「第三回、日独社会学会議」に向けて (3)

 

(承前)

3. 「カテゴリー論文」と「旧稿」冒頭(Ⅰ「概念」篇-2「法と経済」章)との関連

さて、わたくしたちが「旧稿」を繙いて、「かの合理化とゲゼルシャフト形成の過程 jener Rationalisierungs- und Vergesellschaftungsprozessが、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大-深化するありさまを、あらゆる領域について、発展のもっとも本質的な駆動力として追跡する」[1]という文言に出会うとき、わたくしたちはそれを、上記のような「カテゴリー論文」「第二部」の社会学的基礎範疇と「合理化」史観を踏まえた、「旧稿」全篇の課題設定として読むことができましょう[2]

ところで、この文言は、マリアンネ・ヴェーバー編の第三版までは「経済と秩序」と題された章のなかに含まれ、この章は、「第二部」第七章「法社会学の直前に置かれて、「法社会学」章のみへの概念的導入部であるかのように、取り扱われていました。第二次編纂者のヴィンケルマンが、その「経済と秩序」章を、「1914年構成表」の1.[2]「経済と法の原理的関係」(折原編では 「概念」篇-2「法と経済」章) に相当すると見て、(編纂がかれの手に移った)第四版以降、(「経済と社会的秩序」と改題したうえ)「第二部」の冒頭に繰り上げたのです。かれが、「1914年構成表」の妥当性を「改訂稿」にまで拡大して解したのは (その間の「抜本的改訂」を無視する) 誤りというほかはありませんが、この章の配置替えそのものは、「1914年構成表」が妥当する「旧稿の範囲内にありましたので、幸運にも適正だったわけです。したがって、ヴィンケルマン編のテクストでは、かの文言を、「旧稿」全篇の課題設定に相応しい、冒頭の位置で読むことができました。

ところが、『全集』版は、その章を、ふたたびマリアンネ・ヴェーバー編の位置に戻して、第三分巻「法」に割り当て、「法社会学」章のみへの概念的導入部であるかのように取り扱いました。その結果、「旧稿」に該当する『全集』Ⅰ/22の冒頭、すなわちモムゼン編の第一分巻「諸ゲマインシャフトDie Gemeinschaften」は、マリアンネ・ヴェーバー編と同じく、「経済と秩序」章をとばしていきなり (1914年構成表」の1.[3]「団体の経済的関係一般」に対応する、マリアンネ・ヴェーバー編の)「経済と社会一般」ないし(ヴィンケルマン編の)「ゲマインシャフトの経済的関係一般」に相当する章から、始まっています。そのため読者は、第一分巻中に、上記の文言を見出すことができません。「経済と秩序」章が割り振られた第三分巻「法」が未刊の現在、読者は『全集』版のどこにも、「旧稿」全篇の課題設定とおぼしき、かの文言を見ることがないのです。

 

それでは、この「経済と秩序」章は、本来どこに配置されるべきでしょうか。なるほど、全篇の課題設定を含むという一点にかけては、冒頭に配置するのが適正と判定されましょうが、章全体の内容構成から考えると、どうでしょうか。

その議論に立ち入るまえに、ここで「旧稿全体の構成仮説的に見通し、その篇・章・節に、できるだけ簡潔な名称を付しますと (折原編、資料「対照表」参照)、それは、「概念」、「社会」、および 「支配」 の三篇からなり、そのうちの「概念」は、1「社会――行為と秩序」2「法と経済」、および 3「社会と経済」の三章によって構成されます。さらに (「経済と秩序」章に相当する)  2「法と経済」章は、§1「法概念の社会学的意味転換」、§2「習俗-慣習律-法――人間行動の社会的諸秩序」、および§3「法と経済の原理的関係」の三節に分けられます。

全体の冒頭 (Ⅰ-1「社会――行為と秩序」) に「カテゴリー論文」を置けば、全篇が適正に構成され、「合う頭の付いたトルソTorso mit einem richtigen Kopf」がえられる、というのが、本稿の立証目標です。

 

