ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ

(第二次草稿、六月一日現在)

はじめに

 本書は、姉妹篇『学問の未来――ヴェーバー学における末人の跳梁 批判』(二○○五年、未來社刊)とともに、前著『ヴェーバー学のすすめ』(二○○三年、未来社刊)の続篇である。

 『学問の未来』では、前著につづき、羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊――』(二○○二年、ミネルヴァ書房刊、以下羽入書)への内在批判を徹底させた。それと同時に、こうした書物が「言論の公共空間」に登場し、(一方では非専門家「識者」の絶賛と「賞」授与、他方では専門家による批判的検証の回避、という)無責任の相乗効果として、ヴェーバー学への誤解/曲解とともに著者の虚像が「雪だるま式に膨れ上がる」事態を「末人の跳梁」状況として捉え、その背後にある日本の学問文化-風土と現代大衆教育社会の構造的要因連関に、理解/知識社会学的な外在考察を加えた。そのように内在批判と外在考察をこもごも進めるなかで、筆者には、「倫理」論文を徹底して読解し考えることから始めて、ヴェーバー歴史社会科学の思考方法を会得していく案内書(ないしは再案内書)が、いま必要とされている、との思いがつのった。

 他方、「批判とは元来、相手が考えるべきであった事柄を代わって考え、そうすることをとおして従来の研究水準を乗り越えていくことでなければならない」という趣旨に照らしても、羽入書の誤りを剔出する否定だけに終わらせず、筆者の「倫理」論文解釈/ヴェーバー理解を積極的に対置し、補説として編入していった。ところが、それらはいきおい膨大となって、批判書としての一貫性をそこね、構成を乱しもした。そこに、未来社西谷能英氏の助言があり、元稿から五篇の補説を抜き出し、他の(もともと独立性の高かった)三稿を加え、「『倫理』論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ」という趣旨に沿って八章に再配列/再編成し、しかるべき加筆/改訂をおこなうことにした。その結果、本書が成った。

 というわけで、本書は、ここ二年間の羽入書批判から生まれた副産物ではある。しかし、一書として、羽入書批判のコンテクストから離れても、独立の「倫理」論文読解案内(ないし再案内)となるように、さらに(「経験的モノグラフと方法論との統合的解釈」という筆者年来の方針による)「『倫理』論文の読解からヴェーバー歴史・社会科学の方法会得へ」の案内としても、読んでいただけるように、形式/内容ともに整えた。

第一章「『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』論文の全内容構成(骨子)」は、当初「ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理』論文の全論証構造」と題して『未来』四五○号(二○○四年三月)に発表され、その後(北海道大学経済学部の橋本努氏が開設した)インターネット・ホームページの「マックス・ヴェーバー、羽入/折原論争」コーナー(以下橋本HPと略記)に転載されていた元稿を、今回、右記の趣旨に沿って改訂/増補したものである。羽入書のヴェーバー論難は、「倫理」論文第一章第二節劈頭のフランクリン文献引用と、同第三節冒頭に付された、ルターの聖句翻訳にかんする注記とに限定されていた。筆者も、羽入の論難に内在して反論を展開したので、その範囲も、対象に即しておのずと狭まり、羽入が抽象的には語る「『倫理』論文の全構成」「全論証構造」について、筆者の理解を全面的また具体的に対置する必要は、当面なかった。それにたいして、「倫理」論文読解としてのそうした欠落を埋め、「全体の内容構成」「全論証構造」にかんする管見を積極的に提示して、論争(内容と参入者)の範囲を広げようと試みたのが元稿である。今回、本書に収録するにあたっては、羽入書批判のコンテクストから独立させ、「倫理」論文を初めて(あるいは改めて)読んでみようとする読者を念頭に置き、手初めに全体をざっと読み通すための案内となるように、大幅に改訂/加筆した。

読者には、第一章を道しるべに、あまり細部や注にはこだわらず、「倫理」論文を通読され、まず大筋を押さえられるのがよいと思う。そして、なにか手応えを感じられたら、本書第二章「『倫理』論文第一章第一節『宗派と社会層』を読む」を手引きに、冒頭から再度、著者ヴェーバーとの対話を開始していただきたい。さらに細部にも関心をもたれたら、第五章「『倫理』論文第一章第三節『ルターの職業観』第一段落と三注を読む」をかたわらに、当該の一段落に付された(優に一論文の体をなす)細密な三注を読まれるのもいかがか。いずれにせよ、ぜひ「古典に出会う」体験をもっていただきたい。

第三章は、「理念型とその経験的妥当性」と題されるやや専門的な方法論議を内容としている。「ヴェーバーといえば理念型」といえるほど有名な「理念型」ではあるが、じつは方法論上なお議論が絶えない問題である。筆者は、抽象的方法論議に「屋上屋を架す」のではなく、ヴェーバー自身が理念型を(「倫理」論文などの「経験的モノグラフ」で)じっさいに適用した研究の実態に即して具体的に捉え返し、会得し、応用しようとつとめてきた。第三章では、そうするなかで熟してきた筆者の自説を示し、ふたつの誤解との二正面作戦を提唱する。そのうえ、第四章「『倫理』論文第一章第二節『資本主義の精神』第一~八段落を読む」では、ヴェーバーが当該の箇所で、フランクリン文献による「暫定的例示」から当該「精神」の「歴史的個性体」(としての理念型)概念を組み立てていく手順を、その動態(「理念型思考のダイナミズム」)に即して例解する。理念型的方法が具体的に会得され、歴史・社会科学研究一般に自覚的に応用されるようになるかどうか、――「ヴェーバー学の未来」が問われる一局面といえよう。

