後期ヴェーバーにおける科学論の展開と比較歴史社会学の創成――尾中文哉論文への応答

折原

 

[本稿は、去る20151029日に恵送を受けた (本ホーム・ページ「恵贈著作」欄 52)Fumiya Onaka (尾中文哉), Max Weber and Comparison (Comparative Sociology 14, 2015, pp. 478-507) への応答として執筆された。ところが、その内容は、表題に掲げた「後期ヴェーバーにおける科学論の展開と比較歴史社会学の創成」を大づかみに捉える論考として、「比較歴史社会学研究会」第一回 (919日午後、早稲田大学早稲田キャンパスにて開催) の第二報告 (「社会科学の弁証法的発展を期して――ヴェーバーの比較歴史社会学とくに『宗教社会学』の研究に即して」、レジュメと資料を本ホーム・ページに収録)とくにその第二章 (同題) と重複し、「引用資料集1」の集約的解説ともなった。そこで、研究会報告を補足し、「比較歴史社会学」の意義を (ヴェーバーにおける創成に遡って) 広く知っていただく一助として、尾中氏の許諾をえて、推敲とわずかな改訂を加え、ここに掲載する。]

 

 

尾中文哉様

 

過日には、お便りとともに、ご論考“Max Weber and Comparison” のコピーをご恵送賜り、まことにありがとうございます。

 

早速拝読し、以下少々感想を述べさせていただきます。

まず、貴兄のご論考は、引用の英文を逐一独文原典と照合する、克明な文献実証を踏まえた、堅実な力作とお見受けしました。

拙論も引用してくださって、ありがとうございます。

 

ただ、貴兄がなぜ、よりによって「比較の方法」を主題に採り上げ、特定の術語の用例にかぎって、『経済と社会』の「旧稿」と「新稿」、ならびに「倫理論文」の『アルヒーフ』版と『宗教社会学論集』版との違いだけを問題とされるのか、ご論考全体を通して読者に伝えんとするメッセージは何か、といった肝心のところが、いまひとつはっきりしません。思うに、「broadだがthinな比較から入って、やはりdeepthickな比較に移っていくべきだ (それこそ、ヴェーバーから研究方法を引き継ぐ王道だ)」というご提言なのでしょうか [この点については、後刻、尾中氏から、「国際社会学会RC20 (比較社会学部会) のシンポジウム」における報告と論文寄稿の依頼を受けて執筆され、多々制約条件もあった旨、事情説明があった]

 

ここから先は、我田引水ともなって恐縮なのですが、小生は、ヴェーバーが、1902年の再出発から、1920年の予期しない急逝にいたるまで、何を目指して、「倫理論文」「客観性論文」から、一方では『経済と社会』へ、他方では『宗教社会学論集』へ、それぞれ別種の展開を企てたのか、その間の研究動機と思想の変化を、問題設定と科学方法論との両面にわたって、つとめてトータルにとらえ、特定の語・術語の用例・用法なり、比較という方法の意義なりも、そうした関連のなかで捉え返したい、と考えます。そのようにして、かれが目指した構想のうち、どこまでが実現され、どこからは成就されず、潜勢Potenzとして残されたのか、その到達点を突き止め、潜勢を引き継ぐことが、「学問としてヴェーバーを乗り越える」方途として重要と確信いたします。

 

ということは反面、自分の図式なり枠組なりを先に立て、そのかぎりでヴェーバーの叙述から任意に関連箇所を抜き出し、「独創的なヴェーバー像」を設え、その「限界」を論じ、「乗り越えた」つもりになる、といった類の先行説には、そのかぎり、やはり疑問なしとしません。小生自身は、「同じ轍」は踏むまい、むしろ「無心に」対象の全体に迫りたい、たとえそれが、学界やジャーナリズムや世間から「独創的研究」と認められなくとも構わない、と思ってやってきました。

そのため、「ヴェーバーの全体像」を踏まえた応用展開には乗り出せず、一ヴェーバー研究者として一生を終えそうですが、それはそれで、致し方ありません。自分の到達点を確認し、後事は後輩と後続世代に託すのみです。

 

 

そういう観点から、貴兄が採り上げておられるトピックスをざっと捉え返していってみましょう。そうしますと、まず、

(1)「倫理論文」は、病中のかれ自身を苦しめた「職業人しか完全な人間とは見ない欧米近代の人間観・価値観」をまさにそれゆえ問題とし、かれ自身の「価値理念」との関連づけ (「価値関係」的把握) にもとづいて、「職業義務観」を核心とする「資本主義の精神」を、かれ個人の任意の研究対象に据え、フランクリンとヤーコプ・フッガーとの比較 (任意の論点にかかわる、西洋1618世紀にかぎっての類例比較) も交えて、Time is money” などの「特性を把握」し、これを現実の因果連鎖の一環に見立てて、(無数にある前件中、これまた任意に選び出された「宗教」領域にかぎって)「カルヴァン派」「敬虔派」「メソディスト派」「洗礼派系諸ゼクテ」などの「禁欲的プロテスタンティズム」に「因果帰属」しようとしとりあえず双方の「選択的親和関係」究明した「現実科学」(後述)的労作、しかしやはり上記の意味で「任意の個別研究」といえましょう。

 

(2) この「因果帰属」については、ご指摘のとおり、フェリクス・ラハファールから (ヴェーバー自身が少々遅れて1906年の「マイヤー論文」で定式化した論理に照らしても「因果帰属」の「体をなしていない」という趣旨の) 批判を受けました。これにたいして、ヴェーバーは、近代資本主義と (禁欲的) プロテスタンティズムとの「因果関係」(因果連関の経験的妥当性) については、第一章第一節で、統計的データと (ペティやゴートハインらの) 先行説とを引用し (また、おそらくはマルクスの『経済学批判』ならびに『資本論』における指摘も念頭に置き)さしあたりは「既知の」前提として差し支えないと考え、自分はそのうえでなぜ、またどのように、当の因果関係が成り立つのか、行為当事者の主観的意味連関」に分け入り、この点にかぎっては「先人未踏」の究明を企てたのだ、と弁明しています。

さらに、かれにしてみれば、ひとつの新しい方法 (「理解科学」) を編み出すには、抽象的な方法論議をいくら重ねても駄目で、むしろ具体的な研究実践が先行する (「歩行の解剖学的原理を会得したうえで歩行を開始しようとする人はいないし、そんなことをすると、かえって『ぎこちなくなって』転んでしまう」)、「倫理論文」は自分にとってそういう試行錯誤だったのだ、といいたかったにちがいありません。ラハファールは、明証的理解よりも因果的説明のほうに力点を置いていますが、ヴェーバー自身はむしろ逆、というよりも、因果的説明に明証的理解を「繰り込む」ことこそが課題、と感得していたのでしょう。

  ちなみに、ヴェーバーは「倫理論文」を、「この純歴史的叙述diese rein historische Darstellung」と呼んで、「社会学」とは規定していません。そもそも、1904-05年段階では、かれの「社会学」は確立していません。「客観性論文」でも、みずからは「社会科学者」「社会経済学者」「歴史家」と名乗り出て、「社会学」は別人の営みとして「隣接科学のひとつ」に位置づけしていました。

 

(3) この点に関連して、ヴェーバーの科学方法論は、当時盛んだった哲学者や論理学者の議論とは性格を異にしています。たとえば、ヴィンデルバントによる「個性記述」と「法則定立」との区別、リッカートによる「個性化」的「文化 (ないし歴史) 科学」と「一般化」的「自然科学」との区別は、各個別科学を位置づける図式ないし準拠枠の提供に止まっていました。それにたいして、ヴェーバーは、当の区別を「現実 (ないし歴史) 科学」と「法則科学」というふうに呼び替えて受け入れ (「ロッシャー論文」冒頭)、①双方を、方法としては峻別しながら、どちらか一方に荷担し、跼蹐するのではなく、自身、一個の経験科学者として、具体的な研究に、②双方を共に駆使し、そのつど総合しようと企てます。そのように、先行諸家にたいするヴェーバーの関係は、つねに両義的」でした。

 

(4) ディルタイにたいしても、対象素材 (「精神生活」と「自然」) にもとづく「精神科学」と「自然科学」との区別は斥けますが、方法としては「精神科学」を「意味解明」を交える「理解科学」として捉え返し、この「理解科学」について、(「現実科学」としての)「歴史学」と (「法則科学」としての)「社会学」とを区別し、双方の総合」を、「歴史-社会学」「比較-歴史-社会学」として構想し、展開していこうとしていた、というふうに位置づけられましょう。

しかし、残念ながら、途上で急逝しました。ですから、「比較歴史社会学」は、かれにおいて完成した一部門ないし一領域ではなく、むしろ、かれによって開拓され、発展しかけた潜勢を継受する、われわれ自身の課題といったほうがよいかもしれません。

