市民運動と学問との狭間に生き抜いた人――舩橋晴俊君との交信より

[別項 恵贈著作 2014  Nr. 38への付記を、ここに移す]

 

舩橋晴俊様、恵子様、寛俊様

727日には、暑いところを、遠路お越しくださり、まことにありがとうございました。老夫婦、久しぶりに、にぎやかに語らい、楽しいひとときをすごすことができました。このたびはまた、寛俊さん撮影の写真をお送りくださり、ありがとうございます。夕焼けの海の写真も、素敵です。恵子さんのご労作は、いま、連れ合いが、拝読しております。

 さて、『原子力 総合年表』には、精読とまではいきませんが、ひととおり目を通させていただきました。このように大部で精細な年表を、多くの市民運動家と研究者の協力をえて、比較的短期間のうちに完成されたのは、ひとえに貴兄のリーダーシップとご努力の結晶と、賛嘆し、反原発をはじめとする今後の運動への寄与を思って、まことにご同慶に存じます。

ひとこと付言を許していただければ、このような資料を作成、活用して、市民運動を「論証的」に、それだけ着実に進めることは、小生にとっても長年の夢でした。小生自身には叶わなかった夢を、貴兄が、もっとずっと雄大なスケールで、実現してくださったことになります。

  といいますのも、我田引水になって恐縮ですが、小生、「60年安保闘争」期には、法政大学1953年館の北川隆吉研究室に詰めて、「民主主義を守る学者・研究者の会」(略称「民学研」) の事務局を手伝っていました。やがて、安保反対と強行採決抗議の運動が、いやおうなく「流れ解散」していく局面で、この盛り上がりの動因はなにか、この「政治の季節」に高揚した「生」と「思想」(情念)を、つぎの「学問の季節」の日常に引き継ぎ、展開していくにはどうすればよいか、--「政治の季節」から「学問の季節」へと単純に回帰するのではなく、「生と形式の弁証法」による螺旋状の発展をはかっていくには、どうすればよいか――、というようなことを、あれこれ考えて、修士論文の提出を一年繰り延べました。

そのあげく、はっきりと結論が出たわけではありませんが、ただ、「60年安保闘争」の高揚は、多分に戦争体験に根ざし、「平和と民主主義を守れ」という感性的希求に依存していて、それはそれで大切な動因にはちがいないけれども、そのままでは、世代交替につれて、戦争体験とともに風化、少なくとも減衰していくにちがいない、そこをなんとか思想的に定着させ、発展させていかなければならないが、それにはどうすればよいか、というふうに考えてはいました。

ところが、ちょうどそこに、196263年、池田勇人首相が、「大学が『革命戦士』の養成に利用されている。なんとかしなければならん」と明言して、「大学管理法」の制定に乗り出してきたのです。そこで小生、元島邦夫・見田宗介・石川晃弘君らとともに、その動きを「すわ」と受け止め、この機会を、たんに当面の政治闘争を有利に闘うだけではなく、将来の職業的実践を支える理念や指針を獲得するためにも、いわば「逆利用」しようとし、幅広く「大学論」関係の文献を集め、院生仲間で議論しました。

そういう取り組みの一環として、縦欄に、それまで文部省が出してはひっこめていた「大管法」の諸試案、中教審の所見、国大協の意見など、を書き出し、横欄には、大学人事にかんする文相拒否権の実質化、学長の権限強化(評議会の諮問機関化)、教授会構成の縮小 (正教授のみの教授会)、学生(の学外行動にも及ぶ)処分の厳正・強化、機動隊導入(も躊躇うべきではない)、といった問題項目を並べ、「年表風」の資料を作成して、広く大学・研究室や学会関係に提供しました。そういうふうに、「年表」に整理して、諸試案を比較しますと、発案・発表主体の違いにもかかわらず、狙いはほぼ同じであることが、一目瞭然でした。

ところで、「大管法」案そのものは、学界三長老 (中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳) の「とりなし」によって、国会上程を断念され、廃案となったのですが (大学関係者は、困ったことに、これを「闘争勝利」と総括し、安堵して「オールを休め」てしまいました) 、その狙いはやがて「国大協・自主規制路線」として貫徹されることになります。

さて、当時は、大学関係者も、「大管法」に反対は反対でした。しかし、その論拠としては、たとえば法学部長 (石井照久氏) が、「大学内の講座とは、家族のようなもので、そこに、家風に合わないよそ者が、強引に押し込まれたのでは、やっていけない」 と言明する始末でした。「通りのよい方便」として使ったのでしょうが、そうした大学観・講座観に、同じ学部に在籍する『日本社会の家族的構成』の著者が異論を唱えた、という話は、たえて聞きませんでした。こういう実情に直面しますと、「『学問の自由』と『大学の自治』とは、すでに大学内に実現している慣行であって、それをそのまま、外部の国家権力・文部省の介入から『守る』ことに尽きる」という図式には、にわかには賛成できません。むしろ、マックス・ヴェーバーのように、「自然科学系を起点とする大学の全般的な『官僚制』化が、領邦権力の介入とも、学部教授会内の家父長制的慣行とも癒着して、教員個々人を『大勢順応型』の『ビジネスマン』(academic careerist) に成型している、現に圧倒的なこの傾向に、いかに対抗するか」 というふうに問題を立て、学内問題についても、そのつど、現場で「社会学することSoziologieren」を実践し、そういう個々人どうしが、それぞれの経験を持ち寄り、全国的・(当時のドイツとしては) 汎領邦的な規模で「大学教員会議」を組織し、連帯して闘っていく、という(ヴェーバーの)大学理念と戦略に、共鳴することにならざるをえませんでした。

