「会見メモ捏造事件」に思う――二〇〇五年九月一五日付け、朝日新聞社、W氏宛て書簡

拝啓

 いくらか凌ぎやすくなりましたが、貴兄にはご健勝のことと拝察します。

 さて、先日は拙著『学問の未来』に丁重なご返信をいただき、まことにありがとうございました。ただ、副題に「ヴェーバー学における末人跳梁批判」とありますので、「当面、ジャーナリズムとは関係がない」と受け止められたのではないでしょうか。ご多忙のところ、それもいたしかたないとは思います。別の新聞社に入った社会学後輩のジャーナリストOBで、「自分はヴェーバー学には関心がない」といって寄贈本を送り返してきた人もいました。ところが、今朝(二〇〇五年九月一五日)の『朝日』朝刊に載った記事「信頼される報道のために――検証 虚偽メモ問題」を読み、今後この種の事件の再発と再発の隠蔽を未然に防ぐためにも、拙著第二/三/五章で取り上げた「藤村遺物捏造事件」/「羽入『ヴェーバー詐欺師説』捏造事件」と、今回の「会見メモ捏造事件」との関係について、管見を貴兄にお伝えしたほうがよいと思い立ち、筆をとりました。

 拙著で、小生は、「藤村事件」と「羽入事件」とを、研究者市場における競争の激化という条件のもとで、ある種のハンディキャップを補償して"academic success"という「目的」を達成するため、(遺物捏造/虚説捏造というacademismの規準に照らして許されない)「手段」を採用する「刷新innovation」類型の「逸脱行動」(R・K・マートン)として捉えました。ところで、N記者のばあいは、当初には「功名心」という動機が報道されて、新聞社の「内部市場」における記者同士の競争から、とりわけ「現地採用」の――ばあいによっては「本社採用」の同僚よりも自称/他称「有能な」――記者が、その「不当な」ハンディキャップを補償しようとして「会見メモ捏造」に走った事例と捉えることもできるのではないか、と考えていました。しかし、今回の検証記事を読みますと、N記者には、それほど「大それた野心」はなく、じっさいには別の動機(後述)で、気軽に捏造を犯してしまったようです。当初には、そこのところを、「こういえば通りがいいだろう」と思って「功名心」と答えてしまった、と供述しています。しかし、その事実はむしろ、そういえば確かに「通りがいい」ような構造と、そこで培われる「風通しの悪い空気」との厳存を、かえって深刻に語り出しているとも解されましょう。今回のN記者事件のばあいは、そうでないとしても、「現地採用」と「本社採用」との身分的二重構造が、業績評価システムの不公正という条件と重なりますと、「不遇者」あるいは「みずから『不遇』と感得している人」の「補償/過補償」動機をつのらせ、いつ「刷新」型「逸脱行動」の再発をまねくともかぎりません。いつか「珊瑚礁落書き偽造事件」というのが起きましたが、あれは、新聞社内では「相対的に不遇な」カメラマンの「補償/過補償」動機に発する捏造で、この類型に属する一例ではなかったでしょうか。

 

 ところで、N記者がみずからの捏造動機をも偽って申告したという事実は、自分自身にとってこれほど重大な件についても、「事実どうであったか」(といういわば「使用価値」視点)よりも、「他人からどう見られるか、どう受け取られるか」(という「交換価値」視点)を優先させ、「事実に就こうとするザッハリヒカイトの精神」を欠いている点で、いっそう深刻な、また、一九八〇年代以降の若者に蔓延してきた一般的な、問題的傾向の現われとも見られます。「もの(ザッヘ)」の手応えを確かめる機会がなく、受験勉強とテレビ/パソコン漬けで育って、リアリティとヴァーチャル・リアリティとの区別が曖昧になってしまっている、といいかえられるかもしれません。そうしますと、ことは、職業上「リアリティに就くこと」「ザッハリヒな検証」を、職業/職業倫理の根幹として、なによりも重視し、常日頃やかましく教育/訓戒している新聞社で起きた事件として、今回の事件は、「戦略的極限事例」の意義を帯びます。つまり、そうした新聞記者においてしかりとすれば、ましてや他の(相対的にはさほどザッハリヒカイトの要請を受けない)職域においてをや」ということになります。さて、いまひとつ、やや力点が異なるとはいえ、同じくザッハリヒカイトを最重要視する文化領域があります。アカデミズムです。ところが、そこで「藤村事件」と「羽入事件」が起きました。しかも、「羽入事件」の主は、アカデミズムでザッハリヒカイトを厳しく要請したマックス・ヴェーバーを、さればこそ「目の敵」にし、「詐欺師」ときめつけ、「ヴェーバー藁人形」を立ち上げて撃ったかに装い、世の耳目を聳動して学界の「寵児」にのし上がろうとしました。しかも、これには、一方では東京大学大学院人文・社会系研究科倫理学専攻が「博士」の学位を、日本倫理学会が学会賞「和辻賞」を授与し、他方では、加藤寛、竹内靖雄、中西輝政、山折哲雄、養老孟司ら「保守派論客」が、「山本七平賞」を授与し、「押しも押されもしない巨人伝説を一挙に突き崩す鮮やかな仕事」(山折)等々と絶賛して、持ち上げたのです。しかも、なお困ったことに、そうした軽佻浮薄な虚像形成にたいして、ヴェーバー研究者が、押し黙ったまま異議をとなえようとせず、羽入論文/羽入書にたいする批判的検証を怠ったのです。これまた、「アカデミズムにおいてしかりとすれば、ましてや他の領域においてをや」という無責任の鮮明な露呈といわざるをえません。

