「総括」からの展開4

「安田講堂事件50周年」のマスコミ報道と いくつかの問題提起(53日)

 

[旧臘、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(未来社)を上梓して以来、年末-年始のご多用中にもかかわらず、多くの方々にご繙読いただき、なかには、ご感想を洩らされ、内容上関連のある著作を送ってくださる方もおられました。各位のご好意に、厚く御礼申し上げます。小生としましても、ご感想の趣旨を、広くご紹介し、極力応答もして、自己相対化への機縁、また、「総括」の趣旨を敷衍-展開する糧ともし、活かしていきたいと思います。そこで、この「『総括』からの展開」欄(シリーズ)を開設しました。拙著が、そのようにして「螺旋状展開」の一契機に止揚されていけば、その刊行も、あながち無意味ではなかったことになりましょう。21日記]

 

[さて、去る313日の『朝日』夕刊(3版)、4面「あのとき、それから」欄に、「東大安田講堂事件『陥落』から50 闘いは続く」と題する記事が載りました。そこで、今回は、この間の経緯をたどりながら、記事内容についてと、マスコミの取材への対応方針について、少々感想を述べ、併せて、いくつかの論点については「総括」からの展開を試み、問題提起ともしたいと思います。315日記]

 

じつは小生、今年118-19日の「東大安田講堂事件」50周年前後には、この種の特集やドキュメンタリーが数多く企画されるものと予想し、拙著『東大闘争総括』もそれにそなえて旧臘中に上梓しておきたいと願い、執筆と校正を急ぎ、未來社・西谷能英氏の協力もえました。ところが、118-19日を過ぎ、2月に入っても、小生の目に止まったかぎりでは、NHK総合1「ニュースウォッチ9」(124日)に、既放映「『東大紛争秘録』、45年目の真実」(2014130日、NHK総合1) の一部が再録され、平板なコメントが加えられただけで、「どうやら肩すかしを食らったな」という感じでした。顧みれば、2016年夏には、NHK BSプレミアムの「アナザー・ストーリー」で、「東大安田講堂 学生たち47年目の告白」が放映され、田尾陽一君も登場しました (田尾君は、「福島まできてくれるのなら」と取材に応じ、東大闘争と「ふくしま再生の会」活動との連続性を縷々説明したそうですが、その趣旨は編集段階で削除され、発言の断片が「アナザー・ストーリー」に組み込まれてしまった、と小生に電話をくれました。じつは小生も取材を受け、レクチャー風の応答を試みたのですが、これはいっさい無視され、さっぱりしました)。翌2017年には、千葉県佐倉市にある歴博 (国立歴史民俗博物館) の展示企画「1968――無数の問いの噴出の時代」が広く注目を集め、フォーラムも講演も、定員300人の講堂が満席となって、熱気が感じられました。小生も、「このぶんなら、50周年の節目には、いっそう盛り上がるかもしれない」と期待したのですが、今年に入っても、各紙・各局からはなんの音沙汰もなく、ひょっとするとこのまま見送られるのかな、と思わぬでもなかったのです。

ところが、215日、思いがけず、『朝日』夕刊「あのとき、それから」欄の担当者O氏から電話があり、取材を申し込まれました。O氏は、昨年1121日、同じシリーズに「日大全共闘、学園民主化へ 物を言い行動」をまとめた、専任の担当記者でした。そこで小生、「待ってました」とばかり応諾し、218日午後、拙宅に迎えて、約5時間半、先方の質問に半ばレクチャー風の応答を試みました。

そうするのは、マスコミの取材にたいする、これまで長年の経験から割り出した一般方針で、「どれだけ、どのように取り扱われるかは、相手次第ではあるけれども、こちらからは委曲を尽くして丁寧に説明し、執筆段階で必要とあれば『補正のための取材』にも応じる」というものです。その後、メールによる「補正取材」も受け、2019313日の夕刊(3版)、4面「あのとき、それから」欄に、記事が載りました。全体は、東大闘争の全経過 (略年譜)在宅医療・地域医療と障害者問題など、現在も闘いが続けられている諸事例、東大闘争を語り継ごうとする出版企画、特別枠として、安保法制反対運動を担った元SEALsメンバーの所見「全共闘を教訓に『個』が動いた」の四部分から構成され、拙著『総括』も、③の一環として、12行に要約されました。

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小生関連の記事を、いまここに転記してよければ、「(折原は)争点の医学部や文学部の処分問題について大学と全共闘双方の主張を検証した」とされ、結論は、「当局が事実誤認を認め、処分を白紙撤回すれば機動隊導入も入試中止も避けられたはず。事実関係にさかのぼる議論や個人の意見がない。そういう集団同調性が今も問われている」と要約されています。

この12行は、拙著、四六版335ページ、400字詰め原稿用紙約600枚の語りを「表題どおりに極限的に圧縮すればこうなる」という範例とも見られましょう。多種多様な動向や所見をくまなく展望し、「鳥瞰図」を描き出そうとするジャーナリストが、ごく一部の一角にも、よく気を配って、的確にまとめてくれた、とまずは感謝します。

とはいえ、当事者、しかも「なにごとによらず、詳細に」説明したがり、とくにこの件については、学生処分の具体的な細部に問題が潜む、と説いてきた小生としましては、新聞記事には不可避の要約に、不満がないわけではありません。抽象的にはそのとおりとしても、当時、東大医学部と文学部の処分が、どんな政治的・社会的背景のもとで (「国大教・自主規制路線」の発動として)どういうふうに (「事実関係にさかのぼる議論」や「個人の意見」がないままに) 決定され、どこで、どういう事実誤認」が犯されたのか、そのうえ、大学として致命的な「事実誤認」が、どのように隠蔽され、固執され、人々を欺き、その後も欺きつづけてきたのか、そういう肝心要の問題点について、具体的なデータを示して論証するのでなければ、ことがことだけに「独断的な決めつけではないか」と疑われもしましょう。ところが、拙著は、まさにそういう疑いと反問を念頭に置いて、丁寧に論証し、具体的にお答えしています。そうすることによって、「学問になんの意味があるか」「プロフェッショナルの使命とは何か」という当時からの学生諸君の問いかけにも、具体的な一応答例を示したつもりです。

ですから、読者が、今回の『朝日』の記事に、むしろそういう疑問を触発され、その回答を求めて拙著を繙いてくださるならば、問題の核心にご案内できます。「東大の教員ともあろう者が,事実誤認にもとづいて、冤罪で学生を処分し、しかもその誤りに固執して、学内に機動隊を再導入し、入試中止を招いた、というような失態を演ずるはずがない」、「その責任を曖昧にして、やり過ごしてきたとは考え難い」とお思いの方々こそ、拙著をお読みくださり、真相を確かめていただきたいのです。当時からいままでの50年間、小生の論証にたいする当局側の反論は、残念ながら皆無です。不都合なこととして議論しようとしないのです。

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50年前の出来事にかんする「総括」は、もとより、日本の現状にたいする批判にも連なっています。権力者の意向を忖度し、公文書を廃棄したり、データを改竄したりして、民主主義の基礎を破壊している高級官僚は、科学技術者も含め、主として東大で、養成されてきたのではないでしょうか ?  50年前の東大闘争も、じつは、東大のそういう実態にもろに直面した学生・院生が、自分たちも含め、「これでよいのか」という疑問に目覚め、学問と大学のあり方を根本から問うた、本質的に健やかな運動だったのではないでしょうか ?

