『経済と社会』(旧稿)の社会学的基礎範疇と体系的統合
Soziologische Grundkategorien und systematische Integriertheit
des „alten Manuskripts“ von“Wirtschaft und
Gesellschaft”
折原浩
1. 問題――「旧稿」の誤編纂とその後遺症
Das
Problem----Fehlherausgaben des „alten Manuskripts“ und ihre Nachwirkung
本日、わたくしに与えられたテーマは、ご案内のとおり「『経済と社会』(旧稿)の社会学的基礎範疇と体系的統合」です。じつは、この「日独社会学会議」の前回(2001年の第2回)にも、「ヴェーバー全集Ⅰ/22(『経済と社会』〈旧稿〉)編纂の諸問題」と題して、同じ趣旨の報告をいたしました。また、2006年春に京都で開かれたシンポジウム「マックス・ヴェーバーと現代社会――ヴェーバー的視座の現代的展開」でも、『全集』版編纂者のひとりヴォルフガンク・シュルフター氏を迎え、「旧稿」の編纂問題、とくに「理解社会学のいくつかのカテゴリーについてÜber einige Kategorien der verstehenden Soziologie」(以下「カテゴリー論文」)を「旧稿」に前置すべきかいなか、という争点をめぐって、議論をたたかわせました。
ではなぜ、「旧稿」の編纂問題に拘るのか、といいますと、原著者マックス・ヴェーバーが「旧稿」の執筆に着手してから、今年で100年になるのですが、「旧稿」はいまだに、全体として精確には読まれていない、と思われます。それも、「旧稿」のテクストが、誤って編纂されているため、と考えざるをえません。
ご承知のとおり、『経済と社会』(第五版まで)には、ふたつの未定稿が、執筆順とは逆に配列されています。第一次世界大戦後1918-20年に執筆された「改訂稿」が「第一部」、戦前1910-14年の「旧稿」が「第二(三)部」(以下「第二部」) に、それぞれ配置され、そういう「二部構成の一書ein Buch in zwei Teilen」が、「著者畢生の主著」として世に送り出されていました。
ところで、原著者は、その「第一部」第一章「社会学的基礎概念Soziologische
Grundbegriffe」(以下 «基礎概念»)の「緒言Vorbemerkung」で、つぎのように断っています。
[Zitat 1]「『ロゴス』誌第四巻の論文[「カテゴリー論文」(1913)]に比べて、ここ [«基礎概念» (1920)] では、できるだけ理解しやすいように、術語は極力、簡潔に改め、したがって幾重にも変更されているmehrfach verändert」[1]。
そこで、「カテゴリー論文」「旧稿」および「改訂稿」、これら三稿の術語を、網羅的に拾い出し、その間にどういう違いがあるか、逐一検出してみますと[2]、「旧稿」の術語は、「カテゴリー論文」の術語と一致し、「改訂稿」の術語は、確かに変更されています。いくつか実例を挙げますと、「カテゴリー論文」で定義され、「旧稿」に適用されている「ゲマインシャフト行為Gemeinschaftshandeln」「諒解行為Einverständnishandeln」「ゲゼルシャフト行為Gesellschaftshandeln」が、«基礎概念» では姿を消します。そのうち、「ゲマインシャフト行為」は、«社会的行為soziales Handeln» に置き替えられます。また、「ゲマインシャフト関係
(形成) Vergemeinschaftung」と「ゲゼルシャフト関係 (形成) Vergesellschaftung」は、「旧稿」にも「改訂稿」にも、同じ語形で出てきますが、語義は変更されています。すわなち、「カテゴリー論文」と「旧稿」では、双方が「上位-下位(概念)」の関係にありますが、«基礎概念» では、テンニエス流の「対(概念)」に変更されます。「カテゴリー論文」と「旧稿」の「ゲマインシャフト関係
(形成)」は、「ゲゼルシャフト関係」も包摂する「社会関係」一般を意味し、主観的に感じられた «共属Zusammengehörigkeit» にもとづく «共同社会» «共同態» という(«基礎概念»の)含意はまったくありません。それにたいして「ゲゼルシャフト関係」は、「ゲマインシャフト関係のうち、目的合理的に制定された秩序zweckrational gesatzte Ordnungに媒介されている特例」で、必ず「ゲマインシャフト関係」です。「旧稿」から「改訂稿」にかけての変更のなかでも、この種の語義変更が曲者で、語形が同一のため、語義・概念規定も「同一」ときめてかかりやすく、そうすると混乱が生じます。しかも、これらの術語で指示される概念は、いま挙げた数例からも明らかなとおり、「旧稿」の社会学的基礎範疇で、「旧稿」全篇がそれに準拠して構成され、統合されています。したがって、そこに混乱が生じますと、その影響は、術語の個々の適用部位ばかりか、全篇におよびます。
さて、「二部構成の一書」では、読者がごく自然に、普通の書籍を読むのと同じように、「第一部」の冒頭から順次読み進めていきますと、第一章
«基礎概念» の変更後の術語を、そのまま「旧稿」=「第二部」に持ち越し、変更前の
(同形ないし類似の) 術語にかぶせて「読む」ように仕向けられましょう。じつは、「旧稿」読者のうち、邦訳者も(それも、自分の担当する部分に出てくる術語の意味を、«基礎概念» に遡って確認しようとした良心的訳者ほど)、«基礎概念» から持ち込んだ術語と、持ち込み先の「旧稿」における用例との不整合に直面し、訳語の選定に戸惑ったようです。その結果、訳語にそのつどルビを振る
(良心的) 措置を採ってはいますが、底本の編纂を問い返してはいません。たとえば「旧稿」中のVergesellschaftungは、圧倒的多数の箇所で「利益社会関係」と訳出されていますが、なかには「組織化」「団結」の他、なんと「共同体関係」という訳語まであります[3]。
そういうわけで、『経済と社会』初版以来の誤編纂の後遺症が、原著者による術語の変更を看過ないし無視する混乱として、いまだに尾を引いています。
では、前世紀末から刊行され始めた『全集』版はどうでしょうか。
『全集』版の編纂陣は、「旧稿」独自の社会学的基礎範疇に準拠する全篇の再構成・再編纂という課題を、初めから断念し、放棄しました。そうする代わりに、全篇を、題材別に五分巻(第一「諸ゲマインシャフト」、第二「宗教ゲマインシャフト」、第三「法」、第四「支配」、第五「都市」)に分け、別々の編纂担当者を当て、それぞれ別個の刊行を急ぐ解体方針を採ったのです。
第五版までの『経済と社会』が「合わない頭を付けたトルソTorso mit einem
verkehrten Kopf」であったとしますと、『全集』版「旧稿」該当巻は、(なるほど、分巻のひとつひとつをとってみれば、相応の編纂がなされていますが、全体としては)「そもそも頭のない五死屍片fünf Stücke einer Leiche ohne
Kopf」というほかはありません。原著者本来の構想と基礎範疇が、どこにも明示されていません。そのため、五分巻を相互に繋げ、「ひとつの企画として相応の統合性をそなえた全体」として読むことができません。その手掛かりさえ、(『全集』版編纂者または各分巻編纂担当者の解説としても)与えられていません[4]。
それにたいして、折原は、「旧稿」を、「カテゴリー論文」で定立された、それ自体の社会学的基礎範疇に準拠して、体系的に読解し、「合う頭をつけたトルソTorso mit einem richtigen Kopf」に再構成する、という方針を提唱し、『全集』版の解体方針には、首尾一貫して批判を対置してきました。しかしそれも、ドイツの編纂陣が、全世界に、最良の『全集』版テクストを提供してくれるようにと願う「批判をとおしての協力」のつもりでした。「旧稿」テクストの適正な編纂には欠かせない (にもかかわらず、編纂陣内ではなぜか着手されていない)「術語一覧」や「参照指示ネットワーク一覧」のような基礎資料も作成し、そのつど独訳して編纂陣に送り届けました[5]。
そのさい、「全体として精確に読める」という要件に拘ったのには、ふたつの理由があります。
まず、従来どおり、「旧稿」中の「連字符社会学」群から、任意のひとつ(「宗教社会学」なり「支配社会学」なり「経済社会学」なり)を、全篇の体系構成におけるそれぞれの「位置価Stellenwert」には拘らず、読者側の専門視点から任意に抜き出して利用する、というのも、確かに一法で、それに異を唱えるつもりはありません。しかし、それだけでしたら、旧来の諸版でもけっこう役に立ち、『全集』版の新編纂に殊更期待しなくても済むことです。『全集』版の新編纂には、まさに『マックス・ヴェーバー全集』の一環として、題材別分割とは正反対に、ヴェーバーそのひとが、ひとつの企画として、そうした多種多様な題材群を、どのように理論的-体系的に、ひとつの「ヴェーバー社会学」に統合しようとしたのか、それはなぜか、また、そこからどういう可能性が開けるか、――そういう「ヴェーバー社会学」本来の姿と「固有価値Eigenwert」を、少なくとも従来版以上に復元し、更新のメリットを示すことが、求められ、期待されていたのではないでしょうか。
いまひとつ、折原が、「全体として精確に読める」要件に拘るにつけては、ヴェーバーの学問内容総体にたいする、折原なりの思い入れがあります。「ヴェーバー社会学」の「固有価値」を突き止め、その「固有価値」を踏まえた「応用価値Anwendungswert」を、「応用価値」一般としてのみでなく、わたくしたち日本人にとって特別の「応用価値」としても活かすには、「旧稿」全篇の精確な読解とその「潜勢Potenz」の継承が、必要とされます。この問題は、重要ではありますが、今日の本題からは逸れるので、ここでは省略します[6]。
2. カテゴリー論文における社会学的基礎範疇の定立
Die Aufstellung der
soziologischen Grundkategorien im Kategorienaufsatz
さて、その「ヴェーバー社会学」は、「カテゴリー論文」で、(「ロッシャーとクニース」以降の方法論的思索が積極的に集約されて) 方法論的に基礎づけられ (§§Ⅰ~Ⅲ)、そのうえで、「旧稿」における「一般社会学」的展開に向けて、その基礎範疇が定立されます
(§§Ⅳ~Ⅶ)。また、「旧稿」と同時に研究が進められ、少し遅れて『社会科学・社会政策論叢Archiv für Sozialwissenschaft
und Sozialpolitik』に発表され始める「世界宗教の経済倫理Die
Wirtschaftsethik der Weltreligionen」(以下「世界宗教」) シリーズでは、「旧稿」の「一般社会学」が、中国、インド、古代パレスチナなど、非西洋文化圏に「個性化的individualisierend」に適用され、それぞれの文化総体の特性が「(「旧稿」で一般的に規定されている) 普遍的諸要素の(それぞれの文化圏に固有の)個性的な互酬-循環構造reziproke Zirkelstruktur」として把握されたうえ、「(同じく「旧稿」で一般的に規定されている) 普遍的諸要因の (それぞれの文化圏に固有の) 個性的な布置連関Konstellation」に因果帰属されます。しかし、「世界宗教」との関連も、ここでは省略し[7]、問題を「カテゴリー論文」と「旧稿」との関係に絞ります。
「旧稿」の側から議論を始めますと、ヴェーバーは、『社会経済学綱要Grundriss der Sozialökonomik』(以下『綱要』) の「序言Vorwort」に、この叢書全体を導く包括的視点を、つぎのとおり提示しています。すなわち、[Zitat 2] 経済・技術・社会的秩序といった人間協働生活の諸領域について、一方ではそれぞれの相対的「自律性Autonomie」(「固有法則性Eigengesetzlichkeit」) を認めながら、他方では諸領域間の相互制約関係を (この叢書ではとくに経済との関連に力点を置いて) 探究し、しかもそのさい、「経済の展開を、人間生活全般の合理化の、(経済という領域に) 特有の部分現象eine besondere
Teilerscheinung der allgemeinen Rationalisierung des Lebens」として捉えようという視点です。
ヴェーバー自身の分担寄稿 (当初には「経済と社会」、やがて「1914年構成表」で「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力Die Wirtschaft und
die gesellschaftlichen Ordnungen und Mächte」と改題) でも、この視点から、経済の展開を、(「社会」を媒介とする宗教・政治・法などとの相互制約関係も含めた)「社会」との相互制約関係において、それも、「社会の合理化」――これも、「人間生活全般の合理化の、(『社会』という領域に) 特有の部分現象」――との関連において、捉えようとします。
しかもそのさい、ヴェーバーは、「社会」の実体化を避けるため、(他の諸領域と並ぶ一領域として概括的に呼ぶばあいを除いて) あえて「社会Gesellschaft」概念は立てず、「行為Handeln」と「秩序Ordnung」というふたつの概念から、「社会諸形象soziale Gebilde」の概念を構成しようとします。したがって、まずは、そういう概念構成において、「社会の合理化」とはどういう事態か、「行為」と「秩序」のいかなる佇まいを指すのか、諸個人の「バラバラな」(互いに「意味」関係のない) 併存という「社会以前」の状態を起点に据えるとすれば、そこからどういう経過をたどり、どういう状態にいたれば「合理化」が達成されたと見るのか、――そうした経過の全体を見通して、おおよその見取り図を描き、研究の道標を立てておかなければなりません。さもないと、「舵も羅針盤もなしに大海に漕ぎ出す」羽目に陥るでしょう。
としますと、まさにそうした概念構成の基礎工事が、「カテゴリー論文」(1913) でなされています。その冒頭には、ふたつの重要な注記があります。
ひとつは、[Zitat 3]「この論文の第二部は、かなりまえに書き下ろされていた論稿から抜いてきた断片で、もとの論稿は、じっさいの事象にかかわる諸研究、なかんずく間もなく出版される叢書への一寄稿(「経済と社会」)の方法的基礎づけに役立てられるはずであった」[8]というものです。この注が書かれた1913年には、『綱要』への寄稿はまだ「経済と社会」と題されていましたから、この注記は、「カテゴリー論文」「第二部」が元来「旧稿」の方法的基礎づけとして書かれた、という事情を、原著者みずから証言していることになりましょう。
