヴェーバー理解が間違っているのだろうか。

 それとも、筆者のスタンスが、批判的/論争的にすぎるとして、温厚なヴェーバー研究者から嫌われるのだろうか。ところが、筆者はむしろ、「アカデミズムの伝統」を培うには、批判的対決と論争から始めるほかはない、ただ大切なのはフェアプレーの精神、と心得ている。かえって常日頃、われわれ日本人研究者は、批判的対決と論争を避けて「権威と温情の無風状態」に安住しすぎる、と感得している。そこで、機会あるごとに、あえて「批判と論争のスタンス」をとって対峙する。「そうすることがまたヴェーバー的」と思いなして懲りない。(20051215日起稿、2006128日脱稿)