「総括」からの展開2

駒場ゼミ追想――とくに八林秀一、舩橋晴俊、大庭健、三君の逝去を悼んで

 

[旧臘、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』を上梓して以来、年末-年始にもかかわらず、多くの方々にご繙読いただき、なかには、ご感想を洩らされ、内容上関連のある著作を送ってくださる方もおられました。各位のご好意に、厚く御礼申し上げます。小生としましても、ご感想には極力お返事して、ご好意にお応えすると同時に、そうすることをとおして「総括」の趣旨を多少とも敷衍-展開していきたいと祈念し、この「『総括』からの展開」欄(シリーズ)を開設しました。そういう「螺旋状展開」の一契機に止揚されていけば、拙著『総括』の刊行も、あながち無意味ではなかったことになりましょう。2019年2月1日記]

 

[今回は、1967-68年当時、東大教養学部の一般教育ゼミ「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」に参加していた駒場生で、拙著155ページで触れた「実存主義社会派」五人のうち、八木紀一郎君と近藤和彦君から寄せられた書簡に触発されて、小生の記憶を手繰り、とりわけ、2012年に早世した八林秀一君、2014年夏に急逝した舩橋晴俊君、昨年10月に逝去した大庭健君の思い出を綴って、追悼にも代えたいと思います。2019212日記]

 

小生、1968年春から「東大紛争」に直面し、関与を迫られましたが、当時とくに頻繁に接触して議論を交わした相手が、小生よりほぼ1012年年少のゼミ生でした。

みな、たいへんな勉強家でした。1967年度のゼミでは、「ヴェーバー宗教社会学講読」と題してEphraim Fischoff訳のThe Sociology of Religion (1963, Boston: Beacon Press) を輪読し、「ヴェーバー宗教社会学」の内容と思考方法を会得しようと目論んだのですが、始めるとすぐ、報告を分担した学生たちが、英文テキストに続々と誤訳・不適訳 (らしく、意味が通らない箇所) を見つけ、「これでは駄目だ」というので、結局、大庭君、八木君ら、(ドイツ語の初級文法は修得し終えた) 二年生から始めて、ヴェーバー『経済と社会』(旧稿)「第六章」の難解なドイツ語原文にあたり、原意を汲み取ったうえで報告してもらい、各人の読解案を検討しながら「改訳ゼミ」を進めることになりました。

当時は、「社会科学書の英訳は、比較的明快で読みやすい」という定評があり、小生が駒場生のときにも、(拙著でも触れましたが)松島静雄先生のゼミで、カール・マンハイムの「イデオロギー論・知識社会学」が採り上げられ、これまた難解な主著『イデオロギーと幻想理念Ideologie und Utopie』に、樺俊雄訳 (と鈴木三郎訳) があるにもかかわらず、ワースとシルズの英訳Ideology and Utopiaを使い、コピーをとって輪読したものでした。この訳本は、マンハイム自身が校閲しているので信憑性に問題はなく、訳文も平明で、支障なく読めました。ところが、ヴェーバー「宗教社会学」のFischoff 訳は、もとよりヴェーバー自身が校閲していたわけではありませんが、タルコット・パーソンズが「序文」を寄せ、そこで確か初めて「突破break through」の概念を提起しているという事情もあって、「そうであれば、訳文もまず問題なかろう」くらいに考え、ペーパーバック版をテキストに採用してしまったのでした。

それにしても、駒場の一般教育ゼミで、公刊されている英文テキストの誤訳を摘出し、原典と照合して補正しながら読んだというのは、やはり尋常ではなく、「アカデミズム、必ずしも畏れるに足らず」という基礎経験になったかもしれません。ちなみに、いまでは、Guenther RothClaus Wittichの編纂で、『経済と社会』の全訳Economy and Society (1978, BerkeleyLos AngelesLondon: University of California Press) が、二冊本で出ており、そのうちの一章「宗教社会学」に、Fischoff 訳が補正のうえ収録されています。優れた訳注を付した、武藤一雄・薗田宗人・薗田坦、三氏の邦訳『宗教社会学』が、創文社から刊行されたのは、約10年後 (1976) のことでした。

