「第3 日独社会学会議」に向けて (5)

 

 (承前)

5. Ⅱ『社会』篇の社会学的基礎範疇と体系的統合

「社会」篇1「家、近隣、氏族、経営とオイコス」章では、「概念」篇末尾の予告どおり、「普遍的な種類のゲマインシャフト」が、相対的に「原生的 (自然必然的) urwüchsig」な「家Haus-、近隣Nachbarschafts-、氏族Sippengemeinschaft」の順序で採り上げられ、それぞれの「一般的な性格づけ」がなされます。しかし著者は、一方では「それらのなかで培われる諸特性が、後発のゲマインシャフトや支配関係に、どのように持ち越され(それぞれの素地として) 温存再編成されていくか」(松井克浩によって剔出された「ゲマインシャフトの重層性」視点)、他方では「(それら原生的ゲマインシャフトにもなおゲゼルシャフト関係の契機が孕まれるとすれば、どこまでか (ある条件のもとで部分的ゲゼルシャフト形成がなされながら、全面展開にはいたらず萌芽に止まるのはなぜか)」と問いかけ、それぞれの発展方向を見通し類型化をくわだてます。

「家ゲマインシャフト」は、「(原則として) 父母の持続的性関係と子供たちとの親子関係および子供たちの相互関係が、『家計Haushalt』を共有し、扶養・養育の機能を担うことによって (『経済ゲマインシャフト』として) 安定する (相対的にはもっとも) 原生的なゲマインシャフトです。そこでは、家長の「権威Autorität」にたいする「恭順Pietät」が培われ、これが、一方では「祖霊への恭順」として、「氏族」や (宗教的)「祭祀ゲマインシャフトKultgemeinschaft」に、他方では、「長上 (とくに支配者) にたいする即人的恭順」として、「家産制Patrimonialismus」・「従士制Gefolgschaft」・「封建制Feudalismus」といった「伝統的支配traditionale Herrschaft」の諸関係に、持ち越され、それぞれを支える素地として温存され、再編成されて、命脈を保ちます。

家ゲマインシャフトの内部では、家長の (原生的には理論上無制約の) 権威のもとに、「能力に応じて寄与し、必要に応じて取る」という (合理的計算ぬきの) 「家共産主義Hauskommunismus」がおこなわれます。しかしそれは、一方では人口増加にともなう家ゲマインシャフトの外的分解 (家男が家族・家屋・土地・生産要具とともに別居しながら、なお家長の権威には服する「家産制」への移行)、他方では (まずは性、ついで経済の領域における) 対内的「閉鎖-専有」につれて、全般的に解体ないし弛緩していきます。

  家ゲマインシャフトに内包される諸関係のうち、もっとも原生的なのは母子関係です。しかし、「母子集団Muttergruppe」の並存は、軍事的必要にもとづく壮丁の「メンナーハウスMännerhaus」起居にともなう派生的-変則的形態で、人類史に一時期を画する家族形態ではありません。そのメンナーハウスを、ヴェーバーは一貫して「持続的な特別ゲゼルシャフト形成dauernde Sondervergesellschaftung」として捉えます。それどころか、軍事史上その階梯をなす、カリスマ的指揮者を戴いて掠奪行・戦争行・あるいは防衛戦争に決起する民兵の結集態も、一貫して「臨機的ゲゼルシャフト形成Gelegenheitsvergesellschaftung」と見ています。もっとも原生的な軍事組織が、なんとゲゼルシャフト形成なのです。しかし、後者はもとより、戦闘が終わり、戦利品を分配すると、そのつど解散します。前者も、軍事技術が高度化し、獣曳戦車や騎馬が登場すると、太刀打ちできずに淘汰されます。両者とも、ゲゼルシャフト形成の萌芽止まりで、発展して全社会的に拡大するにはいたりません。

