戦後精神史の一水脈――北川隆吉先生追悼(改訂稿)

20141031日 折原

 

[去る8月初頭、名古屋在住の友人から「北川隆吉先生を偲ぶ会」の案内が届き、先生のご逝去を初めて知った。筆者はここ数年、利根川縁の片田舎に蟄居し、大学の研究室や日本社会学会とはほとんど没交渉にすごしていたため、お見舞いにもお悔やみにも伺えなかった。

ただ、ここ数十年来、先生に近況報告を兼ねて拙著や拙論の抜刷をお送りすると、そのつど朝駆けの電話をいただき、つい長話するのがならわしとなっていた。ところが、今年は、年頭に拙著『日独ヴェーバー論争――「経済と社会」(旧稿)全篇の読解による比較歴史社会学の再構築に向けて』(2013年、未來社)をお送りしたところ、いつものお電話がなく、どこかお具合がわるいのではないか、と心配してはいた。

先生のご冥福を、心からお祈り申し上げる。

その後、お悔やみに代えて、1956年から60年代にかけての北川先生の思い出を点描しながら、筆者が学部学生また院生として受けた教えと影響について、一文をしたため、「北川隆吉先生に学ぶ――ご逝去を悼んで」と題して、ご遺族宛てにお送りした。

いま、その一文を、表題と文体は改め、必要な補訂も加え、ここに掲載する。戦後精神史の一水脈をたどり、若い世代による継承にそなえたいと思う。]

 

§1. 学生とも対等な人間として――はじめての北川先生

1956年、筆者が東大教養学部から文学部社会学科に進学したとき、北川先生は、(塚本哲人先任助手の転出にともない)主任助手となられたところだった。研究室の入り口に一番近いところに、座席を構え、つねに学生と向き合ってくださった。研究・教育職を志望していた筆者も、大学では「研究至上主義」がどんなに幅を利かせていても、やはり教育を重んじ、学生とも対等な人間として付き合っていかなければならない、と思い知った。

研究室の運営についても、おそらくは (1953年に助手に就任されて以来の) 北川先生のご尽力によって、院生も加えた研究室会議が定期的に開かれ、図書選定その他、民主化が軌道に乗っていた。ずっと後 (1996) のことになるが、筆者が東大教養学部を停年退職後、北川先生のご紹介で名古屋大学文学部に奉職したときにも、社会学研究室には、同様に民主化が徹底されていて、「あっ、これだ」と、学生・院生時代を懐かしく思い出したものである。

 

§2. SSM調査への協力拒否――北川先生の実存的決断

それからしばらくして、東大社会学研究室では、主任教授が、アメリカの財団から研究資金をもらい、「社会階層と(階層間)移動」(Social Stratification and Mobility、通称SSM) と題する全国規模の調査を実施しようとした。当時、山下清という風変わりな画伯がいて、なにかにつけ「その人って、兵隊の位でいうと、どのくらい?」と訊いては笑いを誘っていたが、SSMでは、社会学者が、同じ流儀で、人や職業を「上、中(の上、中、下)、下」と「格付け」し、社会の全般的な「官僚制化」にともなう価値序列の編制に、「学問的」上塗りを施し、「事実をして語らしめ」ようとしたのである。

ちなみに、全社会的な「官僚制化Bürokratisierung」とは、マックス・ヴェーバーによれば、「資本」ほか「物的経営手段」一般の集積-集中を基礎とする「ピラミッド状位階秩序」の編制によって、「組織」内また「組織」間に(権威と利害状況による)「支配」(さしあたり命令-服従関係)」の「合理化」(後段で解説) がいきわたる事態を意味する。ヴェーバーは他方、「資本家 (企業者)」「労働者 (被雇用者)」といった「社会層形成soziale Schichtung」の動態を分析するさい、(カール・マルクスが、学問上は未完のままに残した)「階級Klasse」の概念を引き継ぐと同時に、一方では、「即自的階級から対自的階級へ」というように「階級」を「集合的主体」として「実体化」することは避け、「階級状況」を共有する諸個人の ①(相互間に「主観的な意味」関係はない)「集群Gruppe」から、②「無秩序・無定型のゲマインシャフト (社会) 関係」(たとえば、自然発生的で相乗的な「ブーイング」や「叛乱」)と 制定秩序ある「諒解関係」(たとえば、労働給付・能率の意図的「緩怠Bremsen」「サボタージュ」)をへて、④制定秩序に準拠する「ゲゼルシャフト関係」(労働組合や階級政党) の結成とその「多年生」化・「経営Betrieb」化にいたる一尺度を設定し、(「逆行」もありうる) 流動的相互移行関係として、「理解社会学」的に捉え返した。他方、「階級」概念だけでは捉えきれない、人間の集合行動-社会的行為の多様性を、歴史的具体的に説明しようとして、「身分Stand」の概念を対置し、「階級」分析を補完しようとした。ところが、SSMは、いきなり「上、中、下」という抽象的価値序列の「位階」概念を持ち込み、「階級」概念にとって代えようとしたのである。

このSSM企画に、北川先生は、学問上無意味かつ思想上有害として、はっきり反対された。当時、講座助手が主任教授の企画に、正面きって異論を唱え、反対を表明するのは、前代未聞のことで、たいへん勇気のいる決断だったにちがいない。

 

§3. 実存主義・マルクス主義・マックス・ヴェーバー――1935年生まれの思想模索

筆者はといえば、教養課程の学生のころから、「マルクス主義か実存主義か」という問題に悩み、どちらかといえば実存主義に共鳴していた。戦中の「縁故疎開」(「国民学校」の学級を単位とする「集団疎開」ではなく、個別家族ごとの分散移住)にともなう「同輩集団」や「近隣集団」からの疎隔-孤立-「故郷喪失」という「戦争体験」「戦争から派生した体験」(の一類型)が、敗戦後にも尾を引いたのであろう。また、論壇知識人の(典型的には「戦前左翼-戦中右翼-戦後にまた左翼」といった)鮮やかな変身が、「反面教師」となり、時代風潮に流されない「思想的首尾一貫性」へのこだわりを、それだけ強めたようにも思える。「教科書に墨を塗る」という「戦後民主主義」の象徴儀礼にも、敗戦後転向の「過同調」が看取され、「これでは、時代風潮が変わればまた同じことが繰り返されかねない」という危惧と疑念が残り、当時流行の鑽仰には同調できなかった(「戦争体験」の諸類型と「戦後責任」の究明は、また別の課題に属する)。