かれの学的生涯は、「社会学」に収斂して、意図どおり順調に完結した、というものではありません。したがって、急逝時にたまたま手がけていた「社会学的基礎諸概念soziologische Grundbegriffe(『経済と社会』の「第一部第一章」)が、かれの学問の総決算・集大成で、「比較歴史社会学」とは、そのように「大成」された「ヴェーバー社会学」の一(下位)部門である、というふうに位置づけることはできません。そういう見解はじつは、解釈者が学界の通念を対象に投影した臆断にすぎない、といっても過言ではありますまい。しかし、そちらのほうがむしろ、(「専門化」の「時流に棹さして」) 学界や世間には出回り、これを前提として、「社会学的基礎諸概念」が、あたかも「(一専門学科として確立した) 社会学の根本概念der Grundbegriff der Soziologie」「社会学の基礎概念」であるかのように、そう銘打って「一人歩き」しているのは、(ヴェーバーの学問総体を見渡し、とくに科学論の進展と「かれの社会学」の創成追思惟し、その方向における潜勢を追体験して引き継ごうとする者にとっては) 学問上残念な誤解、しかも矮小化というほかはありません。

 

(5) さて、「倫理論文」と同時期の「客観性論文」では、「われわれが携わろうとする社会科学Sozialwissenschaft」ないし「社会経済学Sozialökonomik」について、その方法上の段取りが、①基礎的「予備研究Vorarbeit」、②対象の「特性把握」、③当の特性の「因果帰属」、④「未来予知」に分けて示されますについては、「客観性論文」ではほとんど論じられていません)。そうしますと、「倫理論文」は、①は抜きにいきなり②に踏み込んで、「資本主義の精神」という対象の「特性」を論じ、同じくいきなり選定された③「禁欲的プロテスタンティズム」の「特性」に、(「明証的理解」をとおして)「因果帰属」しようとした「任意の個別研究」ということになりましょう。そのさい、②「資本主義の精神」の「特性」を、③数ある「職業-経済倫理」(つまり、西洋における縦の「伝統的 (フッガー) 対近代的 (フランクリン)以外にも、たとえば「インド文化圏」における「カースト的職業-経済倫理」など) と比較して(「職業-経済倫理」という特定の一領域にかぎって文化圏間比較)、その「禁欲的合理主義」を、西洋近代の「職業-経済倫理」のまさに性」として、「他にはなく、そこにしかないもの」として、客観的に論証する、少なくとも客観的議論を可能にするという(①を要する)論証は、しておりません。そのかぎり、「倫理論文」における「特性把握」は、いわば「独話論」的で、前提とされている「価値関係」をみずから相対化し、他との比較において客観化的に議論する(少なくともそうすることを可能ならしめようとする)「対話論」的「特性把握」にはいたっていなかった、その意味で「任意の個別研究」の域を出ない、というほかはありません。また、

 

(6) そもそも、「倫理論文」で、(「適合的因果連関」として) 架橋しようとする「職業-経済志操」と「宗教倫理」という二領域が、「人間のやることなすこと総体のなかで、いったいどういう位置を占めているのか、にかんする省察も、(「倫理論文」かぎりでは)少なくとも明示的には提出されていません。しかし、ヴェーバーのように、「わたしは人間である。したがって、人間のやることなすことで、わたしに無縁なものがあるとは思えない (homo sum; nihil humani a me alienum puto)」という関心と信条の持ち主が、その点に不満を感じなかったとは考えられません。こうした関心と信条が、後に、人間が生きる諸領域をつとめて網羅し、体系的に位置づけようとする、包括的な「社会学」として展開されることになります。

 

(7)「客観性論文」では、とくに③「因果帰属」が強調され、「現実科学」としての個性的因果連関の究明が課題とされますが、さりとて「反復的・一般的」な「法則的連関」にかんする「法則 () 的知識」が、貶価されたり、ましてや放棄されたりしているのではありません。むしろ「歴史家が的確な因果帰属に到達するためには必要不可欠」として、「法則 () 的知識」の意義が繰り返し強調されます。

ただ、そのさい、歴史家個人日常的な生活経験によって培われ、方法的に鍛えられた想像力(としてはたらく「法則 () 的知識」)に加えて、どの程度、個別諸科学の援助に頼るかは、ケース・バイ・ケースの問題である (ある軍隊の歴史上の敗北を、将兵の疲労に「因果帰属」するのに、栄養学や疲労生理学の知見に頼る必要はない) とされ、「法則 () 的知識」を、ひとつの専門学科 (たとえば「社会心理学」ないし「社会学」) として「開発」「整備」「体系化」していく方向は、まだ想到されてはいないようです。そもそも、「客観性論文」では、「因果帰属」がどういうふうになされるのか、その論理と手続きも、主題的に定立・定式化されてはいません。

 

(8) 1906年発表の「マイヤー論文」で、「因果帰属」の方法が、「比較実験」ないし「比較対象試験」の論理を、文字通りの「実験」は不可能な「歴史的状況」に適用する「思考実験」として、定式化されます。そのさい、その「因果帰属」に必要な知識が、歴史的状況にかかわる「史実的知識ontologisches Wissen」と、歴史家が胸中に蓄えている (「人間が通例、所与の類型的状況にどう類型的に反応するか」にかかわる)「法則 () 的知識nomologisches Wissen」とに二分され、じっさいの「因果帰属」にあたって、この二範疇の知識をどう結合するか、その手順が、マイヤー自身の古代史研究から実例を引いて、解説されます。すなわち、マイヤーは、「西洋における世俗的で自由な文化の発展」という「結果」を、「マラトン戦他におけるギリシャ勢の勝利」という「原因」に「因果帰属」しているのですが、そのさい、かりにペルシャ勢が勝利し、「ギリシャ勢の勝利」が「なかったものと考えるfortdenken」とすれば、ペルシャ帝国は、ユダヤ他の征服地域で「一般に」実施したのと同じように、ギリシャ土着の密儀や宗教を「大衆馴致手段Massendomestikationsmittel」として温存-助長し、その結果、「世俗的で自由な文化」は窒息させられた「公算」が高い (「客観的可能性」が大きい)ところが、じっさいにはそうならず、ギリシャの地に「世俗的で自由な文化」が花開き、これが後世のヨーロッパ文化に(キリスト教とともに、ふたつの支柱の一方として)寄与した、そのかぎりで「ギリシャ勢の勝利」に歴史的・因果的意義が認められる、というわけです。ちなみに、1920年の「基礎概念」では、この論理を「ある要因をなかったものと考える」「思考実験」というふうに、抽象的に要約していますが (清水幾太郎訳は「観念的に延長する」と不適訳)、もとよりそれが、1920年に「初めて定立された」というわけではありません。

 

(9)「マイヤー論文」では、(後には) 簡潔に「大衆馴致手段」と呼ばれる一項目も含む「法則 () 的知識」が、まだ「社会学」とは命名されていません。「社会学」が、「学知一領域として一専門学科として設定され、そのようなものとして意識的に開拓・展開・整備・整序・体系化されようとはしていないのです。むしろ「法則 () 的知識」は、市民常識の裡に無意識にも蓄えられていて、同じく無意識に日常実践に織り込まれており、そのようなものとして、「日常経験知」「一般経験則」あるいは「通俗心理学的vulgärpsychologisch知識」とも呼び替えられます。

それどころか、「因果帰属」そのものも、なにか「深遠な専門的技法」というようなものではなく、一般市民が日常的に(ただし無意識裡に)駆使している思考法にほかなりません。さればこそ、ヴェーバーは、(マイヤーからの実例以外に) つぎのような日常の具体例を添えます。すなわち、ある若い母親が、別人と喧嘩して苛立っていたばかりに、「悪さ」をした子どもについ手荒い「ビンタ」をくらわせてしまったところ、折悪しく夫が帰宅したというのです。すると、かの女は、「いまはたまたま、別人と喧嘩していたので、こんなことになってしまった。いつもの私なら、むしろ諄々と説諭していたでしょう」と弁明したのだそうです。これはじつは、かの女が、自分の「恒常的習癖」にかんする夫の「日常経験知」に訴えて、「ビンタ」という結果を、「別人との喧嘩」という例外的与件から生じた偶発事 (偶然的因果連関」) として説明し、さもなければ「心にしみ通る説諭」という「適合的因果連関」が生じていたにちがいないと(「論証」とはいえなくとも)事実上「因果帰属の論理」を使って主張していることになります。古代史の巨匠マイヤーも、ひとりの無名の若い母親も、まったく同じことだ、というのです。

 

