「総括」からの展開 5

文書資料で明かされる三歴史家(東大紛争時、東大文学部長)の事実誤認と事実隠蔽――清水靖久「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」を読んで (710日)

 

[旧臘、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未来社)を上梓して以来、年末-年始のご多用中にもかかわらず、多くの方々にご繙読いただき、なかには、ご感想を洩らされ、内容上関連のある著作を送ってくださる方もおられました。各位のご好意に感謝し、厚く御礼申し上げます。小生としましても、ご感想の趣旨は、広くご紹介し、極力応答もして、自己相対化への機縁、また、「総括」の趣旨を敷衍-展開する糧ともして、活かしていきたいと思います。そこで、この「『総括』からの展開」欄(シリーズ)を開設しました。拙著が、そのようにして「螺旋状展開」の一契機に止揚されていけば、その刊行も、あながち無意味ではなかったことになりましょう。21日記]

 

[去る424日、荒川章二編「共同研究『1968年』社会運動の資料と展示に関する総合的研究」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第216集、20193月刊) が、小生にも恵送されてきました。A4347ページの大冊で、編者による「共同研究の経過と概要」解説のあと、若い世代による、ベ平連、東大-・北大-・日大闘争、および三里塚闘争にかんする研究論文 七篇 のほか、研究ノート 一篇、資料紹介 三篇が、収録されています。各篇の論旨は、編者によって8-9 ページに要約されていますが、いずれも、資料の探索から始めて、1960年代の市民運動・学生運動・住民運動に共通の本質的性格ないし各個別事例の特性を、それぞれ検出しようとした意欲作で、当時は盛んに語られた「歴史とは何か、現代史ないし同時代史の叙述は、いかにあるべきか」という問いに、具体的に答えています。

小生にとりましては、半世紀前にみずからかかわった社会運動、とくに東大闘争が、いよいよ歴史研究の対象として正面から見据えられ、本格的に論じられるようにもなったのか、と感慨ひとしおです。いずれ機会をみて、各篇とも論評したいのですが、今回は、拙著『東大闘争総括』ともっとも密接な関連にある清水靖久「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」(39-70ページ)を採り上げたいと思います。東大闘争に一「教授会メンバー」としてかかわり、その制約を被りながらも、事実と理に即する解決を求めて(こう言ってもよければ)悪戦苦闘し、とくに「大学闘争」として総括し、正負の問題点も突き止めて、後続世代の批判的検討に「乗り越え」への素材を提供しようとする一「当事者の視点」(折原)と、「白紙還元説」という一先行解釈(じつは、事実に反し、真相を歪めるイデオロギー)を、史実によって批判的に検証し、学問的に乗り越えようとする一「歴史家の視点」(清水)とが、相互に交錯する地点で、問題を掘り起こし、双方の交流と議論に寄与できれば、小生には望外の幸いです。513日記]

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小生、清水論文を初めて手にしたときには、表題に「白紙還元説」とあるのに、正直のところ「おやッ」と思いました。なるほど、196812月、東大紛争が「大詰め」にさしかかった段階で、全共闘の「七項目要求」中、「文学部の学生処分」(以下、「文処分」) 問題が、加藤執行部との間で、最大の争点をなし、「解決」にも「妥結」にもいたらず、加藤執行部が、1969118-19日、安田講堂その他に機動隊を再導入して、立て籠もって抵抗した全共闘系の学生・院生を排除したのは、周知の事実です。ところで、その「文処分」をめぐっては、「加藤執行部が、196812月末、『文処分の白紙還元』案を用意し、非公式のルートを通して全共闘に打診したにもかかわらず、全共闘は拒否して、『闘争勝利』へのまたとない機会を逃す『政治的には信じ難い愚行』を犯した」という言説が、いつしか (じつは一種のイデオロギーとして) 出回り、真相の究明とそれにもとづく双方の責任の確定とを、妨げてきました。清水論文は、「論文要旨」の冒頭で、この説は「事実ではないが、その当否を検討するためにも(39ページ、太字による強調は引用者、以下同様)、「文処分」をめぐる事実経過にさかのぼって、全共闘による「白紙撤回」要求の根拠、これにたいする文学部教授会や加藤執行部の対応について考察しなければならない、と提唱し、本文で当の考察に入っていきます。この段取りは、それ自体、あるテーマの研究に、いきなり着手するのではなく、まずは当のテーマにかかわる先行説を採り上げ、その誤謬や難点を明らかにし、それに取って代わる新説を仮説として提出し、データによって検証し、相互批判をとおして旧説に置き換えていく、学問研究一般の常道に照らして、至極もっともで堅実といえましょう。遠くの山並みを一望のもとに収めるには、視界を遮る目前の草むらを事前に刈り取っておかなければなりません。

ところが、東大闘争の全経過、とりわけ「医-、文処分」をめぐる東大当局と全共闘とのやりとりを、当時の状況で当初からつぶさに見聞してきた一当事者の小生には、1968年末、「文処分の白紙還元案」なるものが、非公式のルートを通してではあれ、全共闘との予備折衝に持ち込まれたとは、とうてい考えられず、むしろ、それがなぜ、清水論文の主題の一角を占めるのか、「過大評価」というよりもむしろ「主客転倒」「本末転倒」ではないか、と思えたのです。

それというのも、「還元」という言葉は、1968年の初夏、東大評議会議長の大河内一男総長が、医学部・粒良邦彦君の不在者・冤罪処分について、(その疑いを、久留米の現地に出向くアリバイ調査によって検証した)「高橋・原田報告書」に内容上は応答しないまま、628日に「大衆会見」を開き,「医学部への差し戻し」を表明し、それを受けて医学部長が同日、「談話」では「発表前の状態にまで還元」、「声明」では「処置前の状態に還元」と言明して呼応し、とりあえず「辻褄は合わせ」、「発表」「処置」の余地を残し、その機会を窺おうとした、忘れ難い特別の語句でした。それはなるほど、当局側には、(相手方には譲歩を装いながら、「身内」中の反対派も宥めて、とりあえず妥結にいたろうとする)「苦肉の策」、その意味で「玉虫色の便利な常套語」だったにちがいありません。ところが、当時の状況では、粒良君も出席した夏休み明けの医学部「青空集会」で、当の「還元」の語義と真意が問い質され、全共闘ばかりか、一般学生の間にも、「内容上の対決は怠り、先送りして、『事態の鎮静』を待ち、あわよくば『処置』『発表』に出て、当面の窮境は切り抜けようとする、当局 (総長-評議会-医学部教授会) の『欺瞞性』を象徴する言辞」と受け止められ、もっぱら否定的に語られていました。その記憶は、同年末にも薄れてはいなかったでしょう。とすると、「文処分」についても、(1968年の春夏にはアメリカ遊学中で、現場感覚を取得する機会はなかったにちがいない) 加藤一郎氏といえども、「文処分」の事実関係にさかのぼる再検討は怠ったまま、相手の「白紙撤回」要求に歩み寄るかのように、ことさら「白紙還元」を掲げて「交渉」や「談合」を呼びかけるのでは、「なーんだ、大河内執行部と同じではないか」という「疑惑と不信の嵐」を巻き起こし、反撥と紛糾をまねくのみと (「補佐」の助言もえて) 察知することはできたはずなのです。

ところが、そういう「白紙還元説」が、当事者の現場感覚からすればどれほど「荒唐無稽」であろうとも、その後、巷には流布し、「東大紛争大詰め」の真相究明を妨げてきたことは、否めない事実です。なるほど、その種の「言説」の出現と波及は、それ自体、「機動隊再導入(旧態復帰)」にともなう「反動形成」・「イデオロギー形成」の一環で、「理解」可能な、ごくありふれた現象の一端にすぎないでしょう。そういうフィクションを「あらずもがな」と決めて「嗤う」ことは、至極簡単です。しかし、見方を変えれば、当事者が、後発の状況におけるイデオロギー感覚の形成とその流布の、それなりの重さを、まさに当事者としての「旺盛な現場感覚」にかまけて、かえって捉えそこね、えてして「独善」に傾き、「唯我独尊」に陥り、「浦島太郎」ともなり、その意味では「当事者性が仇となる」ことも、ありえないことではありません。とすれば、そうしたスタンスは、むしろ、「当事者的パースペクティヴ (視座構造)」の「盲点」したがって世代的「存在被拘束性」の一環として、反省され、相対化され、乗り越えられなければなりますまい。その点で、清水論文が、イデオロギー的遮蔽幕を引き裂いて、東大闘争とくに「文処分」の経過と意義を、当時の文書資料にさかのぼり、事実に即して、いっそう的確に捉えようとした「歴史家の視点」は、それ自体、「現場感覚」に閉塞しがちな「当事者の視点」と対抗的な相互補完関係に置かれ、大いに学ばれてしかるべきと思われます。

しかも、そればかりではありません。清水論文は、当の視点から「白紙還元説」に対置され、反証として挙示されていく東大闘争とりわけ「文処分の事実経過そのものについても、従来顧みられず、小生も看過していた、新しい事実を掘り起こし、歴史家として確実に立証しています。

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第一に、清水論文は、「文処分」問題の発端となった「1967104日事件」――「文学部協議会」の閉会後に、(退席-退室しようとする) 教官委員と(「文協閉鎖」への危機感から、文協存続への保障を求めて、教官委員の「実力総退場」を阻止しようとする)オブザーバー学生とが「揉み合い」になり、後者のひとり仲野雅君が築島助教授の「ネクタイをつかんで暴言を吐いた」という「教官への非礼」(後に「暴力行為」に変更) を理由に、無期停学処分に付された一件――につき、当の処分案が評議会に提出されて承認された同年1219日の評議会記事要旨」を調べています。その記載によると、当時の山本達郎文学部長 (東洋史学科教授) は、「仲野雅は退席しようとする築島助教授のネクタイを引っ張るなどの乱暴を働き、それを阻止しようとした他の教官に対して、学生にあるまじき暴言をはいて騒ぎたてた」(43ページ) と報告し、処分案への承認を取り付けました。ところが、「評議会記事要旨」のその箇所が、後日、手書きのインクで「修正」され、「仲野雅は退席しようとする築島助教授のネクタイをつかみ、学生にあるまじき暴言をはいて騒ぎたてた」と書き換えられ、「非礼な行為」の対象が、複数の教官から、「退席しようとする築島助教授」ひとりに限定されたというのです (43ページに、当該箇所の写真掲載)

さて、当時の東大評議会では、毎回、前回の「記事要旨」がタイプ印刷して配布され、開会後劈頭、(時計台事務局の)総務部長が朗読し、出席した評議員が異議なく承認するのが慣例だったようです。ところが、この「文処分」の件については、1968220日の評議会で配布された前回[1968123日付け]の「記事要旨」に、「総務部長、前回 [仲野処分案が承認された19671219] の記事要旨を朗読別紙のとおり修正のうえ承認」と記載されているそうで、この箇所を清水論文は、「こっそり修正されたのではなく、123日の評議会で修正発言があって承認された」と解釈しています。しかし、「評議会記事要旨」の慣例から推測しますと、じっさいの経過は、「修正発言があって承認」という解釈とは、やや異なっていたのではないかと思われます。すなわち、123日に配布されて承認された、問題の1219日の「記事要旨」に、123日と220日との間に(「発言内容は、当該部局の専権事項」という暗黙の了解のもとに) 文学部長か文学部評議員が「修正」を施し、220日にはその「修正版」が、慣例どおり予めタイプ印刷され、配布されて、それがそのまま、おそらくは議論なしに「承認」されたのではないでしょうか。かりに「修正発言があって議論のうえ承認された」のであれば、当の発言と議論の内容(少なくともそれぞれの要旨)が記録されるはずで、それこそ知りたいところです (とりわけ、法学部評議員の発言内容)

いずれにせよ、清水論文は、この経緯を、「仲野が暴れまわった印象を与える誇大説明で処分を決定し、一カ月後に処分対象の行為の事実を変更したものであり、裁判でいえば、判決後に起訴事実を変更するようなことだろう」(44ページ) と評しています。