さて、§1 では、冒頭いきなり、「社会学的考察方法」が導入されて、「法」概念が、「規範学」的な「観念的当為」の平面から、社会学的な「ゲマインシャフトにおける現実の生起」の平面に移されます。ここには、「シュタムラー論文」における「規範学」と「経験科学」との区別、および(その区別を踏まえた)「カテゴリー論文」「第一部」における「理解社会学」の(「経験科学」としての)方法論的基礎づけが、前提とされていて、(少なくとも「精確な読解」のためには)その参照が求められているといえましょう。

とくに、社会学的考察方法は、「ゲマインシャフト行為に関与する人間が、特定の秩序を、妥当するものgeltendと主観的に見なし、じっさいにそのようなものとして取り扱う――つまり、自分の行為をそうした秩序に準拠させる――シャンス(客観的可能性)が存在することによって、当のゲマインシャフトの内部に、事実、何が起きるか、を問う」とされ、「法と経済との原理的関係も、この社会学的考察方法によって規定されなければならない」と述べられています。ここには、「行為」、「ゲマインシャフト行為」、「秩序」、「妥当」、「準拠」、「シャンス」といった――それらを抜きにしては、原著者の「社会学的考察方法」を理解できない――基礎概念が、無規定のまま初出していますが、それらの規定はいずれも、「カテゴリー論文」「第二部」で与えられています。

とくに「ゲマインシャフト行為」は、「カテゴリー論文」「第二部」で定立される基礎範疇のひとつで、「ゲゼルシャフト行為を包摂する社会的行為一般を意味します。これを «基礎概念» «ゲマインシャフト» と混同すれば、「旧稿」における「社会学的考察方法」の適用範囲を、初めから ゲゼルシャフト関係» は除外して) «ゲマインシャフト関係» に制限することになり、後続テクストの実態と齟齬をきたします (そもそも «基礎概念» では、「ゲマインシャフト行為」という術語は姿を消しています)。念のために申し添えますと、ヴェーバーが、術語をいい加減に使う著者ではなく、用語法の首尾一貫性に殊更拘っていたことは、「ここで堅持している用語法からしてaus der hier festgehaltenen Terminologie heraus」とか、「われわれの用語法に移し替ていえばin unsere Terminologie übersetzt」とかの表記[3]からも窺えましょう。

 

さて、考察方法のそうした転換によって、「法Recht」は、現実の人間行為 (の所産で、翻ってはそれ) を規定する根拠のひとつ、すなわち「シュタムラー論文」で導入された「格率Maxime」の一種として捉え返され、「『強制装置Zwangsapparat』によって経験的妥当empirische Geltungを保障garantierenされた制定秩序gesatzte Ordnung」と定義されます。「強制装置」は、「特別の (物理的ないし心理的) 強制手段 (法強制) による秩序の貫徹を、固有の目的とし、そのために常時準備をととのえているひとりもしくは複数のスタッフ」と規定されます。

そのように客観的に制定された法の経験的妥当からは、関与者個々人に、[たとえば財にたいする処分力の確保や取得について] 「強制装置」の援助を期待する計算可能なシャンスが生まれましょう。これが、「法によって(直接)保障された主観的権利」です。ただし、あるシャンスが、別の法規範や (支配者によって任意に設定された) 行政規則の経験的妥当から、その反射効果として派生しているばあいもありえましょう。これも、「間接に保障された権利」として、社会学上は同等に重視されます。

さて、今日の法秩序は、「国家アンシュタルトStaatsanstalt」の強制装置によって保障されており、法規範学はこの状態を前提としています。しかし、「法」を上記のように社会学的に定義すれば、すべてが「(国家によって保障された) 国家法」とはかぎりません。法的権利も、「国家法によって保障された主観的権利」とはかぎりません。教会「教権制Hierokratie」の「強制装置」によって保障された「教会法」も、「血讐義務Blutrachenpflicht」の「格率」にしたがい、いざというときには氏族員全員が結集して「強制装置」を構成する「氏族法」も、「非国家法」として存立してきました。

そういうわけで、「法」概念の社会学的意味転換は、「国家法」を理論的に相対化すると同時に、「法秩序」一般の (強制装置が国家アンシュタルトによって独占された) 特例、したがって特殊近代的階梯として、歴史的にも相対化し、その発生発展と諸条件を問うパースペクティーフを開いています。

 

