高橋徹先生の秋霜烈日――「偲ぶ会」スピーチ補遺

折原 浩

はじめに

 本稿は、旧臘(2004年12月)18日、東京神田一ツ橋の学士会館で開かれた「高橋徹先生を偲ぶ会」の席上、主催者の求めに応じておこなったスピーチを改訂増補したものです。高橋徹先生は、筆者の恩師のひとりで、昨年10月23日に78歳で逝去されました。その後、直弟子の庄司興吉氏を中心に、見田宗介氏らが発起人となり、「偲ぶ会」が開かれましたので、筆者も出席し、「求められたら、おおよそこんなことを」とスピーチの粗筋は考えていました。ただし、当日は、「なるべく多くの出席者に発言を求める」という主催者の意向もあり、「我田引水にすぎては」との遠慮もあって、大幅に端折り、短時間で切り上げました。その結果、「肝心の論点に踏み込めず、委曲も尽くせず、中途半端に終わった」との思いが残り、機会があれば多少ともきちんとした文面にしたためておきたいと考えていました。ところが、数日前、庄司氏から会の会計報告がメールで届き、そこに、庄司氏自身の「なされるべきであったスピーチ」稿が添えられていました。氏は、主催者として、当日は一番、発言時間の自主規制を余儀なくされたにちがいありません。そこで筆者も、庄司氏の顰みに倣い、早いうちにできるかぎり意を尽くして稿をまとめ、なんらかの形で発表したいと思い立ちました。以下が、その稿です。恐縮ながらこれも庄司氏をお煩わせして、出席者の方々に配信していただき、ご笑覧願えれば望外の幸せに存じます。

 ちなみに、昨秋からは、高橋徹先生が亡くなる一方、東京大学文学部社会学科/大学院人文社会系研究科名で『社会学研究室の100年』が編まれ、「『適正規模』の社会学研究室」と題する、修業時代の自然発生的「議論仲間」関係と助手制度の意義について書いた短文を寄稿したり(68-70ぺージ)、数年先輩の富永健一氏が『戦後日本の社会学――一つの同時代学史』(2004、東大出版会)を公刊され、拙著『デュルケームとウェーバー――社会科学の方法』(1981、三一書房)を採り上げてくださったので、「戦後日本の社会学」にかんする氏の座標軸をお借りして対話しながら、富永コメントへの応答を試みるなど、過去を振り返って考える機会が増えました。筆者自身は、自分の仕事、とくに研究者としての仕事はまだこれから、という思いが強く、「来し方を振り返り、これまでの仕事にまとめをつけよう」という気持ちはありません。ただ、馬齢を重ね、70にも手が届こうかというのでは、「戦後第一世代」に属するひとりとして「そろそろ学的活動を終える時期にきている」と総括され、そのコンテクストを受け入れて応答し、現在の課題を位置づけ直すように求められても、いたしかたないとは思います。本稿も、そうした観点から、故高橋徹先生の学恩と筆者の恩返しを「師弟関係」の一系譜として総括し、筆者に残された課題を再設定しようとする試みです。そのような一文として、ご覧いただければ幸いです。

 

 ご指名を受けました折原浩です。

 まず、庄司君(以下、兄弟子には「さん」、弟弟子には「君」)はじめ発起人と実行委員の皆さまに、本日のこの会を企画し、実現してくださったことに、心より御礼申し上げます。そのご努力に応え、「高橋徹先生を偲ぶ」という趣旨を活かすのに、こういう仕方もひとつあってよいのではないか、と思うところを、率直にお話させていただきます。

 近頃、歳のせいか、恩師/先輩/友人のお葬式/お別れ会/偲ぶ会などで、ふだんはめったにお目にかかれない先輩や知友にお会いし、「こういう機会でもなければ、おそらくはお会いせずじまいになったろう」と思うことがよくあります。死者がそのようにして、生者にまたとない再会の機会をつくってくださっているのかもしれません。そうしますと、本日も、先ほど来、卒業後お目にかかったことがない先輩や知友にお会いしているのも、故高橋先生のお蔭ということになります。

 ところが、あの高橋先生が、こういう語らいを黙って見ておられるわけがない、あの笑顔をわたくしたちに向け、「きみたち、なに話してるんだ。わたしを『偲ぶ』といって、なにを話題にしてるのかな」と、話の輪に入られ、いまごろはもうとっくに先生の独演会になっているのではないか、という気がいたします。少なくとも、あのお姿で、ごく近いところでわたくしたちを見守っておられるのではないでしょうか。そういたしますと、ここで思い思いに先生の功績を讃え、エピソードを語るのもいいのですが、なにか、先生からそれぞれどういう点で一番学恩を受けたか、それに、どういうふうに恩返しをしてきて、現在どうしているのか、これからなにをしようとしているのか、きちんとお答えしませんと、高橋先生にはほんとうは許していただけないのではないか、という気もするのです。といいますのも、生前の高橋先生は、わたくしには、そういう厳しい、「秋霜烈日」ともいうべき精神の体現者であられたからです。

 先生については、「秋霜烈日」から「春風駘蕩」に「進化」を遂げられた、という説もあります。それはたぶん、そのとおりでしょう。しかし、わたくしは、先生が1957年に東京大学新聞研究所の助教授から文学部兼任になられて講義や演習をお持ちになる、その一年まえの1956年(忘れもしない「ハンガリー事件」の年)に、教養学部から文学部社会学科に進学して、それから九年弱、学生/院生/助手として、高橋先生の教えを受け、修業いたしました。そういう身には、やはり、当時お若かった高橋先生の、秋霜烈日の印象が強烈なのです。

 当時、「社会学三羽烏」が二組あり、ひとつは福武直/日高六郎/高橋徹、いまひとつは、高橋徹/城戸浩太郎/綿貫譲治という組み合わせで、高橋先生は双方にまたがっておられました。わたくしたち学生/院生のあいだには、当時は「議論仲間」の関係が自然発生的に育ったものでして、恩師たちの噂をしては、議論の種にしておりました。おのずから、「三羽烏」双方にまたがる高橋先生のことが、最大の話題になり、争点ともなりました。たとえばわたくしが、「高橋先生ほど多才な人は、日高先生のような評論家になってしまわれるのだろうか、それとも学者にとどまられるだろうか」と戸惑いを隠しませんと、見田君が確か、「両方」と答え、「いまの日本には、両方が必要で、自分は二足の草鞋をはいて見せる」と自信のほどを示す、それにわたくしが、「見田君ほどの力量があれば大丈夫かもしれないが、エピゴーネンが出てきて、清水幾太郎-日高六郎とつづく系譜を温存することになりはしないか、学問にとってもジャーナリズムにとっても中途半端で不幸な関係(後述)がつづいてしまうのではないか」と疑念を漏らす、というようなやりとりが記憶にあります。

 ところが、高橋先生ご自身は、そうした院生の予想を尻目に、とくにわたくしの懸念をはるかに越えて、教師に、それも「オールラウンドのスーパー教師」ともいうべきものになられ、至難の道を切り開いていかれました。院生への研究指導というのは、どうしても指導する教師自身の専門領域に狭く限定されがちで、あとはせいぜい学問一般への心構えないしスタンスを鍛えたり、内容上の細かいことでは他の専門研究者に紹介して指導を仰がせたり、というのがつねで、理にかなってもいます。ところが、高橋先生は、もともと間口の広い社会学の、ご自分の専門以外の研究領域に関心を向けている数多の院生にたいしても、研究指導のためにみずからわざわざ専門外の勉強/研究もなさって、ひとりひとりの学生/院生に正面から立ちはだかり厳しく訓練しようとつとめられました。広い範囲におよぶ、そういう実質的な研究指導の緊張と、準備を含めてのご努力は、たいへんなものだったろうと思います。

 そういうなかで、高橋先生がとりわけ秋霜烈日の本領を発揮されるのは、学生や院生が「いわゆる大衆社会」とか、「ジンメルとかいう人」などと思わず口にし、なにか「他人ごとのような」そぶりをみせ、「腰の引けた」スタンスをあらわにしてしまうときでした。それと察した先生の追及は、苛烈をきわめ、「きみは『大衆社会』をどう考えるのか」、「きみ自身がジンメルをどう読んで、どう評価するのか」と問いただして止まず、自分の見解を正面から(一知半解のままでも正直に)示しきるまでは、容赦ありませんでした。あるいは、答えられないと分かっている質問をつぎつぎに浴びせて、応答を待っておられるのですが、その長い沈黙が、学生/院生には叱責以上に耐えがたかったのです。

 かくいうわたくしも、高橋先生からは始終とっちめられていました。その頂点として一番骨身にこたえているのが、第八回「城戸浩太郎賞」の受賞記念講演(1966年5月28日、於東京市ヶ谷私学会館)にたいする高橋先生の追及でした。授賞対象作品は、「マックス・ウェーバーにおける辺境革命の問題」(『社会学評論』第62号、1965、所収、『危機における人間と学問――マージナル・マンの理論とウェーバー像の変貌』、1969、未来社、に再録)ほかの論文で、これについてわたくしは当時、自分の見解、とくに高橋先生の鋭鋒に正面から立ち向かえるほどの見解を、自信をもって打ち出すことができず、しかも「できない」と自分でもよく分かっていました。その中身につきましては、ここでは長くなるので立ち入りませんが(と「偲ぶ会」当日にはカットしましたが、本稿では要点を復元しますと)、要するにこういうことです。

