ヴェーバーの科学論と原発事故

折原浩

 

一、    科学一般の権能と 科学知の限界

マックス・ヴェーバーは、科学一般の権能を、大別して、①与えられた目的にたいする手段の適合度の検証、②その手段を採用したばあいに生じうる随伴結果 (犠牲) の予測、③当の目的の意義にかんする知識の提供、に求めた。

①については、「われわれは、(われわれの知識のそのときどきの限界内でいかなる手段が、考えられたある目的を達成するのに適しているか、それとも適していないか、一定の妥当性をもって確定することができる」(富永祐治・立野保男訳『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』1998岩波文庫p. 31、ボールド体による強調は原著者、下線による強調は引用者、一部改訳、以下同様)と述べている。

自然科学であれ、人文-社会科学であれ、およそ科学知には、いついかなるときにも「ここまでしか分からない」という限界があり、そのかなたには未知の領域が広がっている。なるほど、科学者は、未知の領域に仮説をもって挑戦する。自説を仮説として、科学としての方法規準にしたがって検証し――したがって、ばあいによっては、自説の誤りを認め――、既知の領域を広げていく。しかし、どこまで行っても、科学知の限界は、ちょうど「旅人にたいする地平線」のように、そのつど後退し、かならず未知の領域が残る。

カール・ヤスパースは、初期には精神病理学者としてヴェーバーの科学論を継承し、後に独自の実存哲学を展開したが、科学者をこうした「限界状況」のなかで捉え返し、この限界を弁えずに「科学は万能」と信ずる傾きを、端的に「科学迷信Wissenschaftsaberglaube」と呼んで斥けている。

 

二、目的と結果との相互秤量

では、権能②についてはどうか。ヴェーバーは、こう語っている。「もしある考えられた目的を達成する可能性が与えられているように見えるばあい、そのさい必要とされる[当の]手段を[現実に]適用することが、あらゆる出来事のあらゆる連関[にいやおうなく編入されること]をとおして、もくろまれた目的のありうべき達成のほかに、いかなる[随伴]結果をもたらすことになるかを、当然つねに、そのときどきのわれわれの知識の限界内においてではあるが、確定することができる。そうすることで、われわれは、行為者を助けて、かれの行為の意欲された結果と、意欲されなかったこの [随伴] 結果との [相互] 秤量が、できるようにする。すなわち、れわれわは、意欲された目的の達成が、予見できる出来事の連鎖を介して、他のいかなる価値を損なうことになるか、そうした形でなにを『犠牲にする』か、という問いに答えることができる。大多数のばあい、もくろまれた目的の追求はことごとく、この意味でなにかを犠牲にする、あるいは少なくとも犠牲にしうるから、責任をもって行為する人間の自己省察で、目的と結果の相互秤量を避けて通れるようなものはない。とすれば、そうした相互秤量を可能にすることこそ、われわれがこれまでに考察してきた [科学にもとづく] 技術批判の、もっとも本質的な機能のひとつである」(上掲書、pp. 31-32)

 

三、科学と技術との緊張

さて、こうした利害得失(メリットとデメリット)の相互秤量も、なにか目新しい主張ではない。それはむしろ、ある技術の採用にあたって必須の要件として、つねに語られ、要請され、通常は実行されてきたことであろう。ところがそのさい、科学と技術は、「科学技術」と一括されたり、「技術は科学の意識的適用である」と唱えられたりして、双方の親和性ないし順接関係が、暗黙にせよ前提とされていたのではないか。とすると、その点にかけて、ヴェーバーはむしろ、双方の緊張に着目し、技術にたいする科学の否定的批判的関係も、科学の本質的機能と見ていることになろう。