(10) この点は、ヴェーバーの学問(社会学なり、比較歴史社会学なり)を、わたしたちがどういうふうに引き継いでいけばよいか、という問題にかかわる示唆を投げかけています。つまり、学問を「学知」に限定して、市民の日常生活や市民運動からは疎隔屹立し、なにか「学者」「専門家」として「一段上を行く」ような「錯覚」(「学者的傲慢akademische Arroganz」)に陥ってはならず、むしろ、市民が市民自身の良識や思考法を拡大・深化させて自覚的に駆使する方向に進む、その媒体として学知・専門知も活かそう、まさにヴェーバー自身においてそうであったように、ということです。

 

(11) ここで、小生のささやかな経験から、「因果帰属」における「史実的知識」と「法則 () 的知識」との結合の一具体例を引きましょう。

ご承知のとおり、「196869年東大紛争」(ここでは「紛争」としておきます) においては、全共闘と東大当局との折り合いがつかず、前者は徹底抗戦を唱え、後者は196911819日、安田講堂に8, 500人の機動隊を導入しました(1968617日の導入を第一次とすれば、第二次再導入)。「結果」としての、二日間にわたる「安田砦攻防戦」が、テレビに映し出され、その後も「東大紛争」といえばその場面が繰り返し流されるので、いまでは、なぜあんなことになったのか、争点が霞んでみえなくなっています。ところが、あの事件の現場で、遡って「原因」の真相を究明しますと、争点・分岐点は「文学部処分」問題にありました。全共闘は、「文処分白紙撤回」を「七項目要求」のひとつに掲げ、当局は「処分は当時の基準に照らして正当になされたから撤回できない」とつっぱね、この一項目のために「話し合い」が「物別れ」に終わり、196811月以後、対立が激化するばかりとなったのです。

ところで、当の「文処分問題」ですが、これは、1967104日の昼下がり、東大文学部の (教授会、助手会、および学友会の代表によって構成される)「協議会」の終了直後、一学生とT助教授との間に「摩擦」が起き、一学生が無期停学処分に付された件のことです。これについて、さまざまな経緯の後、1968121日に発表された文学部教授会名の文書には、つぎのような記載があります。「教授会側委員は教授会出席のため、一斉に退出しようとした。そのとき議場入口付近にいた『オブザーバー』学生はこの退席を阻止しようとして入口の扉付近に集まったが、教授会側委員は、T助教授、S教授、Ta教授、To教授の順で、学生たちをかきわけて扉外に出ようとしたこのとき一学生が、すでに扉外に出ていたT助教授のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせるという行為に出た」(N君の処分問題について」、p. 1)

この記述を「104日事件」にかんする「史実的知識」の開示と受け止め、当の「摩擦」に思いを馳せますと、一学生がなぜT助教授「のネクタイをつかみ、大声を発して罵詈雑言をあびせる」という (その態様は確かに感心できない) 行為におよんだのか、疑問なしとしません。というのも、この「史実的知識」に、「こういう (オブザーバーの入室を理由とする文協閉鎖の危機が迫っている) 状況では、学生は通例、次回『文協』の開催と日取りの確約を求めて、委員長に詰め寄る」という「法則 () 的知識」をリンクさせますと、委員長のTa教授がまだ扉内に残っているのに、一学生が、よりによって、すでに扉外に出ていた、平委員の助教授T氏に向かって「並外れて激しい」行為に出る、というのは、いかにも不自然で、その「動機」が「理解」できないのです。

そこで、T助教授が「扉外に出ようとした」時点と「すでに扉外に出ていたT助教授のネクタイを一学生がつかむ」時点との間に何が起きたのか、(この種の文書では伏せられがちな)双方の「行為連関」を再構成してみますと、扉外に出たT助教授が、教授会室に向かおうとはしたにせよ、「同僚の誼」(という「恒常的動機」) から、議場を振り返って見て、続いて出ようとしている同僚の退出空間を開けようと、最寄りの学生に背後から「手をかける」「公算」(客観的可能性) が、かなり大きい、と見られましょう。かりにそういう「先手」がなかったとしたら、平委員のT助教授ひとりに向けられた一学生の「並外れて激しい行為」は、まさにその「並外れて激しい」という特性にかけて「説明」がつきません。ところが、かりに「先手」があったとすると、一学生は、逆方向から押えられて、その手応えはそれだけ大きく、振り向きざま「並外れて激しく」抗議しても不思議はありません。そのかぎり、「退席阻止」として「処分理由」とされた一学生の行為は、じつは「退席阻止」ではなく、T助教授の『先手』にたいする『後手』抗議ではなかったか、と推認されましょう (全共闘は、「T助教授の先手は捨象し、学生の後手だけを取り出して処分するのは、一方的な身分差別だ」として「白紙撤回」を要求していたわけです)

さて、この「明証的解明」仮説は、「11819日機動隊導入」の後 (19699)、院生のイニシアティヴで、T 助教授と件の学生とが同席して開かれた「国文科討論集会」で検証され、その「経験的妥当性」が認められ、(当時の文学部長) 堀米庸三氏の公的発言によっても追認されました。ですから、文教授会と (196811月に登場し、加藤一郎法学部教授を総長代行とする) 東大当局は、当の「後手抗議」を「退席阻止」と取り違える事実誤認を犯し、これを温存したまま、機動隊を再導入して、学生の抗議を封殺し、秩序回復をはかったことになります。あれだけ深刻な人身傷害と多大な建物・器物損壊の犠牲を払った「大事件」も、原因に遡ってみますと、少なくとも発端は、この「些細な」事実誤認にすぎませんでした。学生たちは、この非を率直に認めようとはしないで「理性の府」を衒う教員(=科学者)の「知的不誠実」に怒って、「東大解体」「大学解体」を唱え、徹底抗戦に走ったのでした。東大の社会科学者たちは、「安全地帯に身を置く、他者批判の事後評論」には巧みな「口舌の雄」ではあっても、いざ自分の職場・現場で「卑近な利害」が絡んでくると、「不都合な事実」には口を噤み、文書の文面でも肝心の「先手」は捨象して糊塗し、学生から追及を受けると、言を左右にして逃げ回るばかりでした。それでも、機動隊の力によって「秩序が回復」され、大学が「正常化」されますと、ほとんどの人は、その既成事実に居直り、責任を「学生側の暴力」に転嫁し、自己正当化して、教員とくに社会科学者としての責任を直視しようとはしなくなりました。そこで小生は、いまでも機会あるごとに、この問題を蒸し返します。そのつど、ヴェーバーの学問をどういう方向で活かしていくか、にかんする決意表明でもあります。

 

(12)「マイヤー論文」に戻りますと、そこでヴェーバーは、(問題設定の一例としてではありますが)「『近代文化の総体、すなわちヨーロッパに『端を発する』われわれの文化、現在の段階におけるキリスト教的資本主義的法国家的文化が、きわめて多種多様な観点のもとに、文化的諸価値の巨大な糸玉として考察され、その因果的遡源が、中世をへて古代におよぶ」(WL: 25、盛岡訳: 163-64) との広大な研究構想を披瀝しています。つまり、「倫理論文」のような、もっぱら自分の価値理念に照らして「知るに値する」特定の研究対象を選び出し、やはり特定の前件を選んで「因果帰属」する、という「任意の個別研究」の域を越えて、人間・人間社会一般に「宗教・経済・政治」という三領域を措定し、それぞれについてヨーロッパの「特性」を(他になく、ここにしかないと想定される)「キリスト教・資本主義・法国家」に求め、非ヨーロッパ世界との領域類例比較も交えて、②それぞれの「特性」を客観的に規定し、対話議論の主題にするとともに、③それぞれを中世から古代にまで遡って「因果的に説明」しようというわけです。この構想が、(ヴェーバーも編集する『アルヒーフ』共通の課題としてのみでなく)かれ個人の研究課題としても、引き受けられ、『宗教社会学論集』「序文」冒頭に掲げられる (学問から芸術・コミュニケーション手段・政治形象をへて資本主義にいたる網羅的例示を踏まえての) 普遍史的・包括的問題設定に連なり、拡張されていきます。

 

(13) ところが、そうなるとこんどは、およそ「人間のやることなすこと」総体のなかで、「宗教」「経済」「政治」一般は、それぞれどういう領域をなし、どういう位置を占めているのか、また、それぞれの領域のなかで「キリスト教」「資本主義」「法国家」は、それぞれどういう特性をそなえた (宗教・経済・政治) 類型をなすのか、という問いに答える一般 (類型) 理論が必要となりましょう。「客観性論文」にいう(②「特性把握」に先立って必要な)①基礎的「予備研究」が、まさに基礎的「予備研究」として、要請されるわけです。

