即興の文化比較シリーズ、2007年秋、ベトナムの旅から

 

 

ベトナム20071120日~12月1日――戦争を経た現状  ナレーション原稿

[  ]内は編集上採用していない箇所

 

2007年の秋、1120日から121日にかけて、ベトナムを訪ねました。

ベトナムは、インドシナ半島のラオス、カンボジアに寄り添うように横たわり、面積は、日本の9割弱、人口は、約8300万人、その7割が仏教徒、1割がカトリック教徒です。

 

旅のコースは、成田から一挙に、南部・常夏のホーチミン市(旧サイゴン)に飛び、それから中部のダナン、ホイアン、フエを経て、北部のハノイにいたる、というものです。

ホーチミンでは、市内のほか、西北のタイニン市、ホーチミン市郊外のク・チ、南に下って、メコン・デルタも訪ねました。

それから、国内便で中部ダナンに飛び、ホイアンとミーソン遺跡を訪ね、ハイヴァン峠を越えて、古都フエに入りました。旧王宮を中心に見学した後、また国内便でハノイに飛び、景勝地ハロン湾を観光して、最後にハノイ市内を見てまわりました。

 

ベトナム戦争から30年を経て、市場経済を取り入れた改革開放政策・ドイモイを進めているベトナムの現状について、詳しいことは分かりません。それでも、10日あまりの旅の印象は、とても新鮮でした。

 

ホーチミン市

[ベトナム戦争終結までは、サイゴンと呼ばれていました。人口約600万、ベトナム最大の都市です。北のハノイが、政治と文化の要とすれば、このホーチミンは、商業の中心です。ドイモイを軸に、経済発展を進め、活気にあふれています。]  タンソンニャット空港から市の中心部に向かっています。

 

ベンタイン市場

 一番賑やかなベンタイン市場です。衣料品、雑貨、熱帯の果物、魚介類と、商品は豊富で、熱気がみなぎっています。

 

統一会堂

 旧南ベトナム政府の大統領が住んでいました。1975430日、解放軍の戦車が、この正面の通りを進んできて、無血入城を果たし、ベトナム戦争は終結しました。

 

ヴィンギエム寺 

[第二次世界大戦で戦死した日本人と、ベトナム戦争で犠牲になったベトナム人を慰霊するために建てられた、ホーチミン市最大の仏教寺院です。境内にある鐘楼の「平和の鐘」は、日本の曹洞宗の寺から寄贈されたそうです。]

 

サイゴン大教会 

19世紀末に建てられた、2本の尖塔をもつ、赤レンガ造りのカトリック教会です。]

 

中央郵便局 

[フランス統治時代の代表的建造物です。内部は、ドーム型の天井で広々としており、中央の壁には、大きなホーチミンの写真が掲げられています。]

 

歴史博物館

[入り口を入ると、真っ先にホーチミン像が目につきます。ここには、ベトナムの歴史と、とくに南部の文化遺産のほか、アジア各国の仏像も展示されています。またベトナムには、50以上の少数民族がいるようで、彼らの衣装や暮らしも紹介されています。]

 

戦争証跡博物館

[ベトナム戦争で実際に使われていた戦車や大砲、爆弾などの戦争遺物や、世界各国のカメラマンが撮影した写真が展示されています。ピュリッツアー賞を受賞した沢田教一氏の「安全への逃避」や、石川文洋氏の写真もあり、当時を思い出させます。戦争の凄惨さを伝えるパネルや、枯葉剤による被害状況の記録、ホルマリン漬けの奇形胎児などは、目を覆いたくなります。]

 

タイニン

 タイニン(西寧)省の省都タイニンに入ります。

ここは、ベトナム戦争当時、米軍が大量の枯葉剤を撒き、「森が消える」ほどひどく痛めつけられた地域です。新宗教「カオダイ(高台)教」総本山の所在地でもあります。

「カオダイ教」は、1926年にゴ・ミン・チュウによって創始されました。おそらくは大乗仏教の「菩薩」思想をベースに、「世界諸宗教」の折衷・融合をくわだてています。最高神カオダイが、「衆生済度」のため、老子、孔子、釈尊、モーセ、イエス、ムハンマド、はては李白、孫文、ヴィクトル・ユゴーらに化身して現れた、と説きます。

ベトナムでは、もうひとつの新宗教「ホアハオ教」とともに、仏教、カトリックに次ぐ勢力をもち、南部を中心に、約200万人の信者がいる、ともいわれています。

 