とはいえ、マルクス主義も、敗戦後の生活難と精神的混迷から脱する、思想的に一貫した裏打ちのある選択肢として、重要と思われ、少なくとも一概に否定はできず、むしろ実存主義と架橋する方途はないか、と思案して、その媒介をヴェーバーに求めた、ともいえる。

というのも、実存主義は、「現実存在」が「本質」に先立つ、という形式上の抽象的規定から、「実存的決断」の個別・一回性を強調して止まないが、決断の実質的規準となると、そのときどきの個人の「利害関心Interesse」を優先させ、ともすれば「我利我利亡者」を正当化する傾きがあった。また、戦中、侵略戦争の「世界史的意味」を謳った「京都学派」からは、敗戦後の一時期、「実存主義」を解説して論壇に再登場する転向者が続出していた。

その点、筆者は、実存主義に倣って「個人の実存的決断」を重視するにしても、決断の規準も立て、そのときどきの個人的利害を排他的に主張する「利己主義」ではなく、なにか普遍的な理念Idee」を模索し、「理念」との「意味Sinn」関係も明確に把持して生きたいと願った。他方、そういう「理念」を、自分一個の胸奥に留め置くのではなく、他者にも表明し、議論を重ね、「合意」も形成して、「下から」「自発的結社」を創り出し、簇生させて、究極的には社会全体に押しおよぼしていくことはできないか、それこそ「真の民主化」ではないか、とも考えた。

となると、青年マルクスが唱えて生涯維持した、人間の「自己疎外Selbstentfremdungの止揚という「理念」が、優れて人間的な「情念」と「理想」の表明として、対応を迫ってきた。すなわち、人間の制作品・労働労生産物が、(「対象的・感性的自然存在」としての)人間の「対象化 (外化)」態でありながら、「私的所有(排他的占取)」によって制作・生産当事者からは疎隔され、よそよそしい対象として敵対してくる諸関係を、生産諸手段の私的所有を排する階級闘争と革命によって廃絶し、「対象化」と「獲得(内化)」との「弁証法」的「螺旋」関係を生み出し、諸個人の相互豊饒化と全面発達を達成しようとする「共産主義Kommuni (-kationi) smus」の理念である。ただ、その純正な実現はたいへん難しく、敗戦後日本その他における「マルクス主義」的党派の集団的実践のように、(当該社会に根強い)「家父長制」の残滓を引きずりながら無理を犯せば、掲げる目標が「理想主義的」であるだけに「正当化」「自己正当化」も激越な、それだけ非人間的な「随伴諸結果」をもたらしかねない、と危惧された。当時は「ハンガリー事件」(1956年)の直後とあって、「共産圏」(ソ連の支配下にある東欧諸国) の実情に批判的となるばかりか、「ロシア・マルクス主義」とは訣別して、マルクスの初心に立ち帰ろうとする気運が高まり、『経済学-哲学草稿』(1844)が注目を集めていた。筆者も、本郷の大月書店を訪ね、倉庫から『マル・エン選集』(補巻4) を探し出してもらい、ランズフート編『初期論集』(Karl Marx, Die Frühschriften, hrsg. von S. Landshut, 1953, Stuttgart) に抄録された原文とも照合して、なんとか読解しようとつとめた記憶がある。しかし、「類的存在Gattungswesen」というキー・コンセプトが難解で、なかなか「腑に落ちず」、悪戦苦闘した。そのうえ、「疎外論から物象化論への移行」となると、マルクスの言表を権威として措定することなしに、その内的必然性を追思惟することができるのかどうか、疑念を払拭しきれなかった。

そこで筆者は、「疎外」の概念を、「人間諸個人のつくり出した社会諸形象が、当事者には疎遠な構造に凝固し、逆に諸個人を支配する倒錯」というふうに、一般化して捉え返し、たとえば「『精神の凝結態』としての『官僚制』の屹立-『支配』」というヴェーバー的把握も含め、そうした広義の「疎外」諸形態にたいする批判の規準として採用することにした。他方、「疎外の止揚」を「歴史的必然」の到達点や「歴史的救済」の目標と決めてかかるのではなく(そうしたシェーマは、カール・レーヴィットの『歴史における意味』(Meaning in History, Chicago, 1949) により、キリスト教的終末論の世俗化形態として思想的に暴露・論証され、相対化されていた)、筆者個人の微小な試行実践が漸進的に目指すべき「規範的目的」というふうに捉え返した。「初期の『ブルジョア・マルクス』への還元」として批判されはしたが。

さて、それでは、「疎外」論のそうした評価と捉え返しが、ヴェーバーを媒介に、実存主義とどう架橋されるのか。

敗戦後の日本も巻き込まれ、「戦後復興」のためには当面そうするほかはないと思われた「近代化Modernisierung」とは、「合理化Rationalisierung」(簡略にいえば、「理知ratio」が、「呪術」の制約から脱して、「ものごとの処理」に適用され、「予測-計算可能性」、相応に「再現可能性」も高まる過程)が、当初の宗教領域に止まらず、すべての生活領域に普及し、貫徹されようとする事態、と考えてよかろう (FH・テンブルックの概念整理による)。それでは、当の「合理化」、それも「社会」領域 (さしあたり個々の構成員全員の集合) の「合理化」とは、どういう事態か。

それはひとまず、個々人が「自然に」(ということはつまり、生得の遺伝形質と所与の環境との制約に全面的に服し、所定の生活軌道の枠内で) 生涯をまっとうし、世代交替も同様に繰り返される事態とは異なり、さしあたりは特定の個人が、なんらかの企図のもとに「理知」をはたらかせて特定の「秩序を制定」し、これに準拠して他の諸個人の配置や処遇も決め、つまり「(社会的) 組織」を設立し、そうした「組織」が簇生して、「社会」の全面を覆い尽くすかに見える事態といってよいであろう。「資本」の集積-集中も、宗教領域の「合理化」が経済領域に「転移」して昂進する事態の一帰結として、相対化して位置づけられるが、これまた、経済領域に止まらず、「物的経営手段」一般の集積-集中をともなう全社会的な支配合理化」つまり「官僚制化」に帰結し、進展する。