「社会学」は「類型と規則の学」として性格づけられますが、「マイヤー論文」の「法則 () 的知識」が、③「因果帰属」に必要な「経験規則の学」であるとすれば、もうひとつ、②「特性把握」に必要な「類型の学」が要請され、一般理論と類型の決疑論が設えられなければなりません。そこで、「類型の学」と「規則の学」との両面をそなえた、「人間は通例、ある(類型的)状況に、いかに(類型的に)反応するか」との問いに答える「法則科学」が、「社会学」として構築されます。ところが、この (ヴェーバーに固有の)「社会学」の基本的性格も、19世紀後半以降の「科学論争」における先行諸家との「両義的対決の所産として位置づけられなければなりません。

 

(14) ここで重要なのは、オーストリア「限界効用」学派のカール・メンガーです。かれは、グスタフ・シュモラーら「ドイツ歴史学派」にたいする批判(「社会科学方法論論争」)の一環として、つぎのように主張していました。

「自然現象の精密的な理論的解釈の帰着しなければならない最後の要素は、『原子』と『力』とである。ところが両者とも非経験的な性質のものである。われわれは『原子』というものをまるで思い浮かべることができないし、自然力は比喩としてしか思い浮かべることができないのであって、われわれはじっさいには現実の運動のわれわれには知られていない原因を自然力だと心得ているにすぎない。このことから、自然現象の精密的理解には、けっきょくのところ、まったく大変な困難が生まれる。だが、精密社会科学では、そうではない。ここでは、われわれの分析の最後の要素である人間諸個人とその諸努力die menschlichen Individuen und ihre Strebungenとは、経験的な性質をそなえており、したがって精密的な理論的社会科学は、精密的な自然科学とくらべてずっと有利である。じっさい、『自然認識の限界』とそこから自然現象の理論的理解にたいして生まれる困難は、社会現象の領域での精密的研究にはない。したがって、A・コントが、『社会』を現実的な有機体、しかも自然的有機体よりもいっそう複雑な有機体として理解し、その理論的解釈を、比較にならないほどずっと複雑で、ずっと困難な、科学的問題であるとしているとき、かれは重大な誤謬に陥っている。」(Menger, Carl, Untersuchungen über die Methode der Socialwissenschaften und der politischen Oekonomie insbesondere, Leipzig: Dunker & Humblot: 157 Anm. 51、福井幸治・吉田章三訳、吉田章三改訳『経済学の方法』1986、日本経済評論社: 145-46: 51)

  そのうえで、メンガーは、「社会制度 (形象・構成体)」が「目的意識的な立法によって実用主義的pragmatisch に設立される」ばかりでなく、歴史の経過のなかで「個人的な諸努力無反省的 unreflectirtな所産・「意図されない合成果としても成立する、という事実に注目し、そうした経過を「個人的な諸努力」から説明する「精密的exact」「原子論的atomistisch」方針を提起しました。たとえば、貨幣制度の発生は、誰かある個人が、直接交換の難点を、間接交換への突破口を開いて克服すると、この発明-革新-新機軸が、周囲の諸個人に模倣されて普及し、やがて慣習化する、というふうに(基本的にはガブリエル・タルドの「発明-模倣」図式に則った仕方で)説明できるし、集落・市場・言語・国家・法など、数多の「社会形象」の始源と変遷も、この方針で説明できるというのです (ちなみに、デュルケームは、「集合表象」のある内容が、「なぜかくなって、他とはならなかったのか」を「集合表象」から出発して説明するのは困難、と「知的に誠実に」認めていました)

 

(15) さて、ヴェーバーは、メンガーのこの画期的主張を、基本的には受け入れます。「他人の精神生活の原理的な解明不可能性」というリッカートのテーゼにたいして、「われわれは、社会の科学Gesellschaftswissenschaftの領域では、社会がそれによって構成され、社会的諸関係のすべての糸がそこを通り抜けなければならないもっとも微細な部分の内側das Innere der »kleinsten Teile« を覗き込むことができる、という幸運な状態にあるから、ほんとうのところ事態は逆である、という異論が、すでにメンガーによって、またその後多くの人々によって唱えられている」(WL: 35、松井訳Ⅰ: 74-75) と述べ、「いかなる種類の人間行為および人間の表出の経過も有意味的な解明eine sinnvolle Deutungが可能である」(WL: 12-13, 松井訳Ⅰ: 31-32) という基本線に沿って、「理解科学」を構築していきます。かれの「社会学」はひとまずは、メンガー流の「精密的」「原子論的」方針を引き継いで、「社会」領域に適用-展開した、「方法論的個人主義」の「社会学」といえましょう。

 

(16) ヴェーバーはまず、「民族」(「国家」「封建制」「階級」「大学」その他、何であれ)といった「社会形象・社会構成体」を、なにか「集合的主体」として「実体化」し、それだけ因果分析を遮る、「ドイツ歴史学派」流出論」を、メンガーの線に沿って批判し、ひとまずは「精密的」・「原子論的」説明方針を採用し、「個人の行為を起点に据えます。

ところが、「ドイツ歴史学派」ないし「マルクスからロッシャーにいたる社会経済科学」のほうも、「社会形象 (社会構成体)」を包括的に捉えようとする「総体志向」はそなえており、ヴェーバーも、それはそれとして長所と認め、救い出し、引き継ぎます。ただし、それと同時に、「社会形象」も「諸個人の行為」を起点に、その協働連関態」として動態的に捉え返し構成します。双方にたいするヴェーバーの関係は、あくまで両義的」です。

 

(17) 議論が錯綜してきましたので、ここでちょっと結論を先取りして、見通しを立てますと、「諸個人の行為」への還元観察者視点と行為者視点 (研究者視点と当事者視点) との区別を前提とし、当の「諸個人の行為」の「意味」を、「解明可能から不可能へのスペクトル的連続態」に見立て、「理解しやすい」「合理性」(もっとも合理的に理解できる「客観的整合合理性」と「主観的目的合理性」) の側から、「合理的なもの」と「(合理的ではないけれども) 解明できるもの」を、そのつど「理念型」的な「索出手段」とみなし、「理解できない」「非合理的事実性の極に向けて、一歩一歩進めていく、そういう「理解科学」の方法手順を、一般的に解説したのが、「カテゴリー論文」の前半 (§§)この方法を「社会=社会関係」の領域に適用するための「基礎諸範疇」を設定しているのが、同論文の後半 (§§Ⅳ~Ⅶ)そうした「基礎諸範疇」を具体的に適用展開して、もっとも身近な「家ゲマインシャフト」に始まる諸「仲間関係」、もっとも合理的な「官僚制」に始まる諸「支配関係」という「普遍的な」(つまり、西洋のみでなく他の文化圏にもいきわたり、比較によって西洋の「特性」を類型的に抽出できるような、そういう)「社会諸形象」を (主要な領域については「行為の分節化」別に、「宗教社会学」「法社会学」などの「連字符社会学」として)、じっさいに把握・構成してみせたのが『経済と社会』の「旧稿」、というふうに位置づけられます。このうち、「カテゴリー論文」と「旧稿」とのこうした不可分の関係を切断して、前者だけを採り上げて「ヴェーバーの方法」を論ずると、「全体論」の側面が視野に入らないために、「原子論」の「方法論的個人主義者ヴェーバー」という虚像が生まれます。

 

(18) さて、ヴェーバーは、基本的にはメンガーの批判を受け入れているのですが、それと同時に他方では「合理性」の実体化も避け、メンガー自身の精密理論を「経済的に合理的な理念型」として捉え返し相対化します。まさにそうして「合理的理念型」を「索出手段として活かすことにより、かえってメンガーの方針を、さほど「合理的ではない」諸領域にも (つまり人間協働生活一般に) 広く転用・展開していくことができました。ちなみに、ヴェーバーが、メンガーに代わる説明方針を、一般理論的に定式化している箇所としては、『経済と社会』(旧稿)の「概念的導入部」における「当為教唆Eingebung」と「感情移入Einfühlung [模範の追体験]」による「革新Neuerung」の二類型論、「法社会学」章における「発明Erfindung」の付加と、「古代ユダヤ教」中の適用例の解説 (RS: 87-89, 内田芳明、上: 206-09) が重要です。後者は、表向きは「唯物史観」批判ですが、じつは「返す刀メンガーを批判していると読めます。

 

(19) そのように、ヴェーバーは、基本的にはメンガーの方針を受け入れ、「個人の行為」を起点に据え、「合理的なもの」の側から「意味の解明」を進める「理解科学」の方法を定立するのですが、そこに到達するまでには、「個人は『意思の自由』をそなえ、そこにこそ『人格の尊厳』が宿る、『自由な行為』は、そのつど意思の力で因果律を出し抜くので、『合理的解明』は不可能である」というような (トライチュケら、広く「ドイツ・ロマン主義」に行き渡った) 非合理的人間観と対決しなければなりませんでした。この点についても、すでに「マイヤー論文」で、つぎのとおり明快に述べています。