さらに、§2では、「非国家法」も含む法そのものが、「習俗Sitte」、「慣習律Konvention」と並ぶ、人間行動の社会的秩序の一種として、これまた比較的後代の所産として、理論的また歴史的に相対化されます。それと同時に、いずれにせよ「規則性」に志向している諸秩序のなかに、いかにして「なにか新しいこと」「革新Neuerung」が生ずるのか、が問われ、「革新ないし革命(秩序転覆)の社会学」の骨格がしつらえられます[4]。ただし、それと同時に、「慣習律」から「法」への漸進的移行のパターンについても五つの類型が設定されます。ヴェーバーの『社会経済学綱要』寄稿が、当初の「経済と社会」から「経済と社会的秩序ならびに社会的勢力」と改題された所以ともいえましょう。

そのあと、「社会学にとっては、習俗から慣習律を経て法にいたる移行は流動的である」という書き出しのもとに、(異説との対質には小活字を用いるという『社会経済学綱要』の執筆要領にしたがって)シュタムラー批判の要旨が箇条書き風に書き出されます。その総括として、「規範学としての法学にとっては、法規範の観念的妥当が概念上先にあるので、法的規制の欠如は、法そのものの端的な不在ではなく、むしろ法的に許容された状態とみなされる」のにたいして、「経験科学としての社会学にとっては、逆に、行動が先にあり、法、とりわけ合理的に制定された法、による行動規制は、ゲマインシャフト行為の動機づけの一構成要素にすぎず、しかも後代に登場してくる一要因で、経験的効力の度合いもさまざまである」との命題が定立されます。ここで、この命題を受け、「制定秩序の介入の増大は、われわれの[社会学的]考察にとってはかの合理化とゲゼルシャフト形成の過程のとりわけ特徴的な構成部分をなすにすぎない」と断ったうえ、「その合理化とゲゼルシャフト形成過程が、あらゆるゲマインシャフト行為を捉えて拡大・深化していくありさまを、われわれは、[法領域のみでなく]あらゆる領域にわたり、発展のもっとも本質的な駆動力として、[ここから、後続の諸章で] 追跡していくことになろう」と、(法秩序の介入の分析を一部分――「法社会学」章――として含む旧稿全篇の課題が設定されるのです。

 

これにつづく§3では、冒頭に予告されていたとおり、社会学の平面上で、「経済秩序」[5]と「法秩序」との原理的関係が問われます。前者は、もともと人間行為の一分節化領域なので、「法秩序」のようには、考察方法の変換は必要とされず、ここでただちに社会学の平面上に置かれて議論されます。そして、『社会経済学綱要』全体の包括的視点から、両秩序の原理的関係が、双方の「自律性」「固有法則性」の確認のうえ、「相互制約関係 (具体的な親和-背反関係、適合-不適合関係)(法の「経済的被制約性」と「経済的意義[経済制約性]) として、典型的事例を例示に用いて、一般的に定式化され、最後に、特殊「近代」法と特殊「近代」経済との「適合的」関連が予告されます。

 

以上が、Ⅰ-2「法と社会」章の骨子です。全章の叙述が§2後半に置かれた明示的シュタムラー批判部分のみではなく)、「法」を「社会生活の普遍的『形式』」と見たシュタムラーのいわば「法規範学的・観念論的実体化」にたいして、法を「質料」の一要素として特殊化・相対化し、包括的な「社会」概念を獲得して歴史的パースペクティーフを開き、そのもとに問い直し、位置づけ直す、という方向で、首尾一貫して展開されています。その一環として、「旧稿」(後続諸篇-諸章) の包括的課題設定もなされているわけです。

ところで、ヴィンケルマン編『経済と社会』第四/五版では、Ⅰ-3社会と経済」のまえにⅠ-2法と経済」が配置され、(Ⅰ-1「社会――行為と秩序」の欠落ともあいまって) なにか「法」が唐突に出てきて、過当に重視されている、という印象を否めませんでした。しかし、それも、法制定を「合理化」の一指標とする「社会」概念そのものが、「社会諸形象」にかんする先行「法 (規範) 学」的概念構成の批判をとおして獲得され、そのうえで「社会と経済の原理的関係」が問われるという、この思考展開の流れから見れば、ごく自然な配置として首肯されましょう。

 