ところが、東大当局、加藤一郎執行部は、その運動を警察機動隊の力によって押しつぶし、なりふりかまわず「正常化」(旧態復帰)に突き進みました。その結果、その後の学生運動は、紆余曲折はあれ、追い詰められて「負の螺旋」に陥り、「内ゲバ」から「仲間殺し」「同士殺し」にも走って、当然の悪評を招き、東大闘争の実態と意義を、先入観なく、偏見も交えずに、直視しようとする議論を、長らく阻んできました。

この50周年を機に、「これでよいのか ?」と問い返し、議論を始めることはできないものでしょうか。その機縁ともなれば、12行の要約記事も、十二分に役割を果たしてくれることになります。つねにそういう可能性に賭け、(納得のいく企画については)半ばレクチャーともなる質疑応答に全力を傾け、不可避の抽象性は、このホーム・ページその他への発言で補っていく、というのが、小生の一般方針でしたし、今回もそれにしたがいました。

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さて、ここでは、記事の内容から、三つの問題点を取り出して、コメントしたいと思います。

記事は、「『陥落』から50年」のいまもつづけられている闘いの実例として、⑴「在宅医療」と「地域医療」、⑵ 身障者問題を身内に抱え、そこから現代の人間と社会のありようを問い返し、「問学」をつづけている最首悟君の闘い (これは、駒場の「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」の三大テーマ「公害・差別・教育」との関連でいえは、主として第二の領域から問題を引き継いでいる闘いといえましょう)、⑶全共闘運動を一世代の経験として「総括」し、次世代に伝え、議論を喚起しようとする出版と出版企画、の三つを採り上げています。

そのうち、重点が置かれているのは、まず、⑴「在宅医療」と「地域医療」で、これは、往時の「青医連」による「クラフト・ユニオン(職能組合)」的「研修協約」闘争の命脈を保つ、医療関係者の取り組みとして位置づけられましょう。今回の記事では、「地域医療」と「在宅医療」とが併記されていて、両者がどう結びつくのか、一見不可解ですが、かつて小生が長野県茅野市に故今井澄君を訪ねて聞いたところでは、じつはこうでした。つまり、同君ら地域医療の改革をめざす有志が、それまでは医師や看護師が足を踏み入れたことのない山村や過疎地に出掛けて行って、在宅診療を実施し、心電図その他のデータを無線で諏訪中央病院に送り、常時チェックできる体制を整えたというのです。同君の話では、それに必要な無線技術にかんする助言と指導を求めて、母校の東大医学部を訪ねたところ、かつて東大闘争時には敵対した――あるいは、当時は「体制内抵抗派」に止まっていた――現職の医師たちが、思いがけず (今井君の人柄にもよるでしょうが) ことのほか親切に、同君らの求めに応じて質問に答え、運動を支援してくれたそうです。

さて、拙著の§50では、東大医学部における17名の学生・研修生にたいする大量・迅速処分の背景として、かつて青医連が「登録医制反対」のスローガンを掲げたとき、研修生が、研修先の「教育指定病院」で、ひとつの診療科に釘付けにされ、医師不足の「穴埋め」に使われる体制への編入は拒否する、という否定の側面とともに、他方では「研修協約」による診療科間のローテーション」を提唱し、「幅広い研修を積み、将来たとえば無医村に赴任しても、住民の多様なニーズに対応できる、よき医師たらん」(166ページ) という「クラフト・ユニオン」的要求も提起していた、という積極面にも、注目しました。そのように、青医連運動が、否定一辺倒ではなく、ベトナム戦争反対とともに良質の医療体制の創出という状況の正の課題、したがってまた、登録医制反対とともに研修協約の締結(研修内容の多様化・充実)という状況の正の課題を、具体的に結びつけて提起し、掲げていたこと、そのようにして、自分たちとして堅持すべき現場の課題具体的に見据えていたことが、その後の弾圧にも風雪にも耐えて健やかに生き延びてきた所以ではないでしょうか。

東大闘争時には敵対するほかはなかった、反対派の医師たちとしても、当時のように「学問にどんな意味があるか ?」という――じつは発問者自身にも答えはなく、答えようとは当面思ってもいない――ひたすら「本質的、根底的な」問いを、そういうふうに抽象的に投げつけられるだけでは、どうにも対応のしようがなく、その結果、「同位対立」として「反対派」に追い込まれるほかはなかったとしても、その後、地域医療ネットワーク体制の無線技術的ないしIT技術的構築というような具体的な課題が、接点として設定されれば、積極的に受け止めて快く協力もできる、ということになったのではないでしょうか。

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この点は、いま少し敷衍し、再考すべき、重要な問題を提起しているように思われます。

東大闘争は、当時の状況では、青医連運動のような「クラフト・ユニオン」運動としての積極的特性を、全体として十全に発揮し、展開することはできず、むしろ「クラフト」-「専門」-「大学」の権威・特権と、それゆえの腐敗・堕落・頽廃を、いっそう鋭く問題とし、もっぱら抽象的に急進化して、「否定一辺倒」のネガティヴィズムに凝り固まる傾向を帯びました。それと同時に、もともと個別大学現場の問題・課題には関心の稀薄な「新左翼」政治諸党派の「支援」に、じつは引きずられ、これまた日常現場とは疎遠という意味で抽象的な、異見者・異論者を「反党分子」「階級敵」と決めつけて全否定する「旧左翼」由来の「党派間闘争」に巻き込まれて、大学闘争として固有の具体的課題を見失ってしまったのではないでしょうか。