すなわち、ある目的の達成をめざして、ある技術の採用が提唱され、議論されるとき、科学者の (科学者として責任ある) 関与には、そのときどきの科学知の限界にかんする自己批判的認識がともなわなければならない。そのさい、当の目的の提唱者ばかりか、その目的を受け入れて手段を考案する技術者も、ともすると目的の価値に目を奪われ、ひたすらその達成を焦ることもあろう。そうなると、①手段の適合度の検証はともかく、②随伴結果の予測にかけては、そのときどきの科学知の限界内における、あるいはそれを一歩越える――「想定外の」――不具合や事故、これにともなう犠牲の発生を、とかく看過、軽視しがちであろう。そのとき、科学者(あるいは、技術者が科学者と同一人のばあいには、科学者としての技術者)には、さればこそ科学知の限界をむしろそれだけ鋭く意識し、(「限界内」の確かな予測の域を越えても)不具合や事故の可能性を予想し、ばあいによっては警告を発する責任が生ずる。科学者は、科学知の限界を越えて、「希望的観測」や「楽観的想定」を語り、「科学迷信」に陥って、自他を誤らせてはならない。

 

四、「議論の場」の必要と意義

他方、科学者は、目的達成と犠牲との相互秤量にあたって、他の科学者、技術者、目的提唱者、さらには事故のばあいには「犠牲」がおよびうる関係者とも、議論を重ねることができようし、各人の観点の制約 (人間として不可避の一面性) を考慮すれば、そうすることがぜひとも必要であろう。ヴェーバーが「客観性論文」をいわば綱領文書として、『社会科学・社会政策論叢』の編集に携わったのも、そういう開かれた「議論の場」を、公衆に提供しようと意図したからではないか。

そのさい、議論への参加者のうち、(当の技術の現場の操作者・運転員を含めて)「犠牲」がおよびうる関係者は、なるほど、関連領域に精通した「専門家」ではないかもしれない。しかし、そうした関係者は、技術の現場ないし近辺にいて、不具合や事故が発生すれば、その被害を(「犠牲」がおよび難い目的提唱者や設計技術者に比して)もろに身に受けるから、それだけ敏感に、事故の可能性にかんする仮説を直観的に孕むことができよう。その厳密な検証は科学者に委ねる――ばあいによっては、科学者と共にする――ことをとおして、実質上「科学知の限界」の拡張に寄与するパートナーともなりえよう。

 

五、通常技術と特異技術

ところで、そうした相互秤量の内容は、個々のばあいに応じて多種多様であろう。しかしこのさい、ふたつのケースを「理念型」として区別する必要があろう。ひとつは、事故が起きる公算ないし客観的可能性は確かにあるけれども、それによる犠牲は限定されていて、目的達成のメリットをそれほど棄損しない、というばあいである(通常技術)。あるいは、ある薬の副作用が大きいことは分かっていても、そのままでは生命が危ういので、副作用は甘受しても薬を服用する、というばあいもあろう。こうした類型にかぎれば、当の技術を採用して事故ないし副作用による犠牲が生ずるとしても、そのつど発生原因を特定し、対策を立て、再発を予防して、技術としての完成度を一歩一歩高めていくことができよう。それが、科学の権能にかなうと同時に、健全な人間常識にもとづく選択であろう。

ところが、いまひとつ、なるほど事故による犠牲の確率は低い――できるかぎりの予防措置によって、できるかぎり低く抑えられる――としても、科学知の限界から、事故が起きない保証はなく万一事故が起きれば、犠牲は甚大で、取返しがつかず、目的達成の価値を棄損してあまりある、というばあいもあろう。また、事故が起きて「急性のakut犠牲」が生ずることはなくとも、常時、有害で危険な副産物や廃棄物が排出され、処理されずに (あるいは「処理」「再処理」されても、危険なまま) 集積され、そうしたいわば「慢性のchronisch犠牲」が、後続世代に先送りされることもあろう(こうした類型をひとまず、「通常技術」にたいして「特異技術」と呼んでおく)。

このばあい、科学者は、(急性と慢性)両様の犠牲が広範囲で甚大と予測されれば、当の「特異技術」の採用による目的達成のメリットがいかに大きく見積もられていようとも、万一の事故を考え、翻って当の目的の意義について反省し、その当否を問うことができよう。ここで、科学の権能③が引き受けられ、活用される。そして、そうした問い返しにもとづいて、ばあいによっては、当の技術の採用を見合わせ目的達成そのものを断念することが、科学の権能にかない、健全な人間常識にとっても妥当な判断となり、選択ともなろう。