また、冒頭の注には、いまひとつ、重要な指摘があります。[Zitat 4]「読者は容易に気づくであろうが、わたしの概念構成は、……シュタムラーの (『経済と法』が) 提示するそれと、一見類似していながら、内実としてはこのうえなく対立する関係にある。これはまさに、意図してそうしたのである。……後に (§§Ⅴ-Ⅶで) 提示する範疇のすべては、……ある程度、シュタムラーが『いうべきであったはず』のことを示すために展開されている」[9]。「カテゴリー論文」「第二部」の社会学的基礎範疇は、シュタムラー批判の積極的展開 (相手の誤謬を剔抉するだけでなく、それに遮られていた正しい核心を引き出す「積極的批判」) として定立された、というのです。そこで、「シュタムラーによる唯物史観の『克服』」(1907、以下「シュタムラー論文」)に遡って、当の「対立関係の内実」を突き止めましょう。
ヴェーバーはまず、当時の「学問」概念を批判的に集約し、(1)「客観的意味」について「理念ないし当為としての妥当性」を問う「規範学Dogmatik」と、(2)「主観的意味subjektiver Sinn」について「存在と因果的意義」を問う「経験科学empirische Wissenschaft」とを区別します[10]。そして、この区別を堅持しつつ、「規則Regel」の概念を検討し、①規範学の対象としての「規範Norm」「命令Imperativ」と、②経験科学の対象としての「経験的規則性empirische Regelmässigkeit」に加えて、③行為の一規定根拠=因果的一契機として、(適合的には経験的規則性を引き起こす)「規範表象Normvorstellung」=「(規範的) 格率Maxime」という第三のカテゴリーを定立します。そのうえで、「法」も、シュタムラーの主張とは異なり、「社会生活soziales Leben」の普遍的「形式Form」ではなく、「(規範的) 格率」として、その「質料Materie」の一部をなす、と見ます。
したがってヴェーバーは、「社会生活」の概念についても、シュタムラーが、「制定規則によって外的に規制された協働」と「規制のない併存」という(論理上は非和解的な)対立を、経験的現実に持ち込み、後者から前者への移行は「絶対に不可能」で、両者間に「第三のカテゴリー」が存立する余地はない、と説いていた[11]のにたいして、それを「概念と現実(規範学と経験科学)との混同」として斥け、経験的現実においては、両対極間に流動的移行関係があり、「第三のカテゴリー」も存立する、と見ます。
さて、「カテゴリー論文」の「第二部」では、§Ⅳで「ゲマインシャフト行為」、§Ⅴで「ゲゼルシャフト行為」、§Ⅵで「諒解 (行為)」、§Ⅶで「団体」と「アンシュタルト」といった、社会学的基礎範疇が順次定立されますが、それらはじつは、当の流動的移行関係を分析する指標で、シュタムラー批判の積極的展開と見られましょう。
①「同種の大量行為gleichartiges Massenhandeln」(複数個人間にまだ「意味」上の関係はない、あっても無視できるほど稀薄な、自然現象への同種反応、機械的「模倣」、「群衆行動」、「群集行動」、など)
②「無秩序のゲマインシャフト行為 amorphes Gemeinschaftshandeln」(「意味」上の関係は発生しても、まだ「秩序」は生成しない、無定型のゲマインシャフト行為)
③「諒解行為Einverständnishandeln」 (非制定秩序に準拠するゲマインシャフト行為)
④「ゲゼルシャフト行為
Gesellschaftshandeln」(「目的合理的に制定された秩序」に、目的合理的に準拠するゲマインシャフト行為)」
この四範疇が、「ゲマインシャフト行為の『合理化』の度合いを示す形式的(意味内容上の分節化にはかかわりのない)階梯尺度」をなしています。
ところで、「ゲマインシャフト関係」(=社会関係一般) は、一時的・臨機的か、繰り返し存続し、関与者をあとから「補充する」までに「多年生perennierend」となるか、どちらかですが、そのうち、多年生で、かつ「閉ざされたgeschlossen」類型に、「アンシュタルト」と「団体」があります。
「アンシュタルト」とは、「制定秩序gesatzte
Ordnung」と「強制装置Zwangsapparat」をそなえた「ゲゼルシャフト形象」で、そこでは構成員の補充が、「当事者の意思表示なしに、なんらかの客観的標識にもとづいて」なされます。たとえば、新生児が一定の出生条件(出生地、両親の国籍ないし所属宗派)をみたせば、それだけで編入が決まる――そのなかに「生み込まれhineingeboren」、そのなかで「育て上げられるhineinerzogen」――「国家Staat」(と呼ばれる「政治ゲマインシャフト」) や、「教会Kirche」(という術語があてられる「宗教ゲマインシャフト」) などです。ちなみに、補充が、加入志望者の意思表示にもとづき、多くのばあい資格審査を経てなされる「ゲゼルシャフト関係」の合理的理念型が、「目的結社Zweckverein」です。そこでは、制定秩序も、上級の権威から「授与oktroyieren」されるのではなく、原則上は、すべての関与者ないし構成員によって「協定paktieren, verein- baren」されます。
他方、「団体」は、制定秩序と強制装置を欠く「諒解ゲマインシャフト」にとどまる点で、両者をそなえた「アンシュタルト」からも「目的結社」からも、区別されます。ただし、団体でも通例、特定の権力保有者が、「諒解」によって所属のきまる関与者の行為に、「諒解」によって効力をもつ「格率」を発令し、「諒解」に反する行為には、そのつどなにほどか物理的ないし心理的な強制を行使して、秩序を維持しています。たとえば「家長Hausherr」を権力保有者とする原生的urwüchsigな「家ゲマインシャフト」、「君侯Fürst」を戴いても合理的制定規則は欠く「家産制的patrimonial」政治形象、「予言者Prophet」をカリスマ的権力保有者とする「使徒Jünger」たちの「即人的persönlich」結集態などです。
ところで、この「団体」と「アンシュタルト」が、«基礎概念» では、術語は同一のまま、語義が変更されます。すなわち、«団体Verband» は、対外的に閉鎖された «社会関係soziale Beziehung» で、その秩序維持が、一定の人びと――ひとりの «指揮者Leiter» か(ばあいによっては) «代表権Vertretungsgewalt» を与えられた «行政幹部Verwaltungsstab»――の、秩序の貫徹に特別にそなえた行動によって保障されているばあい、と定義され[12]、その «社会関係» が «ゲマインシャフト関係» か «ゲゼルシャフト関係»
かは、概念上問わない、とされます。そのうえで、«結社Verein» が、«協定による団体 vereinbarter Verband» で、その制定秩序が、個人加入による関与者にだけ適用されるばあい、と規定され、«アンシュタルト» は、その制定秩序が、一定の標識に当てはまる一定の行為に、(比較的) 効果的に強制される団体Verband、と定義されます[13]。つまり、«団体» が、「カテゴリー論文」における「諒解関係」という限定を取り払われ、«結社» と «アンシュタルト» とを包摂する上位概念に変更されています。一見些細なこの変更が、どういう意味をもつか、追々、明らかにされましょう。
さて、前掲「ゲマインシャフト行為の『合理化』にかんする四階梯尺度」で、①から②③をへて④にいたる
(「飛び越え」もありうる) 移行は、経験的現実において流動的であるばかりか、「可逆的umkehrbar」でもあります。たとえば、「ほとんどあらゆるゲゼルシャフト関係からは、通例、その合理的な目的の範囲を越えるübergreifend (「ゲゼルシャフト関係に制約されたvergesellschaftungsbedingt」) 諒解行為が当事者間に発生」します[14]。たとえば「宗教的ゼクテ」(という「目的結社」) は、加入のさいに厳格な資格-行状審査を実施するので、「加入者は
(厳格な審査に耐えた) 信頼の置ける人物」という「諒解」と、これにもとづく「信用」(という「諒解関係」) が、(当事者間また第三者にたいしても) 創成されます。この「諒解」は、構成員の (本来の合理的目的「の範囲を越える」) 社会経済活動にも「ものをいい」、やがてはこの派生機能のほうが重んじられ、もっぱらこの「信用保証」を当て込んで
(宗教上の目的は抜きに) 加入を申請する人びとも輩出してくるでしょう[15]。そのように、ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的な目的「の範囲を越える」諒解行為を「創成」し、両者の「重層」関係
(松井克浩) において力点が後者に移動する現象をともないます。
さて、ヴェーバーは、「カテゴリー論文」の末尾近くで、以上の社会学的基礎範疇を用い、かれの歴史観を、つぎのように表明しています。[Zitat 5]「[歴史]発展の道は、なるほど、個々のばあいには再三再四、具体的で合理的な目的団体的秩序から『その範囲を超えるübergreifend』諒解行為の創成へと通じている。しかし、全体としては、われわれが見通しうる歴史発展の経過において、なるほど諒解行為のゲゼルシャフト関係による『置換えErsatz』を一義的に認めることはできないとしても、諒解行為が制定規則によってますます包括的かつ目的合理的に秩序づけられ、とくに団体が目的合理的に秩序づけられたアンシュタルトへとますます変化することが、確認できる」[16]。
それでは、「ゲマインシャフトの秩序」がそのように「合理化」されるとは、じっさいには何を意味するのでしょうか。「秩序の合理化」につれて、当の秩序のもとで、秩序に適応して生きる諸個人にも、「行為の合理化」がもたらされるのでしょうか。
今日、「合理化」された世界に生きる「文明人」は、電車・エレベーター・パソコンその他、現代技術の合理的所産を、日常的に利用して暮らしています。しかし、それらが、どんな自然科学上の原理や法則を基礎とし、どのように製作されたのか、については、通例、何も知りません。ただ、自分にとって重要な関心の範囲内で、それらの製作品がどう「はたらくか」を「予測」し、その「はたらき」を「あてにして」利用しているだけでしょう。とすると、「貨幣」のような
(C.メンガーのいう「無反省的unreflektiert」に生成した) 社会制度についても、また、「法律」や「結社規約」のような、合目的的 (同じくメンガーによれば「実用主義的utilitarisch」) に制定された秩序についても、同じことがいえましょう。
すなわち、アンシュタルトなり目的結社なりの秩序について、新しい「法律」や「結社規約」の制定が日程に上って議論されている間は、それらの「目的」や「意味」が、少なくとも利害関係者には見抜かれているはずです。ところが、そのようにして制定された秩序が、じっさいに「定着」し「馴染まれ」ると、当初の目的や意味は、忘れられるか、「意義変化Bedeutungswandel」によって覆われ、その執行に携わる「機関」の構成員も、紛争の処理にあたる裁判官や弁護士も、ごく少数しか、当初の意味は知らない、という事態に立ちいたりましょう。ましてや「公衆Publikum」や「大衆Masse」となると、制定秩序の「目的も意味も、さらには秩序の存在さえ、まったく知らず」に、ただ「制定秩序の平均的に理解された意味に近似的には一致する行為を、事実上はまもっている」のが、常態でしょう。この傾向は、秩序が複雑化し、社会生活が分化するにつれて、ますますつのってくるにちがいありません。つまり
[Zitat
6] 「ほかならぬ『合理的』秩序の経験的『妥当』が、大部分ふたたび、習慣となったもの、慣れ親しんだもの、教え込まれたもの、いつも繰り返されるものには服従する、という諒解のうえに成り立」ち、その諒解の「主観的構造についてみれば、いかなる意味関係ももたない、多少とも一様な大量行為gleichmässiges Massenhandeln」[17]の類型に近づくというのです。
したがって、技術や秩序の「合理化」が進展すると、それらにじっさいに適応し、かかわりあっている圧倒的多数の人びとは、それらの合理的な基礎から、ますます疎隔されてきます。この事態を、ヴェーバーは、「呪術者の仕種の意味が、未開人に隠されているのとまったく同様」[18]と看破します。
ですから、ゲマインシャフト行為の「合理化」は、当のゲマインシャフト行為の諸条件や諸連関にかんする知識の「普遍化Universalisierung」(すなわち、そうした知識が、秩序制定者側と適応者側とへの分化を越えて、あまねくいきわたり、共有されること) によって引き起こされるのではありません。むしろ、まったく逆に、そうした知識が、秩序制定者側に「偏倚」「集中化」し、かれらが、当の制定秩序を「授与-指令oktroyieren」する支配権力も掌握して、これを梃子に[19]、ゲマインシャフト行為を「合理化」し、これが翻って、制定者側と適応者側とへの分化と、後者における合理的基礎からの疎隔を、拡大-固定化します。したがって、合理的な日用財と制定秩序に適応し「飽満したgesättigt」「文明人」は、自分の生活の諸条件につき、(比較的単純な「自分の生活条件」を経験的に熟知している)「未開人」に比べて、じっさいにははるかに少しのことしか知らない、というわけです[20]。
それにもかかわらず、「文明人」の状況が、なお一般には「合理的」と思われているのは、かれが、現代技術の所産や制定秩序からなる日常生活の諸条件を、原理的には「合理的」な、つまり
(自分ではないけれども、誰か他の人間が) 合理的に知り、製作し、制定した、(自分ではないが) 人間の製作物・制定秩序で、呪術者が呼び出す (超感覚的) 諸力のように、(「予測不可能」という意味で)「非合理的」には振る舞わず、「合理的に」(誰か人間に知られた規則にしたがって) はたらくので、そのはたらきを「予測」でき、自分もその「はたらき」を「あてにして」やっていけると信じている、という一点に尽きましょう。秩序の合理化は、広汎な諸個人の「主知化Intellektualisierung」と「行為の合理化」はもたらさず、むしろ、「諒解行為」から「同種の大量行為」への「流動的『逆行』」をともなう、というのです。
ここで、「社会の合理化」が、「ゲゼルシャフト関係が諒解関係に一義的にとって代わる
(『発展段階論』的)『置換』」や、「諒解関係からゲゼルシャフト関係への一方向的な (『進化論』的)『移行』」として概念構成されるのではなく、既存のゲマインシャフト関係のなかに台頭するゲゼルシャフト形成が、その制定秩序のもとに、一方では旧い諒解関係を引きずり、他方では