確かに、この事実は、学生処分が「特別権力関係」のもとで、どれほど恣意的に決定され、問題を孕むか、――その後、じっさいに東大で起きる「破局」を、すでに発端において予示していた、とも解されましょう。問題は、教授会や評議会の密室における、多分に「集団同調性」を帯びた議論が、恣意をチェックする歯止め (事実を尊重し、奇怪しいと思ったら直截に疑問を発する個人の自律と、制度上は「議事録」「記事要旨」の公開) を欠くとき、どれほど事実認定を軽んじ、うすうす事実誤認を感知しても、目をつぶり、やがては辻褄をあわせるために事実隠蔽と改竄を重ね、挙げ句の果て、どれほど自他を誤らせ、甚大な「犠牲」をもたらすか、にありましょう。そこで小生も、「評議会記事要旨」のこの「修正」じつは「改竄」から「破局」にいたる事実経過を、清水論文とともに、いま一度追跡し直し、いくつかの局面の問題点を洗い出して、論評を試みたいと思います。

ただ、小生はそのさい、一当事者として、つぎのような視点も導入し、事実関係を捉え直してみたいのです。すなわち、今回、半世紀後の公文書公開を待って、歴史家が初めて発掘したような、事実関係の真相と理非曲直を、当時現場でも、探り出し、突き止めることはできなかったろうか、また、いまなお「特別権力関係」が(少なくとも現場の慣習律や雰囲気としては根強く)残存し、いぜんとして「情報公開」の制度的保障を欠く、現在の大学現場で、現職の教職員ないしは学生・院生が、個別の問題に直面した場合、そのつど事実関係と理非曲直を具体的に探り出し、是正していくには、(たとえ、管理強化がなしくずしに進められているとしても)どうすればよいのか、どういうスタンスで取り組めばよいか、――そういう「未来模索的意欲」から近過去の一事例に光を当てるとき、そこからどういう実践的教訓を引き出すことができるか、現場の状況でどう思考し、どんな問いを発し、議論をどう詰めていけば、真相を探り出し、理非曲直を突き止め、相手ならびに第三者をも説得して、合意と支持をとりつけ、拡大していくことができるか、――他方、近過去の先行事例に、そういう積極的な可能性の開示とともに、半面ではそれを妨げた難点が認められるとすれば、それはどういうもので、どうすれば克服できるか、――と重点的に問い返してみたいのです。

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1968617日の第一次機動隊導入から同年8月の「810告示」の発表まで、東大キャンパス内の議論は、圧倒的に「医学部処分」問題に集中していました。なるほど、全共闘は、715日、「安田解放講堂」代表者会議で、「文処分の白紙撤回」を一項目として含む「七項目要求」を提起し、確認していました。しかし、そのことが、大衆的な集会で、また、『東大闘争勝利のために』(第一号) と題する文書の形で、広く公表されるのは、8月も半ばを過ぎてからでした。当時の議論はおおかた、(「文処分」を「論外」と無視して書かれていた)810告示」のほうに集中し、「文処分」問題にはほとんど注意が向けられませんでした。

なるほど、仲野君自身を含む文学部ストライキ実行委員会(文スト実)系の学生は、もとより「文処分」を重視し、「810告示」によって設立された「(医処分の) 再審査委員会」とならぶ「大学改革委員会」の委員長に、よりによって「文処分」の責任者・山本達郎文学部長が選任されたことを「許しがたい挑戦」と受け止め、憤りを洩らしてはいました。ところが、当局側には、そういう人選が、状況内ではまさに「挑戦」と受け止められ、「告示拒否」を触発して、事態の紛糾をまねくばかりではないか、という危惧も、警戒感も、ほとんどなかったようです。また、教職員と学生・院生一般の間でも、「七項目要求」の提起自体と、そこに「文処分」問題が「持ち込まれた」事実は、聞き知ったにしても、「やれやれ、医学部につづき、こんどは文学部でも、学生が (おそらくは便乗して) 騒ぎ、無理難題をふっかけているのか、いずれにせよ面倒なことになった」くらいに受け止め、「『文処分』とはどういうもので、『医処分』とどう違うのか」と問い返し、処分者側と被処分者側、双方の所見を、比較-照合し、事実関係を掘り起こし、理非曲直を突き止め、いずれにせよ議論を開始して、各人が自分の意見を持ち、「解決」の方途を模索しよう、というスタンスは、やはり皆無に近かったといっても過言ではないでしょう。

他方、全共闘側にも、「文処分」がどういう処分か、その事実経過を具体的に「解明」「説明」し、どうして「医処分」と同じく「不当」なのか、どういう意味で「国大協・自主規制路線」の発動といえるのか、と問い返し、教職員や学生・院生一般からの疑問も受け止め、具体的に応答し、積極的に対話し、納得を調達して、大衆運動(少なくとも、大衆的な学生運動-大学闘争)として有利な展望を切り拓き、拡大していこうとするスタンスは、全般的には乏しかったように見受けられます。むしろ、一方では、夏休み明け以降、無期限ストと封鎖の拡大という「実力闘争」の「上げ潮に乗り」、他方では、(「民主集中制」という建前のもとに「党中央」の決定にしたがって容易に所見を変える)日共・民青系への対抗心から、当局側の強硬姿勢にたいするこれまた強硬な同位対立」(同じ平面上での対立)に陥り、「敵が敵なら、こちらもこちら……」とばかり、自分たちの主張を、具体的論証は抜きに高唱して、もっぱら「相手方の非を鳴らし」、「打倒」「粉砕」「解体」といった抽象的スローガンを連呼し、一方的に押し通そうとする生硬なスタンスが、優勢となってきたのではないでしょうか(なぜそうなったのか、と突き詰めて問いますと、日共・民青系と同じく、マルクス主義の「全体知」――「森は見ても木を見ない」「全体論」――を唯一の想源としていたのでは、やはり無理からぬことだった、といえるかもしれません。ただし、この点は、日本の敗戦後史における「旧-新左翼の同質性」に遡って究明され、克服されるべき問題といえましょう)。当時から年末にかけて発表された、夥しいビラやパンフレットの類に目を通しますと、「文不当処分白紙撤回」「七項目要求完全貫徹」といったスローガンが、「間違いようのないunfehlbar 主張」として威勢よく繰り返されてはいても、当の「文処分」の内容に分け入り、「1967104日事件」の事実経過(学生一個人と教官一個人との「行為連関」の事実)にまでさかのぼって、それがなぜ「不当」なのか――別言すれば、相手方の教授会が、処分を振りかざしてやまないとしても、当の権利を行使する具体的処置がことごとく「正当」か、「権利」があれば何をしてもよいのか、事実として「権利の濫用」はなかったか――というふうに、具体的に問い返し、翻っては「七項目要求完全貫徹」を「不完全貫徹ないし妥結」から分ける規準ないし標識は何か――どんな完全貫徹」をどこまで追求するつもりなのか、当の「完全貫徹」に具体的展望はあるか――というような疑問を、正面から受け止め、そのさい、相手方ないし第三者の示す論点・論拠逆手にとって食い下がり、具体的に答え、そういう開かれたスタンスで、大衆の支持も獲得-確保-拡大していこうとする柔軟な思考と言表・言説は、やはり後景に退いてしまったのではないか、という印象を免れません。

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ただ、そういう政治状況でも、さすがに当事者の文スト実系学生だけは、やはり「一頭地を抜いて」いました。1968114日から同11日にかけて開かれた「8日間団交」では、被処分者・仲野雅君自身も含む直接当事者文学部学生たちが、林健太郎新文学部長(西洋史学科教授)ら文学部教員と、文学部内の一教室(2番大教室)で、熾烈ながら内容のある議論を交わし、「1967104日事件」の真相究明と、文教授会による事実誤認の論証に、あと一歩まで迫っていました。というよりも、文スト実は、当時の議論の最先端に走り出て、文教授会の事実誤認を事実上「暴露」してはいたのですが、相手方や第三者にも通じる平明な論証への集約は欠き、むしろ、(なるほど硬直した)教授会側所見との「同位対立」に陥り、「教授会権力対学生自治活動の自由」という抽象的な二項対立図式を単調に反復するばかりで、なんとも「隔靴掻痒」の感を免れないのです。そこでいま、文スト実のそうした到達限界を、抽象的に集約して「能事終わり」とするのではなく、議論の具体的経過と内容に即して検出し、「乗り越え」への一素材として問題を提起しようとすると、どうでしょうか。

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「文学部8日間団交」は、文学部の二教員 (なんと社会学者の高橋徹氏と辻村明氏) が新聞記者会見を開いて「人道問題」化キャンペーンに乗り出したため、世上「林文学部長軟禁事件」と評され、「人権侵害」という悪評も浴びて、東大闘争全体の転機ともなりました (拙著、§61-63、参照)。ところが、『砦の上にわれらの世界を』(19694月、亜紀書房刊、263-307ページ) に収録されている、文スト実内「団交の記録」編集局編「文学部団交8日間の記録」(初版は19681129発行) を、そういう先入観からは自由に、内容本位に読み解いていきますと、たいへん重要で興味深い議論の展開が見られます。「1967104日事件」の発生から一年後、「文処分」の正式発令 (19681) から数えても九カ月後初めて――文学部教員の会場への出入りは当然自由としても、全員が逃げ出して「雲隠れ」するのを防ぐ、討論継続の保障のため、学部長と評議員には、合意のうえ会場に居残ってもらう、という条件のもとで、初めて――、「104日事件」の事実関係にさかのぼり、文学部教授会による処分決定の経過と根拠を問い質す議論が交わされたのです。その内容は多岐にわたり、文体は独特で、飛躍や反復もあり、必ずしも読みやすい記録ではありません。しかし、まずは議論の展開をつとめて忠実にフォローし、そこからいくつかの問題点を探り出していきましょう。

第二章「文学部・医学部処分ならびに第二次処分に関して」の「1. 処分の手続き及び事実認定について」(272-81ページ) では、林健太郎新文学部長の発言――「仲野君の処分は、同君が教官に対しておこなった行為を、教授会が慎重に審議して『暴力的』と認定し、『処分に値する』と判断してくだした、内容上も手続き上も『正当』な処分であるから、『撤回』する意志はない」という趣旨の、怜悧ながら挑戦的な発言――を皮切りに、事実認定の内容と手続きが、下記のように問われ、争われています (以下、引用文中の太字による強調と補足 [     ] は引用者)。

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岩崎[武雄。仲野君の指導教官・哲学教授]:「仲野君の場合には、事実、その暴行を行ったということは、多数の教官が目撃している。[ただ] その暴行を行ったのが誰か、ということ [だけ] がわからなかった。それで私が仲野君を呼びまして、仲野君が問題になっている当人かどうか問いただしましたら、仲野君はそれを肯定いたしました。」

学生:「とすると、『問題になっている』のは誰か [の同定] が、『事実調査』なのですか。『そこで何が行われたか』の認定は、教官が一方的に行うということですか」[趣旨]

岩崎:「いや、目撃証人は大勢いる。民青の人もそれを事実と考えているということですね。ですから、その本人が誰かということだけが問題である。」

学生:「そもそも仲野君が当の本人であるかどうか (を確認したということ) も何ら明らかになって [] いない。というのは、あの104日文協のあと、二週間以上もあとになって、突然、文学部の教務課から仲野君に一片の呼び出し[] がきたのです。そのとき、第二委員長ともうひとりの教官 [おそらく岩崎氏] に、ぼくら [学友会] 委員が、仲野君とともに [呼び出しには応じて、会って] 追及したところ、『あのとき仲野君がとった行為にかんして、謝罪しろ』としかいわなかった」。

[文教授会はその後、「文処分は医処分とは違う」と主張し、その根拠として「本人に直接会って事情を聴取したから」と強調して止みませんでした。ところが、その「事情聴取」とは、おそらくはこの「面会」のことで、正確な実態は、そのように「陳謝請求」ではなかったでしょうか。その点を、この団交の席で、第二委員長と学部長を交えて確認し、文書化しておけばよかったと思うのですが、学生は、「埒が明かない」と見て、やや性急に、「事実認定」問題よりもむしろ処分の背景と政治的」本質に、論点を転じてしまいます。]

