「総括」からの展開 3

東大闘争から、「ふくしま再生の会」をへて、現地居住の「交流の里づくり」へ――田尾陽一君との最近の交信より (329)

 

[旧臘、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』を上梓して以来、年末-年始にもかかわらず、多くの方々にご繙読いただき、なかには、ご感想を洩らされ、内容上関連のある著作を送ってくださる方もおられました。各位のご好意に、厚く御礼申し上げます。小生としましても、ご感想の趣旨を、広くご紹介し、極力応答もして、自己相対化への機縁、また、「総括」の趣旨を敷衍-展開する糧ともし、活かしていきたいと思います。そこで、この「『総括』からの展開」欄(シリーズ)を開設しました。拙著が、そのようにして「螺旋状展開」の一契機に止揚されていけば、その刊行も、あながち無意味ではなかったことになりましょう。21日記]

 

[今回は、1969-73年の「東大裁判闘争」(「統一公判」組にたいする「分離公判」組の被告団「自立社」の法廷闘争) 以来、小生とも親交のあった田尾陽一君から、福島県相馬郡飯館村への移住・転居通知を兼ねた寒中見舞い、かつて「東日本大震災と福島原発事故」(311)直後に「ふくしま再生の会」を立ち上げた経緯、それ以来、折に触れて書き溜められた随想の抜粋、が送られてきましたので、要旨をご紹介し、東大闘争と裁判闘争にかかわった往時から、まったく変わりのない、田尾君の企画-行動力に感嘆するとともに、その底に一貫して流れている感性と思想に、思いを致し、翻っては小生のスタンスを相対化して捉え返す機縁ともしたい、と祈念します。201938日記]

 

 

 田尾君は、1969-73年(控訴審を含めると77年まで)、「東大裁判闘争」(「統一公判」組にたいする「分離公判」組の被告団「自立社」の法廷闘争)を支える実質上の事務局長でした。総勢50人近い「被告人」ひとりひとりとの連絡を絶やさず、(東京地裁のいくつかの法廷で公判が予定されるつど、本郷の旅館「山水」の広間を借りて)「被告団会議」を催し、鋭意対策を練り、10人近い弁護団の弁護士とも、東京地裁とも、連絡を欠かさず、全国から寄せられる支援のカンパには感謝状とニュースを送る、という厖大な事務作業を、成川秀明君 (経済学専攻の院生) と二人で、精力的に担っていました。弁護団長の杉本昌純弁護士は、小生と同い年ながら豪傑で、よく「田尾!、成川!、駄目じゃないか !?」と怒鳴りましたが、小生にはいつも「自立社は、田尾と成川の二人で持っている」と洩らしていました。

1969年の秋からは、小生も「特別弁護人」(職業的弁護士ではない素人の法廷弁護人)に選任され、「裁判闘争」を共に闘うことになりましたが、東京地裁に証人として喚問される東大当局者 (大河内一男前総長や加藤一郎総長代行など) にたいする「主尋問」は、「被告人」自身との方針の齟齬は田尾君が適宜調整して、ほぼ全面的に小生に委ねてくれました。それというのも、小生は、たとえば加藤一郎法学部教授に、「『医師法一部改正案(登録医法案)』は、医療・医学部の問題ですか、それとも法制・法学部の問題ですか ?」と質問し、「東大法学部に専門の研究者はいません。なにもかも採り上げて『賛成』『反対』というわけにはいきません」というような応答を引き出し、「では、他に、研究者のいる部局がありますか ?」「多分、ありません」「それでは、『大学、学問は、何のためにあるのか ?』という学生・院生の問いに、内容上、どう応答し、どんな議論ができるのでしょうか ?」「証人ご自身は、医療制度の再編について、どうお考えですか ?」という具合に、相手に多くを語らせながら、一歩一歩、具体的に追及を重ねました。そうしますと、裁判長によっては、やりとりの内容に興味を示して、性急な「尋問、差し止め」は控え、証人が応答に詰まって、法廷闘争を比較的有利に展開することもできたのです。

*

ところで、「分離公判」組の被告団は、「ひとりひとりが生きている日常の現場で、直観的に怪奇しいと思ったことは、黙っていないで、そのつどその場で問い返し、直截に異議を申し立てる」という全共闘運動のスタイルを堅持し、「法廷闘争」にも持ち込みました。たとえば、「傍聴席」でメモをとることを、「報道関係者」には最前列に特別席を設けて認めながら、「一般傍聴者」には認めない、(問い返せば、確かに)奇異な慣行や訴訟指揮に、その場で抗議し、裁判官をも追及しました。その意味では、東大闘争を東京地裁の法廷に持ち込み、裁判所も変革しようとしていたのです。

