ロシアの旅から――比較文化史への思い(ナレーション原稿)

 

 

 

 この10月初頭、モスクワとサンクト・ペテルブルクを中心に、ロシアを旅しました。正味一週間足らずの短い日程でしたが、黄葉たけなわの庭園、豪華な宮殿、壮麗な正教寺院など、の風景を愛で、楽しい時を過ごしました。

また、ロシアの歴史には、かねがね関心を向けてきましたので、見ること聞くこと、一齣一齣に、激動の過去が蘇り、改めて比較文化史への思いを掻き立てられました。

 

 ではなぜ、ロシア史に関心を向けるのか、と申しますと、ロシアも――日本からは「ヨーロッパの一大国」のように見えますが――、やはり「西洋の東の周辺地域」ないし「西洋と東洋との」にあり、しかも地続きです。

西暦紀元13世紀以降、東からは遊牧民・モンゴル族に攻め込まれ、西からは西欧諸国(直接には、リトアニア、ポーランド、スウェーデン、ナポレオンのフランス、ヒトラーのドイツ、など)、南からはオスマン・トルコ帝国に攻められ、そうした直接の軍事的脅威に対抗して、軍事的・政治的独立と文化的アイデンティティとを維持し、拡大することに、無理に無理を重ねてきたようです。

20世紀の、ソ連社会主義体制も、それ以前の、そうした条件に根ざす、ツァーリ専制支配の欠陥と無理から派生した、ロシア史の一エピソードとも申せましょう。

 

 そのように、ロシア史を大掴みに捉えますと、日本も、文化史上は、「欧米の周辺外縁地域」ないし「西洋と東洋との」にあり、幕末開国このかた、欧米の軍事的脅威に対抗して、政治的独立と文化的アイデンティティを維持し、ときに軍事的に拡大しようとして、誤りも犯しました。わたくしたちは、そうした「欧米の周辺地域」ないし「西洋と東洋との」という環境条件を、共通の基礎として、ロシア史を、わたくしたちの比較文化史の一対照項に見立てることができましょう。

 

ただ、日本は、ロシアとは異なり、四方を海に囲まれた島国です。そのため、第二次世界大戦にいたるまでは、中国大陸からの影響も、欧米列強の圧力も、それだけ和らげられた形で、受け止められてきました。したがって、そういう外からの挑戦にたいする応戦 (challengeにたいするresponse) についても、日本では微温的にしか現れない問題が、ロシアでは、徹底して争われ、鮮明な形をとっている、という面が多々あります。

 

そういうふうに、文化史上の等価性とズレないし差異という観点から、双方の歴史を比較してみることは、今後、わたくしたちが、わたくしたち自身の文化的アイデンティティを模索し、確立していく上で、あるいはなにか参考になるかもしれません。

 

 

スズダリ

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 スズダリは、モスクワの北東約200キロにある、いまでは小さな町です。

 

 ロシア史は、大まかに、

1.            キエフ・ルーシ時代 9C

2.            諸公分立の時代     12C

3.            モスクワ国家の時代 15C

4.            ロシア帝国の時代   18C

5.            ソ連社会主義時代   1917

6.            ソ連崩壊後         1991

に分けられましょう(和田春樹編『ロシア史』2002、山川出版社による)。

 

  スズダリはこのうち、諸公分立時代の一中心地で、ユーリー・ドルゴルーキー (ウラジーミル・スズダリ公位1120頃~57) が、ここを公国の首府として以来、政治的に繁栄しました。かれは、代々 キエフ・ルーシを支配してきたリューリク王朝の一員です。

 

 かれはまた、1147年、当時は公国内の一寒村だったモスクワに、堡塁を設け、宴会を開きました。そこで、モスクワの創立者とされ、モスクワ市役所前の広場に、かれの騎馬像が立っています。

 

やがて、ユーリーの息子たちの代には、公国の首府が、少し南のウラジーミルに移され、1238年には、チンギス・ハンの孫、バトゥの率いるモンゴル軍に攻め落とされます。

 

 その後、ルーシの諸公国は、1480年までの約240年間、キプチャク・ハン国の支配を受けます。その首都サライ・バトゥは、ヴォルガ川の下流域にありました。

モンゴル族の支配を、ロシアでは「タタールの軛」と呼びます。ただ、遊牧民は、嵐のように襲ってきては、町や村を破壊し、略奪しますが、そのあと、ロシアの寒冷な森林には馴染めず、南東に引き揚げます。

西欧諸国のように、領土を奪って永住し、自分たちのライフ・スタイルや価値観を押し付けようとはしません。基本的には、ルーシ諸公を臣下として服従させ、貢ぎ物を取り立てる間接支配にとどまっていました。

他方、ロシアの民族楽器・バラライカは、13世紀に、タタール人から引き継いだのだそうです。

 

14世紀になると、諸公のなかから、モスクワ公が、当初にはハン国の権威と公位認証権を巧みに利用しながら台頭し、ギリシャ正教会との結びつきも強め、やがて大公-君主として覇権を握ることになります。

 

その間、スズダリには、いっとき、ニジニノヴゴロド・スズダリ公国が再興されますが、14世紀末には、モスクワに屈伏します。

その後、宗教上の中心地として、発展を遂げました。

ちなみに、ロシアでは、キエフ・ルーシ時代の10世紀末に、キエフ大公ウラジーミル聖公 (在位980頃~1015) が、ビザンツの皇女アンナを娶り、ギリシャ正教を国教と定めていました。