学生:「その過程で一体何が問題になったのか、ということをぼくらはいまはっきりと追及する。即ち、あの文協において教授会側が一方的にオブザーバー排除を通告し、それに対してわれわれが抗議したことに対しても、一切話し合いを拒否することによって、そして一方的に実力総退場していくという行動にぼくらがあって、だからこそやむをえず退場実力阻止の行動をとったのだ。そういう風な問題に対して、あの時の第二委員会玉城先生が、そういうような問題は学校側も悪かったかもしれない、だがしかし学生側のとった行動はそれ自体として問題があるというふうにとりあげてきた。[ところが] その具体的な事実問題を[採り]あげても、事実認定のダタラメ性は明らかである [このあと、「触っただけ」から「ネクタイをつかんで罵詈雑言を浴びせた」にいたる証言の数例]。このような事実をもって我々のそうした抗議行動に対する、いわば政治性をこめた処分というものはなされてきた。何故われわれが、それを政治的というのかというならば、あのとき、仲野君が謝罪しなければ一切学生側との話合いはありえない、という風に学校側は言ってきた。まさにこのことで文協閉鎖、こうした例を作りあげてきた学校側の対応なのである。」

「ぼくたちは、あの文協においてオブザーバーの排除が教授会において [524日に] 一方的に決定されてきた事態にあって、はっきり第二委員会との交渉、あるいは文協運営委員会での交渉を追及し、そうした形でもっての話合い解決をわれわれは一貫して追求してきたけれども、二回にわたる文協 [920日と104] において、彼らは、我々のそうしたオブザーバー参加というものを、ともかく教授会決定だから、これを守らない限り学生との話し合い、文協再開は一切しないという風な態度をとったこと [] こそ、そもそもこの問題の根本的な起りがあるのだということをぼく達は、はっきりとみなければならないし、岩崎教授があたかも文学部処分は医学部処分と違って事実認定も立派にやったし、事情聴取も立派にやったし、証人もいるし、学生の中にも民青の人が認めているじゃないかというふうなことをはっきりいっている。だがしかし、先程もいったような事実認定の問題或いは事情聴取の問題にしても、先程岩崎先生は欺瞞的に仲野君はその行為を認めたなどと言っても、一度もこんなことについて話し合ったことはない。我々は一貫して、仲野君を手紙一片で呼びつけ、そして『男らしくあやまれ』とか、或いは『あやまらないと退学になる』という様なおどかしをしてきた第二委員会に対する抗議の闘いとして敵対したんだ。そんなものは事情聴取でもなんでもない。」

岩崎:「その当人が何をしたかということは、もう証人がたくさんおります。」

学生:「証人は誰なんだ。」

関野雄:「私は考古学の関野でございますが、当時の第二委員でありまして、その現場におりました……。[教授会の開始時刻を過ぎ、(輪番制で、当日の議長をつとめていた) 以文会 (助手会) 委員の上野助手が、教官委員側の要求を入れて「閉会を宣言」したので] 我々が出ようとしましたところが、学生諸君がピケをはって通さないもんですから、我々はそれを押して出ました。そのときに私は丁度問題になっております教官のすぐそばにおりました。それで仲野君がその教官のネクタイをつかんでものすごい声でコノヤローとかバカヤローとか大きな声で言いましてね、それは私にとっては、それは絶対暴力であると思います。ですからそれは処分に値すると思います。それが事実であります。(場内騒然) 教授が押さなきゃ出られないでしょう。ネクタイをつかんでものすごいいきおいだったんですよ。」

学生 [仲野]:「ものすごいいきおいでやったと今言われましたけど、どういう内容ですか。ぼくは『待て』と『一方的に出ていくんじゃない』ということを言ったわけですよ。当時の状況を言葉に直してちゃんと報告してくださいよ。あんた証人でしょ。」

関野:「ですから、その教官が出てゆこうとしたらですね、あなたがいきなりネクタイをつかんでコノヤローと言ったんです。本当ですよ、それは。それはあんた方の中の一部の人がそれを認めているでしょ。文学部自治会 (学友会) (当時の) 委員長ですよ。(場内騒然)

[このように、関野氏は、仲野君の行為を、「文協会場の扉で、教官委員の退場を阻止しようと即座に企てられた行為」と見なしています。ところが、かりにそうであるとすると、当の行為が、「退室阻止」としては「度が過ぎる」うえに、 (「手を抑えて引っ張る」とか「背後に回って腰を押す」とか)「退室阻止」という「目的」に「適う」性質をそなえていないのはなぜか、また、文協の存続と次回の日取り決定との鍵を握る、委員長の玉城教授が、まだ扉内に残っているのに、その委員長はさしおいて、真っ先に会場の外に出てしまった唯一の助教授委員・築島氏にのみ、さし向けられているのはなぜか、といった疑問が、生じざるをえません。関野証言は、仲野君の行為のコンテクストは無視して、関野氏自身が目撃した行為の断片だけを前景に取り出し、「事実」と称し、その態様について「暴力」「処分に値する」との主観的価値判断を、一途に強調するばかりです。]

学生 [仲野]:「さっきの岩崎先生のですね、この処分を文学部学友会委員長 [民青系] が認めているということを言っているわけですけど、文学部委員長が当時ぼくに対して言ってきたのは、『部屋の中で君は教官が出ようとしたときに部屋に押し戻そうとしたじゃないか』という事実を言っているわけです。こういう事実は全くないということは、後に調べたところ明らかになっているわけですけれども、客観的にこれに対して文学部 [学友会] 委員長は全く当時の事実を知らないでおいて一方的にありもしない事実ということを教官に対して謝罪しているわけです。従って、当時の学友会の委員長が事実を認めているという教授会の主張は全く通用しない。これは当時においても明らかになっていたわけです。当時の第二委員の方が、このことについては文学部の学友会の委員長も謝罪文を出しているということが一つの根拠になっていると、だから、教官側の証人の証言している事実というものは学生側も認めているんだ、という論理ですね。え? そうですか? そうですね。ところが当時、小泉君 (当時の学友会委員長、民青系) とぼく(仲野君)との対話において、当の小泉君が謝罪した内容は学校側の主張するところの、即ち、部屋の外でぼくが、教官が一方的に逃げたのをとどめようとしたという問題とは全く違って、部屋の中で無用な暴力をぼくがふるったんだ、と小泉君は言っていたわけですよ。従って指している事実というものがまったく違う訳ですよ。したがって誤った認識にもとづいているところの小泉君の謝罪文というものを、(暴力行為を) 学生側も認めているんだという形で処分問題に利用していくということは全く政治的で破廉恥な立場でしかないということを明確にしなければならないと思うわけです。その問題についてはどうですか。(築島よんでこい』のヤジ)

[ここで、仲野君の発言を踏まえて、築島氏と小泉君とをこの会場に呼び、関野氏も立ち会い、各人の事実認定を突き合わせて、事実関係(たとえば「部屋の」か「」か)を確認しておけばよかったと思います。ところが、どうやらヤジに終わってしまって、仲野君発言の趣旨を活かせなかったようです。また、この問題提起を受けて、文学部の助手・院生・あるいは教員有志のような年長者が、築島氏と仲野君との双方をまねき、直接の対質を求めて事実関係を確認する――1969118-19日の「機動隊再導入」を経てから、ずっとあとになって、196996日にじっさいに開催される「国文科追及集会」のような――機会を、この時点で設定することはできなかったのでしょうか。そういう計画はあって、提唱はされても、なんらかの事情で立ち消えになったのでしょうか。そのあたりのことも、問うてみたいところです。]

関野:「文学部の自治会の文書はこういう文書ですよ。ちょっと待ってください。……それはね、文協のときに一人が教官に暴力をふるって誠に申し訳ないと。しかし、先生方がわれわれの要求を無視して一方的に退場されたのははなはだ遺憾である、というふうに書いてあった。」

学生 [おそらくは仲野]: 「小泉が仲野ということを確認したのか ?

関野:「え? だって『一人の人』と書いてあった。あの時、暴力をふるったと思われるのは一人ですよ。仲野君一人ですよ。」

学生:「小泉君はその謝罪文で暴力を振るった人間は仲野君であるということを証言したのかどうか。」

関野:「まあね。それは一つの証拠。他の目撃者は玉城さんと、それに × ×さんです。それからご本人の築島さん。それから私です。それだけです。」

学生:「小泉君は謝罪文において仲野君が暴力をふるった人間だと証言したのかどうか。はっきり答えてみろ。」

関野:「それはね。無名ではありますが、当時の一般的状況からみたら、暴力をふるったのは仲野君一人ですよ。だから一人の人が暴力をふるったと書いてあった。それはね、公正な第三者の判断からすればそう思えるでしょう。それが一つの証拠。それから現に我々が見ているんです。」

学生: [おそらくは仲野]:「あのときにおいて、謝罪文において暴力をふるった人間が仲野であるという証言は行われなかった。いいね。」

[このあと、「記録」には、小泉君証言にある「暴力行為」() 学校側が処分理由とする「暴力行為」() との齟齬について、追及がなされた、とありますが、そのやりとりの内容は「中略」されています。論点はむしろ、文協閉会後における教官委員側の「一方的実力総退場」と、学生側の「実力阻止」との「相等性・等価性」と、それにもかかわらず、一方の実力行為だけを取り出して処分する教授会当局の立場の問題性(権力性-政治性)に移行していきます。]

学生:「教官はああいうこと (築島教官が仲野君を突きとばして出ようとしたこと) をやっても構わないっていうのかよ。」

関野:「教官が暴力をもって突破しようとしたから、それでみなさんが……そうじゃないんですよ。我々が出ようと思ったら皆さんが先に、その口をふさいだのだから、我々は押したわけですよ。だから逆さまに言えば、逆さまになると言っただけですよ、私は。」

学生:「そういう風に『一方的に学生との話し合いをけって実力で総退場しようとしたんですよ。』

関野:「私は事実を言ってるんですけどね。こういうような喧噪な状態では私はもう答えません。」

学生:「ここにおいて、問題の所在ははっきりしたと思うんです。すわなち、何故に教授側がその場において一方的に話し合いを拒否して実力でもって総退場しなければならなかったか、何故、我々は教官が出て行くのを阻止するような行動に出なければならなかったのか。我々はその時においてオブザーバー排除という問題について三点の要求をおこなったわけです。即ち、第一点に文協運営委員会の開催による検討、そして第二には臨時文協の開催によって検討すること、第三は、討論集会あるいは集会一致の形態での話し合いの続行、この三点で、どれかをやることによってオブザーバー問題 [について] 討論 [する] 話し合いの保証ということを要求した訳です。(まさにその時) あんた方は教授会の時間がきたということをもって一方的に総退場し、今後の討論の保証、そういうことを一切抜きに、教授会決定を守らないならば今後学生とは話し合う必要はない、文協は閉鎖する、というような言葉を発して実力でもって総退場しようとした。だからこそ我々は、はっきりそういう立場を弾劾し、時間がないならば今後の討論を保証する場をつくれということを確認させるために立ち向かったのだ。そのことに対して、あなたたちは自分たちの行為についてどう考えているのか、あなたはね、立ちふさがったから悪いんだ、立ちふさがっているのをはねのけて何が悪い、こういう風にしてやったんだよ。何故そういうことが起きたんだよ。立場の見解の相違だ ? 冗談じゃないよ。立場の相違でかってに処分できるのかよ。」

関野:(前略)……とにかく私の意見では要するに動機はいろいろあるでしょうけれども、現場にいました私が見たところはですね、あの教官にたいする暴力はたしかに処罰に値すると思いました (場内騒然)。仲野君の処分に対することはもう昨日学部長やその他の方々からお答えしているわけで、それはどういう原因でそうなったかということは何ら問題じゃないんだ。暴力行為そのものが問題だ。そういうことです。」(中略)

[この発言に顕示された「パースペクティヴ(視座構造)」の問題性は、後段でふたたび問われます。]

*

学生:「だから問題なのは、学校当局が学生のそういう行為に対して、あたかも神がかり的に公正な判断を下すだなんてことをね、何か言っているわけであって、しかし、それはね、明らかに、そういう学生と教授会との関係の中でのね、学生にたいする教授会の態度、いわば価値観というものがはっきり出ているわけだよ。…… (中略)……」

[ここから、当の「価値観」の内容について、登張正実氏 (独文科教授) が「子弟関係」説を、堀米庸三氏 (西洋史学科教授) が「大学のルール・秩序」説を唱え、質疑応答がつづけられます。そのあと]