ところが、中世末のイタリア都市では、商業を営む家ゲマインシャフトに、(家共産主義の解体、計算性の増大の結果、各構成員のポケットマネーの規制や、資本持ち分と個別資産との区別に始まる) 合理的ゲゼルシャフト関係が孕まれ、これが発展して「家計から分離」し、「経営Betrieb」として独立します。これをヴェーバーは、ヨーロッパに独自の「転形Umformung」と見ます。ところで、当時、イタリアの取引中心地では、商業上の営利が、協働の労働の成果と見なされ、各家構成員は、家長の存命中にも、自分の持ち分を携えて、家ゲマインシャフトから分離-独立することができました。それにたいして、イタリアでは、営利が共有の財産に帰せられ、財産の一体的維持と各人の連帯責任の原則が維持されていました。解体の「進んだ」家ゲマインシャフトではなく、「遅れた」家ゲマインシャフトから、まさに「遅れ」ゆえに、「経営」が「分娩」されたのです。

また、「家計」と「経営」との分離にとって重要なのは、イスラームにも見られる「空間上の分離」や、中国にも普及していた「呼称上(商号)の分離」ではなく、帳簿また法のうえでの分離でした。ところで、誕生したばかりの経営の自律と持続は、(分析的-個人主義的なローマ法ではなく) 西洋中世起原の(商事登録法、特別資産法、破産法など)、経営を「神秘な聖体」として「実体化」する、これまた(ローマ法に比して)遅れた」法によって保障されました。また、中世ゲルマン起原の、羊皮紙を「呪物」と見なす「遅れた」証書法は、契約や債務の履行を、まさにそれだけ有効に保障しました。ここに見られるとおり、ヴェーバーの「合理化」論は、単純な単線的「進化論」や「発展段階論」ではありませんし、「ゲゼルシャフト形成」を (西洋近世以降の)「近代化」と同一視しているのでもありません。

「経営」の「発展形態」は、「概念」篇末尾の予告どおり、後段 (「支配」篇) で「支配の範疇と関連づけて」、2「正当的支配の三類型」章1)「合理的支配」節中の「単一支配的monokratisch」形態、すなわち「官僚制Bürokratie」として採り上げられます。

他方、「経営」の分娩とは正反対の発展方向に、「オイコスOikos」への内部的拡大再編成があります。オイコスとは、「君侯・荘園領主・都市貴族の、権威によって指揮される大家計で、その究極の動機が、資本主義的貨幣営利にではなく、首長需要の、組織化された、実物による充足に置かれたもの」をいいます。その目的のもとに、部分的には、営利経済的な個別経営が編入されているばあいもあります。オイコスの「家産制」支配への発展については、これまた、後段 (「支配」篇) 22)「伝統的支配」節で採り上げられます。

 

つぎに「近隣ゲマインシャフト」は、空間的近接居住ないし滞在 (「近隣縁」) を契機とするゲマインシャフト形成で、家ゲマインシャフトによる日常的需要充足の範囲を越える、危急時の「兄弟 (同胞) 的救難援助brüderliche Nothilfe」を、固有の機能とします。隣人どうしが、共通の危険に直面して、「懇請に応える (消費財の) 無償貸与Bittleihe」と「懇請に応える無償労働Bittarbeit」を、醒めた「互恵倫理Reziprozitätsethik(「汝が我に、我も汝に」) に則って、互に提供し合います。

内部に経済的分化が生ずると、原生的には対等な隣人仲間間の「兄弟的救難」も、一方では、大土地所有者への無償労働 (とりわけ収穫援助) に、他方では、外部からの脅威にたいする利害「代表」、余剰地の無償貸与、飢饉時の緊急援助など、に再編成されます。そして、経済的有力者が、そうした要請に応え、近辺で「声望」を博すると、「仲間のなかの第一人者primus inter pares」から「名望家Honoratiore」となり、やがては、(対外的防衛のため当初には臨機的ゲゼルシャフト形成によって編成した) 軍事力を、(ゲゼルシャフト形成の費用を調達して恒常的に維持するため) 「強制装置」として対内的にも差し向け、(当初の) 無償労働を「法」的義務に転化します。このとき、「賦役経済Fronwirtschaft」が成立します。そのように、名望家が「武侯Kriegsfurst」を兼ねて「首長Herr(命令権力を他から授与ないし委託されるのではなく、みずから独立に要求し、行使する支配者) にのし上がり、「賦役義務」を負う () 隣人に「家支配」をおよぼすとき、() 隣人間の「仲間」関係は、「家産制」的「支配」(命令-服従) 関係に転態を遂げます。