 

 

ウラジーミル

 

ウラジーミルは、モスクワの北東約10キロ、スズダリからは南約35キロにあり、現在、人口約36万の都市です。電気・機械・化学・食品・ハイテクなどの産業中心地で、国立の教育総合大学と工業総合大学、その他に私立大学、計八つの大学があります。

 

歴史的には、ユーリー・ドルゴルーキーの息子アンドレイ(在位115774)が、公国の首都を、スズダリからここに移して以来、12世紀に発展を遂げました。「黄金の門」、「ウスペンスキー大聖堂」の基が据えられたのも、そのころです。

 

アンドレイも、弟のミハイル(在位117476)とフセヴォロド(大巣公、在位11761212)も、父親のユーリー・ドルゴルーキーとは異なり、キエフ大公位への野心はもたず、ウラジーミルにとどまって、この地の発展に尽くしました。

 

ちなみに、このウラジーミルという地名は、さきほどの、ギリシャ正教を国教としたキエフ大公・ウラジーミル聖公とは、関係がありません。

ウラジーミルとは、動詞「ヴラジェーチ (支配する) に名詞「ミル (世界)」が付いて、「世界を支配する」という勇ましい意味になります。それで、人名や地名に好んで使われました。日本海の対岸に「ウラジオストック」という都市がありますが、この地名は、「ヴラジェーチ」に「ヴォストク(東方)」が付いて、「ヴラジ・ヴォストク」、「東方を支配する」という意味になります。過去の命名とはいえ、ちょっと物騒ですね。

 

また、ドルゴルーキーの三人の息子、アンドレイ、ミハイル、フセヴォロドの関係にも示されているとおり、リューリク王朝の公位継承は、[武侯としてのカリスマが、血統に付着して継承される、と信じられる)「血統カリスマ」制ではありましたが、「長子相続」ではなく、「年長者相続」が原則でした。そのため、年長者の弟を差し置いて、自分の息子に公位を継がせようとする支配者の意向と、弟や息子の姻戚を含む門閥・貴族の利害とが絡んで、公位継承をめぐる「御家騒動」がたえませんでした。

 

17世紀からは、リューリク朝にロマノフ朝がとって代わり、18世紀にロシア帝国の基を築いたピョートルⅠ世(在位16821725)は、前任の皇帝・ツァーリによる「指名制」の原則を採用しました。しかし、これまた、前任者が後継者を指名しないうちに死んだりしますと、「御家騒動」が持ち上がります。そのため、代替わりごとに、しばしば統治の方針が逆転し、統治の一貫性と漸進的な発展が、妨げられました。

 

ウラジーミルも、1238年には、モンゴル軍に攻められ、破壊されます。

その後、復興され、近辺一帯の行政中心地となり、1299年には、ロシア正教の長・府主教マクシムが、ここに居を構えました。しかし、その後、キプチャク・ハン国の襲撃や大火災などの惨事が重なり、往年の繁栄は取り戻せませんでした。

ハン国の支配からの独立と、ルーシ諸公国の統一は、当初は版図内の小さな町だったモスクワによって、達成されることになります。

 

やがて、「ロシア帝国の時代」になると、ウラジーミル州の州都となりますが、帝国の首都サンクト・ペテルブルクの囚人たちが送り込まれる、流刑地のひとつともなりました。

 

 

セルギエフ・ポサード

 

 セルギエフ・ポサードは、モスクワの北北東約70キロにあります。

 ここは、トロイツェ・セルギエフ大修道院(セルギエフ三位一体修道院)の所在地です。この修道院は、14世紀に、セルギー・ラドネシュキー(1321頃~89)によって、創立さ

れました。セルギエフ・ポサードという地名も、「ポサード」とは、「城砦の外郭に住む商

工業者の街区」を指しますから、「セルギーの街」という意味です。ソ連社会主義時代には、

「ザゴルスク」と名を換えられましたが、ソ連崩壊後、もとの地名に戻されました。

 

 セルギーは、現在も、「ロシアの守護聖人」として崇拝され、週日でも、各地から参拝者、巡礼者が、大勢訪れています。

 

というのも、14世紀のころ、ギリシャ正教は、モンゴル族の襲撃を逃れ、森の奥深くに修道院を建て、民衆の避難所として根を下ろしますが、同時に、ばらばらのルーシ諸公を「タタールの軛」に対抗する方向にまとめていく、政治的役割も果たしました。

モスクワ公ドミトリー・ドンスコイ(在位135989)は、セルギーの祝福と戦勝祈願を受け、1380年、クリコヴォの戦いで、初めてタタール軍を破りました。そのさい、修道士も、民兵とともに武器をとって戦ったそうです。

 

この戦勝を契機に、モスクワ公国が、勢威をたかめ、やがて覇権を握ります。

と同時に、正教会も、モスクワ大公による保護のもとに、東ローマ・ビザンツ帝国のコンスタンチノープル総主教座から次第に独立します。1453年、ビザンツ帝国がオスマン・トルコに滅ぼされますと、全ルーシ主教会議が開かれ、独自に府主教が選出されます。1589年には、この「主教」が「主教」に格上げされ、モスクワ・ロシアが、唯一の正教国家となります。15世紀の修道士フィロフェイは、この動向を、ロシアの歴史的命運と見て、「西」と「東」とを統一する「第三のローマ」という理念に謳い上げました。