(いま見たように) 新たな諒解関係を派生させ、そうした (新旧の) 諒解関係に足を捕られ、力点移動や鈍化を被りながら進む、そうした「複雑な流動的相互移行過程」であること、また、「諒解行為への逆行」が、ゲゼルシャフト形成の拡大-深化につれて最終的には払拭されてしまうのではなく(「(なにか) 一時的ないし前期的現象」といったものではなく)、「秩序の合理化」の進展につれてかえって拡大・深刻化する普遍的な随伴現象として捉えられていること、に注意を止めましょう。
とすると、こうした動態は、「ゲマインシャフト関係における諒解関係とゲゼルシャフト関係との流動的相互移行」という「カテゴリー論文」の社会学的基礎範疇を適用すれば、比較的容易かつ的確に把握されるのですが、«基礎概念» では、「諒解」概念の脱落と「団体」概念の変更
(上位概念への一般化・抽象化) によって、文面からは読み取れなくなっています。そうした動態の把握はおそらく、(原著者の意図としては「できるだけ理解しやすいように」)「幾重にも変更された」術語=基礎範疇の (こんどは) 運用に委ねられる予定だったのでしょう。
3. Ⅰ「概念」篇-2「法と経済」章と カテゴリー論文との関連
Der Zusammenhang
des KapitelsⅠ-2 „Recht und Wirtschaft“ mit dem Kategorienaufsatz
以上が、「カテゴリー論文」で定立されている社会学的基礎範疇と「社会の合理化」史観の骨子です。それでは、これと「旧稿」とは、どんな関係にあるのでしょうか。
まず、わたくしたちが「旧稿」を繙いて、[Zutat 7]「かの合理化とゲゼルシャフト形成の過程 jener
Rationalisierungs- und Vergesellschaftungsprozessが、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大-深化するありさまを、あらゆる領域について
[ですから、たんに法の領域についてのみではなく]、全発展のもっとも本質的な駆動力として追跡する」[21]という文言に出会うとき、わたくしたちはそれを、上記の社会学的基礎範疇と「社会の合理化」史観を踏まえた、「旧稿」全篇の課題設定と見ることができましょう[22]。
ところが、この文言は、『経済と社会』の第三版までは「経済と秩序」と題された章のなかにあり、この章は、「第二部」第七章「法社会学」の直前に置かれ、「法社会学」章のみへの概念的導入部であるかのように扱われていました。第二次編纂者が、その「経済と秩序」章を、「1914年構成表」の1. [2]「経済と法の原理的関係」に相当すると見て、第四版以降、(「経済と社会的秩序」と改題したうえ)「第二部」の冒頭に繰り上げたのです。かれが、「1914年構成表」の妥当性を「改訂稿」にまで拡大して解釈したのは (その間の「抜本的改訂」を無視する) 誤りというほかはありませんが、この章の配置替えそのものは、「1914年構成表」が妥当する「旧稿」の範囲内にあったので、幸運にも適正だったわけです。したがって、第二次編纂のテクストでは、かの文言を、「旧稿」全篇の課題設定に相応しい、冒頭の位置で読むことができました。
しかし、『全集』版は、その章を、ふたたび第一次編纂の旧位置に戻して、第三分巻「法」に割り振りました。その結果、「旧稿」に該当する『全集』Ⅰ/22の冒頭、すなわちモムゼン編の第一分巻「諸ゲマインシャフトGemeinschaften」は、第一次編纂と同じく、「経済と秩序」章をとばして、いきなり
(「1914年構成表」の1.[3]「団体の経済的関係一般」に対応する、第一次編纂の)「経済と社会一般」章に相当する部分から、始まっています。そのため読者は、第一分巻中に、上記の文言を見出すことができません。「経済と秩序」章が割り振られた第三分巻「法」が、今月中には刊行される、と版元
(モール・ジーベック社) が予告していますが、そこでこの文言がどう取り扱われているか、注目したいと思います。
ところで、この「経済と秩序」章は、本来はどこに、配置されるべきでしょうか。
その議論に立ち入るまえに、ここで「旧稿」の構成を、折原が独自に
(ただし仮説的に) 見通し、その篇・章・節に、できるだけ簡潔な名称を付しますと、資料「対照表」のとおりです。「旧稿」全体は、Ⅰ「概念」、Ⅱ「社会」、および
Ⅲ「支配」 の三篇からなり、そのうちⅠ「概念」は、1「社会――行為と秩序」、2「法と経済」、および 3「社会と経済」の三章によって構成されます。さらに (「経済と秩序」章に相当する) 2「法と経済」章は、§1「法概念の社会学的意味転換」、§2「習俗-慣習律-法――人間行動の社会的諸秩序」、および§3「法と経済の原理的関係」の三節に分けられます。
この構成で、全体の冒頭に (Ⅰ-1「社会――行為と秩序」章として)「カテゴリー論文」を配置すれば、全篇が適正に編成され、「合う頭の付いたトルソ」に蘇生する、というのが、折原の持論で、本稿の立証目標でもあります。
さて、§1 では、冒頭、いきなり「社会学的考察方法」が導入されて、「法」概念が、「規範学」的な「観念的当為」の平面から、社会学的な「ゲマインシャフトにおける現実の生起」の平面に移されます[23]。当の「社会学的考察方法」は、[Zitat 8]「ゲマインシャフト行為に関与する人間が、特定の秩序を、妥当するgeltendと主観的に見なし、じっさいにそのようなものとして取り扱う――つまり、自分の行為をそうした秩序に準拠させる――シャンス(客観的可能性)が存在することによって、当のゲマインシャフトの内部に、事実、何が起きるか、を問う」とされ、「法と経済との原理的関係も、この社会学的考察方法によって規定されなければならない」と述べられています[24]。ここには、「行為」、「ゲマインシャフト行為」、「秩序」、「妥当」、「準拠」、「シャンス」といった――それら抜きには、原著者の「社会学的考察方法」を理解できない――基礎概念が、無規定のまま初出していますが、それらの規定はいずれも、「カテゴリー論文」で与えられています。とくに「ゲマインシャフト行為」は、そこで定立される基礎範疇のひとつで、「ゲゼルシャフト行為」を包摂する
«社会的行為» 一般を意味します。これを «基礎概念» の «ゲマインシャフト» と混同すれば、「旧稿」における「社会学的考察方法」の適用範囲を、初めから («ゲゼルシャフト関係» は除外して) «ゲマインシャフト関係» に制限してしまうことになりましょう[25]。
さて、考察方法のそうした転換によって、「法Recht」は、現実の人間行為 (の所産で、翻ってはそれ) を規定する根拠のひとつ、すなわち「シュタムラー論文」で導入された「格率」の一種として捉え返され、「『強制装置』によって経験的妥当を保障された制定秩序」と定義されます。「強制装置」は、「特別の
(物理的ないし心理的) 強制手段 (法強制) による秩序の貫徹を、固有の目的とし、そのために常時準備をととのえているひとりもしくは複数のスタッフ」と規定されます。ところが、この「強制装置」というメルクマールも、«基礎概念» では姿を消します。
そのように客観的に制定された法の経験的妥当からは、関与者個々人に、(たとえば財にたいする処分力の確保や取得について)「強制装置」の援助を期待する計算可能なシャンスが生まれましょう。これが、「法によって(直接)保障された主観的権利」です。ただし、あるシャンスが、別の法規範や (支配者によって任意に設定された) 行政規則の経験的妥当から、その反射効果として派生しているばあいもありましょう。これも、「間接に保障された権利」として、社会学上は同等に重視されます。
さて、今日の法秩序は、「国家アンシュタルトStaatsanstalt」の強制装置によって保障されており、法規範学はこの状態を前提としています。しかし、「法」を上記のように社会学的に定義すれば、すべてが「(国家によって保障された) 国家法」とはかぎりません。教会「教権制Hierokratie」の「強制装置」によって保障された「教会法」も、「血讐義務Blutrachenpflicht」の「格率」にしたがい、いざというときには氏族員全員が結集して「強制装置」を構成する「氏族法」も、「非国家法」として存立してきました。
そういうわけで、「法」概念の社会学的意味転換は、「国家法」を理論的に相対化すると同時に、「法秩序」一般の (「強制装置」が国家アンシュタルトによって独占された) 特例、したがって特殊「近代的」階梯として、歴史的にも相対化し、その発生-発展とその諸条件を問うパースペクティーフを開くことになります。
さらに、§2では、「非国家法」も含む法そのものが、(「同種の大量行為」が事実上準拠する)「習俗Sitte」、(「諒解行為」が準拠する非制定秩序としての)「慣習律Konvention」と並ぶ、人間行動の社会的諸秩序の一種として、これまた比較的後代の所産として、理論的また歴史的に相対化されます。それと同時に、いずれにせよ「規則性」に志向している諸秩序のなかに、いかにして「なにか新しいこと」「革新Neuerung」が生じうるのか、が問われ、「革新ないし革命(秩序転覆)の社会学」の台座が据えられます[26]。ただし、それと同時に、「慣習律」から「法」への (「転覆」ではなく) 漸進的移行のパターンについても、五つの類型が設定されます。ヴェーバーの『綱要』寄稿が、当初の「経済と社会」から「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」と改題された所以でしょう。
そのあと、「社会学にとっては、習俗から慣習律を経て法にいたる移行は流動的である」という書き出しのもとに、(異説との対質には小活字を用いるという『綱要』の執筆要領にしたがって)シュタムラー批判の要旨が箇条書き風に書き出されます。その総括として、 [Zitat 9]「法規範学者にとっては、法規範の観念的妥当が概念上先にあるので、法的規制の欠如が、法そのものの端的な不在ではなく、むしろ法的に許容された状態とみなされる」のにたいして、「(経験科学者としての) 社会学者にとっては、逆に、行動が先にあり、法、とりわけ合理的に制定された法による行動規制は、ゲマインシャフト行為の動機づけの一構成要素にすぎず、しかも後代に登場してくる一要因で、経験的効力の度合いもさまざまである」という命題が定立されます。そしてここで、この命題を受け、「制定秩序の介入の増大は、われわれの[社会学的]考察にとっては、かの合理化とゲゼルシャフト形成過程のとりわけ特徴的な構成部分をなすにすぎない」と断ったうえ、当の「合理化とゲゼルシャフト形成の過程が、あらゆるゲマインシャフト行為を捉えて拡大・深化するありさまを、われわれは、[法領域のみでなく]あらゆる領域にわたり、全発展のもっとも本質的な駆動力として、[ここから] 追跡していくことになろう」と、「旧稿」全篇の課題が予告されるわけです。
これにつづく§3では、冒頭に予告されていたとおり、社会学の平面上で、「経済秩序」[27]と「法秩序」との原理的関係が問われます。前者は、もともと人間行為の一分節化領域なので、「法秩序」のようには、考察方法の変換は必要とされず、ここでただちに社会学の平面に置かれて議論されます。そして、『綱要』全体の包括的視点から、両秩序の原理的関係が、双方の「自律性」「固有法則性」の確認のうえ、「相互制約関係 (具体的な親和-背反関係、適合-不適合関係)」(法の「経済的被制約性」と「経済的意義[経済制約性]」) として、典型的な事例を引いて、一般的に定式化され、最後に、特殊「近代」法と特殊「近代」経済との「適合的」関連が予告されます。
以上が、Ⅰ-2「法と社会」章の骨子です。全章の叙述が(§2後半に置かれた明示的シュタムラー批判部分のみではなく)、「法」を「社会生活の普遍的『形式』」と見たシュタムラーの「法規範学的・観念論的実体化」にたいして、それを「質料」の一要素として相対化し、「習俗」「慣習律」といった「第三のカテゴリー」も加え、包括的な「社会」概念を獲得して歴史的パースペクティーフを開き、そのもとに「法秩序」を位置づけ直す、という方向と順序で、首尾一貫して展開されています。その一環として、「旧稿」の包括的課題設定もなされました。
また、比較的短い「法と経済」章には、19箇所に参照指示が挿入され、そのうちの12個は、前出参照指示です。ところが、そのうちの4個が、「カテゴリー論文」に被指示箇所をもつ、いいかえれば、この「法と経済」章、あるいは他の (「旧稿」中にあって、この章の前にくることが形式的には可能な) どの章にも、被指示箇所を見出せない「非整合指示」をなしています。しかし、それらにはいずれも、「カテゴリー論文」中に、内容上正確に対応する被指示叙述があり、「カテゴリー論文」を前置すれば、非整合が解消されます[28]。これまた、「カテゴリー論文」「第二部」が抜き出された元稿のなかで、「カテゴリー論文」「第二部」が、「法と経済」章の直前に置かれ、参照を指示しただけで論点内容はただちに思い出せる、あるいは、念のため再読すれば「法と経済」章をこんどは正確に読める、そういう直近の緊密な関係にあった、という消息を伝える、有力な「テクスト内在的証拠」といえましょう。
そういうわけで、「旧稿」のⅠ-2「法と経済」章は、「カテゴリー論文」が前置され、その直後に結合されて初めて、Ⅰ「概念」篇を構成する一章として「精確に読める」ようになり、その位置価が回復されましょう[29]。この結合関係が、同章の術語用法からも、内容構成からも、「参照指示ネットワーク」からも、立証されたのではないでしょうか。
4. Ⅰ「概念」篇-3「社会と経済」章と カテゴリー論文との関連
Der Zusammenhang des KapitelsⅠ--3 „Gesellschaft und Wirtschaft“ mit dem Kategorienaufsatz
つぎの Ⅰ「概念」篇-3「社会と経済」章も、三つの節から構成されています。しかし、Ⅰ-2章とは異なり、§1で、早くも「社会と経済との原理的関係」が定式化され、§2では「ゲマインシャフト (社会) の経済的被制約性」が、「経済的利害関心にもとづくゲマインシャフトの閉鎖と拡張」の四類型によって、§3では逆に、「ゲマインシャフト (社会) の経済的意義 [経済制約性]」が、「ゲマインシャフトにおける (ゲゼルシャフト形成を維持するための) 給付調達-需要充足様式」の五類型によって、それぞれ例解されます。