 当時(もう40年もまえのことですが)、わたくしは、①イギリスの植民地支配を受け、西洋近代文化が浸透して伝統的カースト秩序が揺らぎ始めてからのインド、②ピョートル改革以降のロシア、③阿片戦争以後の中国、④幕末開国このかたの日本など、要するに西洋近代文化の支配下あるいは少なくとも圧倒的影響下におかれて伝統を脅かされた地域(「マージナル・エリア」)をフィールドに選び、それぞれの地域における「文化接触」/「文化葛藤」の諸相を類例として比較し、そうするなかから文明中心の「辺境への移動」、あるいは世代の文明を担う「高等宗教」(A・J・トインビー)の発生可能性を探ろうという、途方もない研究構想を抱いていました。そういう可能性を開示してくれそうな一般理論――パーク/ストーンクィストらの「マージナル・マン」論、マックス・ヴェーバーの「辺境革命」論(次世代の文明を担う新しい思想は、前代の文明に「飽和」した中心地ではなく、その影響にさらされた「辺境」の「驚き」から生まれる、という着眼)、トインビーの「文明の『親子関係』」論、大塚久雄の「辺境移動」論(マルクス唯物史観の発展段階図式において、各段階の中心が、階を上向するごとに前段の「辺境」に移動するという説)など――を、若さにかまけて貪婪に蒐集しては(上記「辺境革命の問題」ほかの)論文にまとめるかたわら、フィールドとしては(上記①~④のなかでも)とりわけ19世紀のロシア思想に興味を抱き、ドブロリューボフ、チェルヌイシェフスキー、ゲルツェン、ダニレフスキー、トルストイ、ドストエフスキー、それに(20世紀にまたがりますが)ベルジャエフらの著作に読み耽っていました。というのも、19世紀ロシアでは、「西欧派」と「スラヴ派」との対立/論争のなかから、「西欧」と祖国ロシアとを時間軸上に並べ、「先進-後進」と位置づけて優劣を論じ、後者を「遅れた地域」「遅れた文化」として貶価するというのではなくて、ひとまず対等な文化類型と見なし、類型間の比較をとおして、類型に共通の発生/発展/没落のパターンを突き止めようとしたり、類型に固有の特質を探り出そうとしたりする発想が孕まれ、現にダニレフスキーの比較文明論として実を結んでいました(それが、むしろ遅れて、20世紀に入ってから、第一次世界大戦後に、ドイツのO・シュペングラーやイギリスのトインビーに引き継がれます。現在、「文明の衝突」論でしばしば話題になるS・ハンチントンなどは、なぜ「衝突」するのか、その根拠の掘り下げもなく、「文明」を現存の7~8個に限定して、トインビーのように三代の「親子関係」を問おうともしない、歴史の欠落において、むしろ水準の低下をきたしているというほかはありません)。他方、そうなりますと当然、およそ地表上に存立したもろもろの文化への関心の広がりと並行して、文化類型ごとの特質よりもむしろ、どの類型にも共通の普遍的な根拠と、それが発展と没落のパターンとどう関連しているのか、諸文明の興亡を規定してきた、人間文化/人間存在の究極の根源根基を問うという関心の深まりも生じてきます。トルストイとドストエフスキーの不滅の作品は、明らかに、そうした関心の深まりの所産といえましょう。ただ、当時のわたくしは、ソロヴィヨフとその思想は、まだ知りませんでした。また、19世紀ロシアにおけるそうした深まりの日本における並行的対応例ともいうべき、西田哲学にも、滝沢克己の普遍神学 (神と人間との「不可分・不可同・不可逆の原関係」を、キリスト教にも仏教にも通底する人間存在の普遍的原点として捉える思想)にも、まだ出会ってはおりませんでした。

 ともかくも当時は、あまりにも間口を広げすぎて、自分でもきちんと掌握しきれていないと直覚していたのです。ですから、敬愛する先輩の城戸浩太郎さん(南アルプスで遭難死)を記念する「城戸賞」をいただいて、たいへんうれしいことはうれしかったのですが、自分の論文がはたして受賞に値するのかどうか、半信半疑でした。そこのところを、受賞記念講演でどう表明したものかと迷ったあげく、「この授賞は、『今後この構想を実現する方向で研究を進めていくであろう』との予想にもとづく、将来に向けての激励で、そのようなものとして受けさせていただく」という趣旨のことを述べようとしたのですが、ちょうどヴェーバーの『取引所論』を読んでいたこともあって、うっかり『先物買い』という言葉を使ってしまったのです。これがいけません。高橋先生の逆鱗に触れないわけがありません。「いろいろな一般理論を集めてきて、『こういうところからなにか新しいものが出てきそうだ』というだけでは無責任だ、きみの基本的立場はどこにあるのだ、なにをもって新しいポジティヴな可能性と見るのか、具体的に答えよ」と真っ向から切り込んでこられました。「一般理論の示唆に対応する具体的な動きや思想内容としては、まだ朧気な予感としてあって、よく分からないからこそ、理論的な準備を詰めたうえで探究していきたいのです」などと、正直なところで逃げを打っても駄目でした。

 そこのところには、こういう事情も伏在していたと思います。高橋先生は当時、真剣なマルクス主義者で、レーニンを高く評価しておられました。他方、19世紀のロシア思想については、「『西欧派』と『スラヴ派』との対立は、レーニンによって『止揚』され、ソヴィエト革命に『収斂』する」という見解が、公式的な解釈として出回り、通用していました。高橋先生も、わたくしの「基本的な立場」として、ストレートにではなくとも「社会主義」あるいは「レーニン」という線が出てくることを期待しておられたのではないかと思います。少なくともわたくしが、そうした公式的解釈に自分の「基本的な立場」を対置する、ないしはそれを座標軸として位置づけする、ということを求めておられたでしょう。ところが、わたくしとしては、さすがにそこのところは、19世紀ロシア思想のあの豊かさが(と、いろいろ例を挙げただけでは通らなくて、「隔靴掻痒」の感がなきにしもあらずだったのですが)、ことごとくレーニン/スターリンに収束してしまうなんてとんでもない、そんなことならなにも研究するにはおよばない、という抵抗感が強くて、そこは沈黙をもって対するよりほかはありませんでした。ところが、そうすると高橋先生は、「では、どういう代替的立場をとるのか、ありうるのか」と追及の手を緩めてはくださいません。こういうやりとりが延々とつづいたあげく、けっきょくわたくしが、「先生のご質問には、今日のところはお答えできません。まいりました。しかし、おっしゃることの趣旨は、基本的な見解を仮説的にせよ具体的に詰めてからフィールドの調査研究にとりかからないと、多様性に呑み込まれて漂流するばかりだ、との貴重な警告として承りました。明日から出直します」と結び、兜を脱ぎました。

 もう惨憺たるもので、「完膚なきまでに論破された」というほかはありません。出席者は20~30人の小規模な会でしたが、居合わせた人に「城戸賞とは、こんないい加減な人間に授与されるのか」という印象を与えて、賞の「権威」が形無しになりはしないか、とわれながら心配でした。ところが、城戸浩太郎さんのお父上の城戸幡太郎先生が出席しておられ、閉会の辞として、「さっきの議論はよかったですな。若い人がああいうふうに叩かれるのはいいことなんですが、近頃めったにないので、そういう機会をつくれただけでも、この賞を設けていた甲斐があります」とおっしゃるのです。賞の「権威」などどこかに吹っ飛んでいて、わたくしとしては、「城戸賞」のためには「ほっとする」やら、自分個人としては「がっかりする」やら、複雑な思いでした。お若いころの高橋先生とは、万事この調子で、理非曲直を明らかにするまでは、曖昧な言い逃れを許さず、フェアに渡り合い、「赴くところ敵なし」といった、まさに秋霜烈日の人だったのです。

 

 さて、わたくしのほうは、「明日から出直します」とはいったものの、(「高橋先生の薬が利きすぎて」と先生のせいにするわけではないのですが)その後いくつかの事情が重なり、「マージナル・エリア」をフィールドとする「辺境革命」の比較文化社会学的研究を、そのまま進めることはできず、じつはいまもって着手しておりません。先生とのお約束を破っていて、内心大いに忸怩たるものがあります。もういまとなっては、この研究プロジェクトそのものは、自分では完遂できないでしょう。ただ、それに向けてささやかながら積み重ねてきた方法的/理論的な準備研究を、どのようにとりまとめて後進に託すか、この機会に考え始めなければならない、と思ってはおります。

 いま「その後いくつかの事情が重なって」と申しましたが、そのうちのひとつは、「固有の意味におけるマックス・ヴェーバー研究」に少なくとも当面専念しなければならない、と考えたことがあります。ヴェーバーにつきましては、ずっと以前から、「辺境革命」問題にかんする研究プロジェクトを具体化していく類例比較の方法として、かれの巨視的比較宗教社会学に注目し、できればその方法を転用したいと考えていました。ところが、ある切っ掛けから、たんにそういう自分の研究プロジェクトへの準備としてだけではなく、もう少しヴェーバーの「人と学問」に深入りして、(かならずしも「応用」には還元されない)「固有価値」を見いだしていくとともに、わたくし個人の研究プロジェクト以外にも「応用」が利くような、そういう「ヴェーバー基礎研究」に専念しなければならない、と考え始めたのです。