いま、その経緯を、当局の弾圧の所為にして、やはり「同位対立」的に隠蔽し、うやむやにしてしまうのではなく、運動自体の問題として直視し、「負の遺産」として切開し、併せて当時の「指導責任」も問い、後続世代の問いかけに的確に答えることが、必要とされているのではありますまいか。

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なるほど、東大は、医療という専門の一領域に特化した単科大学ではありませんから、青医連運動だけを普遍化して全学的に展開するようなことは、できなかったにちがいありません。しかし、「学問とは何か ?」「学問は何のためにあるか ?」という一般的・普遍的な問いを、総合大学としての各学部・各学科における「学問」の実態に即して、一歩一歩掘り下げていけば、必ずや具体的な問題と課題に行き当たったはずです。たとえば、文学部社会学科と歴史系諸学科、あるいは法学部・法共闘の学生・院生諸君であれば、1968年秋に東大闘争全体の帰趨を分けた「文学部学生処分」という肝要な争点(全共闘の「七項目要求」中、当局とは見解が分かれ、そのこと自体は双方とも一致して認めていた問題点)について、「正当か、不当か」という抽象的二者択一のぶつけ合いではなく、なぜ「不当なのか」と問い返し、処分理由とされた「1967104日事件」における教員と学生との「摩擦」にさかのぼり、双方の所見を比較-対照し、事実関係を「教員個人-学生間個人間の『行為連関』」として再構成し、理非を検証することも、できたのではないでしょうか。そうすれば、文学部教授会と東大当局の(教員の先手は捨象し、学生の後手抗議だけを抽出して、一方的な「退室阻止」に見立て、その態様だけを捉えて「教官への非礼」「暴力行為」と決めつけ、無期停学処分に付していた、じつは)事実誤認と事実隠蔽を、まさにそのようなものとして暴露し、確実に論証し、そのうえで、(建前として抽象的には「話し合いによる解決」を唱えていた)加藤執行部を、そういう具体的論証で追い詰めていき、理の当然として(「七項目要求」中、残された唯一の)「文処分」を「白紙撤回」させ、責任者に責任を執らせる、ということも、できたのではないでしょうか。そうなれば、「七項目要求」の貫徹を確認して、闘争をみずからいったんは収束し、封鎖を解除し、おびただしい「犠牲」は出さずに「次にそなえる」――たとえば、東大教員の専門的研究内容や政府機関の「審議会」における発言内容などへの批判に乗り出し、「専門バカ」糾弾から「バカ専門」批判に脱皮して「第二次東大闘争」に繋げる――ことも、できたのではないでしょうか。そうできれば、機動隊導入も入試中止も避けられたはずです。

ところが、歴史学ないし社会学共闘も、法共闘も、闘争場裡における「自分たち自身の学問」を、そういう方向で具体的に展開し、現場における加藤執行部追及に活かそうとはしませんでした。小生は、19681118日、東大中央図書館前でおこなわれた、加藤一郎総長代行への全共闘の追及(「公開予備折衝」)を、現場で注視していましたが、各派・各代表が、加藤氏の隣に出て来てはハンドマイクを握り、力を籠めて発言はするのですが、入れ代わり立ち代わり自分たちの主張を無系統に投げつけるだけで、いうなれば「党派間の競演会(いわば歌合せコンクール)」に終ってしまいました。系統的に鋭い「突っ込み」を入れ、質問者自身はむしろ黙って、相手方に多くを語らせ、その内容の矛盾を衝いて食い下がり、問題として展開する、というような論法がとれず、その結果、相手の加藤一郎氏に、「だまって立って[聞いて]さえいればいいので、平気[楽]でしたよ」(坂本義和『人間と国家――ある政治学徒の回想』下、2011年、岩波新書、40ページ)と述懐させることにも、なってしまったのでしょう。端的にいって、「議論が不得手」で、「主張はできても、論証ができない」のです。

とすれば、当時、「専門バカ」「バカ専門」という言葉が、罵倒語として「ひとり歩き」を始め、もっぱら相手の東大教員の特性と諒解されたのでしたが、それはじつは、けっして教員だけの問題ではなく、「闘う学生・院生」自身の問題でもあったでしょう。『朝日』の記事に要約されている「事実関係にさかのぼる議論や個人の意見がない。そういう集団同調性が今も問われている」という批判は、教員のみでなく、闘う学生・院生にも、あてはまることではなかったでしょうか。

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さて、専門学部の学生や院生でさえ、そうであったとすれば、受験勉強から解放されたばかりの教養課程の駒場生は、いよいよもって然りで、「回転木馬」に興じて「一過性の騒ぎ」に終ったのもやむをえない、といえるのかもしれません。しかし、駒場生も、自分たちが置かれている教養課程の現状を見つめ、「自分たちにとって『教養』・『自己形成』とは何か ? 現状でよいのか ? 果たして『教養教育』が『ある』のか ? たとえば、『鼠心理学』だけの『心理学』講義を黙って聴いていてよいのか ? 黒板に延々と数式を書き連ねるだけで、学生の質問を受け付けようともしない『数学』講義を、そのまま「聴講」して、筆記に疲れはてるばかりでよいのか ?」というように、自分たちの日常的な学習内容具体的に問い返し、あるいは、クラス担任・ゼミ担任その他の教員に具体的に問題を提起して、個別に議論を重ねることも、(たとえば、この「『総括』からの展開2」に登場するゼミ生の諸君と同じように)やってできないことではなかった、と思えるのですが、いかがでしょうか。

この点を突き詰めていきますと、「東大闘争とは、どこまで大学闘争だったのか」と問い返さないわけにはいきますまい。それと同時に、政治課題一辺倒で、「耳目聳動」による覇権を競う「新左翼」政治諸党派の「支援」が、はたして「大学闘争としての東大闘争」に、ほんとうのところ、必要だったのだろうか、必要とされたにしても、どの程度プラスだったのか、また、この点に関連しては、大学在籍年数が長く、学問経験も相対的に豊富な「年長者」(「ノン・セクト・ラディカルズ」)の「指導責任」が、どこまで、どのように果たされていたのか、と反問することも、避けられないでしょう。拙著の§27§46でも触れましたとおり、大学院生や助手の東大闘争参加と全般的貢献は、確かに大きかったと認められますが、同時に、さればこその「指導責任」という半面も、看過されたままであってはなりますまい。

