記録と随想42――「近代日本における立身出世の系譜」論に寄せて(高志の国 文学館の学芸員・小林加代子氏宛、20221026日付け書状を若干改訂して収録。2023114日)

 

小林加代子様

拝啓

 今日は少々、先日(2022109) そちらにお伺いしたさいの話の続きを、お伝えしたいと存じます。

富山出身の作家、柏原兵三と木々康子との対比にさしかかったところで、話が中断しておりました。

木々作品のなかでは、『敗戦まで』1999、はまの出版)が、対比には好適のようです。「著者の思想的主張が、表に出過ぎて、文学作品としてはちょっと……」というところがあるかもしれませんが、それだけに、「立身出世」と「戦争への対応-態度決定」にかかわる対照的差異を、容易に取り出して見届けることができそうです。

木々は、「祖国に殉ずる一途な心情」とくに「青少年の健気さ」には評価を惜しまず、むしろそれと対比して、「この無謀な戦争には負ける」と分かってはいながら、あるいは、負けると予測するのに十分な知力と教養は備えていながら、口を噤んで、「専門の職業」と「私生活」に閉じ籠もり、さしたる被害は受けず、負けがはっきりして初めて、「なんと愚かな戦争だったことか……、気の毒な犠牲者たちよ……」と嘯く、日本の「中産階級」の優柔不断を、「旧制高校―東大法学部卒」の判事の父親を主たるモデルとして、描き出し、糾弾しています。(ここで、先日お届けした『東大闘争総括』から、同じような精神構造が、その後にも生き残り、現場では学生との議論を避けた東大教官-東大当局が、警察機動隊を導入して、学生の問いかけを圧殺して生き延び、旧態に戻った経緯を、推察していただけましょう。)

さて、ここには、明治開国以後の日本「近代」における「立身出世」の二系譜が、一方は、柏原兵太郎や徳山道助を代表例とする

「軍事-戦争派」、他方は、『敗戦まで』の主人公で、尚子の父・哲郎に象徴される「日和見官僚派」という二類型として、出揃ったようです。ところが、いまひとつ、第三類型がありましょう。すなわち、日清―日露―日中―太平洋戦争を通して生き延び、巨大な軍需によって儲け、太平洋戦争には負けても(戦争によって破壊されただけ)拡大された市場に「復興資材」を供給して、かえって肥え太り、やがて復活した、三井・三菱・住友などの財閥を筆頭とする「独占的大企業」と、その「終身雇用の幹部社員」たちです。かれらはむしろ、「立身出世」の基本的な前提条件ともなる「既成勢力(エスタブリッシュメント)」で、判-検事や上級官吏などの「日和見派」国家公務員も、戦争勢力の「軍事派」も、少なくとも長期にわたっては、かれらの意向を無視して、ことを運ぶわけにはいかなかったでしょう。かれらはまた、戦争によって「軍事-戦争派」の勢力が増強され、ヘゲモニーを奪われることをおそれて、密かに敗戦を願っていたにちがいありません。

ところで、「立身出世」の「生活様式(ライフ・スタイル)」とりわけ「学歴選択」に焦点を絞りますと、三類型相互間には、やはり違いがあったようです。

「軍事派」は、「幼年学校」に始まる、独自の後継者養成システムを備えてはいましたが、その出身者以外、とくに柏原兵太郎氏などは、苦学して地方の旧制高校を卒業し、(官僚一の登竜門)東大法学部を卒業して、官僚機構に入り込んだ「初代」でした。

ところが、代目—代目-……ともなりますと、条件と様相が変わってきます。すでに幼稚園―小学校段階から、ある程度、「立身出世コース定型化-序列化され、それと同時に、「強い」に代わり、(とくに子供の教育-進学をめぐっては家政(オイコス)を牛耳る)強い母親」が出現します。