さて、ヴェーバーは、1913年に「カテゴリー論文」を『ロゴス』誌に発表する直前、「34年まえに書き下ろされていた」[6]この章Ⅰ-2「法と経済」)の骨子を、「カテゴリー論文」の§Ⅲ「法規範学との関係Verhältnis zur Rechtsdogmatik」に要約したはずです。ところで、その末尾には、こうあります。「社会学においては、日常的によく知られ『馴染まれた』意味上の連関 [] が、他の連関[]の定義に利用され、その後に、前者の連関 [] のほうが、また、後者[]の定義によって定義される、といった取り扱いが、絶えずなされなければならない。……われわれはここでそうしたいくつかの定義に立ち入ってみよう」[7]

この一文は、さっと読み流すと、抽象的で、何をいわんとしているのか、よく分からないのですが、上記の展開のなかに置いてみますと、この連関が、このあと「第二部」(§§Ⅳ~Ⅶ) で、「家」、「家産制」的政治形象、予言者や教主を戴く「使徒団や信徒団」から「国家」と「教会」などの「馴染まれた意味連関」例示に用いながら定義される、「ゲマインシャフト行為」「ゲゼルシャフト行為」「諒解行為」から「アンシュタルト」「団体」にいたる社会学的基礎範疇、を指している、と解せましょう。そして「その後に、の定義によって定義される」、に相当する社会諸形象としては、「旧稿」で順次採り上げられていく、家、近隣、氏族、経営、オイコス、種族、教団、市場、政治団体、法仲間、階級、身分、党派、国民、および (合理的、伝統的、カリスマ的) 正当的支配体制、身分制等族国家、神政政治体制-教権制-皇帝教皇体制、都市(とりわけ、非正当的支配を樹立した西洋中世内陸都市類型)、国家、および政党、などが念頭に置かれている、といえましょう。としますと、「カテゴリー論文」「第一部」末尾のこの文言は、まさにこの位置にあって、「カテゴリー論文」「第二部」と「旧稿」との架橋句をなしていたわけです。

 

ヴェーバーは、以上のように要約されるⅠ-2「法と経済」章の行論の途上で、いくつかの前出参照指示を発しています。ところが、そのうちの四つは、被指示叙述が「カテゴリー論文」中にあって、これまた「カテゴリー論文」の前置を予想させます。

1. まず、同章第3段で、「法秩序の経験的妥当」の意味を問うコンテクストのなかに出てくる前出参照指示Nr. 1 (WuG: 182, Zeile 4-5, 世良訳、法: 5) が注目されます。

「社会学的考察方法」によれば、法秩序が経験的に妥当するには、すべての関与者が、特定の行動を、法秩序によって命じられていると知って、それにしたがうという動機 (遵法動機) から遂行することは必要でなく、動機はたとえば、目的合理的な考量・周囲の非難へのおそれ・馴染んだ生活習慣への順応など、なんであっても差し支えありません。この趣旨は、法秩序が「人間によって合理的に制定された秩序」の一種であるからには、後者にかんする一般的規定から演繹されるはずです。そこで著者は、ここに、「合理的秩序の『存在』が何を意味するかについて前段で述べたことから明らかなとおりwie das früher über die Bedeutung der „Existenz“ rationaler Ordnungen Gesagte」と書き込み、読者にそうした一般的規定にかんする先行叙述の参照を求めています。

ところが、当の叙述は、「旧稿」中の前段にも、念のため後段を調べても、どこにも見当たりません。ただ、「カテゴリー論文」第13段中 (WL: 443-45, 海老原・中野訳: 122-24) で、指示どおり、目的合理的に制定された経験的秩序の意味が (トランプ競技を例示に) 正面から論じられ、そのうえ、同20 (WL: 452, 海老原・中野訳: 74-75) および同39 (WL: 472-73, 海老原・中野訳: 122-24) には、関与者個々人の動機の多様性にかんする補足説明があります。

2. つぎに、上記Nr. 1と同じ段に出てくるNr. 2 (WuG: 182, Z. 16, 世良訳、法: 5) が、止目されましょう。Nr. 1の論点は、「客観的に法秩序を遵守している者が、主観的には必ずしも当の法秩序を知ってはいない」という趣旨でしたが、逆に「法秩序を主観的に知っている者が、客観的に当の法秩序を遵守するのか」というと、これまた、必ずしもそうとはかぎりません。むしろ、法を侵す者、法網を潜る者のほうが、その法秩序を知悉していることが多いでしょう。しかし、かれらも、法侵犯行為を「人目に隠す」ことによって、当の法秩序に準拠してはいます。法秩序の経験的妥当にとって決定的なのは、「遵守Befolgung」ではなく「準拠Orientierung」です。著者は、この論点に、「前段で述べたところによればnach dem früher Gesagten」と書き込み、先行叙述の参照を求めています。