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さて、ゼミに参加した諸君のうち、大庭君他数人は、杉山好先生のクラスの出身で、おそらくは杉山先生の勧めもあって、二年目からヴェーバー・ゼミにも出てきたのでしょう。杉山先生は、キルケゴールをデンマーク語の原文で読解し、流麗に訳出されるとともに、その研究成果を学生の教養形成にも活かそうと腐心しておられました。また、八木君は、西村秀夫先生の勧めで、やはり二年目からヴェーバー・ゼミに出てきたようです。両君はじめ、ゼミ生たちは、互いに気心の知れた同級生同士のように、議論し合いました。ただ、同じ「実存主義社会派」でも、どちらかといえば「純粋実存主義『信条』派」に近い大庭君と、むしろ「社会派」で、社会科学とくにマルクス主義に傾倒していた八木君との間には、緊張があり、両君はしばしば鋭く対立しました。小生はそのつど、どう「とりなして」議論を進めたものか、チューターとしての無力を痛感する役回りでした。

近藤和彦君は、確か一年年少で、杉山クラスないしゼミの出自だったのかどうか、小生の記憶は、定かではありません。むしろ、小生と同じ千葉大付属中の出身で、駒場の一般教育科目「社会学」の聴講を機縁に、ゼミにも出てきたのではなかったか、と思います。

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ところで、ここでちょっと脱線しますが、千葉大付属中は、小生から近藤君の世代にかけて、敗戦後の学制改革による新設の新制中学として、清新な気風が漲り、おそらくは「戦後民主教育」の最先端を走っていました。

千葉市のような県庁所在地には、戦前から、一県一校の旧制師範学校(教員養成校)が置かれ、その付属小学校には、各地ごとに郷土色はあれ、共通の構造と雰囲気もあったように思われます。教員はおおかた、地元の師範学校の出身者(トップ・クラスの卒業生)で、生徒は主に、①地元の老舗、②官庁や大企業の出先機関に務める「転勤族」、③小中学校、師範学校、単科大学(たとえば千葉医大)の教員・教育関係者、の子女によって占められていました。もとより男女別学で、男子クラスには、(故柏原兵三の秀作『長い道』に見事に描き出されているような)一人の「ボス」を中心とする「こども学級の権力構造」が、牢固として根を張っていました。

小生はそこに、「縁故疎開」にともなう「余所者」「外部生」として編入されましたから、同じ境遇にあるごく少数の転入者とともに、例外的な孤立的個人として「境界人」「周辺人」とはなれても、学校自体の社会的構造や雰囲気を覆すことなど、思いもよりませんでした。ところが、1948年、付属小から、その上に付設された新制の付属中に、第一期の一年生 (二年生は高等小学校の一年生、三年生は同じく二年生) として進学するや、教員と生徒の構成も雰囲気も、ガラッと変わっていました。教員は、東北大出身の憲法学者・飯田朝校長を筆頭に、全国から、京大卒・お茶の水女子大卒・津田塾大卒・東京芸大美術学部卒・東京高師卒など、「千葉県教育界」の局地的権力構造とは無縁の新任教師が集い、進取の気風に溢れていました。付属小の教諭から転じた、旧制師範卒の教頭も、懐の深い人で、「よき調整役」「まとめ役」としての役割を果たしていたようです。約半数を占める旧制師範卒の教員も、おおかた「いい先生」でしたが、体罰を加える体育教師、「宿直室」で麻雀に耽り、呼びに行っても出てきてくれない野球部長・顧問など、生徒から見ても問題のある教員はおり、やがて、近藤君の代には、「局地派」の「巻き返し」「逆コース」も始まったようです。生徒のほうも、千葉-船橋間の国鉄と京成の沿線に居住する「転勤族」あるいは両線による「東京への通勤族」の子女が、(小学校は近隣に通い、高校からは都立高校に「越境入学」するつもりでも、中学時代にはさして無理のない)「千葉市への逆通学」を選び、大挙して千葉大付属中を受験して入学し、生徒総数の(成績もほぼ上位の)約三~四割方を占めて、「電車通学族」という「一大勢力」をなしました。それにともなって、生徒間の雰囲気も一変し、「こども学級の権力構造」は、跡形もなく消え去ったのです。

そういうわけで、千葉大付属中は、旧師範学校の寮舎を使い、付属小の上に付設される形で発足はしたのでしたが、戦後改革という「外生的exogenous」要因による大転換期――「古い構造」が崩れる一方、「新しい構造」はまだ確立しない「危機」「(権威の)空白期」――に、飯田校長のもと、「戦後民主教育」への試行錯誤を開始していました。混沌を抱えながらも清新な、その独特の雰囲気は、そこで伸び伸びと三年間を過ごした生徒たちにも、なにか既成の観念や慣習律には囚われない、自由の気風を育んだにちがいありません。