学生:(115日団交の総括) (前略) だからね、大学当局は、暴力行為であろうがなかろうが学生のこういう自治活動なんかをね、ルールに反したという [理由で] 処分する立場を持っているということを、このことが問題であるということを我々は確認しなければならないと思います (拍手)。まさに我々の自治会活動というのは、たえず、いわば大学の管理体制の枠の中で、つまり、学生はたえず声を出すことしかできないようになっている。そして協議会なんか作っても、それ自身が静かな話し合いでなくてはならぬという枠の中で行われる。その場合に、学生の意志は、絶対にもう『静かな』話し合いでは解決できない。その間に学校側は、方針を着々と実現し、物質化する。そういうを持っている。そういう中で我々が学生活動に対する規制とか、そういう不当なあれに対して、はっきり反対していく。反対の意志を実現してゆく。その際に、まさに大学のルールを破壊したという形で処分されてくる。その処分の論理そのままで仲野君の処分が行われてくるということを我々ははっきり確認してですね、この間僕達のいわば処分の問題についての反対運動というのは、単に事実の調査がどうのこうのという点に問題があるのでなくして、まさにこの自治会活動の規制ということを、この点を我々は弾劾してゆくという立場から、処分撤回を勝ちとってゆく、この方向性を確認したいと思います。(拍手)

[ここで、文教官-教授会による「事実の調査」の杜撰・事実誤認について追及を緩めず、そういう個別の細部にこそ顕在化し、当人は必ずしも自覚していない、教授会・当局の「立場」「視座構造」ないし「思考様式」の被制約性 (「存在被拘束性」) の事実とその特性(権力性)を、まずは当面の事例に即して個別具体的に立証し、「学生自治活動への、そのかぎり明白に不当な規制」を撤回させ、自治活動の自由を一歩一歩、漸進的に拡大していく、という路線も採りえたのではないか、と思われます。しかし、この「総括」では、そういう路線が放棄はされないまでも、むしろ「処分一般の権力性・政治性を「本質」と決めて、一途に糾弾する方向に傾き、柔軟で漸進的な姿勢は後景に退いていく、という印象を免れません。「学生処分は教授会の権限」という林新学部長の主張を、一歩譲って現状として認めるとしても、だからといって教授会が何をやっても「正当」というわけではなく、事情聴取と事実認定が不備で、事実誤認にもとづく冤罪処分であれば、そのかぎり不当な処分にちがいなく、教授会による「権利の濫用」にほかならず、その意味で問い質され、糾弾され、是正されなければなりません。その確認からさらに、教授会を駆って、まさにそういう杜撰・拙速、帰結として事実誤認にいたらしめた、背後の要因は何か、と問い返していくこともできましょう。医学部における粒良君処分の不当性が「高橋・原田報告書」によって問われたのと同じように、仲野君処分の不当性も、個別具体的な論証によって問い、白紙撤回させることができれば、「教授会権力対学生自治」の現実の関係を、そのかぎりで是正し、学生自治活動の自由を一歩拡大する成果がえられるにちがいありません。ところが、文学部学生は、文教授会の強硬姿勢にいわば「痺れを切らして」早々と見切りをつけ、「相手が強硬なら、こちらも強硬方針の『物質化』を」という抽象的「同位対立」に陥り、(相手方の「内懐に飛び込み」、その主張の矛盾と破綻を論証し、そのかぎりで相手方や第三者をも説得し、一歩一歩追い詰めていく、という) 柔軟ながら強靱にして漸進的な路線は、いちはやく放棄してしまったようです。しかし、このあと、「2 ルールの問題と教官自身の立場との関係」、「3 大学側の言う処分の意義及び処分解除の意味」について縷々、同じ趣旨の議論がくり返されたうえで、「4 処分問題――続き・民青の居直り的自己批判」の節では、もう一度、教官側のスタンスにつき、つぎのとおり核心を衝く問題提起が、一学生から林文学部長に投げかけられていました。]

*

学生:「文学部協議会での教官退場の際、築島教官をはじめとする教官側の強引な行為があったわけだが、あなたはそれを暴力行為とはみなさない。そして、みなさない理由として、その行為の原因や背景を問題にしている。しかし一方で、教官側のそのような強引な行為に抗議し、阻止せんとした仲野君の行為については、その行為そのもの即自的に問題にし、彼の行為の原因なり背景なりを問題にしていない、これはどういうことか。」

[この発言は、清水論文にも引用されていますが、それまでの議論の内容を的確に集約するとともに、その制約を脱する方途を探る(少なくともその端緒となりうる)重要な提案でもあったと解されましょう。すなわち、「教官側はこれまで、自分たちの退場行為については、その動機や背景を(なにもかもではなく、強引な退場行為を正当化できるかぎりで、自分たちに都合がよいように)採り上げ、前景に押し出してきているけれども、相手方については、行為の動機や背景はいっさい捨象して、その態様だけを取り出し、『非礼』『暴力』で『処分に値する』という価値判断に短絡し、一途に強調するばかりで、まさにそうしたスタンス・「思考様式」ないし「視座構造」の問題性――それがじつは、根本的な不公正をなし、事実認定と価値評価を歪め、誤らせている事実――に気がついていない」、「だからここで、そうしたスタンスの制約から脱し、双方の動機と背景を同等に視野に収め、双方の行為を切り離さず、ひとつの「行為連関」として捉え返してみてはどうか」――別言すれば、「互いに相手方・敵対者にだけ適用されがちで、この場合もそういう制約を帯びたままの『イデオロギー暴露』を、翻ってわが身にも適用し、そうすることをとおして、『立ち位置』の利害関係による「存在被拘束的」な偏りないし歪みを、看過せずに探り出し、いっそう公正で普遍的な事実認定と価値判断に到達することはできないか(いうなれば、「イデオロギー暴露合戦」から「知識社会学」的な探究と論証に脱皮することはできないか)」――という趣旨の提言をおこなっている、とも解されましょう。この提言が双方に受け入れられ、その見地から「104日事件」における「築島-仲野 行為連関」の事実関係が、改めて検討され、構成されていけば、大学闘争として新たな局面が開け、画期的な成果が達成されていたのではないでしょうか。

ところが、「8日間団交」の議論は、残念ながら、その方向には進まず、既出の論点にかんする堂々巡りに陥った挙げ句、学生側はいわば「痺れを切らし」て「教授会権力対学生自治活動の自由」という抽象的「同位対立」図式を振りかざし、自己充足的に「気勢を上げ」、団交を打ち切ってしまいました。しかもそれは、(事実を重視して当然の歴史家である)林健太郎文学部長による、下記のような「論点のすり替え」を転機とし、学生側がそれに「乗って」、反問を断念してしまった結果でもあったのです。]

:「ある事柄の事実認定や価値判断に関して学生側と意見が対立する場合どうするかという問題だな。その場合教官側は学生の言い分もいろいろ考えるけれども、しかし、教官側がそういうことを聞いた上で、やはり正しいと考えて決めるわけです。……処分の権利は教官側にあるんですよ。もうひとつ問題があります。さっき私は、学生側の見解が対立したと言ったけれども、当時の委員長は、そういう暴力行為があったことを認めたわけですよ。われわれは、諸君の中の何派だとかいうことを問題にしていない。」

[この林発言は、①「処分の権利は教官側にある」、②「当時の学友会委員長が、暴力行為があったことは認めた」というふたつの論点からなっています。ところが、まず については、「現状では処分権が教官側にあるとしても、だからといって何をしてもいいのか、事実誤認や事実歪曲といった権利濫用、ならびにそうした濫用に通じる『思考様式』や『視座構造』を、(学生がいままさに問題として提起したように)反省してみてはどうか、そのうえで、被処分学生側の動機と背景と、教官側についても (「不都合」なのでとりあげようとしない) 政治的社会的背景を射程に入れ、視野に収めると、『104日事件』の事実関係は、どう捉え返されてくるか」というふうに、あえて「相手の内懐に飛び込み」「相手の論点を逆手にとって」追及と探究を重ねていくこともできたのではないでしょうか。ところが、学生は、(教官側の処分権一般いっきょに「解体」し、学生側の「権利」一般いっきょに確立しようという抽象論に陥り) 林回答 への柔軟な追及には踏み出せず、既出の論点 に舞い戻り、しかも「築島・小泉喚問」も要求せず、「民青執行部」にたいする追及 (学生側の「内部矛盾」) のほうに「横滑り」してしまったのです。]

学生:たしかにそうだ。そのことについて明らかにしよう。小泉君と築島教官がいれば話しはすっきりする。(このとき小泉君と築島助教授はいなかった) 杉森君、そのときのことについて説明してほしい。( 杉森君は当時、学生大会議長=民青系)

[このあと、杉森君と (後からやってきた) 小泉君とが、「文協会場の問題との問題とを取り違えて謝罪文をしたためた」(趣旨)とはっきり認め、率直に自己批判します。とすると、当の「謝罪文」を「学生側も『仲野君の暴力行為』を認めた証拠」として事実認定に利用している文教授会当局の事実認定も、そのかぎりで破綻するほかはないでしょう。ですからここで、この事実誤認をこそ、追及し、確認をとってしかるべきだったのですが、議論はむしろ、小泉君の「謝罪」を「反トロ(ツキスト)・キャンペーン」の一環として断罪する方向に傾き(学生側の「内部矛盾」に固執し、これを拡大して)、文教授会当局をそれだけ「免罪」してしまいました。生硬な「マルクス主義的全体知」が、抽象的な二項対立図式への短絡と固執をもたらし、個別具体的な事実の究明と、そういう問題解決の積み重ねによる漸進的な改革は妨げる――そういう「負の螺旋」関係を窺わせる――ひとつの証ではないでしょうか。そのあと、既出の論点にかんする議論を蒸し返した挙げ句、

:「……教授としては、会(文協)は終わったことであるし、教授会に行かなければならない。ところが、ドアの所に仲野君がいたから体と体がぶつかったこと [つまり体当たり] は当然です。そのことを、築島教官が仲野君に暴力を働いたという人があります。しかし、これについても、言われているような暴力行為ではない。これは外へ出るために止むをえず体に触ったことである。これに対し、仲野君が教官にやったことは明らかに暴力行為である。(ヤジ、騒然)しかも、これは処分に値する。そう認定したわけです。(騒然)その認定は、それから同時にその後の処分の手続きにも何もまちがった所はない。従ってこの処分は正当であり、我々は白紙撤回する必要はありません。」

*

このあとにつづく「終章  団交決裂にあたって」によると、

学生:「われわれは、基本的にもう林からきき出すことは何もないわけです。現在の当局の態度は、自ら処分した立場については反省することなく、事実問題ににげこんで、『スジ』をあくまで通していこうというものである。七項目を議題にするだけで、検討するわけでも撤回するわけでもない。何度も集会をくり返す中で、闘争の弱体化をはかろうとしている [かりにそうとしても、「逃げこみ」は許さず、相手の「スジ」に含まれる矛盾と事実誤認を論証して、最小限、個別具体的な「文処分」の撤回を勝ち取る道は、なかったでしょうか。しかしここで、そういう論証による追及は放棄し]、我々はもうこれ以上文教授会と話し合いをしていく気はない (拍手、異議ナシ)。文学部当局に対しても、この間8日間の交渉の決裂を宣言する。(満場拍手) もはや一般的な非生産的な交渉はありえない。実力でもって、この闘争をきりひらいていくしかない。(満場拍手) もはや極限に達したという認識にたって、今後の闘争体制について、委員長のほうから提起してもらいたいと思います。(拍手)

委員長:「本日でもって、無期限交渉をおわって、決定的な段階に入っていく中で、今後の方針を提起していきたい。我々はもはや、交渉に対して何らの幻想をもたず、教官には帰ってもらうことを宣言する。(拍手) ……当局においては、話しあうことが意義あるものとされ、『一般学生』もそれに期待をもっていただろう。現在、そのような幻想完全にうちやぶられた。我々は、交渉に何ら意義がないことを、事実として明らかにしてきた。我々が多数の意見として表明しても、当局はそれを受けいれないことが明らかになった。学生がヘゲモニーをとった交渉を当局が拒否していく、それを陰ペイした表現が「人道」問題化キャンペーンであるが、自由な立場にたって話し合えば何かが生まれる、というのは当局の欺瞞でしかない。たとえ自由な立場で話し合っても、当局は我々の要求に答えることはない。それを確認したことが、第一の意義である。