 

セルギーの柩が安置されているトロイツキー聖堂は、ここの建築アンサンブルのなかでもっとも古く、1423年に完成しました。モスクワの歴代の大公や皇帝は、戦争のつど、ここに詣でて戦勝を祈願した、といわれます。

 

ウスペンスキー聖堂は、イヴァンⅣ世(雷帝、在位153384)の命令により、モスクワのクレムリン内にあるウスペンスキー聖堂に倣って建てられ、1585年に完成しました。ちなみに、イヴァンⅣ世は、みずから皇帝・ツァーリと名乗ったイヴァンⅢ世(在位14621505)のあとを受けて、1547年以来、「ツァーリ」の称号を公式に採用しました。それまでは、じつはビザンツ皇帝とキプチャク・ハンだけが、「ツァーリ」(カエサル⇨ツェーザル⇨ツァーリ) と呼ばれていたのです。

 

この修道院の建築アンサンブルのなかには、そのほかに、いまはモスクワ神学校の校舎となっている修道士館、旧食堂、病院などもあります。

旧食堂は、聖堂に劣らず、内部に見事な装飾が施され、礼拝堂のひとつとして、巡礼者を迎えています。

 

なお、スターリンは、ナチス・ドイツとの「大祖国戦争」を契機に、ロシア正教会にたいする宥和政策に転ずるまで、宗教を弾圧し、聖堂や修道院を破壊しましたが、このセルギエフ大修道院には手をつけず、戦争協力を求めたようです。修道院前の広場には、いまでもレーニン像が立っています。

 

 

モスクワ

 

 この「赤の広場」では、ソ連社会主義時代、中国の「天安門広場」と同じく、メーデーや革命記念日に軍事パレードがおこなわれていました。そこで、「赤の」とは、「左翼」「社会主義」を連想させます。しかし、「赤の広場」、ロシア語で「クラースナヤ・プローシチャジ」の「クラースヌイ」という形容詞には、古くは「美しい」という意味があり、いまではそちらを採って、語形はそのまま「クラースナヤ・プローシチャジ(美しい広場)」と呼んでいるそうです。

 

 広場の南に立つポクロフスキー聖堂は、イヴァンⅣ世(雷帝)の命令で、1552年の、カザン・ハン国との戦争の勝利を記念し、聖ヴァシリーの墓の上に建てられました。ヴァシリーは、ロシアにはしばしば現れる「痴愚聖人」で、ドストエフスキーの小説『白痴』に描かれているムイシュキン公爵のように、純粋無垢で、イエス・キリストの教えを体現している、とされます。

 

 ポクロフスキー聖堂のまえには、「ミーニンとポジャルスキーの銅像」が立っています。二人は、1612年に、モスクワを、ポーランド軍の占領から解放した英雄です。ミーニンは、ニジニノヴゴロドの商人で、義勇兵をつのって武器と装備をととのえ、ポジャルスキーが、その国民義勇軍の指揮をとりました。ちなみに、ちょうど200年後の1812年は、クトゥーゾフの率いるロシア軍が、「冬将軍(大寒波)」の助けをかりて、ナポレオン軍を破った年です。

 

 広場の北側には、もうひとつ、ポーランドとの戦争の勝利を記念する「カザンの聖母聖堂」があります。なぜ、そこに「カザン」が出てくるのかといいますと、カザンの廃墟で見つかった「聖母のイコン」がここに祀られ、ミーニンとポジャルスキーが、そのイコンに戦勝を祈願したと伝えられているからです。この聖堂は、1936年、スターリンによって破壊されましたが、ソ連崩壊後、早くも1993年に、往年の姿に再建されました。

 

 ところで、モスクワの「赤の広場」に、ポーランドからの解放にまつわる記念碑がふたつもあるというのは、どういうわけでしょうか。ポーランドといいますと、わたくしたちは、帝政ロシアとドイツとの「挟み打ち」にあったり、「鉄のカーテン」のなかに取り込まれたりして、独立を阻まれてきた「悲劇の国」というイメージが強いので、ちょっと意外な気がしないでもありません。

 

 ポクロフスキー聖堂のすぐそばに、この「ロブノエ・ミェスタ(高台)」があり、ここで、歴代の大公や皇帝の勅令が読み上げられ、罪人とくに叛乱の首謀者の処刑もおこなわれました。17世紀の農民叛乱の指導者ステパン・ラージンも、18世紀のプガチョフも、ここで処刑されています。

というわけで、この「ロブノエ・ミェスタ」は、ロシアの歴史的変遷を見守ってきたのです。

 

 さきほど触れたドミトリー・ドンスコイの子、ヴァシリーⅠ世は、弟のユーリー一族との間で、一方が目を抉り、他方は仕返しに同じく目を抉るといった、大公位継承紛争を、リトアニアやハン国も巻き込んで、繰り広げ、国力の疲弊を招きました。

つぎのヴァシリーⅡ世は、おそらくはその弊害を察し、モスクワ大公国が、もはや、覇を競い合う諸公国のひとつ、あるいは「仲間のなかの第一人者」ではなく、諸公をしたがえる一国家にのし上がった、という実情にも合わせて、「長子相続制」に移そうとしたようです。

