『ゆっくりとラジカルに――内田雄造追悼文集』のこと

 

去る211日、東京市ヶ谷のアルカディア私学会館で、「内田雄造さんを偲ぶ会」が、(当日、「内田雄造さんを語る会」と名を改めて)開かれました。

内田雄造君は、昨年126日に突然、急性心筋梗塞で他界されました。享年68歳。筆者は、1969年秋に、東大裁判闘争の特別弁護人(職業的弁護士ではない法廷弁護人)を引き受け、被告団会議で出会って (その経緯については、追悼文集に寄稿) 以来、長い付き合いでした。

内田君は、1968-69年の東大闘争当時、工学部建築学科の院生で、共闘会議を結成。69118-19日には、安田講堂に立て籠もって闘い、みずからの学問のあり方をラジカルに問い返しました。その結果、公判廷でも(「被告人質問」への回答として)宣言した決意にしたがい、翌704月、東洋大学工学部に就職。以後、大学内にありながらも、専門性を活かしつつ「住民の立場に立つまちづくり・都市計画」にかかわり、闘いの現場で多くの弟子を育て、初志を貫徹されました。

「語る会」当日には、そういう内田君の誠実で精力的な活動にふさわしく、300人近くが参集。裁判闘争の仲間、東洋大学工学部関係者のほか、部落解放運動、たまごの会、旧山古志村復興、北九州・川越・巣鴨地蔵通り商店街・同潤会鴬谷アパートなどのまちづくり・すまいづくり運動、もやいの会、アジアのまちづくり、など、各地の住民運動を代表する人びとから「送る言葉」が語られ、大盛況でした。

 

なお、当日、会場では、この間鋭意編集されてきた『ゆっくりとラジカルに――内田雄造追悼文集』が頒布されました (542ps. 頒価3,000円、申し込み先: FAX: 03-5300-0521; e-mail: uzo_memorial@nethome.ne.jp。連絡先: 168-0063 東京都杉並区和泉3-34-23 [モモの部屋] 内田方、内田雄造先生追悼文集世話人会)

刊行委員会一同・世話人会一同名の「あとがき」にもあるとおり、「アジアをはじめ、全国各地から319名に及ぶ多くの方々からの寄稿文は、さまざまな分野で活躍してきた内田雄造さんの足跡を、多面的に理解でき、時代の課題に真摯に取り組まれてきた教育者・研究者・社会運動家としての『内田さんの生き方と人柄』を」(p. 542) こよなく伝えています。

 

筆者はとりわけ、つぎの呼応関係に感銘を受けました (無断引用をお許しください)。一方は、東大闘争当時の建築学科教授で、工学部長となって衝に当たられた内田祥哉氏の回想からです:

「私たち教職員は、学生の占拠している1号館に入ることが出来なかったが、梅村先生や文さん [鈴木成文工学部助教授、当時] は、内田雄造が建築学科の中で頑張っているから大丈夫という様子だった。学生占領の終焉となった警察機動隊を案内する役割で、1号館に入って見て、私は驚いた。中は私たちが立ち退いたときのまま、私の研究室のドアに貼った封印の張り紙もそのままだった。

建築学科を占領した建築学科の学生達は、彼らの自治を、学生達の間で貫いたのである。その統率者は内田雄造。後になって占領していた学生の1人から『機動隊に明け渡す前に、綺麗に掃除しておきたかった』という声を聞いた」(p. 41)

 

他方は、内田君自身の、後のエッセイ[『梅村先生を囲んで40年』梅村魁東京大学教授還暦記念出版 (197993)] から:

19681112日、私達、当時の建築共闘に結集していた学生・院生は、強権を発動し、工学部一号館の住人に退去を求め、封鎖・占領を行いました。

梅村先生は、封鎖反対派の多い構造系の院生と私達との間にトラブルが発生することを危惧し、教室主任として最後まで1号館にとどまり、いろいろ気を配っておられました。そして、封鎖・占拠が大したトラブルもなく一段落するのを見届けてから、かねての約束どおり、側に居た私に対し、『では』というふうに背中を向けられ、それを受けて、私が先生をアーケードの鉄扉外に押し出し、封鎖を完了しました。一号館封鎖・占拠がうわさされるようになってから、先生は常日頃『私は一番後まで残りますから、最後に私を押し出して下さい』と言われていました。グレイのチェックに包まれた先生の、ちょっと疲れたような背中の感触を、今でも覚えています。