ところが、田尾君はそのかたわら、被告団内部の (年齢・専攻・党派所属などは多様な、それだけ) 複雑な人間関係にも気を配り、たとえば「(水芭蕉の群生地として名高い長野県) 鬼無里村の農家が、過疎化のため、格安で借り切れるようだから」といって、「被告団合宿」を計画したりもしました。後の回想録によると、学生時代から登山好きで、大学ではホッケー部にも入っていたそうです。かれに会うと、いかにも「山男」という風貌に、誰しも気分を和ませられたことでしょう。

*

さて、田尾君は裁判闘争の後、大学には戻らず、近隣のこどもたちと「ものづくり」を楽しみ、見守りながら、独創性を育む、ユニークな「工房」を開設し、友人とともに経営していました。そのうち、「生活構造研究所」を立ち上げたと聞きましたが、その企画と経験が、後に (田尾君自身がベンチャー・ビジネスと称する)「セコム」の設立と発展にも繋がったにちがいありません。ただし、その間の経緯は、小生は知りません。裁判闘争が終ると、互いに忙しくなって、いつしか年賀状だけの付き合いになっていました。とはいえ、ずっと後になって、「セコム」の話を聞き、「なるほど、田尾君ならな」と思い当たりました。

*

その後、田尾君との交信が復活するのは、2011311日「福島原発事故」直後のことです。

今回送られてきた (2011326日付け) 未定稿「福島原発事故の衝撃、福島への道を走り始めた」によりますと、田尾君は早くも325日、(マネージャー役を務めていたという)「福島第一原発事故を憂慮する科学者グループ」と「『原子力開発機構 (JAEA)』の安全解析グループ」との打ち合わせのため、つくばの「高エネルギー加速器研究機構 (KEK)」を訪ね、東海村にも足をのばしたそうです。そこからはひとりで、福島第一原発のなるべく近くまで行って現場を見届けようと、(たったひとり現場行きを引き受けてくれた) 老運転手に往復料金を払って、タクシーを走らせたとのことです。

ところで、小生は、このJAEAKEKとはどういう集団なのか、その「科学者グループ」が、どういう人々によって構成されているのか――つまり、田尾君の呼びかけにすぐさま応えるような関係が、どのように「復活」したのか、あるいは、東大闘争以降も「専門研究者仲間」ないし「同門の先輩-後輩」というような緩やかな「諒解関係」が「継続」していたのか――、そのあたりのことに、「体制活動家」と「体制専門家 (批判的抵抗派)」との社会関係の問題として、興味を引かれます。

*

さて、(2011616日付けの未定稿)「福島原発周辺被害地調査から『ふくしま再生の会』を作る」によると、老運転手とともに被爆の恐怖を乗り越えて現地視察を終えた田尾君は、56日夜、「大学院時代や、その後の活動仲間」に、「原発事故にかんする意見交換の会」を呼びかけました。「世話人」には、田尾君のほか、大永貴規君、三吉譲君など(裁判闘争以来、小生にも懐かしい)名前が並んでいます。この呼びかけに応えて集った約20人には、「その昔、理・工・文・経・医などの専門家の道を歩んで」、「現在は多種多様な仕事」に携わり、あるいは「リタイヤーした人たち」も多かったとのことです。そこでは、「福島原発事故が、現代日本最大の危機である」こと、「戦後の半世紀以上の人生を歩んだ人間がその価値観や知識を根底から問われる事態である」こと、が確認され、「福島現地にとにかく行ってみよう」と衆議一決しました。ここでもやはり、「直観的に問題を捉えたら、まず行動に立ち上がり、その理由や方針については、後から篤と考える」という活動スタイルがものをいっています。