 その切っ掛けは、「城戸賞」受賞の一年半前、「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」(1964年12月6日、於東京大学)への準備会の席上で、大塚久雄先生から与えられました。わたくしは、このシンポジウムに、文学部社会学科の助手として、事務方のお手伝いをするつもりで参加していたのですが、「報告もしなさい」ということになり、準備会の末席に連なっていました。ところがある日、大塚先生が、「日本のヴェーバー研究は、鶏が餌箱から麸をつつき出して食い散らすばかりだ」という趣旨の、厳しい評価を口にされたのです。これには、日頃謙虚な大塚先生がずいぶん大胆なことをおっしゃるなと驚き、大きなお仕事をなさった大塚先生に「自分だけは鶏ではない」という驕りがあるのではないかと訝りながらも、その評言自体は、なによりも当時の社会学におけるヴェーバー研究に当てはまる、と認めざるをえませんでした。

 わたくし個人は、1954年に大学に入る直前から、ヴェーバーに関心を向けていて、入学後にはドイツ語を勉強しながら手当たり次第に邦訳に読み耽り、大学院に入ってからは、かれから「辺境革命」問題への関心を触発されるとともに、いま申しましたとおり、「世界宗教の経済倫理」に示された巨視的比較宗教社会学の方法を、「辺境革命」問題にかんする比較研究に転用しようとも考えていました。ところが、大塚先生を代表とする「東京大学経済学会」とともに「生誕百年シンポジウム」を主催した「東京大学社会学会」についてみますと、尾高邦雄先生も福武直先生も、戦前からのヴェーバー研究を、戦後は放棄されていました。社会学界全体を見渡してみても、経済史学の大塚久雄、経済理論の青山秀夫、思想史学の金子武蔵といった碩学はもとより、安藤英治、内田芳明、住谷一彦といった中堅どころに並ぶ、「ヴェーバー研究者」といえるほどの研究者は、見当たりませんでした。阿閉吉男先生は、当時は『社会学の基礎概念』(1953、角川書店)の訳者として知られているだけで、まだ『ヴェーバー社会学の視圏』(1976、勁草書房)を発表されてはいませんでした。そこでわたくしは、社会学におけるヴェーバー研究を、せめて他領域並の水準に引き上げる責任を感じ、しばらくはヴェーバー研究に専念しようと決意したのです。それには、当時(1965年から)、教養課程の教師になっていて、担当科目社会学の講義や演習をとおして、新入学生に社会科学的教養の自己形成を介助するという課題を負い、教材としてデュルケームやヴェーバーといった古典を活用したい、という動機も重なりました。

 ところで、「ヴェーバー研究」にいったん本腰を入れて取り組みますと、どんな研究領域でもそうだと思うのですが、外から眺めていたのと、中に入って見るのとでは、勝手が違いました。「他の何者でなくとも社会学者ではある」といわれていたヴェーバー(たとえば「ヴェーバーの断片的業績の要は社会学で、そこにかれの哲学が現われる」という趣旨の、K・ヤスパースの追悼講演)ですが、当の「ヴェーバー社会学そのものは、じつはあまり研究されていませんでした。たとえば、明らかに社会学上の主著である『経済と社会』も、膨大ではありますが、全体として読み通されていないばかりか、テクストとしての編纂の誤りもそのまま放置されていました。それと関連して、別人F・テンニエスの「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」という対概念が、(このほうが有名で、字面が類似しているためか)無造作にヴェーバーのテクストに読み込まれ、したがって当然、混濁が生じ、厳密な読解はなされないままでした。他方、社会学畑以外の人が、ヴェーバーにかんする著作や論文を書くとなると、これはこれで門外漢の気安さからでしょうか、ヴェーバーの学問全体における社会学の位置といった(じつはとても難しい)問題は素通りして、いとも気楽に「ヴェーバー社会学」と銘打つ、というありさまだったのです。内容上も、『宗教社会学論集』に収録されている諸論文のうち、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」だけが有名で、これと「世界宗教の経済倫理」(「儒教と道教」「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」)とがどういうふうにつながるのか、かれの作品群中もっとも基本的な結節環も、正確には解き明かされていませんでした。

 こういう欠落も、じつは、社会学ないし社会学教師の「存在被拘束性」に根ざす「スコラ的問題」とばかりはいえず、そう決めて避けて通るわけにもいきません。といいますのも、日本の「ヴェーバー研究」を総体として通観しますと、戦前からの偉大な先達/先覚者のように、まだ誰も足を踏み入れたことのない「宝の山」に分け入って、手当たり次第に「宝」を掘り出してくれば、(その中身がまさに「宝」として普遍妥当性をそなえ、高い水準にあるがゆえに)日本ではそのまま珍重される、あるいは「草刈り場」から存分に「草を刈って」きては養分にできる、プラスアルファとしては、せいぜい「本場(欧米とくにドイツ)」の研究文献/二次文献を素早く読み漁って適当にアレンジすれば、日本では「第一級の」業績になる、という(要するに「輸入学問」の)段階は、とっくに過ぎていると思われました。「ヴェーバー研究第二世代」は、「第一世代」とは異なる課題に直面していたのです。大塚先生の「鶏が餌箱から麸をつつき出して食い散らす」という厳しい評言も、そういうコンテクストで受け止めなければならないと思いました(というわけで、いちおう「世代」といっておきますが、いまなお妥当性を保っている「類型」と置き換えて考えてくださるほうがよいかもしれません)

 この点は、社会学畑では、高橋先生よりもむしろ日高六郎先生が鋭く指摘された「輸入学問」あるいは「本店-出店関係」の問題といえましょう。「辺境革命」問題にかんする理論的支柱のひとりトインビーの用語を借りれば、「その生活を異文明の律動に適応させるという問題を解決しようと企てる社会において……、電流をひとつの電圧から他の電圧に変える『トランス』の役目を果たす特別な社会階級」、「(19世紀ロシアの固有名詞から採って一般化された普通名詞/術語としての)インテリゲンツィア」、「侵入[異]文明の取引のやり口を覚えた連絡将校の階級」の一カテゴリー「西欧的な教科目を教える手を覚えた学校教師」(『危機における人間と学問』、162-81,245-6ぺージ)の問題であるといえますし、そうはっきりいったほうがいいかもしれません。ただ、この規定には、幕末このかたの、さらに第二次世界大戦における敗戦で傷ついた国民的品位感情を深層で逆撫でする、なにものかがあります。そのせいか、「知識人」にも、あるいは「知識人」にこそ、情動的な反応を呼び起こし、そのために解決への緒につくのも容易でない、ということになりがちです。それだけに、トインビーによって指摘された問題そのものは、(この問題を、「英国紳士トインビー」に投げ返し、「西欧の没落」というかれの文明論の帰結を問うことも必要なのですが、それはともかく)わたくしたちにとって重要で深刻です。

 じつは、日高/高橋両先生の問題設定そのものが、誤り、といわないまでも不十分/不適切ではなかったか、と思います。ことが経済関係なら、「輸入」に「輸出」が釣り合えば、あるいは「本店の商品に対価を支払って出店販売」すれば、いちおうそれでいいのです。その意味で、日本の経済は、戦後の世界で「一流」になった、こと経済にかんするかぎり「戦後復興」は成った、ともいえましょう。ところが、学問(「普遍妥当性」をめざし、「単線的」ないし「弁証法的」進歩が成り立つ「文明過程」の一環としての知性的認識活動)となると、そうはいきません。そこでは、「輸出なき『輸入』」、あるいは「対価の支払いなき出店『販売』」、さらに「外国の店先を漁って、どんな店であれ、売れそうな商品を開発して流行に乗せたとなると、争って『ぶったくり』、経済的代価は支払っても学問上の対価は支払わずに『出店』を構えて『いらはい、いらはい』」といった(「近代的経済取引」ならざる)「やらずぶったくり(表向き「ハイカラ」な)『パーリア資本主義的略取と流行追随」が幅を利かせます。トインビーのいう「トランス」「連絡将校」の「第一世代」は、彼我の「電圧」の落差を考えれば、そうせざるをえなかったでしょうし、できるかぎり良質の「商品」を「ぶったくって」くることと、「新帰朝者」として多少の付加価値をつけて後進を養成し、国民を啓蒙することとで「精一杯」、「能事終われり」とするのもやむをえなかったにちがいありません(その水準を抜け出た、稀有な個別事例は別として)。ところが、「第二世代」となりますと、「第一世代」のそういう「(世界における日本学問の)パーリア性」を克服することが、課題とされざるをえません。少なくとも課題として意識されます。日高/高橋両先生の問題提起は、確かに、太平洋戦争中の日本学問の(基本的には「西欧派」と「国粋派」との同位対立に由来する)あり方への反省に発していたと見ることができましょう。

 ところが、第一世代の「パーリア性」は、「習い性となって」第二世代にもひきつがれましたし、牢固として現存しています(そこで、「世代」ではなく「類型」として問題にする必要が生じます)。それは、メンタリティー/「精神構造」のみの問題ではなく、「留学生制度」「留学奨励金制度」などによってバック・アップされています。そういう「インフラ」はもっぱら、「若いころ欧米先進国に留学して『ぶったくって』きた高水準の学問内容(「原酒」)を、帰国後日本の教壇で長い間(「ブレンドして」)教えられるように」という目標に向けて編制/整備されてきましたし、いまでも基本的にはそうです。「日本における蓄積を集約し、長年の成果を携えて欧米に出向き、『縦を横に直して』、(欧米の水準を代表する)専門学術誌に発表し、欧米の代表的学者/論客と論争し、そうした『他流試合』の成果を持ち帰って、日本の学問を欧米と対等な水準にまで引き上げるように」という目標は、ほとんど考えられていませんし、当然、そのために利用できる制度も後回しで手薄です。