 

六、特異技術としての原発

とすれば、昨年の福島第一原子力発電所の事故以来、問題とされているのは、この類型の「特異技術」であるといえよう。そしていま、通常技術と特異技術とを範疇的に区別することが喫緊と思われる。というのも、(ここで、この問題にたいする筆者自身の態度決定を表明することになるが) 万一事故が起きれば取返しがつかず、廃棄物処理の見通しもない、という原発技術の特異性を看過し、他の通常技術と同様に考え、「事故は深刻に受け止め、その教訓を学んで『前向きに』安全対策に活かそう」という (一見もっともでも、特異技術には通用しない) 一般的な建前を掲げて、原発の存続そのものは容認する方向に、議論が流される恐れなしとしないからである。

とはいえ、もとより、「そもそも今回の事故がなぜ起きたのか、安全管理のどこに不備があったのか」と問い、具体的に検証を重ねて、「同じ轍を踏まない」ように対策を立てること自体は、そのかぎり必要かつ重要であろう。しかしそれには、つぎの前提を置くことが不可欠と思われる。すなわち、「今回なぜ、メルトダウン (炉心の溶融-沈下) と水素爆発で止まって、圧力容器-格納容器の破裂と炉心の暴走にいたらなかったのか。そうなる公算、およびそのばあいに生じうる犠牲は、どのくらいだったのか」という最悪事態の想定と予測を避けないこと、「メルトダウン止まり」をあたかも不動の与件であるかのように思いなして「安心」し(余人を「安心させ」)、今回の事故と「同じ轍は踏まない」対策だけで「よし」とし、原発の再稼働と存続は認める方向に誘導されないこと、安全対策はもっぱら、原発の廃絶を前提とし、全廃炉にいたる工程の安全確保に限定すること、これである。

 

さて、ヴェーバーの科学論は、技術にたいするこうした否定的・批判的関係も、射程に収めていたと思われる。なるほど、かれの時代の技術は、原子核の分裂ないし融合にともなうエネルギーの解放によって、戦争利用では目的意識的に、平和利用では随伴結果として、未曾有の破壊と災害を(急性ないし慢性に)もたらし、「人間の創始した技術が翻って人間を滅ぼしうる」段階には到達していなかった。したがって、かれ自身は、主として「通常技術」を考え、「特異技術」という系を明示的に論じてはいない。しかし、科学知の限界を自覚しつつ随伴結果を予測する責任の要請を、技術発展のこの段階で受け止めるならば、ただちにこの「特異技術」という系が、ひとまずは理念型として導き出されよう。

 

七、「合理化」と「職業としての学問」

他方、ヴェーバーにおいて、技術と科学とのこうした緊張関係は、技術(効率)と科学(真理)との間だけではなく、目的提唱の背後にある経済(富)や政治(権力)との間にも、「価値秩序の(神々の)闘争」として見据えられ、そうした「神々の争い」が、普遍的合理化」の一環として捉え返されていた。このばあい、「合理化」とは、科学・技術・経済・政治・芸術・性愛・宗教といった生活領域の「固有価値」と「固有法則性」が、それぞれ知的に認識され(「主知化」)、「ratio (合理的計算)」にしたがってそれぞれ専一的・集中的・「目的合理的」に追求される――「社会的分化-専門化」の――結果、「価値秩序(の神々)」も引き裂かれて、互いに争い、(狭間に身を置く人間に)緊張をもたらす事態である。