65日朝には、この提案に応えた「シルバー世代と若干の若い世代18人」が、東京駅前に集まり、「(KEKから借り出した)蓄積型放射線量計と、いざという時のためにビニール製の頭巾・カッパ・手袋・活性炭素入り防塵マスク」を用意し、2台のバンに分乗して出発。小名浜を経て、夕方、相馬市に到着。夜、ときに断水するホテルで、現地の有志 (東京からUターンしてふるさと復興に取り組んでいた「おひさまプロジェクト」の代表や、県立相馬高校の教諭など) と懇談。翌朝、車に分乗して南相馬市に向かい、水耕栽培用ビニール・ハウスの農業経営者から、「(現地の) 放射線量は、近くの学校で福島県が測っている値を参考にはしているが、不十分なので、自前で2週間に1度、日立系の企業に2万円払って分析してもらっている」という実情を聞き出します。午後には、飯館村に到着し、(農業委員会の会長で、見守り隊隊長も兼ねる) 菅野宗夫さん宅を訪ねて、話を聞き、田尾君たちの構想 (「福島復興に向けた調査・交流・実験・行動計画」案) も伝えます。菅野さんからは、「個人として大賛成、今後、村当局の正式の承認も求める」という回答をえました。そこで早速、「飯館村全村の放射線量測定計画を作製するため、KEKの若手有志の科学者たちが、各種測定機器を車に載せて、再度[619日に]訪問する」という予定を決めます。そのようにして、おそらくは村の「名望家」で、災害への応急の対応と復興に責任を負うリーダーの菅野宗夫さんと、外部からの支援者ながら、放射能測定の原理とノー・ハウを知り、KEKの若手科学者有志もオルグでき、なによりも支援運動を企画し展開できる力量と行動力をそなえた田尾君との間に、放射線量の常時測定という喫緊の課題を媒介として、連帯関係が結成されたのです。

「福島復興に向けた調査・交流・実験・行動計画」案の内容は、1. 趣旨、2. 活動内容、3. 急がれるプロジェクト、に三大別されますが、3. には (1) 自由度の高いボランティア活動 [] 滞在拠点 [の構築](2) インターネット放送局の開設によるネットワークづくりと総合生活相談システム、(3) 放射線量の計測・リアルタイムの伝達、(4) 土壌除染のための植物栽培実証実験、(5) 海藻栽培による海の浄化実証実験、(6) 地域経済再生計画の実証実験、(7)自然エネルギー実証実験、(8) その他、自然と生活の再生に必要なあらゆる試み、という現地の緊急の要望に応える八項目が挙示されています。「ふくしま再生の会」の活動内容については、http://www.fukushima-saisei.jpをご参照ください。

その後、田尾君は、東京の自宅と飯館村との間を土日に往復して、「ふくしま再生の会」の活動を8年越しで担ってきました。ところが、今回はさらに、飯館村に新居 (ログ・ハウス) を構えて移り住んだというのです。菅野宗夫さんが会長を務める飯館村佐須行政区地域活性化協議会と協働して、帰村者・帰村計画者・心ならずもの離村者・村外からの参加者が、気軽に寄り合え、なりわいを再生し、賑わいを取り戻す「交流の里づくり」を目指すためです。「活動イメージ」としては、井戸端空間、ふるさと仮の家、共同風呂、農業体験、文化交流、村内ツァー、伝統料理、宿泊、が挙げられています。2018年夏には、「アートの力を再生に活かす」べく、越後妻有「大地の芸術祭 (里山芸術祭)」ツァーが、計画され、実施されました。

*

  ここでちょっと遡りますが、田尾君は311直後、(東大からスタンフォード大学に転じていた、院生時代の) ある先輩から、メールを受け取り、彼の地では「フクシマ事故をめぐって、たびたび、タウンミーティングという学内集会が開かれ、老いも若きも、研究者も学生も、その話題で持ち切りになり、白熱した議論がつづけられている」と聞き、「東大を見てきてほしい」と請われます。そこで、420日、久しぶりに東大に出掛けてみると、驚いたことに、「量子システム科」と看板を変えている「原子力工学科」は、新学期の開始も5月に先送りし、火が消えたように静まりかえっていました。職員に聞くと「東京電力の計画停電、節電に協力しています」との返事。田尾君は、「いったい、この静寂は何を意味するのか ?」「工学部長や総長や全学の有志教官が、シンポジウムや研究会ぐらい仕掛けて」いてもよさそうなのに ?、「1960-70年代なら、学生がわんさか出てきて、ビラは配る」やら、立て看板を並べるやら、大問題となっていたにちがいない、と驚き、まるで「異星人の大学」に迷い込んだように感じたそうです。通りかかった東大生に「どこかで原子力関係のシンポジウムでもやっていない ? これまで、そんな会合はなかったの?」と訊くと、「いえ、僕は関係ありませんから」「さあ知りません」と、無表情に答えて立ち去ったとのことです (201155日付けのコラム「愚者の知識人批判(3)」より。この記事は、田尾君のブログ「愚者の声」http://gusha311.blog55.fc2.com/ に収録されています)