こういう、約1時間かかる礼拝を、朝、正午、夕方、夜半と、1日に4回も繰り返すのだそうです。あるいは、枯葉剤の後遺症に苦しむ人々が、このようにして「ハレ」の時間を共有するのでなければ、日常生活に耐えていけないのかもしれません。さすが、働きにいく若い人たちは、礼拝には出ないそうです。

 

ク・チ

  ホーチミン市郊外ク・チに向かっています。このあたり一帯のゴム林は、戦争当時、南ベトナム解放民族戦線(通称ベトコン)の兵士が逃げ込むために、焼き払われ、その後植樹されましたが、まだ大きくは育っていません。

 

ベトコンの地下基地

ここには、戦争当時、ベトコンの地下基地がありました。人ひとり中腰でやっと通れるような狭いトンネルです。背が高く重装備の米兵が入るのは容易ではありませんが、細身で小柄なベトコンの兵士は、身軽に動き回ることができたにちがいありません。

[手掘りのトンネルは、全長250キロにもおよび、3m、6m、8mの三層構造の内部に、司令官室や会議室などもありました。爆弾や枯葉剤を投下され、地下にもぐらざるをえなかったのでしょう。過酷なゲリラ戦を戦い抜いた地なのだ、と感じるばかりです。]

 

射撃場

  打たせてもらっているのは、ほとんど欧米からの観光客です。[一発1ドルで、パーンという乾いた音があたりに響きます。銃声など聞きたくないでしょうに、ベトナム人のたくましさというよりほかありません。]

 

サイゴン川・ディナーショウ

 昼間は、水の汚れが目立つサイゴン川ですが、夕方には、涼しい風が吹き抜けます。

日本人客と見ると、日本の歌曲を演奏してくれます。

 

メコン・デルタ

 ホーチミン市から南に、メコン・デルタに向かっています。街道沿いに、新興住宅の高層マンションが見えます。一戸建ての住宅群では、建築業者が途中まで建てて、内装、外装は、買った人が自分でやるのだそうです。

 

 ミトー市 

  メコン・デルタの入り口、ミトー市のレストランです。

 エレファントフィシュのから揚げです。このあたりの名物料理ライス・ボール。米の粉を油で揚げて、甘く味をつけています。

  船でメコン川に出ます。

 

メコン川

  6月の雨期から水量が増し、10月初めに川幅がもっとも広くなるそうです。いまは11月末ですが、茶色に濁った水は、いかにもゆったりと流れ、「母なるメコン川」です。

中州のタイソン島に上陸しました。熱帯の樹木が生い茂っています。休憩所で、果物を食べながら、歓迎を受けます。

 

  ジャングル・クルーズとはいっても、観光ボートの間を縫って、進みます。本流に出ると、ボートではこわいのですが、すぐちかくに、帰りの船が迎えにきていました。

 

   船着場前の広場に、チャン・フン・ダオの銅像があります。かれは、13世紀に元の襲来を三度にわたって撃退した英雄で、ホーチミン市内ほか、各地に銅像が立っています。

[チャン・フン・ダオ(別名チャン・クォック・トアン、12291300) ホーチミン市のメリン広場に銅像があります。]

 

中部ダナン

6時発の飛行機に乗るため3時半モーニングコール。国営ベトナム航空の官僚主義かと思いましたが、じつは、日の出とともに仕事を始める習慣が残っているのだそうです。

ダナンは、天然の港に恵まれ、ホーチミン、ハノイに次ぐベトナム第三の都市です。ベトナム戦争中には、米軍がここに、最大の基地を構えました。

 

ダナン大聖堂

[フランス統治時代に建てられたカトリック教会で、ピンクの外観が映えます。特別に内部も見せてもらえました。]

 

五行山

標高100メートルほどの連山で、大理石でできているのだそうです。麓には、大理石加工工場が並んでいます。大規模の工場もあり、奥では輸出用の梱包作業をしています。

 

ホイアン

ホイアンは、ダナンの南東約30キロ、古くからの貿易中継都市です。2世紀から15世にかけては、チャム族のチャンパ王国が栄え、聖域としてミーソン遺跡を残しました。ホテル・レストランの軒先にも、ちょうちんが見えます。

 

古い町並み

 この古い街並みとミーソン遺跡が、1999年、ユネスコ世界遺産に登録されました。世界遺産登録に貢献して、ベトナムで死んだ、ポーランド人建築家、クウィアトコウスキの像です。

