年次報告 2018 師走

 

 

 今年は、年賀状以来、なんと一年間ご無沙汰し、空白のままこの年次報告につづく、無様な仕儀となってしまいました。

 

 じつは、昨年の年次報告2017 (1231) でも、2019118 -19日の「東大安田講堂50周年」のまえに、(東大闘争への一当事者としての関与を、戦後史のなかに据えて総括し、マックス・ヴェーバー研究との関連も明らかにする、半ば「自分史」的な論考を一篇したためたい、とお伝えしてはおりました。ところが、その後、春からその執筆に没頭し、例年になく激しい気候にも悩まされて、ついつい、ホーム・ページに論考を発表する余力を失ってしまいました。とはいえ、そういう事情を、それはそれとしてお伝えしておけばよかったのですが、それも怠る羽目になり、あるいはご心配をお掛けしてしまったのではないか、と案じております。

 

  当の論考は、やっと1017日に脱稿し、未來社・西谷能英氏のスピーディな編集のお蔭で、校正も索引作製も済ませ、年内中にも上梓の目途が立ちました。タイトルは、西谷氏との意見交換 (「キャッチ・ボール」の末、『東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践』と決めました。メイン・タイトルには、「東大闘争」と「総括」という現状況では不評の二語をあえて連ねたのですが、それも、「戦後」の一時期を生き、「戦争責任」に思いを致し、そこから (戦後マルクス主義と実存主義との対抗場裡でヴェーバーの学問を捉え返し、(60年「安保」、62-63年「大管法」を経た一教員の「戦後責任」として、東大紛争、-闘争にかかわった、その「内的意味連関」を自己検証して、当の二語に本来の意義を回復させたい、と念願したからにほかなりません。この論考が、現状況へのそのような企投として、東大闘争OB / OG ならびに若い世代にも 受け止められ、それぞれの見地からの批判と発言を触発して、議論の契機ともなれば、と祈念しております。この年次報告の末尾に、新著の「目次」を収録いたします。

 

*

なお、その間、317日には「ヴェーバー研究会21」、729日、920日、1222日には「ヴェーバー没後100 [2020を記念する企画の相談・打ち合わせ会」に出席しました。

 

また、7月には、中部大学編ARENA 2018 (21)、佐々木力氏の古稀を記念する特集『学問史の世界 佐々木力と科学史・科学哲学』に、以前本ホーム・ページに掲載した二書簡 (2014117を、「マックス・ヴェーバーにおける『歴史-文化科学方法論』の意義――佐々木力氏の質問に答えて」と題し、「はじめに――二書簡再録の趣旨」というリードを添えて寄稿しました。この論集には、あわせて50人以上の内外の寄稿者から、多彩かつ内容充実した論考が寄せられ、予定どおり11月に名古屋の風媒社から刊行されて、佐々木氏の古稀を盛大に祝っています。

それにつけても思い出されるのは、かつて東大教養学部・総合文化研究科が、東大法学部と連携して「特別権力」を発動し、佐々木氏に停職と院生への研究指導権剥奪という不利益を科したうえ、「名誉教授」の称号も拒んで追い立てるように去らせた、氏の停年退職時のことです。当時、泊次郎氏 (そういうなかで佐々木氏に師事した高弟とわたくしども夫婦の三人で、「せめてわれわれだけでも」と、佐々木氏の大著『数学史』の出版記念を兼ねて、氏の門出を祝いました。その泊氏が今回、「知識のある者は権力に疎まれ、知識のない者は権力におもねる」と書かれているのが印象的です (233ページ)

*

さて、小生の新著の目次は、下記のとおりです。

なにかの機会にご笑覧いただければ幸いです。

 

 

東大闘争総括――戦後責任・ヴェーバー研究・現場実践

 

 

プロローグ

 

軍国少年・理科少年・野球少年から戦後思想の渦中へ

 

§1. 軍国少年

§2. 理科少年

§3. 野球少年

§4. 受験対策で清水幾太郎著『社会的人間論』に出会う――「境界人」論の端緒

§5. 文転後の混迷――「マルクス主義か実存主義か」

 

 

マックス・ヴェーバーとの出会い

 