近隣のゲマインシャフト行為は、危急時を別とすれば、通例、「無秩序」「開放的」「間歇的」に止まります。しかし、なんらかの土地範疇が「稀少」になると、(「概念」篇-3「社会と経済」§21.の通則どおり) それを対外的に独占し、対内的にはその用益を「仲間団体的genossenschaftlich」に規制すべく、「専有」(の諸階梯) に通じる「秩序を制定」して、(「閉鎖された」「経済ゲマインシャフト」あるいは「経済を統制するゲマインシャフト」に) ゲゼルシャフト形成を遂げます。数多の近隣ゲマインシャフトが「原生的基盤」をなし、上位の政治団体によって制定秩序を「指令 (授与) oktroyieren」され、当の政治団体の下位単位に編入されると、「ゲマインデGemeinde」が創成されます。他方、近隣ゲマインシャフト自体が、「村落Dorf のように、ある「領域Gebiet」を支配し、教育・祭祀・手工業集落の設営など、あらゆる機能を取り込んでいくか、あるいは、政治団体から「指令」された義務として引き受けていくばあいもあります。

 

「氏族」は、(父系ないし母系の出自によって) 同一共通の祖先に結びついていると主観的に信じ、外婚をおこなう血縁 (ないし擬制血縁) ゲマインシャフトで、通例ゲゼルシャフト形成を欠いています。関与者が面識もなく、能動的行為もせず、ただある行為 (性交) を「思い止まる」だけで (「意味」関係はともなうので) ゲマインシャフト行為は成立する、という好例です。しかし、経済的また社会的なシャンスが「稀少性」を帯びるときには、(やはり「概念」篇-3「社会と経済」§21.の通則どおり) 独占への利害関心によって「閉鎖」され、ゲゼルシャフト形成を遂げることもあります。しばしば構成員に「血の復讐義務」を課して「私闘」をおこないますが、そこで培われる「忠誠 (誠実) Treue」は、後発の支配関係 (たとえば封建制的主従関係) 取り込まれ、それを支える素地に再編成されます。

 

「社会」篇-2章で採り上げられる「種族」は、「①外面的容姿と②習俗とのいずれか (あるいは両方) における類似、または③植民や移住の記憶、にもとづいて、血統の共有にたいする (主観的) 信仰を、ゲマインシャフト関係の拡張にかかわる程度に抱いている人間群Gruppe [統計的集団]」と定義されます。「種族的共通性Gemeinsamkeit」とは、主観的に「信じられたgeglaupt」共通性で、ゲマインシャフト形成を容易にする基礎ではあっても、それ自体が「ゲマインシャフト」をなすのではありません。その点で、本質上現実にゲマインシャフトをなす「氏族」とは区別されます。他方、現実の遺伝形質による「人種的共属性Rassenzusammengehörigkeit」も、①外面的容姿の類似を規定する一契機として、「種族的共通性」信仰を喚起しますが、これまた「ゲマインシャフト」ではありません。「種族」「人種」が「ゲマインシャフト」でないのは、「階級状況Klassenlage(「市場における地位」) を共有する「人間群」としての「階級Klasse」が、(「同種の大量行為」-「無秩序なゲマインシャフト行為」-「諒解行為」-「(臨機的-持続的)ゲゼルシャフト形成」という階梯をへて「合理化」される「階級的ゲマインシャフト行為」の基礎ではあっても、なお)それ自体としては「ゲマインシャフト」でないのと同様です。