 そこで、このアカデミズムにおける虚説捏造の類例のほうから、仔細に検討してみますと、「羽入事件」の主も、対象ヴェーバーのリアリティと、自分がもちこんでいる疑似問題との区別がつけられない「彼我混濁」に陥っています。一八世紀のフランクリンと一六世紀のルターとが、語形callingとBerufとで結びつけられないという当然の事実を、いったん「アポリア」と思い込むと、ヴェーバーも、同じように「アポリア」と感得し、これから脱しようと悪戦苦闘したにちがいない、そのあげく「アポリア」を隠蔽しようとして「詐術」を弄したにちがいないと、つぎつぎに自分の想念を対象に押しかぶせては、自分では捏造と自覚せずに、捏造を重ねてしまっているのです。N記者は、「羽入事件」の主ほど粗雑で乱暴ではなく、小心で生真面目だったようですが、いったん「本社政治部の仕事」で「多分裏もとってある」と思い込むと、その不確かな予測を前提に、つぎつぎと(日頃の取材から「ありそうな」論点を繰り入れては)「もっともらしい」会見談を創作し、対象に押しかぶせてしまうという「彼我混濁」にかけて、羽入(というよりも現代の若者一般)と共通の幼弱性を帯びています。

 さて、N記者は、田中知事が予定どおり三時には車座集会を終えていたら、そのあと取材をしたのでしょうが、集会では総選挙の話にならなかったし、時間が延びたというので、「泊まり勤務」のため五時には支局に帰ろうとし、じっさいに帰ってしまいました。そして、あとになってから、取材に出掛けたのに取材をせずに帰ってきたことを総局長に咎められはしないかとおそれて、あたかも取材をしたかのように答えてしまい、そのあとでは「つじつまを合わせる」ために会見談の創作にまでのめり込んでしまったようです。つまり、「事実どうあるか」よりも「他人からどう見られるか」を優先させて、ものごとの理非曲直と軽重を判別できないまま、ずるずると破局に陥っています。

 長野の総局長も総局長で、N記者のそうした幼弱さを見抜いて、厳しく訓練し、記事をチェックすべきところを、いっさいチェックをしていないばかりか、むしろ「東京の話だからね」と軽く扱うように指示しているとも解せる対応をとっています。支局での現場取材をとおして若い記者のザッハリヒカイトを鍛えるべき支局長として、そうした教育義務を放棄し、「与えられた範囲内で適当に仕事をしていればいい」という「官僚制組織の官僚主義的セクショナリズム」に陥っており、若い記者にもそうなることを勧めているのも同然です。これでは、若い記者が、日頃のルーティン・ワークの範囲内でことをすませ、余分な負担には「適当にメールを送っておけばなんとかなろう」くらいに受け止め、後手にまわってから言い繕いに終始する、としても、いたしかたありますまい。

 このように類例比較をとおして考えてきますと、問題はけっしてN記者ひとりの、あるいは長野総局長ひとりの特例とは思えません。むしろ、職業倫理としてザッハリヒカイトが要請される職業現場で、年輩の指導者も若い後進も、しかるべき責任を果たさず、「たがが緩んできた」風潮の、ジャーナリズムにおける露呈、「氷山の一角」として、その裾野の広がりと構造的背景に思いをいたさざるをえません。そうしますと、大学教育とくに一般教育で、「他人からどう見られ、どういわれ」ても、「事実どうあるか」を優先させるザッハリヒカイトの教育訓練がおこなわれず、教師が教育責任を放棄している現状が、とりわけ若い後進の養成過程の問題として浮かび上がってきます。

 ジャーナリズムもアカデミズムも当分、いつなんどき「羽入事件」や「N記者事件」の類例が再発しても奇怪しくはなく、むしろ再発の隠蔽が憂慮される状況にある、といわざるをえません。そうした再発や隠蔽を防止するには、お互い晴朗闊達な相互批判/相互検証の気風を喚起し、身分的二重構造を取り払い、公正な評価システムを構築/実践し、つねに失敗から教訓を学びとり、是正していく以外にはありますまい。

 貴兄には、当事者としてとうに気がついておられることを、こと改めて押しつけがましく述べ立てたようで、恐縮です。ただ、ことが、広い範囲におよぶ現代日本の思想・学問風土と現代大衆教育社会の構造に根ざす深刻な問題であることを思い、再発防止の献策になにほどかお役に立とうかとも考え、率直にしたためました。『朝日』の当該記事には、「ご意見・ご提言をお寄せ下さい」とありますが、五〇〇字以内ということで、とうてい述べ尽くせません。貴兄宛てお送りして、ご一考いただくと同時に、小生にはこの問題が貴社だけの問題とはとうてい思えませんので、この論稿をホームページに発表させていただこうと思います。よろしくご了承ください。

 では、なお残暑の砌、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

敬具

二〇〇五年九月一五日

折原 浩