そのつぎの大公が、イヴァンⅢ世(在位14621505)で、モスクワ大公位を継承したばかりか、弟たちが相続した領土も巧みに併合しました。また、旧諸公の大貴族(いわば「外様大名」)に対抗して、新たに下層士族を育成-登用し、君主と臣下の関係を結び、「俸祿(プフリュンデ)」を与え、経済的基盤としては、農民を土地に縛りつけ、「農奴制」を敷きました。そのようにして、旧諸公・大貴族の勢力を削減し、一国の「君主」として専制的に支配する体制をととのえていきます。この体制が、二代後のイヴァンⅣ世(雷帝)の時代に、いったんはほぼ確立したと申せましょう。

 

さて、イヴァンⅢ世は、1478年に、自治都市ノヴゴロドを併合しました。

ノヴゴロドは、バルト海のフィンランド湾に面したサンクト・ペテルブルクから、約180キロ南にある、由緒ある商業都市です。伝承によれば、9世紀に、スカンジナヴィア半島に住む、「ヴァリャーク(ヴァイキング)」ないし「ルース」と呼ばれるノルマン人が、南下してきて、ノヴゴロドのスラヴ人と一戦を交え、「ルース」のリューリク兄弟が(伝承では、戦勝者ノヴゴロド側の要請を受け入れて)統治することになったそうです。そのリューリク一族が、キエフほか、各地に散って、(イギリス、フランス、シチリアの類例と同じく)被征服民と混淆し、「ルースの国々」をつくったのでしょう。

 

その後、ノヴゴロドは、毛皮や蜜蝋などの森の産物を、ハンザ商人を介して西欧に売り、塩と、毛織物その他の奢侈品を買う、遠隔地交易の中心として発展しました。堅固な城壁をめぐらして、モンゴル族の襲撃も免れ、分立諸公国にたいしては「漁夫の利」を占め、繁栄していました。中世イタリア門閥都市の「ポデスタ制」と同じように、統治者(「ノヴゴロド公」)を外から招聘し、対内的には、「民会」を開設して、ノヴゴロド公の人選と任免、市長官や大主教の選出、条約の締結、法律の制定などをおこなっていました。西欧の中世都市と同じく、独特の「自治・共和制」を敷いていたわけです。

ノヴゴロド公として有名なのは、ウラジーミル大公・フセヴォロド(大巣公)の孫、七代目のアレクサンドル・ネフスキー(「ネヴァ川のアレクサンドル」、ウラジーミル大公位125263)です。かれは、キプチャク・ハン国には臣従・朝貢して襲撃を避けながら、北西からのスウェーデン、デンマーク、ドイツ、リトアニアの攻撃には、果敢に戦って撃退し、「国民的英雄」と讃えられました。ロシア正教は、かれを、聖者の列に加えています。

 

しかし、そのノヴゴロドも、モスクワの攻勢に、抵抗はしましたが、イヴァンⅢ世には屈伏し、自治の象徴としての「民会の鐘」をモスクワに持ち去られ、モスクワの代官に支配されることになりました。

西欧では、中世内陸都市が自治を保ち、初期資本主義と農民解放の拠点となるばかりか、「王会、王の議会」の一角にも食い込んで、絶対王政にも影響を与え、絶対王政の家産官僚制が近代官僚制に脱皮する一因ともなったのですが、ロシアでは、自治都市ノヴゴロドが、モスクワ国家に呑み込まれ、市民的発展の萌芽が摘み取られてしまったのです。

なぜでしょうか。

 

西欧では、ローマ・カトリック教会が、中世の国家にまたがる、ローマ教皇を頂点とする官僚制組織をいち早く確立し、国王たちを牽制し、都市市民層を後援しました。それにたいして、ロシアでは、正教会が、モスクワ大公-国王の権力に癒着して、イヴァンⅢ世を支持しました。

 

ではなぜ、ロシアと西欧とで、俗権と教権との関係に、そういう違いが生まれてきたのでしょうか。ロシアと西欧とで、歴史が分かれたのは、そういう宗教との関係だけで説明できるのでしょうか。

 

それは、難しい問題で、にわかには答えられません。これからいろいろ見聞して、仮説的にせよ、なにか答えを見つけたいとは思います。

 

さて、イヴァンⅣ世は、「雷帝」とあだ名されているとおり、気性の激しい専制君主でした。かれは当初、イヴァンⅢ世の打ち出した方向に沿って、即人的 (personal) な君臣関係とは別に、中央にいろいろな官庁――外務省にあたる使節庁、内務省にあたる嘆願庁、貴族たちの所領を規制する封地庁、盗賊取締庁、銃兵隊庁、など――を設置し、士族に俸祿を与えて官職勤務を義務づける、「家産官僚制」への改革を実施しました。「家産官僚制」とは、首長としての君主・王が、自国を一種の巨大な「家産」として一族郎党を支配する「家産制」と、官職の部署を設けて、指揮命令系統を定める「官僚制」との混成形態です。

 また、改革の一環として、地方自治機関 (「全国会議」) を召集したり、貴族と士族の騎士軍に加えて、銃兵隊を組織したりもしました。

 

そのようにして軍事力を増強し、カザン・ハン国を征服し、ヴォルガ川流域一帯を支配し、ウラルからシベリアへと領土を拡大します。ただ、西方では、バルト海沿いのリヴォニアで、ポーランド、リトアニアなどとの苦戦を強いられました。

 