[手押し車に大きな木材が積まれ、運ばれていきますが、この地域の高地から取れる名産品、白檀か伽羅の香木でしょう。その昔、朱印船で日本にも入ってきたと思われます。] 家の軒先にも守り神の祭壇が見えます。

 

福建会館

[華僑の同郷人集会所で,現在も使われています。外観も内装も中国風の派手な色使いですが、救貧者に食事を出す大テーブルや救難用の米俵の山を見ますと、異郷の地にある華僑の人たちの団結力が窺えます。奥には、現世ご利益を願う祭壇があります。]

 

日本橋 (来遠橋) 

167世紀、日本の商人が、朱印船でこの地にやって来て、日本人町も造られました。最盛期には、1000人以上が住み、[日本人町と中国人町をつなぐ]この[木造の屋根付き]橋も、[日本人によって]16世紀末に架けられましたが、その後、江戸幕府の鎖国政策で、日本人町も廃れました。

 

チャンフー通り77番の家

[みごとな木造建築です。京都の町屋のように、奥に長細い造りです。中庭を通り抜けた台所では、三人の若い女性がテーブルを囲み、小さな餃子風のホワイト・ロウズを器用な手つきで作っていました。]

 

ミーソン遺跡

この地域のチャム族が、2世紀にチャンパ王国を興しました。王をヒンドゥー教のシヴァ神と重ね合わせ、4世紀後半から、ここを聖域として神殿を建て始めます。はじめは木造でしたが、7世紀にはレンガを使い、現在は、8世紀から13世紀までに建てられた遺構が残されています。壁面には、チャンパの女神像などがあります。

ベトナム戦争中、ベトコンが逃げ込んで、米軍の爆撃を受け、現在、修復が続けられています。

 

ダナン市のチャム彫刻博物館

ミーソン遺跡の調査、研究には、フランス人考古学者の功績が大きく、1910年代には、この博物館の基礎が築かれたそうです。ここには、チャム族の習俗に関する資料のほか、ミーソン遺跡から出土した神々の石像や、リンガなどが、展示されています。

ヒンドゥー教は、インド古来のバラモン教が、異端としての仏教、ジャイナ教、あるいは外来のイスラム教に対抗して、民間信仰の要素を取り入れ、インド民衆に根を下ろした正統の宗派です。そういう融合のさい、民間信仰の女神が取り入れられて、シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマーといった神々の妻になりました。これは、シヴァ神の妻ラクシュミーの石像です。

チャム族の宗教は、そのようにヒンドゥー教の影響を強く受けましたが、石像には、目や厚い唇などに、チャンパ独自の造形が見られます。

 

ベトナムの歴史は、インドシナ半島の国家形成という視点で見ると、「北属南進」で、中国の圧力を受けながら、南方へ拡張していったと言えましょう。

チャンパ王国は、古くは中国、ジャワから侵攻され、11世紀以降は北部ベトナムやクメール帝国の圧力を受けましたが、 15世紀(1471年)ついにベトナムに敗北し、国土を失いました。南に逃れた支配階層も18世紀には完全に滅び、現在チャム族は、ベトナム国内の少数民族のひとつとして、農業、手工業などで暮らしています。

  ベトナムはこのように、チャンパ王国とラオスも破り、15世紀から「南進」を始め、17世紀には、本格的に南部を支配します。]

 

ハイヴァン峠

ダナンからフエに向かって、標高約500メートルの峠を越えます。[ここは、15世紀までチャンパ王国とベトナムの国境でした。] ガスがかかって見えにくいのですが、眼下には、美しい海岸線と南シナ海が広がっています。ところどころに、土砂崩れが見られます。

 頂上に見えるのは 、20世紀初めフランス軍によって造られた古い砦です。第二次世界大戦時には、日本軍が、ベトナム戦争中は、南のサイゴン政府軍も使ったそうです。

2005年、日本の支援によるトンネルが開通して、峠に登ってくる人たちが少なくなったせいでしょうか、みやげ物を売ろうとする女の子たちに取り囲まれます。

 

ランコー村

峠を下って、ランコー村に立ち寄ります。

ヤシの葉の揺れる、真っ白な砂浜のリゾート地です。23日前台風が来たため、波が高く、木切れが打ち寄せられています。ちょっとひと休みした後、フエに向かいます。

 

