「総括」からの展開 7

『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』の書評 (討論)

第二報・著者の答礼挨拶

 

[この「『総括』からの展開」欄の開設趣旨につきましては、前掲「『総括』からの展開35」の冒頭を、ご参照ください。731日記]

 

[去る713日、東洋大学 白山キャンパス 二号館 スカイホールで、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(2019118日、未来社刊) の書評 (討論) 会が開かれました。ご多用のなかを、200人近い (とお見受けする) 方々がご参集くださり、拙著への忌憚ないご批評が披瀝され、活発な討論も交わされました。著者として、これほどうれしいことはなく、いまなお余韻に浸っております。

当日は、「昼の部」の前半「第一部・東大闘争」関連では、清水靖久氏の司会で、八木紀一郎、近藤和彦、三宅弘、の三氏から、後半「第二部・学問、主としてマックス・ヴェーバー研究」関連では、鈴木宗徳氏の司会で、三笘利幸、中野敏男、両氏から、各位の実践と研鑽を踏まえたご発言をいただきました。そのあと、清水、鈴木、両氏の司会で「第三部・総合討論」に入り、小生が答礼のご挨拶をしたあと、山本義隆氏も含め、多くの参会者から、鋭いご批判も籠めたご発言が相継ぎ、一書評会として大いに盛り上がりました。さらにそのあと、会場を移して、「出版を祝う夕べ」が開かれ、ここでも多くの方々から、お心のこもったご発言をいただき、連れ合いの慶子と小生は、恐縮するばかりでした。主催者、参会者、また、連絡・資料作製・当日の運営などにご協力くださった、中野敏男門下の院生諸兄姉に、心より感謝し、厚く御礼申し上げます。

さて、当日やりとりされた内容は、こよなく多様かつ豊富で、即座に集約-応答しきるのは難しい、と悟りました。そこで、答礼のご挨拶でも申し上げたとおり、後日、当日の録音テープを聴き、ご発言の趣旨を反芻し、ゆっくり集約したうえ、この「『総括』からの展開」欄で順次「分割応答」していき、そのうえで、場合によっては再度「総合応答」する、という方式をとらせていただこうと思います。

今回、この「『総括』からの展開7」では、「書評 (討論) 会 第二報 著者の答礼挨拶」と題し、「『総括』からの展開6-書評 (討論) 会 第一報 謝辞」と多少の重複はありますが、当日、ご挨拶として述べた内容を、「分割応答」へのイントロも兼ねて、ひとまず要約しておきたいと思います。各位のご発言の大意を、著者の観点から確認して引き継ぎ、そのあと、ひとつだけ新たな視点も提示します。

次回「『総括』からの展開8」では、八木紀一郎氏のご発言に触れ、1968-70年「東大文学部闘争」の経過と意義について、再評価を試みます。前々回の本欄「展開5」でも、清水靖久論文「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」(荒川章二編「『1968年』社会運動の資料と展示に関する総合的研究」、『国立歴史民俗博物館研究報告』第216集、20193月、所収)へのコメントの一環として、「文団交8日間 (196811411) の記録」に立ち入りましたが、そこで述べた内容を、八木発言ともからめ、多少敷衍して展開することになりましょう。そのあと、当日の進行の順序に沿って、近藤和彦・三宅弘・三笘利幸・中野敏男、各氏のご発言に、順次、個別に応答していきたいと思います。山本義隆氏はじめ、フロアからのご発言には、そのあと別稿で、応答する予定でおります。731日記]

答礼のご挨拶 (テープ録音の内容を、敷衍-補足)

本日はみなさま、お忙しいところを、かくも大勢お集まりくださいまして、まことにありがとうございます。拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(2019118、未來社刊)が、こういう書評会で採り上げられるとは、著者としてこれ以上うれしいことはございません。ただ、半ばは「まな板の鯉」で(笑)、「どう叩かれ、料理されるか」、ちょっと緊張してもおります。とはいえ、やはり、忌憚のないご批判が表明されて、討論が盛り上がり、東大闘争とヴェーバー研究――広くは1960代の闘争と学問――につき、これまでにない問題提起がなされ、なにか新たな視界が開ければ、それに越したことはありません。どうかよろしくお願いいたします (拍手)

