108山﨑昭博プロジェクト」への賛同のお願い (427)

 

 

各位

 

拝啓

 

青葉の候、ご清祥のことと拝察いたします。

さて、今日は、「108山崎博昭プロジェクト」に関心をお寄せいただき、賛同をお願いいたしたく、お便り差し上げます。

 

ご記憶にあるかと存じますが、山崎博昭君は、1967108日、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対するデモに加わり、羽田空港近くの弁天橋で、警察機動隊の警棒に打たれ、頭蓋骨陥没で死去した京大生です。

108山崎博昭プロジェクト」は、高校・大学時代の同期生・同窓生が、山﨑君の実兄とともに、かれの死を偲び、2017年の50周年を期して、弁天橋近辺にモニュメントを建立し、戦争に反対する意志を、広く後の世代に伝えていこうという趣旨で、20147月に創立されました。

 

 小生は、山崎君の同窓生だった発起人のひとりから、呼びかけを受け、賛同人に加わりました。ですから、山﨑君と直接親しい関係にあったわけではございません。しかし、1960年代のベトナム戦争反対運動とこれに連動する学園闘争にかかわったひとりとして、山崎君のことは忘れられず、ある特別の思いもあり、この半世紀を生きてきました。

 

 

ベトナム戦争との関連では、1963611日、古都フエの名刹ティエンムー寺の住職ティック・クアン・ドゥク師が、南ベトナム (ゴ・ジン・ジェーム) 政権の圧政に抗議して、首府サイゴン(現ホーチミン市)に車で乗りつけ、路上でみずから火を放ち、命を絶ちました。後に2007年、ベトナムにティエンムー寺を訪ねますと、境内の一角には、その車と、燃え盛る炎のなかで座禅の姿勢を崩さない師の写真が展示され、師の墓は、境内の一番奥にあって、手厚く葬られていました。また、山崎君の死から約一カ月後の19671112日には、エスペランティストの由比忠之進さんが、北爆を支持する佐藤首相の訪米に抗議して、首相官邸前で同じく焼身死を遂げました。それぞれ、反戦平和の闘いに文字通り命を捧げた壮絶な殉職 (使命) 死で、わたしたちの記憶に深く刻まれています。

 

ところが、山崎君は、無名の一青年で、人間としてひたすらベトナム戦争に反対し、羽田のデモに加わり、思いもかけず、前途を絶たれたのでした。かれが背負っていたリュックには、カントの『純粋理性批判』、ヘーゲルの『精神現象学』、マルクスの『経哲草稿』など、当時の学生が熱心に読んだ古典が、ぎっしり詰まっていて、重かった、と聞きます。とりわけ、肌身離さずにいた蔵書のなかには、キルケゴールの『誘惑者の日記』も含まれていたそうで、かれが「マルクス主義か実存主義か」という時代の思想課題を「わがこと」と受け止め、実践にかかわりながら真摯に思索を重ねていたさまが窺えて、共感を覚えました。

いまや山崎君は、ドゥク師や由比さんとともに、また、ベトナム戦争の夥しい犠牲者とともに、戦争に反対し、平和への願いを掻き立てて止まない、ひときわ光芒を放つ存在ですが、当時に遡りますと、小生は、かれの不慮の死を、大いなる前途の喪失として、それだけ痛ましく受け止めました。

それ以前、小生は、「1960年安保闘争」「196263年大管法闘争」に一院生としてかかわり、「今後、政治-社会運動と学問研究とを、どう結びつけて生きるか」と自問し、1965年に始めた教養課程の「社会学」講義と演習も、その延長線上に位置づけていました。受験勉強から解放された新入生が、同時代の問題を「わがこと」として捉え、「事実と理」に即して考え、態度決定する「社会学すること」あるいは「社会学的アンガージュマン」のスタンスを、「教養」の核心に見立て、教育目標に据えました。この目標が首尾よく達成されれば、やがてはかれらが、日本社会の各々の現場から、民主化に取り組み、社会学も活かしてくれよう、と期待しました。そして、この目標のもとに、マルクス、デュルケーム、ヴェーバーといった社会科学の古典を、当のスタンスを地で行った範例として、教材に採り上げました。ですから、古典を担いで反戦デモに加わった山崎君には、別の大学ではあれ、特別の親しみを感じ、時ならぬ早世を痛惜したのでした。

 