中部古都フエ

フエは、ベトナム最後の王朝、グエン朝(18021945)の都が置かれた町です。

フォン川を下ります。この大きな橋は、ベトナム戦争で破壊され、修復はされましたが、バイクと歩行者しか通行できません。

この観光船ですが、亭主が操舵手をつとめ、奥さんと娘さんは船内でみやげ物を売っています。船の中にも仏壇があります。

小舟が群れをなして、何かやっています。足漕ぎの道具を使って、川底の土砂を掘り揚げ、売っているのです。ここが土砂の取引所です。このような仕事は、公共事業かと思うのですが、家族経営なのだそうです。

 

ティエンムー寺

波止場に上陸しました。これは、フエのシンボルともいえるティエンムー寺の塔です。

ティエンムー寺は、大きな境内の格式ある寺院です。ベトナム戦争当時、反政府運動の拠点にもなりました。この寺の住職が、1963年政府の仏教弾圧に抗議して、焼身自殺を遂げました。そのときサイゴンまで乗っていった車です。境内の奥には、お墓があります。

子供の僧が勉強に励んでいます。現在は、親のいない子供たちのようですが、戦争当時は、子供を僧侶にする親が多かったそうです。

 

フエ大教会です。

ヨーロッパの様式とベトナムの伝統的な建て方を取り入れた斬新な建物です。あたりが、閑散としていますが、この教会の神父が、「財産は、国家のものではなく、神から与えられた個々人の絶対的な権利」などと、ことさらに説いて、当局ににらまれ、現在拘留中なのだそうです。わたくし達のバスのドライバーも、「この辺りは、私服がいて危ない」と車から降りてきません。

 

グエン朝(18021945王宮

ベトナムの18世紀は動乱の時代でしたが、1802年グエン一族が統一を果たし、フエに王宮を構えます。その際初代嘉隆帝(ジャロン帝、在位180219)は、フランスの援助に頼りました。

1820年に即位した第2代明命帝(ミンマン帝、182041)は、儒学を修め、西欧諸国の脅威を感じ始めて、キリスト教を禁止し、鎖国政策をとります。第4代の嗣徳帝(トゥドゥック帝、184783)も、宣教師を弾圧して強硬策をとり、1858年には、フランス、スペイン連合軍の武力攻撃を受け、ダナンを占領されます。翌年にはサイゴンも占領されます。そのように次第に屈伏し、1880年代の半ばには、実質上植民地となりました。

 

[そのようななか、第8代威宜帝(ハムギ帝、18841885)は、反仏決起して失敗、逮捕され、アルジェリアに流刑されました。また、第11代維新帝(ズイタン帝、19071916)も、第一次世界大戦でフランスに送るベトナム人義勇軍を募った際に、反乱を図ったとの疑惑を受け、逮捕、流刑されます。]

 

このように、フランスに抵抗する皇帝や闘争を担った重臣がいる一方、第12代啓定帝(カイディン帝、191625)は、奢侈にふけり、財政が逼迫して、国民の信頼を失いました。

ベトナム戦争中、爆撃を受けた建物が多く、ユネスコからの基金で修復中です。

 

フエの名門校、クォック・ホックです。

フランス植民地時代に、リセに倣ってつくられた9年制高等学校でしょう。ホーチミンも一時ここで学んだそうです。[昔は男子校でしたが、いまは共学です。]

 

古都フエの宮廷人の衣装と宮廷料理

古都フエの、仮装晩餐会です。最年長のご夫婦が、皇帝と妃に扮し、あと、下々も雅な宮廷びとになって、宮廷料理を賞味します。野菜で作った鳥や花の飾りが華やかです。ベトナムの料理はどれも、わたくしたちの口に合いますが、宮廷料理はとくに、繊細につくられているようでした。

 

北部首都ハノイ

ハノイのノイバイ空港です。朝8時発の国内便でフエを発ち、1時間10分でここに着きました。4日ぶりの青空です。市の中心部に向かっていますが、郊外の工業団地には、日本企業の建物が目につきます。

ハノイは、人口約300万、ベトナムの首府で、政治、文化の中心です。11世紀から19世紀にかけて、いくつかの王朝がここを都としました。ハノイ城一帯には、現在、軍関係の施設があり、殆ど入れませんが、発掘調査が進められ、少しずつ公開されています。

李朝時代(10091225)に開かれた旧市街や、19世紀のフランス風の街並みが、ベトナム戦争の戦禍をまぬがれて、面影をとどめています。

 

ホアンキエム湖

市街の中心に広がるホアンキエム湖です。

ベトナムは、西暦紀元前から中国に直接支配されてきましたが、10世紀[939年]に、ようやく独立します。その後、13世紀には、チャン・フン・ダオ (12991300)が、元の襲来を撃退しますが、14世紀には、また明の支配を受けました。

