「適正規模」の社会学研究室

(東京大学文学部社会学科/大学院人文社会系研究科編『社会学研究室の一○○年』、200411月刊、6870ぺージ)

折原 浩

自然発生的な議論仲間

 筆者が社会学研究室で修業を積んだのは、教養課程から社会学科に進学した19564月から、大学院に在籍した195864年をへて、助手を勤めた19652月まで、およそ9年間である。ずっと後になって、1996年に名古屋大学文学部に再就職し、教室主任として研究指導体制全体と取り組んだころから、往時のことをいろいろ思い出して考えるようになった。名古屋大学では、修士・博士課程あわせ、ちょうど筆者のころと同じくらいの院生数(十人余り)で、留学生を除き、年齢構成も同質的であった。ところが、世代的な気質のちがいからか、院生どうしの間に、研究領域ごとのサブ・グループはできても、多様な全員に「議論仲間」の関係がいきわたるのは困難と見えた。そこで筆者は、少なくとも週一回、院生と教官の全員が顔を揃え、各人の研究テーマについて集約的に議論を交わせる関係を、制度の側から「総合演習」という形でつくっていこうと試みたのである。

 というのも、筆者が院生のころには、院生どうしの関係が緊密で、演習その他の制度上の機会はもとより、研究室内外で日常的に議論を交わし、ときには一家を構える年配院生の自宅や別荘に泊り込んだり、大挙して仙台に東北大学の院生仲間を訪ねたり、揃って196263年の「大学管理法」問題に取り組んだりもした。エピソードを二三(以下、研究室の先輩は「…さん」、後輩は「…君」)。仙台の宿舎に着いた夜、当時から力量と独自の行動様式で抜きん出ていた見田宗介君から、それにもかかわらず参加を確信していた筆者に、盛岡から電話がかかってきた。一足遅い特急で札幌に帰るフィアンセと一緒だったが、仙台で降り忘れたか、降りそびれたか、盛岡まできてしまったという。

 「大学管理法」問題にかかわっては、資料を集め、「大学の理念」も射程に入れて議論を重ねた結果、研究室構成員のひとりひとりが署名して反対声明を出そうということになった。ところが、最後のひとり主任教授を訪ねたところで、意表を衝く議論に出会い、つぶされた。「最後にわたしひとりだけ署名しないとなると、『あ、東大の社会学、内部で割れてるな』と見られるだろう。逆に、わたしが最初に署名したとなれば、みな同じように考えて、内心反対でも署名せざるをえなくなろう。いずれにせよ、内的な強制力がはたらくから、こういうことはよくない」と。「人にどう見られるかではなく、先生ご自身がどうお考えになるかです」と喉元まで出かかったが、このときは「内的な強制力」という文言に捕らわれ、一瞬たじろぎ、不覚をとった。ただ、この経験から、「大学の自治」を擁護するばかりでなく、内部から問題にしていかなければならないと考えなおし、今後こういう状況ではけっしてひるまない、と決意を固めて教職に就くことができた。

 そうこうしながら、院生どうし、「だれが、どういう問題関心をもって、なにに取り組んでいるか」、お互いによく知り合ったうえで議論を重ね、研究や教育に取り組むスタンスを模索し、固めていけたことは、とても幸せなことだったと思う。ひとりひとりの研究テーマはそれぞれ異なっていたし、思想的な立場はといえば、①当時隆盛をきわめたマルクス主義、②院生仲間ではむしろ少数派に追い込まれていたアメリカ流プラグマティズム、それに、③「マルクス主義か実存主義か」に悩んで、個人的にはキルゲゴールに一番共鳴しながらも、社会問題にたいするマルクス主義者の実存的真摯さには打たれざるをえず、双方を両立させる方向をマックス・ヴェーバーの「責任倫理」論に求めた筆者、という具合に、緊張を孕んで多様であった。それにもかかわらず、院生どうしが、そうした多様性は感得したうえで、人間的な信頼関係をつくり、議論仲間として切磋琢磨できたのである。「古き良き時代」を規範にするつもりはなく、ひとつの目安にすぎないが、研究者養成の「適正規模」としては、そうした議論仲間の関係が自然発生的に形成され、維持される限度を越えない(どうしても越えるばあいには、そうした関係を築く特別の努力が要請される)という規準が考えられようか。留学生と社会人院生の増加による年齢構成の多様化にたいしても、同様の配慮が必要とされよう。

十人の院生にふたりの助手

 いまひとつ、筆者が幸いだったと思うのは、教授・助教授・講師は合計四人なのに、助手がふたりもいて、学生・院生を近いところで見守っていてくれたことである。ふたりの組み合わせが絶妙で、学生・院生のほうを向いて時間が奪われるのも厭わない「兄貴分」型と、ひたすら学問の高みをめざす「研究至上(主義)」型がほぼ交互に入れ替わった。意図してそうなっていたのかどうか、筆者は知るよしもない。北川隆吉さん、綿貫譲治さん、富永健一さん(講師に昇任しての初講義には、おごそかに進み出た学生代表から「汗拭きのハンカチ」を贈呈されるほど「兄貴分」型でもあった!)、松原治郎さん、本間康平さんとつづいたので、筆者もその余徳で、辛うじて一年弱「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジム用・超研究至上」型の助手は勤めることができた。ちょうど前年、駒井洋、庄司興吉、田中義久(五十音順)という三羽烏が大学院に入学してきた年である。かれらはお互い「激しくも良き議論仲間」ではあった。侃々諤々がはたと止まり、ただならぬ物音に変わるので、筆者もやれやれと隣室から顔を出す。筆者の受けた印象は多分に主観的かつ総合的で、細部について当事者に不公平であればお詫びして訂正するが、どうも記憶に残っているのは、鼻血を出している庄司君と、「ことここにいたった経緯」を筆者に説明し始め、どうやら「今回にかぎり相手が先に手を出した」といいたそうな駒井君、という組み合わせである。田中君とは、そういう場面で顔を合わせたことがない。なにはともあれ、助手が出て行けば収まるのである。むしろそのくらい自説を曲げず議論に打ち込めたのだ。

 研究者養成という観点から見ると、百人近い院生にひとりの助手という現状は、老生には想像を絶する。

2004628日記)