種族的共通性は、さまざまなゲマインシャフト形成、とりわけ政治ゲマインシャフト形成の契機となります。他方、さまざまなゲマインシャフト、とりわけ政治ゲマインシャフトは、合理的なゲゼルシャフト形成による人為的構成をそなえていても、種族的共通性信仰を喚起します。たとえば、古代イスラエルでは、毎月輪番で王の食卓に食事を供する行政支分の合理的編成が、「12部族」の「兄弟盟約」に擬せられました。ヴェーバーによれば、これは、「合理的に物象化されたゲゼルシャフト行為がまだ普及していない条件のもとでは、ほとんどすべてのゲゼルシャフト形成が、当の合理的目的の範囲を越える『ゲマインシャフト意識』を喚起-醸成し、種族的共通性信仰を基礎とする即人的兄弟盟約の形式をまとう」という一般経験則の一例です。ここで、この論点に、「概念」篇-3「社会と経済」章、§23. を経由して「カテゴリー論文」第29段末尾に達する、前出参照指示が付されています。

 

「社会」篇3 章で採り上げられる「宗教」は、社会学的には、「行為者の抱く主観的『意味内容において、(『霊魂』、『神々』、『悪霊』といった)『超感覚的諸力übersinnliche Mächte』と人間との関係の秩序づけに準拠する」人間行為の一分節化領域として取り扱われます。ヴェーバーによれば、東西諸文化の分岐を規定した主な要因は、「純然たる政治的な諸条件(支配の内的な構造形式)」とこの「宗教性」の領域とにあるので、この章の叙述は (「概念」篇末尾の「構成指示句」にある「量的均等」原則にしたがって) 膨大で詳細をきわめ、要約は困難です。ただ、いくつかの論点を採り上げると、近隣ゲマインシャフトで原生的に培われる「兄弟的救難」の「互恵倫理」は、宗教上のゲゼルシャフト形成としての「教団 Gemeinde」に取り込まれ(誓約兄弟関係Verbrüderung」、「信仰上の兄弟」としての) 教団構成員間に普及拡張再編成されます。ときには「兄弟(同胞)Brüderlichkeit」に普遍化・抽象化され、「無宇宙 (無差別) akosmistische Liebe」にまで深化されます。他方、普遍的兄弟愛は、「教団」の範囲を越えても普及し、(発生的には多様な諸氏族-諸種族の離脱衆からなる)(西欧中世) 都市ゲマインデStadtgemeinde」の凝集性・結束力を支え、「自治権」「簒奪Usurpation」の一契機ともなりました。

ところで、(つぎのⅡ-4 章で主題とされる)「市場Markt」の拡大とともに、「市場利害関係者Marktinteressenten」による「物象本位sachlichのゲゼルシャフト形成が進み、これが同時に、(旧い身分的独占を足場とする)「特別法ゲマインシャフト」を掘り崩して、法強制の国家独占と、司法と行政の「形式合理化」「官僚制化」をもたらします。そして、そこに形成される「国家法」秩序が、ゲゼルシャフト形成の全社会的全面展開への梃子となり、それまでにもさまざまな原生的ゲマインシャフトに萌芽的ないし部分的には簇生してきていたゲゼルシャフト関係は、それ以後、既存のゲマインシャフト関係に呑み込まれることなくかえってゲマインシャフト関係をますます侵蝕していくことになります。そのとき、「宗教ゲマインデ」も、(古くから「同胞倫理」を培ってきた)近隣ゲマインシャフトの原生的基盤からは遊離し、あるものは、いよいよ優勢となるゲゼルシャフト関係に適応して、「物象本位」の「同胞倫理」に転化し(「脱即人化・物象化」される経済秩序と、宗教的「同胞倫理」との「緊張」を、その方向で「解消」して)、ゲゼルシャフト形成の内面的推進力にも転態を遂げ、再編成されましょう[1]

 

さて、これまでに採り上げてきた家、近隣、氏族、オイコス、種族、教団などは、いずれも部分的ないし萌芽的な「合理化」-ゲゼルシャフト形成を内包するだけでした。それにたいして「市場Markt」における「交換Tausch」は、そうしたゲマインシャフト形象のすべてに対立して、「あらゆる合理的ゲゼルシャフト行為の原型Archetypos」をなします。