1968年には、学生たちが、折からの医療制度の再編に、ベトナム戦争への荷担構造の深化を探知し、そういう大状況の問題を、学内での学生処分や機動隊導入といった卑近な問題とも結びつけて、舌鋒鋭く教員を追及してきました。そのとき、小生には、学生たちが、「教員は『国大協自主規制路線』を学内で貫徹する『権力の手先』である」と決めつけながらも、ベトナム戦争の暴虐を知りつつ「何もしないでいる自分」の「加害者性」を感知し、それだけ苛立って、激しく教員に問いかけているようにも、見受けられました。その姿が、古典を担いでデモに加わった山崎君と二重写しになることも、しばしばありました。この状況で、学生の主張に俄かには同調できないとしても、すぐれて人間的な主張として、正面から受けて立ち、こちらも人間として正面から答えていかなければならない、と思いました。ここは微妙な三叉路で、かりに山崎君との二重写しというモメントがなかったとしたら、「自分は教官である」という「殻」に逃れてしまっていたかもしれません。その意味で、山崎君が、ベトナム反戦運動を学園闘争に媒介してくれた、といえます。

 

小生は、このふたつを結びつけ、学内の卑近な問題にも、「科学者としてのスタンス」で取り組もうとつとめました。教授会側の所見(甲説)と学生側の主張(乙説)とが対立しているとき、「自分は教官である」からと、初めから甲説に荷担する、というのではなく、双方を「事実と理に即して」比較-照合し、公正に評価し、そのうえで、各人の所見を持ち寄って議論し、「事実と理に適う」結論にしたがって去就を決めよう、と思いました。

そのさい、学内における争点の学生処分について、教員-学生間の「摩擦」(双方の行為連関)の事実に、とくに拘りました。しかし、これもじつは、山崎君の死因にかんする警察側の事実「捏造」とマスコミの追随「報道」を疑問とし、事実の掘り起こしと論証をもって立ち向かった遺族・弁護士・学者のスタンスに感銘を受け、闘争の渦中でも、あるいはそこでこそ、一見「些細な」事実をひとつひとつ確認し、論証し、着実に歩を進めることが大切、と考えたからでした。

 

その結果、事実誤認による冤罪処分(医学部処分に加えて文学部処分も同様)を温存したまま機動隊を再導入して授業を再開しようとする教授会と当局に、真っ向から対立しました。処分を受けることも覚悟で、そうした授業再開を拒否しました。同時に、一教員としての所信を、学外にも公表し、(安田講堂に立て籠もって逮捕され、起訴された)学生・院生の裁判に、法廷弁護人として加わり、東大と東大闘争の真相究明につとめました。

他方、同志の教員とともに、学生のいう「大学解体」を「大学解放」と読み換え、解放連続シンポジウム「闘争と学問」を開設しました。これをとおして、学生とともに、学外の公害・差別・教育問題にかかわり、それ以後、大学と市民運動との狭間に身を置き、双方の視点を相互に媒介・補完する「マージナル・マン(境界人)」として生きようとつとめました。

 

 

そのような意味で、小生は学園闘争以降、山崎君とともに生きてきた、ともいえます。ところが、昨年、齢80となり、盟友・知友の訃報に接する機会も増えるにつれ、来し方・行く末に思いをいたすようになりました。そうしますとなによりも、1960年代のベトナム反戦運動と学園闘争との絡みで自己形成した世代のひとりとして、志は高く、思うところは多かったとしても、じっさいに実現できた成果には乏しく、むしろ負の随伴諸結果に圧倒され、翻弄されて、今日にいたった、という悔恨に捕らえられます。ただ、敗戦後の一時期、戦後精神がある頂点に登り詰める「疾風怒濤」の1960年代を生きた一当事者として、できるかぎりの総括はして、後続の世代に、批判的な検討と乗り越えへの素材は残したい、それがせめてもの責務、と思い直しもいたします。

 

その点で、「108山崎博昭プロジェクト」は、山崎君の死を「戦争に反対した人間の死、としてだけ理解」する、という原点から出発して、鎮魂碑を建て、戦争への反対をつづけ、広く後世に伝えよう、という普遍的な基盤のうえに、1960年代からの(遠いようでじつは近いとも思える)小生との縁のごときも、拒まず、議論の輪を広げています。小生も、その一端に連なり、裾野の広いモニュメントの建立を、ぜひ実現したい、と念願しております。

 

つきましては、貴台にも、このプロジェクトに関心をお寄せいただき、お力添えを賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

趣意書その他、詳しい資料は、事務局に用意されておりますので、 ご面倒でも、お問い合わせください (http://yamazakiproject.com/)

 

それでは、なお気候不順の砌、どうかくれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

 

敬具

 

 

2016427

折原 浩