それに抗して、1418年、後にレ朝 (14281789) を開くレ・ロイ (13851433, 在位  14281432) が、湖の亀から剣を授かり、戦勝の後、剣を湖に返しました。ホアンキエムとは、「剣を返す」という意味です。湖のなかほどには、亀の塔がみえます。

 

玉山神社

ホアンキエム湖に浮かぶ祠です。13世紀に元を三度にわたって撃退した、チャン・フン・ダオと、文、武、医の三聖人が祀られています。体長2メートルの大亀の剥製です。1968年この湖で捕まえられ、伝説の亀ではないかと話題になりました。

玉山神社の向かい側に、文,武、医の三聖人の銅像があります。

 

文廟

李朝時代の1070年に[孔子を祀るために] 建てられた廟で[孔子廟とも呼ばれていま]す。1076年には、ここに官吏養成を目指す最初の大学が開かれ、[大勢の学者や政治指導者を輩出し]ました。[全部違う顔をした亀の上に82の石碑が置かれ、15世紀以降の科挙試験合格者1308人の名前が刻まれています。]

この文廟を見ますと、中国の文化、制度を、長期間にわたり、好んで受け入れてきた一面が窺えます。

 

ハノイ大聖堂

1886年、仏教寺院跡地に建てられたそうです。英語の通じない観光タクシーのドライバーには、名所として認知されていないようで、あちこち連れまわされました。やっとたどり着きましたが、中には入れませんでした。]

 

軍事博物館

[広い軍施設の隣にあるこの博物館は、定期休館日のため、衛兵のような館員に入館を断られました。1954年のフランスとのディエンビエンフーの戦いの記録など見たいと思っていたのですが。]

 

レーニン像 

今では珍しいレーニン像です。しかし、彼の新経済政策・ネップは、ドイモイの先駆けです。

 

美術博物館

  かつてフランス政府の諜報機関があった建物です。[博物館の一画に少数民族の近代美術コーナーがありましたが、展示品の半数ちかくは、自分たちの経験した戦争の悲劇がテーマとなっていました。]

 

ホアロー収容所

  19世紀末フランス政府によって造られた監獄です。ベトナム戦争当時は、米軍捕虜を収容し、米兵の間では「ハノイ・ヒルトン」と呼ばれていました。

[館内には、独房・集団房の内部,拷問の道具やその様子を描いたレリーフ、ギロチン台、収容者の持ち物など展示され、フランスからの独立運動に立ち上がった人たちへの厳しい弾圧に胸がつまります。

1993年、収容所は閉鎖、半分以上が取り壊され、その後ハノイ・タワーズという高層ビルが建てられました。一部が保存され公開されています。]

 

市劇場・オペラハウス

 [フランス統治時代に、パリのオペラ・ガルニエを模して建造されました。真っ白な華麗な建物は目を見張るばかりです。現在も、オペラやコンサート、演劇などが上演されます。]

 

革命博物館

  [入り口前には、123人の高校生が見学に訪れていました。昔は税務署だったそうで、部屋が細かに仕切られています。]

 

ベトナムは、1880年代には、フランスの植民地とされます。フランスは、地方の地主・支配階級を取り込んで、分断支配します。不平等関税を課して搾取し、モノカルチャーを強い、生活の疲弊をもたらしました。

それに抗して、ファン・ボイ・チャウ(18671940)は、1904年、植民地支配からの独立には人材育成が必要と、ベトナム青年の日本留学運動を起こします。1907年には、ハノイに「東京義塾」を創設しますが、直ちに、フランスにより閉鎖されます。

一方フランスも、インドシナ大学を各地に設立、植民地支配に忠実な行政官の現地養成と、フランス文化への同調者の育成を図りましたが、同時に、世界情勢を知る批判的知識人をも生み出すことになります。

 

ホーチミン18901969)は、ベトナム中部のゲアン省に生まれました。父親は、科挙試験に合格し、郡長に任命された地方官吏でしたが、反フランスの言動により解任され、寺子屋の教師、代書屋といった官職に就けない、科挙合格者の職業を転々としていたようです。

同郷のファン・ボイ・チャウが訪ねてきて、息子を日本に留学させるように勧めましたが、父親はフランスに関心があり、チャウの勧めを断って、息子をフエのクォック・ホック校に入学させました。