*

つぎに、(2014522日付け未定稿)「日本政府の原爆事故対応の構造」では、「政府事故調」(日本政府福島原発事故調査委員会、畑村洋太郎委員長) が、20117月~11月、東京電力福島第一原発の吉田昌郎所長から1330時間かけて事情を聴取した記録とその扱いを、田尾君が問題としています。この記録は、2014520日に『朝日』が朝刊トップで報じ、原本は内閣官房に保管されているそうですが、小生の記憶に誤りがなければ、その内容は、2016313日、「原発メルトダウン、危機の88時間」と題するドキュメンタリー番組に編集されて、NHK総合1チャンネルで放映され、16日に再放映もされました。小生も、それを見て、衝撃を受け、本ホーム・ページに「記録と随想2: 東日本に生きている僥倖――福島第一原発二号機は、いかにして格納容器爆発を免れたか」を発表しています。

「危機」は、吉田所長初め、技術者たちの対策-措置をつぎつぎと出し抜き、一号機から三号機をへて二号機へと、「メルトダウン(炉心溶融)」と想定外の建屋水素爆発を繰り返しながら、「格納容器の爆発」(したがって大量の放射能放出)による東日本の壊滅へと刻一刻近づいていました。ところが、その連鎖が、万策尽きて絶望と思われ、吉田所長も、「自分といっしょに死ぬのは、どいつか」と問うた瞬間、思いがけない幸運により、破局寸前に回避されたというのです。二号機は(後の推定では)、奇しくも格納容器の「つなぎ目」から内圧が漏れ(いわば「自然ベント」が起き)、爆発を免れたのです。合理的な予測にもとづいて打った手が功を奏したのではなく、予想もつかない僥倖に恵まれて救われたのです。とすれば、ふたたび大地震・噴火・津波などの自然災害が起き、あるいは「テロ攻撃」を受けて、(活断層上のみではない)稼働中の原発が破損されたとき、同じ幸運によって破滅を免れられる保障はありません。

ところが、「事故調」はこの重大な調書を隠し、「原子力規制委員会」の田中俊一委員長は、この調書の存在を知らない、といっているそうです。田尾君は、「現場で何が起こっているかを知らないで決められた[規制]基準とは、科学とか技術とかではない、政治や宗教に近いものではないだろうか」と評します。その他にも、田中智 原子力学会元会長、近藤俊介 原子力委員会前委員長を、名指しで槍玉に挙げ、後者への批判を、「江戸時代なら最初に切腹していたはずの人物が、何の責任も取らないこの社会は、官僚制社会の末期の様相を呈している」と結んでいます。

*

さて、田尾君は、(2016713日に放映された)NHK「アナザー・ストーリー」・「東大安田講堂事件――学生たち、47年目の告白」への取材申し込みを受け、「どんな来訪者でも、福島まで足を運んできてくれる人は拒まない」という原則にしたがって、飯館村で会い、東大闘争と福島原発事故への取り組みとの連続性について延々と語ったそうです。ところが、その意図が、番組編成のなかでは活かされず、ほとんど削除されてしまったので、そのメモをもとに、昨2018年末、「東大闘争と福島原発事故の関連性」と題する未定稿を書き上げた、とのことです。結びの数節をここにご紹介しましょう。

「福島で、政治家官僚・東電幹部・専門家などの原発事故に責任を持つ人たちが、大きな過ちを犯し続けています。しかし、だれも責任を取っていません。津波という自然災害のせいにしています。この社会構造と無責任性を、社会はとりあえず許容しているようです。その間に、社会のエリート層の知的退廃が深化し続けています。」

「東大という支配秩序の中で新しい思想と社会性を生み出そうとした50年前の試みと、エネルギー政策・科学技術政策・軍事政策により生活と農業が破壊された村を継続的協働・思考・新公共空間の創成を通じて再生しようとする私の試みは、その基盤に流れる思想性に共通点があると思っています。

私自身の思考パターン・思想性は、この50年ほとんど変わっていません。

それは、自分の属する日常性のなかに、おかしいと感じる違和感を大切にしながら、本来あるべき姿を求めて行動したり、破壊されたものを再生したりする行動を日常の中で継続して行うというものです。

ふくしま再生のための協働行動を支えている私自身の思想性は、50年前の、東大と自己の解体再生活動と連続性があると感じているのです。」

 

以上、田尾君から寄せられた関連未定稿の要旨を取り出し、東大闘争・裁判闘争以来、小生としても感得し、確認してきたこの「連続性」を浮き彫りにしようと努めました。しかし、われながら不十分と思わずにはいられません。ぜひとも、田尾君自身が、当の「連続性」とその意義にかんする省察をまとめ、公刊されるよう、祈念して止みません。

[2019329日記]