§1は、「圧倒的多数のゲマインシャフト形成態Vergemeinschaftungenは、経済となんらかの関係にある」との書き出しに始まり、「経済行為Wirtshaften」が、目的合理的行為一般ではなく、「経済的事態」(「ある欲求ないし欲求複合にたいして、その充足に必要な手段および可能的な行為の準備が、行為者の評価において相対的に稀少knappな事態」)に主観的に準拠してなされる目的合理的行為に限定され[30]、そのうえで、主観的に抱かれた目的の観点から「需要充足Bedarfsdeckung」(W-G-W’) と「営利Erwerb」(G-W-G’) とに分けられます。
そのあと(第2段)に、「社会的行為das soziale Handelnは、経済にたいして多種多様な関係にある」[31]という一文が出てきて、突如 «社会的行為»
という «基礎概念» の術語が現れます[32]。しかしこれは、どう見ても、第一次編纂者による書き入れとしか考えられません。というのも、つぎの段では、当の「多種多様な関係」について、①「経済ゲマインシャフトWirtschaftsgemeinschaft」、②「経済にも携わるゲマインシャフトwirtschaftende
Gemeinschaft」、③「多目的中のひとつとして経済的目的も追求する (混合) ゲマインシャフト」、④「経済とはかかわりのないゲマインシャフト」、および ⑤「経済を統制するゲマインシャフトwirtschaftsregulierende
Gemeinschaft」という分類 (「類的理念型」) が導入されますが、そのうちの①②および⑤は、それぞれつぎのように規定されています。すなわち、①は「関与者の主観的意味において、もっぱら経済的成果 (需要充足ないし営利) を目指すゲゼルシャフト行為によって基礎づけられたbegründetゲマインシャフト」、②は「主観的に目指された別の成果にたいする手段として、みずからの経済行為も利用する、そういうゲゼルシャフト行為によって基礎づけられたゲマインシャフト」、⑤は「(漁業組合やマルク組合仲間のように) 関与者の経済行為の統制を固有の目的とするゲゼルシャフト形成に媒介されたゲマインシャフトvergesellschaftete
Gemeinschaft」という規定です。これらは、「カテゴリー論文」で定立され、「旧稿」に適用された基礎範疇――すなわち、「ゲマインシャフト関係」を「ゲゼルシャフト関係」の上位概念とし、しかも、ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的目的「の範囲を越える」ゲマインシャフト関係を「創成する」という含意のある基礎範疇――を念頭に置いて、初めて意味が通ります。ところが、«基礎概念» で変更されている、«ゲマインシャフト»
と «ゲゼルシャフト»
の (テンニエス流) 対概念を持ち込みますと、「«ゲゼルシャフト形成»
によって基礎づけられた、あるいは媒介された «ゲマインシャフト»」とは何のことか、分かりません。ところで、術語変更の追跡を怠って «基礎概念» の基礎範疇をそのまま「旧稿」に持ち込んでいた第一次編纂者は、これら (①②および⑤) の規定に直面して戸惑い、「これでは読者も当惑するにちがいない」と、じつは同義反復の上記一文を冠して、読者の「理解」を「助け」ようとしたのではないでしょうか。ところが、そのあと、(かれらには)「不可解な」術語用法の類例がつぎつぎに出てくるので、不得要領のまま、それ以上のテクスト介入は断念したのでしょう。
さて、そのように多種多様であっても、圧倒的多数のゲマインシャフトは、一方ではその発生・存続・構造形式・経過において (「唯物史観」の想定する「一義的被規定関係」ではなくとも)「経済によって制約され」、他方では、それ自体として「固有法則性」をそなえ、経済以外の原因によっても構造形式を規定され、それはそれで「経済的意義を帯び」、「経済を制約」します。
そこで、ヴェーバーは、そうした相互制約関係(とはいえ、経済とゲマインシャフト行為との双方が、それぞれどの程度、互いに促進し合っているか、それとも逆に、阻止ないし排除しあっているか、互いに「適合的」か「不適合的」か、の関係)に、以下「じっさいの事象にかかわる諸章」(Ⅱ「社会」篇とⅢ「支配」篇) で繰り返し論及するであろう、と予告したうえ、§2で、まず「ゲマインシャフト行為の経済的被制約性」につき、四つの類型を設定して例解します。
1. ある経済的シャンスが「稀少性」を帯びて競争が激化すると、特定のメルクマール (属性、業績) を決め、その該当者で当のシャンスが独占されて、ゲマインシャフトが閉鎖schliessenされ、内部では、独占されたシャンスが、該当者に配分され、「輪番から、返還条件付き、終身、一定条件付きを経て、自由な『専有Appropriation』(私的所有)へ」と、対内的閉鎖の度合いも強められる、という一般経験則。そのさい、独占と配分=「(対外的-対内的) 閉鎖」のため、秩序が制定され、「ゲゼルシャフト関係」が形成されます。「特定のメルクマール」が「業績」に求められるばあいが「ツンフトZunft」で、この一般概念には、「手工業ツンフト」の他、「戦士ツンフト」なども含まれます。
2.
一群の人びとが、あるゲマインシャフトの観念的-物質的利害関心を「代表vertretenする」役割を引き受け、規約を制定して「機関Organ」を設立すると、かれら自身の「職業的berufsmässig」利害関心が、当のゲマインシャフトの存続Existenzと(こんどは)拡張Propagierungへの有力な支柱となり、従来の (間歇的で非合理的な)「臨機的行為Gelegenheitshandeln」も(計画的で合理的な)「経営Betrieb」(継続的ゲゼルシャフト関係) に組織化されるという一般経験則。
3.
自発的加入にもとづく「目的団体Zweckverband」が、加入志願者にたいして、当の目的達成に必要な資格や能力「の範囲を越えてübergreifend」、行状や人柄までも審査し、加入を認められた構成員は、まさにそれゆえ、審査に耐えて認証された「人物」として「正当化legitimieren」され、内部的にもさまざまな「コネKonnexionen」を培うことができるという(「カテゴリー論文」で導入された前出)一般経験則から、そうした「諒解関係」のメリットを既得権として独占しようとして、(上記1. のばあいとは異なる)「閉鎖」が招来される法則的傾向性。
4.
第一次的には経済外的なゲマインシャフトが、その「存続と拡張」への利害関心から、対外的に、経済上その他の「利益」を約束したり[33]、他のゲマインシャフトに参入したり、みずから「経営」に乗り出したりもする一般経験則。
これらはいずれも、ゲマインシャフトがゲゼルシャフト形成をともないながら、あるいはゲゼルシャフト形成が諒解関係を派生させながら、閉鎖されたり、逆に拡張されたりするさい、背後ではたらいている経済的利害関心を鋭く取り出して定式化しています。
他方、(経済によってそのように制約される) ゲマインシャフトのほうも、いったん成立し、構造形式がととのえられると、翻って経済を制約します。ヴェーバーは、こんどはこの側面について、§3で、ゲゼルシャフト形成をともなうゲマインシャフトにおいて、当のゲゼルシャフト行為を維持していくのに必要な給付が、どのようにゲマインシャフトの構成員に割り振られverteilt、調達されaufgebracht、充足されgedecktるか、という観点から、つぎの五類型を設定し、そのうえで、それぞれの様式が、当のゲマインシャフトの経済に、どう反作用するか、を問います。すなわち、①オイコス的oikenmässig(純共同経済的rein
gemeinwirtschaftlich、純実物経済的rein naturalwirtschaftlich)、②(貨幣)貢租と市場(購入)によるabgaben- und marktmässig、③みずからの営利経営によるerwerbswirtschaftlih、④賛助と後援によるmäzenatisch、および、⑤積極的ないし消極的な特権付与=負担配分positiv
od. negativ privilegierende Belastung(ライトゥルギーLeiturgie)による給付調達=需要充足、という五類型です。
このうち、たとえば①③および⑤が、私的な資本形成を排除したり、営利追求の方向転換を強いたりするのにたいして、②はひとまず、資本の形成と発展に有利と見られましょう。しかし、それには、大衆課税のため、合理的に機能する「官僚制Bürokratie」(という行政技術上の条件) が必要とされます。また、草創期の幼弱な「産業資本主義industrieller
Kapitalismus」が、動産beweglicher Besitzにたいする過重な貢租賦課によって圧殺されないためには、「動産にたいする事実上の優遇措置」としての「重商主義Merkantilismus」が、 (少なくとも幼弱期を脱して資本蓄積の軌道が敷かれるまでの期間) 維持されなければなりません。
著者はここで、動産への課税という (一見特殊な) 問題に踏み込み、近世初頭以降のヨーロッパの「世界史的特異性」に論及します。すなわち、そこでは、(「封建制Feudalismus」から「身分制 (等族) 国家Ständestaat」をへて「合理的官僚制」にいたる) 独特の支配構造をそなえ、ほぼ同等の勢力をもった政治形象が、ヨーロッパ亜大陸の覇権をめぐって互いに競争-闘争し合い、さればこそ「移動-離脱が自由な」動産をそれぞれの勢力下に引き止めておこうと、「重商主義」を採用し、それぞれのゲマインシャフト内部の、これまた独特の「産業資本主義」と提携し、その発展を促した、というのです。
つまり、ヴェーバーはここで、Ⅰ「概念」篇を結ぶにあたり、(そういう「(近代産業資本主義)経済の (政治) 社会的被制約性」を一環として含む)「普遍的諸要素の(ヨーロッパ近世に特有の)個性的な互酬-循環構造」の一端を前景に取り出し、同時に、(そうした構造が成立する前夜における)「普遍的諸要因の(ヨーロッパ中世に特有の)個性的な布置連関」への「因果帰属」を示唆しています。そのようにして、以下のⅡ「社会」篇、Ⅲ「支配」篇で、何に照準を合わせて一般概念(類-類型概念)を構成していくのか、「じっさいの事象にかかわる諸章」における「関心の焦点focus
of interest」の所在を予示している、と見ることができましょう。
以上が、Ⅰ「概念」篇-3「社会と経済」章の内容骨子です。「社会の合理化」としてのゲゼルシャフト形成と経済行為(とくに、その合理的展開としての「近代産業資本主義」)との「適合的」関係が、一般的に定式化され、例解されて、以下(Ⅱ「社会」篇、Ⅲ「支配」篇)における具体的展開への礎石が据えられ、あわせて、概念構成の方向と比重を規定する「関心の焦点」の所在が示されました。
しかも、「カテゴリー論文」との密接不可分の関係は、術語の一致と理論展開の脈絡ばかりでなく、前後参照指示のネットワークによっても立証されます。すなわち、この章には、全部で11個の参照指示が付され、そのうちの5個が前出参照指示ですが、上記§2中の3.、すなわち「ゲゼルシャフト形成は通例、その合理的目的「の範囲を越える」ゲマインシャフト関係 (諒解関係) を創成する」というすでにお馴染みの論点に付された、ふたつの前出参照指示Nr. 24とNr. 25が、いずれも「旧稿」中の前段を飛び越え、「カテゴリー論文」第29段の末尾に、(論点内容ばかりか、「ボーリング・クラブ」という例示・認識手段さえ一致する) 被指示箇所を見出します。
また、このⅠ-3章の末尾には、従来版では Ⅱ「社会」篇-1「家、近隣、氏族、経営とオイコス」章の冒頭に置かれ、「唐突」という印象を免れなかったつぎの一節 [Zitat 11] を、繰り上げて配置するのが適正でしょう。そうすれば、Ⅱ-1章の不自然な出だしが是正され、この一節自体も、Ⅰ「概念」篇から「じっさいの事象にかかわる諸章」(ⅡとⅢ) への「架橋句」、後者全体の「構成 (にかんする) 指示句」として、その位置価を回復します。
「もろもろのゲマインシャフトの需要充足は、それぞれに特有の、しばしばきわめて複雑な作用をそなえているので、その究明は、この (個別事例はもっぱら一般概念の例示として参照される) 一般的考察には属さない。
ここではむしろ、われわれの考察にとってもっとも重要な種類のゲマインシャフトにつき、その本質を手短に確定することeine kurze Feststellung des Wesens der für unsere Betrachtung wichtigsten Gemeinschaftsartenから始める (もろもろのゲマインシャフトを、ゲマインシャフト行為の構造・内容・および手段を規準として体系的に分類する課題は、一般社会学に属し、[その種の「一般社会学」は] ここではいっさい断念する)。そのさい、ここで論及されるのは、個々の文化内容 (文学・芸術・学問など) にたいする経済の関係ではなく、もっぱら『社会』にたいする経済の関係である。そのばあい『社会』とは、人間ゲマインシャフトの一般的構造形式allgemeine Strukturformen menschlicher Gemeinschaften にほかならない。したがって、ゲマインシャフト行為の内容上の方向が考慮されるのは、それらが特定の性質をそなえ、同時に経済を制約するような、ゲマインシャフトの構造形式を生み出すばあいにかぎられる。これによって与えられる限界 [内容上、どのような方向性をそなえたゲマインシャフト行為を、どのくらいの比重をかけて、どれだけの紙幅を割り当てて論ずるか] は、徹頭徹尾流動的である。いずれにせよ、ここで取り扱われるのは、きわめて普遍的な種類のいくつかのゲマインシャフトのみnur einige sehr universelle Arten von Gemeinschaften である。以下ではまず、そうしたゲマインシャフトの一般的な性格づけallgemeine Charakteristikがなされ、それらの発展諸形態Entwicklungsformenは、やがて見るとおり後段で、『支配』の範疇と関連づけて初めて、いくらか厳密に論じられよう」[34]。
冒頭の「ゲマインシャフトの需要充足」とは、明らかに、Ⅰ-3 章§3の例解に採り上げられた題材「ゲマインシャフトにおける給付調達-需要充足」を受けており、この一段が元来、当該§3の末尾にあって、そこでの議論を打ち切る一文であったことを示しています。そのあと、続篇の構成にかんする指示の範囲も、Ⅱ-1「家、近隣、氏族、経営とオイコス」章ばかりでなく、Ⅱ「社会」篇のみでさえなく、Ⅲ「支配」篇も含む、後続「じっさいの事象にかかわる諸章」の全体におよんでいます。全篇が大きく、Ⅱ「社会」篇と Ⅲ「支配」篇とに二分されることも、確言されています。