「たとえどのように理解されていようと、意欲の『自由』と行為の『非合理性』とは同じものであるとか、行為の非合理性の原因は意欲の自由にあるとか、そのように仮定することの誤りは、なんといってもハッキリしている。人間の行為でとくに『計算できない』のは、狂人の特権である。狂人の行為は、『盲目の自然力』が計算できないのと同様に、計算できないが、『盲目の自然力』以上に計算できない、というわけではない [狂人の行為は、明証的に理解はできないが、精神病理学は、理解できない行動についても、その規則性を観察し、「法則 () 的知識」を集積して、ある程度の計算-予測は立てることができる]

それとは逆に、最高度の経験的『自由感情』をともなうのは、合理的に実行した――すなわち、物理的ないし心理的な『強制』や熱情的『感情』に攪乱されることなく、また、判断の明晰さが『偶然』曇らされることもなく実行した――、とわれわれが意識するような行為にほかならない。すなわち、明瞭に意識したひとつの『目的』を、われわれの知識に応じて、つまり経験の規則に照らして、もっとも適合的な『手段』を採用して、追求するような [後に「目的合理的行為」として概念構成され、命名される] 行為である。

とはいえ、かりに歴史Geschichteが、この意味で『自由な』、つまり合理的な行為にのみかかわり合うのであれば、その課題ははてしなく容易になろう。というのも、適用された手段から、行為者の目的も『動機』も『格率Maxime』も一義的に推論できようし、行為において『即人的なものdas »Persönliche« (この多義的な語の植物的な意味における) を構成するすべての非合理性は排除されるであろう。厳密に目的論的に経過する行為はすべて、目的にもっとも適した『手段』を指示する経験規則の適用であるから、歴史も、そうした規則の適用以外のなにものでもない、ということになろう [ここに、メンガーの理論図式を『理念型』として捉え返す注記]。ところが、人間の行為は、そのようにもっぱら合理的に解釈できるようなものではなく、事態にかんする非合理的な先入観や、思い違いや、誤り [客観的非合理性] ばかりでなく、『気質』や『気分』や『情動』[主観的非合理性] も、かれの『自由』を曇らせており、したがって、人間の行為にも、程度はさまざまでも、『自然事象』の経験的『無意味さSinnlosigkeit』に通じる面がある。まさにこうした事情が、純然たる実用教訓的歴史学を不可能にしている。しかしながら、この種の非合理性を、人間の行為は、まさしく個々の自然現象と分かち合っている。したがって歴史家が、人間行為の『非合理性』を、歴史的連関の解釈をかき乱す契機として語る場合、歴史家はまさにそのさい、歴史的-経験的行為を、自然における事象とではなく、純粋に合理的な、すなわち、目的を定め、その目的を達成する適合的手段に徹頭徹尾準拠している行為の理想像Ideal  [理念型としての「目的合理的行為」] と比較しているのである」WL: 226-27、盛岡訳: 117-19、なお、この論点については、「クニース論文Ⅰ」[WL: 64-69, 松井訳Ⅰ: 133-43] と「同Ⅱ」[WL: 132-37, 松井訳Ⅱ: 128-38] も参照)

つまりヴェーバーは、「人間は一般に合理的か、非合理的か」というふうに二者択一的に問題を立て、どちらかに与して、一方的に決めてかかる、というのではなく、双方の流動的相互移行関係・スペクトル状分布を考え、そのうえで「合理的」契機に着目して、その極から「非合理性」の対極へと、「解明」を進めていこうとします。「旧稿」の「家ゲマインシャフト」から「近隣-」「氏族-」「種族-」「宗教-」という配列は、「合理化」の度合い順に配列されているのではなく、それとは別に、「社会関係の『合理化』の尺度」を (後出 (20) のとおり)四基礎範疇として用意したうえで、普遍的なゲマインシャフトについて、そのつど即対象的に合理化の契機を探り、たとえば「家ゲマインシャフト」ならば、一方では北イタリアにおける「経営」への脱皮 (「合理化」)、他方では「オイコス」「家産制支配」への拡張・権威的 (非合理的) 再編成、というような類型を設定していきます。

「合理性にたいしてcynicalな態度をとる」あるいは「そうした態度に転ずる」という観察は、どういうことか、小生には理解できません。

 

(20) ところが、「個人の『有意味』『行為』を起点に据え、そこから『社会形象』も再構成して」「原子論と全体論を総合する」ような「ヴェーバー社会学」に到達するには、いまひとつ、(先行学として発達し、ヴェーバー自身も出発点とした)法学との対決が必要とされました。法学は、「規範学Dogmatik」のカテゴリーを「経験科学empirische Wissenschaft」に持ち込んだり、「諸行為の協働連関態」としての「団体」を「法人格」として「実体化」したり、別種の混乱をもたらしかねないからです。そこで、1907年の「シュタムラー論文」が重要となります。ヴェーバー自身、「カテゴリー論文」の冒頭で、「(「社会生活」概念を構成しようと意図した) シュタムラーが本来いうべきであったはずのことを、ここで自分が引き出して展開する」という趣旨を述べているのですが、その関連と意味は、これまで立ち入っては究明されませんでした。

シュタムラーは、1.「自然」と「人間の社会生活soziales Leben der Menschenとの対象的区別にもとづいて、「自然科学」と「社会科学」との「二項対立」を設定し、2.「人間の社会生活」のメルクマールを「外的に規制された協働äußerlich geregeltes Zusammenwirken」に求め、これを、3.人間の社会生活」の普遍的「形式Form」とみなして、 (経済などの)「質料Materie」に対置しました (Wirtschaft und Recht nach der materialistischen Geschichtsauffassung: Eine sozialphilosophische Untersuchung, 2. Aufl. 1906, Leipzig: Veit & Comp.: 75-158)

それにたいして、ヴェーバーは、

1科学」概念を再検討して、「客観的意味」について「理念ないし当為としての妥当性」を問う「規範学」と、「主観的意味」について「存在と因果的意義」を問う「経験科学」とを区別し、そのうえで、

2’ 「規則Regel」概念を吟味し、a. 規範学の対象としての「規範Norm」ないし「命令Imperativ」、b. 経験科学の対象としての「経験的規則性empirische Regelmäßigkeitenに加えc. 行為の因果的一契機(所産即規定根拠)として、(「適合的」には「経験的規則性」を引き起こす)「格率Maxime」=「規範の経験的表象」 (他に「目的論的格率」を考える場合には「規範的格率」) というカテゴリーを定立し (WL: 322-45, 松井訳: 34-53)

3’「法」ないし「慣習律」も、「社会生活」の「形式」ではなく、「質料」の一部 (「規範的格率」) として、因果的一契機をなす、と見ました。

ヴェーバーは、こうした区別にもとづき、シュタムラーが「制定規則によって規制された協働」(社会生活) と「規制のない併存 (諸個人の孤立的棲息)(自然) との (論理上は非和解的な) 二項対立を、経験的現実に持ち込み、後者から前者への「移行」は「絶対に不可能」で、両者間に「第三の範疇」が存立する余地はない、と説いた (Wirtschaft und Recht : 106-07) のにたいして、これを「概念と現実」「規範学と経験科学」との混同として斥け、経験的現実においては、両対極間に流動的な相互移行関係」が成り立っており、「第三の範疇」も存立している、と説きます。

そして、この見地から、(社会科学の対象として「社会生活」概念の確立を目指した) シュタムラーが、本来 (混同に陥らなければ)「いいえたhätte meinen können(WL: 368) し、「いうべきであったhätte meinen sollen(WL: 427, 海老原・中野訳: 6) はずのこととして、(「シュタムラー論文」「補遺範疇論文後半で) 「社会生活の『合理化』にかかわる四基礎範疇」、すなわち「経験的規則性と格率」の「四階梯」(「格率のない状態」-「習わしGebrauch=習俗Sitte」-「慣習律Konvention」-「制定律Satzung)また、これに準じて一般的に、「ゲマインシャフト行為-関係の四階梯」(❶「互いに意味関係をもたない複数個人の集群Gruppe」-❷「意味関係はあるが無定型のゲマインシャフト行為-関係」-❸「非制定秩序に準拠する諒解(的ゲマインシャフト)行為-関係」、❹「制定秩序に準拠するゲゼルシャフト(的ゲマインシャフト)行為-関係)を、流動的相互移行関係指標(「類的理念型gattungsmäßige Idealtypen」)として定立し、どんな個別事例も、この尺度上に位置づける、概念的準備を整えるわけです。