 こういう現状にたいしては、「パーリア性」を、問題として提起し、ジャーナリスティックに「掛け声をかける」だけでは駄目です。「輸入学問」を学問としての内実に即して乗り越える、あるいは、具体的な業績と寄与によって「本店-出店関係」を一歩一歩是正し、現実に対等な関係を築いていかなければなりません。しかしそれは、「いうは易く、行うは難い」課題です。自分の専門とする領域で、当初には「本場」の成果に学んで、「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制(コンプレクス)」を「評価の準拠枠」とする「内向きの」論文を書くとしても(もとよりそれは大切なことで、そこから出発するほかはありませんが)、それだけで「能事終われり」とするのではなく、繰り返し申しますが「縦を横に直して」「本場専門学術誌に発表(「輸出」)し、「本場」の学者たちと論争して、「本場」の水準における寄与/貢献を相手方にも確実に認めさせ、そういう確証ずみの成果をこそ、日本に持ち帰る、つまり「逆輸入」していかなければなりません(一例として、『ケルン社会学・社会心理学雑誌』上における論争の邦訳、W・シュルフター/折原浩共著、鈴木宗徳/山口宏訳『「経済と社会」再構成論の新展開――ヴェーバー研究の非神話化と「全集」版のゆくえ』、2000、未來社)。

 さて、わたくしは、当面「ヴェーバー研究」に専念し、「社会学におけるヴェーバー社会学基礎研究」を、「日本の学界/ジャーナリズム複合体制」のなかで、まずは他領域並の水準に引き上げるという目標を立てました。加えては、当のヴェーバー研究そのものをとおして「第一世代/類型」の「パーリア性」を克服し、日本の「ヴェーバー研究」を名実ともに国際的水準に引き上げるという目標をめざしました。これは、基本的には、日高/高橋両先生の「輸入学問」「本店-出店関係」という問題提起に応えようとするものでしたが、いまひとつ、そうした目標追求に弾みをつける状況因(「反対方向への発展を促す否定的刺激」ともいうべきもの)がありました。後の世代の方々からすれば、たとえば富永健一さんの準拠枠をお借りしていいますと、ヴェーバーは、E・デュルケームやG・ジンメルとともに、社会学を経験科学として連続的発展の軌道に乗せた「(社会学史)第二世代」の雄で、一般にも20世紀最大の社会学者と認められ、日本社会学会の機関誌『社会学評論』に引用される頻度も、もっとも高いとのことです(西原和久氏のご教示による)。とすれば、そのヴェーバーのほかならぬ社会学を専門的に研究し、他領域並の、さらには国際的な水準に引き上げようとする基礎研究ほど、当の社会学畑で広く公認され、奨励されもする「平坦な道」はなかったはずだ、と思われるにちがいありません。しかし当時は、かならずしもそうではなかったのです。

 というのも、尾高先生や福武先生のような、戦後日本の指導的な社会学者は、ヴェーバー研究を途中で放棄され、尾高先生は産業社会学、福武先生は農村社会学というように、「領域別」の実証的調査研究に力を注がれていました。そこでは、当該領域の「先行理論」をひととおりなるべく早く学び終え、いちはやく自分の構想と仮説を立て、調査で蒐集した経験的データによって仮説を立証して「小範囲ないし中範囲の理論」に仕立てる、ということが、研究の目標とされました。そうした方向が、両先生他の努力により、また、戦後日本文化全般におよぶアメリカ流プラグマティズムの隆盛にもバック・アップされて、社会学界の主流ともなっていました。内容上は、「日本社会の民主的近代化」という価値理念ないし旗印のもとに、日本社会の諸領域に「残存」ないし「構造的に温存」されている「封建遺制」ないし「前近代的なもの」について、「理論」仮説を立て、「調査」によって実証し、実践的に乗り越えられるべき問題と課題を明確にする、ということが、社会学的研究の意義として広く認められ、その支配的潮流ともなっていました。

 それはそれで、けっして間違いではなかったと思います。ただ、そうすることが、欧米産の理論を摂取する段階から、それを日本の社会的現実に適用して展開する段階へと「脱皮」すること、その意味で「日本の社会学」として「自立することと等置されたのです。「調査の成果を挙げて初めて、社会学者として一人前になれる」とまで考えられていました。反面、大勢の赴くところ、「ヴェーバー研究」にかぎらず、およそ欧米産の理論/学説の研究一般を、「輸入学問」と見なし、「摂取」から「自立的な適用/展開」に踏み出す以前の従属的予備段階」というふうに位置づけ、「いつまでも理論研究をやっていたのでは、社会学者として一人前になれない」とする雰囲気さえ、生まれていました。

 その結果、一方では、ヴェーバー研究のような理論/学説研究一般のなかにも、「輸入学問」、すなわち「本場」の議論を「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制」向けに適当にアレンジして持ち込むだけの「内向きの業績」(「第一世代/類型」)と、内外の議論を素材として独自の構想のもとに独自の解釈と応用をくわだて、その成果を「縦を横に直して」発表/論争し、「本場」の研究水準向上に寄与し、そこで国際的に認証された業績を日本に持ち帰ろうとする「内外に開かれた研究」(「第二世代/類型」)とがある、という区別が、顧みられなくなります。他方、領域別の調査をやって「(中範囲ならざる)日本範囲の理論」を立てさえすれば、その意味を理論的に一般化して、「本場の専門学術誌に発表し国際論争を提起し国際的に認証されようとは思わなくとも(つまり、「第一世代/類型」から「第二世代/類型」への脱皮を経ていなくとも)それだけでなにか「一人前」になり、国際的にも「自立」したかのような錯覚に囚われます。「戦後日本社会学」の一時期には、この錯覚と自信に裏打ちされた理論/学説研究「輸入学問」という偏見が、「ヴェーバー研究」のような(一筋縄ではいかない、長期間本腰を入れて取り組まなければどうにもならない)領域にも、「いつまで社会学で『足踏み』しているのか」「もうそろそろ『卒業』したらどうか」「早く『切り上げ』よ」という圧力としてのしかかり、(ヴェーバー研究からみれば)「途中逃亡」「放棄」を促し、そのために「社会学部屋」の立ち遅れが目立ち始めて、「生誕百年記念シンポジウム」のような、諸領域代表の「揃い踏み」ともなると、富永さんとわたくしのような若手を当てて「急場をしのぐ」以外にはないという実情が、誰の目にも明らかになっていたのです。

 ただ、わたくしは、尾高先生と福武先生のお膝元の東大社会学研究室で修業したのですが、両先生が、そうした錯覚と偏見に凝り固まった推進者であったとは思いません。福武先生は、ご専門の農村社会学でも、たとえば農村の「共同体規制」という問題を実証的に研究するにあたっては、大塚久雄先生の『共同体の基礎理論』(1956、岩波書店)に頼らざるをえないという関係を自覚しておられました。ですから、「都会出の社会学研究者や社会学学生が、日本の農村社会を知らなくては話にならない」というので、調査実習に連れ出し、先生の「聞き取り」の素晴らしい技量を模範として示してくださいましたが、わたくしに「調査をやりなさい」とはいちどもおっしゃいませんでした。むしろ「社会学全体のために、理論をしっかり勉強しなさい。ただ、実証をやっている研究仲間のことも考えながら」と励ましてくださいました。なにごとにつけても、福武先生という方は、公明正大な人格者でした。50歳代からは、ご自身の著作の英訳をお出しになって実質的な国際交流にも、一枚加わられました。先生の英文著作はおそらく、外国の日本研究者に、日本農村および日本社会一般にかんする手堅い実証研究として、その意味の研究資料として、高く評価され、尊重されたにちがいありません。しかし、福武先生ご自身が、欧米産の農村社会学(ないし地域社会学)の理論にたいして、ご自身の調査結果/研究成果の意味をみずから理論的に一般化して対置し、論争を提起し、国際的な一般理論自体の改変再編成に独自の寄与を果たされるまで、積極的に活動なさったのかどうか、なさったとすればどれほどか、という点になりますと、ご専門の方々のご教示を待つほかはありません。

 尾高先生は、わたくしの指導教官でした。先生との関係は複雑で、詳しくはいつか別稿を期すほかはありません。ただ、先生は、戦前のヴェーバー社会科学方法論研究を、戦後の産業社会学という領域社会学への基礎付けというふうに狭く集約され、それで「ヴェーバー研究からは足を洗って」、産業社会学の個別的諸問題にかんする実証的調査研究に専念されました。日本鋼管ほか、数多の企業現場の調査を手がけられ、その成果を携えて、たびたびアメリカに出掛け、「本場」の学者と交流をもち、学生/院生に教えられました。産業社会学という領域社会学にかんするかぎり、日本における個別の諸調査による膨大なファインディングスの意味を普遍化し理論化して、当時アメリカに代表されていた産業社会学の国際的水準自体の向上に寄与されたのではないかと思います。その意味で、「本店-出店関係」という問題提起にたいしても、じつは、ジャーナリズムに出て「掛け声をかける」というだけのことではなしに、学者研究者としてどういうふうに「本店-出店関係」を乗り越えていけばいいのか、その先例を身をもって示してくださった、とわたくしは受け止めています。