そのうえ、この一節には、続篇の叙述全体にかんする、きわめて重要な規定-限定が含まれています。Ⅱ「社会」篇とⅢ「支配」篇では、なるほど、古今東西の社会諸形象に、Ⅰ「概念」篇の基礎範疇と一般概念が具体的に適用-展開されていきますが、なにもかも採り上げて体系的に分類する、というのではなく (その意味の「一般社会学」ではなく)、「われわれの考察にとってもっとも重要な」、しかも「普遍的な種類の」ゲマインシャフトで、「経済との関連をそなえているもの」というふうに(著者ヴェーバーの価値理念-価値視点-問題設定から)選定規準が立てられ、絞りがかけられます。じっさいには、このあと、当の規準に該当するものとして、(Ⅱ「社会」篇の) 家、近隣、氏族、経営、オイコス、種族、(宗教ゲマインデとしての) 教団、市場、政治団体、法仲間、階級、身分、党派、国民、および (Ⅲ「支配」篇の) 正当な (合理的、伝統的、カリスマ的) 支配体制、身分制等族国家、俗権-教権関係(皇帝教皇体制-教権制-神政政治体制)、都市(とりわけ、非正当的支配として合法律的支配を樹立した「西洋中世内陸都市」類型)、(未稿ながら) 近代国家および近代政党、など、数多の社会諸形象が、順次選び出され、それぞれにつき、「(われわれにとって知るに値する) 本質を手短に確定し」、「一般的な性格づけ」がなされていきます。
ですから、「一般社会学」ではない、といっても、さりとて、個別事象をその個性に即して特質づけ、そうした特性を「現実の因果連関の一環」として被説明項に見立て、しかるべき先行特性=説明項に「因果帰属」する「個性化」的・「現実科学」的 (ないし「歴史科学」的) 考察が、くわだてられるのではありません。ここでは、個別事象はあくまで例示・認識手段として、一般概念 (類-類型概念) を構成する「一般化」的・「法則科学」的考察が意図され、このあとじっさいに展開されます。この「旧稿」で、そのようにして構成される一般概念(類-類型概念)の決疑論体系を、中国、インド、古代パレスチナといった個別の文化圏に、こんどは「個性化」的に適用し、各文化総体の特性把握と因果帰属を達成しようとくわだてるのが、「世界宗教」シリーズです。「旧稿」の一般概念構成は、そうした「個性化」的な (歴史社会学的) 考察との「相互補完」関係を認めたうえで、なおかつそれと区別しようとするばあいにかぎり、「(ヴェーバー流)一般社会学」と呼ぶのが適切でしょう。
つぎに、(文学・芸術・学問・宗教といった) 文化内容を、どのように取り扱い、考察の射程に取り込むか、についても、絞りがかけられます。それらと経済との関係は、直接にではなく、「社会」を媒介とする関係として、つまり、それらによって規定された社会の構造形式が「経済的意義」を帯びるばあい、そのかぎりで採り上げ、当の意義の大小に応じて論ずる、というのです。ところで、ヴェーバーの「(理解) 社会学的考察方法」によれば、「個々の文化内容」とは、「ゲマインシャフト行為が、行為者の主観的に抱かれた意味の内容に即し、特定の方向に分節化して開ける領域の、人間行為の所産にして規定根拠」を指しますから、この提言は、それぞれの(文化)領域ごとに、経済外的に制約されて生ずる、ゲマインシャフト行為の構造形式を、それが経済を制約する「経済的意義」の度合いに応じて、しかるべき比重をかけ、しかるべき紙幅を費やして (したがって当然、量的には不均等に) 論じようという意図の表白と受け止められましょう。このあと「じっさいの事象にかかわる諸章」では、宗教と (政治と法を含めての) 支配というふたつの文化領域が、確かに他に優って、大きな比重をかけて、取り扱われます。しかし、それはなにも「未定稿ゆえの量的不均衡」ではなく(モムゼンのように、恣意的に「等量原則」を持ち込んで前提にしてしまうと、そう見えるだけの話で)、むしろ著者自身によって意図された整合的結果と解されましょう。
以上が、「カテゴリー論文」を1「社会――行為と秩序」章として編入し、2「法と経済」章、3「社会と経済」章と結合して構成されるⅠ「概念」篇 (「トルソの頭」) の概要で、これをⅡ「社会」篇、Ⅲ「支配」篇に冠して初めて、「合わない頭をつけたトルソ」あるいは「そもそも頭のないトルソ」に、本来の「合う頭」が結合され、トルソ本体も蘇り、「全体として精確に」読めるようになる、と折原は考えます。
そこで、つぎの課題は、「カテゴリー論文」で定立され、Ⅰ「概念」篇に継受された社会学的基礎範疇が、Ⅱ「社会」篇、Ⅲ「支配」篇で、どのように「家」以下の社会諸形象に適用され、それらのゲマインシャフトに台頭する「合理化とゲゼルシャフト形成の過程」およびそれぞれの帰趨の究明に活かされていくのか――いいかえれば、それら「じっさいの事象にかかわる諸章」が、「カテゴリー論文」の社会学的基礎範疇によって、どのように体系的に統合されているのか――を検証していくことに求められましょう。そして、本来ならば、ここで、Ⅱ「社会」篇、Ⅲ「支配」篇の全内容に立ち入り、この問いに全面的論証をもってお答えすべきところです。しかし、そうすると、一冊の本を著すにひとしい大仕事となり、今日のところは、とても時間と力が足りません。
他方、『全集』版の「旧稿」該当巻も、第三分巻を最後に、すべて出揃い、シュルフター編のⅠ/24「作品史と文書資料」も昨年刊行されました。ということは、『全集』版への折原の批判的協力も「打ち止め」となり、そろそろ「積極的展開」に移ってよい頃合いかと思われます。そこで、近年中にも、『トルソの頭』の続篇『ヴェーバー「経済と社会」(旧稿) の再構成――全体像』の刊行をもって全面的論証の課題も果たすことをお約束し、今日は、『全集』版編纂者シュルフター氏とこの間に交わしてきた討論の範囲にかぎって、いくつかの所見を述べて、責めを塞ぎます。
5. カテゴリー論文の社会学的基礎範疇にもとづく「旧稿」の体系的統合――シュルフターとの討論から
Systematische Integriertheit
des „alten Manuskripts“ aufgrund der soziologischen Grundkategorien des
Kategorienaufsatzes――aus den Disskusionen mit
Schluchter
シュルフターは、当初、「旧稿」には («基礎概念» ではなく)「カテゴリー論文」の基礎範疇が適用されているから、「カテゴリー論文」を前置すべきである、と主張し[35]、折原と見解が一致していました。ところが、『全集』版「旧稿」該当巻が、「カテゴリー論文」を前置せず、分巻形式で刊行され始める直前の1998年、論文「マックス・ヴェーバーの『社会経済学綱要』寄稿――編纂問題と編纂戦略」を『ケルン社会学・社会心理学雑誌』に発表し、所見を変更しました。すなわち、ヴェーバーの「旧稿」執筆にはふたつの「局面Phase」があり、「第二局面」では「カテゴリー論文」の規準的意義が失われ、その証拠に、「第二局面」のテクストには(「カテゴリー論文」に特有の術語)「諒解とその合成語Einverständnis und
seine Komposita」が使われなくなっている、と主張し始めたのです。ちなみに、「第一局面」とは、ヴェーバーが分担寄稿の執筆を開始した1909-10年頃から1912年末までで、この時期に執筆されたテクストとしては、「経済と秩序」「階級、身分、党派」「市場ゲマインシャフト」および「政治ゲマインシャフト」などが挙げられます。「第二局面」は、1912年末ないし1913年初頭から、1914年夏の第一次世界大戦勃発による執筆中断までで、この時期の主要テクストは、「宗教社会学」「支配の社会学」および「諸ゲマインシャフトの社会学」(「経済とゲマインシャフトとの原理的関係」「家ゲマインシャフト」「種族ゲマインシャフト」「勢力形象。『国民』」) とされます。
しかし、シュルフターが「第二局面」に執筆されたと見るⅢ「支配」篇 2「正当的支配の三類型」章[36] 2)「伝統的支配」節では、三箇所で、術語「諒解ゲマインシャフト」「諒解」「諒解行為」が明示的に用いられています[37]。とくに、そのうちの一箇所では、「諒解行為」を含め、「四階梯尺度」をなす基礎範疇が総動員されて、「身分制(等族)国家Ständestaat」成立の経緯と機縁が解き明かされます[38]。[Zitat 12]
なるほど、Ⅲ「支配」篇中、1「支配一般」章と2-1)「合理的支配」節には、「諒解とその合成語」は見当たりません。しかし、「四階梯尺度」の基礎範疇が適用され、支配の意義が「合理化の梃子」に求められていることは、確かです[39]。[Zitat 13 u. 14]
ただ、2「正当的支配の三類型」章の3)「カリスマ的支配」節には、「四階梯尺度」の基礎範疇も、明示的にはわずかしか姿を顕しません。しかし、その稀少例を取り出して、仔細に検討してみますと、そこでなぜ、基礎範疇の使用頻度が低いのかが判明します。
たとえば、カリスマ現象の包括的位置づけとして、[Zitat 15]「カリスマが、ゲマインシャフト行為 [世良訳では「共同社会行為」] の永続的組織Dauergebildeのなかに流入していくときには、常にその勢力は減退し、それだけ、伝統Traditionか、あるいは合理的ゲゼルシャフト関係rationale
Vergesellschaftung [世良訳では「利益社会関係」] の勢力が増大する[ここで、「ゲマインシャフト」が、明らかに「ゲゼルシャフト」の上位概念をなし、«基礎概念» でなく「カテゴリー論文」の基礎範疇が適用されていることに注意]。これが、カリスマなるものの運命である」[40]、あるいはまた、[Zitat 16]「カリスマ的支配が、多年生の制度perennierende
Institutionに変形を遂げようとするとき、それが第一に直面する根本問題は、……[予言者・英雄・政党首領といったカリスマ的支配者の] 後継者問題で、……まさにこの問題において、最初に、制定秩序Satzungや伝統Traditionの軌道への合流が、不可避的に開始される」[41]。
この二引用句からも明らかなとおり、カリスマは、日常的秩序の「危機」の所産で、元来は反秩序的――したがって反慣習律的ないし反制定律的――に作用し、既存の伝統的(諒解)秩序や合理的(制定)秩序を覆します。なるほど、カリスマも、やがて「日常化」して、伝統や制定秩序と合流し、しばしばこれらを補強しますが、そのばあいには、必ず変質、変形を遂げます。したがって、真正なカリスマがそれに固有の力を発揮する本来の領域にかんするかぎり、その叙述に、「多年生の制度」や「永続的[社会]形象」における秩序の「合理化」にかかわる基礎範疇を、直接適用することはできず、その必要もないわけです。ただ、それにもかかわらず、あえて適用するとなれば、反面ないし対極を指示する概念として、否定的-間接的に適用することになりましょう。たとえば、[Zitat 17]「[教理上、後継者問題にかんして、新たな受肉は期待できない、という帰結を引き出した]真正 [カリスマ的] な (南伝) 仏教では、仏陀の弟子たちが、かれの死後、托鉢僧団Mönchsgemeinschaftにとどまり、なんらかの組織Organisationやゲゼルシャフト関係Vergesellschaftung [世良訳では「利益社会関係」] は最小限しかもたず、できるかぎり無定型の臨機的ゲマインシャフト形成amorphe
Gelegenheitsvergemeinschaftung [世良訳では「共同社会関係」]
の性格を維持した。……僧団の、そのように高度に無定型な性格が、インドにおける仏教の衰滅に大いに貢献したことは確かである」[42]という用例のように。
これらの明示的適用例は、ヴェーバーが3)「カリスマ的支配」節にも依然として「四階梯尺度」の基礎範疇を適用している事実と、ただしそこでは術語の使用頻度が、叙述対象の性質に応じて必然的に低下している、という事情とを、ふたつながら証明しています。術語の使用頻度の低下を、ただちに (用例を具体的なコンテクストのなかで具体的に検討することなく) 基礎範疇の規準的意義の減衰ないし喪失の証と速断してはなりません[43]。
そのうえ、ヴェーバーが3)「カリスマ的支配」節を執筆中、つまりシュルフターのいう「第二局面」でも、当該節の叙述を「カテゴリー論文」に結び付け、両者の関連を意図して読者に示そうとした歴然たる証拠があります。これを、術語用法以外のテクスト内在的・検証方法のひとつ(「参照指示ネットワーク法」)の一適用例として、採り上げてみましょう。
ヴェーバーは、3)「カリスマ的支配」節で、カリスマと官僚制的合理化とを対置し、両者がともに、伝統を覆す革命的作用を発揮すると見ました。ただ、その作用様式は対照的です。カリスマはまず、それにしたがう人間を「内から」変革し、事物や秩序は、変革された人間の革命的意欲にしたがって新たに形成されます。それにたいして、官僚制的合理化は、「外から」技術的手段によって、まず事物や秩序を変革し、そうすることをとおして、変化した外界に適応する人間のありようもなし崩しに変えます。しかし、ここでヴェーバーは、革命の二類型間の差異が、カリスマ的指揮者にも官僚制的支配者にも等しく直観的に孕まれる初発の理念にあるのではなく、当の理念が被指揮者ないし被支配者に「獲得されangeeignet」、「体験されるerlebt」仕方にある、と述べて、こうつづけます。[Zitat 18]
「われわれが前段で見たとおり、合理化なるものはつぎのように経過する。すなわち、広汎な被指揮者大衆は、かれらの利益に役立つような外的また技術的な諸成果のみを取り入れ、あるいはそうした諸成果に適応していくが (われわれが九九を「覚え」、あるいはあまりにも多くの法律家が法技術を「覚える」ように)、そのさい、そうした諸成果を創造した者の『理念』内容は、被支配者大衆にとってはどうでもよい、というように。合理化と合理的『秩序』とは『外から』革命するという命題は、まさにこのことを意味している」[44]。
さて、「合理化」一般の随伴結果にかんするこの命題は、冒頭の前出参照指示 (=「前段で見たとおり」) にしたがって「旧稿」中を遡っていっても (念のため後段を探査してみても)、どこにも被指示叙述を見出すことができません。ただ、「カテゴリー論文」の末尾 (第39段) でのみ、内容上的確に一致する論点に行き当たります。そこでヴェーバーは、「ゲマインシャフトの秩序の合理化とは、じっさいには何を意味するのか」と問い、「大衆は、合理的に製造された日用財や合理的に制定された秩序に、適応しながらも、そうした財や秩序が創造される基礎となった合理的原理や理念からは、ますます疎隔され、ただ、それらが合理的に予測可能な仕方で機能する、と信じているにすぎない」と答え、しかも、そのコンテクストで「九九」や「あまりにも多くの法律家」を引き合いに出していました[45]。