そのようにして、総論的には「社会関係」一般の合理化」、また各論 ( 「連字符社会学」としての「法社会学」) 的には、当初にはもっぱら「神の賜物」としてあった「制定律」が、「人間の創作物」として再編成される経緯 (「法預言者」による「カリスマ的」「神聖法」「創造」から、「法名望家」「法律専門家」による「世俗的」「実定法」の「目的意識的」「定立」と「法典編纂」へ、という「固有法則的」発展) を、普遍史的に展望する視野を開きます。

批判相手のシュタムラーが「現実と概念との混同に陥ったために、みずからは実現し損ねていた」意図を、当の混同を暴露して棄却することにより、相手に代わって実現する「産婆術としての批判」を実施した一例といえましょう。

 

(21) このように、ヴェーバーは、先行諸家との「両義的 (否定的-肯定的)」対決を重ねに重ね、漸く「カテゴリー論文」で、科学論から経験科学に転じ、そこで「理解科学」を方法的に基礎づけ、「法則科学」としての「理解社会学」(「一般社会学」) の「基礎範疇」を設定し、この「基礎範疇」を「旧稿具体的に展開し始めました。別言すれば、「旧稿」では、「普遍的な種類の」社会諸形象(ですからゲマインシャフト諸形象)を、「仲間関係」としての「家ゲマインシャフト」から「近隣-」、「氏族-」、「種族-」、「宗教-」、「市場-」、「政治-」、「法-」へ、「支配関係」としての「官僚制」、「家父長制」、「家産制(家父長制的家産制と身分的家産制=封建制)」、「家産国家的政治形象」、「身分制 (等族) 国家」、「カリスマとその日常化形象」「呪術カリスマの『発展形態』としての『教権』と、軍事カリスマからの『俗権』との対抗的相補関係(神政政治-教権制-皇帝教皇主義)」「都市」(とくに「西洋-中世-内陸都市」類型)、「近代国家」、「政党」へ、というふうに、ひとつひとつ採り上げ、四階梯尺度を適用して、それぞれの合理化の契機と度合いを探索していきます。これが、(ヴェーバー「理解科学」の「法則科学」的分肢ないし「法則科学」的部門としての) ヴェーバー「一般社会学」です。

 

(22) ここで、「客観性論文」における「社会科学」一般の「方法的段取り」設定に戻って位置づけますと、① 基礎的「予備研究」がなされて、② (確かに研究者の「価値理念」に関係づけて取り出される) 研究対象の「特性」も、もはや「宙に浮いたまま」ではなく、いまや「人間のやることなすことすべて」にかかわる「一般社会学体系」のなかに、類型論的に位置づけられ、「対話論」的検証が可能となります。そういう「類型的特性」を しかるべき「類型的与件」に的確に「因果帰属」するのに必要な「法則 () 的知識」も、「概念用具の道具箱」として整備され、決疑論的に体系化されつつありました。④「未来予知」については、後段 (32) (33) で採り上げます。

 

(23)「カテゴリー論文」のこの社会学的基礎範疇が、「基礎概念」でどう改訂-変更されたのか、『経済と社会』テクストの先行二編纂が、この変更を無視して、読者を (『経済と社会』「第一部第一章・基礎概念」に提示された、変更後の基礎範疇で、変更前の「旧稿」を読むように) 誤導した結果、いかなる混同と曖昧が生じていたか、第三次編纂の『全集』版が、いかにこの初歩的な誤りを正さなかったか、それに反して、「カテゴリー論文」の基礎範疇で「旧稿」を正しく(整合合理的に)読むと、どう読めるか、については、最近著『日独ヴェーバー論争』で論じていますので、よろしかったらご参照ください。この問題点にかんするかぎり、「ヴェーバー研究」の (母国ドイツも含む) 国際水準は、「襁褓がとれない」段階にあります。

 

(24) それにしても(「カテゴリー論文」から「基礎概念」にかけて、「ゲマインシャフト」や「ゲゼルシャフト」といった「社会学的基礎範疇」の術語がどう変更されたのか、「ゲゼルシャフト」の上位概念だった「ゲマインシャフト」が、テンニエス的・学界通念的な概念に変わる、というような事実を、逐一追跡して、混同と誤読を正す課題は、いちおう果たせたとして)、ヴェーバーがそもそもなぜどういう動機で改訂を思い立ったのか、他方、改訂の結果、かれの社会学的思考の性格が、なにか根本的に変わったのか、変わったとすれば、どう変わったのか、そうした変化が、われわれにとってはどういう意味を帯びてくるか、「基礎概念」をかれの学問総体の最終的到達点と評価してよいのか、評価を改めるに足るほどの改訂だったのか、というような一連の問題が残されましょう。この問題については、小生も (「どう改訂されたのか、事実を確認して、誤読を正すことが先決」と考えて) まだ十分には考え抜いていないのですが、暫定的所見はつぎのとおりです。

「基礎概念」の冒頭注で、改訂・変更を予告した箇所を、もう一度確認しますと、「『ロゴス』第四巻の論文[「カテゴリー論文」のこと]に比べて、ここではできるだけ理解しやすいようにum möglichst verständlich zu sein術語をできるだけ簡単にし、したがって幾重にも変更している。そのさい、無制限な通俗化unbedingte Populariseirungへの要求は、もとより、最大限に概念を明確にしようとする [ことgrößtmögliche Begriffsschärfe への] 要求とかならずしも一致しないであろう。そういう場合には、前者は譲歩されなければならない」WuG: 1、阿閉・内藤訳: 5)。

  では、ヴェーバーが、「できるだけ理解しやすいように」というこの改訂を決意したとき、かれは、どんな状況に置かれていたのでしょうか。かれは、1918年、ヴィーン大学で試験的に教鞭を執った後、1919年の夏学期から、(かれに社会学教授の地位を提供しようとするボン大学とミュンヘン大学とのうち、後者を選び) 夏学期には講義一、演習一という好条件で、大学に復職しました。そこで、「カテゴリー論文」の基礎範疇を、「社会学のもっとも一般的な範疇」と題して講義したのでしょう。

 この経験から、一方では、「自分の社会学的範疇論を繰り返し口頭で述べなければならないために、その表現がますます簡潔的確になっていくことに気がついた」(マリアンネ・ヴェーバーの『伝記』Lebensbild: 714、大久保和郎訳: 496) と伝えられています。しかしそれでも、「かれの範疇論が難しすぎるという学生たちにせがまれて」、冬学期には「一般社会・経済史の概要を講義する」ことに決め、「取り扱う範囲の途方もなく広い、新しい講義を始めた」(Lb.: 722: 大久保訳: 501) とのことです。

 それ以前に、ヴェーバーは、第一次世界大戦に対処して、早くから政治評論の筆をとり、状況への発言を繰り返していましたが、ドイツが敗北し、ベルサイユに赴いての講和条件の緩和策も思うにまかせず、ドイツ民主党からの立候補の順位も下げられて、最終的に(政治家としての)政治活動に見切りをつけました。「政治と学問」との狭間における長年の動揺にも決着をつけて、大学に復職し、戦後ドイツの学問的文化的復興を、学生とともに担っていこうとしたのです。したがって、前線から復員してきたばかりの聴講生による「難しすぎる」という苦情を、それだけ重く受け止め、なんとか「分かりやすくする」方途を講じたにちがいありません。

 それでは、「カテゴリー論文」の範疇論を「難しくしている」要因は何でしょうか。行為の「意味」解明と「協働行為連関」の再構成が、そのつど (たとえば、「客観的整合合理性」と「主観的目的合理性」というように)「研究者 (観察者) にとって」と「当事者 (行為者) にとって」というふうに、ふたつの視点からなされ、それだけ叙述を複雑にしている、という事情が挙げられましょう。そこで(聴講生はさしあたり「研究者」ではないのですから)、むしろ視点を一元化して、たとえば行為の基礎範疇も「目的合理的」「価値合理的」「情動的」「伝統的」というように、もっぱら行為対象の性格にかかわる対象的カテゴリーにまとめてしまえば、それだけ「すっきり」して、「分かりやすく」なること必定でしょう。ただし、それだけ静態的な図式化に傾き、「もっとも合理的なもの」に着目して、「客観的に整合合理的かつ主観的に目的合理的な」「整合型Richtigkeitstypus」から入り、「目的合理的行為」-「主観的に目的合理的ではないが、意味は理解できる行為」-「意味を理解できない事実的所与」へと、「非合理的なもの」をつぎつぎに索出していく「解明」的思考の動態は、それだけ見失われるおそれなしとしません。ただし、そこのところは、聴講生に「行為の四類型」というような基礎カテゴリーを、まずは的確に把握してもらって、そのあと、歴史的な適用例に即して、動態的運用のスタンスを育成することができるはずですし、そうしようと考えていたのではないか、と思われます。