市場で交換が実現されたばあいには、当事者と交換相手との間に、ひとつのゲゼルシャフト関係が形成されますが、それは、交換財の引き渡しと同時に消滅します。市場は、そうした「一過的ephemer」ゲゼルシャフト関係の共存と継起からなっています。ところが、交換の実現にいたる事前の駆け引きFeilschen」では、交換志望者の双方が、相手方の可能な行為のみでなく、他にも不特定多数の (現実ないし想像上の) 交換利害関係者の可能な行為にも準拠しながら、手持ちの財をもっとも有利に提供しようとします。そのかぎり (制定秩序なしに、他人の行為の予想にのみ準拠する) 諒解ゲマインシャフト行為です。貨幣を用いる交換となると、貨幣が将来にわたって不特定多数の他人に求められ、使用されつづけるであろうという予想-諒解に準拠してなされ、ますますもって諒解ゲマインシャフト行為です。

さて、「市場ゲマインシャフト」は、人間の実践的生活諸関係のうちで、「もっとも人柄のいかんに左右されないunpersönlichst」ものです。市場が、その固有法則性に委ねられて「自由に」発展するときには、関与者は、ひたすら物象 (交換でなく交換) のいかんを考慮し、人間同胞としての義務も、恭順の義務も、およそ人柄がものをいうもろもろのゲマインシャフトに担われた原生的人間関係は、いっさい顧慮しません。この「絶対的な物象化absolute Versachlichung」は、人間関係のあらゆる原生的構造形式と対立し、抗争widerstrebenします。利害状況や独占状況が容赦なく駆け引きに利用される「自由な」(倫理規範に縛られない)市場は、およそいかなる倫理においても、同胞の間では非難されるべきもの、と見なされています。交換関係は当初、あらゆる原生的血縁-、地縁ゲマインシャフトの内部ではなく、「境界」でとり結ばれます。原初的な商行為としての「沈黙交換」は、対面的接触を避け、一定の場所に置く交換財を合意に達するまで漸増していく形式で駆け引きをする相互行為で、物象本位の性格を鮮明に示しています。

市場において、交換当事者の双方に期待され、「市場倫理Marktethik」の内容をなす資質は、合理的な合法性rationale Legalität、とくにひとたび締結された約束は破らないという形式的不可侵性formale Unverbrüchlichkeit des einmal Versprochenen です。そうした合法性は、当の交換関係を将来にわたって維持していくことへの利害関心に根ざすといえましょう。しかし、そうした利害関心からおのずと「正直は最良の商略」といった準則が生まれ、確定価格や実直な取引の慣行 (慣習律) が維持されるわけではありませんし、ある交換当事者 (たとえば、交換への関与が、規則的かつ能動的ではなく、臨機的かつ受動的な「封建制的」社会層出身者) には、そうした利害関心がそもそも欠けている(あるいは、そうでなくとも稀薄で、目前の状況の投機的利用に傾く)ばあいが多々ありえましょう。そうした条件の相違に応じて、「市場倫理」は、①西洋中世の局地的近隣市場で、交換当事者双方が、市場取引に見られる倫理的資質と関連づけて人柄への評価をくだせる確定した顧客関係を基盤に、(オリエントや極東に比して) 高度に発達を遂げました。それはまた、②初期産業資本主義の前提でもあれば、その成立後しばらくは、その所産でもありました。

ところで、市場の存在は、諸個人を「誘惑」し、「私的に専有」された財を、市場で販売して、自由な欲求充足に赴くように仕向けます。市場は、そのようにして、(市場にたいする制限障壁であった)身分的独占団体の基盤を掘り崩して、拡張を遂げます。その局面では、多種多様な社会層出身者が、市場に引き込まれますが、かれらには、かの合法性が、「市場倫理」によって内面から保障されてはいません。そこには、紛争が頻発し、その平和的解決と、合法性への外からの法的保障が、それだけ必要とされます。