 ただ、尾高先生は、そういうふうに、産業社会学における「第一世代」の課題と「第二世代」のそれとを、両方とも一挙に果たそうとされましたから、たいへんでした。そのためには、なんとしても調査データを集積する必要があり、調査には人手を要し、先生を指導教官とする大学院生も「動員」されました。「動員」といっても、先生ひとりが調査の構想を立てて「このとおりにやれ」と院生に命じられたのではなく、それぞれの「構想を持ち寄って議論しながら民主的にやろう」と呼びかけられたのです。ですから、産業社会学を自分の専攻領域に決めて、自力で調査のデザインも立てられるほどの院生にとっては、絶好の機会を提供されたともいえます。しかし、ヴェーバーほかの理論研究に専念しようとしており、しかも「調査向き」ではないわたくしには、尾高先生のお声掛かりが苦痛でした。あるときとうとう「先生が確信をもって進んでこられたご専門の最先端のところで弟子を鍛えようとされるのは、ごもっともと思いますが、いかんながらわたくしはお応えできません。先生には不本意、わたくしには苦痛です。これまでのご指導には深く感謝しておりますが、このさいは先生を指導教官とすることを辞退させていただけませんか」と申し出て、指導教官を高橋先生に代わっていただこうとしました。高橋先生は快く引き受けてくださるご意向でしたが、そのまえに尾高先生とよく話し合ってから、ということになり、高橋先生と尾高先生との話し合いにより、尾高先生が「かれの研究テーマは、自分の指導範囲から外れたとは思わないから、指導教官の交替はしないが、調査には動員せず、自由に研究させよう」ということで、折り合いがつきました。そういうわけで、後の世代の方々は、「よもやそんなことが」と思われるかもしれませんが、「社会学におけるヴェーバー社会学基礎研究」に自由に専念すること自体が、容易ではなく、わたくしがそうできるようになったのも、じつは高橋先生のお蔭なのです。もとより、学問に「平坦な道」などあるわけがなく、みなそれぞれの状況で妨害や無関心と闘って「わが道を切り開く」以外にはないのですから、「第三世代」のみなさんは、また別の道をいかれるでしょうし、そうしてほしいと思います。

 とはいえ、わたくしは、尾高先生や福武先生から多くのことを学びました。実証的調査研究自体が、経験科学としての社会学にとって正念場であることは、重々心得て、自分のヴェーバー研究/学説研究も、広い意味で実証研究に役立てられるように、と方向づけてきました。その意味で、福武先生のご要望にお応えしようとつとめてきたつもりです。たとえば方法研究にしても、「経験的モノグラフと方法論との統合的解釈」という方針を打ち出し、つねに具体例を挙げ、ある範囲内では実証的適用/応用もくわだてて「切れ味を試し」、より広い範囲の実証研究と「足並みを揃えて」進むように努力しました。とりわけ、哲学畑出身で、自分の出自を相対化できない人たち(ですから、哲学畑出身者のすべてではありませんが)の論文のように、独り合点の抽象論を振りかざすばかりで、実証研究に携わっている研究者が読んでも、本人自身が分かっているのかどうかさえよく分からない、といったよく見掛ける代物とは、一線を画し、ヴェーバー自身における方法論の取り扱いと同じように、つねに具体的な経験的研究内容を念頭におき、その前進に寄与するようにとつとめてきたつもりです。

  

 さて、わたくしは、以上のような状況で、「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制」の「第二世代/類型」に属するひとりとして、日本学問の「パーリア性」の克服という課題を強く意識せざるをえず、しかもその課題を、「社会学の領域におけるヴェーバー社会学基礎研究」をとおして果していこうとしました。では、そのために、具体的にはどのような研究をくわだてたのか、と申しますと、ヴェーバーの社会学上の主著『経済と社会』が誤編纂のまま放置されているという実情に注目し、その主著を(著者自身の構想に即して)いかに再構成/再編纂するか、という国際的懸案の解決をめざしました。この懸案の解決が、日本のみでなく全世界のヴェーバー研究/社会学研究に、著者自身の構想にもとづく信憑性のある基本テクストを提供するという意味で、いささかなりとも寄与することは確かでしょう。しかし、そのためにはどうしても、ドイツ語を母語とする「本場」の研究者と、かれらに有利で、わたくしたち日本人研究者には不利な(少なくとも従来は「不利」とみられて顧みられず、「ドイツ人まかせ」にされてきた)テクストクリティークという土俵で、議論/論争せざるをえませんでした。『経済と社会』のテクストについて、ある論点と他のある論点との論理的関係を取り出して提示しましても、『マックス・ヴェーバー全集』版の編纂者で鋭利/明晰なW・シュルフターなどが、「テクスト上の関連textlicher Zusammenhangはどうか」と反問してきます。当該論点間の「テクスト上の関連」を挙示できなければ、「たんなる一解釈」としてしりぞけられてしまいます。この壁を突破するためには、たとえば(J・ヴィンケルマンが着想はもちながら自分では実施できないでいた)全テクストの参照指示連関(約500)の一覧表を(前後参照指示自体の信憑性を論証したうえで、それぞれの被指示箇所を、「キーワード検索」の域を越え、黙示的な関説箇所にいたるまで突き止める、といった文献批判的研究によって)作成することまで、実施しなければなりませんでした(『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――トルソの頭』、1996、東大出版会、301-19ぺージ、参照)

 ところが「日本の学界/ジャーナリズム複合体制」とくに戦後日本の社会学界では、「ヴェーバー研究」が即「出店販売」と見られる一方、「日本範囲で実証された理論」の構築という日本人研究者に圧倒的に有利な研究が、問題なく評価されます。それにひきかえ、「文献学」は、「先行理論」研究への過剰拘泥、あるいは(ばあいによっては)「なにかそれ自体として『問題意識を欠く』衒学癖」であるかに見られ、貶価されます。しかし、そうした「評価の準拠枠」のなかだけで生きている研究者も、当の「日本範囲の理論」を携えて、ひとたびその外に出対等な議論論争によって、「日本範囲の理論」を(よりいっそう普遍妥当性をそなえた)中範囲の理論」に練り上げようと試みれば、「文献学」とまではいかなくとも、堅実な専門的文献実証を携えて論争に臨まなければ太刀打ちできないという現実に直面し、「評価の準拠枠」そのものの更新を迫られるでしょう。

 「第一世代」の「本店-出店関係」の克服には、問題提起のうえに、まず自分で「横に直すべき縦の論文」を書き、そのうえで「縦を横に直して」国際論争の土俵に上り、「こういうふうに突破口を開けばよい」というポジティヴな方向性を、相手も認める確たる事実として提示していかなければなりません。ジャーナリスティックな問題提起に止まり、自分では「横に直すべき縦の論文」すら書けないというのでは、話になりません。むしろ、まさにそうした半学者半評論家流という(「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制」の一環をなす)伝統自体が、じつは問題ではないでしょうか。そうした伝統に棹さしてどんなに日本政治/日本外交の「アメリカ追従」「欧米追随」を難じ、「世界平和」を唱え、「国際場裡での自立」を掲げ――ること自体は大切ですが――ようとも、本元/本職の学問で「国際的に自立」せずに「内向き」なのでは、そうした言説がどうして説得力をもちえましょうか。

 ここで余談をひとつ。昨年は、日本国中、イチローの活躍に湧きました。共通の土俵で、共通のルールのもとに達成された年間262安打の大記録もさることながら、「未熟者ですから」と「国民栄誉賞」を辞退したところが凄いと思います。「先がある、プロ野球選手はプレーで勝負する」ということなのでしょう。素質ではイチローに優るとも劣らないのに、30歳そこそこで引退して評論家になってしまった江川や掛布などとは、そこが違います。「作家は作品で勝負する」といってノーベル文学賞を辞退したJ・P・サルトルを思い出すではありませんか。さて、「学者は論文で勝負する」といいきれる学者が、いまの日本になん人いるでしょうか。大塚久雄先生は、たんなる学説ではなくて思想上の持論でもあった「ピューリタン的禁欲」を放擲して、「文化勲章」を受け、「皇居に参内」されました。これでは、「プロ野球は一流になりつつあるけれども、学問(社会科学)はあいかわらず三流」の時代がつづくでしょう。

 閑話休題。高橋徹先生の秋霜烈日は、一時期、学問そのものへのスタンスに、つぎのように現われました。ご承知のとおり、先生は、1964年から66年にかけて、アメリカに留学されました。そして帰国後、「アメリカの新左翼学生はいいよ。なにか評論家風に一般的なことをいっても、かならず『そのとき、あなたは、どこにいてなにをしていましたか』と問い返してくる。きみたちも、そうした当事者性の自覚に立って、ものを考え、発言しなさい」と語られました。これは、わたくしもかねがね標榜していた「実存的に社会学すること」の要請と一致しましたので、大いに賛同し、共鳴したものでした。ところが、それからほどなくして、1968年、東大闘争が起きたのです。 