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それというのも、ここで第二の論点に転じますが、『朝日』の記事は、富田武君の好著『歴史としての東大闘争――ぼくたちが闘ったわけ』(20191月、ちくま新書)を採り上げ、その趣旨を要約し、著者の「今の思い」も紹介しています。富田著自体は、小生も恵送を受けて熟読しましたが、つぎの諸点で、注目に値する優れた労作でした。つまり、著者自身が当時、現役学生のひとりとして、「フロント」また「法共闘」の活動家として、みずから東大闘争を闘い、そのときどきの問題を個人として捉えて熟考し、節目にはそのつど個人責任で決意を表明する、というスタンスを堅持して、即人的苦境からも、闘争の後退局面に固有の諸困難からも、辛苦して抜け出し、一念発起して歴史家・歴史学者となり、『スターリニズムの統治構造』から『戦間期の日ソ関係』をへて『シベリア抑留』(という「20世紀の歴史的苦難」) の研究も手がけ、そういう経験と研究の成果を、勤務校の教育と大学行政に活かすかたわら、数々の市民-、社会運動にも携わったうえ、東大闘争を「歴史として総括」し、後続世代に批判的継承のための検証素材を提供しようと意図して執筆されています。その内容のしかるべき評価には、本来、別稿の紙幅が必要とされましょう。ここでは、問題を、富田君が『朝日』の記事で、「東大闘争の特徴を、①……経験も理論もある年長者の役割が大きかった、②党派勢力の拮抗も、党派に属さないノンセクト・ラジカルの主導を可能にした」という二点に求め、「今の思い」を、③「入試中止など多くの人の人生に影響があった」、④「自分はこうしてきたと正直に語るしかない(太字による強調は引用者) と語っている、この四点に絞ろうと思います。やはり新聞記事として、極限的にそう集約される過程で、あるいは捨象されたのかもしれない問題点について、むしろ小生の側から「復元」を試み、多少一般的に定式化してみたいと思うのです。

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まず、③から始めますと、この抽象的集約は、一見消極的な表白④とも相俟って、「入試中止にたいする全共闘の責任を、なにか一般的に、あるいは漠然と、認めた証」とも受け取られかねません。

ところで、拙著で再三強調し、例証したとおり、日本社会には「個人の責任」を曖昧にし、責任追求の議論は避けて、問題そのものを雲散霧消させ、あるいは先送りし、むしろ無原則な「寛容」を称揚して「宥和」を保とうとする「集団同調性」の精神風土が、いまもって支配的です。こうした風土のもとでは、常時それに抵抗し、「少数派」になっても、孤立しても、集団の同調圧力をそのつど払いのける、「個人の (責任倫理的) 自律」と (そういう個人間の)「自発的結社結成」をめざして議論を喚起し、継続していくスタンスが、ぜひとも――少なくとも「知識人」「プロフェッショナル」には「定言命法」として――要請されましょう。その一環として、(消極的には)「世間の評価」とくに「マスコミの論調と毀誉褒貶」に左右されず、「曖昧模糊とした抽象的『責任』論」は断乎として斥けると同時に、(積極的には)状況における責任をそのつど特定して明快な議論に持ち込む姿勢が、つねに求められるはずです。

そこで、そうした要請を前提として、「1969年度東大入試中止の責任」を、ここで改めて問題として採り上げますと、それは、原則論としても状況論としても、第一次的に、時の加藤一郎東大執行部に帰せられなければなりません。

まず、原則論としては、加藤執行部が、「七項目要求」中、唯一未決着の「文学部処分」問題につき、処分理由とされた「104日事件」の事実関係にさかのぼる再検討を怠らなかったとすれば――他方、全共闘も、その方向で、論証による追及を緩めずに詰めていけたとすれば――、必ずや、文学部教授会によって隠蔽された「築島先手」を突き止め、論証し、「(一方的)退席阻止ないし退室阻止」という「事実認定」の虚偽を明らかにし、(必要とあれば、加藤一郎氏が総長代行就任にあたって取り付けていた「委任による危機独裁権」を行使させてでも)文処分を白紙撤回させたうえ、文学部教授会の責任者に責任をとらせることが、できたにちがいないのです。そうできれば、全共闘としても「七項目要求」の貫徹を確認したうえで、闘争をいったんは収束して、封鎖を解き、機動隊再導入も入試中止も避けられたはずです。ところが、加藤執行部は、機動隊再導入と入試中止決定の後々まで、「104日事件」の事実関係を再検討せず、「(一方的)退席阻止ないし退室阻止」という文学部教授会の虚偽主張(『東大弘報』所収の「19681028日文書」における記述)をそのまま鵜呑みにし、踏襲していました(拙著、198-200ページ参照)。そのように、入試中止の責任は、まずは原則論として、加藤執行部による事実誤認の看過ないし容認、すなわち大学として致命的な失態にあった、と見るほかはありません。それでは、「全共闘側には、まったく責任がなかったのか」と問いますと、(後段で論ずるとおり) 決してそうではなかったと思いますが、その責任は、処分の「不当」性にかんするいわば「対抗的論証責任」に限定されなければなりますまい。

つぎに、状況論としては、真っ先に、つぎの事情が注目されましょう。すなわち、入試の実施には、全学の「教授会メンバー (教授・助教授・専任講師)」のみでなく、試験官総数の半数以上を占める助手教官の協力が必要不可欠です。ところが、加藤執行部が「文処分問題」につき、口先では「再検討してみたが」といいながら、事実関係にさかのぼる再検討は怠って、虚言を弄している実情が明白だった当時、助手共闘の諸君はもとより、教授会メンバーではない――したがって、教授会決定に直接の責任はなく、それに距離を取って批判的に対峙することも、相対的には容易な――助手教官の相当部分は、文学部の助手諸君を筆頭に、加藤執行部にたいして懐疑的・批判的となっており、入試実施に協力するかどうか、必ずしも確かではなく、むしろ大いに危ぶまれる状況でした。加藤執行部としては、入試実施に責任を負う当局として、そういう実情を知らなかったはずはなく、「知らなかった」ではすまされません。入試とは、受験者側のみでなく、執行当事者にとっても微妙な試練 (リスク) で、かりに試験官が、たとえ少数でも、試験場で反対行動に出て、答案を破棄したり、持ち出したりすれば、試験そのものが失効して大混乱に陥ることは必至です。試験官に予定された助手教官が、そういう混乱は避けようとして事前に協力拒否を通告してくるとしても、そのときはそのときで、試験の実施はやはり危うくならざるをえません。ですから、加藤執行部としては、いずれにせよ、そういう危険を犯してまで入試を強行できる状況かどうか、熟考して、「文学部処分の白紙撤回」という「切り札」を手放した時期 (196812月末) には、「実施は不可能」と予測できたはずですし、予測しなければならなかったはずです。

