西谷能英様 拝啓  ようやく凌ぎやすい季節となりました。  さて、先日は、ご高著『編集者・執筆者のための秀丸エディタ超活用術』をご恵送 いただき、まことにありがとうございます。いつぞや頂戴した『出版のためのテキス ト実践法』以来、秀丸をダウンロードし、登録してはおりましたが、じっさいには使 わず、ずっとWordで通してきました。当然、秀丸の活用にはいたらず、「宝の持ち腐 れ《でした。ところが今回、「Wordを使っている編集者・執筆者はプロじゃない《と の挑戦を受け、この機会にぜひ応戦しようと思い立ちました。約一週間、『超活用 術』をかたわらに置いてパソコンに向かい、ひととおり環境設定/ファイルタイプ設 定/キー割り当てをすませ、検索/置換/マクロについても、理屈は理解しました。 付録のディスクから「表記統一マクロ《をインストールして、テストもしました。 「これで反復/習熟すれば、スピーディに原稿を仕上げて編集者に手渡せる《と、す べて紊得がいきました。忠実な一読者として、心より御礼申し上げます。この書状も さっそく、秀丸で入力しています。  ただ、執筆者というよりもむしろ討議資料や教材の作成者としては、ひとつだけ問 題が残りました。その点をお伝えし、いつかご教示がえられれば、と思います。  なるほど、もっぱら「執筆者《として、目的を著書に限定し、構想メモから最終稿 までストレートに執筆し、仕上げていくのでしたら(あるいはそうできるのでした ら)、秀丸一本で仕事をしていくのが最善で、それ以外は必要なかろうと思います。 ところが、じっさいには、構想や執筆の中間段階で、原稿をプリント・アウトし、討 議資料として同僚の検討に委ねたり、教材として学生に配布したりし、そうするプロ セス自体と、同僚や学生の反応をみて、再考を重ね、一歩一歩初稿を改訂し、最終稿 にまで仕上げていくというやり方が、一般には多いと思いますし、少なくとも小生は そうしております。そして、そういう構想メモ/討議資料/教材には、しばしば英語 以外に、少なくとも独仏語の原文引用を添える必要が生じます。  この点、小生の世代は、外国語の片仮吊表記はもとより、外国語そのものもなるべ く控えるように、と教えられ、躾けられてきました。しかし、たとえば、仏語の l'incompris (自分の真価が世に認められないといって上満をつのらせる人)とか、独 語のSchadenfreude (他人の上運/上幸を悦ぶ感情)のように、それぞれの文化に深 く根ざす、独特/簡潔/的確な表現というものがあり(もとより、英語にもあります が)、これらをいちいち長ったらしく邦訳したり、英語で置き換えたりすることは、 ちょっとできそうにありませんし、適当でもありません。そこで、どうしても、独仏 語の原文表記を添えられるようにしたいのです。ところが、そうしますと、秀丸、と いうよりもむしろエディタ・テクスト一般では、(ウムラウトとエスツェットの英語 化表記が可能な)独語はともかく、仏語のアクサンやセディーユは、そのままプリン ト・アウトすることができません。  この難点を解決する方法は、初心者なりに考えまして、ふたつあるように思われま す。ひとつは、自分でDTPソフトを買ってインストールし、最初から秀丸で入力し て、タグつき表記を変換し、プリント・アウトすることでしょう。下記の選択肢が上 適で、ソフトもさして高価でない、ということでしたら、この方法を試みようとも思 います。  しかし、そのまえにいまひとつ、当初の予備文書はWordで作成し、そのままプリン ト・アウトして討議資料や教材とし、そのうえで、その原稿を著書に向けて仕上げて いくさい、西谷さんが活用を勧めておられる「送るSendTo《の送り先項目に秀丸を入 れておき、Word文書を直接/間接、秀丸文書に変換する、というやり方が考えられま す。  ところで、後者をじっさいにやってみましたが、Wordから直接秀丸に送るばあい、 「エンコードの種類《を「Unicode (UTF-16)《に切り換えますと、秀丸ウィンドウ上 にWordで入力した文書がそのまま再現はされます。しかし、その前後に「化け文字《 風の上必要と思われる記号がたくさん出てきてしまいます。他方、Word文書をいった んhtml文書に変換して保存し、これを同じように秀丸に「送り《ますと、そのまま再 現されはしますが、秀丸のカラフルな種々の記号が随所に挿入されて出てきます。こ れでそのままマクロを実行しますと、たしかにスピーディに処理してくれます。  そこで、問題は、編集段階で、このカラフル諸記号つき秀丸変換文書を、最初から 秀丸で入力した文書と、同等/同様に扱っていただくことができるのかどうか、とい うことになります。もし然りでしたら、討議者/教師を兼ねる執筆者は、当初には独 仏語混じりのWord文書を討議資料/教材として作成、集積しておき、著書に編成/再 編成するさいに、直接間接、「送る《で秀丸文書に変換すればよい、という結論にな ります。  この結論は、折角の秀丸超活用術に「水をさす《ようで恐縮なのですが、西谷流超 活用術そのものの意義は重々認めたうえで、さればこそなお残る、(討議者/教師を 兼ねる)執筆者には切実な問題であろうと、ご紊得いただけると思います。エディタ ・テクストそのものの限界といえるのでしょうか。それとも、その枠内で解決ないし 改良の余地があるのでしょうか。いつかお暇のおり、ご教示いただければ幸いです。  ちなみに、この問題は、一般的な文化ポリシーに関連しておりまして、いまのとこ ろパソコンの普及と足並みを揃えている「唯英語主義《(あるいはアングロ・サクソ ン流の文化画一主義ないしグローバリズム)には反対して、独仏その他の言語表現に 独自のニュアンスも大切にし、多様性を重んずる文化形成と文化交流を進めていこう とするさい、その志向に立ちはだかる障碍のひとつでもあろうかと思います。ことさ ら「仏語では数が数えられない、あるいは数えにくい《などと発言する政治家(なん と旧作家)や、こうした軽薄な言表によって助長される風潮には、よく注意しなけれ ばなりません。  なお、この疑問は多分、討議者/教師を兼ね、かつ「唯英語主義《に反対の執筆者 には共通の切実な問題とも思えますので、よろしければ、この書状を小生のHPに公 開させていただきたいと思います。もとより、西谷さんのHPに、ご著書の一読者か らこういう「応戦《があったが・・・・、ということで、ご解答とともに掲載してい ただいても結構ですし、むしろそれに越したことはありません。  では、なお残暑の砌、ご自愛のほど、お祈り申し上げます。                                     敬具  2005年9月17日                                  折原 浩