  第二の意義としては、文学部不当処分が七項目の中においても、決定的な重要性をもっていることを明らかにし、全学に提起したことである。新収拾内閣なるものが、医学部処分は撤回し、文学部処分は撤回しないという時、我々はその文学部処分問題の重要性と、医学部処分の『撤回』が我々の要求してきた白紙撤回とは、無縁のものであることを明らかにしてきた。医処分は手続き問題ではなく、まさに、当局が学生自治活動に対して、学内秩序を乱さないわく内でのみ認め、それからはみ出る場合には規制してくる、そのさいに、もっとも有効なものとして、みせしめの処分をしてくる。我々は、当局のこのような態度そのものをまさに問題にして、不当性を主張してきたのである。我々はまさに、当局の教育的見地、学問の自由をまで問題にしていくことによって、東大闘争の中で医学部の大量処分が問題で、文の処分は問題ではないという、誤った考えに明確に反対していかなければならない。文処分は、いわゆる学内秩序、暴力事件という一般的な観念をたたきこまれている学友には、その不当性をとらえきれない。それは東大闘争の本質をみぬきえない誤った立場であるということを、我々は、この間の交渉の中で明らかにしてきたし、今後全学の学友の前に明らかにしていくことを、確認しなければならない。(異議ナシ)

*

ざっとこんな調子で、双方とも、それぞれ「間違いようがない」と確信する議論を延々とつづけ、「文学部8日間団交」は「決裂」しました。しかし、小生が、この記録を読んで、(他学部ではあれ、これとよく似た、あるいはもっと激烈な対立場面にも、しばしば立ち会った経験のある)一教員として、真っ先に感ずるのは、文教授会がなぜ、文協のオブザーバー問題にこれほどまでに拘り、(「文協閉鎖」の危機感から扉付近にピケを張ったと思われる) 学生たちにたいして、「大人気ない」としかいいようのない「体当たり」を敢行してまで「一方的総退場」を強行したのか、どうしてそういう「少なくとも異例の対応」に出たのか、という疑問です。こうした行為は、「教授会が始まっている時刻だから」という「動機」だけでは、「正当化」はできても、「説明」はできないでしょう。

ところで、当時、文協で何が議論されていたのかと問えば、一見したかぎりでは、とりたてて「政治的」な話題ではなかった、ともいえます。旧法文経29番教室を「学生ホール」に改造して、学生のサークル活動に役立てようという件について、ホールの利用方法ないし管理規定を協議していただけでした。一見、純然たる「学内問題」でした。その「文協」に、ホールの利用者となるはずの同じ文学部の学生たちが、学生自治会(学友会)の委員ではないとしても、あるいはむしろそうでないからこそ、(政治的な党派対立を背景として)「委員任せにしておいたのでは不利な扱いを受けかねない」と懸念し、みずから「オブザーバー」として立ち会い、一部始終を自分の目と耳で確かめようと思い立ったとしても、不思議ではありません。文教授会としては、なにもそれほど「目くじら」を立て、「排除」に躍起になるほどのことではなかったでしょう。現に、文教授会も、当初には、正規の学友会委員以外の文学部学生からなる「オブザーバー」に、「学生ホール利用団体の代表」という名目上の資格を与えて、「立ち会い」を黙認しており、学生はそれを「既得権」(自分たちに有利な「慣習律」) と受け取っていたようです。なるほど、協議内容のいかんによっては、ときとしてオブザーバーが発言を求めたり、突発的に発言したり、ヤジを飛ばしたりして、喧噪におよぶことも、あるにはあったかもしれません。しかし、そういう「慣習律違反」は「逸脱」として制し、なんとか平常の協議会運営を維持することはできなかったでしょうか。そういう状況で、「オブザーバー排除」を「文協の原則」と一方的に決め、(教授たちの「自己正当化」神話の要として、学生がもっとも嫌がる)「教授会決定」を大義名分に振りかざし、その遵守を迫り、「いうことをきかなければ文協閉鎖もやむをえない」といって「一方的総退場」の強行におよぶ、まさに「家父長制的権威主義(パターナリズム)」の流儀では、相応に激しい抵抗が生ずるのは必至だったでしょう。そういうやり方では、対立が対立を呼び、やがては双方が(「同位対立」的-相乗的に)硬直化し合って、敗戦後なんとか維持されてきた「文協」の伝統も、先輩たちの努力も、「無に帰する」ほかはない、と危惧されることはなかったのでしょうか。

ところが、文教授会は、1967524日に、学生の抵抗は必至の「教授会決定」をくだし、それ以降、学生に一方的遵守を迫り、「さもないと……」と「文協閉鎖」をちらつかせ、学生側からの(文協存続のための暫定措置への)再三の具体的提言にも耳を貸さず、同年920日と104日との二回にわたり、定例文協からの「一方的総退場」を強行しました。そのうえ、そういう一触即発の緊迫した状況で、おそらくは偶発的に生じた、強行退場にともなう「摩擦」「揉み合い」の一断面を捉え、それを理由に見立て、なんとも拙速な、学生側には「一方的な強権行使」と映るほかはないやり方で――つまり、当時の「教育的処分」の本旨に沿い、当事者から十分に「事情を聴取」し、できれば本人の反省と納得を調達する (確かに緊張を孕み、苦渋に満ちた「難行」ではあっても、東大内の他部局、たとえば教養学部ではじっさいにおこなわれてもいた) 段取りと手続きを踏むことなしに――、仲野雅君の学生身分そのものを剥奪し、学生をなおのこと憤らせ、硬直化させて、事態をいっそう紛糾-険悪化させてしまったのです。

それでは、文学部教授会は、いったいなぜ、そうした拙速な硬直化に陥ったのでしょうか。肝心要のこの問題について、まずは学生と教員双方の人間としての対等性を大前提として、判定の規準に立て、文教授会にとっては不都合な背景と動機射程に入れて、考察すると、どうでしょうか。ということは他面、「処分」をいきなり「教授会の政治的権力手段」と決めてかかり、そういう抽象的一般論で押し切ろうとするのではなく、まずは文教授会の「拙速」を、事実に即して個別具体的に明らかにし、論証し、そこからその背後に、文教授会をしてまさにそれほどの拙速にいたらしめた、なんらかの与件――おそらくは、文教授会メンバーの「首を、真綿で絞めつけるように」締め付けて、かくも拙速で杜撰な強硬措置にいたらしめた「隠然たる圧力」の存立――をまずは推認し、できれば実証的に突き止め、そうした具体的「因果連関」における「医処分」との共通性ないし双方の特性を、それぞれ浮き彫りにする――「国大協・自主規制路線」の二分肢・二類型として捉え返す――ことができるかどうか、という問題提起ともなりえましょう。今後、歴史家には、この問題提起を受け止め、文教授会および当局側の公開公文書資料に即して、実証的に究明していってほしいところです。

*

さて、そうした問題提起と探究課題を念頭に置くとき、小生が真っ先に思い出すのは、1960年「安保闘争」のあと、岸信介退陣後に登場した池田勇人首相が、持ち前の率直な「もの言い」で、「『安保騒動』では、大学が、学生デモ隊の『出撃拠点』として利用され、『革命戦士の養成所』ともなっていた。『大学管理』をなんとかせねばならん」とぶち上げ、「大学管理法」の立案-制定を指示して、1962-63年「大管法闘争」の口火を切ったことです。この提言を受けて、当時、文部省ほか、各方面で用意され、アドバルーンとして打ち上げられた「大管法」関連の諸草案・諸構想を調べてみますと、つぎの諸点が明らかに窺えました。すなわち、① 学長を頂点とする大学管理機構の中央集権化、 中央事務局 (時計台) の文部官僚を介する国家権力機構末端への編入、とりわけ 学内外の「秩序違反」にたいする学生処分と (大学への) 機動隊導入の奨励、が謳われ、意図されていたのです (拙著100ページ、参照)。なるほど、こうした「勇み足」にたいしては、池田氏と即人的に親しい学界三長老 (中山伊知郎、東畑精一、有沢広巳の三氏) が、「そういう強権的なやり方では、一般教員と一般学生の反撥をまねいて、逆効果にもなりかねない」、「大学と『国大協』(国立大学学長協会) が『自主的に対処し、秩序を維持-強化するように仕向けていく』から、ここはひとつわたしたちに任せてほしい」と「とりなし」に入り、池田首相も政府-自民党も「法制化」は見合わせました。とはいえ、なんの「見返り」もなく、その「あて」もなしに、「振り上げた拳をひっこめた」とはまず考えられません。

その後、1965年の「日韓会談」、アメリカ軍の「北爆」開始によるベトナム戦争の拡大という政治状況で、各地に「ベ平連」が結成され、東京王子の「米軍野戦病院」や、米原子力空母「エンタープライズ」の佐世保寄港-配備に反対する、反戦市民運動と学生の街頭闘争が、突出した高まりを見せました。後者に関連しては、九州大学が、一時、学生の結集拠点ともなりましたが、広汎な市民の支持を背景に、九大当局は学生排除を強行せず、柔軟な対応に終始しました。「1967104日事件」のちょうど四日後には、佐藤栄作首相の南ベトナム訪問に反対して、全国各地から羽田空港に集結しようとした学生のうち、京大生の山崎博昭君が、弁天橋付近で、機動隊員による殴打を受け、頭蓋骨陥没で死去しました。そうした騒然たる政治状況で、政府-自民党が、学生-、市民運動の昂揚に神経を尖らせ、数年後に迫った70年「安保破棄闘争」も見越して、その「出撃拠点」つぶしに乗り出し、「国大協」と個別大学当局に、1963年の「黙約」を思い起こさせ、(各大学「中央事務局」の文部官僚が、時計台内の密室で、学長・学部長会議を「使嗾」して) 学生運動への統制強化措置を迫ったとしても、不思議ではありません。東大文学部における(なるほど「街頭行動への出発拠点」とはなりうる)「学生ホールの開設」、その利用-管理規定をめぐる「文協」への「オブザーバー参加」をめぐって、文学部教授会が「前例になく、柄にもない」拙速で杜撰な強硬姿勢にのめり込んでしまったのも、ときあたかも背後に渦巻き始めた「隠然たる圧力」が、別様のコンテクストではあれ、医学部と同じように、一連の「動機連鎖」をなして作動し、文教授会執行部を巻き込んだ結果ではないでしょうか。「文処分」の政治-社会的背景をなしたと想定される、この「国大協・自主規制路線」の「動機連関」仮説が、東大当局ならびに文教授会の公開公文書資料によって、どの程度、実証的に立証できるか、歴史家による今後の研究に期待するところ大です。

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さて、その後、1968年の年末には、加藤執行部から安田講堂の全共闘代表者会議に、いくつかのルートをとおして非公式の接触がはかられ、加藤執行部でも、議論が交わされたとのことです。それから幾星霜、当局者の「私記」の類が、「○○年後の真実」といった表題のもとに公表され、「裏話」「秘話」として巷の興味を引くようになりました。清水論文も、そういう「裏交渉」の経緯をいくつか採り上げ、一定の紙幅を割いています。しかし、そこでやりとりされている議論の中身・内容は、「文処分」の事実関係にさかのぼって理非曲直を問う本質的論議ではなく、「どこまで譲れば、相手も、文教授会も、折れるか」といった対策論議 (政治的状況論) の域を出ず、「大人の論理」としても低次元・低水準で、お話になりません。たとえば、一見もっとも「急進的」な、総長代行代理でマルクス経済学者の大内力経済学部長でさえ、「文学部がひっかかると思うことをわざと[メモに]書いて、これはちょっと受けいれられたら、あとまたえらい面があると思ったけれども、まあやっちゃえ」、「文学部は多少むくれても押し切ろうというを決めて[メモを]書いた」(清水論文、50ページ)などと、「やくざ」まがいの心境を語っています。これでは、全共闘の代表者会議が、加藤執行部に「見切り」をつけ、問題としなかったのも、無理はありません。ただ、そういう相手は相手として見据えたうえで、闘争全般にかんする状況判断として、どう対処すべきかにつき、議論の余地はあったと思います。