§6. 戦争責任と「倫理論文」――集団同調性と超越的権威不在

  §7. ヴェーバーの固有価値――「世界史」的視座と「責任倫理的・理性的実存」範疇

§8. 欧米近代における「合理的禁欲」の歴史的生成

  §9. ヴェーバーの欧米近代批判――「独善」と「業誇り」

§10. 欧米近代批判の帰結――「責任倫理的・理性的実存」

 

 

思想形成途上の諸問題――「実存主義とマルクス主義」の対抗的相補性とヴェーバー

 

1. 木を見て森を見ない実存主義

§11キルケゴールとヴェーバー――「軽いマント」か「鋼鉄のように硬い殻」か

  §12. 戦後日本の実存主義――「ひとしなみ実存称揚」と「実存文献読みの実存知らず」

 

2. 森を見て木を見ないマルクス主義

§13. マルクスの「共産主義」理念―― 人間の「類的本質」と「疎外」の止揚

  §14. マルクス疎外論の思想史的被制約性――キリスト教的終末論の世俗化形態

§15. マルクス「救済-必然史観」の「全体知」的陥穽

§16. 戦後日本の「マルクス主義」――前近代 (権威主義と超近代 (官僚主義の癒着

 

3.「マルクス主義」との両義的対決

§17.「学知主義」批判――疎外論の実存主義的解釈

§18. 学問思想上ならびに政治運動上の対立とフェア・プレー

§19. エートスと科学技術――社会主義から近代工業文明一般への問題提起

§20.「負の螺旋」問題――「叛乱(アノミー)」と「圧政(権力支配)」の悪循環

 

4.「木も森も見る」ヴェーバー――マルクス以後の実存思想家

§21. 学問領域における人間疎外としての「学知主義」

§22. ヴェーバー的思考の特性――「原子論」と「全体論」の総合

  §23.「学問の自由」「大学の自治」スローガンに潜む「流出論」

§24. ヴェーバーの大学闘争 ――「社会形象」間の対抗場裡で「個人責任」を問う

 

 

東大闘争前史

 

1. 1960年「安保闘争」

  §25. 樺美智子さんの死

§26.「政治の季節」と「学問の季節」の単純循環から螺旋状展開へ

§27戦後学生運動の「存在被拘束性」と 院生登場による条件変化

 

2. 1962-63年「大管法闘争」

§28.「大管法闘争」――政治的防御に止めず、大学論を樹立する好機

§29.「大管法」諸案の狙い――学内管理体制の中央集権化と国家権力機構への編入

§30. 東大学内の問題状況――学知の「灯台下暗し」

§31. 声明発表の挫折――わが身の「灯台下暗し」を知る

§32.「教養」教育理念の模索――古典を教材とする「社会学する」スタンスの育成

 

3. 1964年「マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム」

§33.「巨人」を「隠れ蓑」として「身の丈に合った実践」を回避

§34. フェア・プレーを「語る」と「体して生きる」との違い

§35.「ダイモーン」とは学知の問題か

§36.「学知」かぎりの「脱呪術化」論でよいのか

§37.「求道」と「ザッハリッヒカイト」とは二律背反か

§38.「パーリア力作型」の剔抉と諦観

§39.「パーリア力作型」と「純粋力作型」の分岐点――対内倫理と対外倫理の二重性

§40.「講座」(ゲゼルシャフト関係と「コネクション」(諒解関係の二重構造

§41科学者の責任と身分の呪縛

 

4. 1965-67年「学問の季節」における日常の取り組み

§42. 教授会発言――耳に痛いことを丁重に

§43. 全学教官懇話会発言――大学の専門課程は就職予備校か

§44.「戦後学制改革」の痕跡――教養教育の模索とパーリア力作型の陋習

§45.108羽田闘争」における山﨑博昭君虐殺――マスコミの虚偽報道と集団同調性

 

 

東大闘争

 

1.「紛争」への関与

§46.「入学式防衛」から第一次機動隊導入まで

§47. 学生-教員間のコミュニケーション途絶

§48占拠学生からのヒアリングと教員への情報提供

§49.「境界人」として「社会学的アンガージュマン」へ

 

2. 医学部紛争と医学部処分

§50. 医学部紛争の背景――医療制度再編と青医連のクラフト・ユニオン的要求

§51.「春見事件」と医学部処分

§52学生処分制度と「プロフェッショナル」の責任

§53. 春見事件を「行為連関」として再構成すると

§54.「教育的処分」の「革命的」廃棄と「国大協・自主規制路線」

§55. 人を欺く語り口とその由来

 