じつは、一昨 (2017) 年秋、千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で、企画展示「『1968年』――無数の問いの噴出の時代」が開催されました (上記『研究報告』第216集、20193月刊、参照)。開催期間 (53) 中に2万人を越える入場者があったそうで、ギャラリートークや講演会でも、定員300の講堂が満席となり、白熱した討論が交わされました。半世紀を経て、「あの激動はなんだったのか、何を残したのか」と問う、半ば歴史的な関心が、ようやく目覚め、当事者の関心も蘇ってもきたのかと、感慨ひとしおでした。そこで小生も、歴博の驥尾に付して、2019118-19日の「東大安田講堂事件50周年」までには、なんとか拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』を世に問い、「東大闘争」にかぎってではあれ、なにがしか新たな「螺旋状展開」の一機縁ともなれば、と思い立った次第です。

その延長線上で、本日の書評 (討論) 会を迎えることができました。

いましがた、五人の方々のご発言を伺って、深い感銘を受け、それぞれにしかるべく応答し、「螺旋状展開」の一契機として捉え返し、後の「総合討論」につなげたいという思いは、ひとしおつのります。ところが、小生、八十路も半ばにさしかかり、近年とみに、思考と表現に「きれ」がなくなってきました。したがいまして、ここでひとたび、そういう個別の応答に立ち入りますと、とりとめなく「レクチャー」を繰り広げて、後の討論時間に大幅にくい込みかねません (笑い)。そこで、この場では、ご発言の趣旨を、小生なりに集約して確認するに止め、詳細につきましては、後日、録音テープを聴いて反芻し、ゆっくり集約したうえ、ホーム・ページ上で、これまたゆっくり応答していく、という方式を採らせていただこうと思います。どうかよろしくご了承ください (拍手)

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そこでまず、八木発言についてですが、氏は、ご存知の方も多いと思いますが、1968-69年の「文学部 (処分撤回)闘争」を「スト実」のリーダーとして担われ、活躍されました。今回は、その当事者としての経験にもとづき、①「文学部闘争」が、1969118-19日の「安田砦攻防戦」以後かえって昂揚し、深化したという(一見逆説的とも思える)事実を指摘されました。そのさい、文学部教授会は、進学・卒業・大学院入試・大学院への内部推薦・修士論文審査など、学生・院生の個別利害に直接かかわる制度上の関門を梃子に、闘争を切り崩し、「正常化」を強行しようとしたのでしたが、これにたいして、学生・院生のひとりひとりが、そういう旧態復帰に屈伏するわけにはいかない、と苦渋の決意を固め、「経歴優先 (立身出世) 主義careerism」という個別利害を「自己否定」する「きわめて倫理的な闘い」に、(新参入者も含めて) いよいよ結集していくことになった、というのです。その後、②文教授会は、1969年秋、争点の「中野雅君処分」を「なかったことにしようや」と (あたかも「教育的処分」制度の廃止にともなう「恩赦」であるかのように)「取り消し」、それと同時に、度重なる機動隊導入によって「授業再開(旧態復帰)」を強行しました。その時点で、文スト実は、検見川寮で合宿をもち、討論を重ね、「これ以上闘争を継続しても、展望が開けそうにもないから、敗北を認めて、ストを解除し、闘争を収束する」という苦渋の決断をくだしたそうです。この二点にかんして、拙著は、ⓐ 当の「処分取り消し」を、(文学部教授会の責任者が処分の誤りを認めて責任を執る、その意味ですっきりした「解決」ではなかったにしても)「事実上の処分撤回」と解したうえ、文スト実が「闘争の開始よりも難しい収束」を敢行しえた事実と、ⓑ 後日(1977)(所轄の本富士警察署さえ、「原因不明」と認めた「文学部長室『小火』事件」を機縁とする) 文教授会の新たな学生処分画策にたいしては、学内における議論の盛り上がりと (旧「助手共闘」「院生共闘」ならびにその周辺の)「体制内抵抗派」による (各学部教授会とくに評議員への) 働きかけもあって、こんどは評議会が文教授会の処分案を否決し、再度の大破綻は免れた事実――この二事実を射程に入れ、重視して、「文学部闘争」の「勝利」について語りました。しかし、八木氏は、この評価にはいささか「驚いた」という感想を洩らされました。総じて、八木発言は、「文学部闘争」のそうした特性 (①②) を、東大闘争全体の経過のなかにどう位置づけ、その意義 (いまの時点から振り返って) どう捉え返すか、という問題を提起している、というふうにも受け止められましょう。