折原もかつて、シュルフターの所見変更にたいして、[Zitat 19]「この前出参照指示 [Nr.474] に内容的に対応するのは、『九九』と『法技術』の例を含む、カテゴリー論文の最後のパラグラフのみである (WL: 471-73, 海老原・中野訳: 120-26)。『当初の頭』[「カテゴリー論文」第二部]がその [規準的] 役割を失ったとするならば、こうしたことがどうして可能なのか」と反問しました[46]。あくまで論点内容の一致を中心に置き、「九九と法技術」という例示の一致は補足として加えるだけで、「カリスマ的支配」節を「カテゴリー論文」に架橋する原著者の意図と、これにもとづく結節環の厳存を、動かぬ証拠として挙示したのです。
ところが、シュルフターは、この批判を、折原が、論点内容は抜きに、例示の一致のみからテクスト連関を主張していると解し、こう断をくだしました。[Zitat 20]「ところで、ヴェーバーが用いる例や引用は、配置問題を解くためにはまったく役に立たない。当時ヴェーバーは、数年をかけて、後からさまざまな脈絡で用いることになる [例や引用の] 一連のレパートリーをつくり出していた。前出参照指示474 [=理念を伴わない合理化の進行] と同じ箇所に、繰り返して何かを覚えるという例 [=九九や法技術] が挙げられているからといって、そこから導き出せることはほとんどない。このばあい、挙げられている例を前出参照指示とはまったく関係なく、述べられた事態に説明を加えるものであるかのように読むことも可能なのだから、なおさらである。こじつけることはいくらでもできる。つまり参照指示の大半は一義的ではない、ということである。いずれにせよ参照指示は決定的な証拠をえるための道具にはならない」[47]と。
これは、論点内容間の一致を、引例間の一致に「すり替え」たうえ、「こじつけ」として一蹴する性急な断定で、折原の批判にたいする反論として「まったく役に立たない」のではないでしょうか。こちらが具体的に提示している参照指示連関に、正面から具体的には反論せず、それでいて「参照指示の大半は一義的ではない」「参照指示は決定的な証拠をえるための道具にはならない」と抽象的に断定を連ね、結論を急いで、「参照指示ネットワーク法」一般の方法的意義を否定し去るシュルフターの論法は、編纂陣にとっても「旧稿」の再編纂に有効と思われる武器を、みずから拒否し、放棄するに等しく、しごく残念というほかはありません。
それでは、シュルフターが、「支配」篇とともに「第二局面」の主要所産と見る「宗教社会学」章のほうは、どうでしょうか。
なるほど、ここにも「諒解とその合成語」は見当たりません。しかし、宗教上のゲマインシャフト形成Vergemeinschaftungの主題をなす「Gemeinde(このばあい教団)」論には、ゲマインシャフトをゲゼルシャフトの上位概念とする(«基礎概念» ではなく)「カテゴリー論文」の基礎範疇が適用され、ゲマインデ一般が、「ゲゼルシャフト形成に媒介されたゲマインシャフト」「ゲマインシャフトへのゲゼルシャフト形成」という特徴的な表記で、概念規定されています。じつは、この一般的規定を突き止めて初めて、宗教ゲマインシャフトとしての「教団」と、地域ゲマインシャフトとしての「村落ゲマインデ」「都市ゲマインデ」との関係も、明らかにされます[48]。そうして初めて、「旧稿」全篇の各所に散在し、一見「そのつどad hoc」バラバラに論じられているかに見える、さまざまな「ゲマインデ」が、まさにGemeindeという統一的術語をもって論じられる整合的意味も、判然とします。
ヴェーバーによれば、宗教的意味における「教団」の発生には、いくつかの類型がありますが、そのうちもっとも典型的なのは、「予言の日常化Veralltäglichung der
Prophetie」として成立するばあいです。予言者個人の弟子や助力者 (支配社会学の範疇を当てれば、カリスマ的支配者として権力を握る予言者の「輔佐幹部」) は、予言者を即人的persönlichに崇拝してその周囲に集まった帰依者たち(被支配者大衆)を、「臨機的平信徒Gelegenheitslaien」(「無定型のゲマインシャフト」ないし「浮動票状態」) に留め置かず、双方の権利-義務を定め、そうした制定秩序のもとに平信徒の積極的関与を促し、多年生の教団構成員に組織し、よってもって自分たちの経済的存立も確保しようとします。そのように、もっぱら宗教上の目的に仕える持続的ゲゼルシャフト形成dauernde
Vergesellschaftungに媒介されて生まれる、近隣在住平信徒の持続的ゲマインシャフトが、「信徒教団Laiengemeinde」にほかなりません。そのなかで、カリスマ的予言者の (みずからも多少はカリスマを帯びた輔佐幹部の) 弟子や助力者も、密儀師・教説家・祭司・司牧者などに転態を遂げます。としますと、「ゲゼルシャフト形成に媒介された多年生ゲマインシャフト」へのこの教団形成は、なにも予言の日常化からだけではなく、ある神への供儀祭司が、その神の信奉者たちに、首尾よく制定秩序を課して、多年生の信徒ゲマインシャフトにゲゼルシャフト形成vergesellschaftenすれば、そこにも成立することになりましょう。
ここで重要なのは、ヴェーバーが、[Zitat 21]「こうした宗教的意味におけるゲマインデは、経済的、財政的、あるいはその他の政治的理由で、ゲゼルシャフト関係に統合される近隣団体der aus
ökonomischen, fiskalischen oder anderen politischen Gründen vergesellschaftete
Nachbarschaftsverbandと並ぶ、ゲマインデの第二範疇 die zweite Kategorie von Gemeindeである」[49]と述べていることです。ここにいきなり「第二範疇」という表記が出てくるのですが、それでは、「第一範疇」とは何で、双方は、どういう関係にあるのでしょうか。
しかし、この「第一範疇」という文言を当てて特定のゲマインデを論じている箇所は、「旧稿」中どこにも見当たりません。ところが、Ⅱ「社会」篇中の1「家、近隣、氏族、経営とオイコス」章に遡ってみますと、[Zitat 22]「近隣ゲマインシャフトは、ゲマインデの原生的な基礎urwüchsige Grundlageである。ただし、ゲマインデとは、十全な意味では、後述のとおり [参照指示Nr. 36] 数多の近隣ゲマインシャフトを統括する政治的ゲマインシャフト行為との関連によって初めて創成される形象にほかならない」[50]という記述に出会います。ここで、「旧稿」の英訳者は、この後出参照指示Nr. 36を、後出Ⅲ「支配」篇-4「都市」章の「ゲマインデとしての都市」を指すものと解し、その旨注記しています[51]。しかし、それでは、「都市ゲマインデ」が、はたしてゲマインデの「第一範疇」でしょうか。この点、疑問なしとしません。
とまれ、このふたつの引用からは、「ゲマインデ」とは、「複数の原生的近隣ゲマインシャフトが、なんらかの政治的ゲマインシャフト行為 (すなわち、ある領域を、物理的強制力の威嚇ないし発動によって、秩序ある支配のもとに置こうとするゲマインシャフト行為) により、「上から」制定秩序を課され、これに規制されてvergesellschaftet、創成される (つまり「上からの」ゲゼルシャフト形成に媒介された) 第二次的ゲマインシャフト形象 (構成体)」を意味するらしい、と見当がつきます。
そこでいったん、宗教的教団形成のいまひとつの類型に戻りますと、ペルシャ帝国の政治的ゲマインシャフト行為によるユダヤ国家の宗教教団への再編-温存に、典型例が見られるとおり、一般に世界帝国の支配者・征服者は、「被征服民の馴致 Massendomestikation der
Unterworfenen」を目的とし、稀ならず、被征服民の政治団体を宗教教団に再編成して利用しようとします。そのさいには、征服された政治団体は解体entpolitisierenされ、住民は武装解除entmilitarisierenされますが、従来の政治団体付祭司は、祭司の地位には留め置かれ、教団の長として身分を保障され、「総督」のもとになにがしかの政治的権限さえ与えられて、被征服民の統治に当たります。ここにヴェーバーは、「近隣団体からなる強制ゲマインデdie Zwangsgemeinde
aus dem Nachbarschaftsverbandが、財政上、国庫の利益を確保するため [政治的に] 利用されるように、ここでは宗教上のゲマインデが、被征服民を馴致する手段として [政治的に] 利用される」[52]と付記しました。
とすると、国庫の歳入確保や治安維持といった政治-行政目的のもとに、「上から」ゲゼルシャフト関係をあてがわれ、これによって再編成される近隣ゲマインシャフトとして、「旧稿」中の飛び飛びの箇所に、つぎのような叙述が見出されます。ひとつはⅡ-6「法社会学」章で、[Zitat 23]「[イギリスの] 国王は、裁判や行政に必要な給付を、集団責任をともなう強制団体die Zwangsverbände
mit Kollektivpflichtenを形成することによって確保した。これは、中国法、ヘレニズム法、後期ローマ法、ロシア法およびその他の諸法にも知られていた強制団体と、原理的には類似のものであった。ゲマインデGemeinde
(communaltie) は、もっぱら国王行政のためのライトゥルギー的義務団体という意味でだけ存在し、国王による [特権] 授与や寛容によってのみ、権利を帯びたにすぎない」[53]とあります。
また、Ⅲ「支配」篇2「正当的支配の三類型」中の2)「伝統的支配」節でも、そうしたライトゥルギー的需要充足が、家産君主制において発展を遂げた特徴的形式とみなされ、これについてつぎのように述べられています。[Zitat 24]「ライトゥルギー的需要充足の形式と作用とはさまざまでありうるが、ここでわれわれの興味を引くのは、それを源泉として成立する臣民のゲゼルシャフト形成Vergesellschaftung
der Untertanenである。首長にとって、需要充足をライトゥルギー的に組織することは、つねに、首長にたいして負担された諸義務を、それについて責任を負う他律的またしばしば他首的な団体を設立することによって確保することを意味した。ちょうど氏族Sippeが、氏族成員の給付について責任を負ったように、いまやこれらの団体が、君主にたいして、すべての個々人の諸義務について責任を負うのである。じじつ、たとえばアングロ・サクソン族のもとで、首長が依拠した最古の団体は氏族であった。氏族が首長にたいして、氏族員の服従を保障する義務を負ったのである。これと並んで、村落住民の政治的また経済的な義務について、村落員の連帯責任が成立した。ここから、その帰結として、村落への農民の世襲的拘束が生じうるし、また、土地保有への個々人の参与権が、これによって、土地利益の産出に参加する義務と化し、そのようにして、支配者にたいして負担する諸貢租 [確保] のための意味をももつ義務になる、ということも生じえた」[54]。
とすると、この、家産制的支配者のライトゥルギー的需要充足のため、「[家産制的「直轄地」従属民の埒外にいる] 政治的臣民のゲゼルシャフト形成 [上からの制定秩序授与]」によって、連帯責任を負わされ、氏族にとって代わる近隣-地縁団体こそ、ゲマインデの「第一範疇」に当たるのではないでしょうか。というのも、「団体Verband」とは定義上、(家長、村長、氏族長老といった) 特定の権力者・権力保有者が存立して、諒解によって所属の決まる団体員に、諒解によって実効力をもつ秩序を発令し、諒解に反して行為する者には、物理的また心理的強制力を行使する――そのかぎりで権力関係に再編された――「諒解ゲマインシャフト」ですから、この「ライトゥルギーへの連帯責任を負わされた近隣-地縁団体」としての「ゲマインデ」は、「ゲゼルシャフト関係に媒介されたゲマインシャフト」という一般規定に該当し、そのうえ、「家ゲマインシャフト」「近隣ゲマインシャフト」という血縁・地縁ゲマインシャフトの「原生的基礎」には (少なくとも「ゲマインデとしての都市」よりも) 相対的に近く、その意味で「第一範疇」に相応しい、といえるわけです。
さて、ヴェーバーは、そのようにゲマインデの類概念を設定したあと、ここでも、その発展の対極的(東-西)分岐を見通し、ふたつの類型概念を設定します。ひとつは、そうしたゲマインデが、イギリスにおけるように、「首長にたいして広範囲の独立性をもつ地方的な名望家行政」に帰着し、地方自治の源泉になるという発展方向です。いまひとつは、オリエントにおけるように、ライトゥルギーをむしろ全社会的に拡張して、すべての「個々人を土地・職業・ツンフト・強制団体に世襲的に拘束する、臣民の総体的・即人的な家産制的従属die universelle
persönliche Patrimonialhörigkeit der Untertanen に帰着する方向です。このようにヴェーバーは、ゲマインデの発展方向につき、ふたつの対極を理念型として構成し、大部分の発展を両者の中間に位置づけながら、そうした対極的分岐を規定する要因を索出します。「首長自身の家産制的な権力的地位や、とりわけ、いざとなれば政治的臣民を敵にまわしても確保できるような、かれの家産制的軍事力が、技術的に発展していればいるほど、第二の型、すなわち総体的隷属関係 das universelle
Untertanenverhältnisが、それだけ容易に実現されえた」[55]と。
他方、「政治的ゲゼルシャフト形成に媒介され、再編された原生的近隣ゲマインシャフト」という「ゲマインデ」の一般概念を展開していきますと、もし都市君主が、都市の近隣ゲマインシャフトを原生的基礎として、制定秩序をあてがい、地縁団体にゲゼルシャフト形成するとすれば、そこには「ゲマインデとしての都市」が成立するでしょう。この点について、ヴェーバーは「都市」章で、つぎのように述べます。「確かに、都市経済政策の担い手が君侯 Fürst であり、都市とその住民が、[支配の] 対象として、かれの政治的支配領域に属しているということもありうる。このようなばあい、都市経済政策とは、そもそもそういうものがあるとして、もっぱら都市とその住民のためにおこなわれはするが、都市とその住民によっておこなわれるのではない。しかし、必ずしも君侯ばかりが都市経済政策の担い手であるとはかぎらない。また、君侯が都市経済政策の担い手であるようなばあいにも、なおかつ都市は、なんらかの範囲で自律権をもつ団体ein in irgendeinem