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さて、文スト実系学生は、「安田砦攻防戦」には加わらず、「七学部集会」と「10項目確認書」による「多数決主義」の収拾策にも乗らず、1969118-19日の機動隊再導入以降も、文学部のスト体制を堅持していました。むしろ、

「こんな事態を受けいれてはならない」という個々人の決意にもとづく闘いは、その意味ではかえって盛り上がり、「卒論提出拒否」「大学院への内部推薦拒否」などに、発展-深化したようです。その結果、1969年の夏休み明けには、東大全10学部中、文学部だけが、授業を再開できず、「正常化(旧態復帰)」に取り残される羽目に陥りました。文教授会は、この政治状況には危機感を抱いたにちがいなく、争点の「文処分」を「なかったことにしようや」と「取り消す」意向を示し、評議会はその提案を1969930日に了承しました。

その間、96日には、築島氏の属する国文科院生の主催で、「国文科追及集会」が (本郷の学士会館分館で) 開かれています。そこには、築島助教授と仲野雅君が出席して、「1967104日事件」の発生後、初めて双方が直接に対質し、これにもとづく事実確認 (行為連関の再構成) が企てられました。主催者のひとり・一院生による報告(「文処分の根本的疑問」)は、「築島-仲野 行為連関」の要点を、つぎのようにまとめています。

. 築島教官ともうひとりとが三重にもなった学生の人垣をかきわけて外に出た。

  . [築島教官が] やっと外に出て振り返ると、中に同僚の先生方がいられるので引き返した

  . 中にいる教官をたすけ出そうとしてドアのところにいるうしろ向きの学生の背広のそで口をつかんで引っ張った。

. その学生が築島教官の胸もとをつかみ、ネクタイをしめあげて『何をするんだよう』などと暴言をはいた。」

報告は、これに加えて、「築島氏がこの『事実』を語ろうとしたとき、となりにすわっていた秋山教官 [国文科主任

教授] はしきりに築島氏の発言をやめさせようとし、 については (それは学生をひきずり出すといったかなり乱暴なものらしかった)、秋山教官は『それはマアマアと制止する行為だった、ネ、ネ、築島君』と同意をもとめるしぐさをした」と記しています。

  この集約によって、文教授会の従前の説明は事実誤認であることがはっきりしました。仲野君は、築島氏の退室を阻止しようとして、扉内でいきなり築島氏に先手をかけ、暴言を吐いた、というのではなく、すでに扉外に出ていた築島氏による背後からの先手に、後手として抗議した、というのです。

この状況再現は、つぎの疑問にも期せずして答えています。すなわち、こういう状況では、文協閉鎖の危機を感じている学生委員とオブザーバーは、文協の存続と次回の日取りにかんする確約を求めて、まだ扉内にいるか、退室の途上にある委員長の玉城康四郎氏に歩み寄るのが通例(「一般経験則」「法則的知識」にかなう「適合的連関」)でしょう。ところが、この場合には、なぜか仲野君ひとりが、玉城委員長、あるいはまだ退室していない築島氏以外の委員に向かってではなくすでに扉外に出てしまった委員で唯一の助教授築島氏――すなわち、「退室阻止行為」の対象としてはもっとも意味のない相手――にのみ、「並外れて激しい」行為に出た、というのです。それはいったいなぜだったのでしょうか。つまり、仲野君の行為は、文教授会や加藤執行部のいう「退席阻止」ないし「退室阻止」という動機一般には「因果帰属」できません。そういう大雑把な捉え方では、仲野君の具体的行為にかんする上記の疑問に答えられず、経験科学的検証に堪えられないのです。文学部教授会は、この初の96直接対質」にいたるまで、「退席阻止」「退室阻止」という「イデオロギー的正当化」に囚われ、凝り固まって、歴史的想像力を呪縛され、双方の人間としての行為連関」には思いを致せず、事実を見据えられず、仲野君の動機を「取り違え」て、致命的な事実誤認を犯していたのです。

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それにしても、「築島-仲野 行為連関」のこうした「解明-説明」は、上記のとおり、19699月6日の「国文科追及集会」における「築島-仲野 直接対質」の成果であるというほかはありません。しかし、真相の究明をめざすそういうアプローチそのものは、196811月初旬の「文学部8日間団交」でも、実施されるか、それとも(少なくとも)着想され、提案されていても、よかったのではないでしょうか。すなわち、主催者の文スト実系学生、あるいは「年長世代」の文学部院生ないし助手が、その場で、(ヤジに止まらず、じっさいに)築島氏の召喚を求め、(文教授会は抵抗したでしょうが、粘り強く説得して)仲野君との対質実現し、双方の確認事項を、上記「イ.~ニ.」のように簡明に要約して、学内外に広く公表することも、できたのではないでしょうか。そうしていれば、第三者あるいは相手方にも、大学として致命的な事実誤認直視して、文教授会および加藤執行部の「誤謬(への居直り)」を問い質そうと、目を覚ます人も、出てきたのではないでしょうか。

顧みますと、医学部学生・研修生17名にたいする大量-迅速処分の白紙撤回も、「闘争中の活動家を狙い撃ちにした政治的処分」という医全学闘の抽象的「定義」が、「バリケード封鎖」という実力行使によって直線的に「功を奏した」成果というよりもむしろ、あるいは、少なくともそれだけではなく、被処分者の一人 粒良邦彦君にたいする不在冤罪処分という誰の目にも明らかな不当処分」について、「高橋・原田報告書」のアリバイ調査論証として発表され、その内容が「これは看過できない」と徐々に一般学生・一般教員にも波及浸透していった結果ではなかったでしょうか。この先行経過が、さほど間を置かず、そのように総括され、「高橋・原田報告書」と同様の経験科学的論証の意義が確認されて、「文処分」問題にも応用され、活かされていたとしたら、事態はどう推移したでしょうか。

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ところが、組織の維持-拡張を自己目的とする観念的・物質的利害関心と、これに根ざす「イデオロギー的正当化」の感性と「視座構造」は、遺憾ながら、経験科学的真理を重んずる科学のエートスよりも、通例は有力で、東大文学部も例外ではありませんでした。この点を、身をもって鮮やかに証したのが、文学部きっての良心派と目されていた、当時の文学部長西洋史学科教授堀米庸三氏にほかなりません。

氏は、「文学部8日間団交」の場では、仲野君処分の事実関係と評価について「林学部長と見解を同じくする」と語っていましたが、1969年夏に文学部長職を引き継ぎ、一方では「処分を取り消し」ましたが、他方では、再三機動隊を導入して授業再開を強行しました。そのさい、「処分取り消し」の理由は、「1967104日事件」の事実関係にさかのぼって、処分そのものを再検討し、「築島先手」の介在事実を認め、それまでの「一方的退席-退室阻止」説のイデオロギー的抽象性と偏りに気がついて、正直に謝った、つまり「それまでの数々の事実誤認と事実隠蔽を認め、陳謝して、処分を白紙撤回した」というのではありません。相変わらず、「仲野君処分そのものは、当時の規準と手続きにしたがって正当になされた」から、「撤回の必要はなかった」と主張したうえで、「従来の『教育的処分制度』には『家父長制的権威主義(パターナリズム)』に傾く難点があったから、その弊とは批判的に訣別し、その決意と姿勢をそれだけ鮮明に打ち出すために、あえて仲野君の処分は取り消す」というのです。従来の措置(文学部教授会と加藤執行部による事実誤認と事実隠蔽)はすべて容認追認し、免責したうえで、「制度大改正」に向けていわば「特赦」を施すというのです。一見巧みな理屈を捻り出し、主観的には「苦肉の策」ではあれ、それ自体、他ならぬ「家父長制的権威主義」による「危機打開策」の常套手段で、その延長線上にある「上からの革命」の一類型にすぎません。

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小生には、「事実誤認と事実隠蔽の容認-追認-免責」それ自体が問題でしたから、こうした「取り消し」措置で引き下がるわけにはいきませんでした。東大当局が、文学部の授業再開のため、本郷キャンパスに機動隊を導入した1969109日夜、藤堂明保・西村秀夫・塩川喜信氏らと小生は正門横の工学部列品館前、北原敦氏ら文学部助手有志は文学部の建物のなかに、踏みとどまり、丸腰で抗議しました。小生は、大音量の携帯用アンプを持ち込み、BGMを流しながら、近隣の市民に向けても、門外に待機している機動隊員に向けても、事情を極力、簡潔に説明し、その場を「話し合いの場」に転じようと試みました。「この事態は、文学部の学生処分問題が解決されないために生じており、この場に踏みとどまっているわたしたち教員有志は、いまここに加藤一郎総長・堀米文学部長ら責任者が出てきて『話し合う』ことを求めています。処分の理由は、1967104日、『文学部協議会』という会合の席から、一教員が退席しようとしたところを、一学生が『退席を阻止しようとして』ネクタイをつかみ暴言を吐いた」と説明されていました。しかし、真相は、じつはそうではなかったのです。真っ先に退室した一教員が、室内に取り残されていた同僚を気遣って引き返し、扉付近にいた一学生の裾を背後から抑え、おそらく引っ張って、同僚の退室空間をこじ開けようとしたところ、その学生が振り向きざま、その先手に激しく抗議したというのです。文学部教授会も東大当局も、教官の先手は隠し、学生の後手だけを取り出し、「教官への非礼」(後に「暴力」) との価値判断をもっぱら強調して、当の学生を処分し、学生身分を剥奪しました。ですから、後手抗議者だけが『除け者』にされ、先手行為者は陰に陽に『かばわれて』いるわけで、不公正としかいいようがありません。そのうえ、そういう事実認定では、一学生がなぜ(すでに扉外に出てしまっていて、『退室阻止』のしようはなく、してもあまり意味のない) 文協委員のうち唯一教授・T教官にのみ並外れて激しい後手抗議におよんだのか、その動機がまったくわかりません。わたくしたちは、そういう不公正で不可解なことが、大学でおこなわれ、罷り通ってはならない、と考え、堀米文学部長と加藤一郎総長に、この場に出てきて『話し合う』ように、求めています。みなさんもどうか、ご協力ください。」

ところが、加藤一郎総長も堀米文学部長も、この呼びかけに答えず、「退去命令」を発して、一同を正門外に排除しました。小生は、そうなると予期はして、「これだけは言っておきたい――東大文学部問題の真相」と題する論稿を『朝日ジャーナル』誌の編集部に送り、「造反教官も逮捕」という「新段階」の報道とともに掲載してほしい、と依頼していました。ところが、正門外に強制退去させられただけで、逮捕は免れましたので、その論稿に当夜の経緯を書き加え、「東大文学部問題の真相――なぜ機動隊導入に抗議したのか」と改題して、同誌の1026日号に発表しました。

これにたいして、堀米氏は、同誌の次号 (112日付け) に、「折原論文に事実の誤り」と題する反論を発表しました。ところが、それを読んで驚いたことに、氏は、「T教官の行為は、N君がT教官につづいて退出しようとした他の教官を阻止しようとした行為に対し、咄嗟にこれを制止すべく背後からN君の左袖をおさえた [ものであり]自然に生じた制止行為で、学生N君の行為を正当化できるような性質のものではない」と書いたのです。なるほど、もっぱら教員側の見地に立ってT教員の行為を「正当化」し「免責」しようとすれば、「T教官の行為は、『自然に生じた制止行為』つまりは『自然現象』だから、『人間としての責任』を問う必要はない」と速断したくもなるのでしょう。しかし、「咄嗟」にせよ、「制止」を意図して、背後からN君の左袖をおさえた、れっきとした人間行為、しかも先手の「合目的(的)行為」で、「石ころの落下」とはわけがちがいます。堀米論法は、T教官を「免責しよう」として、人間T氏をかえって「石ころ」に貶めてしまっているのです。