そのなかから、その後、大学闘争にも、市民運動にも、それぞれ自分の課題を見つけて取り組む卒業生が現われました。たとえば、物理学会で長年、交流誌『科学・社会・人間性Science, Society and Humanity』の編集主幹をつとめ、「科学者の社会的責任」を問いつづけた (小生と同期の) 白鳥紀一君、東大建築共闘の院生リーダーとして活躍し、1968-69118-19日には安田講堂に立て籠もって闘い、裁判闘争のあと、大学に復帰し、「市民のための街づくり」を担いつづけた故内田雄造君(本ホーム・ページの2012年欄に、『ゆっくりとラジカルに――内田雄造追悼文集のこと』を掲載しています)、「江見の会」(東京高師卒の品川幹夫先生が主宰し、卒業生も加わる毎夏恒例の臨海合宿) で「自然」に親しみ、その基礎経験のうえに、大学闘争から反公害・反原発の市民運動に取り組んだ故藤田佑幸君、(小生と面識はないものの) 元広島市長として反原水爆・反核のスタンスを堅持し、世界に発信しつづけた秋葉忠利君など、「やァ、君もか」と思い当たる卒業生は、枚挙に遑ありません。しかし、ちょっと脱線がすぎますから、この続篇は後輩にゆずり、話を元に戻しましょう。

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近藤君は、ゼミで、大庭、八木両君の華々しい議論に「向こうを張って一枚加わる」というよりもむしろ、「一歩引いて」傾聴し、ただその内容については、文献にあたってよく調べ、確かめる、優れて堅実な学風の持ち主と見受けられました。いずれにせよ、みな「勉強家にして論客」ないし「堅実な学究」でした。ところがどうして、それほどの勉強家が、あるいはむしろ、まさに勉強家であればこそ、ベトナム戦争にたいする抗議行動から、東京王子の米軍野戦病院に反対する市民運動、東大医学部の「登録医制 (医療制度再編) 反対闘争」とこれに絡む学生・研修生処分の白紙撤回要求にいたるまで、一連の政治・社会問題にも「わがこと」として関心を寄せ、大状況の問題と小状況のそれとを関連づけて考え、思い思いにコミットしていたのです。近藤君も、王子のデモに出掛けて、帰途、国電総武線の (小生もよく利用した1240分御茶の水発の千葉行) 最終電車に乗り合わせ、かれが「(京成の終電には乗り遅れたので、国電の)幕張駅で降りて八千代台の自宅まで歩いて帰る」というので、タクシーに乗って行くように勧め、なにがしか立て替えた記憶があります。拙著では、そういう情景をこもごも思い出しながら、「『実存主義社会派』の感性をそなえた勉強家にして論客」と特徴づけ、とくに記憶に残っている五君の名を挙げました (当時、社会科学のゼミは、だいたい「大入り満員」で、「マックス・ヴェーバー宗教社会学講読」などと「難しげな」表題を掲げ、外国語のテキストを使っても、当初には40人近い学生が集ったものです)

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さて、五人のうち、八林秀一君は、学生時代には頑健なサッカー選手で、夏の終わり、(拙宅近辺の) 検見川グラウンドで練習を終えて宿舎に引き上げるところを (小生は子どもたちを連れて散歩の途次) よく見かけて話し込んだものでした。かれは、ゼミを機縁とする議論では、京浜工業地帯に住む企業経営者の息子と名乗り出ましたが、はっきり全共闘支持を表明して、論陣を張りました。その後、経済史家となって専修大学に務め、教師としてスポーツ・マン・シップを発揮していたにちがいないのですが、惜しむらくは2012年に早世しました。