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つぎに、近藤発言についてですが、氏はやはり「文学部闘争」を闘い、「合意による収束」(上記) のあと、学問研究に復帰し、以後、イギリスを焦点とするヨーロッパ近世-、近代-、現代史の研究に従事されました。ですから、「学問とは何か、どういう意味があるか」という1968年東大闘争の問いを、その後長らく、ご自身の歴史研究に即して問いつづけてこられたのでしょう。その悪戦苦闘(レジュメでは「もがき」)から、「歴史の見方」を刷新され、社会-政治的紛争に処しての「論理的一貫性・徹底性」と (その背景ともなっている)「ピューリタン的な潔癖さ」にたいしては、一定の距離と批判を抱き、「中庸」「寛容」といった「現実感覚」の意義を再評価する見地に到達されたようです。そのように受け止めてもよろしいでしょうか。

ところで、近藤氏は、(1967年に開始し、68年にも継続していた) 駒場における「一般教育ゼミ」(「ヴェーバー宗教社会学研究」) の一員として、「いま、この状況で、ヴェーバー文献の解釈に耽っていてよいのか。かれの方法や所見が、この紛争状況にどう適用され、その解決どう役立てられるのか、具体的に示してはどうか」という問いを、ゼミ担当教員の小生に向けて正面から提起されました。「人生(とくに闘争)における学問の意味」を、状況における個別の問題に即して提起し、具体的な応答を求める、当事者の先駆けだったのです。ですから、近藤氏がこのたび、じつはこの質問に、50年後とはいえ、ひとまず端的に答えている拙著に、往時の質問者として端的な応答を対置しなければならない、「これはある意味、半世紀後の対決だ」と感得されたとしても、不思議ではありません。それはむしろ、氏の誠実さの証左と見られましょう。

そこで小生も、近藤氏の今回の応答、というよりも新たな問題提起に、つとめて正面から応答したいと思います。歴史にかんする広汎な対象知を、近藤氏の学問的・専門的業績と認め、感嘆し、できるかぎり咀嚼すると同時に、そういう対象知を、みずからの生き方に反省知として活かそうとすると、現在の状況への実践的企投にかんする熟慮を媒介として、しかるべく転釈する必要が生じてくるのではないでしょうか。その点を、近藤氏はどうお考えか、一般化していえば「学問上の歴史的知識を、同時代の現場実践にどう活かすのか」と、こんどは小生から反問したいわけです。その問いは同時に、①日本における「近代的・自律的個我」の形成(根深い「集団同調性」の克服)は、全般的に見て、ヨーロッパの水準に達し、凌駕するにいたっているのか、②ヴェーバー的な「責任倫理的・理性的実存」というスタンスは、なるほど「集団同調性」は斥けてやまないとしても、個人としての「中庸」「寛容」まで退けるのか、その点で「ピューリタン的な潔癖(一面性)」と同水準にあるのか、「自分の生きる意味をむすびつけている『究極最高の価値理念』と、そのときどきの状況における『目的』設定と、そのもとに採用する『手段』との「意味上の整合性、ならびに、当の『手段』を採用した場合に生じうる結果と随伴諸結果との予測」を、つねに、他の誰よりもまずは自分自身に厳しく要求するとしても、他人には、特定の実質的・内容的決定までは押しつけず、各個人の決断に委ねる「形式性」、したがって「間接的な訴え」を特徴とし、そのかぎりでは「リベラルな寛容」や「フェア・プレー」と両立しうるのではないか、というような問いを内包し、ヴェーバー「倫理論文」「客観性論文」「職業としての学問」その他の労作にたいする批判的再解釈にも道を開くように思われます。

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つぎに、三宅弘氏は、資料の「年表」に示されたとおり、小生が授業を再開した1972年度に入学し、(東京地裁で進行中の「東大裁判闘争」とからめた)一般教育演習「『主張すること』と『立証すること』」に参加されました。ですから、八木、近藤両氏よりも少し後の世代に属し、全共闘運動には一定の「距離」をとり、その「正負・利害得失」を秤量するなかで、当初の学究志望から弁護士の実務へと転進されたのです。そして、弁護士の平常業務を着実にこなしながら、郷里福井県の住民運動に関与し、当時来日した市民運動家ラルフ・ネーダー氏とも、各地の講演会などに助手として付き添って親交を結び、「日本社会の根底的近代化・民主化」の基礎をなすべき「情報公開法の制定と整備に力を尽くされました。そのうえで、折角の法制を「制限条項」の拡大解釈などによって「骨抜き」にしようとする勢力と、一貫して緻密に闘ってこられました。やがて、そういう幅広い実践の成果を活かし、第二東京弁護士会の会長、獨協大学法科大学院の特任教授、政治家や官僚やジャーナリストと渡り合える「専門識者・評論家」として活躍され、後進の育成にもあたっておられます。