1575年、イヴァンⅣ世は、改革の遅れと、西方での苦戦に業を煮やして、思い切った手を打ちます。家族、寵臣、財宝ともどもモスクワを離れ、政権をいわば反対派に明け渡し、「おまえたちでやれるものならやってみろ」と迫ったのです。モスクワの住民は、かれに帰還を嘆願しました。かれは、「思い通りに支配する」という(「スルタン制」的な)条件で、モスクワに入城し、門閥貴族層を根絶しようと、やがては見境なく、テロルの猛威を振るいました。

 

1584年の死の三年前、後継者の長男イヴァンを、自分が叱責した長男の妻を長男がかばったという理由で、みずから殺してしまいます。「痴愚聖人」に近い、温厚な次男フョードルが、帝位を継ぎますが、妃の兄ボリス・ゴドノフに牛耳られ、やがてフョードルも死んで、ボリスが帝位に就きます。フョードルには、異母弟ドミトリーがいましたが、これも1591年に不慮の死を遂げ、リューリク朝の血統は途絶えました。

 

そこに、大飢饉が起き、ロシアは「大動乱(スムータ)」の時代に入ります。上からの改革は頓挫しました。とりわけ、リューリク朝の断絶による「正当性」の空白から、「われこそドミトリー」と名乗る偽ツァーリが何人も現れます。そこに、ポーランド王がつけ込んで、西から雪崩込み、モスクワを占領します。そこで、ミーニンとポジャルスキーらが立ち上がって、モスクワを解放した、というわけです。

 

 

サンクト・ペテルブルク

 

 さて、大動乱のあと、モスクワでは1613年、ミハエル・ロマノフ(在位 1613-45)が、16歳で、帝位に就きました。ロマノフ家は、イヴァン雷帝の最初の妃、アナスターシャの実家で、モスクワ大公の血筋を引く貴族です。

 

それから三代目に、ツァーリとなったのが、ピョートルⅠ世 (大帝、在位1682-1725) です。それも、まだ10歳で、異母兄のイヴァンⅤ世(在位 1682-96)とともに、「共同統治者」として帝位に就きました。

この不自然な形も、お決まりの「御家騒動」の産物でした。ミハエル・ロマノフの子で、先々帝のアレクセイ(在位1645-76)には、妃が二人いて、先妻の息子・フョードルⅢ世 (在位 1676-82) が没したあと、その姉ソフィヤが摂政として実権を握ります。そして、弟のイヴァンをツァーリとしたのですが、そのとき、アレクセイの後妻の子、ピョートルも、同時に帝位に就いたのです。

幼少の異母弟ピョートルが、「共同統治者」とはいえ、なぜ帝位に就けたのかといえば、アレクセイの後妻、ピョートルの実母の実家[ナルイシキン家]による後援は当然としても、ロシア正教会の総主教が、ソフィヤ側の「ポーランド・ラテン文化への傾き」を恐れて、ピョートル擁立を支持したからです。

 

しかし、ピョートル少年は、宮廷内のそうした「もめごと」は余所に、もっぱら戦争に関心を向け、同年配の貴族と「遊戯連隊」を組織して「軍事演習」に明け暮れていました。また、(17世紀中葉にはモスクワ郊外に開設されていた)「外国人村」に出掛けて、オランダやイギリスからきた商人や企業家、ドイツからきた軍人など、どうやらプロテスタント系の外国人と付き合い、西欧の動向にも見聞を広めています。

 

やがて、摂政ソフィヤは失脚し、例のノボデヴィチ修道院に幽閉されます。堅固な城壁を巡らし、立派な懲罰室つきの修道院は、しばしば、そのように「宮廷御家騒動」の片棒を担ぐ役目も負わされていたのでしょう。[ピョートルの最初の妃、エウドキアも、スズダリのポクロフスキー修道院に幽閉されます。]

 

1694年には、22歳のピョートルⅠ世が、親政を開始します。

かれは、翌1695年、オスマン・トルコ帝国の要塞アゾフを攻めます。アゾフは、ドン川の河口にあって、ロシアの船が黒海に出るのを阻止していました。しかし、ロシア軍は、アゾフ要塞を包囲はしましたが、オスマン海軍による海からの補給を断てず、包囲を解いて退くほかはありませんでした。そこで、ピョートルは、この失敗に学んで、造船所を設け、外国人技術者を招いて軍艦の建造に着手します。そして、翌1696年には、ふたたびアゾフを攻め、こんどは軍艦で、海からの補給路を断ち、要塞を攻め落として、黒海への出口を確保しました。

 

1697年には、約300人の大視察団を西欧に派遣し、自分も匿名で一行に加わります。アムステルダムでは、東インド会社の造船所で、みずから船大工としてハンマーを振るったそうです。そのあと、ロンドンにも渡り、造船所の他、官庁、博物館、病院なども訪ねて、西欧の先進技術と制度を見聞したうえ、約900人もの「お雇い外人」を連れて帰りました。

帰国の翌日には、早速、勅令を発して、貴族たちに、髭を剃り、裾の長いロシア服に代えて「洋服」を着用するように命じます。

 

1700年には、「バルト海帝国」・スウェーデンとの北方戦争を始めます。しかし、こんども、初戦では破れ、大砲をすべて失いましたが、ロシア全土から教会の鐘を拠出させて大砲に鋳直し、徴兵令を発して、新兵隊を組織します。1703年からは、サンクト・ペテルブルクの兎島に、要塞を建設し、外国人の技術者と将校を雇い入れて、海軍工廠と海軍兵学校を開設します。そのようにして、軍事力を増強し、1709年、ポルタヴァで、圧倒的勝利を収めました。