Umfang autonomer Verband、すなわち、特別の政治的・行政的秩序をそなえた 『ゲマインデ』 eine “Gemeinde” mit besonderen politischen und Verwaltungsrichtungenとして考察されなければならない」[56]と。つまり、当初には制定秩序を都市君侯によって上からあてがわれる他律的団体であった都市も、君侯を追放して農村の城砦に閉じ込め、あるいは君侯の譲歩を勝ち取り、それ自体の政治・行政秩序をそなえた、自律的また (たいていは) 自首的な組織ないし制度に成長を遂げることもありえましょう。そのばあい、当の政治・行政秩序は、互いに結束して市民層Bürgertumないし市民身分Bürgerstandをなす都市住民自身の「協定」によって制定されましょう。しかし、そのように十全に発展を遂げた自治都市も、複数の近隣ゲマインシャフトを原生的基礎とし、(誓約団体の結成という)ゲゼルシャフト形成によって媒介された地域-諒解ゲマインシャフト、したがって「ゲマインデ」の特例であることに変わりはありません。ただ、その秩序が自律的に制定され、市長や市参事会員といった権力保有者も、自首的に選出される、という違いがあるだけです。
そういうわけで、以上、「旧稿」の各所に散見され、一見無関係ともとれる「ゲマインデ」関連の叙述は、じつは「ゲゼルシャフト形成に媒介された近隣-地縁ゲマインシャフト」という一般概念(「カテゴリー論文」の基礎範疇)を共有し、これを基礎に、①原生的な近隣ゲマインシャフトが、財政上その他、政治的目的のもとに「連帯責任団体」にゲゼルシャフト形成vergesellschaftenされた「村落ゲマインデ」(「第一範疇」)、②同じく、宗教的目的のもとにゲゼルシャフト形成された「教団」(「第二範疇」)、③都市在住者の近隣ゲマインシャフトに、都市君主または都市市民層自身により他律的または自律的に政治-行政秩序が制定され、首長他の権力保有者が他首的または自首的に選定されて創成される「都市ゲマインデ」(「第三範疇」)という三類型に区分されています。「カテゴリー論文」に固有の、ゲマインシャフトをゲゼルシャフトの上位概念とする基礎範疇、これによって初めて意味をなす「ゲゼルシャフト形成に媒介されたゲマインシャフト」という一般概念に、揺るぎなく準拠し、全篇を通読して初めて、「第一局面」執筆のテクストと「第二局面」のそれとに跨がる、体系的関連と統合が、突き止められます。
ここで、これら「ゲマインデ」関連の類-類型概念を通観しますと、ゲマインデの原生的基礎としての「近隣ゲマインシャフト」は、原生的なるがゆえに、どの文化圏にも見られる普遍的現象です。ところが、ゲマインデの「第一範疇」としての「村落ゲマインデ」となると、それ自体は普遍的であるとしても、家産制君主の権力構造、その他の条件次第で、「相対的に自律的な地方名望家行政」か、それとも「総体的即人的家産制的隷属」か、この二方向に発展を遂げる類型的分岐の起点としても、位置づけられています。さらに、「第二範疇」としての「教団」と「教団宗教性」となると、宗教ゲマインシャフトの普遍的構造形式ではありながら、じっさいには西洋文化圏でのみ支配的となった特例としても捉えられ、それを社会的基盤とする祭司、予言者、(さまざまな社会層からなる)平信徒間の三つ巴の緊張関係と、これにもとづく宗教発展の諸相が、(「宗教社会学」章で)詳細に分析されます。近隣ゲマインシャフトを原生的基盤とする原生的「互恵倫理」が、「教団」に引き継がれて「誓約兄弟関係」に拡張され、「同胞愛」倫理にも醇化されて、血縁的氏族的紐帯の解体に拍車をかけ、やがて「時満ちて」(西洋中世には)「第三範疇」としての「都市ゲマインデ」の自治権簒奪を支える「都市市民身分」形成の発酵母胎となります。そのように、「ゲマインデ」関係の類-類型概念も、一見バラバラで関連と統合を欠くかに見えながら、じつはいずれも、ヴェーバーの普遍史的で包括的な問題設定――西洋文化圏の歴史を、他の文化圏から分けた、普遍的諸要因の個性的布置連関は、いかなるものか、との問い――に導かれ、なぜ西洋でのみ、「合理化」(としてのゲゼルシャフト形成)が、先行条件(先行の諸ゲマインシャフト)によって「引き戻され」「包摂され」ずに、むしろその制約を「一点突破」して「全面展開」するにいたったのか、という根底的な問いかけにたいして、それぞれがいわば「応答価値」をそなえ、しかるべき位置を占めているわけです。
残るのは、「支配」篇と「宗教社会学」章以外で、「第二局面」に執筆されたテクストについてはどうか、という問題です。そうしたテクストのひとつに、「経済とゲマインシャフトとの原理的関係」章があります。しかし、これについては、さきほど採り上げたとおり、「合理的目的結社形成の随伴結果として、当の合理的目的の範囲をこえるゲマインシャフト関係(諒解関係)が創成される」という同章中の論点に、前出参照指示Nr. 25が付され、これが「カテゴリー論文」第29段末尾に、論点内容はもとより、(宗教上のゼクテから、社交クラブを経て、ボーリング・クラブにいたる)例示までも一致する被指示叙述を見出します。この事実は、両テクストの架橋が、原著者自身によって意図されていた事実を、(当の架橋がふたたび放棄されたという、なにか具体的な反証によって覆されないかぎりは)見紛う余地なく証明しているというほかはありません。
また、(同じく「第二局面」に書かれたとシュルフターのいう)「種族」章についても、これまた「種族的共通性信仰の政治的『人為的』創成」を「合理的ゲゼルシャフト関係が即人的ゲマインシャフト関係に解釈替えされる」通則の一例と見る論点に、前出参照指示Nr. 55が付され、これが、前出参照指示Nr. 25の論点を経由して、やはり「カテゴリー論文」第29段末尾に連なり、確たる結節環の存立を証していました。
最後に、「ゲマインシャフト」篇中の「家」「近隣」「氏族」の三章が、未検証のまま残されています。なるほど、これらにはやはり、「諒解とその合成語」が明示的に使われてはいません。しかし、これらは、けっして「無定型のゲマインシャフト」ではなく、いわば「もっとも原生的したがって普遍的な諒解ゲマインシャフトの代表例」です。成員は互いに、「家計の共有と家長への恭順」「近隣近接居住と救難義務」「族外婚、財産相続、血讐義務による安全保障」にかかわる「非制定秩序」に準拠してゲマインシャフト行為を交わし合っています。この点は、「カテゴリー論文」が前置され、ほかならぬ「諒解行為」概念が堅持されていさえすれば、逐一Haus-Einverständnisgemeinschaft,
Nachbarschafts-Einverständnisgemeinschaft, Sippen-Einverständnisgemeinschaft といった (正確でも長ったらしい) 表記を当てるにはおよばない、いわば「自明のこと」といえましょう。それらの章では、家ゲマインシャフト、近隣ゲマインシャフト、氏族ゲマインシャフトに代えて、家団体、近隣団体、氏族団体といった簡潔な表記はしばしば当てられ、これらが(常態としては、家長、村長、氏族長老といった権力保有者のもとに、諒解によって秩序が維持される)諒解ゲマインシャフトであることを表示しています。ですから、このばあいにも、「諒解とその合成語」のような術語が、どの程度明示的かつ頻繁に用いられるかは、テクストの書かれた局面ないし時期における「カテゴリー論文」の規準的意義の有無ないし強弱によってではなく、術語を直接明示的に適用して対象の特性を把握し、位置づけする必要の度合いによって決められている、と見たほうが、はるかに無理がないでしょう。
その点、「種族」「階級」「身分」などの「社会形象」、あるいは「官僚制」「家産制」「封建制」「身分制等族国家」といった大規模な「支配形象」については、「家」「近隣」「氏族」とは事情が違います。たとえば、ある「階級状況」を共有する「人間群」=「統計的集団」としての多数者が、互いに意味上の連携はない「同種の大量行為」から「無定型のゲマインシャフト行為」「諒解行為」を経て「臨機的ないし持続的なゲゼルシャフト形成」にいたる「四階梯尺度」のうえで、どこまで組織化され、「階級」としていわば「成熟」しているかは、そのつどこれらの術語を適用して分析し、位置づけしなければならない、まさに社会学的な問題をなしています。そして、それらのテクストでは、「カテゴリー論文」の社会学的基礎範疇が、(ばあいによっては、頻度は低いとしても) 要所で確かに適用されています。
総括――「カテゴリー論文」の適正な編纂によって「旧稿」にも「扇の要」を据えてほしい
Zusammenfassung----Stelle den
Schlußstein auch für „das alte Manuskript“ durch die vernünftige Herausgabe des
Kategorienaufsatzes !
ここで、この間の対シュルフター論争を、折原の側から率直に総括して、ふたつのことを強調したいと思います。
ひとつは、「カテゴリー論文」の基礎範疇とは何かについて、はっきりと定義をくだし、その概念規定に該当する術語用例があるかどうかを、逐一、質的に検証していくのではなく、「範疇に富むkategorienreich」とか「範疇に乏しいkategorienarm」とかの大雑把な量的規準で議論をしていても始まらない、ということです。
ところが、折原は、1994年、『ケルン社会学・社会心理学雑誌』に、論文「マックス・ヴェーバー『経済と社会』再構成への基礎づけ――初版『2-3部』における参照指示の信憑性」[58]を発表して、ヴィンケルマンによる参照指示の書き換えを元に戻し、遺憾ながらそこから提起されざるをえない、「では、初~三版の編纂者についてはどうだったろうか」との問い(「信憑性問題」)に、つぎのとおり解答しました。
まず、①「旧稿」初版の全参照指示について、被指示叙述との整合性を問うと、被指示箇所が「旧稿」中には皆無であったり(類型A)、そのうち、Nr. 474のように「カテゴリー論文」中にのみ被指示箇所を見出したり(類型C)、前出参照指示が後続叙述中に、逆に後出参照指示が先行叙述中に、被指示箇所をもっていたり(類型B、逆転誤指示)、といった不整合が、(状況証拠としての他のヴェーバー著作と比べて) 異例に多く (「黙示的他出指示」を除く全447例中 41例で、一割弱) 発見されます。
ということは、②マリアンネ・ヴェーバーが、自分の初版編纂に合わせて参照指示を体系的に書き換えようとはせず、少なくともその企図を完遂してはいない、という事実を意味するでしょう(かりにそうしていたら、マリアンネ・ヴェーバーの作為による「整合性」がそなわったはずですから)。しかし他方、マリアンネ・ヴェーバーが、なにか恣意的に草稿に介入し、参照指示も書き換えた、とは考えられません。
では、なぜ、異例に多い不整合が生じたのでしょうか。そこで、③(「旧稿」全篇への妥当性はもっとも高いと見られる)「1914年構成表」に準拠して、試みに「カテゴリー論文」を前置し、テクスト配列も並べ替えてみますと、類型A を除く不整合が、ほとんどすべて解消されます。ということは、原著者がやはり「1914年構成表」に準拠して、恒常的習癖どおり整合的に挿入していた (ですから、それ自体としては信憑性のある) 参照指示が、初版編纂者によるテクストの並べ替え[59]によって、あたかも「不整合」であるかのように現れた公算が大といえましょう。この事実は、なんらかの具体的反証-反論によって具体的に覆されないかぎり、「1914年構成表」の妥当性と、各参照指示自体の信憑性とを、互いに証明し合っている、と解釈できるのではないでしょうか。
そのように、折原が1994年論文で明らかにしようとしたのは、ヴィンケルマンが参照指示を書き換えたという事実のみではなく、マリアンネ・ヴェーバーが参照指示を書き換えた公算は低いという「参照指示の信憑性」でした。だからこそ、「再構成への基礎づけ」と題したのです。
ところが、この論文の発表からすでに15年以上が経過しているのに、折原のこの論証を具体的反証-反論によって覆す批判も、独自の一覧表作成によって追検証する研究も、皆無です。それでいて、「マリアンネ・ヴェーバーがどこで参照指示を書き換えたのか、分からないから、参照指示法には限界がある」といった、具体的な検証のレヴェルに達しない、抽象的懐疑論や否定論が、(本来なら、そうした研究に先鞭をつけていなければならなかった、ドイツの『全集』版編纂陣からも) 唱えられるのです。
折原は、参照指示法を適用することになれば、まさにそうした疑問と批判が出てくるにちがいないと予想し、「方法的にことを運ぼうと思えば、科学の最初の基礎を、もろくも崩れやすい砂のうえにではなく、硬い岩のうえに据えなければならない」という (当該論文のモットーに掲げたデュルケームの) 寸言にしたがい、まえもって、予想される批判に答え、参照指示そのものの信憑性を上記のとおり証明しています。シュルフターの論難は、1994年論文以前の水準にあり、そこですでに答えられている疑問の「蒸し返し」というほかはありません。
しかし、『全集』版「旧稿」該当巻も、未刊は第三分巻「法」のみとなり、補巻(第六分巻)と位置づけられてきた「編纂史-編纂論争史」も、Ⅰ/24として刊行されました。ここで、『全集』版編纂にたいする (全世界のヴェーバー研究者-読者に、こんどこそ「合う頭をつけた」最良の『全集』版が提供されてほしい、との願いに発する) 折原の「批判的協力」も、限界に達し、使命を終えた、と考えるほかはありません。このうえは、折原自身の統合方針にもとづき、既刊の『全集』版「頭のない五死屍片」も素材としては活用し、折原編「合う頭をつけたトルソ」の全体像を構築し、提示していきたいと思います。
ただ、シュルフター氏が、「カテゴリー論文」の編纂をヴァイス氏に委ねたのは、かれ流のフェア・プレーとして歓迎いたします。
ヴァイス氏が、「カテゴリー論文」の編纂者として、ほかならぬ「カテゴリー論文」の意義をめぐって展開されてきた「シュルフター対折原論争」を、公正な第三者として審判され、願わくは「旧稿」にたいしても「扇の要」を据えられるように、と祈念してやみません。
長時間のご静聴、まことにありがとうございました。
[1] WuG, 5. Aufl.: 1, 阿閉・内藤訳: 5. 下線による強調は引用者、以下同様。
[2] 拙著『ヴェーバー「経済と社会」(旧稿) の再構成――トルソの頭』、1996、東大出版会: 320-28; Orihara,
Über den ‚Abschied’ hinaus zu einer Rekonstruktion von Max Webers Werk: „Wirt-
schaft und Gesellschaft“, Ⅲ. Wo findet sich der Kopf des Torsos: Die Terminologie Max Webers im „2. und 3. Teil“ der 1. Auflage von „Wirtschaft und Gesellschaft“, Working Paper No. 47, Juni 1994, University of Tokyo, Komaba.