ところが、どんな「組織」でも(企業、労働組合、官庁、政党、大学ほか、なんであれ)、その成熟 (「臨機的」結集の「多年生」化) につれて、組織の維持ないし拡大自己目的とする「利害関心」が派生し、(「代表幹部」の「職業」的「特殊利害」を主導因とし、組織構成員「大衆共通利害」にも支えられて)圧倒的に優勢となる。と同時に、そういう「集合的主体」の「一人歩き」にともない、「秩序」制定・「組織」創設のさいには基礎とされた当初の理念」や「設置目的」が、それだけ疎んじられ、曖昧になり、減衰し、忘却されもする。そのようにして、さしあたりは諸「組織」の、やがては(全「組織」がそのように「合理化」され、「官僚制」的に編制される)「社会」全体の没意味化」が、もたらされる。

いずれにせよ、「組織の合理化」が、必然的ないし同時並行的に「個人の合理化」をともなうわけではない。「組織」に属する個人は、「組織の合理化」にともない、むしろ圧倒的に、「没意味化」としての「非合理化」を被る。ちなみに、「(実質的)合理化」とは、ヴェーバーではそれ自体多義的な「形式」概念であったが、かれの問題設定と概念構成を引き継いだカール・マンハイムでは、「個人が、自分の目的とその意味を自覚し、所与の状況における諸要因の相関関係をみずから洞察して理知的に行為する能力」というふうに限定して捉え返されている。筆者は、「個人の非合理化」を、なによりも「没意味化」として捉える。そうすると、なんらかの「組織の内部に生きる個人は、「組織の合理化」につれて、「個人としての没意味化」の「流れに身を委ね」、「保身-出世第一主義」に陥って、「組織」の自己運動ないし自己拡張の「歯車」(伝導装置) に甘んずるか、それとも、そうした圧倒的趨勢を見据えながらも、当初の理念(大学であれば「真理探求」の使命) を想起し、その「普遍性(大学そのものをも「真理探求」の対象に据えて、例外とはしない「普遍性」) に思いをいたし、「流れに抗する」実存的決断の規準として堅持し抜くか、どちらかを選ばなければならない。筆者は、後者に与し、そうした「理念」の首尾一貫した堅持という水脈は絶やさず、個人から個人へと引き継いでいきたい、と願ってきたし、いまもそう願っている。

 

さて、おおよそそういう方向で思索を進めていた筆者は、実存的決断とも思える北川先生のSSM協力拒否に、それだけ衝撃を受け、共感を覚えた。

研究室メンバーの対応は、多種多様であった。たとえば、「『上中下』というような抽象的価値序列の位階構造は、たしかに否定されるべきものであるが、まさにそうであればこそ、その実態を『科学的に』究明し、把握しておかなければならない」と唱えて協力に転ずる人々はまだしも、「主任教授の『苦境』を『見るに見かね』て、一種の『義侠心』から協力する」という人も出てきた。

筆者自身はといえば、まだ研究者として自立せず、明快な態度表明は打ち出せなかった。しかし、自分も今後、大学人人生を歩んで同じような問題に直面し、岐路に立たされたら、妥協せず、厳しい道も選ばなければならない、と思った。「持説を曲げても上司に協力する」、「さしたる自説がないので上司に従う」、さらには「およそ学問研究は放棄して、管理業務に活路を見いだし、地位にへばりつく」というような「学者的立身出世主義academic careerism」に浸されてはならない、と肝に銘じた。ちなみに、このacademic careerismも、全社会的な「官僚制化」にともなってあらゆる生活領域に浸透する「官僚主義」的な生き方と価値観が、大学内にも波及して展開を遂げる一分肢として位置づけられよう。

 

§4. 学恩の二焦点――難問「マルクスに翻案せよ」と、社会調査技法の「両義的」範示 

学問内容のうえでは、北川先生からつねづね、「マックス・ヴェーバーを研究するのもいいが、かれの学説を、マルクスの用語に置き換えると、どういうことになるか、説明してくれたまえ。そうして初めて、社会科学として有意義な議論もできようから」と、いささか無理な質問を浴びせられた。しかし、お蔭で筆者は、ヴェーバーと同時並行的に、マルクスの読解もつづけ、双方を対比し、相互補完的に理解しようとつとめた。

とはいえ、筆者は、戦前の「講座派マルクス主義」の伝統を引き継ぎ、当時はカール・レーヴィットの影響下に支配的となった「マルクスヴェーバー」論に、すんなりと荷担することはできなかった。というのも、そうした標語のもとで、(ちょうどその頃刊行されて話題となった大塚久雄氏の『共同体の基礎理論』[1955、岩波書店] のように) マルクスの (「資本制生産に先行する諸形態」に示された) 理論的枠組みに、ヴェーバーの個別の論点 (たとえば「ゲマインデ」論) をやや無造作に取り入れる流儀が、当時なお優勢な「マルクス主義」ないし「マルクス論」の権威のもとにまかりとおっており、そうした「理論的」折衷の所産が、ヴェーバー研究としては多分に未消化のままではないか、という疑念が払拭しきれなかったからである。筆者はむしろ、マルクス以後の思想家ヴェーバーが、マルクスをどう摂取し、止揚しているのか、という側面にも、少なくとも同等に力点を置き、まずはヴェーバーへの内在-沈潜から始めて、マルクスとの相互補完的読解進めていきたいと願った。というよりも、正直のところ、ヴェーバーの作品がこれまたたいへん厖大かつ難解で、立ち入れば分からないことだらけだったので、いきなり「ヴェーバーとマルクス」などと欲張らず、むしろ当面は「ヴェーバー研究者」と自認・自己限定し、そう名乗り出もして、地道に読解を進めていきたいと願った。途上でマルクスから学んだ論点も、その旨明記して、論文の注には編入したが、「ヴェーバーマルクス」(広くは「ヴェーバー誰某」) 論者を装い、「自分はたんなるヴェーバー研究者ではない」と (豪語しないまでも、なにほどか) 仄めかし、併せて (当時はなお優勢な)「ブルジョア社会学」という非難から身をかわそうとする流儀は、「学者の尊大癖と臆病academic arrogance and cowardice」の一種ではないか、とも感得されて、追随はできなかった。

