「総括」からの展開1(20190131

「体制内抵抗派」から「事業経営」へ--榎本稔著『メンタル医療革命――社会が変わり、病気も変わり、病院も変わる』(2018PHP研究所刊)を読んで

 

[旧臘、拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』を上梓して以来、年末・年始にもかかわらず、多くの方々にご繙読いただき、なかには、ご懇篤な感想をお寄せくださり、内容上関連のある著作をお送りくださる方々もおられました。各位のご好意に、著者として厚く御礼申し上げます。

小生としましても、ご感想にはできるかぎりお返事して、ご好意にお応えすると同時に、そうすることをとおして「総括」の趣旨を多少とも敷衍してみようと思います。そういう展開の一契機として止揚されることが、著書を刊行する目的・意味でもありましょう。

そこで、今回は、手始めに、同年齢で院生時代以来の畏友・榎本稔氏が、精神医療に取り組まれ、1960年代ラディカルズの尖鋭な問題提起を (小生の位置づけでは「体制内抵抗派」として) 受け止められ、さらには「開放療法」の「事業経営」として展開された半生を、じつにわかりやすく総括されている表記のご著書 (そういってよければ、「総括」の類書、それも模範例) への感想を、同氏のご承諾をえて、ここに掲載します。2019131日記]

 

 

榎本稔様

 

拝復

 

 厳寒と乾燥がつづきますが、ご清祥のことと拝察いたします。

 さて、このたびは、お送りした拙著『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』(2019、未來社)へのご感想とともに、ご高著『メンタル医療革命――社会が変わり、病気も変わり、病院も変わる』(2018PHP研究所刊)と『榎本稔著作集Ⅴ――社会・文化精神医学 (2017、日本評論社刊) をご恵送たまわり、まことにありがとうございます。

 早速、前者を拝読しました。貴兄がご自身の来し方を振り返り、学問研究と、現場実践としての精神医療、しかもその革命について、じつにわかりやすく、明快に語り出された、貴兄ならではの好著とお見受けし、感銘を受けました。

 162ページでは、修業時代の学問的・思想的遍歴の一端として、(島崎敏樹先生から日高六郎先生を経由しての) 小生との交流にも言及してくださいました。小生も、当時を振り返り、同じ1935年生まれで、共に、人間と社会のあり方を実践的・実存的に探究し、変革しようとしてきた同志として、一言、感銘の内容をお伝えしたいと存じます。

 

  貴兄は、当時すでに、「社会精神医学の樹立」という明確な目標を立て、「精神神経疾患を社会-文化環境のもとで捉え返すには、社会学ないし文化人類学を勉強する必要がある」というはっきりした問題意識のもとに、医学という専門の垣根を越えて、「他流試合」「別土俵修業」にやってこられました。ところが、「迎え撃つ」小生のほうは、それほど「腰が座って」はおらず、社会学という一専門学科のトピックスに特化・専念するスタンスには乏しく、むしろその思想的前提や歴史的背景を問い、その一環として、ヨーロッパ系の精神病理学 ――具体的には、ヤスパースの「教科書」(『精神病理学総論』)から、フランクル、ビンスヴァンガー、メダルト・ボス、ミンコフスキ、といった「人間学的精神医学」――に関心を寄せていて、「待ってました」とばかり貴兄をお迎えしたのでした。日高先生も、小生のそういう「専門家としては困った習癖」を、先刻ご承知のうえ、「むしろ部外者から『社会学の専門学徒』として遇されれば、少しはアイデンティティと責任感も芽生えてこよう」という配慮もあって、貴兄を小生に紹介されたのではないか、とも思います。

  ですから、貴兄がたとえば、(精神神経疾患との関連という視点から)「社会」について、縦軸と横軸を組み合わせた、いろいろなスキームを考案してこられるのにも、あまり「乗り気」にはならず、むしろたとえばミンコフスキの「同調性-分裂性」図式のほうに話を移したりして「お茶を濁す」こともしばしばでした。貴兄はおそらく、「業を煮やし」ながらも、「折原さんは、どちらかといえば『分裂性』で、『個人としてもっぱら筋を通そう』と、人生の諸事万端には『心を閉ざして』いるが、自分は『同調性』で、なんにでも関心を向け、心を開いて受け入れ、共鳴して楽しめますよ」と、やんわり言われたものでした。

