年次報告20211231

 

2020年の年次報告 (1230日付け) には、拙著『マックス・ヴェーバー研究総括』の脱稿-刊行の遅延について、下記のとおり記しました (わずかながら、表記は改めます)

 

……小生自身の生活と仕事は、コーヴィド19にはほとんど煩わされず、昨 (2019) 年夏から、『マックス・ヴェーバー研究総括』の執筆に、 例年と変わりなく専念できました。ところが、当初には 「8月中に脱稿、(ヴェーバー没後100年にあたる) 2020年度内に刊行」という予定で、未來社の西谷能英氏も待機してくださっていたのですが、小生側の内容上・実質上の二理由で、脱稿予定の変更刊行延期を余儀なくされました。

 

ひとつの理由は、こうです。百年前、ヴェーバーは、「スペイン風邪」に罹患し、肺炎を併発し、56歳の働き盛りで「志半ばにして斃れ」ました。ところで、かれ自身は当時、自分自身が犠牲になるとは思ってもみず、「第一次世界大戦」後の社会的-思想的激動に処して、無理を重ねていたにちがいありません。しかし、およそ「自然災害」の反復とそれにたいする「人類の対応」という大問題を、かれの「『一般化』的『法則科学』としての『社会学』」が、まったく看過ないし無視していたとは、ちょっと考えられないでしょう。むしろ、かれが、当の問題を、理論の深部どう取り入れ、どう取り扱っていたのか、と問い、少なくともその基本構想の輪郭を引き出すことは、奇しくもコーヴィド19による「自然災害」に直面した100回忌のいまこそ、ヴェーバー研究者として避けては通れない課題ではないか、と思われます。

としますと、この問いにたいする答えは、我田引水の嫌いはありますが、『経済と社会』「旧稿」を、「理解社会学のカテゴリー」の基礎諸範疇と「1914年構成表」とに準拠し、体系的に再構成してみて、初めて見えてくるのではないでしょうか。それには、たとえば「自然呪術と象徴呪術との区別 (前者の再評価)」、「呪術 (雨乞いや病癒しカリスマと英雄 (戦闘カリスマとの原初的・原生的二元性」、「双方の『日常化』的な発展局面における教権と俗権との対抗的相補関係」というような、これまであまり顧みられなかった諸視点の含意を、理論的に引き出して、展開してみる必要がありましょう。しかし、そういう論及と展開は、いまここでは要約できず、拙著『マックス・ヴェーバー研究総括』の全篇をお待ちいただくほかはありません。

 

いまひとつ、没後百年の出版状況には、ヴェーバー後半生の学問上の主著『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』に内在し、それらを相互補完総合的に読解して、かれの学問の全体像(正確には、かれが「志半ばにして斃れた」ときの到達限界に迫り、そこから、わたしたち自身の継受と展開の方途を探る、というような、謙虚な気魄が感じられません。むしろ、「かれの学問内容どういうものであったのかは、すでに分かっている」と決めてかかり、数多の他説を引用して「位置づけ」たり、あるいは、自分独自の見解を強引に当てはめ、問題のある部分像を前面に押し立てて「全体像」に代置したり、……そういう「わざ誇りWerkheiligkeit」の気配も窺えます。

ここで、戦後日本における「ヴェーバー研究」関連の著作群にざっと目を通しますと、『マックス・ウェーバー研究』とは題しても「比較の学としての社会学」と副題で限定して「全体像」の提示をめざした金子栄一著(1957年、創文社刊)から、無限定の『マックス・ヴェーバー研究』の簇生を経て、やがてある時期からは、(『マックス・ヴェーバー社会学入門』でも『マックス・ヴェーバーの学問入門』でもない、なんと)『マックス・ヴェーバー入門』が出現し、流行ともなって、現在におよんでいます。学問研究には不可欠の厳しい自己限定が弛緩し、「学界-出版ジャーナリズム複合態」の利害状況が幅を利かせ始め、「流れ」をつくって、『入門』に飛びつく初心者を翻弄し、学者は拱手傍観して警告を発しない、となると、おそるべき状況といえましょう。

 