 

しかし、相継ぐ戦争には、莫大な費用がかかります。そのため、ピョートル政府は、全国的な人口調査を実施して、人頭税を課すほか、塩や酒を専売品とし、髭を剃り落とさない者には髭税をかけるなど、歳入の増加を図りました。

 

民衆とくに農民の負担は、甚大でした。ただし、鉱工業は、採鉱-製鉄から武器の製造、軍服の縫製にいたるまで、軍需工場が新設され、発展の緒につきます。ただ、ここでも、工場の労働力をどう調達するか、が問題で、旧来のポサード民では足りず、出稼ぎ農民や逃亡農民を当てるほかはありませんでした。

 

しかし、農民は、にわかには工場労働者に転身できません。外からの強制や賃金刺激で、近代的な規律を植えつけることは、至難です。この点でも、ロシア正教は、西欧とアメリカで「禁欲的プロテスタンティズム」が果たしたのと同じ役割は、果たせなかったようです。この問題は、その後の帝政期、さらにはソ連社会主義時代にも、根本的には解決されず、帝政期と同じように、あるいはそれ以上に、スターリンによる「上からの強制」が必要とされました。

 

軍政改革、財政改革には、そのための機構と人材の育成が必要とされます。そこでピョートルは、皇帝直属の立法-行政機関として、九名からなる「元老院」を置き、そのもとに、[それぞれ外務、陸軍、海軍、都市、所領、司法、歳入、歳出、商業、鉱工業、などを分掌する]12の「参議会 (コレギア)」を設けました。イヴァン雷帝以来の諸官庁を、いっそう官僚制的に再編成したのです。

かれはまた、「官等表」を制定して、武官・文官・宮内官に14の等級を定めました。貴族の位が、出生門地ではなく、勤務成績と年功によって決まるにように改めたのです。これによって、貴族たちは、互いに結束して皇帝に対抗するよりも、官位をめぐって争い合う関係に置かれたでしょう。

 

ピョートルはまた、ロシア正教の「総主教座」を廃止し、「宗務院」という一官庁の所管とし、「皇帝教皇主義」を制度上も貫きました。

 

そのほか、海軍兵学校、砲術学校、医術学校といった実科専門学校を設置するほか、算術学校も開設して、官職に就く貴族の子弟に通学を強制しました。やり方はいささか強引で、その卒業証書をもたない者には結婚を禁ずる、というのです。ちなみにかれは、「わが臣民は、どんなに良いこと、必要なことでも、強制なしには、何ごともなさない」と慨嘆した、と伝えられています。

 

さて、君主制、貴族制、民主制、それぞれの利害得失を冷静にみきわめるという観点に立って見ますと、ピョートルⅠ世個人は、英邁で精力的な君主だったにちがいありません。しかし、中身は「近代化」でも、「カリスマ」的皇帝教皇の親政が、なんどかの敗戦という「カリスマ喪失のリスク」も乗り切り、専制的支配として貫徹された、とあっては、反面それだけ、「カリスマ的君主の命令なしにはなにごともなさない」臣民性を育み、他方では、そうした急激な専制的改革への反動も、招かざるをえなかったでしょう。

同じ血統から、つぎつぎに同等のカリスマ的個人が出現して、先代の事業を引き継ぎ、着実に発展させることは、不可能です。そこで、ピョートルⅠ世自身は、そうした「上からの近代化」の継承を考え、「後継者指名制」を採ろうとしたようですが、不覚にも指名をしないまま死去し、宮廷はまたもや、伝統的な「御家騒動」に舞い戻りました。

 

ピョートルⅠ世自身が好んで住んだという、サンクト・ペテルブルクの旧「夏の宮殿」も、ペテルゴフの「モン・プレジール宮殿」も、オランダ風で、意外に質素です。

「ピョートル」の名は冠した、人の目を驚かす豪華な宮殿は、いずれも、その後の皇帝や貴族たちの、宮廷生活の産物です。ピョートルⅠ世の「上からの近代化」によってヨーロッパの「大国」となった新参ロシアの皇帝や貴族は、ヨーロッパ古参国の王侯や使節を迎えるに足る、豪華な宮殿を必要としたのでしょう。

 

華やかな宮廷生活を支える、農民やポサード民の苦労は、どれほどだったでしょうか。

やがて、この問いは、デカブリストや19世紀のインテリゲンチャによって問われ、紆余曲折を経て、ロシア革命にいたります。

 

さて、ピョートルⅠ世が、1725年に53歳で没すると、皇帝位は、その妃エカテリーナⅠ世から、(ピョートルⅠ世の先妻エウドキアの子で、陰謀に荷担して処刑された皇太子アレクセイの遺児)ピョートルⅡ世、に引き継がれ、そのあと、いったんイヴァンⅤ世の遺児アンナ・イヴァーノヴナ、その姉の孫イヴァンⅥ世に移り、そのあとまた、ピョートルⅠ世の次女エリザヴェータに戻されますが、その甥ピョートルⅢ世が宮廷クーデタで倒されると、ドイツから嫁いできていた妃エカテリーナⅡ世が即位する、という具合に、目まぐるしく変わります。

ピョートルⅠ世の没年から、エカテリーナⅡ世の即位までの37年間に、なんと六人もの血縁者が帝位につき、そのつど自分を擁立してくれた貴族に操られて、ピョートルⅠ世の改革に逆行しました。