ちなみに、筆者にも、『デュルケームウェーバー――社会科学の方法』と題する著作がある(1981年、三一書房)。この点、簡単に釈明すると、筆者としてはこの本を、できれば『デュルケーム「自殺論」読解――社会科学の方法姿勢を会得するために』という表題で上梓したいと願ったし、学問上厳密にはそうしなければならなかった。それにもかからず、(主たる理由は)出版社の要望を容れて『デュルケームとウェーバー』というタイトルに決めたのであるが、ただそのさい、二人を並べて「と」でつなぐこと自体に、理由がないわけではなかった。というのも、デュルケームは187071年の「普仏戦争」、ヴェーバーは191418年の「第一次世界大戦」の敗北後、それぞれの戦後復興 (社会-文化再建) を、(内容上は対照的ながら、ともに)「社会学の構築をとおして学生とともに担っていこうとする実践的意欲とスタンスを共有していた。したがって、双方とも、同時代の政治-社会的事件(「ドレフュス事件」や「第一次世界大戦」)に直面するや、「事柄に即したsachlich」発言と態度表明を厭わず、しかも、そうすることをとおして現在進行形で学知内容を是正再編成していった(その点では、マルクスの「フランス三部作」にも比肩されよう)。デュルケームとヴェーバーは、そのように「政治と学問、運動と研究との統合」を目指すスタンスにかけては共通であった。そして、まさにこの面が、「第二次世界大戦」敗戦後の(筆者世代の)「戦後復興」への意欲と共振したのである。それゆえに、「デュルケームヴェーバー」が、とりわけ大学の教養課程で、学生に、同時代の状況の問題にかかわる「事柄に即した」論証のスタンスを、自己形成・「教養」の核心として会得してもらう格好の媒体として、そういう「意味」に着目して、教材に採用され、読解され、対比され、敷衍された。ちなみに、「社会学」(というよりも「社会学することSoziologieren」)の意義を、そのように「教養」形成、したがって教養課程の教育実践と結びつけて捉えようとする見地は、「196263年大管法闘争」への関与の一帰結として導き出され、自覚されてきたものである。その経緯については、後段§6で述べる。

 

その後、1959年のことと記憶するが、北川先生を団長とする静岡県吉原市の(少年非行を中心主題とする)社会調査には、一員として参加し、「専門的規律Disziplin」として「社会学的調査技法」を学んだ。現地を歩いて、住民から直接話を聴き、役場の台帳から集計したデータとも突き合わせて、情報を集積し、当該地域の社会関係-社会構造を再構成していく手順と技法には、大いに興味を覚え、重要なこととして修得につとめた。

他方、相手の話を巧みに誘い出し、相手がとり結んでいる社会諸関係も透視して、話の内容をそのつど、そうした社会的なコンテクストのなかに位置づけながら、対話も円滑に進めていく北川先生の技量(そのせいで、後々の朝駆け電話も、つい長話となるのだったが)には舌を巻き、「細部にこだわって対話に難渋する自分は、この方面に向いていないのではないか」と、かえって尻込みし、敬遠することにもなった。新潟県の木崎村で、集落の重立ちと対話しながら同時に理論構成も進める福武直先生の「社会学的想像力」にも、同じように「両義的」ともいえる影響を受けた。

しかし、そうした現地調査の経験が、「196869年東大紛争」のさいには、大学現場における学生からの聴き取り調査に役立ったし、後に社会学の一教員となって卒論や修論の調査報告を審査する立場に置かれたときにも、論文内容の判読と評価の素地とはなり、やはり不可欠の修練だったと再認識している。

筆者はその後、ヴェーバーの「実存と学問」にかんする文献研究に没頭し、一ヴェーバー研究者としての職分と責任を果たそうとつとめてきた。しかし、すぐ近くに調査実証に専念している研究仲間がいて、筆者のささやかな研究成果も、(それまでは社会学者も、たとえば大塚久雄・川島武宜・丸山眞男氏ら領域の理論家・思想家に多分に依存してきた、テーマ設定価値関係」にかんする思想的根拠付けも含めて)実証研究にこそ、役立てられ、活かされるように、と心がけた。北川、福武、両先生による「間接的にせよ、経験科学の研究仲間と協力していくように」との訓戒は、片時も忘れず、「哲学的衒学癖」に耽らず、具体的事実の例示と厳密な論理による平明な叙述を目指して、努力してきたつもりではある。

 

§5.「政治の季節」と「学問の季節」との「螺旋」に向けて――「60年安保闘争」から

さて、1958年には、北川先生は法政大学に転出され、筆者は大学院に進学した。しかし、「1960年安保闘争」の時期には、法政大学「1953年館」にある北川研究室に詰めて、「民主主義を守る学者・研究者の会」(通称「民学研」)の事務を手伝い、修士論文の執筆-提出を一年先に延ばした。

そのように、政治社会運動の渦中で、北川先生の謦咳に接しながら、「将来、一市民としていかに生きるか」「一学究として政治-社会運動にどうかかわるか」という当時は切実な問題をめぐり、気の合った仲間と侃々諤々やり合ったのは、貴重な体験だった。

議論の一般的結論としては、こういう「政治の季節」に (当時、戦中派の「戦争体験」という感性的動因にやや過度に依存して、「日米安保条約反対」「議会制民主主義擁護」という旗印のもとに) 昂揚した「生Leben」と「情念Pathos」を、街頭行動の「流れ解散」とともに雲散霧消させて、日常性の「形式Form」に舞い戻ってはならず、つぎの「学問の季節」に送り込み、ふたつの季節の「単純な反復-循環」ではなく、「螺旋状の発展」(ドイツ思想の伝統に棹さしてゲオルク・ジンメルのいう「生と形式の弁証法」的関係)を創り出していきたい、そのためには、政治的昂揚のつど、従来の「殻Gehäuse」を割って出ようとする「生」と「情念」の内実を、渦中で確かめ思想的に定着させていかなければならず、それこそ学問の責務ではないか、と考えた。