小生は、ヴェーバー後半生の学問的労作を、19世紀末の「精神神経疾患」によるかれ個人の「状況からの脱退」以降、状況復帰新生をめざす「実存的模索」とその結実(「難船者の思想」)として捉えてきました。①「職業人のみ生きるに値する」という人間観を、「西欧近代文化」総体の核心に潜む問題として、内容、トータルに切開していこうとするスタンスの獲得、② そういう問題の究明に活かせる方法を、「人間の科学」として探索し、「法則定立」的「自然科学」と「個性記述」的「文化科学」とを (「法則科学」と「現実(歴史)科学」と呼び換えたうえ) 相互補完的に統合しようとし、その一環として、③ (マルクス主義を含む)「ドイツ歴史学派」の「全体論」とカール・メンガーの「原子論」との対立を「止揚」すべく、「理解科学」の「法則科学」的分肢としての「社会学」と、同じく「歴史科学」的分肢としての「歴史学」とを、峻別しながらも相互補完的に統合しようとし、「旧稿」における前者の「決疑論的体系化」を経て、「世界宗教の経済倫理三部作では「比較歴史社会学に到達して、実を結ぶ、そういう思想展開-学問発展基本線に沿って、ヴェーバーの「総体」志向にもとづく「全体像」を素描し、「比較歴史社会学」として、その方法を定礎し、併せて具体的に例解しようとつとめ、試論は発表してきました。

ところが、そういう諸論点は、「ヴェーバー学界において既知のこと」として共有化されてはいなかったようで、初心者にとっては「新説」に近く、ただ所在を参照指示するだけで「読んでくれ」というのでは不親切に過ぎる、と思われました。とくに「世界宗教の経済倫理三部作については、むしろ「方法論」と「旧稿」との相互補完的読解を経た「説」として、具に論証する必要があろうか、と察知し、かつての論考や講義ノートの類を取り出して、集約に着手しました。ところが、その作業が予想以上に難航し、「古代ユダヤ教」にかんする章までで、年が暮れようとしています。

そんなわけで、齢八十路の半ばにさしかかり、研究歴六十年にして初めて、「入門書」の意味も併せ持つ著作に手を染め、やや難航しています。しかし、来年の「101回忌」までには、なんとか上梓にこぎつけるべく、あとひと踏ん張りしたいと思います。

 

なお、一昨年713日の「『東大闘争総括』書評討論集会」における問題提起にかかわる「総括からの展開」のほうも、そういう実情で、遺憾ながら中断しておりますが、けっして忘れたのではなく、新著『マックス・ヴェーバー研究総括』の上梓後、執筆を再開したいと考えております。これまた、どうかご了承ください。

それでは、みなさま、どうかくれぐれもご大切に。よい新春をお迎えください。(20201230日、折原 浩)

 

 

以上一年前の年次報告から、延々と引用しましたのは、マックス・ヴェーバー没後100の思想状況を、小生が当時、上記のように捉えていた事実を、この一年間の思想営為の前提として確認し、そのうえで、本年の仕事「記録と随想」2234をご検討いただきたい、と願うからです。そうしていただければ、小生が、本年の仕事を、一年前のヴェーバー観およびヴェーバー研究をめぐる思想状況への否定的評価と、寸分違わぬスタンスで、進めてきている事実経過も、ご確認いただけましょう。

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ただ、昨年と本年とで異なるのは、一点、長年の「議論仲間ein Debattengenosse」として親しく付き合ってきた中野敏男氏と、本年六月、論争関係に入り、かれのヴェーバー解釈を、上記のようなヴェーバー観から学問内容上根本的に批判せざるをえなくなったことです。

小生のこの対応は、(「人間関係維持」を無原則に優先させ、なんとしても論争を避けようとする、学界も含む戦後日本の文化-精神風土のもとでは) 案の定、「あらずもがなの内輪揉め」、「老人同士の泥仕合」などと受け止められ、「悪評」を被りました。

しかし小生、微動だにいたしてはおりません。中野著『マックス・ヴェーバー入門――理解社会学の射程』(2020年、筑摩書房刊) にかんするテレ・ワ―クの合評会で、(正式の書評者二人が、本質を衝く問題提起をなしえず、「お茶を濁す」のを見届けて、「こんなことでは……」と、突如、根本的な問題提起の口火を切り、(起承転結を付けようと) 確かに長広舌は揮い、他の参会者の発言を妨げたにちがいない、そういう不手際はお詫びしたうえ) ヴェーバーにかんする中野氏の、思いもかけなかった理解は、(その後、むしろ「記録と随想」2234長文の論証によって) 具体的に衝き、併せては (「一生に一度も論争しない『学者』群が、『当たり障りのない褒めそやし合い』を演じ合うかに見える」) 戦後日本の文化-精神風土に、当の現場でこそ逆らって)論争文化を育てようと、今回の件もその一契機として「逆手に取る」べく、論陣を張った次第です。