 

エカテリーナⅡ世も、その出自による権力基盤の弱みを、ピョートルⅠ世にあやかり、「上からの近代化」を引き継ぐ形で、補おうとしました。「啓蒙専制君主」として、元老院、参議会の他に「立法委員会」を召集したり、地方に県制を敷いたり、病院や福祉施設を建てたり、フランスの啓蒙思想家たちと文通して、文芸を奨励し、芸術アカデミーや大学を設立したりもしました。

対外的には、ドイツ、オーストリアと組んで、ポーランドから、ベラルーシやウクライナなど、正教徒の居住地を取り戻し、南では、オスマン・トルコ帝国と戦って、クリミア半島を占領し、セヴァストポーリ軍港と黒海艦隊を建造しました。絢爛豪華な宮廷生活を営み、西欧の美術品を買い集めて、冬の宮殿を拡張し、現在のエルミタージュ美術館の基を築きました。

 

しかし、貴族には、領地を完全な私有財産と認め、国家による規制を撤廃しました。農民によるツァーリへの嘆願も、禁止されました。晩年には、フランス革命におけるルイⅩⅥ世の処刑に衝撃を受け、アレクサンドル・ラジシチェフの農奴制批判の書『ペテルブルクからモスクワへの旅』も、発禁とし、著者をシベリアに流刑しました。

 

これは、「パビリオンの間」にある「孔雀の時計」です。女帝の寵臣で、クリミア半島の攻略と軍港の建設に手柄のあった、ポチョムキン公爵が、女帝への贈り物として、ロンドンの著名な技師につくらせた品物です。時がくると、孔雀の周りに配された鳥たちが鳴きます。

 

 

小括

 

さて、このあと、ピョートルⅠ世以降の「上からの近代化」の抱えた問題が、いかに、帝政からソ連社会主義体制に持ち越され、スターリン独裁に連なったか、ソ連崩壊後の現状はどうか、など、いろいろ考えてみたかったのですが、画像と[高画質のファイルを書き込むに足る]ディスクの容量が足りなくなりました。

そこで、今回は、ここまでとし、あとは後篇にまわしたいと思います。

ただ、「ロシアと西欧との歴史的岐路」というさきほどの問題には、いちおうつぎのような答えを用意しました。

 

西のローマ・カトリック教会は、古典古代の遺産として、ローマ法とローマの官職概念を引き継ぎました。そして、ゲルマン諸部族の国家形成に先駆け、かれら蛮族への布教という厳しい条件のもとで、それだけ強固な官職-官僚制を組織し、「教権制」を確立しました。中世国家の王たちは、王位の「正当化」のため、ローマ教皇の権威(「官職カリスマ」)に頼るほかはありませんでした。また、封建騎士は、「レーエン」――すなわち、君臣契約により、軍事勤務と引き換えに授封された土地とその領有-支配権――を「専有」するばかりか、互いに結束して王に対抗し、王権の恣意的濫用を制限しました。

もとより、教会も、布教範囲を広げ、異端を撲滅するため、王たちの権力に頼りました。ただ、そういう「対抗的相互補完関係」のなかで、西欧では、教権の勢力と対抗性が、相対的に強く、中世世界は「教権と俗権とを二焦点とする楕円構造」をなし、それだけ教会が、王たち、騎士層、市民層の対抗場裡にあって、宗教上「相性」のよい市民層を後援することができたのでしょう。

 

それにたいして、東方教会は、東ローマ・ビザンツ皇帝の支配下で、原始キリスト教団の伝統を守り、教理や儀礼の彫琢に専念できました。しかし、それだけ俗権との対抗性には乏しく、「ビザンチン・ハーモニー」! という美名のもとに、現実には俗権との宥和-癒着に傾き、(迫害には)「屈従して信仰を守る」という受動性を帯びました。ただし、これはあくまで、宗教の歴史的機能の問題で、それだけ宗教としての本質的価値も低い、ということではありません。

[それは、アメリカに亡命して「市民的自由」を享受しながら、演奏家に転身せざるをえなかったラフマニノフと、母国にとどまり、スターリンに屈従しながらも、作曲家として自分の芸術を追求しつづけたショスタコーヴィッチと、どちらを採るか、というのと同じく、いちがいには答えられない問題です。

むしろ、わたくしたちは、「キリスト教」といえば、プロテスタント、せいぜいローマ・カトリックしか思い浮かべられなかった「戦後日本思想」、とくに歴史・社会科学、の視野の狭さと一面性を、このさい反省すべきではないでしょうか。]

 

さて、俗権の側も、ロシアでは、リューリク朝の「血統カリスマ」が、先に成立して、後からギリシャ正教を国教に採用し、その後も俗権が、それだけ優位に立ちました。ロシア正教の聖堂や修道院は、ほとんどすべて、戦争の勝利を記念して建立されています。無神論者のスターリンも、いざ戦争となると、政治的利用価値は認めたのです。

 

また、ロシアには、西欧型の「レーエン封建制」[さらに「身分制国家」]は、成立しなかったようです。封建貴族たちが、互いに結束し、公然と王権を制限する「マグナ・カルタ」に相当する事例が見当たりません。