ところが、この論点も、「旧稿」前段 (また後段) ではなく、「カテゴリー論文」第13段の同一箇所 (WL: 443, 海老原・中野訳: 52) に、内容上正確に対応します。

3. 上記Nr. 1およびNr. 2 と同一の段で、テクストは「法」を、「経験的妥当のシャンスのため、一定の特殊な保障をそなえた秩序」と定義し、「保障された客観的法」のその「特殊な保障」として、「前段で定義した意味におけるim früher definierten Sinn『強制装置』」(WuG: 182, Z. 24 v. u., 世良訳、法: 6) の存在を挙げます。

ところが、この「強制装置」については、「旧稿」前段ではなく、「カテゴリー論文」第14段の注に初出したあと、第16段以下の各所で採り上げられ、「制定秩序貫徹のため、常時強制力の発動にそなえている機関」と定義され、「法」を「慣習律」から区別する標識とされています (WL: 445 Anm., 447, 449, 460, 462, 464, 466, 468, 472, 海老原・中野訳: 59, 63, 67, 94, 99, 105, 109, 110, 114, 123)

4. Ⅰ-2「法と経済」章第7段で、著者は、法の妥当様式を、慣習律のそれから区別しています。後者は、関与者の「周囲Umwelt」をなしている人びとの是認ないし非難によって保障されますが、その人びとは、職業・血縁・地縁・身分・種族・宗派・政治党派・その他、なんらかの標識によって範囲を特定はできなければならないものの、団体をなしている必要はありません。それにたいして、法は、「強制装置」という「団体」による強制力の行使、すなわち「団体行為Verbandshandeln」によって妥当します。ただし、強制力行使の対象は、当該団体の構成員には限定されず、むしろ団体の第三者、しかもその「ゲマインシャフト行為」にもおよびます。ちょうどここのところに、著者は、「われわれが知っているとおりwie wir wissen(WuG: 190, Z. 25 v. u., 世良訳、法: 38) と書き込み、かれ特有の術語をもって、「団体によって法的に規制され、『団体によって規制されるverbandsgeregelt』行為となるのは、たんに『団体行為』だけではないし、さらに『ゲマインシャフト行為』だけですらない」と言い換えます。

ところで、この特有の術語群、すなわち、①ゲマインシャフト行為、②団体行為、および③「団体の秩序に準拠する行為」の、「団体に関与する行為verbandsbezogen」と「団体に規制される行為verbandsgeregelt」とへの二分、はいずれも、「旧稿」前段ではなく、それぞれ「カテゴリー論文」の ①第10段中 (WL: 441, 海老原・中野訳: 43-44)②第34段中 (WL: 466, 海老原・中野訳: 111)③同じく第34段中の別の箇所 (WL: 468, 海老原・中野訳: 113) で定義され「われわれに知られる」にいたっています。

  さて、比較的短い「法と経済」章には、19箇所に参照指示が挿入され、そのうちの12個が、前出参照指示です。ところが、そのうち上記の4個が、「カテゴリー論文」に被指示箇所をもつ、いいかえれば、同章また他の (「旧稿」中にあって、この章の前にくることが形式的には可能な) どの章にも、被指示箇所を見出せない「非整合指示」をなしています。しかし、それらにはいずれも、いま見たとおり、「カテゴリー論文」中に、内容上正確に対応する被指示叙述があり、「カテゴリー論文」を前置すれば、非整合が解消されます。これまた、「カテゴリー論文」「第二部」が抜き出された元稿 (34年まえに書き下ろされていた、方法的基礎づけの論稿」) のなかで、「カテゴリー論文」「第二部」が、「法と経済」章の直前に置かれ、参照を指示しただけで論点内容はただちに思い出せる、あるいは、念のため再読すれば「法と経済」章をこんどは正確に読める、そういう直近の緊密な関係にあった、という消息を伝える、有力な「テクスト内在的証拠」といえましょう。