そういうわけで、「記録と随想」34に、「結び」として記しましたとおり、1969529日の「全国造反教官報告集会」で、「教授会で恩師と対立するのは『生爪を剥がされるように』辛い [旧友との対立も同様] けれども、原理原則に悖るわけにはいかないから生涯を『阿修羅』として生きるほかはない」と喝破し、そう言ってのけた、胡高橋和巳氏の心意に、半世紀以上が経ち、齢八十路も半ばを過ぎてから、奇しくも立ち帰っています。

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ところが、今日の時点に立ってみますと、「そういう論争に、半年以上、時間を『空費』し、『マックス・ヴェーバー研究総括』の脱稿と上梓が、またしても遅延したことを、どう思うのか、それにどう責任をとるか」というご疑問-ご批判は避けられないと思います。これには、昨年の年次報告と同じく、「小生の不手際と力量不足ゆえに、ふたたび遅延を余儀なくされました」と、まずはお詫びするほかはありません。ただし、(この間における、小生自身と連れ合いとの、健康上の理由による、体力と気力の衰えは、除いて) 対中野論争との関連一本に絞りますと、それはけっして、『マックス・ヴェーバー研究総括』の進捗を妨げた阻害要因「時間の無駄」だったとのみはいいきれません。

中野氏にして、「倫理論文」から『経済と社会』(旧稿) をへて『宗教社会学論集』三部作にいたるヴェーバーの思想模索とその進展の経緯(「難船者としての」方法論的反省から、経験科学としての「理解科学」あるいは「比較歴史社会学」的な「普遍史」への転身-新生を、追跡しようとせず、したがって『科学論集』『経済と社会』『宗教社会学論集』という三主著を相互補完的-総合的に読み抜いて「全体像」を構成しようとはせず、半哲学的-抽象的標語への集約や語彙検索に凝り固まって能事終われり」とし、ヴェーバーの「生き方と学問」の意義をじつは雲散霧消させるばかりでいるとすれば――そして、そういう実態が、思いがけず暴露されたいま、そういう否定一辺倒の批判を、翻って積極的な方向に転じて活かそうとすれば――、わたしたちはいま何をなすべきなのでしょうか。

それは、否定的批判の根底にある規準内容を、むしろこちら側から積極的に展開して、ヴェーバー学問のそういう「全体像」を、小生としては『マックス・ヴェーバー研究総括』の叙述をとおして、具体的に読者にお伝えしていくこと、に求めるほかはありますまい。とくに、ヴェーバーが、方法論的反省と社会学的決疑論の成果を縦横に織り込んで活かしている『宗教社会学論集』「世界宗教の経済倫理」三部作(「ヒンドゥー教と仏教」「儒教と道教」および「古代ユダヤ教」)の具体的叙述に立ち入り、その問題提起と内容構成を要約して解説するだけには止めず、具体的叙述のどこでどういう方法論と社会学的決疑論が、どう取り込まれ、どのように活かされているのか、と随所で立ち止まって問い返し、そのつど『科学論集』と『経済と社会』に遡及しながら、三主著の相互補完関係を具体的に例解し、要するに「世界宗教の経済倫理」三部作の内容を、方法論、社会学、普遍史を総合する壮大な学問的企画の到達限界として切開し、突き止めながら読み進むこと (少なくともそれを目標に据えて追求すること) に求められましょうし、そうする以外には考えられません。

小生、かつて対「羽入書」論争のさいにも、相手の論証の誤りと難点を暴露するだけ否定的批判には止めず、むしろ、「倫理論文」の「論証構成」から (「社会学的決疑論」を経て、それを媒介に「因果帰属」を企てる)「世界宗教の経済倫理」への思想展開をこそ、つとめて綿密に究明して、極力「全体像」への展望を開こうとつとめました。本年、対中野論争の否定的批判をとおして設定した、上記の積極的課題も、最大限、拙著『マックス・ヴェーバー研究総括』で、内容上、具体的に追求し、達成したいと思います。来年春には、なんとか上梓にこぎ着けられるように頑張ってみます。

 

それでは、みなさま、どうかくれぐれもご大切に、よい新春をお迎えください。

20211231 折原