ゼミで(多分、唯一)理科生だった舩橋晴俊君は、工学部航空学科を卒業し、文転して経済学部も卒業した後、大学院では社会学に転じました。そして、環境社会学の分野を切り拓き、環境社会学会を立ち上げ、法政大学の「サステイナビリティ (持続可能な世界を構想し実現する) 研究教育機構長」、「原子力市民委員会 (反原発市民会議) 座長」、「(日本学術会議の) 高レベル放射性廃棄物処分にかんする検討委員会委員」など、一連の要職を兼ね、脱原発と再生可能エネルギーの普及をめざす市民・社会運動に粉骨砕身していました。2014年の夏には、同君を中心に編纂された、画期的な『環境総合年表――日本と世界』 (2010、すいれん社刊、大判805ページ) を携えて、奥さんの恵子さんと、取手の拙宅まで訪ねてきてくれました。ところが、その直後、かねがね心配してはいたのですが、過労が祟って、北海道への講演旅行から帰ってすぐ、くも膜下出血に倒れました。本ホーム・ページの2014年欄には、舩橋君との交流の一端を綴った二文「舩橋晴俊君の急逝を悼む」(922) と「市民運動と学問との狭間に生き抜いた人――舩橋晴俊君との交信より」(1231日)を掲載しています。また、一周忌に法政大学で開かれた「舩橋晴俊先生を偲ぶ会」における発言の要旨を多少敷衍し、「1960年代の問題状況――舩橋晴俊君の思想形成に寄せて」と題する論考を、2015年欄に発表しました。いま読み返しますと、そこには小生自身の『総括』の項目もほぼ出揃っており、小生自身、かつてゼミ生だった同君らとの交流をつづけるなかで、自分の思想遍歴も重ねてきたことに、改めて気づかされ、感慨ひとしおです。

なお、舩橋君の厖大な遺稿が、恵子さんを中心に編纂され、『社会制御過程の社会学』と題する792ページの大著として、昨2018年夏、東信堂から刊行されました。そこには、学生諸君とともに公害の現場に足を運び、調査研究を重ね、多方面の市民運動にもかかわりながら、理論-基礎理論にも手を抜かず、「社会制御過程の社会学」として集大成しようとしていた、舩橋君畢生の大事業が、詳細にわたって総括されています。

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さて、舩橋君と小生は、社会学から公害-、原発問題にアプローチする点で関心が重なり、ずっと連絡を保っていました。ところが、ここしばらく交流が途絶えていた大庭健君が、昨201810月、突然、日本倫理学会会長の任期途中で、他界してしまったのです。癌を患っていると噂に聞いてはいたのですが、そんなに早く逝くとは思ってもみず、拙著の執筆にも追われていて、つい、会って見舞う機会も逸してしまいました。20147月、神奈川県平塚市で開かれた舩橋君の葬儀の会場で出会って、席を譲ってくれたのが、最後でした。

大庭君については、八木君から、ゼミ以来の交友を概括する書簡と、「羨ましいばかり知的に洗練された、よきライヴァルにして友人」に捧げた弔文のコピーが、送られてきました。近藤君からも、長文の書簡が届きました。そこで、近藤君もホーム・ページを開設していると知り、早速、1023日、1123日付け、大庭君追悼関連の記事を、開いて読みました。

大庭君は、間違いなく、同級生にとっては「よきライヴァル」、下級生にとっては「飛び抜けた文献読解力に目を見張る、よき兄貴分」だったでしょう。ところが、ゼミ当時、大庭君は「大庭節」(後述)の主、八木君は、学究肌ながら新左翼の政治-社会運動にもかかわって苦労を強いられていたせいか、「やや気難しい一言居士」という印象も免れず、双方とも個性的すぎて、ときに衝突しました。ところが、ずっとあとになってからですが、近藤君が「矢切の渡し」の近傍でユニークな結婚式を挙げると、八木君も(東大文学部社会学科を卒業後、平田清明さんの指導を受けて研鑽を積んでいた)名古屋からはるばるやってきて、大庭君、舩橋君らとも一堂に会し、近藤夫妻の門出を祝いました。そのときには小生、「八木君も随分打ち解けて、明るくなったなぁ」と感じ入ったものです。

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八木君は、文学部社会学科に進学してから、「文スト実」の委員長ともなり、「安田講堂事件」以降にも一貫して「文処分撤回闘争」を闘っていました。そして、1969年夏には、同年秋の「文処分取り消し」を予測し、検見川グラウンドの宿舎で合宿するなど、徹底した内部討論を重ね、文闘争を総括して「無期限ストライキ」をみずから解除する――「闘争を始めること」以上に至難の――「収束」過程を担い、リーダーとしての責任をまっとうしました。これは、196996日の「国文科集会」――「処分」理由とされた「1967104日事件」の「摩擦」以来、初めて、当事者の築島裕助教授と学生仲野雅君が直接対質する場を設け、双方の証言によって、当の「摩擦」における「築島先手」を立証し、文教授会の(「仲野君による一方的退室阻止」という)事実誤認と、加藤執行部によるその踏襲という失態を、静穏裡にも確実に論証した事績――とともに、注目され、確認され、記憶に止めて継承されるべきことでしょう。八木君には、いつか、当時のことを思い起こし、記録として残してほしいと思います。