3. 文学部紛争と文学部処分

§56. 東大紛争における文処分の位置と背景

§57.104日事件」の「摩擦」にかんする学生側の主張内容

§58. 夏休み明け直前の「処分解除」――政治的火種の政治的抹消

§59.『学内弘報 (資料)』による教授会側情報の一方的散布

§60.「民主制」の問題傾向と「プロフェッショナル」の使命

§61.「林文学部長軟禁事件」のコンテクストと意義

§62. 沈む泥船のファシズム

§63.「なにがなんでも収拾へ」の動きと「黄ヘル・ゲバルト部隊」の導入

§64. 真相究明の手がかり――「121日半日公開文書」における叙述変更と類型的沈黙

§65先人の視点と技法――マンハイムの知識社会学とヴェーバーの因果帰属論

§66. 104日事件を行為連関として再構成すると――築島先手の明証的理解と経験的妥当

§67残された詰め――本人証言による築島先手仮説の検証

 

4.「紛争」関与から「現場の闘い」へ

§68. 全共闘におけるスローガンの抽象化――「専門バカ」「バカ専門」論の限界

§69.「支配の正当性」神話の崩壊と「大学解体・自己否定」論の登場

§70個別大学闘争と政治的党派闘争との懸隔・乖離

§71. 青医連「クラフト・ユニオニズム」の健在

§72.「境界人」から「現場の両義的な闘い」へ

§73.「政治の神」と「学問の神」との相克――ヴェーバー「責任倫理」論の再解釈

§74.「実力主義」批判――「全学化」以降の運動昂揚と陥穽

 

5. 文処分撤回闘争の継続と帰結

§75. 文処分「取り消し」――「なかったことにしようや」

§76.「築島-仲野行為連関」の真相――国文科集会における初の直接対質

§77堀米文学部長も「築島先手」を裏付ける発言

§78.「新事実」露見と加藤執行部の動揺

§79. 東大の過ち

§80. 後日、またしても――「東大百年祭」に抗議する学生への処分画策

§81. 小括――特別権力の恣意的発動とその阻止条件

 

 

.「現場の闘い」の持続に向けて

 

1.「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」から

§82.「連続シンポ」概況

§83. その後の経緯――「連続シンポ」から「公開自主講座『人間-社会論』」へ

§84. 思いがけない随伴結果――「カルチャー・センター」の隆盛

§85.「エチル化学労組」の闘い――鉛公害への荷担労働を拒否し、未然に阻止

  §86.「御用学者」「バカ専門」群と「対抗ガイダンス」企画

§87.「加害者-被害者」軸の前面進出と「大学問題」の再編成

§88. 科学技術者と住民大衆における類型的分化

 

2. ヴェーバーの「合理化」論 再考

§89. 生活領域間の水平的分化-専門化と「神々の争い」

§90.「大衆-専門家」間の垂直的分化と「原理知疎隔」

§91. 社会秩序の「合理的制定」と「没意味化」

§92. ヴェーバー「合理化」論の射程

 

3. 大学論・学問論・社会運動論の再構築に寄せて

§93. 大学の再定義――「大学解体論」批判

§94. 学問とは何か――「客観性論文」と「職業としての学問」との叙述のずれから

§95. 学問の「即人的」意義――「明晰な」態度決定

§96.「目的」を所与の前提とする「技術」と、「目的」の意義を問い返す「学問」

§97. 核エキルギーの解放による「疎外」の極限状況と「身の丈に合った現場実践」の要請

§98.「私経済的収益性」から「共同経済的連帯」へ――1908年の断想

§99.「殻」としての官僚制における「没意味化」から「明晰で社会的な生き方」へ

§100.「原発荷担度一覧表」から「消費者社会主義」的不買運動へ

§101. 再開授業と「論証民主主義」―― 一卒業生による結実

§102.「パイプライン反対運動」――住民運動への夫婦の参加と「生活者のリズム」

§103.「西部事件」――「江戸の仇は長崎で」

§104.「羽入書問題」――「学界-ジャーナリズム複合態」の集団同調性

§105. 緩やかな論争著作――「年金生活者」の「余暇」活用スタイル

 

エピローグ――共に歴史を創ろう――戦後の一時期を生きて、生活史・学問・現場実践の関連を切開し、後続世代の批判的克服にそなえる