 

§6. 政治運動と学問研究との狭間で――「6263年大管法闘争」から

折しも数年後、「60年安保闘争」の昂揚に危機感を抱いた池田勇人内閣は、「所得倍増計画」を発表して「大衆」を慰撫するとともに、「大学が『革命戦士』の養成に利用されている」と唱え、「大学管理法」の制定に乗り出してきた。筆者も「すわ」とばかり、元島邦夫・見田宗介・石川晃弘君ら、院生仲間とともに、「大管法」案を「わがこと」と受け止め、同時に研究対象ともして、「政治と学問、運動と研究との統合」を模索し、議論を重ねた。

まず、基本方針として、この機会を、「身に降りかかった火の粉を払いのける」だけの政治的防御に終わらせてはならず、むしろ積極的に、各人が将来、研究者・教員として活かせる「生き方Lebensführung」ないし「エートスEthos (倫理的生活原則)」を身につけ、理論武装もととのえ、自分たちの学問論・大学論を確立し、(「民学研」を引き継ぎ、止揚する) 研究者運動への展望も開く、そういう「絶好のチャンス」として「逆利用」しようではないか、と申し合わせた。そこで、研究室の一角にライブラリーを設け、「大管法」関連の資料だけではなく、マルクス主義や左翼の文献ばかりでもなく、ドイツ観念論からマックス・ヴェーバーをへてカール・ヤスパースにいたる学問論と大学論、オルテガ・イ・ガセの技術論と大衆人論 (とくに、専門科学者は「大衆人」の一類型で「知識人」ではない、とする説)、カール・マンハイムの知識人論とイデオロギー論 (知識社会学) など、広く関連文献を集めて、読み合い、議論した。

もとより、当面の問題についても、文部省ほか、さまざまな関係団体から出されていた「大管法」関連諸案の比較対照表をつくり、①学長その他の大学人事にかんする文相拒否権の実質化、②学長への権限・権力の集中 (評議会や教授会の諮問機関化)、③正教授のみの教授会構成 (若い助教授、講師の排除)、④学生の (学外も含む) 秩序違反にたいする学内処分の厳正-強化、⑤大学構内への警察力導入にたいする抵抗感の排除、⑥「一般教官」と「一般学生」との (一朝有事のさいには、前者が管理機構の末端として機能し、後者を首尾よく「統合」しきれるように、平常時からそなえておく) 日常的コミュニケーションの緊密化、といった問題点を確かめ、国家権力による全社会的官僚制的統制強化の一環として捉え返した。そのうえで、そうした論証と結論をパンフレットにしたため、各方面に資料として提供した。当時、専修大学の芥川集一先生が呼びかけられた「大管法」問題の研究・討論集会にも、北川先生のご紹介で伺った記憶がある。

それと同時に、「大管法」にたいする学内の各部局やさまざまな運動体の対応を見渡し、比較-検討するなかで、「『学問の自由』と『大学の自治』を『守れ』」という旧来のスローガンにも、疑念が目覚め、運動目標の再設定を迫られた。その機縁のひとつは、当時の東大法学部長が、「大管法」に反対は反対でも、その理由として、「大学の講座とは、家族のようなもので、家風に合わない余所者が、外部から無理やり押し込まれたのでは、やっていけない」という趣旨の発言をした事実にある。わたしたちには、法学部長発言のこの内容自体、もとより大いに問題ではあるが、むしろそれ以上に、同じ法学部に在籍する『日本社会の家族的構成』や『現代政治の思想と行動』の著者が、そういう学部長発言に異議を唱えず、沈黙している事態こそ、(「ものいえば唇寒し」という精神風土に根差す) 学知と実践との乖離を「問わず語りに語り出し」ている象徴事例として、いっそう問題ではないか、と思われた。

いまひとつ、わたしたちは、資料を提供して議論を呼びかけたうえで、自分たちの属する社会学研究室を皮切りに、各研究室単位で連署の「大管法」反対声明を連発していこうと企てた。当時はなお「学外権力の介入から『学問の自由』『大学自治』を守れ」というスローガンが効力を保っていたので、署名は順調に、院生・助手・講師・助教授・教授と進んだ。ところが、主任教授のところで、暗礁に乗り上げた。「60年安保闘争」時には、東大文学部の教官有志も、「(樺美智子さん) 虐殺抗議」の横断幕を掲げて、本郷キャンパスから国会議事堂の南門までデモ行進をしたのであったが、その一行には加わっていた主任教授に、「そういうふうに『下から』署名を集めてきて、わたしひとりが署名しないとなると、世間に『あ、本郷の社会学科、割れてるな』と思われる。逆に、わたしひとりが署名すれば、他の先生方も同じことを考えて、署名せざるをえなくなる。いずれにせよ『内面的な拘束力』がはたらくから、そういう連署の声明はよくない」といって断られた。「問題は、『世間がどう思うか』ではなく、『先生ご自身がどうお考えになるか』です」と、喉元まで出かかったが、「内面的な拘束力」という言葉に囚われて、一瞬たじろいだ。不覚にも、このときには、主任教授抜きの共同声明は、出せずじまいに終わった。

この一件は、①大学の講座が、「家父長制」的権威主義と「家族主義」的「融和」精神の残滓に、いまなお根強く支配され、これが(全社会的な「官僚制化」の大勢と癒着して)自由な発言を内面から抑止し、理性的な討論とそれにもとづく合意を妨げているという実態を、卑近な客観的事実としてわたしたちに突き付けたばかりではない。②そういう弊害を、理論上はよく心得て、つねづね反対を表明していながら、いざ自分の現場の問題となって卑近な利害が絡むや、他愛なくたじろぎ、反論も拒否もできない、自分個人の脆弱さを、いやおうなく思い知らされた。「実存主義」も形無しであった。ただ、この場合にも、今後、一大学人として生き、再度、同じような状況に直面したら、そのときには「ひるまずに初志を貫こう」と思いなおした。