 日本の新左翼学生も、わたくしに、「いま自分たちが問題にしている本学の医学部処分、文学部処分のとき、本学教官としての先生は、どこにいて、なにをなさっていましたか」と追及してきました。そのなかには、アメリカ新左翼にかんする高橋先生の訓話を一緒に聞いた学生の顔もありました。そこでわたくしは、院生時代の「大学管理法」闘争への取り組みとその挫折をとおして、「『大学の自治』を(外に向かって)擁護するばかりでなく、内部から問題にしていかなければならない」(『社会学研究室の100年』、69ぺージ)、「自分の職場だからといって、大学教授会の古い体質にひるんではならない」と決意していたことも思い起こし、早くも直面したこの現場問題に「当事者性の自覚に立って」「『実存的に社会学して』取り組むこと」を決意しました。そして、もとより教授会の席上でも、組織防衛の利害に「浮足立って」、事実究明よりも「学生対策」を優先させ、それでいて「大学は『理性の府』である」と謳う潮流に抗して、これを批判する発言を繰り返しながら、他方では、独自に事実関係の究明にも乗り出しました。

 いったん一学問研究者としてその方向に踏み切ったとなれば、おのずから、学生側の処分糾弾文書と当局側の弁明文書とを「価値自由wertfrei」に突き合わせ、処分の事由とされた学生の行為を含む紛糾の現場を調査し、「社会学的想像力」をはたらかせて再現し、教官/学生間の「行為連関」と双方それぞれの「動機」を、ヴェーバー理解社会学の方法を適用して「解明」し、「明証的」に「理解」できる「行為(仮説)」の「経験的妥当性」を問う、というところにまでいきつかざるえません。その結果、(大学側と学生側とで最後まで見解の分かれた)文学部処分問題について、被処分学生にたいする某教官の「先手」(同僚教官を学生の囲みから「救出」しようという悪気はない「動機」から「手を抑えた」だけではあっても、逆方向に向かっていた学生には、「手を掴んで引っ張った」と感得されてもいたしかたない「先手」)を想定しなければ、当の教官(委員長ではない一平委員)ひとりにたいする一学生の「振り向きざま並はずれて激しい抗議行動」は、動機を説明できない、そして文学部教授会は、当の教官「先手」の事実を隠蔽し、当該学生の「扉外における」抗議行動を「教官たちの退室にたいする阻止行動」と誤認し、この事実誤認にもとづいて無期停学処分をくだし、そう全学に説明して「疑わしい」処分を正当化しつづけてきた、という事実関係を、確実に、異論の余地なく(じっさい誰からも異論の提示はなく)突き止めることができました。

 そこでわたくしは、そうした究明の経過と結論を、ガリ版刷りの小冊子にしたためて学内に発表し、一時期には限定的にジャーナリズムに出て公表し、「(東大)安田講堂」に立て籠もって逮捕された学生/院生の裁判では「特別弁護人」(職業上の弁護士ではない弁護人)をつとめ、その「最終弁論」を『東京大学――近代知性の病像』(1973、三一書房)と題して上梓しました。その間、一方には「恐れを知らずに」追及してくる学生/院生、他方には「組織防衛」に凝り固まって自己相対化ができない教授会(という「前門の虎と後門の狼」)にたいする「二正面作戦」を強いられながら、むしろ「対極の狭間にある自由」を活かすことができたとすれば、それはもっぱら、「理解社会学」という手段/方法を提供してくれたばかりか、「流れに抗して生きよ」と説き、「上に向かっても下に向かっても、自分の属する階級に向かっても、(必要とあれば――筆者補)耳に聞こえはよくないこと、嫌がられることをいうことこそ、学問の使命である」といいきる、ヴェーバーの「デーモン」にしたがったがためでした。

 ところが、高橋先生は、わたくしと共通に直面したこの現場問題にかんして、おそらくは「当事者性」にかんする解釈を異にし、わたくしとは対立する立場に立たれました。わたくしは、高橋先生に面と向かって「文学部処分の一当事者として、そのときどこにいてなにをなさっていましたか」と糾弾はしませんでしたし、高橋先生もまた、わたくしの(当時は「造反」といわれた)態度決定を咎め立てされませんでした。ただ、先生は、わたくしの対応に、先生の秋霜烈日にたいする同じく秋霜烈日の恩返しがメッセージとして籠められていることは、察知してくださったろうと思います。

 さて、高橋先生は、1987年に、東京大学を定年で退官されました。そのさい、見田君と宮島喬君によって退官記念論集『文化と現代社会』(同年、東大出版会)が編集されたのですが、これにわたくしは、「ヴェーバー巨視的比較宗教社会学の成立史と全体像構築に寄せて――『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から『宗教社会学』草稿をへて『世界宗教の経済倫理』にいたる思想展開の解釈と、宗教社会学諸著作・各篇の仮説的位置づけ」という長い題の(わたくしとしてはこれまでに一番力を籠めて書いた)論文を寄稿しました(後に『マックス・ヴェーバー基礎研究序説』、1988、未来社、111-300ぺージに再録)。そこでは、「倫理」論文と「世界宗教」シリーズとの関係という作品史上もっとも重要な結節環の問題につき、R・アロン、F・H・テンブルック、それにシュルフターという(ヨーロッパのヴェーバー研究を代表する)三人の所説をわたくしなりに批判し、自分の基本的見解を打ち出そうとつとめました。 

 ところで、この論文をほかならぬ高橋先生の退官記念論集に寄稿するにつけては、ある特別の意味を籠めたつもりです。というのも、わたくしはこの論文を、高橋先生のお蔭で日本でつづけられるようになった「社会学におけるヴェーバー社会学基礎研究」を(そういってよければ)集大成する「縦の論文」と見なし、その後は、(折から刊行され始めていた)『マックス・ヴェーバー全集』版で、『経済と社会』の編纂問題(初版以来の誤編纂から脱却して当該巻の全テクストを再編纂しなければならず、それには『経済と社会』の膨大な全内容を再構成してかからなければならないという、『全集』版編纂にとって一番厄介な問題)が生ずることを見越して、これに焦点を合わせ、逐次「縦を横に直して」論文を発表し、ドイツの『全集』版編纂陣に論戦を挑みながら寄与しようと秘かに決意していました。そのことは同時に、日高/高橋両先生の「輸入学問」「本店-出店関係」という問題提起に、学問研究そのものをとおして――わたくしのばあい、ヴェーバー基礎研究(それも、ドイツ語を母語としない研究者にはもっとも不利な文献批判的研究)をとおして――お答えし、研究の内容と質において「輸入学問」性(じつは「パーリア」性)を克服し、「本店」との対等な関係を創り出していく第一歩、という意味も帯びていました。さらに、いま一歩踏み込んでいえば、それは、高橋先生の学恩にたいする文字通りの恩返しであると同時に、あるいはむしろ、まさにそうであるがゆえに、高橋先生ご自身の学問的研究成果が、「輸入学問」「本店-出店関係」というご自身の問題提起に、どのようにどの程度答えているか、という秋霜烈日の問いかけを含む恩返しになろう、と予期されていました。

 この観点から見て、その間の高橋先生の研究成果、たとえば『現代アメリカ知識人論』(1987、新泉社)は、どう評価されましょうか。それはなるほど、「日本の学界/ジャーナリズム複合体制」を「評価の準拠枠」に見立てれば、華麗に博引旁証を凝らした高水準の作品と見られましょう。しかし、ではそれが、「輸入学問」の域を脱しているかどうか。やはり「新帰朝者」の系譜に連なる、戦後の「殿」ではないかどうか。研究のフィールドであると同時に社会学研究の本場のひとつでもあるアメリカの専門学術誌に発表され、論争され、認証された、確たる研究成果の、日本への「逆輸入」であったのかどうか。しかも、その内容は、歴史に「救済」を(地上に「楽園」を)求めて止まず、それだけ日常性に耐えられず、ソ連「社会主義」への夢破れてアメリカ「新左翼」に希望をつなぎ、これにも当然絶望する予兆を秘めた、「戦後日本左翼ロマンチシズム」の晩鐘ではなかったのかどうか。わたくしにはどうも、そうした印象と疑問が拭いきれないのです。こうした一連の問題についても、ご専門の方々のご批判、ご教示をえられれば幸いです。

 そういうわけで、高橋先生を初めとする恩師たちから修業時代に受けた秋霜烈日の訓練とその精神は、今日、「同じく秋霜烈日の恩返し」として、恩師たちに向け返されなければなりません。学問発展の基軸をなす「師弟関係」とは、本来そういうものではないでしょうか。「師匠の教えを体得し、やがて逆手に取って、師匠を批判し、乗り越える弟子でなければ、弟子ではない(師匠を、『日本の学界/ジャーナリズム複合体制』における『立身出世』にだけ利用しようとする『パーリア弟子』『コネ弟子』にすぎない)」というのが、わたくしの持論です。学問の厳しさは、そういう秋霜烈日の「師弟関係」をとおして世代から世代へと伝承され、そうして秋霜烈日の緊張を生きる研究者の地道な努力と学問的成果によって初めて、「やらずぶったくり」の「パーリア性」も克服され、(「対外道徳と対内道徳の二重性」を越える)対等で品位ある国際的交流関係も、現実に開け、拡大するのではないでしょうか。

 

 ところがです。現在の日本の学問/思想状況では、そうした秋霜烈日の精神、学問の厳しさを生きようとするスタンスが、地に堕ちてしまったのではありますまいか。それだけにいまこそ、ひたすら理非曲直を突き止めようとし、曖昧な言い逃れを嫌い、むしろフェアに渡り合おうとする、若き高橋徹先生の秋霜烈日が、呼び求められているのではないでしょうか。先程から、なにか身近におられるように感じられる高橋先生は、なんとおっしゃるでしょうか。