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もともと学究肌の八木君でしたが、文処分撤回闘争が「処分取り消し」という事実上の勝利に帰着すると、翌1970年半ばから卒業論文の執筆にかかり、1971年の3月には、「戦前における社会科学の成立――歴史意識と社会的実体」と題する大作を書き上げました。この論文は、(196869年「東大闘争」の渦中で総崩れを露呈した) 日本の社会科学アカデミズムが「学問的権威」として成立する以前(戦前)の思想状況に遡り、「日本において社会科学がそもそも成立可能だったのか」と問い返し、思想史的・学説史的な批判的総括にもとづいて「日本の社会科学は、三たび(これから)生まれなければならない」と答える、トータルにしてラジカルな意欲作でした。八木君は、この卒論を、2017年春、停年で教職(京大経済学部の河上肇講座)を退くにあたり、「執筆時復元版」として自費出版しましたが、その冊子に、「私の探求の出発点-1970 / 71年執筆の卒業論文」と題する、201713日付け「復元版卒業論文、まえがき2」を添えて、小生にも送ってくれました。惜しむらくは復元冊子に収録されていない、この「まえがき2」には、かれが「東大闘争」の渦中、またその直後に、さればこそ日本の社会科学をトータルに問題として格闘した軌跡と根拠が、簡潔に要約されています。八木君のその後の学問的営為は、学究としての「東大闘争総括」だったともいえましょう。

小生自身は、かれのその後の仕事のなかから、ヴェーバー研究との関連で、カール・メンガーをはじめ、オーストリア学派の学問内容についてなど、確かに多々学ばせてもらっています。しかし、いかんせん自分の観点からする一面的かつ部分的抽出の域を出ず、八木君における卒論以後の学問-思想展開をトータルに追跡し、再構成するにはいたっていません。どなたか若い方が、「復元版卒業論文、まえがき2」を手掛かりとも指導仮説ともして、八木君の仕事のトータルな思想的復元に取り組み、その意欲と構想を引き継いでほしいと切に願うのですが、いかがでしょうか。

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さて、他方の雄、大庭健君について、エピソードから始めますと、院生時代、千葉大の非常勤講師となってすぐ、「国鉄のストで朝一時限の講義を『ふい』にしたくない」といって、千葉市内の拙宅に泊まっていったことがあります。このときには、パリっとした夏の背広を着込んでやってきて、こどものベッドを窮屈そうに占領し、朝早く出掛けて行きました。ところが、連れ合いの慶子には、「学生時代からいつもヨレヨレのジーパンをはいてくる大庭さんは、きっと『苦学生』にちがいない」という先入観があり、このときも弁当をつくって送り出したものです。ところが後年、西村秀夫氏の司式で結婚式を挙げ、かれの出自も正式に紹介されるほかはなくなったのですが、そのときには、「ヨレヨレのジーパン」がじつはかれ一流の「ダンディズム」だったと知り、同時に、「大庭節」を貫ける個性の社会階層的背景と来歴にも、思い至り、合点がいきました。

小生が停年退職した19963月には、「公開自主講座『人間-社会論』」関連の若い知友が、「折原浩の仕事を中間総括する会」を開いてくれたのですが、「夕べの会」も終わって帰路についたとき、大庭君がつかつかと歩み寄ってきて、慶子と小生に、「次は葬式ですな!!」と言い放ちました。これぞ大庭節で、「今日は盛会で結構でしたが、葬式には、今日と同じくらい知友が集まれるように、これからもせいぜい、いい仕事をしてくださいよ」という趣旨なのです。その大庭君に先立たれるとは、思ってもみなかったことで、悲しいかぎりです。