ところが、加藤執行部は、そういう実情はおそらく重々承知のうえで、マス・メディアを使って入試実施のキャンペーンを張りました。それには、相応の目論見と計算があったはずです。ひとつには、「入試実施」にたいする受験生や親たちの懸念と憂慮を掻き立て、全共闘の建物封鎖を「入試実施の障礙」とみなす方向に「世論」を誘導し、「封鎖解除」への側面的圧力を強化しようとする思惑です。ところが、原則は擲っても状況のそういう圧力に屈する全共闘でないことは、加藤執行部も十分感知していたでしょうから、本心では、ある段階で、「強権による封鎖解除」つまり「警察機動隊の再導入による『大掃除』」を、選択肢として念頭に置き、その利害得失を計算していたにちがいありません。もとより、外向け、公には、「警察力の導入は、紛争の解決を目的とするものではなく、学内における衝突と流血を避けるため」とする声明(じつは「自己成就予言」)を発し、全共闘の防備強化と民青の撤退を促し、見届けたうえ、もっぱら対全共闘の警察力再導入に踏み切ったのです。

他方、政府にたいしては、秘密折衝で、おそらくは機動隊再導入への「見返り」として「入試実施」を求めたにちがいありません。しかし、おそらくは予想どおり拒否されると、「入試中止」の「責任」をこんどは政府に転嫁し、「授業再開こそ、政府への抗議」という「大義名分」を掲げ、学内世論を「抗議としての授業再開(旧態復帰)」に誘導しました。加藤執行部は、こういう政治的操作にかけては相当神経を使い、「政治学」の知識と技法も応用したようですが、争点そのものにかんする事実関係と理非曲直にさかのぼる原則論的思考は怠り、状況論としての対策論議に終始していたのでは、本来、「埒が明く」はずはなかったのです。明快な争点の「文処分問題」を、事実関係にさかのぼって、ほんとうに再検討し、理に適う「白紙撤回」を決め、文学部教授会の責任者に責任をとらせていさえすれば、そんな気苦労も必要とはされず、その後の甚大な「犠牲」も生じなかったのです。

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ところで、富田武君としては、「入試中止」について、そういう状況論的作為の延長線上にある「責任」論が、曖昧ながら、あるいはまさに曖昧ゆえに、その後、優勢となり、原則論・本質論を遮って踏襲されてきた、という苦々しい事情は、重々承知のうえで、それにもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、当該年度の受験生や親たちを、結果として確かに失望・落胆させ、場合によっては「人生を狂わせた」事実――全共闘にとっては「意図せざる随伴結果」――を、正面から採り上げて論ずることが、一当事者として、一歴史家として、このさいぜひとも必要と判断し、少なくとも問題として提起しておきたいと考えたのかもしれません。この点についての応答は、富田君自身の別稿に期待するとして、別途、小生のほうから、焦点をこの「意図せざる随伴結果」問題に転じて、私見を述べるとしますと、以下のとおりです。

「入試中止」というキャンペーンに、加藤執行部の予想どおりもっとも敏感に反応し、マスコミにも顕出されて、「世論」の動向を決めたのは、当然ながら受験生本人、次いではその親たち、とくに母親でした。受験生のなかには、自分たちが現に翻弄され、苦しめられてもいる「受験体制」(当時、同じ頻度で使われた言葉では「受験地獄」) に、なにほどか疑問を感じ、これにたいする全共闘の批判(「公教育の帝国主義的再編」「人材選別装置としての合理化」)に、一般論としては賛同し、共鳴する若者も、確かにいたにはちがいありません。しかし、かれらとて、いざ「自分の問題」「個の問題」となると、そうすっきりとは「決断」できず、むしろ、ともかくも入試は受け、大学に入ってから、現に自分が置かれている状況と「公教育体制」の問題についてもよく勉強し、明確に態度決定したい、と考える「慎重派」が多かったでしょう。なるほど、高校卒業までに「自分は何のために大学に入って学問するのか」と熟考し、自分の人生課題をおおよそ見定めて、最適の学部ないし科類を選択し、そのかぎりで受験勉強にも「目的合理的」に取り組む、というような――「状況を超越する価値規準をそなえ、それに準拠して状況を相対化-対象化したうえ、同じく超越的な価値基準に照らして自分の課題も設定できる――高校生や「浪人」生も、いたにはちがいありません。しかし、それはやはり、例外的な少数者にかぎられていたでしょう。当時、全共闘系の「大学解体-公教育解体」論に一躍共鳴し、「大学受験拒否」を声高に謳って状況に躍り出た高校生や「浪人」生には、むしろ、受験勉強の途上で個人的・即人的に挫折し、その「過補償」動機に駆られて、好都合な「拒否論」「解体論」に唱和した若者たちが、少なくなかったように見受けられます。

つぎに、親たちは、(当時の状況とりわけ「入試問題」への対応にかぎると)①「手塩にかけて育てたわが子が、『勉強はそっちのけ』にして『ゲバ棒をふりまわしている』なんて『情けない』、一日も早く『正常』な状態に復帰させたい」と願い、キャンパスに出向いてキャラメルを配る (じつは「個別利害」にもとづいて「没意味化」「官僚主義」体制にすんなり適応している)「職歴第一主義 (立身出世主義)」類型、「若者たちの主張は、一般論として『わからぬでもない』が、わが子にかぎっては『まだそこまで行っていない』――生きていく『素地』ないし『実力』が身についておらず、『自我が確立』してはいない――ので、やはりなんとしても大学には入れて、勉強させ、そのうえで自由に自己決定させてやりたい」と願う「総論賛成-各論留保」類型、わが子が立ち向かっている闘いの困難を理解し、場合によっては獄中に書簡を送り、心配はしながらも、志しを強くもって、わが子を励まそうとする「理解-支援」類型、に三大別されましょう。富田著に出てくる同君の母上・歌人の渓さゆりさんは、このの典型でした。

さて、現実にはやはり「職歴第一主義」類型の「キャラメル・ママ」が支配的で、やがてはその声とマスコミのキャンペーンとが相乗的に増幅され、他を圧する「社会的潮流」ともなり、「議論を呼びかけても、歯牙にもかけない」集団同調の雰囲気が醸成されてしまいました。そういう局面で、小生も、駒場キャンパスに押し寄せてくる受験生あるいは在校生の母親に、応接する機会をもちましたが、① 類型からは「学生を『過激な』行動に駆り立てる『怪しからん教祖』」という非難が押しかぶされるだけで、とうてい議論にはなりませんでした。ところが、 類型は、こちらから持ち出した、原則論と状況論双方の「責任論」は、よく聞いて、半ばは理解してくれたうえで、「『あなたがた (年長者)』はもう、そこまで行っていて、考えも固まっているから、それでいいんです。どんなことになっても、自力でやっていけるでしょう。しかし、『うちの子』はまだ、とてもそうはいきません。中途半端なところで『挫折』し、『一生を台無しにし』かねません」というような危惧を表明して、譲りませんでした。③ 類型にも、そういう不安と懸念はあったにちがいありませんが、それにもかかわらず、あるいはむしろまさにそれゆえ、そういう不安を乗り越えようとする志向がまさっていたのでしょう。