ホーチミンは、20才の時、独立運動を決意して、クォック・ホック校を退学し、フランス船のコック見習いとなって、フランスに渡ります。

1930年には、ベトナム共産党を結成し、ベトナムの独立運動を指導します。第二次大戦後は、対仏インドシナ戦争に勝利し、1969年に死去しますが、1975年のベトナム戦争勝利、ベトナム社会主義共和国の建国に貢献しました。

 

ホーチミン廟

 [パルテノン神殿風の壮大な大理石廟で、広大なバーディン広場に面しています。この日は、特別な日ではないと思うのですが、大勢の人々で賑わい、民族衣装を着た団体が、注目を集めています。少数民族を優遇したホーチミンを今なお慕い、自分たちの業績を報告に来るのだそうです。

三人の衛兵が、廟の前を行進しています。この日は、なんらかの理由で内部の見学はできませんでした。ちなみに、この廟は1975年ベトナム戦争勝利の年に出来上がったそうです。]

 

大統領府

[クリーム色の見事な洋館ですが、ホーチミンは、ここに住もうとはしませんでした。1954年から亡くなる1969年まで、ここで執務を行いました。]

 

ホーチミンの家

 [廟の北側に、ホーチミンが住んでいた家がそのまま残されています。樹木に囲まれた木造高床式の住居で、1958年に建てられました。書斎や寝室には、簡素な家具が置かれ、ホーチミンの人柄を偲ばせます。]

 

ホーチミン博物館

 [ホーチミンの生誕100年を記念して1990年建てられました。旧ソ連などの援助によるもので、設計、内装もソ連の専門家が担当しました。生家の模型や手紙、所持品などが展示され、革命への歩みも解説されています。]

 

[一柱寺]

  [李朝第2代皇帝、李太宗(リ・タイ・トン、在位10281054)が、観音菩薩の夢を見て、子どもを授かり、それに感謝して、延祐寺内に建てた仏堂です。一本の石柱に支えられ、蓮の池に立つ姿には、愛らしさと気品が感じられます。]

 

空爆モニュメント 

 [街の中心部は、爆撃を免れたそうですが、ハノイ駅近くに子供を抱いた母親の空爆記念碑があります。周辺は現在賑やかな繁華街ですが、当時は大勢の人が爆撃に逃げまどったことでしょう。鎮魂の像は、静かな悲しみのうちに佇んでいます。]

 

タンロン水上人形劇

  [ホアンキエム湖のほとりに、人形劇専用の劇場があります。水面を舞台にして、伝統楽器の音色とともに、かわいい人形が動き回ります。農村の生活や民話を題材にした短篇が演じられますが、奥にいる人形師がどのように操つるのか不思議なほどです。ベトナム北部の農村の祭りから始まって以来、1000年を誇る伝統芸能です。]

 

ロンビエン橋 

[旧市街の北側、ホン河に架かるロンビエン橋は] ベトナム戦争時、補給路を絶つため、米軍により何度も爆撃され、そのたびに補修されました。当時報道されたのが、思い起こされます。

 

バッチャン陶磁器工場

ハノイ市街から、南東に、約10キロのバッチャン村です。大小100軒もの陶磁器の工房があり、村人の殆どが工房で働いています。店内は広く、二階から上が工程ごとの仕事場です。[大きな花瓶などもありますが、大半は、白地にブルーの柄の食器です。]

ここは、600年の歴史があり、16世紀頃には、日本にも輸出されていたそうです。[そのせいか、わたくし達が普段使っている食器に似た、懐かしい感じがします。]

 

障害者施設・ヒューマンセンター

[ベトナムには、戦争で障害の残った人や、不発弾や枯葉剤による障害者がまだ大勢います。そのような人たちの経済的自立を目指す施設です。はじめは、一人の女性が、刺繍を教える工房を開き、次第に、手工芸、家具造りなどに広げました。このような施設は、ほかにも、いくつかあるそうです。]

 

畑に散在する墓や祠

[ハロン湾に向かう街道沿いの畑には、墓や祠が散在しています。この風景は、南部や中部でも見られます。社会主義政権としては、墓や祠は撤去して、耕地整理・農業合理化を進めたいのでしょうが、そこまでできない実情を象徴しているようです。]

 

ハロン湾

[エメラルドの海面には、大小の岩がそそり立っています。昔、この地に、龍の親子が降り立ち、外敵を打ち破って、宝玉をふき出し、それが奇岩となったという伝説があります。岩のあいだを縫って船を進めていきますと、大きな鍾乳洞のある島もあります。]

 