そうした経緯もあって、わたしたちの議論はいきおい、「学問の自由」と「大学の自治」とは、既成の大学内に「ある」と仮定された「自由」と「自治」を、外部権力(政府・文部省)の介入から「守る」ことではなく、少なくともそれだけに尽きるのではなく、むしろ大学内部の制度と人間関係とそこで不断に培われる精神を、現場で問題とし、(戦後日本の社会学が問い残してきた) 大学そのものも、研究対象に据え、問題を切開しながら自己変革を遂げていくこと、そうした批判-自己批判活動のなかから「合意を形成」して、「自発的結社」を創設し、首尾よく運営-発展させていくことにある、という方向に導かれ、「理念」と運動目標の意味転換を迫られた。問題そのものも、さしあたりは大学現場で、そういう「自由」と「自治」を達成し、できればそこから漸進的な拡充を企て、前近代的な「家父長制」や「経営家族主義」の残滓と癒着しながら進行している、全社会的な「官僚制化」に対抗していくには、どうすればよいか、というふうに設定しなおされた。

そのさいとりわけ、わたしたちの専攻領域である「社会学」については、そのあり方と今後の担い方をめぐって、議論と熟考が凝らされた。「社会学」は、学知の一部門とはいえ、専門分化の現状を「自明の前提」としてナイーヴに出発し、学知のかぎりで自己完結するようでは虚しい。学知の域を越えて、なんらかの社会批判に乗り出すとしても、それが「無風の安全地帯に身を置いた、気楽な他者批判の事後評論」であってはなるまい。ヴェーバーやマンハイムの所論に関連づけて敷衍すれば、大学「組織」への所属にともなう卑近な「保身-出世第一主義」の観念的・物質的「利害関心」からは脱却し、「組織の一員である」ことにともなう思考の「存在被拘束性Seinsgebundenheit」も極力制御して、「流れに抗し」「リスクを冒して」も、現場の問題にかかわる理非曲直をこそ、一方では「組織」の「理念」「設置目的」に照らし、他方では「事柄に即して」、現在進行形で、「価値自由、解き明かしていかなければならない。それこそが、(ヴェーバーを「現代に生きる哲学的実存の化身」と見て、「哲学Philosophie」に「哲学することPhilosophieren」を対置した) カール・ヤスパースの顰みに倣っていえば、「社会学することSoziologieren」ではないか。「実存主義者」としても、いうなれば「実存主義社会派」として、そうした「社会学的アンガージュマン」を起点に、日本社会の「根底からの民主化Demokratisierung vom Grund aus」に向けて、なにほどか寄与していくことはできないか。

わたしたちの思考は、そのように、大学現場から出発して「社会学」を「社会学すること」と捉え返し、日本社会の「根底からの民主化」を展望しながら、一大学人として今後いかに生きるか、という問題に立ち帰ることになったが、そこで、大学内における「社会学」の教育上実践上の意義が、改めて問われた。とりわけ大学の教養課程で、受験勉強から解放された学生が、「社会学すること」「社会学的アンガージュマン」のスタンスを、自己形成(教養)の核心として会得し、いかなる専門課程に進学し、卒業後どんな社会領域に乗り出していくとしても、その姿勢を堅持して、それぞれの状況の問題に対処していってくれれば、なにほどか、日本社会の「根底からの民主化」に寄与するのではなかろうか。とすると、大学の教養課程における「社会学」の講義や演習は、そうしたスタンスの会得を促す、理科生にも開かれ制度的に保障された、唯一の機会として、重要な位置価を帯びてくる。

というのも、当時は、「近代主義」と「社会主義」とが、ある特有の緊張を孕みながらも、ともに「プラス価値」として信奉されていた。前者は、個々人の「近代市民的」自己形成によって、「前近代」の残滓と「官僚制化」との癒着を克服し、「近代市民社会」としての「民主化」を達成しようとする思想と運動で、後者は、そうした「民主化」運動の拡大を背景として、とりわけ「労働者」層の「階級」形成と「革新-革命」政党の指導により、「民主化」運動を「社会主義」に向けて「領導」「総括」していこうとする思想と運動とも要約できよう。当時は、選挙ごとに「革新」票が漸増し、やがて「保守」票を上回って、政権も掌握できようと期待されていた。

 

現状では、教養課程が、全社会的な「官僚制化」の一環としての「専門化」、それも「早期専門化」にともない、それだけ圧迫され、縮小される傾向にあるとしても、専門課程への「予備門」ではない、教養課程に独自の、そういう意義が、「流れに抗して」再認識され、教育目標の設定や教材編成に自覚的に活かされ、拡充されていかなければならないであろう。

わたしたち院生の議論は、当面の問題にかかわる実践をともないながら、体制選択から将来の生活設計・職種選択にまで射程を広げ、当初には思いがけないところにまでおよび、少なくとも上記のような「情念」と「理念」に実を結んだのである。

 

さて、「大管法闘争」は、政府が法案の国会上程手控えることによって、表面上終息した。しかしそれは、池田首相と「個人的に親しい」学会長老の三氏(中山伊知郎・東畑精一・有沢広巳)が、「『大管法』の法制化によって『上から押さえつける』ようなやり方では、『一般教官』の反発を招いて逆効果になる。むしろ大学が『自主的に』対処するように仕向けるから、任せてほしい」と「とりなし」に入り、政府が「振り上げた拳引っ込めた」だけのことである。もとより政府が、大学にたいする権力統制強化の意図まで捨てたわけではない。

むしろ、「大管法案反対」には唱和して、それなりに気勢を上げた全国の大学教員が、法制化の見合せを「闘争勝利」と「総括」し、「オールを休めて」安堵してしまうと、三長老の「とりなし」が「ものをいい」始める。硬軟とりまぜた、いっそう巧妙な統制強化の構想が、政治日程には登らずに形を整えていた。大学管理機関が政府の意向を「自主的に」「先取り」「代行」し、対抗軸を「政府大学」から「大学内部」に「転移」させる「国大協・自主規制路線」である。

196869年東大紛争」も、医文両学部の学生処分を発端とし、その当否を争点として拡大したが、処分の直接の契機は、ほぼ同時に1967年秋~68年春)、ふたつの学部で、それも学生運動がらみで発生した、教官-学生間の「摩擦」事件にあった。そのさい東大当局は、(当時の「教育的処分」制度のもとでも不可欠の要件とされていた)本人からの事情聴取を省き(医)、あるいは一方的な陳謝請求で代替して(文)、事実関係の確認を怠り、事実誤認にもとづく冤罪処分をくだした。