 といいますのも、じつはわたくし、ここ二年とちょっと、ある論争にかかわっておりまして、そのなかで、いま申しましたような状況認識に導かれ、危機感を抱かざるをえなくなりました。そこで最後に、我田引水となってたいへん恐縮ですが、ここにお集まりの恩師/先輩/兄弟弟子の皆さまに、秋霜烈日の復権をお呼びかけすることを、なにとぞお許しください。わたくしにとりましては、いまの時点でこの状況で未来に向けて「高橋先生を偲ぶ」意義が、とりわけここにあるからです。

 一昨(2002)年秋、『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(ミネルヴァ書房)と銘打った書物が、言論の公共空間に登場しました。よろしゅうございましょうか。「いわゆるヴェーバー社会科学」とか、「ヴェーバーとかいう人」と、斜に構えているだけではないのです。「文献学」を「拷問具」として、ヴェーバーの知的誠実性を問い、(「倫理」論文のごく一部分についてですが)立論の「杜撰」と「詐術」を暴こうとし、本人はそれに成功したと思い込んで、「ヴェーバーは詐欺師である」「犯罪者である」と主張しているのです。そうすることによって、ヴェーバー研究者を「犯罪加担者」として糾弾し、あるいは「詐欺」を見抜けない「愚か者」とあざ笑い、Schadenfreude(他人の不運/不幸に「はしゃぐ」感情)に浸っています。併せては、そういう殊更耳目聳動的な言辞を連ね、自分がE・トレルチや大塚久雄をしのぐ「世界初の発見」で「最高段階に上り詰めた」かのように装い、華々しく学界デビューを飾って「日本の学界/ジャーナリズム複合体制」の「寵児」に収まろうというのです。ですから、「ヴェーバー研究者」だけを狙って撃ち落とそうというのではなく、知的誠実性という学問エートスの根幹を、(その守護神と目されてきた)ヴェーバーを「詐欺師」と決めつけることによって、一挙に覆そうとしている、といっても過言ではありません。

 著者羽入辰郎は、自分の立論が、それ自体として学問的なヴェーバー批判の体をなしているかどうか(かりにそうであれば、わたくしとしても学問的に受け入れるにやぶさかではありませんが)ではなく、「日本の学界/ジャーナリズム複合体制」とくに一部の学者/評論家や多様な読者層にどう受け入れられるかという「ポピュリズム(大衆迎合)」には長けていて、東京大学大学院人文社会系研究科倫理学専攻から「修士」「博士」の学位を取得し、日本倫理学会からは学会賞「和辻賞」を受け、(これは際物の「政治賞=show」ですが)第十二回「山本七平賞」も受賞しました。この賞の選考委員によれば、羽入書は、「周到な文献検証」と「緻密な論理」によってヴェーバーの「学問的犯罪」を「完膚なきまでに立証」した「画期的」な「学問上」の「壮挙」で、しかも「推理小説のように面白く読める」のだそうです(『Voice』誌2004年1月号に掲載された、加藤寛/竹内靖雄/中西輝政/山折哲雄/養老孟司らの選評より)。こういう本が、おそらくは版元の思惑どおりに増刷を重ね、一時期には大学生協の書籍部に平積みされていたといいます。

 さて、羽入の主張をしりぞけること自体は、いともたやすいことです。「ヴェーバーは詐欺師である」という全称判断をくだそうというのに、「倫理」論文だけを、ポピュリストらしくもっぱら「もっとも有名な代表作」という理由で取り上げ、本論にも入らず、第一章「問題提起」第二節「資本主義の『精神』」/第三節「ルターの職業観」それぞれの冒頭、しかも(主として)細かい注記の隅に視野を狭め、ヴェーバー自身は広大なパースペクティーフのもとで類例との比較をくわだてていても、そうしたことは眼中になく、「井の中の蛙」も同然です。「文献学」とはいっても、ルターにおける語Berufや16世紀イングランドにおける語callingの用例と、「資本主義の『精神』」を例示するフランクリン文書抜粋や『自伝』における「神」言及などを、それぞれの語義と(語義を規定する)ルターやフランクリンの思想思想変遷からは切り離して(ある文書にその語形外形がみつかるかどうか、という)「キーワード検索」を「決め手」に「能事終われ」としており、いわば「没意味文献学」の域を出ません。ですから、「木を見て森を見ず」どころか、「葉をたたいて木を倒そう」とするようなものです。勝手に「(杜撰の)露顕現場」「(詐欺の)犯行現場」と見なし、まさにそれゆえ「『倫理』論文全論証構造の要」と決めてかかっている当該箇所で、ヴェーバーがなにを考え、素材をどういう方法で取り扱っているのかが、皆目分からないままに、自分のほうから「疑似問題」を持ち込み、「蟷螂が斧」を振り上げ、「ヴェーバー藁人形」に斬りつけるだけです。いいかえれば、自分のほうから持ち込んだ「疑似問題」をめぐって「ひとり相撲」を取っているのですが、ただ、並外れて思い込みが激しく、罵詈雑言と自画自賛を吐露して止みませんから、「(相撲の)相手が見えずもともと付和雷同気味のある種の学者/評論家/読者には、あたかも「相手を自由自在に手玉にとっている横綱相撲」であるかに見えるのでしょう。同じく「相手」が見えず、良心的でも気の弱い研究者は、「あれだけ自信満々なのだから、よほどの裏付けがあるにちがいない」と「度肝を抜かれ」、「衝撃(笑劇?)力に当てられ」かねません。ほんとうは、こういう比喩ではなく、この趣旨を裏付ける、文献実証を交えた論証が望ましいのですが、縷々解説し始めますと時間を要しますので、関心を向けていただけましたら、拙著『ヴェーバー学のすすめ』(2003、未来社)をご一読くだされば幸いです。

 むしろ、みなさまには、それほど論駁が容易で、しかも著書まで出して反論/反証しているのなら、もうそのへんでいいではないか、「子どもの火遊びは火傷のもと」と諭せば、それで十分ではないか、とお咎めになるかもしれません。わたくし自身としましても、『経済と社会』の再構成/再編纂というポジティヴな事業に実質上国際的な責任を負っていることを考えますと、本質的にネガティヴなこういう論争はできるだけ早く切り上げたいと切に思います。しかしです。着火を待つ引火物/燃えやすい建築資材/乾燥した空気/火を煽り立てる強風といった条件がそろいますと、「子どもの火遊び」が元で「大火事」にならないともかぎりません。ですから、まず火を消し止めたうえ、そうした条件についても思いめぐらす必要が生じます。そこで、羽入書への文献学的内在批判から、状況論的知識社会学的外在考察に転じ、内在批判と外在考察とを交互に媒介させながら進めなければなりません。ただし、そうした外在考察につきましても、ここで縷々ご報告する余裕はなく、インターネットのあるHP(http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Max%20Weber%20Dabate.htm)に、内在批判とともに連続して寄稿してきておりますので、ご関心をお持ちの向きには、アクセスしてみていただければ幸いです。

 ただ、ごく簡潔に要点だけ申し述べますと、「着火を待つ引火物」としては、受験体制の爛熟に加え、教養課程の空洞化、大学院の粗製濫造、研究者市場における供給過剰と過当競争、評価規準/評価システム/評価能力を含む研究指導/研究指導体制の不備と水準低下など、現代大衆教育社会の諸条件から、(「統計的集団」としての)高学歴危機層」――すなわち、自分の真価が世に認められず、しかるべき処遇を与えられていないと常時感得していて、ルサンチマンと「過補償」動機をつのらせ、「(目的追求に急なあまり、手段をえらばない)刷新innovation」(R・K・マートン)類型の逸脱行動に出たり、なにかの契機から『いっそのこと……』と闇雲に耳目聳動行為に走ったりする「不平不満分子les incompris」の「集群」――が構造的に生産再生産されて、これがいわば「羽入予備軍」の集積槽をなし、羽入書流「ポピュリズム言説」の「共鳴盤」ともなっている、と考えられます。

 「燃えやすい建築資材」とは、そうした集積槽のなかから「鳴り物入り」で登場してくる「ポピュリズム言説」の「際物」にたいして、厳密な学問的検証を回避する「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制」です。ここにはいぜんとして、「パーリア性」すなわち「対外道徳と対内道徳の二重性」が幅を利かせています。「対外道徳」の領域では、一方では、あいかわらず流行の最先端を追う「やらずぶったくり」(「ポストモダン」の衣裳を着た「パーリア性」、「超近代と前近代との癒着」)が横行し、他方では、外国人学者とくに死者(「死人に口なし」とばかり)「詐欺師」「犯罪者」呼ばわりされ、「濡れ衣を着せられ」、「対内道徳」からは許されない不当な仕打ちを受けていても、「なに食わぬ顔」の「見て見ぬふり」(「不作為の作為」)が通され、「嵐の過ぎるのが待たれ」ます。「旅の恥は掻き捨て」なのです。それにたいして、「対内道徳」の領域では、相互批判や論争が嫌われ、和気あいあい、ときとしては、厳正な学問的審査には耐えられない「博士論文」についても、「年嵩の妻子持ちだし、文部省も課程博士の量産を奨励している折でもあるし」と、温情(義理人情)と日和見/権力追随主義が「ものをいい」かねません。「ブレーキ欠陥車」が売られても、販売責任者の責任は(内部からは)問われません。最後まで問い残されてきた「無責任体系」(丸山眞男)の牙城といえましょう。