第五章は、右にも触れたとおり「倫理」論文が細部にいたるまでいかに密度の高い論考であるかの例証でもあるが、内容上は、理念型と並んで重要な「類例比較による意味因果帰属の方法を、ルターによる「ベルーフ(使命としての職業)」語義の創始という歴史的実例に即して解説している。この章を姉妹篇『学問の未来』の第四章「言語社会学的比較語義史の礎石」と併読されるならば、ある「言語ゲマインシャフト」における一語義(たとえば「ベルーフ」)の意訳・創始から、別の歴史的・社会的諸条件のもとで、当該語義がいかなる歴史的運命をたどるか(宇都宮京子の理念型的定式化によれば、受け入れられて普及するか、誤訳として拒斥されるか、突飛として無視され廃れるか)という問題設定と理論視角がえられ、語彙と語義の歴史的変遷にかんする「言語社会学」的比較研究に「ヴェーバーでヴェーバーを越える」方向性が引き出されもしよう。

また、この「ルターの職業観」節を含め、「倫理」論文は、およそ「宗教性」にかんする歴史・社会科学的研究の嚆矢とも金字搭とも見なされている。ところが、それにしては、人間行為一般について「宗教性」を問うヴェーバーの視座と基礎概念は、意外に知られていない。たとえば、「倫理」論文から「脱呪術化Entzauberung」を取り出してきて論ずる人は多いが、では「呪術と宗教とはどこでどう区別されるのか」、「宗教性一般において、たとえばカルヴィニズムの『二重予定説』はどこにどう位置づけられるのか」、あるいはさらに「東西諸文明の歴史的運命を分けた宗教要因を歴史・社会科学的にどう取り扱えばよいのか」と問われて、的確に答えられる人は、多くはあるまい。大塚久雄氏の「倫理」論文邦訳(単独訳)に付された「訳者解説」は、親切に書かれてはいるが、「二重予定説」にも「確証」思想にもまったく触れず、「なぜ、特定宗派のプロテスタンティズムから世俗内『禁欲』『(禁欲的)合理主義』が歴史的に生成されてきたのか」という主題の肝心要の核心に説明がおよんでいない点で、「片-手落ち」である。そこで、第六章「人間行為の意味形象=規定根拠としての『宗教性』――ヴェーバー『宗教社会学』の理論的枠組みと『二重予定説』の位置づけ」では、章題どおり、ヴェーバー宗教社会学の視座と基礎概念の解説から始めて、問題の「二重予定説」を焦点にすえ、その前史/成立/特性/作用(イスラムの「予定説」との相違)/「屍の頭caput mortuum(残滓)」を概観してみたい。

さらに、日本のヴェーバー研究――あるいは、一般の「ヴェーバー理解」――には、キリスト教の特定宗派に淵源する「西洋近代の合理主義」を、なにか西洋文化総体に「つくりつけ」になっている固有の排他的傾向として実体化し、あるいは規範化/理想化し、「西洋近代人以上に『西洋近代主義』的に」解する向きがなお支配的で、これが同時に、同位対立としての「反西洋-反近代主義」をまねき寄せてはいないか。この傾向は、数あるヴェーバー著作のなかでも、「倫理」論文以降の「世界宗教の経済倫理」シリーズへの展開を無視ないし等閑に付し、もっぱら「倫理」論文のみを(あえて極端にいえば)「聖典化」する「学問上の呪物崇拝」としても顕れる。「倫理」論文の片言隻句を捕らえて覆せれば、ヴェーバーの人と作品をトータルに否認できると思い込んだ羽入書は、その裏返し――偶像崇拝の同位対立物としての偶像破壊――である。じつは、「倫理」論文そのものも、「世界宗教」シリーズへの展開のなかで捉え返さなければ、その真価を十分に汲み取ることはできない。第七章「多義的『合理化』概念とその方法的意義」では、そういう「西洋近代人以上に『西洋近代主義』的」な「合理主義」論が、ヴェーバー自身の「合理化」論とは「似て非なる」誤解/曲解である所以を、「倫理」論文から「世界宗教の経済倫理」シリーズに視野を広げ、触りの箇所を引きながら立証する。ヴェーバー自身は、「合理化」の多義性をいわば「逆手に取る」ことで、かえって「西洋(とくに近代)の合理主義」を相対化し、人類の歴史的運命の多様性にたいする大いなる共感のもとに、限定的に位置づけ、捉え返そうと試みていたのである。第八章「『戦後近代主義』ヴェーバー解釈からのパラダイム転換」では、そうした誤解/曲解に導いた「戦後近代主義」の政治(思想)的パースペクティーフから、ヴェーバー学を解放する「パラダイム変換」をくわだてる。これは、筆者が永らく、ヴェーバー文献の内在的読解に沈潜するなかで、胸底に温めてきた構想である。筆者としては、東西文化の「狭間」にあるこの日本で、この構想を実現していく方向に「ヴェーバー学の未来」を託したい。

二○○五年六月  日

折原 浩