しかし、問題はむしろ、事後の対応にあった。東大当局と圧倒的多数の東大教官は、誤りを指摘され、理非曲直を明らかにされても、「不都合な事実を直視する勇気としての『知的誠実』」を欠き、非を率直に認め、改めようとはせず、むしろ相手方に責任を転嫁し、自己正当化して止まなかった。そのために、ある意味では些細な「摩擦」をめぐる対立が、深刻化長期化し、一年余におよんでも「学問研究の府」「理性の府」に相応しい学内解決ができず、再度警察機動隊に頼る政治決着に雪崩込んだのである。「厳正な」学生処分といい、「抵抗感を捨てた」機動隊導入-導入といい、「国大協・自主規制路線」を「地で行く」学内措置にほかならず、いざとなると学問は捨てて政治権力にすり寄る東大の根本体質を、「危機」なればこそ鮮明に露呈したといえよう。

 

§7.「ヴェーバー生誕100年記念シンポジウム」と「戦後近代主義」の限界

「大管法闘争」直後の1964年、筆者はいったん「学問の季節」に戻り、北川先生から数えて四代後の助手として、東大経済学会・東大社会学会共催「マックス・ヴェーバー生誕100年記念シンポジウム」の事務方と一報告をつとめた (これについては、本ホーム・ページの別稿で、いま少し詳細な総括を試みている)

このシンポジウムでも、筆者は、東大社会学会、少なくともそのヴェーバー研究の凋落傾向を確認するとともに、「戦後社会学」が理論的・思想的に依拠してきた「戦後近代主義」者 (大塚久雄・川島武宜・丸山眞男氏ら) も、「大管法闘争の経験を踏まえて見ると、やはりどこか「学知中心主義」に囚われていて、「これでは、かれらの説く『近代化』も『民主化』も、大学現場は問い残し、地には着くまい」と思われた。

 

小括

そのように、北川先生からは、1956年から60年代の中頃まで、学生また院生として、①大学における教育の重視と研究室運営の民主化、②「保身-出世第一主義」の「流れに抗する」批判のスタンスと実存的決断、③ヴェーバーとマルクスとの対比と相互補完的読解、④現地調査を「社会学的アンガージュマン」として捉える「運動と学問との弁証法的統合」、⑤その方向における「学問の自由」「大学の自治」の意味転換、⑥教養課程の意義づけ、と要約できる、筆者にとってじつに大切なことを学んだ。

その後は、北川先生の直接の指導からは離れることになるが、じつは「196869年東大紛争」も、筆者には「60年安保闘争」「6263年大管法闘争」の延長線上にあり、一学究としての自立が試される正念場でもあった。

では、「どういう意味でそうなのか」「1968617日の第一次機動隊導入から、翌196911819日の導入にかけて、東大構内で何が起き、何が問われたのか」「その渦中で、筆者が何を考え、どう対応したのか」「そうした対応と去就が、北川先生の教えと、どこでどう関連しているのか」――そうした諸点について、先生に直接、詳しくご報告して、ご批判を仰ぎたいとは、筆者のかねてからの願いであった。しかし、それが叶わぬ夢となったいまでは、多岐にわたる諸事実を縷々述べ立てるのは、追悼文としてあまりにも平衡を失し、「我田引水」の誹りもまぬかれまい。そこで、詳細はすべて別稿に譲り、ここでは要点のみ、下記14のとおりに略記する。

 

§8.「東大紛争」の政治-社会的背景と直接の争点、後者をめぐる当局と教官の対応

196869年東大紛争」にはもとより、フランスの植民地支配に代わるアメリカ合衆国のベトナム侵略戦争、アメリカに従属する日本の (「朝鮮特需」につづく「ベトナム特需」を利しての)「基地国家」的「経済成長」とそれにともなう「官僚制」的全社会再編、これに反対する諸勢力にたいする権力統制の強化など、一連の政治-社会的背景があった。そのうちでも、大学とくに学生運動にたいする管理-統制の強化は、「6263年大管法」案 でも、既述のとおり、④学生の (学外も含む) 秩序違反にたいする学内処分の厳正化、⑤大学構内への警察力導入にたいする抵抗感の排除、⑥日常的コミュニケーションによる「一般教官」の管理・統合機能の強化、という三項目に特筆され、「国大協・自主規制路線」として整備されつつあった。「東大紛争」の直接の争点も、医文二学部内で起きた教官-学生間の「摩擦」を契機とする学生処分にあったのである。

1. そこで筆者は、問題の「摩擦」を、学内の二現場における関係教官と被処分学生との具体的な「行為連関」に見立て、当局側の情報と学生側のそれとを、甲説と乙説として「価値自由に」(先入観を排して公正に)比較照合し、双方の「行為の動機」にも遡及して、いうなれば「理解社会学」的に「解明」していった。その結果、思いがけず、医文教授会による事実誤認、したがって冤罪処分に行き当たった。肝要なこの事実誤認については、別のところ――たとえば『東京大学――近代知性の病像』(1973年、三一書房)pp. 82154、『東大闘争と原発事故――廃墟からの問い』(2013年、緑風出版)pp. 3247――で、証拠を示して具体的に論証している。