また、「カテゴリー論文」から「基礎概念」への基礎範疇の改訂に限定せず、「旧稿」から「改訂稿」への内容上の全変化に視野を広げてみますと、「旧稿」では、たとえば「宗教社会学」章で、行為一般の一分節化としての「宗教的行為」領域について、「主観的意味において(霊魂・神々・悪霊などの)超感性的諸力と人間との関係の秩序づけに準拠する行為」と概念規定したうえ、呪術と宗教、原生的(自然主義的)呪術と象徴呪術、宗教生活の担い手としての呪術師・祭司・預言者・平信徒、「儀礼宗教性」「聖礼典宗教性」「救済宗教性」「教団宗教性」「救世主宗教性」「信仰宗教性」というような一般-類型概念が、諸文化圏に跨がる類例比較によって抽出され、定式化されます。そこでは、古今東西の厖大な具体的諸事例から反復的規則性ないし一般的傾向性を抽出していく、具体的事実との格闘が、そのつど展開されています。それにたいして、「基礎概念」は、「旧稿」でそのようにして獲得され、一般的に定式化された諸規則を、網羅しながらも決疑論的(類型カタログ式)に体系化し、簡潔にまとめて提供することが主眼とされ、具体的事例は、場合によっては決疑論の項目に例証として添えられるだけです。ただ、それだけ、一般的ないし類型的法則性が、コンパクトに集約され、体系的に提示されて、聴講生にとっては展望しやすくなり、適用のつど、ヴェーバーの解説を聴く(いまとなっては、読者が、「旧稿」に遡って、そこには出ている、一般法則が定立されてきた具体的事例をもう一度参照して、追思惟・再把握する)ことも可能です。その意味では、確かに「すっきりし、分かりやすくなっている」といえましょう。

 

(25) 以上、ヴェーバーの問題設定と方法論の展開を、190405年の「倫理論文」「客観性論文」段階から、1920年の「基礎概念」にいたるまで、大まかに辿ってみました。それでは、「マイヤー論文」に示された「近代ヨーロッパのキリスト教的・資本主義的・法国家的な文化総体の歴史的因果帰属」という包括的問題設定は、(ヴェーバー自身の研究構想であったとして、その構想が)1920年の予期しなかった急逝時に、(「客観性論文」で設定されている「社会科学」一般の)①「基礎的予備研究」、②「特性把握」、③「因果帰属」、④「未来予知」のうち、どこまでどのように実現-達成されていたのでしょうか。

なるほど、「キリスト教的・資本主義的・法国家的」という「特性」を、各領域の類例比較によって、「西洋近代にのみあり、他にはない」類型的「特性」として把握し、位置づける①「基礎的予備研究」、それにもとづく②「特性把握」は、いっそう精密な「一般社会学」によって、ほぼ実現され、(「旧稿」から「改訂稿」にかけて、決疑論的編成をいっそう強化され、展望と位置づけが素早くできるように) 整備されました。しかし、③「因果帰属」はどうか、と問いますと、それに不可欠な手段としての「法則(論)的知識」が、同じく「一般社会学」の「道具箱」に編成されて、適用を待ってはいました。しかし、じっさいに適用されたのでしょうか。適用されたとすれば、どこまででしょうか。

 

(26) 1920年に執筆された『宗教社会学論集』の「序言」冒頭では、「近代ヨーロッパのキリスト教的・資本主義的・法国家的な文化総体の歴史的因果帰属」という1906年「マイヤー論文」の包括的問題設定が、その間の社会学的な領域別文化圏比較の厖大な成果を集約して、いっそう拡張され、また精密に、再設定されています。学問・芸術・コミュニケーション手段・政治・(最後に) 経済といった領域ごとに、各文化圏の所産が網羅的に類例比較され、西洋とくに近代西洋の文化諸形象一般の「特性」が、独自の「合理主義」に求められます。

そのさい、「合理主義」という語の多義性が、人生のさまざまな領域は、さまざまな「究極的観点ないし目標のもとに」「合理化」されうる、ひとつの観点からみて「合理的」なものは、他の観点からみると「非合理的」でありうる、と述べて、強調されます。ただし、そうだからこそ、「合理化」「合理主義」のそうした多義性をいわば逆手にとって、「あらゆる文化圏の文化史上の差異を特徴づけるものは、なによりもまず、どのような分野が、どのような方向に合理化されたのかにある」(GAzRS: 12、大塚・生松訳: 23は同義反復の誤訳) という事情に着目し、巨視的な文化圏比較においてもやはり「解明-理解」が容易な「合理的なものから入って、直接には捉えにくい「非合理的諸要素」をも索出し、そのようにして各文化圏それぞれの「特性」を突き止め、「因果帰属」しようとする方法(の堅持)が語り出されてもいます。そのようにして、「さしあたりは、またもや西洋、なかんずく近代西洋における合理主義の独自な特性を認識し、その成立のあとを解明する」GAzRS: 12、大塚・生松訳: 23、つまり「因果帰属」する、という課題が設定されるわけです。

 

(28) ところが、ヴェーバーは、それにつづけてこう明記します。「そうした解明の試みはすべて、経済のもつ土台としての意義に応じて、なによりもまず経済的諸条件を考慮するものでなければならない。しかしまた、それについては逆の因果連関も見逃されたままであってはならない。というのも、経済上の合理主義は、それが成立するさいには、合理的な技術や合理的な法ばかりではなく、およそ、特定の種類の実践的-合理的な生き方Lebensführung一般への人間の能力や素質にも依存しているからである。こうした能力や素質が、なんらかの心的な障碍によって発達を妨げられる場合には、経済における合理的な生き方の発達も、重大な内面的抵抗に遭遇せざるをえなかった。ことろで、生き方の形成にとってもっとも重要な要因は、過去においてはつねに呪術的および宗教的な諸力であり、それらへの信仰にもとづく倫理的義務の観念であった。[いったん『アルヒーフ』に発表され] 補正されて以下に収録される諸論文は、まさにそうした事柄について論ずるものである」(GAzRS: 12、大塚・生松訳: 23)。こうして、『宗教社会学論集』における当面の研究の焦点・主題が、生き方の形成にとって最重要な「宗教的諸力への信仰に根ざす義務観念」すなわち「宗教-宗教倫理」に絞られます。

しかし、それでは、「経済的諸条件」のほうは、どうなのでしょうか。「すでに自分の研究も済んでいるので、もはや採り上げる必要はない」というのでしょうか、それとも、「それはともかく」と留保して、「見逃されたままの逆の因果連関を先に採り上げよう」というのでしょうか。

この点にかんして、「倫理論文」初版の末尾注には、「今後の研究計画」が表明され、その最後に、「我々はまた、プロテスタントの禁欲そのものが、その生成と特性において社会の文化的諸条件――わけても経済的条件から、どの様に影響されたかを瞭らかにしなければならない」(梶山訳・安藤編: 359と明記されていました。そして、この文言は『論集』収録時にも削除されずに残されています。じっさいにも、その側面の研究は、『宗教社会学論集』に収録された諸論文でも、未着手だったのですから、ヴェーバーもそう自覚し、将来の課題と考えていたことになりましょう。

 

(29)『論集』「序言」からの上記引用につづけては、『論集』に収録される諸論文にかんする簡単な紹介があります。「倫理論文」と「ゼクテ論文」では、「因果関係のただひとつの側面しか追究されていない」が、「その後につづく『世界宗教の経済倫理』にかんする諸論文では、もっとも重要な文化諸宗教とその環境をなす経済および社会層分化との関係を見渡しながら、つぎに分析されるべき西洋における発展との比較のための問題点die Vergleichspunkte mit der weiterhin zu analysierenden okzidentalen Entwicklungを見出すのに――そうしたことに必要なかぎりにおいてではあるが、因果関係のふたつの側面の双方を追究しようと試みる」というのです。「それというのも、そのようにしてはじめて、他の経済倫理とは異なって西洋の宗教的経済倫理にのみ固有の諸要素についての、多少とも一義的な因果帰属をおこなうことができるからである」(GAzRS: 12-13、大塚・生松訳: 24) と述べています。

この文言は、この『宗教社会学論集』三巻の続篇ないしその後に、「西洋における発展の分析」にいよいよ、あるいは徐々に、正面から取り組む研究が予定されており、そこでは、西洋の宗教倫理-経済倫理にかんする一義的な「因果帰属」が予告されている、というふうにも読むことができます。急逝直前にこれを書いているヴェーバーは、56歳の「働き盛り」でした。

 

(30) 上記の文言につづけては、こうあります。「それゆえ、これら [「世界宗教の経済倫理」] の諸論文では、きわめてさまざまなことが論じられてはいても、文化の包括的分析だなどというつもりはない。むしろそれぞれの文化領域 [文化圏] について、過去にせよ現在にせよ、西洋の文化発展とは対照的であるようなものが、故意に強調されている。したがって、このような視点から西洋の発展を叙述するさいに重要だと思われるものにのみ、あくまで目が向けられている。そうした目的のためには、他のやり方では、どうしてもうまくいかないように思われたからである」(GAzRS: 13、大塚・生松訳: 24)