 

そういうわけで、「旧稿」のⅠ-2「法と経済」章は、「カテゴリー論文」(の、少なくとも)「第二部」が前置され、これと結合されて初めて、「概念」篇を構成する一章として「精確に読める」ようになり、その位置価も回復されましょう。この関係が、同章の術語用法からも、内容構成からも、「参照指示ネットワーク」からも、立証された、といえるのではないでしょうか。

以下、Ⅰ-3「社会と経済」章について、そのあと、「社会」篇、「支配」篇を含む全篇の「体系的統合」について、同じ趣旨の検証を加えていきます。

(1028日記、つづく)

 



[1] WuG: 196.

[2] この文言中の、「ゲゼルシャフト形成の過程が、すべてのゲマインシャフト行為を捉えて拡大深化するfortschreitendes Umsichgreifen in allem Gemeinschaftshandeln」という表記も、「ゲマインシャフト」を「ゲゼルシャフト」の概念とする «基礎概念» の術語を当てたのでは意味をなさず (そもそも «基礎概念» では、«ゲマインシャフト行為» という術語は姿を消しており)、前者を後者の上位概念とする「カテゴリー論文」の術語を適用して初めて、「先行の原生的ゲマインシャフト行為にたいする後発ゲゼルシャフト形成の重層関係」(松井克浩) という動態も含め、十全に理解することができましょう。

[3] WuG: 185, 192. これに類する表記が、たとえばⅡ-7「階級、身分、党派」章にも、つぎのとおり散見されます。「『階級』とは、ここで堅持されている意味ではin dem hier festgehaltenen Sinn、ゲマインシャフト [浜島訳では「共同體」] ではなく、ゲマインシャフト行為 [浜島訳では「共同行為」] を可能にする (しばしばじっさいに生み出しもする) 基礎にすぎない」(WuG: 531, 浜島訳『権力と支配』: 217-18)、「この用語法によればnach dieser Terminologie、『階級』を生じさせるものは、一義的な経済的利害関心、それもとくに『市場』の存在に拘束された経済的利害関心である」(WuG: 532, 浜島訳: 220)、「共通の階級状況からゲゼルシャフト形成Vergesellschaftungがなされるかどうか、それどころかともかくもゲマインシャフト行為が発生するかどうかさえ、[まさに問われるべき問題であって] 普遍的現象ではない。階級状況の影響は、本質上同種の反応gleichartiges Reagieren、つまり(ここで選定されている用語法ではin der hier gewählten Terminologie)『大量行為Massenhandeln』か、……あるいは無秩序のゲマインシャフト行為amorphes Gemeinschaftshandelnの発生にかぎられるばあいもあろう」(WuG: 533, 浜島訳: 220)

[4] ただしここでは、「カリスマ」という術語は用いられていません。この論点は、Ⅱ-6.「法」章 §3中の「新しい法規範の成立」論と、Ⅲ-23)「カリスマ的支配」章における「『内からの変革』としてのカリスマ革命と『外からの変革』としての官僚制的合理化」の議論に継受され、敷衍されます。

[5]「経済秩序」については、§1の第2段落で、「『経済的事態』をめぐる利害の闘争がなんらかの妥結に達する、そのときどきのあり方に応じて、諒解によって成立する、財や給付にたいする事実上の処分力の配分、および、財と給付が、この諒解にもとづく処分力により、(主観的に) 思われた意味にしたがって利用される、その事実上の様式」と暫定的に定義されていました。ここにも「諒解」という術語が、無規定のまま初出しています。その「経済秩序」にかんする議論は、「経済的事態」とは何か、の定義もないまま、そのあと、「法」の概念転換をめぐる叙述の背後に隠れて姿を消します。肝要な「経済的事態」も、つぎのⅠ-3 冒頭で初めて、「ある欲求ないし欲求複合にたいして、その充足に必要な手段および可能的給付[サーヴィス]の準備が、行為者の主観的評価において相対的に『稀少knapp』であるため、なんらかの計画的配慮が必須となる事態」と規定されます

[6] 前出2章「『カテゴリー論文』における社会学的基礎範疇の定立」注23、参照。

[7] WL: 440, 海老原・中野訳: 41.