記録と随想41――反公害-反原発運動における労学連携をめぐる一問題――筒井哲郎著(若木高善解題)『一無教会キリスト者の歩み』2022、緑風出版)を若木氏から恵贈され、小生関連の批判に応答20221231日記、2023113日、僅かに補訂して収録)

 

若木髙善様

拝復

先日は、筒井哲郎氏著『一無教会キリスト者の歩み』をお送りいただき、有り難うございました。

筒井氏とは、1970年代に、西村先生(書中では「田辺」)のご紹介もあり、ある技術者の集まりで、お目にかかったことがあります。それ以後だったと思いますが、氏が、KK千代田化工の一社員として、(自動車ガソリンのオクタン値を高めるアンチ・ノック剤)四エチル鉛の合成工程の設計を担当なさり、その工程が労災と鉛公害の発生源になりかねないと察知され、KKエチル化学労組の第一組合員と連携して、新設工場の操業開始前に廃業に追い込まれた、という事実を知り、たいへん感銘を受けました。そして、現場の労働者と現場の技術者との「責任倫理」的連帯のモデル・ケースとして、概念―理論構成し、広く伝えていきたいと考えた次第です。

ところが、小生は当初、筒井氏のそういう直接の関与は知らずに、山口県新南陽市にあるKKエチル化学の若い高卒の労組員が、東京・牛込柳町の谷間で、自動車の廃ガスによる鉛公害が発生したと知るや、早速、現地調査に出かけてきて、自分たちがこれから担おうとしている労働の是非を問い返し、会社に製造品目の変更を申し入れて対立し、(親会社・東洋ソーダへの再雇用を拒まれるという形で)事実上解雇された、というニュースのほうから、この問題にアプローチし、「エチル化学労組を支援する会・東京連絡会」を結成して、連絡をとり、支援を開始しました。エチル化学労組としては、「四エチル鉛の合成工程および廃ガスの危険について『技術の専門家』から助言は受けた」と抽象的には語っていましたが、当然、それ以上具体的には明かさなかったわけです。

小生としましては、むしろ一社会科学者として、日本の労働組合、たとえば「合化労連」の指導部が、「自分たちの労働によって何を造るか、つまり労働の内容と質は、資本家が決めることで、自分たちの責任ではない」、「自分たちには、はっきり言って、自分たちの労働をいくらで売るか、だけが問題だ」と語り、いうなれば「産業奴隷の待遇改善運動」に堕し、自分たちが担っている「労働の意味は問わず」「責任倫理」をわきまえない現状こそ、大問題で、この件を突破口に、労働災害や公害や原発事故の発生源が、現場の当事者によってそのように放任されている事態の深刻さを訴えるとともに、その現状を乗り越える方途として、(現場の生産工程の技術的諸問題をめぐっては、少なくとも現状では、所定の「処置指令」にしたがうほかはない)労働者と(生産工程の技術的原理に精通していて、修理や改廃にかんする合理的「処置指令」自体を発することができる)技術者との新たな「労学連携」を構想し、現実に発生したこの運動を一範例として、具体的に訴え、具体的に広めようとしたのです。

ところが、これにたいして、筒井氏からは、(小生にとっては、やや速断と思える)抗議を受けました。「自分は、企業という市民社会のなかで、契約にしたがい、その枠内でも最大限、責任をもって闘っている。ところが、小生(と、おそらく西村氏)は、『教えることが、なにか高次の仕事』と勘違いしており、自分の職を賭けた匿名の荷担が、そういう『教育』の『教材』に利用され、明るみに出て、自分が失職の危険にさらされるのは不本意」という趣旨でした。西村先生からも、筒井氏側に立って善処を要望されました。そこで、小生も、もっともと思い、(当初から当該の技術者名は知らず、匿名で通していたのですが、さらに)製品名・四エチル鉛は出さず、筒井氏の助言にしたがって塩素系農薬デルドリンに代えたり、発覚の防止には細心の注意を払いました。

ただし、小生は、「学問の自由」「大学の自治」によってある程度守られているとはいえ、自分が正しいと信ずる見解を度々教授会で公言し、かりに懲戒解雇処分を受けても、人事院や裁判所に提訴して争い、そういう公開論争自体を、第二次東大闘争への突破口ないし発展契機として活かそうと志し、戦略ともしていました。そこのところを、筒井氏からは、「教員一般の驕り」として捉えられたらしいことは、正直のところ、違和感を禁じえませんでした。とはいえ、もとより、筒井氏流の関与そのものは、きわめて貴重と評価しこそすれ、いささかも貶価したわけではありません。

 

その他、矢内原先生が、東京帝国大学の「植民政策論」講座を担当し続けられたこと、その学説自体と、「権威主義」的スタンスの問題性、また、西村先生が、大学卒業後、火薬技師となって旧満州に赴任された事情など、問われるべくして問われてこなかった問題点も、よくぞ提起されている、と思います。

ただ、筒井氏自身は、もともと文才に恵まれ、文章をお書きになるのがお好きで、ご親族のことや、イラク派遣のことなども、発表しておられます。しかし、しばしば内容上の焦点がぼけ、なぜ、こんな細部にまでつき合わされなければならないのか、と戸惑いを禁じえないところもあります。

 

以上、筒井著ご恵送への御礼をかね、二三批判的な感想もお伝えしました。しかし、なんといいましても、無教会キリスト者は、近代-現代日本で、個人として誠実に、「流れに抗して生きよう」というエートスを持ち合わせている、おそらくはほとんど唯一の誓約集団です。その遺産を引き継ごうとする後輩(「先になるべき後なるもの」)が次々に現れるのも、その証左といえましょう。

 

それでは、どうぞご自愛のうえ、よいお年をお迎えください。

敬具

 

20221231

   折原 浩