  とすると、「世界宗教の経済倫理」には、ふたつの読み方が可能になります。ひとつは、ヴェーバーの言にもかかわらず、たとえば「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」を、ひとまずはそれぞれ中国文化圏、インド文化圏の「文化総体の包括的分析」の試みとして読解し、専門家の評価とさらなる研究に委ねる、という読み方。いまひとつは、「西洋の文化発展とは対照的なもの」の摘出-提示という趣旨に沿って、いわば「裏読み」し、かれの脳裏にあり、「対照項」として間接的に表明されている「西洋的発展の輪郭と (分岐の) 要所」を浮き彫りにしていく、という読み方です。この双方を、拙著『マックス・ヴェーバーとアジア』2010年、平凡社)で企てておりますので、よろしかったら、ご一読ください。

 

31)いずれにせよ、かれが急逝時に公刊しようとしていた『経済と社会』ならびに『宗教社会学論集』は、かれの学問の、それまでの所産の集成ではあっても、けっして仕上がった完結態ではない、といわなければなりません。むしろ、「西洋的発展の分析」という本番にそなえ、そうした本題に読者とともに取り組む準備として、二書を公刊したのであり、潜勢として残されたものこそ、かれにとって重要であった、といえましょう。

じっさい、『論集』中の各所から、「古代ユダヤ教」から、「イスラーム」への分岐的発展と対比しつつ「原始キリスト教」を採り上げ、そのあと「西方ローマ・カトリック教会と東方正教会」を対比的に取り扱って、西洋の「宗教改革」に戻り、「倫理論文」以来の宗教社会学的研究の円環をひとまずは閉じようとする計画と潜勢が、窺えます。そこでは、「一般社会学」によっていっそう豊富になった類型概念と一般経験則とをふんだんに注ぎ込み、駆使しながら、「倫理論文」以上にbroadかつthick な比較研究が展開されたにちがいありません。

一般に、ある学者の業績を、逝去の時点で完結したものとして扱い、そのように評価して専門学科の学説史の一齣に繰り入れるやり方は、理由のないことではありませんが、精根込めて仕事をした人間への敬愛には欠け、学問上も矮小化に陥るのではないか、と危惧されます。

 

(32) 最後に、ヴェーバーが、1900年代の科学論の諸論文で、先行諸家との「両義的」対決を重ね、経験科学としての「理解科学」に転身したあと、1910年代、とくに第一次世界大戦の直前から、「法則科学」としての「社会学への傾斜を深め、戦後における大学への復職のさいにも、「社会学」的な学科の担当を要望したのは、いったいなぜか、が問われましょう。

  それは、歴史的発展の分析、「因果帰属」は、もはや放棄して、一専門学科としての社会学者に成りきったから、というのではありますまい。むしろ、「客観性論文」にいう④「未来予知」にとって、「社会学」が必要とされ、その緊迫度が高まったから、ではないでしょうか。

というのも、第一次世界大戦にともなう政治的緊張とともに、同時代の状況への実践的・実存的投企の要請が強まってきますと、当の投企の結果随伴結果を「客観的可能性」において予測し、その「責任倫理性を確保するためには、当の状況をなす「個性的諸要因の個性的布置連関」の「歴史学」的認識に、「社会学」的「法則的知識」をリンクさせること、しかも「道具箱」として整備された「決疑論」体系から素早く取り出して的確にリンクさせることが、緊急に必要とされます。方法論上は対極にあり、(平和な時代の「専門経営」においては) 離れ離れに「一人歩き」して、片や「素朴実証主義」に、片や「モデル構成の自己目的化」に傾きやすい「歴史学」と「社会学」とを、あえて相互に媒介させ合おうとするのも、そうして初めて、双方の学知を、状況への実践的・実存的投企に、責任倫理性を保障する思想的契機として編入し、活かすことができるからでしょう。ヴェーバー自身においては、「歴史学」と「社会学」とを相互に媒介させ合う「歴史社会学」が、そのように実践の側から、「理性的実存」(ヤスパース)の要請として生まれ、状況の切迫にもとづく実践の緊急性が高まるにつれて、それだけ切実に必要とされました。

 

(33) それでは、ヴェーバーは、戦中-戦後のドイツの政治状況に、具体的にどうかかわり、そういう実践的投企に「社会学」的契機を、じっさいにはどう活かしたのでしょうか。

19世紀後半以降のドイツは、ビスマルクの専権政治が気骨ある政治指導者を遠ざけて、制度と精神の両面で「政治的未成熟」の「遺産」を残したとはいえ、ヨーロッパ亜大陸で、大国のひとつにのし上がっていました。ヴェーバーは、第一次世界大戦勃発直後の過熱から醒めると、海洋大国(英米)と地続きの大国群(露仏墺伊)の狭間にあるドイツが、「無併合・無賠償の早期講和」を達成して、大国として存立を保ち、ロシアの「官僚制」またはアングロ・サクソンの「『社会(ソサエティ)』慣習」の世界制覇にたいする防波堤となることを、「歴史的責任」として力説しました。ところが、そのさいかれは、その理由として、「ドイツ文化」のなんらかの「優越性」を引き合いに出そうとはしませんでしたし、そもそもドイツ文化の内容ないし「特性」に言及してもいません。かれの主張の根拠は、「強大国の勢力均衡のみが小国の自由を保障する」から、ヨーロッパの個性的な諸小国が、列強間の狭間でじつは西洋中世内陸都市と同等の「漁夫の利」を占め、「中世都市自治と等価の、それぞれに独自の文化発展を遂げられるように、その外的条件を確保すべし、という一点にありました。つまり『経済と社会』「旧稿」中の「都市」論で、「西洋中世内陸都市」における「自治」の達成を、その環境としての西洋中世世界の「権力分割」にかかわらせて説明しようとし、また、そこから再定立されもした「社会学」的一般経験則を、同時代からヨーロッパの未来の予測に適用展開しているわけです。

なるほど、こうした主張は、諸小国の「保護者」を自任して自国の権力主張を「正当化」する大国のイデオロギーとも解されかねません。しかし、ヴェーバーの所見は、「ヨーロッパに独自の自由な文化発展」にかんする、中世と同時代に通底する「比較歴史社会学」的知見に依拠しており、そのかぎり、国家や国民を越える普遍的理念の表明でもあります。これによって、自国の権力主張が意味づけられると同時に相対化され、限定されています。その点で、ヴェーバーは、単純な国民主義者ないし国益論者ではありませんでした。「ヨーロッパの多様で自由な文化発展」を保障すべく、もっぱらそのため、そのかぎりで、狭間の大国ドイツに権力を留保し、歯止めを欠く「権力のための権力」ないし「権力自体の威信のための権力」を戒めて止まなかったのです。

他方、かれは、大戦後にかけて、学生団体からの要望に応えて、講演「職業としての政治」を、また、ミュンヘン大学の聴講生の懇望を拒み難く、講義「一般社会経済史要論」を、それぞれ実施しました。それらの内容は、大学に復職して学生とともに敗戦後の社会-文化再建を担おうとするかれが、状況への実践的投企の責任倫理性を確保するために (手段の適合度の検証と随伴結果の予測に) 必要不可欠な、政治「社会学」および経済「社会学」の「法則的知識」を、まさにそれゆえ、こよなく簡潔に (講演「職業としての政治」では、なんと一回の講演に収まるように) 圧縮して、提供しようとするものでした。

常人には耐えがたい、そうした過度の緊張と過労が、かれの命を縮めたのは確かですが、他方、まさにそうした緊張ゆえに、かれが編み出した学知は、ここで縷々述べてきたような、広がりと深みと厳密性をそなえ、市民の実践にも活かされる質をそなえていました。わたしたちは、かれの構想を学び、その急逝点から発している潜勢も汲み取って、わたしたち自身の未来に活かしていきたいと思います。

 

以上、貴兄の論点からは離れて、我田引水の議論に終始したようで、まことに恐縮です。それでも、貴兄が、こうした議論を、今後のご研究に活かしていっていただければ、幸甚です。貴兄の反論なりコメントなりがまとまったら、貴兄ご自身のホーム・ページに発表されるか、場合によっては、この記事の関連論考として、小生のホーム・ページのほうに発表していただいても、結構です。ご研鑽のいっそうの伸展を祈念いたします。

敬具

 

20151111日、尾中論文へのコメントとして脱稿。 20151228日、本ホーム・ページへの掲載にあたり、全面的に推敲し、わずかに改訂]