イギリスやフランスで、王位の長子相続制が成立するのも、じつは、封建騎士たちが、「『レーエン』を分割相続したのでは装備の費用を自弁できない」という実情から、先に「長子(一括)相続制」を採り、王家にもその採用を迫ったからでしょう。ロシアの貴族は、そういう西欧の騎士にも、中国の官紳(マンダリン)層――いざとなれば「皇帝の首のすげ替え(易姓革命)」も辞さなかった官紳層――にも劣り、「貴族的義務noblesse oblige」を果たさなかった、というほかはありません。

 

さらに、都市も都市で、ノヴゴロドは、遠隔地商業によって富裕となった、数少ない一例だったでしょう。周辺に「局地的市場圏」を広げながら、農民を経済的に解放しつつ、同業組合的、やがては初期資本主義的な手工業経営を展開する、西欧の「中世内陸都市」とは、類型を異にしていました。そうした「局地市場都市」が、広い裾野をなして、ノヴゴロドを支援する、ということもなかったのです。

 

要するに、ロシア中世には、西欧で「近代化」への突破口を開いた歴史的諸条件――すなわち、①諸国家にまたがり、国王たちを掣肘するに足る教権制、②結束して王に対抗できる騎士貴族のレーエン封建制、③局地的市場圏の中心をなす内陸自治都市群――が、出揃わなかった、いや、そのうちのひとつも、出現しなかった、といわざるをえません。

 

とはいえ、わたくしは、西欧型「近代化」の大きな意義認め、さらに学ぶ点も多い、とは思いますが、だからといって、それをただちに普遍化して規範とはしません。わたくしはむしろ、その意義と歴史的諸条件を、比較文化史の地平で、さらに相対化していきたいと思います。

 

東のロシアが、絶えることのない地続きの軍事的脅威に、「軍事優先の、上からの近代化」をもって対抗し、無理を重ねざるをえなかった、その根本原因は、他ならぬ西欧の膨張-侵略にありました。ロシアにとって、東からの脅威・モンゴル族は、ロシアも見習った西欧の軍事力によってねじ伏せられたというよりも、むしろラマ仏教の普及によって、西方侵略の毒性を殺がれました。それにたいして、西欧側の膨張-侵略傾向をまったく問題にしない、というのでは、一面的に過ぎましょう。

対内的には「自由・平等・友愛」の理念を謳い、部分的には実現しながら、対外的にはもっぱら自国中心の膨張-侵略をこととし、しかもそれを「正当化」する、欧米の問題傾向(「対内倫理と対外倫理の二重性」)は、どこに発し、どう展開し、いまなお、どのような形で生き延びているのでしょうか。わたくしたちは、この問いを、「ロシアと西欧」という問いに重ねて、問うていかなければなりません。

 

なお、このビデオ制作にあたっては、つぎの文献を参照させていただきました。

歴史的事実につきましては、うろ覚えの知識を、和田編『ロシア史』その他の専門的文献にあたって確かめましたから、なにひとつ新しいことはなく、ただ明らかな間違いは犯していないようにと、祈るばかりです。そうした事実をどう解釈し、位置づけるか、につきましては、長年マックス・ヴェーバー研究に携わってきた一アマチュアとして、比較文化史ないし比較歴史社会学への思いを、メッセージとして籠めたつもりです。

 

参照文献

和田春樹編『ロシア史』2002、山川出版社

藤本和貴夫/松原広志編『ロシア近現代史』1999、ミネルヴァ書房

マックス・ウェーバー、雀部幸隆他訳『ロシア革命論』Ⅰ/Ⅱ、19971998、名古屋大学出版会

肥前栄一『ドイツとロシア――比較社会経済史の一領域』(新装版)1997、未來社

肥前栄一『比較史のなかのドイツ農村社会――「ドイツとロシア」再考』2008、未来社

田中真晴『ロシア経済思想史の研究』1967、ミネルヴァ書房

加納格『ロシア帝国の民主化と国家統合――二十世紀初頭の改革と革命』2001、お茶の水書房

富田武『スターリニズムの統治構造――1930年代ソ連の政策決定と国民統合』1996、岩波書店

 

オリヴィエ・クレマン、冷牟田修二/白石治朗訳『東方正教会』1977、白水社

高橋保行『ギリシャ正教』1980、講談社

広岡正久『ロシア正教の千年――聖と俗のはざまで』1993、NHKブックス

三浦清美『ロシアの源流――中心なき森と草原から第三のローマへ』2003、講談社

ニコライ・ベルジャエフ、田口貞夫訳『ロシヤ思想史』1958、創文社

ニコライ・ベルジャーエフ、田中西二郎/新谷敬三郎訳『ロシア共産主義の歴史と意味』1960、白水社

 

ガイド・ブックその他

ダイヤモンド社 『地球の歩き方 A31 ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、コーカサスの国々』20082009年版

クラブツーリズム『ロシア/バルト三国』

出版社 ”Amarant”『モスクワ』2005、モスクワ

出版社 “P-2”『サンクト・ペテルブルク』2007;『エミルタージュ』2006;『ツァールスコエ・セロー』2000;『スパナ・ナ・クラヴィ』2003、サンクト・ペテルブルク

出版社アルカイム『スズダリ』2003;『ヴラジーミル』2004、ヴラジーミル

(これらのガイド・ブックからは、静止画や地図も拝借しました。)

 

使用機器: Sony HDR-TG1; VGC-RM91S1

使用ソフト: Adobe Premiere Pro 2. 0

 

20081210

折原浩 慶子