                                (折原 慶子)

 

 

ベトナム2007の旅から――即興の比較文化史的考察

[ビデオ「ベトナム――戦争を経た現状、20071120日~121日」の末尾に、ナレーションとして収録]

 

さて、わたくしどもの旅も、残り少なくなりました。行く先々で、気配りの利いた歓迎を受け、たいへん楽しい旅でした。そのうえ、ベトナムと日本とを比較し、自分の欧米観について考えなおすヒントもえられました。

 

 ベトナムと日本には、よく似たところがあります。

双方とも、ユーラシア大陸の東の縁にある、長っ細い小国で、長らく、モンスーン気候-温帯気候に適した稲作を生業とし、自然の周期に合わせた生活規律と勤勉を培ってきました。

政治、文化の面でも、類似があります。両国とも、中国儒教の影響のもとに国制をととのえ、大乗仏教――つまり、中国で道教と癒着した北伝仏教――を受け入れ、十九世紀以降は、欧米列強の脅威にさらされて、独立のために苦労してきました。

ただ、ベトナムは、中国と地続きで、北から侵入されやすく、欧米列強にたいしても、相対的には近い位置にあり、外海に、長く平坦な海岸線をさらしていて、攻め込まれやすく、中国、欧米、双方の直接支配を被りました。それにたいして、日本は、海ひとつ隔てている、という地理的条件から、中国の直接支配は受けず、欧米列強にたいしても、大急ぎでその武器を学んで対抗し、欧米の植民地にはされずにきました。

なるほど、そのようにして取得した武器を、ベトナムも含む近隣アジア諸国にさし向け、米英仏ほか、欧米の連合国にたいしても無謀な戦争を仕掛ける、という誤りを犯しました。しかし、その点はしばらくおくとして、こうした観点からベトナムと日本とを比較してみますと、中国および欧米による支配をどの程度直接に被ってきたか、というところに、対照的な違いを見いだすことができましょう。ベトナムを旅行していますと、各地で、チャン・フン・ダオやホー・チ・ミンの銅像に出会います。しかし、日本で、北条時宗が「救国の英雄」として、ダオと同等に崇拝されるとは、ちょっと考えられませんし、ホーに相当する人物は、そもそもおりません。

 

では、この対照的な差異から、何を学べるでしょうか。

他国の支配が直接的でなかったということは、いいようでいて、他面、当の他国にたいする認識が、微温的になる、甘くなる、という問題もともないます。その点、直接支配の辛酸を嘗め、さればこそ尖鋭に闘って独立を達成したベトナムの歴史的経験は、貴重です。

 

わたくしどもは、戦後、欧米の「近代的人間-近代市民社会」を模範として日本社会の前近代性一般や軍国主義を批判する、「戦後近代主義」の影響を受けました。そこでは、欧米の「光と影」の「影」の部分には、十分に批判がおよんでいませんでした。戦後になってから軍国主義を批判して、自分の[消極的]戦争荷担[開戦前夜には批判を唱えず、ずるずる情勢にひきずられて戦争にのめり込んだ不甲斐なさ]を自他に「正当化」する、という盲点と欠陥をそなえていたと思います。

 

そういう「戦後近代主義」にたいする批判のきっかけは、ベトナム戦争反対運動と、これに連動していた196869年の全国学園闘争によって、与えられました。それ以降、わたくしは、「戦後近代主義」が、欧米近代を理想化するさい、その素材として利用していた、他ならぬマックス・ヴェーバーの比較文化史を、いま少し突っ込んで研究し、当のヴェーバーが、「近代資本主義の精神」ばかりか、その源をなした禁欲的プロテスタンティズム・カルヴィニズムそのものにも、「合理性」と裏腹の「非人間性」「反同胞性」を見て取っていた、という事実を突き止めました[「マックス・ウェーバーにおける『近代人』および『マージナル・マン・インテリゲンツィア』の問題」、1965、「マックス・ウェーバーと辺境革命の問題」、1965(両論文とも『危機における人間と学問』、1969、未来社、所収)、参照]。そして、そういう「影」の側面を、ヴェーバーを越える方向で、欧米の精神史そのものについて実証的に究明する、という課題を念頭におきながら、まずはその準備として、ヴェーバーのテクストを、歴史・社会科学の共有財産としてきちんと読めるように、基礎的な文献学的研究に専念しました。ようやくその目鼻がつき、時間の余裕も多少できましたので、[この間に学びえたかぎりの]ヴェーバーの比較文化史を背負いながら、選択的に各地を旅し、前回のアメリカにつづいて今回はベトナムを訪ね、双方から欧米文明の「影」について考えようというわけです。