2. 筆者は、1968年夏から、そうした論証内容と結論を、「大管法」問題に対処したときと同じように、パンフレットにしたため、当初その発表は学内に限定して、教官に議論を呼びかけ、当局に理性的な対応を求めた。ところが、当局と (丸山眞男氏を含む) 圧倒的多数の東大教官は、学生の問いかけを「人間として対等に」受け止めようとしなかったばかりか、筆者の訴えにもほとんど耳を貸さなかった(ちなみに、しばしば丸山氏を引き合いに出すのは、「極悪人」としてことさら槍玉に挙げようというのではなく、まったく逆に、「戦後近代主義のもっとも優れたオピニオン・リーダーの氏でさえ、不誠実・無責任であったとすれば、ましてや、その他大勢においてをや」という論法で、網羅的な検証の手間をひとまずは有意味に省けるからである)。なるほど、東大教官は、それぞれの専門領域における学知の平面で、甲説と乙説との対立に直面すれば、双方の情報を洗いなおし、双方の主張内容を比較対照し、どちらに理があるか、根拠を挙げて論定しようとするであろう。少なくとも、そうすることが、科学の建前である、とは認めるであろう。ところが、この医文処分という現場の問題については、医文教授会→学長・学部長会議・評議会→各学部教授会という一方的ルートで降りてくる情報を鵜呑みにし、少なくとも現場の学生から直接の聴き取り調査を実施しようとはせず、むしろ初めから「当局側が正しい」と決めてかかり、具体的な争点をめぐる理性的な議論によって理非曲直を明らかにし、そのうえで公正に対処しようとはしなかった。自分の所属する「組織」の現場問題となると、「組織」維持を自己目的とする卑近な観念的・物質的利害に縛られ、「教官である」という「存在被拘束性」の「殻」に閉じ籠もり、「学生に人間として対等に付き合うこと」も「科学者としてごくあたりまえの真相究明」も、ともに怠ったのである。そのように、理非曲直の科学的究明よりも、既成秩序の維持を自己目的とする政治的利害を優先させ、事実誤認による冤罪処分という (「学問的真理探求の府」「理性の府」としては) 致命的な誤りを是正せず、温存したまま、機動隊の導入による政治決着に走ったのである。

3. となると、そういう政治決着を、直後の授業再開によって追認するわけにはいかない。筆者は、当局を再度「議論の場」(人事院の公開口頭審理)に引き出す「捨て身の非暴力・不服従闘争」として、授業再開を拒否し、それまでは学内に限定してきた発言内容をマス・コミにも発表して、「造反教官」と見なされるようになった。筆者としては、かりに筆者が論破され、自分の論証が誤りと分かり、納得がいけば、いつでも職を辞し、学究としての経歴を捨てるか、別途再起をはかるか、どちらかを選ぼうと決意していた。しかし、そうでないかぎりは、自説を曲げずに主張し抜こうと思った。

4. 筆者はこの決断を、「学問の神」と「政治の神」とに共に仕えることはできない「極限状況」でくだした。ただ、そのさいにも、どういう規範的原則に従うべきか、には苦慮し、ヴェーバーの「責任倫理」論について、「学者の責任倫理」と「政治家の責任倫理」とを区別し、前者に準拠した。「学者の責任倫理」とは、あくまで「真理価値」を「心意Gesinnung[心情、信条]」の核心に据え、第一次的にその実現-貫徹を目指しながら、第二次的には、そういう価値-目的追求がもたらす状況 (とはいえ、真っ先に、「真理探求の府」としての大学の状況) への「随伴諸結果Nebenerfolge」も慎重に考慮すべし、との要請と解されよう。平時の日常においては、この第一次的と第二次的との優先順位が逆転したり、原則論と状況論とが曖昧に混同され、「責任倫理」一般として「両立が可能」であるかのように感得されたりしがちである。しかし、1969年の機動隊導入直後の状況では、そういうわけにはいかなかった。

ちなみに、マックス・ヴェーバーも、最晩年(1920年)、ドイツ民主党を脱退して職業政治家への道を断ち、政治-学問間の長年の動揺に終止符を打って、ミュンヘン大学教員として学問の使命Berufに徹し学生とともに敗戦後の復興に専念しようと決意したとき、つぎのように語った、と伝えられている。「政治家は妥協を行うべきですし、また行わなければなりません。しかし私は職業上学者であります。……学者はいかなる妥協も行うべきではないし、『無意味なこと』を擁護すべきでもありません。そういうことはきっぱりと拒否します」(ドイツ民主党党首カール・ペーターゼン宛て1920414日付け私信。ヴォルフガンク・J・モムゼン、安世舟他訳『マックス・ウェーバーとドイツ政治18901920』Ⅱ [1994年、未来社] pp. 59495 より孫引き)

 

結びに代えて

さて、筆者が上記14の趣旨で、状況への投企を重ねてきたのは、もっぱら筆者一個人の責任で、北川先生にも、誰にも、責任を転嫁するつもりはない。

ただ、北川先生は、その後長い間、先生の教えと筆者の投企との関連を、大局的には察知し、筆者の原則は評価、あるいはさらに支持してくださっていたのではないか、と思う。というのも、ずっと後のことになるが、筆者が1996年、東大教養学部を停年退職する直前、北川先生から突然、電話をいただいた。筆者自身は、原則に固執して協調性に乏しいこの厄介者を雇ってくれる大学はよもやあるまいと、再就職は断念して生活設計を立てていたのだが、お目にかかると名古屋大学文学部に推挙してくだるという文字通り有り難いお話だった。そして、名大文学部は、満票をもって筆者を受け入れてくださった。お蔭で筆者は、その後も研究-教育環境に恵まれ、仕事を円滑につづけることができた。

 

北川先生はまた、かつて助手として研究室運営の民主化に尽力されたうえ、日本社会学会の民主化にも貢献され、庶務理事を出発点として理事を四期、制限いっぱい務められた。ところが、筆者は、「東大紛争」の数年後、学会機関誌『社会学評論』が「大学問題」特集を組もうとして筆者にも寄稿を求めてきたとき、その企画が「安全地帯に身を置く、気楽な他者批判の事後評論」の域を出ず、「当事者性の自覚に欠ける」という印象に苛立って、寄稿を拒否した。いまでは、狷介固陋にすぎたと反省しているが、それ以後、日本社会学会とはいつしか疎遠になり、その面で北川先生のお仕事の一端を引き継ぐことは、まったくできなかった。その後、名古屋大学に再就職して、院生の研究指導と就職支援の必要が生じると、これまた北川先生の仲介で、長年の空白も咎められず、学会に復帰することができた。

現在では、幸いなことに、北川先生の教えは引き継ぎ、筆者の狷介固陋には批判的に距離をとって乗り越えていく若者が、日本社会学会会員のなかからも出てきているように見受けられる。筆者も、できれば2020年の「マックス・ヴェーバー没後100周年」まで、学会の籍は保ち、少なくとも会費は納め、多少とも後進の役に立ちたいと念願している。

 

北川先生、ありがとうございました。

どうか安らかに、そして若者たちと私との今後を、お見守りください。

 

 

201494 (1031日、改稿)

折原