他方、仲野君の側に立って見ますと、文協の存続ないし次回の日取りの確約をえようとして、まだ室内にいる(か、あるいは退室の途上にある)教官委員とりわけ玉城委員長のほうに関心を向け、そちらに歩み寄ろうとした矢先、「左袖を、背後から、つまり自分の動きとは反対方向に、抑えられた」のですから、その「手応え」はそれだけ大きく感じられたにちがいありません。そのうえ、仲野君にとっては、予期せず突発的に、背後から先手をかけられたのですから、「手をかけた」のが誰か、「咄嗟に、自然に生じた制止行為」かどうか、判別は不可能だったにちがいありません。そこで、振り向きざま、やはり咄嗟に、「何するんだ ?」と、(後には反省され後悔される態様の) 抗議行動に出たとしても、不思議ではありません。堀米流にいえば、「咄嗟に生じた異議申し立て」にほかなりません。

とはいえ、このように、双方の側に立って、当の行為連関を再現し、双方の「動機も解明」してきますと、堀米氏ら文教授会側の判断は、いかにも不公正なうえ、事実誤認を犯していて、処分の不当性は明々白々です。すなわち、「1967104日事件」の、上記のとおり特定の行為連関のなかで、築島氏の先手が介在して初めて発生した仲野君の後手抗議のみを、当のコンテクストから切り離し、孤立させて、その態様のみを理由に「教官にたいする非礼」「乱暴」「暴力」に見立て、「動機」も顧みずに「処分相当」「処分に値する」との「価値判断」に短絡し、学生身分まで剥奪したというのは、まず、「自分たち教員仲間には甘く、学生には厳しい」「身分差別(の「全体的イデオロギー」) に囚われ、暗黙の前提としてしまっている、根本的に不公正な判定というほかはありません。そればかりか、処分理由とされた仲野君の行為について、すでに退室している築島氏にたいする、ありえず、ありもしない「退室阻止」なる表象を創作捏造して、仲野君に押しかぶせ、真の――ということはつまり、「明証的」に「理解」でき、「経験的に妥当」と「説明」できる――「動機」を隠蔽してしまっています。自分たちの杜撰な判断にもとづく「既成措置」の「正当化」に走り、当の「行為連関」における双方の「動機の解明-理解」と「因果説明-因果帰属」を怠り、代わっては「非礼の徒」「乱暴者」「暴力行為者」という「通りのよい、その意味で処分には好都合な」虚構を前面に押し立てて、大学として致命的な事実誤認を犯し、しかもそれを隠蔽し通したのです。事実を重んずる歴史家の堀米庸三氏が、遺憾ながら、このように事実誤認を犯し、正当化してやまない、紛れもない事実を、ここでまずは確認しておきましょう。

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しかも、堀米氏自身は、上記のような議論――すなわち、歴史における人間行為を、その動機に遡って「解明」「説明」する「因果帰属」の方法論――に、専門家としては精通していたはずです。それというのも、堀米氏は、1964年の「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム 」の「第一部」に、「歴史学とヴェーバー」と題する講演者として登壇し、ヴェーバーが「因果帰属」の方法を論理学的に定式化し、具体的に例解してもいる論文「文化科学の論理学の領域における批判的研究」(1906)の意義を強調して止まなかったのです。

この論文の構成と論旨には、別のところ (本ホーム・ページの201411月7日付け「マックス・ウェーバーにおける『歴史-文化科学方法論』の意義――佐々木力氏の質問に答えて」、および20151229日付け「後期ヴェーバーにおける科学論の展開と比較歴史社会学の創成――尾中文哉論文への応答」) で詳しく立ち入っていますが、要点はこうです。すなわち、ヴェーバーは、古代史研究の大家エドアルト・マイヤーを、当該「1906年論文」のでは「槍玉に挙げ」、「歴史研究の方法と意義にかんする、認識論的反省命題の論理学的定式化は誤っている」と、論拠を挙げて手厳しく批判していますが、そのでは、マイヤーが古代史の専門的研究対象を取り扱った経験科学的歴史研究の核心部分について、「ギリシャ-西洋における世俗的で自由な文化の展開」を「ペルシャ戦争におけるギリシャ勢の勝利」に的確に「因果帰属」していると評価し、その手順をマイヤーに代わって (じつは、実験研究における「比較対照試験」の論理を、古代史という非実験室状況に適用する「思考実験」として) 論理学的に定式化しました。つまり、かりに「ギリシャ勢の勝利」がなかったとする (「対照群」を「思考のうえで構成」してみる) と、ペルシャ帝国は、「広大な版図における被支配者大衆の野放図な叛乱」をおそれ、「大衆馴致 (飼い馴らし) Massendomestikation」への利害関心 (「帝国支配者」としての「恒常的動機」) から、その「通則」 (「一般経験則」) どおりに、たとえばユダヤ教徒にたいしては具体的におこなったように、土着の密儀や秘教の類を温存-培養し、「教団」の簇生を促して「帝国の保護下に懐柔しようとした」公算が大きく、かりにそうなれば、「宗教的権威-教権への恭順」を桎梏として払いのけようとする「世俗的自由」は、息の根を止められたにちがいありません。ところが、じっさいにはギリシャ勢が勝って、ペルシャ帝国の思惑どおりにはならなかったかぎりにおいて、ギリシャ勢の勝利には、「その後の世俗的に自由な文化発展」にたいする「因果的意義」が認められ、帰せられなければならない、というわけです。

そのうえ、ヴェーバーは、こうした「因果帰属」を、歴史学の専門的研究にのみ固有の手続き、それもマイヤーのような大家だけが駆使できる高度な技法-秘法というふうに捉え、一般市民の日常生活実践からは疎隔してしまうという通弊には陥りませんでした。かれは、「因果帰属」とは、一般市民も、無意識裡にではあれ、使い慣れている考え方であることを、市民の日常生活から「ありふれた」エピソードを引いて、つぎのとおりわかりやすく解説しました。すなわち、ある日、ある若い母親が、「女中」と「口喧嘩」して「苛立っていた」ばかりに、かたわらで「悪さ」をした子どもに、つい「手荒いビンタ」を食らわせてしまったというのです。そこに、折悪しく夫が帰宅して、「粗暴な体罰」を咎めたところ、かの女は、こう答えたそうです。「いまはたまたま、女中との口喧嘩の最中で、こんなことになってしまったのです。いつものわたしなら、『外からの打撃は浅く、心にはしみ通らない』という『良き戒め』を守って、諄々と説いていたにちがいありません。あなたもよくご存知のように……」と。ここで、かの女は、「ビンタ」という現に生じた「結果」を、かの女の「恒常的習癖」にかんする夫の「日常経験知」「法則的知識」に訴えて、「女中との口喧嘩による苛立ち」という偶発「要因」に「因果帰属」し、現に生じた一連の経過を、「適合的」ではない「偶然的」因果連関として論証しようとした、というわけです。そのように、「因果連関」の「適合度」の検証には、状況内で起きた個別具体的事実にかんする「史実的知識ontologisches Wissen」(が、どれほど直接的かつ豊富でも、それ)だけでは足りず、「(たとえば、子どもの『悪さ』という) ある類型的状況に、通例ではどういう類型的対応がなされ、反復されているか」という問いに答える「法則的知識nomologisches Wissen」が援用され、リンクされなければなりません。

としますと、処分理由とされた仲野雅君の行為は、①「教官にたいする敬意と礼節」という「学生一般の恒常的習癖に反する」ばかりか、②「退席阻止」「退室阻止」という「目的」に「適合」する (つまり「合目的」的-「目的合理」的) 態様は欠き、③ まだ扉にいて、文協の存続と次回の日取りを決める鍵を握る、玉城委員長ではなく、すでに扉に出てしまっていて、引き戻す意味と緊急度には乏しい委員の築島氏ひとりに向けられている点で、「一般経験則に反して」おり、少なくとも「異例ずくめ」にちがいありません。そうであれば、「因果帰属」の論理に通じていて、常時使い慣れている堀米氏のような人ほど、そういう「解釈」をそれだけ問題と感得することができたはずです。そのうえで、当の「問題」を正直に解き明かしていきさえすれば、①~ の問題特性は、(文教授会と加藤執行部が固執していた)「退席阻止、退室阻止」一般には「因果帰属」できず、むしろ、築島退室の扉における「築島先手」の介在を反応触発契機と認め、仲野君の行為をこれへの後手抗議反応として捉え返して初めて人間の行為連関として説明され、納得され、「問題」が氷解する、と気がついたでしょう。

では、堀米氏は、事実を重んずる歴史家で、ヴェーバーの「因果帰属」論にも通じた人でありながら、この場合にかぎり、どうしてこの平明な帰結に到達することができなかったのでしょうか。

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そこでいま、逆に、「かりにその帰結を正直に認めたとしたら、どういうことになったか」と推論してみましょう。文教授会はそれまで、仲野君の行為につき、「退席阻止、退室阻止一般」という抽象的フィクションを前景に押し立て、「築島先手」にたいする「後手抗議」という仲野君の行為の (人間行為として「明証的に理解でき」「経験的に妥当として説明もできる」) 動機を、秘匿-隠蔽してきました。この事実誤認と事実隠蔽が、加藤執行部をはじめ、全学の判断と評価を誤らせ、1969118-19日の安田講堂への機動隊再導入をまねいた、少なくとも一大要因だったことは、否めません。ところが、ここにきて初めて「築島先手」を「事実」として認めるとなると、どうでしょうか。それこそ「驚天動地」で、動揺と大混乱を引き起こすほかはありますまい。「そんなことなら、なぜもっと早く、『新事実』を直視して、処分を取り消さなかったのか ?、そうしていれば、全共闘も、『七項目要求』が形式上は貫徹されたと認め、とりあえず封鎖を解き、機動隊再導入も入試中止も、避けられたのではないか。それを、なんでいまさら?」――こういう当然の疑問と批判が、澎湃と涌き起こって、加藤執行部を襲ったにちがいありません。

ところが、文教授会と加藤執行部は、この事態をおそれ、なんとしても避けたい、と心密かに思ったでしょう。そこで、堀米文学部長が、「折原論文に事実の誤り」と題する「反論」を発表して、「築島先手」は「咄嗟に生じた自然の制止行為」と無理に「こじつける」とともに、「当の事実は、文教授会メンバーには周知のことで、『処分取り消し』のさいに『新事実』として採り上げられ、議論され、考慮されたわけではない」と弁明し、それと同時に、「総長-学部長会議-各学部教授会への学部長報告」という例の一方的ルートで、全学の教授会メンバーにその旨「通達」し、「新事実」露見の波紋を食い止めようとしました。そこで小生は、「こうなったら、文教授会と評議会の議事録を公表して、築島先手の事実が、ほんとうに『周知のこと』だったのかどうか、そもそも文教授会で、『1967104日事件』の事実関係が、どのように議論されてきたのか、このさい公明正大に議論しようではないか」と提唱しました。しかし、堀米氏も加藤一郎氏も、沈黙を決め込み、この提案に応じようとはしませんでした。

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そのようにして、問題がウヤムヤにされ、「特別権力」感覚が生き延びたためでしょう。1977年、文学部教授会執行部(今道友信文学部長、辻村明評議員)は、「東大百年祭・百億円募金」に反対していた文学部学生にたいして、文学部長室の「小火」につき、所轄警察署は「原因不明」と公表していたにもかかわらず、『ふとん着火物説』を独創的に考案し、「学生の失火」と断じて、またしても「学生処分」を企てました。この措置が強行されれば、成り行き次第ではふたたび、「大紛争」に発展したにちがいありません。ところが、こんどはさすがに、文学部の処分案は、評議会で否決され、「いつかきた道」の破局は免れました(この後日譚については、拙著255-56ページに要約し、公然たる反対派と「体制内抵抗派」との (議論を詰めての) 連携の必要と意義を、説いています)、

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ところで、「学問にどういう意味があるか」という、当時の学生・院生諸君が直截に発した、いまなお切実な問題設定に関連して、ヴェーバーの「因果帰属」の方法論を、ここで多少敷衍し、展開して、普遍的な思考操作として捉え返すと、どうでしょうか。歴史における「因果帰属」の論理は、現在から未来にかけての予測に活かせます。すわなち、現在の「状況」すなわち「諸要因の個性的布置連関Konstellation」に、諸要因それぞれの一般的ないし類型的作用にかんする「法則的知識」を結合してみて、諸作用がいかに合成され、どんな諸結果が生起してくる公算 (蓋然性・「客観的可能性」) があるか、あるとすればどの程度か、と問い、「目的として意図され、追求される結果」と「意図されない副次的随伴諸結果」との両面にわたり、それぞれについて、「ある適合度をそなえた連関」を再構成し、予測することができましょう。基本的には、過去における「原因-結果」の関係を、「現在-未来」の関係に「スライドさせて」考えればよいわけです。