としますと、ここには、「1969年度の東大入試中止」にかんする、上記のような原則論上また状況論上の責任の特定とは異なる、それに解消し尽くされない、別種一般的問題が提起されていた、と見ることもできましょう。すなわち、「ある社会運動に関与して、あるいは、いやおうなく『巻き込まれ』て、一方ではその『利益』、他方ではその『犠牲』を (直接-間接に) 被る集群ないし集団類型相互間の関係」、この場合にかぎっていえば、そういう類型として見た「年長者(世代)」と「年少者(世代)」との関係、また、前者が後者におよぼす「随伴結果」という問題です。富田君は、みずからかかわった東大闘争を、(思いがけない「歴史的苦難」という「人生の哀しみ」を知る) 歴史家のひとりとして、この「50周年」を機に、そういう「随伴結果」としての一般的「受難」「犠牲」という観点からも、捉え返してみる必要がある、と考えたのかもしれません。

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ただし、この問題が、一般化されて「宙に浮き」ますと、「学知主義的な専門業績・疎外知」の一環に組み入れられ、空疎な議論の好餌ともされかねません。そういう通弊は避け、先行世代の経験を、正負併せ後続世代による批判的継承に向けて、検証素材として活かそうとしますと、問題をもう一度、当事者として生きられた状況のコンテクストに戻して見る必要がありましょう (ここで、第三の論点にもかかわってきます)

全共闘運動はこれまで、個々人ひとりひとりの決意にもとづく自発的結集態として簇生し、「組織」としての「役割分担」「分業」「規制」「規律」「指揮命令系統」「指導責任」といった「(なにか堅苦しい) 秩序の観念」は斥け、あえて問わない、「直接民主制」のこよなき再現ないし「祭り」で、その点にこそ、全共闘運動の特性と意義があった、としばしば主張されてきました。確かに、全般的にはそのとおりで、それにふさわしい個々の事例について、そうした特性を抽出することは可能でしょうし、その利害得失を論ずることには大いに意味がありましょう。しかし、そういう「正の長所」の主張がなにか「自明のこと」として罷り通るようになりますと、半面、当の結集態における(たとえば「年少者」との関係における「年長者」の「指導責任」というような)問題が、初っぱなから無視され、捨象される傾向も免れ難いでしょう。そうなりますと、「年長者からなる『ノンセクト・ラディカルズ』の寄与が大きかった」という富田君の上記の評価①とその条件の指摘②とも相俟って、一種の「神話」が創成され、後続世代による継承に、相応の欠落ないし一面性をもたらしかねません。この傾向は、当該世代の代表的当事者が、発言を拒み、周囲にも「あの人が発言しないのに、なんでわたしが……」という「自主規制」が広まっていくときには、ますます内向し、それだけ強固な壁をなし、「神話」と「沈黙」との同位対立を形成して、双方への「集団同調性」を補強しかねないでしょう。

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ところで、当時、理系院生のノンセクト・ラディカルズのひとりで、本欄の「『総括』からの展開3」にも登場してもらった田尾陽一君が、(2016713日に放映された)NHK「アナザー・ストーリー」・「東大安田講堂事件――学生たち、47年目の告白」で、つぎのとおり、この問題について、率直に心中を明かし、証言してくれています。

1968年の秋に加藤執行部が登場する時期になると、「(田尾君としては)ここまでくると、このまま収束してはダメだなっていう感じになってきたんですね。気分がね。やっぱり東大っていうのは解体しなければしょうがないんじゃないか。(「東大解体」とは何か、と問い返せば)拠って立つ原理を考え直すことでしょうね、社会的役割とかね。」「自分がここまでやってきて、みんなにも影響力が多分、少しは歳をとっているんだから(あったとすれば)、ここで自分だけ引き返すわけにはいかない、――そのへんのことはずっと考えていて、こうなったらもう『道を選ぶ』しかない、つまり『講堂から出なかった』ということでしょうね」。

つまり、田尾君は、当時の状況で「年長者としての責任」を重々感得し、熟考を凝らしながらも、さればこそ、その責任をもっぱら「自分だけ引き返すわけにはいかない」、すなわち「当面の即人的利害は顧みず、自分の『気分』・信条・原理原則に忠実な『道』を選び、安田講堂に立て籠もって闘う以外にはない」という方向で執ろうとした、といえましょう。とすれば、当時の状況における当の決断の重さは、十分に受け止めたうえで、なおかつ他の選択肢はありえなかったか、と考えることはできましょうし、「安田講堂50周年」という節目のいま、ぜひともそうしなければならない、とも思います。

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それというのも、全共闘運動は、その後に生じた「負の螺旋」によって、社会運動とくに大衆的な大学闘争としては、衰退の一途をたどり、ほぼ壊滅した、と総括せざるをえないでしょう。そこでいま、その経過を「歴史として」捉え返そうとしますと、「負の螺旋」に陥る直前に、なにか手を打って、「破局」を防ぐことはできなかったか、学内に踏みとどまって、たとえ「少数派」としてではあれ、「体制内の批判的抵抗勢力」として生き延び、その拠点で闘いを持続し、「第二次東大闘争」への起死回生をはかる、という方途は、ありえなかったか、と問わずにはいられません。