一点だけ、あまり知られていないことをご紹介しますと、あるとき、氏の所属する原後法律事務所の所長から、「三宅君は、ひとりひとりの顧客の話をじつによく聴き、親身になって力を尽くしてくれます」と伺ったことがあります。三宅氏自身も、そういう平常業務の第一次接触に「滝沢哲学」を適用し、「法律専門家としての先入観を去り、『己を虚しゅう』し『只の人』として顧客の話に耳を傾け、その苦境に参入しようとつとめるとき、おのずと『真実』が立ち現れ、弁護の方針も決まる」と、どこかで語っていたのを記憶しています。

そういうわけで、小生には、三宅氏の人生と学問の総体にたいして、なにか「異議を申し立てる」とか、「助言する」とかのことは、まったくできません。むしろ、小生自身が、「専門バカ」・「バカ専門」は批判しながらも、やはり「大学」という狭い「現場」に閉じ籠もり、「日本社会全体の根底的近代化・民主化」に、(少なくとも直接には) 内実ある寄与を果たせずにきた、という限界に直面し、反省をよぎなくされます。この期に及んでも、三宅氏の実践からは、そういう「自己相対化」の契機を学んで、どれほど活かせるか、と考えるばかりです。「89日記、つづく。しばらく甲子園の高校野球をテレビ観戦して休養。]

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さて、ここで、「昼の部」の後半「第二部・学問、主としてマックス・ヴェーバー研究」関連に移りましょう。

第一発言者の三笘利幸氏は、(じつは今回初めて伺ったのですが) 1969年生まれとの由で、三宅弘氏よりもさらに後の世代に属し、「東大闘争のことは、歴史としてしか知らず、もっぱら学問研究に志し、その一端として、小生のヴェーバー研究にも出会った」と洩らされました。氏の誕生とほぼ時を同じくして世に出た拙著『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とヴェーバー像の変貌』(1969915日、未來社刊)、とくにその第二部「ヴェーバー論」を、三笘氏はじつに鋭く、徹底して読み込まれ、「欧米近代の『没意味化』状況を批判的に剔抉し、『意味覚醒』を求め、(「倫理論文」や「世界宗教の経済倫理」を収録した)『宗教社会学論集』、とくに「世界宗教の経済倫理」シリーズを、読み手への『覚醒予言』性に即して読もう」という(小生のヴェーバー解釈の)「本源的動機にして基軸」を、鋭く取り出し、こよなく明快に解説してくださいました。拙著で用いた言い回しに置き換えれば、ヴェーバーの「生き方と労作」に、「内 (精神) からの革命」による「転生」への実践的起動力と「潜勢」を認め、前景に引き出して、意義あらしめ、その作用を十全に発揮させようとする学問的企投、ともいえましょうか。

ただ、それだけに、拙著『マックス・ウェーバー基礎研究序説』(1988年、未来社刊)以降、当の『宗教社会学論集』の読解から、未定稿の『経済と社会』、とくにその「テクスト編纂問題」に向けて、研究上の「舵を切り」、「二正面作戦に出た」といわれる、その「転換」・「旋回」・(少なくとも)「焦点移動」については、三笘氏のそうした慎重な表記の背後に、「変更の根拠が説明不足で不可解」という批判的問題提起が潜んでいる、とお見受けすることもできます。じつはこの点、第二発言者中野敏男氏の(三笘氏より明示的な)批判的問題提起の核心部分とも重なっているように思われます。

じつは小生、この書評会で、三笘、中野両氏の問題提起を受けて初めて、自分のヴェーバー研究について、当の「二正面作戦」にいたった動機の、ある意味でもっとも重要な部分を、いうなればさればこそ、十分には語れずにきた、と気がつき、反省と釈明を迫られました。詳しく語ると、これまた長くなって、こんどは『ヴェーバー研究総括――戦後責任・東大闘争・現場実践』と題する一書にも膨れ上がりかねないのですが、東大闘争前後からのヴェーバー研究の動機とその変遷にかかわる諸事情について、要点を記せば、以下のとおりです。201997日記、つづく。]

 

[本稿のつづきは、当初の趣旨では後日に回し、ここから脱線して膨れ上がった部分は、ひとまず本欄の別稿――

わたしのマックス・ヴェーバー研究総括――『経済と社会』「二部構成」編纂の批判、「旧稿」の再構成、ならびに『宗教社会学論集』との相互補完的読解による「比較歴史社会学」の定礎

――に分離独立させ、書き継いでいきます。2019123日記