としますと、個々の予測にあたっては、現在における諸要因の個性的「布置連関」について、要因それぞれと「布置連関」との特性にかんする「個性化的・『個性記述的』(『文化』) 科学」の「史実的知識」が、そのつど獲得されなければなりますまい。ところが、それらにリンクされ、「予測」に援用されるべき「普遍化的・『法則定立』的 (『自然』) 科学」の「法則的知識」は、まさに一般に反復される「規則性」にかんする知見にほかなりませんから、個々の適用状況を越える一定の汎通性をそなえ、繰り返し援用-適用されては因果帰属と予測に活かされると同時にそのつど「微修正され」、「拡充され」、「整備され」、「鍛え上げられ」ていく、独特の弾力性をそなえていると見ることができましょう。としますと、およそ人間が直面しうる、「すべて」とはいかないまでも、もっとも広汎な生活諸領域にわたって、それぞれの歴史も見通して普遍的にえられた、豊富な「法則的知識」を、個々の援用にあたって迅速かつ的確に取り出して適用できるように、よく整備して把持している「普遍人homo universalis」ほど、状況内の実践にかけても、自分の企投の結果と随伴結果とを、相対的にはそれだけ迅速かつ適切に予測し、結果と随伴結果に責任を執り、つまりはそれだけ「責任倫理的に生きることができましょう。

なるほど、ヴェーバーの生きた19世紀末から20世紀の初頭にかけては、同時代の「学知」を、たとえば「文化科学」と「自然科学」に分類し、そうした枠組みのなかに各個別科学を位置づけようとする企てが、流行として盛り上がってもいました。しかし、ヴェーバーは、科学方法論に携わっても、分類自体や論理学的定式化を「専門」とし、「自己目的」ともして、自分自身の状況における実践的企投に応用-帰還しようとはしない――いうなれば「疎外」の――流儀には与せず、それぞれを各々の本質的特性に即して捉え返したうえで、「責任倫理」的実践の諸契機に編入し、とりわけ「『文化科学』的『自然科学』」の「法則的知識」を、上記のような実践的意義に即して、開拓し、拡張し、整備-体系化して、駆使しようとしました。その方向で創成される「法則科学」が、かれの「社会学」ということになりましょう。

さて、当の「社会学」は、そうした実践的意義に即して固有の整備」を施されましたが、それこそ「類型論決疑論への体系化」にほかなりません。つまり、ヴェーバーは、古今東西の厖大な史実と格闘するなかから、同じく厖大な「法則的知識」を獲得し、しかもそれらを、よく整備された「カタログ」に整然と登録-配列しておいて、実践的企投に臨んでは、必要なときに必要な関連項目を手際よく取り出し、(同時代の状況における諸要因の個性的「布置連関」にかんする)「史実的知識」と結合して、実践の結果-随伴結果の予測、したがって「責任倫理」性の確保に、迅速かつ的確に活かそうと、常時、準備態勢をととのえていたのです。

そのさい、ヴェーバーは、人間個々人の行為を起点に据え、一方では、行為が志向する主観的意味内容 (動機) の種類に準拠して、「宗教」「政治」「芸術」「経済」といった「生活諸領域」を、類型として区別し、「宗教-社会学」「政治-社会学」「芸術-社会学」「経済-社会学」というような「連字符社会学」群を構成しました。他方では、各「生活領域」における個々人の「社会関係形成」-「社会形象 (構成体) soziale Gebildeへの凝結とその解消-分散」というような流動的相互移行関係について、「ゲマインシャフト関係Vergemeinschaftung(個々人の有意味的行為連関態)」における「秩序形成Ordnung」とその「合理化」の度合いに準拠し、①「『無秩序』の集群Gruppe」-「『無定型amorphの秩序』はそなえた『無定型ゲマインシャフト』- (習俗や慣習律のような)制定秩序』をそなえた『諒解Einverständnisゲマインシャフト』」、④「『制定秩序』に媒介されたゲマインシャフト、すなわち『ゲゼルシャフトGesellschaft』」(わけても、『秩序の制定』が構成員全員の『合意』にもとづいてなされる『目的結社Zweckverein』)という階梯-段階基準を、「流動的相互移行関係」の「類的理念型」(いわば「道標」、「識別標識」)として設定します。そして、この尺度を携えて、西洋文化圏だけでなく、中国・インド・古代パレスチナほか、古今東西に広く見られる、その意味で普遍的な社会諸形象を、たとえば「家-」、「近隣-」「氏族-」「種族-」「宗教-(教団・教派・教会)」「政治ゲマインシャフト」のような、基本的には「仲間関係Genossenschsft」をなす「ゲマインシャフト」群と、「家父長制」「家産制」「カリスマ制」「教権と俗権との対抗的相補関係」「都市ゲマインデ (の自律的秩序形成態)」「身分制等族国家」「官僚制」「(合理的『アンシュタルト』としての国家」というような「上-下の『支配(命令-服従)』をともなう、基本的には「支配関係Herrschaft」をなす「ゲマインシャフト」群とに大別して、それぞれの概念を構成し、「合理化」の度合いを問い、流動的な相互移行関係とその動因を探り出して、「決疑論体系」に編成-整備しておこうとしました。そういう雄大な構想にもとづいて執筆された未定稿が、『経済と社会』(の「旧稿」、1910-14)にほかなりません。

そのさい、ヴェーバーは、「仲間関係」については「家ゲマインシャフトHausgemeinschaft」から、「支配関係」については (「家父長制」ではなく、あえて)「官僚制」から、というふうに、『経済と社会』の読者と想定され、期待される同時代の市民が、誰しも日常的に馴染んでいる「社会形象」をまずは採り上げ、そこから分析的叙述を開始し、決疑論的かつ普遍的・総体的な展望を開き、そのなかで同時代の境位を類型論的に位置づけ、その意味で「普遍的地平における自己相対化」に導こうとしました。思うに、この叙述スタイルには、「読者-著者関係」を(よくあるように、なにか「学問的『業績』達成の誇示ないし同慶祝賀」の関係に止めてはおかずに)、同時代市民同士のコミュニケーションとしてどう構築していくべきか、と問い、一個の「責任倫理的実存」として考え抜かれた自覚と構想が、黙示的にせよ表明され、概念構成と整備-体系化の指針として叙述そのものを貫いているようです。

それというのも、ヴェーバーはあるとき、自分の「立ち位置」を、「『自国(市民の日常経験知)』の内部に入り込んだ『異国 (普遍的・比較歴史社会学的学知)』の『飛び地Enklave』」にも譬えました。としますと、「飛び地」(学知) とその「取り囲み地」(市民の日常経験知) との間には、つねに「緊張関係」があるにちがいありません。そのひとつ、しかも最たるものとして、日常経験知は、ともすれば「自己中心egozentrisch-自種族中心ethnozentrisch」に傾き、自足性・自己完結性を帯びやすく、これに疑いを向けて脅かす「主知主義・知性主義Intellektualismus」にたいしては、稀ならず、敵意を向けて対立しかねないでしょう。これにたいしては、知性のほうも、いわば「同位対立」に陥り、これまた「純粋な」学知に閉じ籠もって、自己完結してしまいがちです。ところが、学問的によく訓練された知性が、市民の日常経験知を、その主観的先入観とともにまずはそのまま引き受けながらも、概念上精確に加工し、同時に、比較歴史社会学的-普遍史的地平に導き入れて、そのなかで類型化-相対化し、ふたたび市民に投げ返すことができるとすると、どうでしょうか。市民の日常経験知が、そういう普遍知に媒介されて、「自己中心-自文化中心」の制約から脱し、普遍性をそなえた健全な人間常識」に鋳直され、彫琢され、研ぎ澄まされてきうるのではないでしょうか。いずれにせよ、ヴェーバー社会学の主著『経済と社会』は、そういう方法意識とスタンスにもとづいて、日常経験知(とくに日常的「社会諸形象」の「実体化」)を、比較歴史社会学的-普遍史的に「相対化」し、捉え返し、再定義し、再編成していく企てでした。とすれば、それは、卑近な現場実践における因果帰属と予測に活かされると同時に、そのようないわば「知的解放媒体」としても受け止められ、改めて意味づけられ、この意味に即して敷衍-展開されてしかるべきではないでしょうか。

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さて、「学問の意味」への問いに触発されて、思わず、やや抽象的な科学方法論の議論に「脱線」してしまいましたが、小生はもとより、そこに滞留-自足するつもりはなく、このへんで当面の具体的争点に戻りましょう。堀米庸三氏が、文学部長として直面した「文処分」問題に、歴史家としては「築島-仲野 行為連関」の事実関係を注視し、「因果帰属」の論理に通じた方法論者としては、文教授会の事実誤認を正すに足る抽象的力量はそなえていたにもかかわらず、現場の学部長としてはその力量を発揮しえず、ほかならぬ「家父長制的権威主義」にのめり込んで、「なかったことにしようや」という「恩赦」の理屈を捻り出したこと――これら一連の、現場実践のスタンスが問題でした。「学知」が専門的に「疎外」された抽象の平面では作動しても、そこに閉ざされてしまい、現場の問題には「しなやかに」適用、展開されなかった、鮮明な一例といえましょう。堀米氏にして「然り」とすれば、「ましてや」他の教授会メンバーにおいて「をや」!!。清水論文が、末尾で、「文処分」問題をめぐり、「肝心の分水嶺・分岐路で、衝に当たった」文学部長が、いずれも、事実を重んずる歴史家であった事実を指摘し、注意を促している点が、ここで想起され、注目されます。

ただしそこから、文教授会メンバーを「一刀両断」に切って捨てる「過当な一般化」に陥ってはなりますまい。文教授会内で当初から仲野君処分に反対の態度を表明し、貫徹してこられた藤堂明保氏 (中国文学科教授) と佐藤進一氏 (史学科教授) は、「文処分取り消し」から約一カ月後、「教授会が責任を執らないなら、せめてわれわれだけでも……」と、文学部教授を辞去されました。小生も、両氏とはしばしば、打ち解けて懇談したのですが、佐藤氏は、「自分は長年、鎌倉幕府の権力構造を研究してきたにもかかわらず、ごく卑近な現場の権力関係には気づかず、対象化できず、翻弄されるばかりだった」と、じつに率直に述懐され、他方では「『教官共闘』は時期尚早」と戒めておられました。その後、小生は、東大教養学部を停年退職して、思いがけず名古屋大学文学部に就職し、何人か、氏の高弟筋らしい方々にもお目にかかりましたが、皆さん、「佐藤先生は謙虚にして立派な学者で、『造反教官』だなんてとんでもない」と異口同音に語られたのには、辟易しました。

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清水靖久君はその後、京都府綾部市郊外に、仲野雅君本人を (201510月に死去する) 数年前に訪ねたそうで、そのときの印象と感想を、論文に「付記」しています。仲野君は、1968年夏、自分の処分が「七項目要求」のひとつに組み込まれたと聞いたときには、「半ば、まな板の鯉になるしかないな」と受け止め、築島氏との「揉みあい」については、その後、「逆上して怒鳴りつけたので、こっちも悪かった」と反省していたそうです。築島氏側からは、「先手をかけて、こっちも悪かった」という反省は、聞こえてきません。

仲野君はやがて、「新左翼」諸党派間の「内ゲバ」に心を痛めて、学生運動からは足を洗い、東京都庁に10年間勤務したそうです。しかし、こちらも辞めて、郷里に隠棲し、同じように運命の転変にさらされ、翻弄された「さまざまな人々の悔しい思いを噛みしめて生き抜いた」とのことです。

清水君には「当事者がご気楽にぺらぺらしゃべるべきでしょうか」とも問いかけています。これに、清水君は控えめに、「ただ、まな板の鯉ではなく、人として口を開いていれば違っていたのではないだろうか」(68ページ) と答え、稿をむすびました。「人として口を開く」とはどういうことか、と問いかけ、みずから答えようとしているのでしょう。[2019711日、脱稿]