 そこでは、「ひとの意見はさまざま、議論し始めたらきりがないから、まあ、お互いの立場を認め合って仲良くやっていきましょう」と、「角を立てず(プレモダン)」、「心優しい(ポストモダン)」美徳が守られています。頻繁な論争によって「論戦応諾能力」ともいうべき力量――「挑戦」を受けて立ち、すかさず「応戦」に転じ、周到に「論戦」を展開し、論証を詰める、批判的思考力を含む総体的な力量――が、常時練成される、ということがありません。そのため、羽入書のような「虚仮威し」の「挑戦」に出会っても、受けて立って「応戦」/反論するよりも、「ものいえば唇寒し」「雉も鳴かずば撃たれじものを」とばかり、「沈黙」「黙殺」の黄金律に逃げ込むのが得策とされます。それどころか、「ことは『ヴェーバー研究』に局限されず、学問エートスの根幹に触れる問題なのですが……」と広く応答/発言を呼びかけますと、むしろこちらが「タブーに触れた」かのように、逆襲を被ります。たとえば、「自分は『ヴェーバー研究者』ではないのに、なぜ『踏み絵を踏ませる』のか」との反発に始まり、「(ヴェーバーについてはなにもかも擁護しなければ気がすまない)『強迫観念』の虜なのか」とか、(事柄に即して理非曲直を争うべき問題を、美意識の平面にすり替え、勢いあまった当事者の「言葉尻」を捉えては)口汚く相手を罵る『不逞の輩』の真似ができるか」とか、「なぜ、それほど『論争好き』になったのか」(と動機形成論に還元しては争点を回避する)とか、「本末転倒」としかいいようのない非難が、陰に陽に投げ返されてきます。羽入書が言論の公共空間に登場した事実そのものにたいしては「見て見ぬふり」を通し、ヴェーバー研究の専門家として当然負うべき論戦応諾責任(たとえば『マックス・ヴェーバー入門』の著者として「入門」を促した読者にたいして当然果たすべき)社会的責任は回避したままの人たちからです。そうした「学者」たちが、(じつのところ、当の責任/社会的責任を果たすために「自分の研究」も中断している)わたくしに、「ここのところはひとつ頼みますよ」でも「あなたも忙しいのにすみませんね」でもなく、むしろ自分の責任/社会的責任の回避を(みずからそうと認めたくなくて、自他に)正当化するかのように、そうした逆風を送り返してくるのです。さらには、「あなたにはもっとやるべき研究があるだろう」などと、逆に「説教」しようという「弟子」まで出てくる始末です。こういうところは、1968年の「第一次闘争」当時からいまにいたるまで、ちっとも変っていません。

 「現場」における「対内道徳」のこうした精神風土に、多少とも批判を抱く人は、いっそ「現場」を放棄し、ジャーナリズムに出て「いいたいことを言おう」とするでしょう。こうして、「島国日本の学界/ジャーナリズム複合体制」における「パーリア性」/「対外道徳と対内道徳との二重性」と裏腹のその構造を補完する契機のひとつとして、あの半学者半評論家流の伝統が温存されます。半評論家が「二階の」ジャーナリズムで(「免罪符」よろしく)「もっともらしいこと」を語ろうとも、半学者として自分の住む「一階の」現場は、旧態依然、論争のない無風状態で、もっぱら「対内道徳」が支配しています。そのため、論争をとおして「論戦応諾能力」が練成されることはなく、なにをいっても「無視」「黙殺」という「悪循環」が繰り返されます。

 「乾いた空気」とは、なにが起きても「対岸の火災」「近隣のぼや」として「無視」「黙殺」し、「見て見ぬふり」を通して「嵐の過ぎるのを待つ」、この精神風土の広い裾野のことです。「ことが起き」、「強風に襲われた」ときには、もう手遅れでしょう。「強風」は、こうした「危機層」を外部から組織して利用しようとする政治勢力として、すでに間歇的には耳目聳動的に姿を現し、あるいは常時目立たない形で吹き始めているともいえます。「手遅れ」になるまえに、「危険な火遊び」の火種を(もとよりもっぱら言論の力によって)絶つと同時に、「燃えやすい建築資材」を鍛え直して「耐火構造」に変え、併せて「乾いた空気」も湿り気を帯びるように潤していかなければなりません。

 それにはとりわけ、大学院における学問研究/研究指導の現場担当者が、「パーリア性」「対外道徳と対内道徳の二重性」を克服し、学内論争をとおして厳正な検証評価能力を取得し鍛え直し実践していくことが、肝要と思えます。評価/評価システムが、たとえどんなに厳格であっても公正であるという信頼があって初めて、「高学歴危機層」も、闇雲にポピュリズムの「邪道」に走り、逸脱行動によって「アノミーへの緊張」を高める方向にではなく厳正な評価に耐えうる確実な成果/実績をめざして地道な研究努力を重ねるか、それとも「納得して他に転進する」道を選択するか、どちらか、というフェアな分化に導かれて、「危機層」であることの度合いも徐々に低減していくでしょう。それに反して、このまま放っておいて、評価水準と評価への信頼が低下しつづければ、「危機層」に属する当事者のみか院生の志気も低下し、学問研究の後継者が育たなくなるばかりか、(なにが評価され、なにが評価されないか、不分明/不透明な)「無規範/無規準/無規制(アノミー)」状態がつのり、そこからシニシズムとニヒリズムが育ち、「けっきょくは自分の恣意を『価値』として押しつけ通せる『権力』を握った者が『勝ち(=価値)』だ」とする権力主義が台頭して、勢力を握りかねません。

 そうした傾向/趨勢をくい止める具体的な第一歩としては、まず手近なところで不公正な審査/評価がおこなわれたとしか考えられない、ほかならぬこの羽入書につき、審査当事者にたいして外から論争を提起し審査の是非と審査能力を問い責任を執ってもらいそうすることをとおして評価責任の向上と信頼の回復を促すことから始めるよりほかはありますまい。「知的誠実性」を楯にとってヴェーバーを裁き、「詐欺師」「犯罪者」と決めつけておきながら、同じく知的誠実性を規準として論駁しても、一年以上にわたって応答しない「博士」とはなんでしょうか。そういう「博士」の「ポピュリズム言説」からなる耳目聳動作品は、「子どもの火遊び」であったと認定せざるをえません。しかもそれが「危険な火遊び」と判明したいま、「遊び主」が「大きな子ども」で「自分では責任が執れない」というのであれば、そういう「子ども」を甘やかして「火遊び」を放任し、「学位」や「賞」まで与えて「奨励」した「親権者責任を問うほかはありません。「欠陥ブレーキ車」を世に出した企業の責任者が、製造/販売責任を問われ、そうして初めて当該企業の責任性、ひいては信頼性の回復がはかられ始めるというのと、同じことです。

 そういうわけで、わたくしはいま、(ここにお集まりの方々多くの出身母胎であり、後に着任されたスタッフにとっては職業上の現場である)東京大学文学部/東京大学大学院人文社会系研究科にたいして、さしあたりは(羽入書の原論文を「学位に値する」と認定した)倫理学専攻に向けて、「外から」論争を提起し、内容としてはヴェーバー論から、学問論、大学院制度論/同教育論/同研究指導論・同評価論をへて、現代日本の学問/文化状況全般にかかわっていく思想上の闘いを、若き高橋徹先生の秋霜烈日の精神をもって闘おうとしております。高橋徹先生、どうか見守っていてください。みなさまも、わたくしがこの闘いをフェアに闘い抜けるかどうか、秋霜烈日に睨んでいていただければ幸いです。

 さて、最後に、もとよりこのスピーチは、意識して一面的に、もっぱらわたくしのエクセントリックともいえる関心から、高橋先生の生涯とお仕事のごく一部分に光をあて、素材を抽出し、組み立てたものにすぎません。ここで取り出した側面が高橋先生の「人と学問」の総体である、とはとうていいえませんし、そういうつもりはまったくありません。たとえば先生の「春風駘蕩」の面については、しかるべき適任者が出てきて、論じてくれるでありましょう。先生の秋霜烈日の「厳しさ」が、じつは「優しさ」に発していたという事実も、もとよりわたくしも承知しておりまして、むしろ、今日縷々論じてきたことの前提でもあります。

 もう一点、お若いころ、働き盛りでいらしたころ、教育に過重ともいえる力を注がれた先生としては、退官後、すべての教育義務から解放されて、長年の蓄積と研究成果を、ゆっくり論文にまとめて発表していかれるおつもりだったのではないでしょうか。その矢先、最愛の奥様がお亡くなりになったことは、まことに痛ましいかぎりです。しかし、先生がやり残された多くのお仕事は、先生の精神を引き継いだ多くの弟子たちによって、少しずつ成就されていくでしょうし、ぜひそうしなければなりません。長い目で、先生のお仕事の継承、また日本の社会学・社会科学の連続的発展という見地から見ますと、先生があまりなにもかもなさりきらずに、多くの課題を残してくださったことが、かえってよかったのかもしれません。そういう意味でも、高橋徹先生、どうか安らかに、「オールラウンドのスーパー教師」のままで、弟子たちの仕事ぶりを見守っていらしてください。

(2005年1月30日、脱稿)