柏原家母方の伊東家は、(いつ戦死するともかぎらない)軍人-将軍一族に特徴的な慣習として、首都の特等地に土地や家屋といった資産を買い入れて住み、子孫に残そうとしました。その意味では「格式ある旧家」だったにちがいありません。しかし、子どもたちは、(都道府県立の最高水準ではありますが)区立の小学校や、都立一中-日比谷高校に入学させています。兵太郎氏の妻で兵三の母上は、中将の一人娘でしたが、進学をめぐる動向や情報は手に入れにくい「立ち位置」にあったでしょう。

ところが、当時すでに、一種独特の「国立のエリート・コース」ができあがっていました。「山の手」(当時小石川区、現文京区)の一角に、(後の東京教育大、現筑波大)付属幼稚園―付属小学校―付属中学校、ならびに、女師(現お茶の水女子大)付属幼稚園付属小学校―付属高等女学校が、ほぼ隣接して所在し、子どもをいったん付属幼稚園か付属小学校に入れさえすれば、後はだいたいトコロテン式に進学でき、大学受験にも、その後の経歴にも、いたって有利でした。これらの付属学校は、それぞれの「識別標識」として、独特の制服-制帽ないしベルト(ブラウスの上にしめるバンド)を指定し、これらがまた、生徒本人や母親を惹き付けてやまなかったようです。そこで、近辺の親たち、とくに第二第三類型の「立身出世家族」の母親たちは、こぞって子女を、このエスカレーター・コースに乗せようとしました。

小生の母親のごときは、(けっして誇示するわけではなく、小生はむしろ、「疎開」体験を契機に、そういう体制そのものに批判的となって「叛逆児」に転じたのですが)、一人息子だった夫と子どもたちを連れて、舅と姑とは別居し、両エスカレーターの通学区域(小石川区)に転居しました。夫は、検事でしたが、遠方への転勤は断って、東京・横浜・千葉など、通勤可能な範囲に留まり、転勤にともなう自分の昇進は見送っていました。かれも「旧制一高―東大法学部卒」ではありましたが、二代目で、立身出世には「うんざり」したのか、多少の距離感は抱いていたようです。しかし、「強い妻」には従い、趣味の世界(写真)に閉じ籠もっていました。哲郎と同じ「第二類型」の典型だったのです。

ちなみに、そういう環境で育てられた娘たちは、縁故に頼って「旧制一高-東大卒」の「秀才」(たとえ「田舎秀才」と見下しはしても、喜んで)結婚し、「強い妻」となって、家政を取り仕切り、「第二、第三類型」の「立身出世家族」の再生産に励みました。

さて、小生、数年前に初めて、高志の国 文学館をお訪ねしたとき、常設書架に柏原作品と木々作品とが並んでいる奇遇にびっくりし

ました。それ以来、双方を互いに関連づけて、明治開国以来の日本「近代」における「立身出世」の諸系譜を展望し、それぞれを位置づけると面白いのではないか、と考えてきた次第です。

柏原作品は、このままではともすれば、祖国の戦争に一身を捧げた「忠君愛国」一族の鎮魂歌(レクイエム)として、 そのかぎりで総括されかねません。それにももとより、意義はありましょう。しかし、小生は、柏原が、そこから出発しながらも、むしろさればこそ、その限界を超え出て、日本「近代」の諸問題を見通し、個人の自律による「日本社会の根底からの近代化・民主化」を目指す方向で、かれの「大河-教養小説」を書き上げていってほしいと念願してきました。そして、後には、上記のような意味で、木々康子作の歴史小説群が、その媒体にもなろうか、と思いいたった次第です。

ちなみに、木々はこのたび、高頭麻子との共編著で、713頁の浩瀚な資料集成『美術商・林忠正の軌跡(1853-1906)19世紀末パリと明治日本とに引き裂かれて』を上梓しました20221230日、藤原書店刊)

こんどの企画展で柏原作品に出会った若者が、やや戸惑って、「では今後、どうしていけばいいのか?」と疑問をぶつけてくることも予想し、ご参考までに一筆いたしました。

敬具

20221026

折原 浩