 

一口に「欧米」といっても、ヨーロッパとアメリカとは、[ベトナムから見ますと]たいへん違って見えます。

なるほど、フランスも、フランス革命では「自由・平等・友愛」の理念を高らかに掲げましたが、その実現は国内ないしせいぜいヨーロッパに限定し、ベトナムでは平然と裏切ってきました。「対内道徳と対外道徳の二重性」を地で行く歴史でした。

しかし、そのフランスも、まさにベトナムを植民地として搾取するため、港湾や道路を開き、鉄道を敷設し、ヨーロッパ風の学校制度や文化施設を持ち込み、フランス風に街並みをととのえ、なかには遺跡の発掘に携わってベトナムの文化的伝統を蘇らせる考古学者もいました。

そうした成果が残され、植民者の意図からは離れて、いまやベトナム人自身によって日常的に活用されています。

 

ところが、「アメリカの遺産」となると、心してベトナム中を探しても、まったく見当たりません。破壊あるのみです。爆弾と枯葉剤による無差別の人間・動植物抹殺、遠慮会釈ない文化遺産の破壊、抹消……、「[神に捨てられた]『神の敵』にたいする蔑視と憎悪」というカルヴィニズムの悪しき遺産が、ここにも発現している、と見るほかはありません。

 

思えば、人類の文化史にアメリカが登場するのは、たった400年前です。

宴会の席に遅れてやって来た客は、末席に着くのが当然です。ところが、この客は、いきなり上座に着いて、我が物顔に振る舞おうとします。

なぜ、でしょうか。

「アメリカ合衆国」United States of Americaとは、じつは一面、United Dropouts from Traditional Countriesでもありましょう。つまり、ピューリタンを初め、「伝統ある諸国」からdrop outしてきた人々が、互いに契約を結び、ルールを決め、原住者と原住動物は銃砲で駆逐し、……そのようにして人工的に集合態をなしてきたのが、アメリカ合衆国です。

そこには、長年の風雪に耐えてきた共通の伝統という「諒解関係」の支えがありません [というよりも、稀薄です]。したがって、それだけ、自分たちで決めたルールを厳格に守り、ルール違反にはそれだけ厳しく対応していかざるをえません。

そこにはもとより、良い面もあります。しかし、自分たちだけでそうしている間はいいのですが、若い新参者にありがちな驕りと独善に囚われると、それだけを「自由と民主主義」と思い込み、他の異質な伝統や文化をそなえた国々に押し付けようとしがちです。そのうえ、不都合なら「正義の敵」「神の敵」とみなして [銃砲から原爆を経て枯葉剤にいたるまで、手段を選ばず] 殲滅しにかかる、というのでは、[放っておくと全人類を巻き添えにしかねない]「西欧文明の時代後れの鬼子」というほかはありません。

 

それでは、ベトナム自体についてはどうか、といいますと、これはやはり、第二次産業を補完し、健全な国民経済を発展させていってほしい、と願わずにはいられません。

とまれ、ベトナムの人々は、苦難の歴史を経て独立を勝ち取った誇りと喜びをもって、現にみられるようなエネルギーを、規律よく、いかんなく発揮し、この難題を解決していくにちがいありません。

200818

                                (折原 浩)

 

 

このビデオの制作にあたっては、次の文献を参照させていただきました。

 

 地球の歩き方  『ベトナム200708』、2007、ダイヤモンド社

  日本アセアンセンー『ベトナム2007』、2007、日本アセアンセンター

 古田元夫    『ベトナムの世界史――中華世界から東南アジア世界へ』、1995

東京大学出版会

 古田元夫    『歴史としてのベトナム戦争』、1991、大月書店

 松尾泰憲    『現代ベトナム入門――ドイモイが国を変えた』、2005、日中出版

 伊藤千尋    『観光コースでないベトナム――歴史・戦争・民族を知る旅』、1995

高文研

 小倉貞男    『物語 ヴェトナムの歴史――1憶人国家のダイナミズム』、1997

                            中公新書          

 司馬遼太郎   『人間の集団について――ベトナムから考える』、改版、1996

中公文庫

 

使用機器

 Sony HDR-HC1 (ただし、タイニン市篇は、露付きのため、DCR-PC100で代替)

  Sony VGC-RM91S1

 

編集用ソフト

Adobe Premiere Pro 2.0