市場は、始原的には「余所者」「敵」どうしの関係ですら、その平和は、当初、(国際法上の戦争慣行と同じく) 神々の力に委ねられ、神殿の保護の下に置かれるほかはありませんでした。やがて、その平和保障が、部族首長や諸侯によって保護手数料の徴収源ともされますが、これはこれで、「私闘」の源泉ともなります。そうした私闘が抑制-禁止され、あらゆる紛争が、強制執行をともなう裁判官の仲裁裁決に委ねられるようになるには、政治ゲマインシャフトの発展を待たなければなりません。

 

「社会」篇-5「政治」章で論じられる「政治ゲマインシャフト」は、政治的ゲマインシャフト行為によって構成されるゲマインシャフトです。政治的ゲマインシャフト行為とは、①ある領域 (領土と領海) とその在住者を、②物理的な実力の行使ないし威嚇によって、③秩序ある支配のもとにおく(ばあいによっては、領域の拡張をくわだてる) ゲマインシャフト行為です。その実力行使は、外敵のみでなく、内部の敵 (給付調達の要求にしたがわない敵対者) にも向けられ、その強制は、生命と移動の自由の剥奪にもおよびます。

ところで、生殺与奪の要求は、血讐義務を課す「氏族」、殉教義務を課す「教団」などにも認められます。それらから政治ゲマインシャフトを区別する標識は、当初には、後者がかなり広範囲の陸海域を制圧する確定的処分力として、格別持続的に、しかも公然と存立する、という量的差異のみです。ところが、政治的ゲマインシャフト行為が、直接の脅威に対処する臨機的行為から、アンシュタルト構造をそなえたゲゼルシャフト関係へと発展し、強制手段の適用が、合理的・決疑論的に秩序づけられるようになると、関与者は、政治ゲマインシャフトのそうした秩序を、質的にも「適法性Rechtmässigkeit」という特別の「神聖性Weihe」をそなえたものと感得するようになり、生殺与奪を含む物理的強制力の行使も、そうした適法性をそなえるかぎりで、「正当」と「諒解」されます。

やがて、この信仰がたかまり、ある政治的ゲマインシャフトが、「国家Staat」の名のもとに、適法的な物理的強制権力を独占し、他のいかなるゲマインシャフトも、その委託の範囲内でしか、物理的強制力の行使を許されなくなります。近代の諸事情のもとでは、①かつてはそれぞれ固有の強制権力を担っていた、他のもろもろのゲマインシャフトが、経済上また社会組織上の変動の圧力を被って、勢力を失い、解体するか、政治ゲマインシャフトに服属するかし、他方、同時に、②保護を必要とする新たな利害関心、とくに経済的利害関心が、旧来のゲマインシャフトの範囲を越えて拡大し、これが、政治ゲマインシャフトの創出する、合理的に秩序づけられた保障により、初めて十分に保護される、という経過をたどって、「あらゆる法規範の国家法化Verstaatlichung aller Rechtsnormen」が達成されました。

実力行使に「規範にかなうという意味の正当性Legitimität im Sinne von Normgemässtheit」が付与される経過には、いくつかの階梯があります。①掠奪行・戦争行・あるいは防衛戦争のさいの「兄弟盟約」による「臨機的ゲゼルシャフト形成」において、裏切り・不服従・臆病によって盟約を破る仲間に、実力行使が (「内部刑罰」として) 差し向けられる階梯、②それが、「メンナーブント」のような「職業的戦士」の「持続的ゲゼルシャフト形象」に組織化される階梯、③そのようにして領域ゲマインシャフトの日常秩序を越え、日常秩序に君臨していた自由な戦士のゲゼルシャフトが、領域ゲマインシャフトにいわば「再編入wieder eingemeinden」され、そのなかで「強制装置」に再編成され、領域ゲマインシャフトが「政治団体」としての態勢をととのえる階梯、です。