それと同時に、小生一個人としては、もとより「年長者」のひとりとして、とりわけ一社会学徒として、たとえば社会学の始祖とされるオーギュスト・コントが、フランス第一革命後の騒然たる社会状況――「旧秩序」が解体され、それにとって代わる「新秩序」がにわかには形成されるはずもなく、そこに生ずる「秩序の空白」を埋める「圧政と叛乱」が繰り返される政治-社会状況――で、(ひたすら「進歩progrès」を追求するあまり、「旧秩序の解体」から生ずる逸脱と混乱を看過しては躓く)「革命」の無謀と脆さを察知し、「秩序ordreある進歩」を唱えていたという事実、そういう「革命と反革命の悪循環」という「(第一革命後の) フランス政治の病態」を見据え、コントの発想も受け継いだエミール・デュルケームが、「旧秩序解体」にともなう「無規制anomie」を「極限的には自死にいたる病態」と察知して、その社会学理論を構築し、彫琢し、その発生与件も広く突き止めようとしていた事実、そういう一系列の事実と思想を学知としては知っていた小生が、いざ、自分の現場実践の近未来となると、やはり「正の螺旋」を暗黙裡にも想定していて、「負の螺旋」したがって「正負の分岐点には想到せず、迫り来る「無規制」と「(革命家・闘争者・活動家には「なんでも許される」という)無律法主義Anomismus」の陥穽にたいする警告を発せなかったこと、少なくとも有効な手立ては打てなかったこと、そのように「学知としての歴史的ないし社会学的対象知を、実存的反省知-企投知としては活かせなかった」不明を、恥じないわけにはいきません。いまとなっては、この問題が、近過去の状況における負の体験として直視され、切開され、今後の「社会運動の社会学」に、切実な研究課題のひとつとして継承され、古今東西の諸「革命」、諸「叛乱」にかんする比較歴史社会学的研究も交えて、実証的に究明され、対象知としても反省知としても、活かされていってほしい、と祈念するほかはありません。

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それでは、あの1968晩秋の東大の状況で、「負の螺旋」への転落を避けるには,その方向で、どういう具体的打開策がありえたでしょうか。そう問い返しますと、やはり、つぎの選択肢に、思いいたらざるをえません。すなわち、「七項目要求」の貫徹による懸案の解決という原則はあくまで堅持し、追求しつづけながらも、短期的には、相手の出方からして決着は至難という見通しのもとで、戦術の硬直化は避け、柔軟に粘り強く追及を重ねる方途を探り、まずは議論の継続を加藤執行部に確約させ、その保障もとりつけたうえで、ひとまずはみずから封鎖を解き、機動隊再導入と入試中止にともなう夥しい「犠牲」は避け――ただし、相手が「保障」に違反する背信行為に出た場合には、そのときはそのときで、できれば新入生も含めて、決起再封鎖を辞さず――、あくまで本命の議論を継続していく、という選択肢です。

そのさい、まず確認すべきことは、加藤執行部が「話し合いによる解決」をともかくも「旗印」としては掲げ、「文学部処分については、『いろいろ再検討してみた』が、『従来の処分制度のもとでは正当になされた処分で、撤回の理由を見出すことは『できなかった』が、将来、処分制度を改めるさいには『参考にしたい』、あるいは 新制度にしたがって『再検討』してもよい」(趣旨) とまでは、玉虫色の妥協案をちらつかせ、歩み寄りを見せていた事実です (この点については、清水靖久「東大紛争大詰めの文学部処分問題と白紙還元説」(『国立歴史民俗博物館研究報告』、第216集、20193月、31-70ページ、参照)。なるほど、そういう出方を「欺瞞的」と決めつけて一刀両断に切って捨てることは、主情的とはいえ、あるいはまさにそれゆえ、いとも簡単だったにちがいありません。しかし、原則に固く立ち、さればこそ気分や情動には惑わされずに原則を貫こうとすれば、相手のそういう「欺瞞的言表」も「言質として逆手に取り」、本命の議論をそれだけ有利に進めることも、できたのではないでしょうか。たとえば、「再検討してみたが」という言表を捉えて、「では、どのように『再検討』したのですか ? その経過-内容-結論を、詳しく語っていただけませんか ?」、「処分理由とされた『104日事件』の『摩擦』は、どんな『行為連関』事実として、捉え返されたのでしょうか ?」、「そのさい、事実を把握ないし確認する基礎資料として、処分決定時の文学部教授会と評議会の『記事要旨』(『議事録』) を調べてみましたか ?」、「(調べたとすれば)その結果は具体的にどういうものだったのですか ?」というふうに問い返し重ね、「ではこのさい、公正な議論の基礎として、両議事録を公開していただけませんか ?」と要求して、じつは「再検討」を怠っていた事実を暴露すると同時に、「一方的退席阻止ないし退室阻止」という (現に犯されていた) 事実誤認を(文教授会の公表文書類と、文教授会ならびに評議会の議事録というような、相手方の言表に即して、論証し、相手方にも大学内外の公衆にも、確認を求め、「かりに旧来の (教授会が処分権を握る) 処分制度を前提としても、事実認定にこれだけの誤りがある処分を、どうして『正当』といえるのですか ?」というふうに、加藤執行部を追い詰めていき、結果として「欺瞞」(主観的には意図されず、気づかれずにいる「全体的イデオロギー」への囚われ) を暴き、事実と理非に即して、当然の「白紙撤回」を勝ち取り、文学部教授会の責任者に責任を執らせ、併せては、今後こういう誤りが二度と犯されないように、議事録の公開という制度変革を要求し、大学における民主的な議論の基礎と保障を確立する方向に、闘いを進めていくことも、できたのではないでしょうか。

そのさい、加藤一郎執行部が、196811月の発足-就任にあたり、「執行部としての意思決定のさい、いちいち一〇学部教授会の了承を取り付けなければならない、というのでは、この緊急事態を乗り切れない」という理由で、いわば「危機独裁の責任(権限)」を委譲されていた、という事実を忘れてはなりません。そうであれば、全共闘が議論を継続して追及を緩めず、加藤執行部も、文学部教授会の事実誤認に直面して、「これでは白紙撤回するほかはない」という結論に至ったとき、文学部教授会有志40人がどんなに強硬な「連判状」を送り届けてこようと、林健太郎新文学部長が、「文学部処分を動かすのなら、文学部長はやっていられない」などと「辞職」を仄めかして脅す挙に出ようとも、事実と理に則って、そういう理不尽な圧力は斥けることができたでしょうし、そうしなければならなかったはずです。かりにそれができないとなれば、個別部局 (文学部) の頑迷な強硬姿勢と、それに屈して、みずから取り付けておいた責任(権限)さえ行使できない加藤執行部の弱腰・優柔不断・欺瞞が、いよいよ白日のもとにさらされるほかはなく、議論の継続と展開にそれだけ有利な局面が開けてきたにちがいありません。