封鎖完了と同時に、私達は教官研究室、実験室、図書館を封鎖し、教室、製図室、院生室等を解放し、80名を越す建共闘の生活の場と定めました。翌年118日まで、底冷えのする一号館が、私達の生活・闘争拠点となりました。製図板の上の寝袋でまどろむ者、夜を徹しての延々たる議論、タテ看づくり、インスタントラーメンをすする者等。寒さに向い、暖房の問題もあり、火事にはずいぶん気をつかいました。

そしてこの時期、梅村先生は、建築学科の主任として、また工学部当局の中心メンバーの一人として、私達と多面に亘る交渉の接点にいました。振り返ってみれば、当時こそ、学生相互は勿論のこと、諸先生とも最も深くコミュニケート出来た時期だったと私には思われます。私達は、大学・学部・学科そして教官を様々な角度から鋭く追求し、梅村先生はその間にたって、ずいぶん苦労されたと思います。と同時に、私達も立場こそ違え、先生の真摯な態度、私達への様々な配慮には、当時から頭の下がるおもいでした。……

封鎖前から、ストライキ中の私達の許に、先生は私達の主張を知りたいと、しばしば訪れて来ました。そのたびに、手みやげにスコッチや梅酒を持ってきて下さいました。アーケードに面したうす暗い用務員室で、スコッチを茶碗で飲みながら、先生と論じあったことをなつかしく思い出します。

封鎖中も、よく尋ねて来ました。冬に入り、機動隊導入のうわさや情報が何回となく流れると、そのたびに先生は深夜でも毛布持参で、私達の退去の説得に見え、私達が肯んじないと、一緒に一号館内に泊り込もうとしました。私達にも、先生の配慮が良く分かりましたが、心で感謝しつつも、先生には帰っていただきました。……

今日、大学の近代化の掛け声の下で、教育・研究・管理の分業化と、管理機構の肥大化が進む中で、教官もまた全体性を喪失し、変質を余儀なくされているように思われます。その中にあって、梅村先生こそ、最後の『大学の先生』であったと考えています」(pp. 100-02)

 

これを読んで、筆者はふと、当時のことを思い起こし、内田君のいう「学生相互は勿論のこと、諸先生とも最も深くコミュニケート出来た時期」が、たとえば丸山眞男氏と法共闘との間、理学部教官と山本義隆君との間その他、キャンパス内のあちこちに生まれえたのではないか、そこで「学問のあり方」をめぐる議論が深められ、たとえば原発への批判勢力が、学内でも、学外の住民運動と連携して成長を遂げ、「原子力ムラ」の形成を阻むことはできなかったか、というような妄想に囚われました。

全共闘運動はその後、当局の弾圧によって、他方、運動自体の「欲張り過ぎ」によっても、政治闘争に先細りし、「学問のあり方」をめぐる議論は断たれ、これにもとづく批判勢力を、大学現場には残せませんでした。1977年の夏、東大闘争の精神を引き継ごうという学生諸君は残っていて、「東大百年・百億円募金」に反対し、文学部長室に泊り込んでいましたが、その現場から、火災が発生してしまいました。筆者は、原因不明のまま学生処分を強行しようとする文学部教授会に反対する一方、学生側にも、出火を許した闘争規律の弛緩について、批判しなければなりませんでした。

 

このさい、1968-69年大学闘争とその後の経過が、自己批判的に総括され、「最も深くコミュニケート出来た時期」がふたたび訪れるように、と期待するのは、時代錯誤でしょうか。

それにしても、内田君が、東日本大震災と福島原発事故の直前、ずっと以前から蓄積されてきたかれの経験と知見が、災害からの復興の現場でまさに活かされようというそのとき、突如として逝ってしまうとは、運命とはなんたることでしょう。いまはただ、内田君のご冥福を祈り、かれの志を受け継ぐ方々のご活躍に期待するばかりです。(2012216日記)