新著『マックス・ヴェーバーとアジア――比較歴史社会学序説』刊行のご挨拶

 

本日2010310日)、上記表題の新著が、平凡社より刊行されました。自己解説抜きでご批判に委ねるべきところですが、僣越ながら、ここで目次と粗筋をご紹介させていただきます。本書は、下記の四章、29節から構成されます。

 

 

はじめに

 

. ヴェーバーにおける欧米近代――「倫理論文」の内容骨子

1.「職業義務エートス」としての「(近代)資本主義の精神」

2. カルヴィニズムの「二重予定説」と「合理的禁欲」

3.「合理的禁欲」の普及と「(近代) 資本主義の精神」への転態

4.(近代) 資本主義の精神」の帰結と 「二重予定説」の機能変換

5.「倫理論文」におけるヴェーバーの自己限定

 

. ヴェーバーによる比較歴史社会学の方法と構想――「倫理論文」を越えて世界史へ

6. 研究領域、因果帰属先の拡張と、因果帰属の論理による他文化圏との比較

7. ヴェーバー社会学の創成――歴史研究への基礎的予備学

8.比較歴史社会学――理解社会学(理解科学の「一般化」的「法則科学」的分肢)と歴史学(「個性化」的「現実科学」的分肢)との総合

9.「旧稿」の趣旨――人間協働生活の普遍的要素にかんする類-類型概念の決疑論体系

10.「カテゴリー論文」の内容骨子――「理解」の方法手順、社会的行為-秩序の「合理化」にかんする「四階梯尺度」

11. ヴェーバー「一般社会学」の特性と、「総体把握」への方法-理論構想

 

. ヴェーバーの比較歴史社会学におけるアジアとくに中国

12.「欠如理論」ではないヴェーバーの眼差し――非西洋文化の特性把握と因果帰属への一般方針

13. インドにおけるカースト秩序の歴史的形成とその諸条件

14. 中国における近代資本主義の発展に有利な経済的諸条件――X₁ 私人の手中への貨幣集積とX₂ 流動可能な人口の大量増加

15. 経済的には可能な資本-賃労働関係を、社会的に阻止した主要因――X氏族の抵抗

16.氏族の歴史的消長を左右する諸要因――- X 政治-支配体制とX 宗教性

17. ヴェーバー支配社会学の内容骨子――正当的支配の三類型、下位諸類型、それぞれの組織構造と変動因

18. 中国のX 政治-支配体制――春秋戦国期の「封建制」から秦漢帝国以降の「家産官僚制」へ

19. 中国のX宗教性――家産官僚制と正統儒教との個性的互酬-循環構造

20. 中国農村における「ボリシェヴィズムの共鳴基盤」――貧農と光棍

21. 日本における近代資本主義受容の諸条件――封建制と天皇制との個性的互酬-循環構造と、幕末開国期の「白紙状態」

22. 西欧における初発の「近代化」にいたる諸条件

23. 西欧とロシア――比較歴史社会学の「思考実験」

 

. 比較歴史社会学の展開――ヴェーバーからのパラダイム変換と再構成に向けて

24. 日本における「敗戦後近代主義」のヴェーバー解釈とその被制約性

25.「プロテスタンティズム・テーゼ」の「法則科学」的普遍化即一面化――ベラーと余英時による展開の問題性

26.比較歴史社会学のパラダイム変換に向けて

27. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「アメリカ合衆国」――「西欧近代の『出遅れた鬼子』」

28. 比較歴史社会学のパースペクティーフにおける「ロシア帝国」と「旧ソ連」――「西欧近代の『巨体の亜流』」

29. イギリス(ユーラシア大陸の西の島国)と日本(東の島国)との対照性に見る中日・日中関係の独自性――「学問力-文化力-平和友好力の互酬-循環」路線への転轍

 

あとがき

 

事項索引、人名索引

 

 

章から章と21節までで、「倫理論文」(初版)以降の三主著(遺稿)『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』におけるヴェーバーの学問展開を、ひとつの「全体像」に集約します。それは、「西洋(とくに近代)文化総体の特性把握と因果帰属」をめざし、(「法則科学」としての)社会学と(「現実科学」としての)歴史学とを独自に総合する「比較歴史社会学」構想として、捉えられます。

22節では、夭折によって実現しなかった当の構想「本番」の内容骨子を、「世界宗教の経済倫理」の裏読みと『経済と社会』の照準点との統合的解釈によって復元します。その要点は、古代ユダヤ教とキリスト教を古代からの主体的与件とし、西欧中世世界におけるローマ・カトリック教権と封建制的俗権との「対抗的相補関係」を環境条件として、「漁夫の利」を占めた都市集住者が、市民身分を形成して都市自治を達成し、「近代化」への風穴(価値観点を換えれば、生産諸力の異常発達への傷口)を開ける歴史的経緯に求められます。23節では、そうした「西欧中世に固有の個性的布置連関」の歴史的-因果的意義を、ヴェーバー自身の「因果帰属の論理」に則り、(教権と俗権との癒着により、ノヴゴロドの都市「自治」がモスクワ国家に併呑され、市民的発展の萌芽が摘み取られた)ロシア史を比較対照項として検証します。

 章では、翻って、日本における従来のヴェーバー研究を、ヴェーバー自身のそうした固有価値と潜勢を捉えきれず、「人間における近代化問題」でなく「近代化における人間問題」と、逆さまに問題を立てた「敗戦後近代主義」の「存在被拘束性」から、批判的に捉え返します。そのうえで、「西欧近代文化世界の嫡子」としてのヴェーバーとは異なる、「西欧近代のマージナル・エリア(インド、ロシア、中国、日本など、周辺・境界・外縁地域)」の一隅に生を享けた「マージナル・マン(それも1935年生まれの「敗戦世代」)」の立場から、比較歴史社会学の「パラダイム変換」を企てます。ヴェーバー没後、第二次世界大戦後に「冷戦構造」の双極に躍り出た一方のアメリカ合衆国(離脱衆国)を「西欧近代の出遅れた鬼子」、他方の(旧ソ連を含む)ロシアを「西欧近代の巨体の亜流」として位置づけ、日中関係の独自性を、ユーラシア大陸の西の島国(ヨーロッパ半島の出島)イギリスと東の島国日本とのマクロな比較によって捉え返します。

結論としては、一筋縄ではいかない国際的力関係の惰性的現状には冷徹に対処しながらも、「(西欧中世-近世に発し、近-現代には生産諸力の異常発達にいたりついた)経済力と軍事力との互酬-循環構造」に換えて、生産諸力を地球環境の生態学的許容限界内に公正に制御していく「維持可能な循環型地球-人類社会」の構築をめざし、「学問力-文化力-平和友好力の互酬-循環」路線への「転轍」を唱えます。

 

 そのように、筆者の従来の拙作とは異なり、「ヴェーバーでヴェーバー(の遺作)を越え」、そのうえで「みずから(「敗戦世代のマージナル・マン」として)ヴェーバーをも超えよう」と試み、各所で筆者の価値観点を表明します。こうした方向で、比較歴史社会学の展開に向け、今後も微力を尽くしたい所存ですので、どうかご繙読のうえ、忌憚なくご批判くださいますよう、お願い申し上げます。(2010310日記)