とすれば、それまで全共闘運動をじっさい上牽引してきた、理系院生を主とする「年長者」が、「法共闘」の有志などから「尋問」(加藤執行部追及) の技法にかんする協力もえて、(「勝つ」見込みはなく、直接-間接の「犠牲」が大きいと予想される) 軍事的対決ではなく、議論とその継続という大学闘争としての正攻法に総力を結集し、論理的-積極的に当局を追い詰め、まさにそうすることによって「年長者としての責任」をまっとうする「道」も、ありえたのではないでしょうか。当時、(確かに理由あって強まった「加藤執行部の『欺瞞的近代化路線』粉砕」という) 状況内の「気分」に、足を掬われず、「大学解体」という言葉だけの抽象的急進化には走らず、状況における年少者や受験生の「犠牲」にも思いを馳せ、一歩引いても粘り強く議論を継続して、文処分の白紙撤回という個別案件の解決とともに、東大(教授会-評議会)の「特別権力」体質を支えてきた議事録非公開制度に「楔を打ち込む」という「(けっして小さくはない) 正の改革への道」も、一選択肢として開けていたのではありますまいか。

こうした一連の反問は、「後知恵」として当事者を非難するためではなく、半世紀前の大学闘争について、正負の両面を併せ、率直に議論して、後続世代の批判的検討に委ね、とりわけ「負の螺旋」の「二番煎じ」を避け、共に「秩序ある進歩」として歴史を創っていこうと願うとき、どうしても避けては通れない「試金石」と思えるのですが、いかがでしょうか。

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ここで、第三の論点に移りましょう。

特別枠「全共闘を教訓に『個』が動いた」で、林田光弘君が語っている内容にかぎって、SEALsと全共闘との関係を概括的に捉えるとしますと、こうもいえましょうか。すなわち、SEALsは、全共闘運動から、「個々人の自発的結集態」として、たとえば「上意下達の組織運営はしない」という「教訓」を学び、これを、「安保法制」という政治的一争点にかぎって、その成立を阻止する政治的示威運動・街頭行動に活かそうとした、と。「全共闘を教訓に『個』が動いた」という (おそらくは編集者による好意的) 表題も、正確には、「全共闘運動から、正負の教訓を学び、双方を (止揚して) 自分たちの運動に活かそうとした」と解すべきでしょう。

そのさい、争点の中身政治問題に、運動のは主として街頭に、おそらくは十分に意図して限定されたのでしょう。街頭で突出した行動に出て「逮捕者が出れば『過激派』扱いされ」、肝心の「安保法制の問題が伝わらない」という政治的「リアリズム」から、非暴力に徹したという点、また、「安保法制を阻止できない」と察知した状況では、「悔しさ」はあっても「無理はせず」「さっと引いて」、「負の螺旋」に囚われる以前に「みずからひとまずは解散」して運動を収束させたあたり、全共闘運動からはむしろ否定的教訓を引き出し、(「一回一争点」にかぎって離合集散する運動を、反復-集積して、市民層の発言力・行動力を徐々に高めていくという)「市民政治的な自発的結社運動」として、一歩政治的には成熟した」とも評価されましょう。

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運動の社会的構成を、①自分たち活動家、②「その呼びかけに答えて結集する」市民層、 それ以外の広汎な「無関心層」に三大別し、 にも「メッセージを届ける」ため、「(マス・) メディアと呼応した活動」を意識したそうですが、そのために「自分たちが偶像化、キャラクター化される(負の)現象」にも気がつき、そういう「自己相対化」と「知らず知らずのうちにマスコミの走狗と化して、耳目聳動を競う陥穽」への警戒も、忘れてはいなかったようです。

また、① のメンバーとしては、林田君が通った明治学院大のほか、国際基督教大、上智大などの(宗派は異なれ、キリスト教系大学の)学生が目立っていた事実にも注意を促し、それは、「東大や日大を中心に全国で吹き荒れた全共闘とは違い」、「理解を示す教員がいたから」と総括して、自分たちとしても「学内と学外、活動のための勉強と行動を心がけ」た、とむすんでいます。この後半の論点については、「運動のただなかで、一見『 (とりわけ政治闘争には) 無関係』として軽視されがちな『勉強』を、まさにさればこそ、『活動のための勉強』としても大切にし、深めていくことこそ、必要にして重要」と確信し、主張してきた小生としましては、「林田君の意気やよし」と評価し、期待するところ大です。

ただ、前半については、「活動家学生と 理解を示す教員との関係」という林田君の問題提起を一歩進め、その観点から、近過去の「1968-69年学園闘争」全体について、比較類型論的な考察を試みますと、どうでしょうか。同じキリスト教系大学にかぎっても、当時、たとえば国際基督教大の田川建三氏、青山学院大の荒井献氏、立教大の木田献一氏のように、それぞれの大学の現場で、(学生の問題提起を抑え込もうとする)大学当局の方針を、「キリスト教の精神、したがって建学の精神、に反する」と真っ向から批判し、解職その他の不利益を被りながらも、その闘争経験を、その後の活動と、突出した聖書研究に活かす「批判的抵抗派」ないし「批判的少数者」が現存した事実を忘れてはなりますまい。過日、林田君らの政治運動に「理解を示した」教員各位の、当の「理解」を尊重すると同時に,各位が、先行する1968-69年「学園闘争」の事績を、どのように総括され、学生「理解」に、どのように活かそうとされたのか、積極的に問い返されてもよいのではないでしょうか。

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最後に、林田君は、「全共闘世代とは接点がないのですが、年金問題などそれぞれの世代しか言えないことを言い続ければいい」という思いを語って、発言を結んでいます。これは、各世代がそれぞれ抱えている利害関心とそれにもとづく固有の問題を、公共空間に提示し、他世代と交流しながら個別の解決を目指すなかで、その種の交流の反復集積から、なにか新しい思想と運動が芽生え、「総合」も達成される、という発想とも見受けられます。それは、SEALsの「一回一争点、一世代-一争点に限定する単発運動の反復」という政治哲学にも見合っているでしょう。しかし、「後続世代は、先行世代の事績に、まさに後続世代として、後から距離をとって接近し、それだけ批判的にもなれて、場合によってはいっそう包括的なパースペクティヴから、先行世代の経験と所産を統合・再構成して」いけるにちがいありません。カール・マンハイムの世代論を参照しますと、むしろSEALs世代の諸君が、全共闘世代との接点を創り、その「正負の経験」を批判的に見きわめ、みずから「方法論をアップデート」する「不断の努力」に活かしていく道も、開けているのではないでしょうか。全共闘世代の(そのまた、やや)先行世代に属する小生自身としましては、後続世代のそういう積極的アプローチの可能性をたえず念頭におき、全共闘世代の「正負を判別する」機縁も含め、つとめて適切な対応を試み、世代間交流による歴史の創成に多少とも寄与したい、と祈念してやみません。

[新憲法発布の日(53日)、脱稿]