[3] 世良晃志郎訳と武藤他訳におけるVergesellschaftungの訳語一覧。「共同体関係」は、武藤他訳: 22, 23, 28, 30.
[4] とりわけ、「カテゴリー論文」からの引用が、現在では稀覯本に属する『ロゴス』誌版からなされ、読者による参照、検証を困難にしているのは、まことに不可解です。
[5]「術語一覧」については、前注2、参照。「参照指示ネットワーク一覧」については、cf.『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』: 301-19; Orihara,
Hiroshi, Über den ‚Abschied’ hinaus zu einer Rekonstruktion von Max Webers
Werk: „Wirtschaft und Gesellschaft“, Ⅱ. Das Authentizitätsproblem der Voraus- und
Zurückverweisungen im Text des „2. und 3. Teils“ der 1. Auflage als eine
Vorfrage zur Rekonstruktion des „Manuskripts 1911-13“, Working Paper No.
36, Juni 1993, University of Tokyo, Komaba.
[6] ただ、折原のホームページ (http://hwm5.gyao.ne.jp/hkorihara) に連載した、この報告への準備稿では、この問題にも立ち入っていますので、よろしかったらご参照ください。
[7] 拙稿「比較歴史社会学――マックス・ヴェーバーにおける方法定礎と理論展開」(小路田泰直編『比較歴史社会学へのいざない――マックス・ヴェーバーを知の交流点として』2009、勁草書房: 58-95)では、「ヒンドゥー教と仏教」における「カースト制」の特性把握と因果帰属を例示として、その方法を解説しています。
[8] WL, 7. Aufl.: 427, 海老原・中野訳: 6-7.
[9] WL: 427, 海老原・中野訳: 6.
[10]「旧稿」「経済と秩序」章の冒頭に、無規定のまま初出する、法(規範)学的考察方法と社会学
的考察方法との区別は、この基本的区別にもとづいています。
[11] Stammler, Rudorf,
Wirtschaft und Recht, 2. Aufl, 1906, Leipzig: 106-07.
[12] WuG: 26, 阿閉・内藤訳: 74.
[13] Ibid: 28, 阿閉・内藤訳: 80.
[14] Cf. WL: 461, 海老原・中野訳: 97. たとえば「ボーリング・クラブも、構成員間の行動につい
て『慣習律的konventionell』な帰結をともない、ゲゼルシャフト関係の埒外にあって『諒解』
に準拠するゲマインシャフト行為を創成」します。
[15] この視点は、ヴェーバーが北米旅行のさい、プロテスタンティズムのゼクテを観察し、その社会経済的機能にかんする洞察を獲得し、これを理論的に一般化し、「旧稿」におけるいっそう広汎な適用にそなえたものでしょう。
[16] WL: 470-71, 海老原・中野訳: 120.
[17] WL: 473, 海老原・中野訳: 124.
[18] WL: 473, 海老原・中野訳: 125.
[19]「旧稿」の「じっさいの事象にかかわる諸章」がⅡ「社会」篇と Ⅲ「支配」篇とに二大分されるほど「支配」が重視されるのも、「合理化への梃子」というこの意義ゆえでしょう。
[20] そのうえ、「文明人」の行為が、「未開人」に比べて「主観的に目的合理的」に経過するのかといえば、必ずしもそうとはかぎりません。なるほど、「未開人」は、特定の目的にたいする効果を求めて、(「文明人」から見れば)「客観的には整合非合理的objektiv
richtigkeitsirrational」な「呪術」に頼るでしょう。しかし、所期の効果が達成されないと、当初に頼った呪術者とその背後に想定された「デーモンや神々」(「超感覚的諸力」)は見捨てて、別の呪術者にサーヴィスを依頼するでしょう。そうしたスタンスは、所期の目的が達成されるまで手段を取捨選択するという点にかけて「主観的に目的合理的subjektiv
zweckrational」です。それにたいして、ある「文明人」が、(ある神信仰のもとで、どんなに不可解な不如意がつづいても、当の神を見捨てないばかりか、そうした苦境を、「自分たちの不信にたいする神の怒りの現れ・懲罰・愛の笞」と解して、かえって信仰心を強め、そうした「敬虔」が当の神に嘉納されることを祈願するといった)「志操宗教性Gesinnungs-
religiosität」の信奉者かその末裔であると、超感覚的諸力にたいするスタンスは、「価値硬直的」「価値合理的wertrational」で、それだけ「目的非合理的」でしょう。「脱呪術化Entzauberung」が即「(目的) 合理化」とは速断できません。
[21] WuG: 196.
[22] この文言中の、「ゲゼルシャフト形成の過程が、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大-深化するfortschreitendes
Umsichgreifen in allem Gemeinschaftshandeln」という表記も、「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」の対概念とする «基礎概念» の術語を当てたのでは意味をなさず、前者を後者の上位概念とする「カテゴリー論文」の術語を適用して初めて、「先行の原生的ゲマインシャフト行為にたいする後発ゲゼルシャフト形成の重層関係」(松井克浩) という動態も含め、十全に理解することができましょう。
[23] ここには、(さきほど要約した)「シュタムラー論文」における「規範学」と「経験科学」との区別、および(その区別を踏まえた)「カテゴリー論文」「第一部」における「理解社会学」の(「経験科学」としての)方法論的基礎づけが、前提とされていて、(新参の社会学には馴染みのない『綱要』読者の、少なくとも「精確な読解」には)その参照が求められているはずです。
[24] Cf. WuG: 181.
[25] 念のため申し添えますと、ヴェーバーが、術語をいい加減に扱う著者ではなく、用語法の首尾一貫性に殊更拘っていたことは、「ここで堅持している用語法からしてaus der hier
festgehaltenen Terminologie heraus」(WuG:
185, 世良訳『法』: 21)とか、「われわれの用語法に移し替ていえばin unsere
Terminologie übersetzt」(WuG:
192, 世良訳『法』: 45) とかの表記からも窺えます。その他、cf. WuG: 531-33, 浜島訳『権力と支配』: 217-20.
[26] ただしここでは、「カリスマ」という術語は用いられていません。この論点は、Ⅱ-6「法」章 §3中の「新しい法規範の成立」論と、Ⅲ-2-3)「カリスマ的支配」章における「『内からの変革』としてのカリスマ革命と『外からの変革』としての官僚制的合理化」の議論に継受され、敷衍されます。
[27]「経済秩序」については、§1の第2段落で、「『経済的事態』をめぐる利害の闘争がなんらかの妥結に達する、そのときどきのあり方に応じて、諒解によって成立する、財や給付にたいする事実上の処分力の配分、および、財と給付が、この諒解にもとづく処分力により、(主観的に) 思われた意味にしたがって利用される、その事実上の様式」と暫定的に定義されていました。ここにも「諒解」という術語が、無規定のまま初出しています。その「経済秩序」にかんする議論は、「経済的事態」とは何か、の定義もないまま、そのあと、「法」の概念転換をめぐる叙述の背後に隠れて姿を消します。肝要な「経済的事態」も、つぎのⅠ-3章 冒頭で初めて定義されます。
[28] Cf. 『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』: 52-55, 301;
Orihara, Hiroshi, Über
den ‚Abschied’ hinaus zu einer Rekonstruktion von Max Webers Werk:
„Wirtschaft und Gesellschaft“,Ⅱ, in: Working Paper
No. 36: 15-19, 117.
[29] ヴェーバーは、1913年9月5日付けリッカート宛て書簡に、「カテゴリー論文」の成立事情につき、「3~4年 (3/4 Jahre) 前に仕上げておいた元稿ursprüngliches Teilを取り出して推敲し、『純論理学的叙述は最小限に切り詰め』た序論を書き加えて前置し、9月15日の原稿締め切り日までに、『ロゴス』誌の編集者リヒャルト・クローナー宛てに送る」(Ⅱ/8: 318) と記しています。とすると、そのさいかれは、「3~4年まえに書き下ろされていた」このⅠ-2「法と経済」章の趣旨を、「カテゴリー論文」の§Ⅲ「法規範学との関係Verhältnis zur
Rechtsdogmatik」に要約したのではないでしょうか。その末尾には、[Zitat 10]「社会学においては、日常的によく知られ『馴染まれた』意味上の連関 [A] が、他の連関[B]の定義に利用され、その後に、前者の連関 [A] のほうが、また、後者[B]の定義によって定義される、といった取り扱いが、絶えずなされなければならない。……われわれはここで、そうしたいくつかの定義[B]に立ち入ってみよう」(WL: 440, 海老原・中野訳: 41) とあります。
この一文で、連関Bが、このあと「第二部」で、「家」、「家産制」的政治形象、予言者を戴く「使徒団」から、「国家」と「教会」などの「馴染まれた意味連関」Aを例示に用いながら定義される (「同種の大量行為」から「団体」にいたる) 社会学的基礎範疇を指している、と解せましょう。そして「その後に、Bの定義によって定義される」、Aに相当する社会諸形象として、「旧稿」で順次採り上げられていく、(Ⅱ「社会」篇の) 家、近隣、以下、および (Ⅲ「支配」篇の) 正当的な (合理的、伝統的、カリスマ的) 支配体制、身分制等族国家、以下が念頭に置かれている、と読めるでしょう。としますと、「カテゴリー論文」「第一部」末尾のこの文言は、まさにこの位置にあって、「カテゴリー論文」「第二部」と「旧稿」との架橋句をなしているわけです。
[30] 宗教上の教理にしたがってなんらかの内面的「救済財」を合目的的に追求する祈祷、「最適性」
の規準にしたがう技術などは、それだけではまだ「経済行為」ではない、というわけです。
[31] WuG: 200.
[32]「旧稿」中に «社会的行為»
が出現するのはここだけで、あとは、無冠詞の「社会的な行為soziales Handeln」が、別の意味で、やはり一箇所に出てくるだけです。
[33] たとえば、存続を賭けて競争しているアメリカの宗派ないし宗教的ゼクテが、勧誘の手段として離婚-再婚条件を「ダンピング」する、というように。
[34] WuG: 212.
[35] »Wirtschaft und
Gesellschaft«――Das Ende eines Mythos in: Religion und Lebensführung,
Bd. 2, 1991, Frankfurt am Main: 597-634, insbes. 633.
[36] シュルフターは、この章を「きわめてカテゴリーに乏しüberwiegend
kategorienarm」と称していますが (MWGⅠ/24: 129)。
[37] WuG: 590, 635, 637,
世良訳『支配』Ⅰ: 174-75, Ⅱ: 338, 346-48.
[38] WuG: 637, 世良訳『支配』Ⅱ: 346-48.
[39] WuG: 541, 569-70, 世良訳『支配』: 3-4, 115.
[40] WuG: 681, 世良訳『支配』Ⅱ: 502.
[41] WuG: 663, 世良訳『支配』Ⅱ: 430.
[42] WuG: 663, 世良訳『支配』Ⅱ: 430-31.
[43] このことは、「第二局面」の他の (「支配の社会学」以外の) テクストについてもいえます。
[44] WuG: 658, 世良訳『支配』: 412-13.
[45] WL: 472, 海老原・中野訳: 122-23.「旧稿」側のこの前出参照指示 [「旧稿」テクスト中 第474番目に出てくる参照指示Nr. 474] については、さすがに第二次編纂者も、「いまではjetzt、『科学論集』471ページ以下」(WuG: 658 Anm.2) と注記して「カテゴリー論文」第39段の参照を指示し、邦訳者世良晃志郎も、「ここに『上に見た』(früher gesehen) とあることからしても、『カテゴリー論文』の第二部が、元来は『経済と社会』の旧い草稿の一部をなしていたことが分かる」(世良訳『支配』Ⅱ: 415-16) と注記していました。
[46]『「経済と社会」再構成論の新展開』: 80.
[47]『「経済と社会」再構成論の新展開』: 103.
[48] 武藤他訳『宗教社会学』には、「[中国では祖先崇拝による卿村への緊縛、インドではカースト・タブーが]都市が一つの『教団』へと発展するのを妨害し、しかもその妨害は村落においてよりもはるかに強烈であった」(127ページ) とあります。この訳語は、誤編纂の後遺症として「旧稿」全体の基礎カテゴリーが看過されたため、ゲマインデの一般概念も逸せられ、したがって「旧稿」全篇に散在するゲマインデ論 (各論)の体系的統一も看過され、「第二範疇」としての「教団」が即「唯一のゲマインデ」と受け取られた事情を語り出している、と見られましょう。
[49] WuG: 275, 武藤他訳: 83.
[50] WuG: 217.
[51] Economy and
Society, tr. by Roth, Guenther et al, 1978, Berkeley: 363.
[52] WuG: 277, 武藤他訳: 87.
[53] WuG: 435, 世良訳、法: 231.
[54] WuG: 592, 世良訳『支配』Ⅰ: 184.
[55] WuG: 593-94, 世良訳: 188-89.
[56] WuG: 732, 世良訳、都市: 25.
[57] MWGⅠ/24: 110. また、別のある箇所では、「あるテクスト内部の、あるいは複数のテクストの間に跨がる参照指示の精査さえも、なんら一義的な結果には到達しない。とはいえ、参照指示の点検は、形式的な再構成の方法のうち、いまなおもっとも有益なものである」(Ⅰ/24: 59)と述べ、「ヴェーバーが目論んだテクスト配列の再構成にたいする参照指示の意義に、ヴェーバー研究の注意を喚起したのは、折原浩の功績である」(Ⅰ/24: 59-60 Anm.45) と注記し、折原が編纂陣に送った独訳資料と『ケルン社会学・社会心理学雑誌』に寄稿した論文との一覧表を掲げています。
[58] 『「経済と社会」再構成論の新展開』: 17-46 に邦訳収録.
[59] これは、原著者没後の、マリアンネ・ヴェーバーと出版社との往復書簡から、立証されます。