 

  ただ、そういうやりとりのなかでも、ひとつ共通諒解となったことがあります。それは、心の「病」に苦しんでいる人は、感受性が鋭敏で傷つきやすく、それだけ豊かな素地もそなえているわけで、そこのところを、「既成社会」の「安全」を第一義として、座敷牢や病棟に「隔離」し、「既成社会」の「現状を維持」できれば「よい」、それで「能事終わり」とするのでは、いかにも虚しい、むしろ「患者」自身が「病」のそういうメリットを自覚し、活かして、「既成社会」に「適応」するばかりか、なにほどか「変革する」方向にも、歩み出て生きていけるように、親身になって介助する必要があろう、それこそ精神医学本来の課題ではないか、という、多分に「理想主義」的な考え方でした。そういう理想-思想が、ヤスパースの「教科書」をはじめとして、ヨーロッパ系の精神病理学には共通に前提とされているように思われました。

しかし、それは他面、たとえばビンスヴァンガーの「現存在分析」のように、自分のアンシュタルトに閉じ籠もって、少数の患者に、きめ細かい配慮を集中し、事例ごとに分厚い臨床記録を著書として公表することはしても、患者を病棟から一般社会に解放し、ケアしながら共生の道を探る、という目標設定とスタンスには乏しいように見受けられました。ところが、貴兄は、ヨーロッパ系精神医学の「理想主義」を、日本の医療現場で、対「患者」関係に具体的に適用され、しかも、その限界を越えて、開放療法に踏み出されたのです。小生も、同種の「理想主義」を、大学教育の現場で、学生 (とりわけ「理想主義」的に過ぎて「逸脱」にも傾きかねないラディカルズ) との関係に、アナロジカルに適用しようとした、といえるかもしれません。

 

 さて、そういう「とり止めない」対話と交流の関係がしばらくつづいた後、貴兄は、いちはやく医師として現場に立たれ、福島の病院や東京の研究所や福祉センターを経て、弱冠34歳で、N病院の副院長という要職に就かれました。その後、山梨大学や東京工大の「学生センター」担当教員も務められ (その間に一度、東大教養学部・相関社会科学科に出向をお願いして、学生を精神神経科医療の現場見学に連れていっていただき、ご苦労をお掛けしたこともありました)、なんと停年間際の57歳で、デイケア・ナイトケアの開放療法をフルに実践する「クリニック」を開設され、発展の軌道を敷かれたわけです。

 

その間には、196869年「大学闘争」があり、東大で発端となった医学部でも、精神神経科は、「医連(医連と並ぶもうひとつのSei-ïren)」の拠点として、突出し、ラディカルな発言と行動が目立っていました。「患者」を閉鎖病棟に閉じ込める、既成の医療-看護体制を鋭く告発し、開放療法の旗印を掲げて、既成体制の解体と変革に根底から取り組もうとしていました。

そこで、小生が興味を引かれるのは、貴兄が、そういう「体制あるいは周辺のラディカルズ」ないし「パーリア・インテリゲンチャ」ともいうべき、「精医連」の活動家たちと、どういう関係に立ち、どういう態度決定のうえに、どういう方向に歩み出られたのか、という点です。

貴兄は、小生と同年齢で、当時すでに、研究所や病院の既成体制のなかに地歩を占めておられたのですから、「体制外ないし周辺人活動家」に同調して、まったく同じように振る舞うわけにはいかなかったでしょう。むしろ、かれらの主張を傾聴し、主張内容の正当な核心は受け止め、それを、現実の諸条件のなかで、できるところから最大限実施に移す、(拙著では「体制内抵抗派」と呼んでいる)類型のスタンスを採られたのではないでしょうか。管見では、「体制活動家」に由来する、それゆえにラディカルな問題提起を、堅実な実力をそなえた「体制抵抗派」が受け止め、漸進的改革に踏み出すというのが、現実にはもっとも円滑で実効性のある、変革の望ましい方式であるように思われます。拙著では、その点を論証しようとつとめましたが、貴兄はその範例を示してくださっているのです。

 