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大庭君の、目ざましい活躍と著作活動には、寄贈された著書を一箇所にまとめて折々繙いてはいるものの、多忙に紛れて、なかなか内容ある応答は届けられず、遠くから見守る一読者の域を出られませんでした。なるほど、かれの著作の意図は、自家薬籠中のものとした分析哲学を武器に、一般読者の日常生活に寄り添い、「自己」「他者」「所有」「権力」「責任」「善と悪」といった諸範疇をつぎつぎに問い返し、既成の神話を遠慮なく暴いて、誠実な実存に立ち返らせようとするところにあったと察せられます。ただ、小生は、そういう反省知の体系化が、はたして読者の現場実践を力づけるものかどうか、一般読者にはむしろ、「解剖学的原理を知ったうえで歩行を企てようとすると、ぎこちなくなって、かえって躓く」という警句どおりに、実存的企投を萎縮させる随伴結果を招くおそれはないか、という一抹の危惧を払拭しきれずにいました。しかしこれは、かれの作品を精読し、考え抜いたうえでの結論ではなく、厖大な業績に辟易する凡庸な一読者の短見にすぎません。かれの仕事に通じた、あるいは、これから通じようとする、若い方が、しかるべく周到に、かれの作品の実践的意義を説いて、小生の浅慮を正してくださるよう、祈念して止みません。

近藤和彦君のイギリス史-世界史研究についても、その厖大で行き届いた対象知を、われわれ自身が生きる反省知として翻案し、捉え直し、どう活かすか、という仕事が残されているように思うのですが、これはむしろ小生自身の課題として、しばらく楽しみにとっておこうと思います。

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そういうわけで、5人のゼミ生のうち、残るは2人となってしまいました。とはいえ、その他に、たとえば松浦純君や広瀬久和君のことも、忘れてはいません。後年、小生が、羽入書批判を執筆して発表するにあたっては、事前に『ルター全集』の関連箇所は調べておかなければならないと考え、独文の研究室を訪ねたところ、思いがけず松浦君に出会い、『ルター全集』の繙読法にかんする懇切丁寧な手ほどきを受けて、「教師冥利に尽きる」と深謝したものでした。広瀬君も、後に、駒場の同僚となり、消費者保護法学を集大成しました。その他の諸君も、小生が歳をとったせいか、俄かには名が浮かばないのですが、なにかの切っ掛けがあれば、すぐ思い出せるでしょう。(少し後の世代にまで範囲を広げますと、塩川伸明君を思い出します。授業再開後、確か「儒教と道教」を読んでいた年度のゼミだったと思いますが、いつもヴァイオリンを携え、飛び抜けて読解力と批判性に長け、初対面のときには「自分は〇〇[新左翼の一党派]でした」とフェアに語ったのを、よく憶えています。その後、おそらくは渓内謙氏の後継者としてソ連-社会主義研究を進め、そうした研究の思想的意味についても反省と論及を欠かさないでいることは、周知のとおりです。)

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いずれにせよ、みな、真摯な勉強家ぞろいでした。ちょうどそのころ「東大紛争、-闘争」にかかわった小生には、「この諸君の信頼を裏切るわけにはいかない」という思いが、一貫してありました。とくに大庭君は、小生が1968年夏、「810告示」批判のパンフレット「東京大学の死と再生を求めて」をしたためたとき、いつもそばにいて、議論の相手になってくれました。「窮鼠、猫を噛む」という緊急避難的「暴力」も、人間が「鼠」になりすまして「正当化」してはならない、というような議論をした憶えがあります。

それからはや、半世紀が過ぎました。『東大闘争総括』は、大庭君ほか、駒場ゼミの諸君にたいする、小生の一報告でもあります。諸君は当時、「いま、ヴェーバー社会学にかんする文献詮索に耽っていて、いいのでしょうか ? かれの社会学が、この状況で、現場問題の解決にどう活かされるか、具体的に示してはいただけませんか ?」と迫ってきました。この問いは、19686月頃、直接には近藤君から発せられたと記憶しているのですが、同君だけでなく、当時のゼミ生の総意を代表する問いかけでもあったと思われます。「文献詮索」自体の否定ではなく、その尊重のうえに、それによって読み取れた学問の、状況内企投にかかわる実践的意味を、具体的に問うてきたのでした。

『総括』では、この問いに、小生が当時、あの状況で、どこまで答えられたか、いま振り返ってみてどうか、ひとまず回答は出しました。大庭君には、天国から戻ってきて「大庭節」の感想を披瀝してほしい、という思いがひとしおです。しかし、それは叶わぬいま、存命の東大闘争OBOGの諸君が、小生の一回答を切っ掛けとも「叩き台」ともして、それぞれ来し方を振り返り、今後を見通して、論じ合ってくだされば、と祈念して止みません。小生も、今後、本シリーズで、できるかぎり応答していく所存です。

2019228日脱稿。執筆のペースがやや落ちていますが、つづけます。]