また、「合理化」は、各生活領域の「固有価値」をその「固有法則性」に即してそれぞれ専一的・集中的・持続的に追求する「専門家」(芸術家・宗教者などを含む広義の「専門家」)と、そうした「経営Betrieb」(持続的目的追求という広義の「経営」)の所産に適応し、その価値を享受する大衆ないし公衆との距離を拡大してやまない。科学と技術に焦点を絞れば、科学的原理の「発見」は、「発明」として技術的に応用され、その結果、さまざまな日用財が製造され、普及する。ところが、そうした所産を「富」として享受し、諸財を日常的に利用する大衆ないし公衆は、そうした発展と「富」の増大・多様化につれて、諸財の設計と製造のさいには基礎とされた合理的原理から、ますます疎隔されざるをえない。ただ、そうした財の、人工物としての機能は「予測によって制御できる」と信じているにすぎない。したがって、なにかの機能不全によって予測が外れ、信頼が崩れると、自分ではどうしようもなく、困惑して「パニック」に陥りかねない。「合理化」された世界に生きる「文明人」は、自分の生活条件を経験的に熟知している「未開人」に比して、自分の生活条件については無知かつ不安定であり、「目的合理的」に振る舞うとはかぎらない(海老原明夫・中野敏男訳『理解社会学のカテゴリー』1990、未來社、pp. 120-25、参照)。

カール・マンハイムは、ヴェーバーの「合理化」論を、後にナチスが台頭する状況で受け止め、敷衍し、展開したが、かれによれば、社会の「機能的合理化」は、個人の「実質的合理性」(マンハイムのばあいは、「所与の状況において事件の相関関係をみずから洞察して知的に行為する能力」に限定)を高めるとはかぎらない。むしろ、個々人は、みずから「実質的合理性」を発揮して混迷から脱し、機能-信頼体系を再建していく方向に向かうのではなく、そうした模索と選択を「重荷」と感じ、これを「肩代わり」してくれそうなカリスマ的リーダーを待望し、歓呼して迎え入れかねない(福武直訳『変革(再建)期における人間と社会』1953、みすず書房、参照)。

 

ヴェーバーが、いまから一世紀近く前に、科学の権能を明らかにしながら「職業としての学問」を説いたとき、その「職業Beruf」には、普遍的「合理化」というこの全社会的条件のもとで、大衆ないし公衆に委ねきることはできない――したがって「自主・民主・公開」の三原則によって担保され、おのずと解決されるわけではない――三権能の活用と技術批判が、「専門家」としての科学者の「使命Mission」として――したがって、「職業科学者」か「市民科学者」かの区別には、ひとまずかかわりなく――要請されていたのではないか。「客観性論文」や「職業としての学問」をとおして知られているかれの科学論は、原発事故発生以降の状況で、こうした関連で受け止められ、敷衍され、展開されよう。

なるほど、人文-社会科学者には、むしろ科学の権能③によって、原発技術の意義にかかわる諸問題――それが、いかなる文化史的背景のもとに、どこから来て、どこへ向かうのか、(かりにそれが「化石燃料の最後の一ツェントネルが燃え尽きる」まえに廃棄されるべきであるとすれば)人びとの価値観-ライフ・スタイルはいかに変えられ、産業-経済構造もいかに再編され、代替エネルギーがいかに調達されうるか、等々――に取り組み、それぞれ「専門家」として寄与することが、求められよう。本稿は、そうした取り組みの多様な展開を期待しつつ、議論の共通の出発点として、(人文-社会科学畑では比較的に馴染まれていると思われる)ヴェーバーの科学論から、原発事故にたいする態度決定の手掛かりとも立脚点ともなりうる周知の論点を、取り出して再確認したまでである。

 

むすび

本稿は、具体的には「ヴェーバー研究会21」(2012318日予定)への参集者を念頭に置いて、執筆された。いきなりヴェーバーの科学権能論から始め、教材としての利用も考えて長い引用を交えたのは、そのためである。

顧みると、1968-69年の全国大学闘争では、学生が教員に「学問のあり方」を問い、これに答えて (院生・助手を含む)「専門的」研究者が、「職業科学者」あるいは「市民科学者」として、さまざまな社会運動にかかわり、そのなかから反原発運動に取り組む人びとも現われた。ところがいま、「大学ムラ」は無風状態に見える。こんどは教員が学生に、「学問のあり方」を問い、大学を「議論の場」にしていくことが、求められているのではあるまいか。(2012211日記)