こうした発展の動因は、①や②の属する領域ゲマインシャフトが、掠奪や徴発の被害者からの (非関与者まで巻き添えにする) 報復を防止するため、自由な戦士ゲゼルシャフトを統制下に置こうとするところにありました。領域ゲマインシャフトの勢力が、戦士ゲゼルシャフトに優越する条件は、①平和の継続による戦士ゲゼルシャフトの衰退か、それとも、②領域ゲマインシャフトのほうが、その秩序を自律的に制定するか、他律的に指令 (授与) されるかして、包括的な政治ゲゼルシャフトに発展を遂げることにあります。そのようにして成立した政治団体の強制装置が十分に強力であれば、それが持続的形象となればなるほど、また、対外的連帯への利害関心が強ければ強いほど、私的な実力行使一般を禁圧します。13世紀のフランス王は、みずから対外戦争を指揮している期間中は、従臣間の「私闘」を禁止しました。やがて、永続的な国内公安令が発布され、あらゆる紛争が、強制執行をともなう裁判官の仲裁判決に、強制的に服させられます。裁判官は、「血讐」を、合理的に秩序づけられた刑罰に、「私闘」と「贖罪」行為を、合理的に秩序づけられた訴訟に、それぞれ変形します。往時には、はっきり重大犯罪と分かっている行動にたいしても、団体行為が発動されるのは、宗教的また軍事的利害関心に駆られる (放っておくと、神の祟りや敵の報復が全員にふりかかる) ばあいにかぎられましたが、いまや、人身や所有にたいする侵害が、ますます広い範囲にわたって訴追されるようになり、これが、政治団体の強制装置の管轄下におかれます。こうして、政治ゲマインシャフトが、正当な実力行使をその強制装置に独占し、徐々に「法による権利保護のアンシュタルトRechtsschutzanstalt」に変形をとげます。

そうした発展の支持勢力は、①和平の拡大によって固有の勢力手段を有効に作動させ、大衆支配を拡大-深化させようとする宗教的(教権制的)勢力と、②市場ゲマインシャフトの拡大に、直接間接、経済的利害関心をもつ市場利害関係者、すなわち都市の市民層と、それ以外にも、河川・道路・橋梁の通行税や、隷属民と臣民の担税力とに利害関心を寄せるすべての者たちでした。したがって、西洋中世に、政治権力が勢力への利害関心から国内公安令を発布する以前に、いちはやく「教会」と組んで「私闘」を制限し、域内治安同盟を締結して和平を実現しようとしたのは、そうした市場利害関係者でした。

市場は、その拡大につれ、独占団体を経済的に破砕し、団体構成員を転じて市場利害関係者とします。そうすることにより、独占団体の構成員から、利害ゲマインシャフトという基盤 (すなわち、独占団体の正当的実力行使もそのうえに初めて展開されえた基盤) を奪い取ります。こうして、平和の増大と市場の拡大に並行して、①正当な実力行使の政治団体による独占と、②その適用にたいする規制-規則の合理化が進展します。①の帰結が、国家を物理的実力行使いっさいの正当性の源泉とする近代国家概念であり、②の帰結が、正当な法秩序の概念です。

(2010116日記、つづく)

[付記: この準備稿を、ここまでの密度とペースで書き継いでいきますと、1122日の報告に間に合わなくなるばかりか、長すぎて、当日の時間制限内に圧縮することも困難です。そこで、このあたりで、準備稿は中断し、当日稿、当日資料(対照表、引用集、独文レジュメなど)の執筆に切り換えたいと思います。なお、「ヴェーバー法理論・比較法文化研究会」の第一回公開シンポジウム (919日、於一橋大学) に向けての準備稿も、やはり中断していますが、両準備稿の続篇は、著書『ヴェーバー「経済と社会」の再構成――全体像』に向けて、近いうちに執筆を再開し、来年中にも仕上げる予定です。(2010116日記) ]



[1] ヴェーバーの「倫理論文」は、「近代資本主義の精神」という経済エートスを「禁欲的プロテスタンティズム」という宗教倫理に「(意味)因果帰属」していますが、当の禁欲的プロテスタンティズムそのものは、歴史上の与件として取り扱うのみです。この与件を、問題とし、「旧稿」の拡大されたパースペクティーフのもとで相対化して捉え返すことが、今後の研究課題とされましょう (ヴェーバーも「倫理論文」の末尾で「今後の研究計画」のひとつに挙げてはいました)