そういうわけで、小生のばあい、「60年安保闘争」の問題提起を引き継ぐ「6263年大管法闘争」の経験と思索が先行していたために、1964年の「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」でも、かれのそういう「実存と学問」の緊張関係には思いをいたさず、かれの学説を「学知」中心に集約し、他方、「ヴェーバーマルクス」「ヴェーバーパーソンズ」「ヴェーバードープシュ」などと、抽象的に博識を競う“academic arrogance[学者の尊大癖・学知の驕り]”には、違和感を覚えざるをえませんでした。

また、「68-69年東大闘争」では、全共闘の問題提起を、現場の問題として受け止める一方、「医療の帝国主義的再編打倒」「国大協・自主規制路線粉砕」「東大解体」「大学解体」「自己否定」「教育の帝国主義的再編阻止」「日帝打倒」などの抽象的スローガンに唱和するのではなく、争点となった医学部および文学部の処分問題について、教授側の甲説と学生側の乙説とを、情報源の偏りを制御しながら、「価値自由」に比較照合し、事実経過と理非曲直を明らかにして、教員にも、学生にも、議論を呼びかけました。こういうスタンスは、じつは、具体的経過を年表風に追う「論証的」アプローチだった、とも思うのです。

  しかし、これは反省点ですが、小生自身はその後、授業再開拒否によって同僚の教員とも、「ことが収まった」時点で「大学問題」特集を組みたいという、あまりにも当事者責任の自覚に欠けているように見えた社会学者・日本社会学会とも、「この人たちとは付き合えない」と潔癖に距離をとり、自然に疎遠となってきてしまいました。いまにして思えば、適当に付き合いながら、自説も捨てない、柔軟な対応もとれたはずなのですが、それだけの度量がありませんでした。そこは、大学闘争とその後の経過に、少し遅れてそれだけ批判的にアプローチできる、つぎの世代に、期待するほかはありませんでした。

  としますと、貴兄はいま、小生のそういう限界を乗り越えて、脱原発という人類史的課題につき、学会と市民運動とを網羅する連帯関係を創出し、「実存と学問」を連ねる市民運動への「論証的」寄与という小生長年の夢を、見事に実現してくださっていることになります。この関連と、それゆえの感激をお伝えしたくて、少々過去に遡り、お時間をとってしまい、恐縮です。どうか、小生の微意もお汲み取りくださり、いっそうのご活躍を、と祈念いたします。

  また、お暇の節には、どうか恵子さんと寛俊君ともごいっしょに、お出かけください。なお猛暑がつづきそうです。どうかくれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。早々。201481日。折原 ]

 

[折原 浩 先生

このたびは、大変ていねいなご感想と、それに関連しての折原先生自身の取り組みの歴史をおしえていただき、まことにありがとうございました。

1960年代の前半というと、私自身は、中学と高校時代にあたり、大学をめぐる攻防については、当時、まったく気づいていませんでしたが、今回の御説明により、大学をめぐる動きの連続性について、理解を深めることができました。

このたび、『原子力総合年表』の取り組みに過分な評価をしていただきましたが、この書籍は、福島原発震災に直面して、年表作成という企画に共鳴し、結集した人たちの協働の成果であり、私はもっぱら、呼びかけをして、担当者の空白がないようにと、担当者を掘り起こすことに注力しておりました。

  震災の直後に、「何かしなければならない」と感じた非常に多数の人たちの中に、「年表をつくることによって、歴史の批判的解明をしよう」と考えていた人たちが何人もいて、その思いが『総合年表』に結実したものと考えています。このたび、「学問と実存」とを連ねる市民運動への「論証的」寄与というお言葉をいただきましたが、このご指摘は、自分のやっていることの意味の把握にたいへん示唆的です。

  以前より、「実証を通しての理論形成」「研究を通しての実践的貢献」ということを考えてきましたが、最近は、「学問」が「人間的自覚に結びつくこと」の大切さについて、考えていました。(同時に、「学問が人間的自覚に結びつかないこと」も頻繁に見られることについても、考えていました)。

82日から北海道にでかけ、幌延を中心とした高レベル放射性廃棄物問題に取り組む住民の方々との交流の機会(講演、および、意見交換会)があり、帰宅が今夕になりました。

そんなわけで、ご返信が遅れ、たいへん失礼しました。

講演の際に使用したパワポをご参考までに、添付致します。

  引き続き、いろいろな形で、「研究を通しての実践的貢献」を目指してまいりますので、また、ご教示頂く機会があれば、幸いと存じます。

奥様とともに良い夏をすごされることをお祈り申し上げます。

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舩橋晴俊

[舩橋君との最後の交信であった。合掌]