それにしても、そういう改革にたいしては、「閉鎖療法」に立て籠もる、あるいはその「殻」に安住している守旧派ばかりではなく、むしろそれ以外に「体制外活動家」のラディカルズから、それだけ厳しいバッシングがあったことと推察されます。それは「金儲けはけしからん」というような単純な反感ではなく、「自分たちが精一杯闘い、さればこそ熾烈な弾圧を被って倒されたあとに、『鳶が油揚げを攫う』ように闘争の成果を摘み取っていくのは許せない(自分たちと同じようにいったん滅びるべきだ)」という、なんらかの闘争ないし運動の後退期・末期にはどうしても出てこざるをえない、当人たちの身になってみれば無理もない、ルサンチマンの発露でもあったでしょう。学知家に転じて評論をこととする人たちは、「黄昏に飛び立つ梟」よりもむしろ「鳶」というべきでしょう。

 

 貴兄が、そういうおそらくは熾烈なバッシングに耐え、開放療法を事業経営として軌道に乗せられたのはなぜか、と問いますと、やはり、東京都荒川区の尾久という「下町」で、聡明なご両親に育てられた若き日の生活史が、ものをいっているように思われます。母上は、看護師という経歴をお持ちだったそうで、貴兄には医師への強固な志と猛勉強の習慣を植えつけられたでしょう。他方、父上は、材料の仕入れから和-洋菓子の製造-販売まで、一手に引き受ける(「工程別分業」ではなく「完成品別分業」の担い手の)職人=商人として、「経営Betrieb」の才幹とノウハウを、幼いころから「以心伝心」貴兄に授けられたにちがいありません。それに比して、小生は「山の手」育ちで、しかも父親という「超自我」の支柱を失いましたから、「理想主義」でも、観念的に「筋を通す」ことばかり考えていたといえましょう。

 

 そういうわけで、小生は、学問と実践的経営の双方にわたる貴兄の業績に、感嘆あるのみです。その意義を、わかりやすく明快に説かれた『メンタル医療革命』は、類稀な好著とお見受けします。

とはいえ、貴兄がいかに活動的でも、すでに八十路も半ばにさしかかっておられるのですから、今後はご無理のないように、後進の育成に力を注いでくださるよう祈念して止みません。

 その方向で、「釈迦に説法」とは思いながら、ご高著を拝読していてちょっと気になったことを二点、お伝えすることをお許しください。ひとつは、「宗教的なもの」へのスタンス、いまひとつは、別著で採り上げられているイタリアの事例の位置づけ方、です。

前者について、小生も島薗進氏はよく知っていて、かれのような宗教学者と連携なさることにはもとより異議はありません。そのうえ、仏教やキリスト教のような伝統的諸宗派の実践的覚醒も歓迎すべきことです。しかし、この日本社会では、ついこの間、オウム真理教が「宗教」と称して、さればこそ逸脱-暴走しましたし、それを「よいしょ」して荷担したコメンテーター群が、責任をとらず、問われもしない、「集団同調性」の精神風土も、変わってはいません。そういう社会のなかでは、思いがけない陥穽も予想せざるをえず、そこで“Quality of Death” を説くには、「科学としての精神医療とその限界」(「類にかんする科学と 個としての生」、「類と個の矛盾」) にかんする慎重な批判的考察が必要とされましょう。

その点に関連して、「ある時期、多くの優れた医師や医学者が、ナチズムに荷担したのはなぜか」と問い、「『科学性』と『人間性』にかんする確たる批判的洞察とスタンスを欠いていたから」と答えているヤスパースの科学論は、いまなお準拠すべき規範としての意義をそなえているように見受けられます。この点についてくわしくは、我田引水で恐縮ですが、同封文献「ヴェーバーの科学論ほか再考――福島原発事故を契機に」、『名古屋大学社会学論集』33 (2012)の注5をご参照ください。

  いま一点、地域精神医療にかんするイタリアの先進性に学ぼうと現地視察までなさって稿をまとめておられること自体は、優れた開放性と進取性の表れとして敬意を表しますが、小生の読み落としでなければ、そこにヴェーバーの比較宗教社会学を引用して「キリスト教」類型として位置づけるには、「数あるキリスト教国のなかでも、どうしてとくにイタリアが ?」という反問を避けられず、なんらかの「媒介要因」を考えての、さらなるご説明が必要かと思われます。

 

  以上、とりとめのない感想を連ねて恐縮ですが、これもひとえに、貴兄の大いなる事績に感嘆しての応答としてご寛容いただければ幸いです。

  では、厳寒の候、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。

敬具

2019124

折原浩